高総検レポート No 83

2006年9月8日発行

「関心・意欲・態度」を数値化する不条理
〜 「愛国心評価」がなぜ蔓延するのか 〜

 1. 「観点別評価」と「新しい学力観」の関係

(目標)
社会生活についての理解を図り,我が国の国土と歴史に対する理解と愛情を育て,国際社会に生きる民主的,平和的な国家・社会の形成者として必要な公民的資質の基礎を養う。

〔5年〕
我が国の国土の様子について理解できるようにし,環境の保全の重要性について関心を深めるようにするとともに,国土に対する愛情を育てるようにする。

〔6年〕
国家・社会の発展に大きな働きをした先人の業績や優れた文化遺産について興味・関心と理解を深めるようにするとともに,我が国の歴史や伝統を大切にし,国を愛する心情を育てるようにする。

 新聞報道によると、上記の「小学校学習指導要領社会科」の記載を根拠として、通知票に「関心・意欲・態度」において、「愛国心評価」をおこなっている小学校が、全国で190校にものぼるという。戸田市教育長が、卒入学式での国歌斉唱時不起立の来賓者保護者の氏名人数調査をおこなうとした埼玉県では、最多の52校が「愛国心評価」を実施している。
 
 02年に、福岡市では、半数近くの67校が「愛国心評価」を採用して物議をかもしたが、地元弁護士会が人権救済による削除勧告をおこなうなどの抗議が広がり、全校が削除をした。その影響からか、内心を数値化することは困難との判断から、「愛国心評価」を削除した小学校は全国で122校を数える。つまり、それ以前には、観点別評価の導入に伴い、300校以上が通知票で「愛国心評価」を実施していたということである。
06年5月24日の教基法「改正」にかかる国会審議で、小泉首相は、「愛国心評価」を否定する発言をおこなっている。が、政府案「我が国と郷土を愛する態度を養う」(第2条)にせよ、民主党案「日本を愛する心を涵養する」(前文)にせよ、教基法「改正」が成立してしまえば、「愛国心評価」が燎原の火となることに疑いはない。
 
 すでに、その先取りを示す動きがある。06年6月28日、長崎県佐世保市議会は、地域社会や学校などが果たすべき努力目標として、郷土や国を愛する心を養うことを基本理念にうたった「子ども育成条例」を可決した。青少年の育成に関する条例に「愛国心」についての文言が明記されたのは全国初である。これは、「平和を愛し、自然を大切にする心」という市の当初案が議員提案で修正されたものである。
(朝日06年5月25日・5月26日・6月10日・6月29日、毎日5月26日、読売5月25
日、東京6月20日、産経6月29日等)

地理歴史(世界史AB・日本史AB・地理AB)
 …国際社会に主体的に生きる日本人としての自覚と資質を養う。

公民(現代社会・倫理・政治経済)
 …良識ある公民として必要な能力と態度を育てる。

高等学校学習指導要領には、上記の記載がある。拙速な観点別評価導入に乗じて、
「愛国心評価」が強要される状況となることを警戒する必要がある。

*注 
「公民」の語は、「国家の政治に参加する権利をもつものとしての国民、市民」の意とともに、「天皇が治める国民、臣民、人民(おおんたから、おおみたから)」の意を持つ。(三省堂「大辞林 第二版」)

 

 2. 「愛国心評価」に法的妥当性はあるのか

日常私たちが行っている「評価」には「教育的機能」とは矛盾するもう1つの側面が在る。それは「評価」の「統制的機能」である。
 
 どの学校で、どのような生活をし、どのような成績をとってきたかは、将来何らかの形で働いていく子供たちの経済的・社会的地位を、無慈悲に決定していく。今日においてなお学校はそういう社会的関係の中に結び付けられ、決して社会とは無縁の理想郷の中にあるのではない。そして学校のもつ選別機能の中で「評価」が果たす役割は大きい。だからこそ生徒は「評価」に恐れを抱き、「単位を落とすぞ!」という脅しが効くのである。従って、「統制的機能」は点数付けをし、生徒集合の中に順序関係を持ち込むことを通じて、実現されている。

(高総検レポートNo.80 「『観点別評価』についての批判的論点」06年3月31日)

「愛国心評価」は、卒入学式での国歌斉唱時の起立不起立のような外形的行為どころか、ダイレクトに内心に関わる問題である。先の高総検レポートで示した「評価」の持つ「統制的機能」を考える時、これは、明らかに「思想良心の自由」(憲法19条)に反する行為であり、のみならず、「信条」による「差別」(憲法14条)に直結する。
 
