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「総合的な学習の時間」

─この奇妙なるものの問題点アレコレ─

    Q and A

2000.7

 1 総合的な学習の時間においては、各学校は、地域や学校、生徒の実態等に応じて、横断的・総合的な学習や生徒の興味・関心等に基づく学習など創意工夫を生かした教育的活動を行うものとする。(『高等学校学習指導要領』1999年3月、第1章総則第4款)

 7 総合的な学習の時間の授業時数については、卒業までに105〜210単位時間を標準とし、各学校において、学校や生徒の実態に応じて、適切に配当するものとする。(同上、第1章第5款、下線部筆者)

 「総合的な学習の時間」──この奇妙な言葉は、日本の(いや世界の)教育のこれまでの歴史の中で、まったく初めて教育課程にとり入れられた用語です。普通は「総合的な学習」(これでさえ「的な」というアイマイな語を用いているために、とてつもなく広く漠然とした学習になってしまいますが)で終わるところを、そうではなく「……の時間」としたためにいっそう混乱を招いています。(梅原利夫『指導要領をこえる学校づくり』新日本新書、1999年11月)

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Q1. 新しい学習指導要領では、小学校から高校まで「総合的な学習の時間」が必修になるようですが、いったいこれはどのような科目なのですか?いままでにあまり聞いたことのないものだと思うのですが……

A1. そうですね、「総合学習」という考え方や実践(*1)はたくさんありますが、「総合的な学習の時間」ははじめて出てきたものです。これは第十五期中央教育審議会第一次答申が、「今日の変化の激しい社会に対応可能な[生きる力]の育成を提唱し、これからの学校は生きる力の育成を基本的な観点とすべきである」(1996年)、ということから誕生しました。そしてそのために学校は

  1. 「知識を一方的に教え込むことになりがちであった教育」から、「自ら考える教育」へ転換すること、
  2. 生涯学習社会を見据えつつ、学校は生涯学習の基礎的資質の育成に限定し、完結するものとは考えない。
 そして[生きる力]を養成するために次のような学校像を描いています。
  1. 「ゆとり]のある教育環境で[ゆとり]のある教育活動を展開し、[生きる力]を身につける。
  2. 教育内容を基礎・基本に絞り、その確実な習得に努める。
  3. 多元的・多様な視点で子どもたちの可能性を見いだす。
  4. 豊かな人間性をもち、専門的な知識・技術や幅広い教養を有する実践的な指導力を教員に求める。それにより[生きる力]の育成をはかる。
  5. 子どもたちにとって共に学習し、生活する場としての高い機能をもつ教育環境を整備する。
  6. 地域や学校、子どもたちの実態に応じて、創意工夫を生かした特色ある教育活動を展開する。
  7. 家庭や地域社会との連携を進め、家庭や地域社会とともに子どもたちを育成する開かれた学校が求められる。
 こうした学校像の実現のためには、
  1. 教育内容の厳選と基礎・基本の徹底
  2. 一人一人の個性を生かすための教育の改善
  3. 豊かな人間性とたくましい体をはぐくむための教育の改善
  4. 横断的・総合的な学習の推進
として、4において学校教育のあらゆる分野において[生きる力]の育成を図るとしながらも、「[生きる力]が全人的な力であるということを踏まえると、横断的・総合的な指導を一層推進し得るような新たな手だてを講じて、豊かに学習活動を展開していくことが極めて有効であると考えられる。」と、「総合的な学習の時間」の新設を提言しました。そして、具体的な学習活動として、国際理解教育、情報教育、環境教育などについての「社会的要請」を強調し、さらにボランティア、自然体験などについての総合的な学習や課題学習、体験的な学習等をかかげています。
 このように中教審第一次答申は、「変化の激しい時代」「先行き不透明な時代」に対応していくための新しい教育要求を最優先して、この何ともすわりの悪い「総合的な学習の時間」を誕生させたのです。

 (*1)日本における総合学習の試みは3回の潮流があります。

  1. 1920年代の私立学校や高等師範附属小学校などの限られた範囲内ではあるが、いくつかの教科を統合した合科的な学習や、郊外での自然や労働にかかわる体験や総合的な芸術活動が中心。
  2. 1940年代後半から50年代の子どもの生活に基づく学習単元の編制、総合社会科の実践。
  3. 1970年代、60年代後半からの人類的な社会問題の自覚にもとづく戦争と平和の問題、公害と安全の問題、人権問題などについての学習の試み。

