高総検レポート No 14−1

1992年7月6日発行

中教審答申批判

はじめに

 1989年4月19日に西岡文相(当時)の諮問を受け発足した第14期中央教育審議会(中教審)は,1991年4月19日,「新しい時代に対応する教育の諸制度の改革について」と題する答申を井上文相に提出しました。答申は三部構成をとっており,それぞれつぎのような内容を持っています。
 第I部「改革の背景と視点」が,

 学校教育が抱える諸問題を検討するに当たり,その諸問題をもたらしている要因として,学歴主義の成立と受験競争の激化,教育における平等と効率の問題を取り上げ,わが国の歴史や国民の意識にまで遡って考察した。
とあり,第II部「後期中等教育の改革とこれに関連する高等教育の課題」が,

 高校教育の改革に関する具体的な提言を行うとともに,これからの改革が十分な効果を上げるよう,受験競争を緩和するための今後の方向を示した。また,高等教育との接続という観点から,大学における教育研究の在り方について述ぺている。
そして第III部「生涯学習社会への対応」が,

 今後の生涯学習社会の実現に向けて学校に期待される役割や具体的施策を示すとともに,生涯学習の成果を適切に評価する仕組みの拡充などの方策について提言している。
 以上のような内容を持つものです。
 今期の中教審答申の内容的な批判については,高総検の各グループが様々な角度・観点から行います。これから展開される批判によって,今期の中教審答申の問題点や,現在の高校教育の抱える問題や課題が浮き彫りにされることでしょう。

 さて,日々,生徒に接している私たち教職員は,次から次に生じる眼前の問題に目が奪われ,その問題の生じる根本的な原因をじっくりと見据えることができないでいます。懸命に問題を解決しようとする私たちの毎日の努力にもかかわらず,問題は,なかなか解決されません。それは決して,私たちの力量不足でも,生徒や生徒の保護者の責任でもありません。私たちが眼前の解決困難な問題にとらわれざるを得ない状況をじっくりと見据えるならば,その状況は,ある大きな意図と策動によらて生じていることが理解できる筈です。これから展開される高総検の「中教審答申批判」によって,そうした点も浮き彫りにされる筈です。

【問題の元凶はどこにある】

 現在の高校をめぐる最大の問題は,「学校間格差」であることはだれの目にも明らかです。今期の中教審も一応は,「学校間格差」に問題があることを認めています。しかし,日本の学校教育は,世界でも類を見ないほど「平等と効率」を両立させていると述ぺ,それを可能にしたのが,「学校間格差」であると述べています。「平等と効率」という概念をもって「学校間格差」を肯定し,そして,「学校間格差」は最も「便利なシステム」だと公言するに至っています。
 如何に言葉を繕い「学校間格差」を肯定しようとも,現在の学校教育の諸問題の元凶は,「学校間格差」を維持,拡大してきた文部行政にあり,さらにそのように方向付けるべき「提言」を行ってきたこれまでの中教審にあります。
 そうした中教審の「教育改革」のなかみが,真に子どもの学習権と国民の教育権を保障するものでないことは明らかです。「学校間格差」を維持・拡大しようとする今期の中教審の「教育改革」は,私たちの教育現場に,さらに混乱と疲弊をもたらすことになるでしょう。

【文部省版「教育改革」の意味するもの】

 これまでの中教審答申や臨教審答申には,「学校選択の自由化」「個性重視の原則」など耳触りのよい言葉を散りばめながら「教育改革」を提言してきました。今回の中教審答申にあっても「受験競争の緩和」「受験競争の災いの軽減」「生徒の能力・適正,進路等の多様な実態に対応」といった実に耳触りの良いことばが散りばめられています。しかし,どれだけ耳触りの良い言葉を散りばめようとも,「学校間格差」を維持・拡大しようとする意図に変わりはなく,そうした「教育改革」は,「差別・選別」の強化でしかありません。「差別・選別」の教育は,産業構造の変化に伴う新たな労働力の確保を求める財界の要求に応えるものとして,これまで政府が「高校多様化政策」や「特色ある高校づくり」として押し進めてきたものです。これまでの中教審の答申と教育行政のもたらしたものを考えれば,今期の中教審答申に期待できないだけでなく,その意図と策動に十分注意を払う必要があるでしょう。

【高総検の「中教審答申」の批判点】

 高総検では,次のような観点・項目をもって,第14期中央教育審議会の答申を批判していきます。

「高校教育改革」の観点 (1)学校間格差 (2)条件整備 (3)入試制度
(4)進路 (5)教員管理 (6)学科の創設
「生涯学習」の観点 (7)中途退学者 (8)教員管理 (9)生涯学習での評価 (10)学校利用

学校間格差

1.「学校間格差」は便利なシステム」!?