 また、「評価」は個人情報であり、神奈川県個人情報保護条例の対象となる。学校がその取り扱いをおこなうのは、「公共の安全と秩序の維持」のためのものではないことは明白である。「愛国心評価」をおこなう場合には、下記の条文にもとづいて、教育委員会ないし学校長は、神奈川県個人情報保護審議会に、以下についての意見を求める必要がある。

○小中学校における「観点別学習状況」の記載を定めた、文科省通知「小学校児童指導要録,中学校生徒指導要録,高等学校生徒指導要録,中等教育学校生徒指導要録並びに盲学校,聾(ろう)学校及び養護学校の小学部児童指導要録,中学部生徒指導要録及び高等部生徒指導要録の改善等について(通知)」(01年4月27日)が、学習指導要領記載にもとづく「愛国心評価」を実施する「法令もしくは条例」として機能するのか。

○上記の憲法条文と照らした上で、「愛国心評価」が、学校における「正当な事務若しくは事業の実施のために必要がある」と判断されるのか。

神奈川県個人情報保護条例(取扱いの制限)
第6条 実施機関は、次に掲げる事項に関する個人情報を取り扱ってはならない。ただし、法令若しくは条例の規定に基づいて取り扱うとき、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締りその他公共の安全と秩序の維持のために取り扱うとき、又はあらかじめ神奈川県個人情報保護審議会の意見を聴いた上で正当な事務若しくは事業の実施のために必要があると認めて取り扱うときは、この限りでない。

(1) 思想、信条及び宗教
(2) 人種及び民族
(3) 犯罪歴
(4) 社会的差別の原因となる社会的身分

 

 3. なぜ不当な「愛国心評価」が無批判に蔓延するのか

 常識的に考えて、学校が「統制的機能」をもって児童生徒の「愛国心」を数値評価する
ことは、独裁国家・全体主義国家でなければあり得ない事象である。観点別評価の根本的な欠陥が、ありうべからざる不当の無批判な蔓延を招き寄せている。

 先の高総検レポートにおいて、「関心・意欲・態度」を数値化することの不条理を
示した。以下にその批判を再録する。
関心や意欲そしてそこから自然にあらわれる態度と知識や理解とをそれぞれ別個のものとして、到達度を計ることは出来ない。そもそも、興味や関心とは理解や表現や判断が互いに深め合うなかで、引き出されてくるのではないだろうか。つまり「わかる」「出来る」があって「やる気」が沸いてくることは少なくないはずである。これらは無関係に存在するものではないし、何より教師が出来得る仕事は飽く迄、何かを知らせることだけである。直接にある感情を持たせることなど出来はしない。感情や態度を養おうとするにしてもそれはその生徒がそのとき置かれている様々な環境によって大きく左右されるものであるのだから、私たちは何かを知らせることを通じて、生徒の内面にそれらがわき起こってくるのを期待することが出来るだけである。

 何も無いところから突然に「関心」や「意欲」や「態度」が出てくることは無い。ある情報が目の前に示されて、それを解釈しようという「関心」がうまれ、その解釈内容によって引き出される感情を「意欲」と呼び、解釈するおおよその方向性を「態度」と呼ぶのではないのか。つまり学習者自身がその内面において、学習を何だと思い、どう意味づけるか、この学習行為をどうみなしているのかという学習者自身の認識の問題との関わりを無視して、こちらで設定した「目標に準拠」して「関心・意欲・態度」を学習者から切り離して点数をつけることは本来不可能であるし、無理に実行すればそれは学習者自身の情動を土足で踏みにじることにすらなりかねない。そしてこの「評価」に生徒が順応したとればそれは、上辺だけの「関心のあるふり」「意欲のあるふり」「良い態度のふり」を学習させることにつながるのではないか?