Q2. そうすると、[生きる力]を財界としては求めているわけですね。でも、これまた、わかりやすそうで、よくわからない言葉ですね。

A2. [生きる力]は、主体的な思考力や判断力を養うと言いつつ、結局は、時流に適応 して、多国籍企業競争の最前線に立って活動する人間をイメージしていると言ってよいでしょう。そこでは、社会をつくりかえていく権利主体の形成という視点はまったく欠落しています。科学的なものの見方というのは、「批判的な」ものの見方ですが、こういう言葉を見つけることもできません。また、「全人的」な能力といいつつ、その構造が具体的に見えてきません。今日の子どもをめぐるさまざまな危機的な状況から短絡的に導き出されたイメージにしか見えません。

Q3. ところで、学校五日制が完全実施になる中で、必然的に教育内容の厳選が問題にな ると思いますが、情報が必修になったり、この「総合的な学習の時間」が登場したりして、いっそう教育内容を減らさなければならないわけですね。

A3. そうですね。新学習指導要領への改訂に際して、当初、教科の再編成と新教科(例えば、記号科、環境科、人間科、表現科)の設立の計画があったのですが、現行の各教科の関係団体の反対が強かったために、現行の教科をそのままにして、「総合的な学習の時間」を新設するということになったわけで、例によって財界のニーズが先行し、さまざまな力関係の中での政治的妥協の産物としてこの「時間」が登場したのです。背景は、教育的でも、教育学的でもありませんし、学習指導要領の目玉といわれながら、教課審ではほとんど積極的な提案がなされたり、真剣な論議が交わされた形跡がなかったと言われていることも不思議です。
 それから、この時間を設置しようとするもうひとつの「意図」があります。それは「学校の創意工夫を生かした教育活動」を促すことです。実際新学習指導要領では、「各学校は、地域や学校、生徒の実態等に応じて、横断的・総合的な学習や生徒の興味・関心等に基づく学習など創意工夫を生かした教育活動を行うものとする。」となっています。各学校に創意工夫を強いて、他校との違いをきわだたせ特色づくり競争をさせようということです。すでにこれまでのさまざまな多様化政策による特色づくりが推進されているのは、周知の通りです。父母・地域住民の要求や子どもたちの現実に応える必要はありますが、それは学校のもつ公共性の確保にあるのであって、学校が互いに特色づくり競争をやることにあるのではないのです。その上、入試制度の改編や統廃合による上からの特色づくりへの圧力とともにこの教科が特色づくり競争をさらに加速することになってはならないと思います。「通学区域の拡大」やら「学校選択の自由」などとの関連にも注目していかなければなりません。

Q4. 入り口のところで足踏みしてしまいましたが、「総合的な学習の時間」って、ずいぶん長ったらしいネーミングですね。「総合的な学習」だけでもよさそうなのに、なぜ「〜の時間」という形になったのですか。

A4. 教科の成立要件は「指導の目標やねらいと指導内容」とが確定されることであると 言われています。学校が創意工夫して編成する「総合的な学習の時間」は指導の目標・ねらいが各学校にまかされているわけですから、一定の「指導目標やねらいと指導内容」にはならないわけで、教科としては成立しえないので「〜の時間」扱いにしたといわれています。1977年改訂の学習指導要領に登場した「ゆとりの時間」(学校裁量の時間)がこれに類するものです(*2)。さまざまな校内の教育活動をかき集めて、事実上この時間を形骸化するような方向に対する文部省流の対策としての「〜の時間」であるようです。つまり、学校の授業時間の中で実施せよ、ということも含まれているようです。

 (*2)正確にいうと「ゆとりの時間」は学習指導要領には示されず、教課審答申(1976年)の文言を根拠に文部省→教育委員会の指導ルートで無理やり時間割に組み込まされたというのが真相です。結果、次第に衰退し、消滅していきました。このように文部省は学習指導要領の法的拘束力を一方で言いながら、手前勝手に学習指導要領にない施策を力で推進しようとすることが少なくないのです。