 答申は「改革の背景」について触れ,日本の教育は「平等」かつ「効率的」であり,「平等化・大衆化に耐えながらもなお,学力水準を維持し,産業社会に人材を効果的に送り出す」ことができたのは学校間格差によるところが大きいと述ぺている。

 学校間の「格差」あるいは「序列」は…中略…国民の多くに抑圧感情と閉塞感情を与えている,日本の教育の病理のいわば最大の問題点である。…中略…しかし別の角度から見れば,学校間「格差」ないし「序列」は,大量の高校生や大学生に高校卒,大学卒という同一資格を与えてその平等ヘの欲求を満足させ,他方,学力別に区分けしたグループごとに適切な教育を与えるというかたちで効率性の維持にも役立っている,見方によれば便利なシステムだとも言えるのである。
 さらに,欧米社会とは異なる競争のメカニズム―「他人と同じ存在であろう」として「序列化した同一路線上での優勝劣敗」を争う「日本的競争のメカニズム」―が働いた結果,「格差が大きくなり,競争が激化」したと言っている。だが,誰にとっての「便利なシステム」なのだろうか。そのかげで苦しんでいる子ども達の姿が見えないのだろうか?

2.進学率の上昇は国民の要求,学校間格差は行政の怠慢

 学校間格差を生み出したものは何か。それを答申は次のように言っている。

 日本の教育の命運は,学校や文部省や中央教育審議会の手の中に握られているのでは必ずしもない。例えば,わが子の進学に目の色を変え,外見の良い,収入の良い職業人に仕立て上げることのほかは深く考えようとしないタイプの親がどれくらい多いか,また,採用にあたって学歴を重視し,個性や癖の少ない均質な労働者を求めることのほかは深く考えようとしない企業がどれくらい多いかそれによって左右されているのである。
また別の項では,
高校進学率95%,4年制大学の数500校以上という現実をよく考えてみていただきたい。本当に勉強したいから進学するのではもはやあるまい。他人と同じような資格を得たいがために競争するという人並意識に駆り立てられている傾向はここでも強く……
あるいは,
高校教育の一番基本的な問題は,もう言い古されたことではあるが,その画一性にある。まず,高等学校への進学率が急上昇したにもかかわらず,高等学校が自らその現実の変化に十分対応するだけの変容を遂げていない。
 学校間格差が生じ,教育が行き詰まってきた責任は専ら国民や学校の側に転換されている。
 だが,はたして,答申のいうように,「人並」でありたいがために競争をし,進学率を押し上げてきた国民や,「画一的な教育」にとらわれている学校に,その責任があるのだろうか。むしろ進学率の上昇は,生産技術の発展や社会のソフト化に対応して,生活権保障のためにより良い教育を望んだ国民の要求に発しているのではないか。進学率の上昇は,学校間格差を生み出したというマイナスの側面を持つだけではない。国民の教養や生活の向上につながってきたというプラスの側面を見逃してはならないはずである。
 格差や序列化がひろがってきた責任の所在を考えてみるならば,国や産業界が第一に責任を問われるぺきなのではないか。自分たちにとって都合の良い,あるいは有益な人材を養成するための教育を求めてきた産業界・そういった要請にこたえるような教育を推進させてきた国によって,学校は歪められ,競争が進められてきた。いわば,゛教育の命運は国や産業界や,様々な答申をしてきた中教審の手に握られ″てきた。国民のための教育は切り捨てられ,子どもたちは犠牲を強いられ続けてきたのである.これらの点を考えようとはせず,また,ここまで格差が押し拡げられ固定化されてきたことについての教育行政の責任には目を向けないまま終わっている。

3.ますます深刻になる学校間格差

 では,いかにして教育の現状を乗り越え改革しようとしているのだろうか。

 時代の転換期に差し掛かっているわれわれは,「平等」や「効率」の概念そのものをここで大きく変えるという,発想の思い切った転換を求められているように思える。
 答申は学校間格差について,「教育の最大の病理」と指摘しつつも,「日本の教育のバランスを支える安全弁」「産業社会の成功因」であった点を評価してもいるのである。半ば今までの格差を容認しつつ,その上で今後の「発想の思い切った転換」を要求し,新しい時代にふさわしい『平等』と『効率』の概念の確立に努め」ていく教育改革とはどのようなものなのだろう。
 今までの教育行政は高校三原則をなしくずしにし,教育条件整備を怠り,教育内容の統制や教員管理の強化などをおしすすめてきた。本当の意味での教育の平等や生徒の学習権の保障がなおざりにされてきたのである。
 ここで示された高校教育改革の視点―「量的拡大から質的充実へ」「形式的平等から実質的平等ヘ」「偏差値重視から個性尊重・人間性重視へ」に基づく教育の多様化がその解決策になるのかは疑問である。答申が輪切りによる教育の「効率」を完全に否定しているわけではないことから考えれば,多様化により新たな選別・競争・切り捨てが行われるだけではないのだろうか。

高総検レポート14-2へ続く)