有機的な関連性を持つ「関心・意欲・態度」、「思考・判断」、「技能・表現」、「知識・理解」を、分断し個別に独立して「評価」するという欠陥点については、教育課程審議会の討議の中ですでに指摘されている。

教育課程審議会 第7回 総会議事録(00年5月15日)より

児童生徒の学習の到達度を客観的に評価するための方策について

○ 「関心・意欲・態度」というのは、特に小学校レベルですと、知識の理解が深まるにつれて上がってくるものでもあるような気がするのですが、ここを分けて見ているということは、どうやってごらんになるのか。むしろ、この「関心・意欲・態度」というのは、つくり上げられていくものであると思いますので、いつの時点で見て、それが少ないのか高いのか、それは、評価が指導にどう生かされているかということとも関係するかと思います。しかし、その前に、研究調査としてどのように評価なされたのかを教えていただきたいと思います。

 また、進んで活用しようとするということは、これは、科目にもよると思いますが、算数のような抽象的なものになっていけばいくほど、刺激されなければ関心は上がらないという、私の1つの学力観がありますので、自分から自然に活用するのを待つというのは、大変なことだろうという思いもしますので、どういうふうに評価されたのかを教えていただきたいと思います。

△ 4つの観点をばらばらに分けて評価するというのは、先生にとっても大変だし、不自然でありますので、授業の流れの中で、子どもたちの発言とか、あるいはノートとかそういうものを総合的に見ながら進めているというのが実態だと思いますし、それから、毎時間、全部の関係についてすべての生徒について評価するのは、不可能に近いものですから、ある時間は、この評価の観点を中心に見てみるなどの工夫をなさっている学校も多いと思います。

(文科省HP審議会情報 http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/main_b5.htm

「ある時間はこの評価の観点を中心に見てみるなどの工夫」は県教委説明会にもある。しかし、有機的な関連性を持つ観点を分断し個別に独立して「評価」するために、「関心・意欲・態度」、つまり内心を、無理やり数値化する欠陥点が生じることの説明とはなっていない。

 「関心・意欲・態度」を数値化することへの疑問は、教育学会で、また、教基法改悪に関わる「国を愛する態度」(与党案)と「日本を愛する心」(民主党案)とのやりとりの文脈の中ではあるが、国会においても、呈されている。

教育目標・評価学会中間研究集会〔シンポジウム〕(01年4月28日)より

指導要録改訂で評価はどう変わるか

 「関心・意欲・態度」は心理学的には一緒くたにできるか疑問(関心はあっても授業態度が悪いことはあり得る)であり,また学習者本人の属性というよりは授業の関数でもあるので,項目化して段階的に評価するのでなく,授業の事実に即した文章表記での評価が妥当であり,それがすぐには実現できないにしても,少なくとも内申書での「関心・意欲・態度」の点数化は問題である。

藤岡秀樹(京都教育大学)
(教育目標・評価学会HP http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsseoe/index.html

文中の「授業の関数」は、「指導と評価の一体化」に直結する。「生徒による授業評価」において、県教委書式の大項目・中項目に「自分自身の取組状況」つまり生徒の「自己評価」が規定されている。「授業評価」を教職員の「人事評価」の材料としないのと同様、「自己評価」を生徒の「評定」の材料とはしない。あくまでも「授業改善」の材料である。

第164回国会 教育基本法に関する特別委員会 第7号(06年6月1日)より

 授業や学習内容に対する態度というのは昔からチェックされてはいたんでしょうが、昔は知識・理解というのがメーンだったわけですね。ところが、八七年の答申以降、知識・理解というのは四分の一の評価の対象でしかなく、一方、関心・意欲・態度というものが評価の四分の一を占めるようになってきている。
 
 このことについては、教育の専門家からいろいろ批判が出ております。例えば、この十年間、子供たちの関心・意欲・態度を重視する指導に偏り、知識・理解を軽視した結果、学力低下というようなことが起きているという指摘があったり、さらに深刻な指摘もございます。これまでも小中学校で観点別評価を行っている県は多く、教室で手を挙げる回数で点数が決まるなど、その弊害が指摘されていました。事実、文部省が観点別評価の内申書への導入を全国拡大した一九九四年を境に中学校での生徒間暴力事件が二倍に増加するなど、生徒に与える過大なストレスが問題視されています。
(民主党 達増拓也 質問)

国会会議録 http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/015816420060601007.htm

 04年2月2日に、宮崎県の高校三年生が「武力によらないイラク復興支援を」という請願署名を5,000名以上集め、内閣府に提出した。これに対して、小泉首相は、教育が悪いから高校生がこうした行動に出るかのような発言をおこなっている。このことに対するあてこすりと読める文脈だが、上記の国会審議において同議員は、以下の発言もおこなっている。