Q5. そうなると、総合学習と「総合的学習」は、ほとんど同じ言葉のように思えますが、どうちがうのでしょうか。

A5. 総合学習は、もともとたとえば、1976年に日教組の中央教育課程検討委員会報告で ある『教育課程改革試案』が提唱したように地域や国民的課題が取りあげられ、その学習を深めるために諸教科の協同が探究される学習を意味します。「かくて総合学習は、個別的な教科の学習や、学級、学校内外の諸活動で獲得した知識や能力を総合して、地域や国民の現実的諸課題について、共同で学習し、その過程を通して、社会認識と自然認識の統一を深め、認識と行動の不一致をなくし、主権者としての立場の自覚を深めることをめざすものである。」との述べています。このような学習が総合学習です。こうした取り組みは戦前から行われてきましたが、つねに上からの圧力でつぶされてきたというのが歴史的事実です。
 これに対して「総合的な学習」では

  1. 横断的・総合的な学習と
  2. 生徒の興味・関心等に基づく学習
  3. 地域や学校の特色に応じた課題を創意工夫を生かした教育活動

をしなさいということで、2や3のような総合学習とはいいがたい部分を含まなければならないので、「総合的な」ということでより包括的になったと思われます。「総合学習」は高い学習目標をかかげていますので、総合学科の「産業社会と人間」のような生き方や進路指導に傾斜した内容を含ませたのでしょう。

Q6. 「総合的な学習の時間」は「総合的・横断的な学習」と言われていますが、なぜ「 総合的」・「横断的」なのですか?意味の違いがあるのですか?

A6. 教課審答申や新学習指導要領では「総合的・横断的」といつも並列して登場してい ますが、とくに意味を区別してはいません。「横断的」とは、学習指導要領の用語でいえば、既存の各教科・特別活動・道徳の内容を二つ以上関連させた合科的学習のことです。これに対して「総合的」とは、「各教科等それぞれで身に付けられた知識や技術などが相互に関連付けられ、深められ児童生徒の中で総合的に働くようになる」(教課審答申)と説明されています。前者は各科目や領域間の関係が、後者は学習者である子どもたちの獲得した学習内容の内的総合が問題とされています。明らかに「総合的」・「横断的」という意味には違いがあるのです。
 そもそも総合とは、分化に対応した言葉です。教育課程の内容は多岐にわたりますので、いくつかの領域に分かれます。さらに教科は各教科・科目に分かれます。さらにここの科目の学習内容も細分化されているわけですが、そのそれぞれに対応する形で総合ということが求められます。梅原利夫は、総合の視点から学習を組み立てるに際して、

  1. 学習の内容……教科や各単元枠(分化)を超えて、教科横断・教科統合(統合)の見地から構成、
  2. 学習の方法……分かち伝え・個別習得タイプ(分化)よりも、調査・探究、共同学習・発表タイプ(総合)の採用、
  3. 学習主体の形成……各人の個別能力(分化)よりも、統一した教養や人格(総合)の形成

を掲げて説明しています。新学習指導要領は以上の点で一面的であり、説得的でありません。

Q7. 新学習指導要領には、

 ア 国際理解、情報、環境、福祉・健康などの横断的・総合的な課題についての学習活動
 イ 生徒が興味・関心、進路等に応じて設定した課題について、知識や技能の深化、総合化を図る学習活動
 ウ 自己のあり方生き方や進路について考察する学習活動

とあり、上記の横断的・総合的学習に直接あたる部分はアだけで、イやウは横断的・総合的学習と関係あるのでしょうか?

A7. イもウもひじょうに包括的な文言でどんなテーマも選んでかまわない体裁になっいいます。その限りで総合的・横断的学習になりうるとは思いますが、また必ずそうなるとは言えず、あまりにも雲をつかむような感じですね。現状では高校段階ではかなり多様化がすすんでいますから、それに対応するためにこのような形をとったのでしょう。それに前に言いましたように、特色をめぐって各学校間で激しい競争をさせる意図があるわけです。またイもウも「進路」という言葉が入っており、また新学習指導要領の「職業教育に関して配慮すべき事項」(第6款の4)は、普通科において「適切な職業に関する各教科・科目の履修の機会」を確保すること、また一般に「就業体験の機会」の確保が求められています。こうして一方で「進路」が「総合的な学習」としてくくられていることが自明です。

Q8. 「総合的・横断的」と言いますが、教科や教科外との関係はどうなっているのでしょう?

A8. 「総合的な学習の時間」の登場に先立って、学校教育法施行規則は、第24条で「小 学校の教育課程は、国語、社会、算数、理科、生活、音楽、図画工作、家庭及び体育の各教科(以下本節中「各教科」という。)、道徳、特別活動並びに総合的な学習の時間によって編成するものとする。」また高校の場合は、第57条で「高等学校の教育課程は、別表第3に定める各教科に属する科目、特別活動及び総合的な学習の時間によって編成するものとする。」と改正されました。この意味では「総合的な学習の時間」は小学校・中学校では「第4の領域」、高校では「第3の領域」といえるでしょう。しかし、文部省はそうは言っていません。それは前に述べましたようにあまりにも学習内容が「何でもあり」の形になっていますから、教科とはなりえないのですが、さりとて「ゆとりの時間」のように形骸化されてしまわないように学習指導要領ではさらに法的に上位(?)になる学校教育法施行規則に位置づけておいたのです。だが、そうだったら、学習指導要領の構成から言って、「総合的な学習の時間」は、当然、「第4章 特別活動」のあとに「第5章 総合的な学習の時間」が来るべきところなのですが、実際には、「第1章 総則」の「第4款総合的な学習の時間」となっています。こうしたところにもこの「時間」の過渡的で不明瞭な性格を見てとることができます。したがって教科に重点を置いた中味にするのか、教科外活動に重点をおいたものとするのか多様な可能性がありますから、既存の教科・科目との関係を整理しなければならなくなるでしょうし、教科と教科外との関係も不明確なままではまずいでしょう。
 他方、前述した日教組の中央教育課程検討委員会は、総合学習を第3の領域としようしましたが、「学習したことが総合され、構造化される必要があるということは、誰でも認めるところであろう。しかし、そのことが『総合学習』というカリキュラム上の領域を必要とするかどうかは、別の問題である。」という批判が出て、『教育課程改革試案』は、教科の中に「総合学習」を一応置いています。このように「総合的な学習の時間」も「総合学習」もその領域論としては説得的ではないのです。

Q9. 総合学習を第3の領域とすることを批判する根拠とは、どのようなことですか?

A9. その根拠は3つあります。教科・教科外活動それぞれにおいて総合化がはかられる べきであるが、高い次元で総合化を計ろうとする主張に対して、それが生徒の思想・信条の自由な形成をはばみ、結論を押し付けることになりはしないかというものです。すでに新要領では、福祉問題がボランティア精神の賞揚にのみ重点をおき、国際理解教育が結局のところナショナリズムの強調におわっているのを見ると危険度が高いです。第二に教科には教科の順次性があるために両者を相関させることが難しくなり、知識・技能をバランスよく学ばせることができなくなるということ。第三に現代社会の緊急な諸問題を正規の教科に含んだり、新教科を設定することが大切であることです。
「総合的な学習の時間」も同様です。前に述べましたように「学校の特色ある活動のための時間」が「総合的学習」である理由がないことです。その特色は教科か教科外活動のいずれかであって必ずしも第4の領域とする根拠はないのです。また、「生きる力」をこの時間の中でつけられると考える方が不自然です。以上のように見てきますと総合学習にしろ「総合的な学習の時間」にしろ領域を設置する理由は何もないのです。

Q10. 「総合的な学習の時間」が、各学校の取組に一応まかされているのですが、小学校の3年生から高校3年生までずっとこの「時間」が必修になっていますが、そうすると全体的に見ると、完全学校五日制にともなって授業時数が減少する中で教育内容の厳選をはからなければならなくなっていますが、この時間の部分は内容的にはそれこそ一人一人の子どもがまったくちがったこの「時間」についての経歴をもつことになるわけですね。繰り返し繰り返し同じ学習をさせられるという危険もあるわけですね。

A10. そうですね。小学校で420単位時間、中学校で210〜335単位時間、高校で105〜210 単位時間ということで、合計すると735〜965単位時間にもなります。これだけの学習内容がいわば空白状態になるということはすごいことだと思います。指導要領の法的拘束力が強められる中で、内容が整理されることなく、各学校の試行錯誤に任されることはどう考えれば良いでしょうか。学習指導要領の矛盾が露呈しています。小学校・中学校・高等学校のそれぞれの指導要領の中で「総合的な学習の時間」がどう叙述されているかを見てみますと、その相違点は、小学校で「児童」、中・高校で「生徒」となっていること、小学校で国際理解の一環として外国語会話等が行えること、また高校では、3のイの部分の書き方が違います。小・中学校では「生徒の興味・関心等に基づく学習」とだけありますが、高校では「イ 生徒が興味・関心、進路等に応じて設定した課題について、知識や技能の深化、総合化を図る学習活動」(下線部筆者)と多少違った書き方がされています。また「ウ自己の在り方生き方や進路について考察する学習活動」は高校独自のものです。しかし、全体的にはほとんど同じ書き方がされていると言って良いでしょう。上記の相違点をもって発達段階を踏まえて、「総合的な学習の時間」が編成されているとはとても言えません。中教審第一次答申には「この時間(「総合的な学習の時間」のこと、筆者註)における学習活動としては、国際理解、情報、環境のほか、ボランティア、自然体験などについての総合的な学習や課題学習、体験的な学習等が考えられるが、その具体的な扱いについては、子供たちの発達段階や学校段階、学校や地域の実態等に応じて、各学校の判断により、その創意工夫を生かして展開される必要がある。」(下線部筆者)とありますが、どういうわけか、学習指導要領にはこの発達論的視点が欠落しています(*3)