これはある県の教育センターがつくった社会科の場合の「社会的事象への関心・意欲・態度」の評価方法というマニュアルなんですけれども、観察法と質問紙法という二つのやり方を紹介して、観察法だと、「行動をチェック項目として作成する」と書いて、図書室やインターネットなどで調べようとしている、ごみ処理のためのプランを粘り強く練り直している、政治課題について友達と積極的に意見を交換している、こういうのをチェックせよと。
 
 こういうのをやっていれば態度がいいと評価されるのでありましょうが、政治課題について友達と積極的に意見交換していることを高く評価するというときに、いろいろ、今起きているイラク戦争をめぐり政府はこう言っているというような、そういったことについて意見交換していることが高く評価されていくというようなことが実際に起きるわけですね。

 小泉首相の発言にのっとって、自衛隊の平和的責献や、軍隊の必要性、また、国際政治の複雑性について教授をした教職員がどれだけ存在するかは疑問だが、「高く評価されて」当然と考える。

 「関心・意欲・態度」とは、学習目標に対する「関心・意欲」であり、学問や科学的事象に対する「態度」である。「態度」は、授業に臨むマナー、いわゆる授業態度を指すものではない。教職員の示す「知識・理解」の情報に対して、生徒が、批判的な「思考・判断」を持ち、「表現」をなすことはあり得るし、その際は、当然批判的な「関心・意欲・態度」を持つこととなる。そのことをもって、マイナスの評価をおこなうことは妥当ではない。

 「国土に対する愛情」「国を愛する心情」あるいは「国際社会に主体的に生きる日本人としての自覚と資質」「良識ある公民として必要な能力と態度」について言えば、それらを「育てる」「養う」ことは、すなわち国家への忠誠心の段階評価をおこなうことではない。国家に対して批判的な「思考・判断」、「表現」はあり得るし、「関心・意欲・態度」もあり得る。文科省政策のPISA型学力観に照らせば、むしろそうした「読解力」が求められるべきである。

 しかし、内心を無理やり数値化するという無謀が、国家への忠誠心の段階評価と読み取れる「愛国心評価」を無批判に導入するという、思考停止の状況を招いている。


 4. 総合学習の評価は記述である

 観点別評価の理念について、教課審は、以下のように答申している。

第1章第1節 3評価の現状と今後の課題(2)

 「新しい学習指導要領等が、基礎・基本を確実に身に付けさせることはもとより、それにどどまることなく、自分で課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力などの『生きる力』の育成を目指していることを踏まえ、これからの児童生徒の学習状況等の評価の在り方を検討することが課題である。」教課審「児童生徒の学習と教育課程の実施状況の評価の在り方について(答申)」
(00年12月4日)

 「生きる力」に関する学力観の目玉であり、「課題解決能力」など「関心・意欲・態度」の伸張を最も期待する領域は、総合学習である。総合学習においては、評定をおこなわず、数値による評価も実施をしない。観点別評価における「関心・意欲・態度」の数値評価、また、その評価から機械的に算出する評定について、総合学習の評価について検討されてきたことが、全く欠落をしている。

[5]横断的・総合的な学習の推進
また、このような時間を設定する趣旨からいって、「総合的な学習の時間」における学習については、子供たちが積極的に学習活動に取り組むといった長所の面を取り上げて評価することは大切であるとしても、この時間の学習そのものを試験の成績によって数値的に評価するような考え方を採らないことが適当と考えられる。

中央教育審議会
第一次答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」
第2部 学校・家庭・地域社会の役割と連携の在り方 
第1章 これからの学校教育の在り方
(1) これからの学校教育 の目指す方向
(96年7月19日)


「総合的な学習の時間」については、各学校において学習活動を定め、学校や児童生徒の実態に応じた特色ある教育活動が展開される。このような趣旨から、学習の状況や成果などについて、児童生徒のよい点、学習に対する意欲や態度、進歩の状況などを踏まえて評価することが適当であり、数値的な評価をすることは適当ではない。


また「総合的な学習の時間」は、横断的・総合的な課題などについて、体験的な学習、問題解決的な学習を取り入れ、各教科等で身に付けた知識や技能を相互に関連付け、総合的に働かせることをねらいとしており、それを通じて、自ら学び、自ら考える力や学び方、ものの考え方などの確かな育成に資するよう、評価に当たっては各教科の学習の評価と同様、観点別学習状況の評価を基本とすることが必要である。この時間の学習活動の展開に当たっては、学習指導要領に示された二つのねらい(自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資
質や能力を育てること、学び方やものの考え方を身に付け、問題の解決や探究活動に主体的、創造的に取り組む態度を育て、自己の生き方を考えることができるようにすること)などを踏まえ、各学校において具体的な目標、内容を定めて指導を行うことが必要である。そして、その目標、内容に基づき、観点を定めて評価を行うことが必である。