(*3)日教組中央教育課程検討委員会の『教育課程改革試案』

(2)総合学習の階梯ごとの特徴
第 一 階 梯
(小学校1〜3年)
主として教科外活動のなかでめざされており、この段階では独自の総合学習はおかれない。
第 二 階 梯
(小学校4〜6年)
学校や学校内でおこった日常的問題や諸事件のなかから問題を選び、とりわけ、主体の切実な要求につながる課題を取り出して取り組ませることが重要となる。高学年にすすめば、時事的な問題の総合学習に取り組ませる。また、学芸会、収穫祭などの教科外活動においても研究活動をふくめて展開される必要がある。
第 三 階 梯
(中学校)
内容上からは時事的な総合学習が主流となろう。また文化祭など教科外活動を基盤とする学習では、地域課題を意識的に取りあげることが重要となる。
第 四 階 梯
(高等学校)
時事的な総合学習に加えて、理論的な総合学習に取り組ませたい。これによって、大学の卒業論文にあたるものが、高校段階でも、共同、あるいは個別の卒業研究として生まれることが期待される。これを通して、自己の進路の基本的性格をつかませたい。「平和」「公害」「差別」「性」の四つの問題の総合学習はミニマムの必要としておさえてゆきたい。

Q11. 学習指導要領では、「総合的な学習の時間」について「配慮事項」の(1)として、「自然体験やボランティア活動、就業体験などの社会体験、観察・実験・実習、調査、研究、発表や討論、ものづくりや生産活動など体験的な学習、問題解決的な学習を積極的に取り入れること。」とあり,ずいぶんと体験的な学習が強調されていますが、どのような問題点がありますか。

A11. 日常生活の中で一時的な体験をする機会は非常に少なくなっています。自然体験を例にとってもそう容易ではありません。自然に親しむといっても、身近なところに利用可能な「自然」は存在しない場合が多くなっています。体験の成果を十分にあげようとしたら、毎週1単位時間くらいの「授業」では当然足りないでしょう。教職員の事前の諸準備にもかなりの時間をとられることになるでしょうし、旅費や教材費も当然必要となります。かつての子どもたちが遊びの中で手に入れてきた小動物の生態や植物の成長過程、気象現象などの体験から得た知識は学校での学習内容と結合しやすいのですが、体験を欠いた場合の学習はたとえ実験などがあるにしても抽象的で断片的な知識になる可能性が高くなります。この欠けた部分を学校のカリキュラムの中ですべておぎなうことは不可能です。また確かに学習で獲得された知識が、体験によって確認され、ひとつの認識となり、さらに総合化されることは意味のあることですが、体験が万能ではありません。眼前で起こった連続的な事象が必ずしも、因果関係があるとは限りません。このような状態の中で学校が用意した体験はパッケージ化された体験学習になりがちです。子どもが主体的に取り組めるものにはなりにくく、教師から期待された反応を演技するようなものになってしまいます。一面的に用意された現状を無批判的に肯定する結果になる危険性が多くなります。子どもの主体的な取り組みと言いつつ、結局は強制された体験となります。曖昧な「総合的な学習の時間」の中で体験や学び方を重視することは、どのような認識が子どもたちに獲得されるかを吟味もせずに体験学習をしてしまうことになりかねません。たとえば、ハンバーガーショップに体験学習に行くとします。企業の仕事の一部を体験し、企業の人に質問し、レポートを作成するとしても、企業のただ言い分だけを聞いて書くのでは総合学習にはならないでしょう。発展途上国から安い価格で牛肉を買いたたき、その国の労働者を低賃金に固定し、熱帯雨林などの環境を破壊し、パッケージや売れ残りの商品でゴミを大量に出して環境破壊をさらに悪化させて、ついでに自国の高校生などの若年者の労働をこれまた安価に利用しているなどと、環境問題や南北問題、労働の問題にと発展する学習は出て来にくいのではないでしょうか。

Q.12 同じく配慮事項の(2)は「グループ学習や個人研究などの多様な学習形態」の工夫を求めていますが、学習がさまざまな形態をとることになると、学級が果たす役割とはいったい何なのかということになりませんか。

A12. まず言いたいことは、すでに現行の教育政策は学級での学びの共同性の意義を過小評価しているのだということです。「個性を生かす教育の一層の充実」(教課審答申)というスローガンのもと、選択制の拡大や「学習集団の弾力的編成が追求されようとしています。「総合的な学習の時間」ではグループ学習やら異年齢集団による学習など多様な学習形態をとれと言っています。また、教育の評価による競争の激化がさらに個々の子どもたちを分断し、さらにそのことによって学ぶことの意義や面白さを喪失している子どもたちが非常に多いのです。同じ、教室の中で学習しながら「共同の学び」がひじょうに希薄になっているといわざるを得ません。ランジュバンを持ち出すまでもなく、本来、「教養」は、人と人を接近させるものです。
 「それぞれ一人ひとりちがった持ち味をもって発達中の子どもたちが、その持ち味を生かして学習に参加し、そのあげく共同して一つの真理に到達して、『ああそうだったのか』と一つの真理を心の中でわかちあったとき、人は学ぶことを通じて結ばれたのだというべきではないでしょうか。そのいう授業の姿が一つの基調として展開していくことが、人が人の特性を獲得して人になることを促す教育実践であるというべきでしょう。」(大田堯・堀尾輝久『教育を改革するとはどういうことか』岩波書店、1999.4.27.)  学級だけに固執するわけではないですが、学級を「学びのための基礎集団」にしておかなければならないでしょう。

Q13. 学級が学ぶための共同体とはならずに、個々の子どもたちがバラバラにされているのは、評価の問題もあると思うのですが、「総合的な学習の時間」の評価はどうなっているのですか。

A13. そうですね。学びの中味の問題よりも、自分が平均点より上か下か、学級や学年での順位あるいは偏差値ばかり気にしている現状では共同で学びを獲得して行こうということにはなかなかなりにくいですね。「総合的な学習の時間」の評価は学習指導要領の中には明確に書いてありません。ただ、通常の教科・科目と区別して単位認定について書かれているので、これとは異なった評価を行うことは予定されています。これについては、「教課審・審議のまとめ」において、「『総合的な学習の時間』の評価については、この時間の趣旨、ねらい等の特質が生かされるよう、教科のように試験の成績によって数値的に評価することはせず、活動や学習の過程、報告書や作品、発表や討論などに見られる学習の状況や成果などについて、児童・生徒のよい点、学習に対する態度、進歩の状況などを踏まえて適切に評価することとし、例えば指導要録の記載においては、評定は行わず、所見等の記述をすることが適当である。」としています。詳細は新指導要録が出てからということです。この教課審答申の段階での評価についての記述を整理すると、

  1. 基本的な考え方
  2. 「総合的な学習の時間」の評価教科のように数値化しない

ということになります(梅原利夫著『指導要領をこえる学校づくり』参照)。現行学習指導要領からとくに小・中学校で「新学力観」による評価が登場してきましたが、今回の改訂によって「新学力観」による評価が「生きる力」を重視した評価によって「補強」される形になっていると言われていますが、「新学力観」がもつさまざまな問題点が解消されたわけではありませんし、私たちは本来、学習の評価はどうあるべきかを広い視点に立って考えなければならないでしょうし、高校入試や大学等の入試制度の抜本的な改革が行われる必要があります。評価の問題については、ここで詳細は他の機会にゆずることにします。

Q14. そうは言っても、「総合的な学習の時間」は高校段階では、少なくとも3単位時間やらなければならないわけですね。どうすれば良いのでしょう。

A14. 消極的に形骸化の道を歩むのではなく、学習内容や学習のあり方をつねに問い直し、変革していくきっかけになるようにこの「時間」を積極的に利用して、現代的課題や学際的課題を中心に取り組んでいくことをすべきでしょう。これを「原理としての総合学習」と言う学者もいます(*4)。その際に教科や教科外活動を既存のものととして固定しないことが肝要です。