以上の点を踏まえ、「総合的な学習の時間」の評価については、この時間において行った「学習活動」を記述した上で、指導の目標や内容に基づいて定めた「観点」を記載し、それらの「観点」のうち、児童生徒の学習状況に顕著な事項がある場合などにその特徴を記載するなど、児童生徒にどのような力が身に付いたかを文章で記述する「評価」の欄を設けることが適当である。

教育課程審議会答申「児童生徒の学習と教育課程の実施状況の評価の在り方について」(00年12月4日)

(10) 生徒のよい点や進歩の状況などを積極的に評価するとともに,指導の過程や成果を評価し,指導の改善を行い学習意欲の向上に生かすようにすること。
   
学習指導要領 
第1章 総則  第6款 教育課程の編成・実施に当たって配慮すべき事項
5 教育課程の実施等に当たって配慮すべき事項


 5. 県教委説明会は不備である

 06年5月に、県教委は、全校全教科悉皆出席の教科別教育課程説明会を開催してい
るが、「『関心・意欲・態度』を学習者から切り離して点数をつける」ことの無謀さについて、合理的な説明を全くおこなっていない。県教委は、「関心・意欲・態度の評価」について、以下のように解説している。

@ 授業の中での生徒の活動を取り入れながら評価
A 学習が進むにつれてどのように「関心・意欲・態度」が高まったかという視点
B 定期テストの問題の工夫
C 体育、芸術、家庭などの評価方法の共有化

@Aについて、例えば、地歴公民科の説明会では、次をその具体的な方法として示している。

・単に出席回数、ノート提出、授業態度だけで評価しない。
・「学ぼうとする気持ち」が高まっているかどうかをワークシートに書かせたり机間巡視、生徒の自己評価などで確認できないか?

 「指導と評価の一体化」という観点から、授業改善の判断材料を収集する方法とし
てはもっともである。しかし、評定つまり数値化の材料としては妥当だろうか。机間巡視で収集できる評価材料は「マナーしての授業態度」ではないのか。「学ぼうとする気持ち」の高まりをどうやって客観的に階層化するのか、自己評価をどうやって数値化の材料とするのか。これらに対する明確な判断は示されていない。

 Bについては、国立教育政策研究所もその方策を指摘している。これは、中山成彬前文科大臣が、「子どもや学校、自治体が自らの『位置』を見極めて、競争していく環境づくりが必要だ。」(改革私案「甦れ、日本!」04年11月2日)との考えをごり押しをして、実施されることとなったこととなった悉皆の全国学力テストと、「生きる力」をはぐくむ現行指導要領の理念や目標との整合性を無理やりに付けることから派生したものと推測される。神奈川においては、同様の意義付けによる、「県立高等学校学習状況調査」の作問からの発想と思われる。

しかし、高等学校における観点別評価についての唯一の文科省通知は、「生徒指導
要録の改善等について(通知)高等学校生徒指導要録の改善等について」(01年4月27日)であるが、そこには、以下のように明記されている。

1各教科・科目等の学習の記録 (1)評定

 「評定に当たっては,ペーパーテスト等による知識や技能のみの評価など一部の観点に偏した評定が行われることのないように,『関心・意欲・態度』,『思考・判断』,『技能・表現』,『知識・理解』の四つの観点による評価を十分踏まえながら評定を行っていくとともに,5段階の各段階の評定が個々の教師の主観に流れて客観性や信頼性を欠くことのないよう学校として留意する。」

「ペーパーテスト等による知識や技能のみの評価」からの脱却のために、なぜ、「定期テストの問題の工夫」をおこなうのだろうか。常識的に考えて、噴飯ものである。

Cについては、座学は実技を見習えということだろうが、実技は参加率が重視されることが共通するだけであって、学校設定教科・科目を含め、「『関心・意欲・態度』を学習者から切り離して点数をつける」ことの合理性を聞かない。

 県教委教科別教育課程説明会国語科の説明会では、「本の紹介をスピーチする」(国語総合)の実践が実例として資料化されている(「平成17年度高等学校教育課程研究集録【国語】」県教委06年3月)。この実践自体は大変に優れたものであるが、評定つまり数値化の材料として見る時、その評価方法には違和感を覚えざるを得ない。