(*4)(学習指導要領の方を向いて「はじめに『総合的な学習の時間』ありき」ではなくて、子どもの現実に向かい合ってつくりだす課題として総合学習を位置づけるのであれば、重要なのは、「総合的な学習の時間」をすでに所与のものとして首肯することではなくて、それ自体を吟味してみることであり、そして、その検討からつくりだすべき課題としての総合学習のあり方を展望してみることである。) (久田敏彦「課題としての総合学習」『共同でつくる総合学習の【理論】』久田敏彦編集、フォーラムA.1999年所収)

Q15. 今でも実習的な教科・科目では2時間つづきで授業を組んでいることが多いですね。体験的な学習をするとなると各学年1単位ずつ割り当てるよりもまとめて3単位特定の学年に位置づけた方が良いと思いますが、どうでしょうか。

A15. 1単位でも学期や期間に集中的に行うこともできますが、たしかにまとめて3単位という方法は十分に考えられます。あるいはその時間のあと放課となっていて、放課後の時間帯もその体験的な学習に利用することもあるでしょう。私立の高校等ではすでに「総合学習」について先進的な実践がありますが、たとえば和光高校では各学年に「総合学習」が組まれており、3単位時間が用意されていますし、県内でも橘女子高校では「総合」が各学年6単位(まる1日、1992年現在)が充てられています。そのような実践も参考になると思います。

Q16. 冒頭に示されているように、指導要領では、この「総合的な学習の時間」は、高校段階では105から210単位時間配当することになっていますが、高校ではこれまで単位数表示になっていたのではないでしょうか。どうしてこの「時間」だけ、例外なのですか。

A16. 明確になぜか、ということは書かれていませんが、学習内容が学校の裁量にまかされることになって、教科として位置づけることができなかったため、「〜の時間」となったのですが、かつての「ゆとりの時間」のように形骸化されることをおそれたのではないのでしょうか。ことに高校では年間の授業時数に対する縛りがゆるいため、1単位時間といってもとても年間35時間やることにはなりませんね。できるかぎり35時間に近づけなければならないということでしょうね。

Q17. 学習指導要領の第5款に「8 各教科・科目、特別活動及び総合的な学習の時間(以下「各教科・科目等」という。)のそれぞれの授業の1単位時間は、各学校において、各教科・科目等の授業時数を確保しつつ、生徒の実態及び各教科・科目等の特質を考慮して適切に定めるものとする。」と書かれていますが、この文言の意味がよく分かりません。

A17. 文部省の説明(ビデオによる説明)ではこれは1単位時間の弾力化を意味していて、25分授業や100分授業が可能になるということですが、前者ならば、2時間で1単位、後者ならば、1時間で2単位になると説明しています。これを解説した高校教育課は、45分授業を実施した場合、45分×35週ではだめで、あくまでも50分×35週=1750分が1単位だから、45分で実施した場合には年間39回行うことになると、なんとも現場の実態からかけはなれたことを言っています。
 しかし、この読み方はどうもおかしいのです。現行の学習指導要領では、この文言は、第4款で扱われています。まずはじめに「全日制の課程における各教科・科目及びホームルーム活動の授業は、年間35週行うことを標準とする。ただし、特に必要がある場合には、各教科・科目の授業を特定の学期又は期間に行うことができる。」という文言があります。この文言以前にすでに1単位時間は50分で年間35週やることはすでに述べられていますから、あえてまたここに登場してくる意味は、ホームルーム活動も各教科・科目と同様のものさし(単位)でやることと、後半部分の学期や期間に集中的にまとめることが可能だということを述べるためのものと解釈できるでしょう。そしてさらに「4 各教科・科目の授業時数は、1単位について35単位時間に相当する時間を標準とする。」と書かれているのですが、新学習指導要領ではこれらの部分が第5款になりました。そこで現行とまったく同じ文言の1が登場して、それに対応して8で前述した内容がくるのですが、これは現行を学習指導要領と対応して考えると、「総合的な学習の時間」が加わったための書き換えであって1単位時間、50分を標準とするということをいうためのものではないはずです。現行と同様に年間35週について述べているのではないでしょうか。すなわち、50分授業を弾力化しても良いというのではなく、かならずしも年間35週しなくても良いと言っているのではないでしょうか。高校といっても、私立も公立もあり、またさまざまなタイプに多様化されていますから、このような文言が必要になるのです。しかし、文部省や県教委は一般の高校に対しては、ガチガチにたがをはめてやらせようとしいるのです。現場の創意工夫をもとめるそばから矛盾したことをやろうとしているのです。