「関心・意欲・態度」
目標(基準) 自分の思いを伝えるために、工夫して表現しようとする姿勢を身につける。
評価規準
  1. 自分の読書体験や読書の楽しさを伝えるために工夫して表現しようとしている。
  2. 自分の発表を振り返り、次回への意欲がみられる。
評価方法 ブックトークメモへの取組、ブックトークトに向けての練習状況、
ブックトーク自己評価の中で次回への意欲 

「話す・聞く能力」
目標(基準) 目的に応じて構成を考え、決められた時間内に自分の言いたいことをまとめて発表する。また、他の生徒の話を的確に聞く姿勢を養う。
評価規準
  1. 時間配分に注意し、ポイントをおさえて、聞き手に分かりやすいスピーチをしている。
  2. メモをとりながら話の要旨を聞き取っている。
評価方法 「話す」:分かりやすさ・工夫(重点)、話す速度、声の大きさ、表情・姿勢
「聞く」:印象に残ったことを、話の内容に触れながらメモしているかどうか 

「知識・理解」
目標(基準) スピーチの基本を理解し、音声表現の技法について理解する。
評価規準 スピーチの基本として、声の大きさ・発声・話の速度・強弱・身振り手振り・姿勢・表情が発表において効果的であることを理解している。
評価方法 「話す・聞く能力」の指導の中で全員がおおむね満足できる状態であることが予測できたため、自己評価の中で、効果的なスピーチに触れているものをAとした。

違和感を感じるのは、「関心・意欲・態度」において、「ブックトークに向けての練習状況」「自己評価」について、先の地歴公民と同じ理由からである。また、「話す・聞く能力」において、「聞く」の「印象に残ったことを、話の内容に触れながらメモしているかどうか」が「関心・意欲・態度」の評価対象ではない理由が不明確である。さらに、「知識・理解」において、「自己評価の中で、効果的なスピーチに触れているものをAとした」ことは、あらかじめ生徒に知らされていたのだろうか。そうでない場合は、公正性に欠けることにはならないだろうか。もっと言えば、「関心・意欲・態度」における「ブックトークメモへの取組」は「書く能力」(本実践の観点には設定されていない)とどう異なるのか。

 こうした混乱は、「関心・意欲・態度」と「話す・聞く能力」との分離を、それらと相関しない「ブックトークメモ」や「自己評価」すなわち発表前・後と発表との分離に措置していること、また、発声等の演技能力について、「話す・聞く能力」と「知識・理解」とに無理に分化していることから生じている

 混乱は、実践者の責任ではない。本実践に限らず、あらゆる実践報告について、その実践自体の優秀さとうらはらに、観点別評価の評価方法には同様の違和感を感じる。

繰り返しとなるが、こうした混乱は、以下の観点別評価の欠陥点に起因している。

  1. 有機的な関連性を持つ「関心・意欲・態度」、「思考・判断」、「技能・表現」、「知識・理解」を、分断し個別に独立して「評価」している点。
  2. その結果、数値化できない内心すなわち「関心・意欲・態度」を無理やり数値化している点。


 6. 提言 〜「関心・意欲・態度」は形骸化せよ〜

 数値化不能な資質の数値化という問題については、すでに人事評価制度導入の際に論議をされている。
 
 勤評神奈川方式からの転換に際して、県教委は、以下の見解を示している。

[段階的評価]
 文章記述による評価は、具体的な評価内容を被評価者一人ひとりの職務遂行状況に即して表現できることから、人材育成・能力開発に向けた評価方法として重要である。しかし、評価者の表現力に負うところがあるため、評価者により記述の仕方が一定せず、また、個々の評価項目に沿って教職員の職務遂行状況を把握し、明確に評価することに必ずしも適していないため、記述式評価だけでは、多岐多様な教職員の諸活動を適切に評価し、評価結果を十分に活用することは難しい。

 こうした記述式評価のあいまいさや不十分さを補完するとともに、評価結果の適切な活用を図っていくためには、5段階程度の段階的評価を導入し、前項の評価項目と組み合わせて評価していくことが有効である。

 段階の設定に当たっては、職員の努力目標として、また面談の際に示される評価結果が人材育成の目安となるよう、教職員に求められる一定の水準を明らかにし、それをもとに評価基準を設定することにより、明確な評価を行う必要がある。