Q18. とすると、これまでにずいぶんと「総合的な学習の時間」は問題点や矛盾点が多いということですね。それでもやらざるを得ないということでしょうか。一体何をテーマにしたら良いでしょう。一応何をテーマにしても良いということになっているようですが。

A18. A.5に示しました@横断的・総合的な学習、A生徒の興味・関心等に基づく学習、地域や学校の特色に応じた課題学習ということですから、文言上は各学校の自由に委ねられていますが、横断的・総合的な学習については国際理解、情報、環境、福祉・健康などという例示があります。教課審答申にはかなりこれらについて詳細に意義が述べられています。これらは財界からの要求であるわけですから、これらを超えてテーマを設定する場合、上から指導される可能性がないとは言えないと思います。新学習指導要領第1章、第6款の2の(1)は、「学校においては、第2章以下に示していない事項を加えて指導することもできるが、その場合には、第2章以下に示す教科、科目及び特別活動の目標や内容の趣旨を逸脱したり、生徒の負担過重になったりすることのないようにするものとす る。」という従来になかった項目が入っていることに注目すべきでしょう。また、99年7月30日付の朝日新聞夕刊は、同日参議院の国旗・国歌特別委員会の席上で、当時の文相有馬朗人は「日の丸・君が代をはじめ諸外国の国旗や国歌に対するマナーをきちんと教えていくことが大切だ。今後、総合的な学習の時間も加わるので、教育を深めていく必要がある」と発言したといいます。同要領には、総則の第1款の「教育課程編成の一般方針」の2の道徳教育の中で他の領域とともに「それぞれの特質に応じて適切な指導を行わなければならない。」とあることも忘れてはいけないことです。さらに職員会議等のあり方をめぐって「校長権限」を強化する傾向にも注目しておかねばなりません。
 さて、選ぶべきテーマについて、久田氏は、
「子どもたちの生活世界のなかで切実に直面している課題から、そしてじつはそれはわたしたちが直面している課題であり、地域住民の課題であり、人類的な課題・地球的課題でもあるのだが、そうしたのっぴきならない課題から出発しながら、広く歴史や文化や社会や世界を、文字通り学問の名にふさわしく、教師と子どもとが共同して主体的かつ批判的に「問うことを学ぶ」という方向が探究されてよいのである。また、探究されなければならないのである。それが、総合学習に求められる実践方向にほかならない。」
(久田敏彦、前掲書)と述べて、現代的課題をとりあげることを勧めています。
 学習指導要領に例示された、国際理解、情報、環境、福祉・健康も現代的課題ですが、中教審答申や教課審答申や学習指導要領のこれらの課題の取り組みには歪みがあることを踏まえて置かなければなりません。国際理解教育と言いながら、実質「日本の伝統文化」の学習を重視する日本中心主義になっていたり、環境問題を言いながら、それを引き起こした企業社会の責任にはふれず、南北問題になどには触れないで、個人の心がけやリサイクル活動への参加で終わってしまっています。福祉問題も新自由主義的政策に則って社会的・制度的な視点を疎かにして、もっぱらボランティア活動を推奨することに専心している、等々です。
 現代的課題としてよりふさわしいテーマは、地球的なレベルで緊急性があり、普遍性のある課題を考えれば、平和学習、人権・ジェンダー、労働問題などをあげることができます。いずれにしても、現代的課題をどのように捉えるか、課題の解決を困難にしているのは何か、解決の展望はあるのか、等の視点をつねにもっておくことが必要です。

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 あまりにも問題点が多くて、総合学習の自主編成までたどりつくことができませんでした。各学校現場ではまずこれらの問題点をふまえて、できるかぎり早くこの「総合的な学習の時間」について全体的な検討をはじめることを提言します。
(参考文献)

  1. 久田敏彦編『共同でつくる総合学習の【理論】』フォーラムA,1999年
  2.        〃      『共同でつくる総合学習の【実践】』  〃
  3. 中央教育課程検討委員会報告『教育課程改革試案』一ツ橋書房、1976年
  4. 梅原利夫『指導要領をこえる学校づくり』新日本新書、1999年
  5. 子安潤『「学び」の学校』ミネルヴァ書房、1999年
  6. 柴田義松『教育課程』カリキュラム入門 有斐閣コンパクト、2000年
  7. 高校教育問題総合検討委員会編『学習疎外を超えて』1991年
  8.        〃      『続・学習疎外を超えて』1998年

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