〔意欲]
 「意欲」は、児童・生徒の健康・安全に配慮した積極的な指導、社会の動きに対応した指導方法の改善・工夫等の「仕事への取組の姿勢」を意味し、単なる内面的な意欲ではなく、それが外部から観察し得る行動として示されることが必要である。こうした行動として表れた場合には、必ずしも結果が伴わなくても評価の対象となる。ただし、「意欲」の評価は、自己目標の達成など適切な方向に向けて客観的状況に即して発揮されているかなど、評価の観点をしっかりと確立して行うべきであり、不適正な評価にならないよう特に留意すべきである。

教職員人事制度研究会報告書(01年9月)学識研究者による

 目標管理手法による職務分類ごとの記述評価と併せて、評価結果の客観性や評価対象者の納得性を高め、適切な活用を図っていくため、職務分類及び評価項目ごとに一定の評価基準を設定した絶対評価による5段階評価を行うことで、個々の教職員の特性を把握し、評価結果の適切な活用を図っていくこととします。

「教職員の新たな人事評価システムについて」
教職員人事制度検討委員会(03年2月)県教委による

 数値評価の導入、ことに、「外部から観察し得る行動として示される」という「意欲」の数値評価について、大きな論議となったことは記憶に新しい。

 高総検は、教職員人事制度研究会報告書の段階で、以下の批判を展開した。これは、観点別評価における「関心・意欲・態度」の数値評価の問題に、そのまま重なるものである。

 「着眼点の例」(「学校経営」)には、学校運営への参加度、保護者・地域との協力度、学校運営の改善度などが挙げられているが何を基準にしてどのように数値化するのか首を傾げるものばかりである。学級経営にしても受け持った生徒にはそれぞれの家庭環境や自分の個性があり、実態は、クラスや学年によりさまざまである。一つの目標に対して努力しても実らなかった生徒もあろうし、生徒に働きかけても数字に結びつかなかった教員もあろう。「目標管理手法」では、そのような場合は「情意・意欲」の面からも評価するというが、そもそも「情意・意欲」を5段階で分けること自体に評価者の主観の入り込む余地が生まれるのではないだろうか。

 「着眼点の例」(評価の観点例)ではこの疑問に対して「改善策を示す・提案する」「計画」の「作成」などにより「情意・意欲」がはかれるかのようにしているが、書類や発言の数に頼るほどますます教員の仕事が形式だけで判断されることにつながる。数値化は評価の際ばかりでなく4月の「自己申告書」提出時の目標の記述にも利用される。目標達成のための「具体的手立て」「可能な限り数量化を図」ること、「期限を明示する」ことが求められるのである。私たちの仕事で数値化できるものとは、生徒に関してはクラスの遅刻欠席数、テストの平均点、検定の合格者数、特別指導の発生数、教員に関しては、会議での発言数、会議の開催数、公開授業の数、校内校外巡回の数などいずれにしても仕事を表面的にとらえるものばかりである。遅刻の数を減らせたり、会議で発言できる教師ばかりがそのまま立派な教師なのだろうか。表面的な数字を最優先する学校では生徒の成長を数字ではかることしかできない教育がなされるであろう。生徒を伸ばすという教員の仕事を無理に数値化しようとする矛盾が現れている部分である。

高総検レポート No 56「検証『求められる教員像』(教育制度グループ1)
上を向いて歩こう・人事評価制度導入の行方」01年10月12日

神教協との交渉協議の結果、以下が妥協策として示され、今日に及んでいる。

三つの評価項目のうち、「能力」、「実績」は職務分類ごとに評価することが適当ですが、「意欲」は職務遂行の根幹にある取組姿勢であることから、職務分類ごとに評価するのではなく、職務分類共通の評価項目として評価することとします。(「教職員の新たな人事評価システムについて」)

 評定不能な項目はBとする。(人事評価に関する学校長向けQ&A)

 教職員の職務実績、ことに、「意欲」が数値化不能であるのと同じく、生徒の「関心・意欲・態度」は内心にかかる領域であり、数値化するべきではなく、評定するべきでもない。しかし、欠陥点を抱えたまま、観点別評価が現場に強要されるのであれば、
人事評価制度での論議にならって、運用の上で、可能な限りの形骸化をおこなうべきである。具体的には、履修条件を満たしている限りは、数値化不能な「関心・意欲・態度」の数値化は、全員AかBとするなどの方策をおこなう必要がある。



高総検レポート目次にもどる