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高校神奈川 No.540

2007年03月13日

「進学」が教育目標 !? 私たちは許さない !

学力向上「進学」重点校などいらない
  1月29日、神奈川県教委は、「学力向上推進及び特色ある県立高校づくり推進事業実施要項について(通知)」を発出しました。県教委はこの通知を、これまでの「県立高校改革推進計画」に基づく特色ある高校づくりや拠点校・重点校のとりくみについて、再編成したものとしています。神高教は、この通知について、県教委に対する施策の見直しの申し入れや質問書の提出などのとりくみを展開しています。

神奈川県、お前もか?
 国公立合格70人、難関私立大学120人、現役合格率65%、こう書いていくと、いったいどこの予備校のチラシなのかと誰しもが思う。それが、神奈川の保護者の、神奈川の教職員の正常な感覚である。しかし、衝撃的なのは、この文言が、どこの予備校でもなければどこの私立高校の宣伝でもない、ある県立高校の校長が考えた、08年度の数値目標だということだ。今これを読んでいるあなたは、それならどこの県なのと疑問を持ったに違いない。「えーそうよ、神奈川県の県立高校の校長が考えたのよ」そう答える私に、多くの組合員は目を丸くしている。神奈川県までも、そんなことを考えるようになったのかと。

問題多い、県教委の「学力向上施策」
 県が8月に実施した「県の仕事の総点検にかかわる政策評価実施要項」によって政策評価を実施した結果、「特色ある高校づくり」の評価は、B 評価(改善を検討すべき)ないしC 評価(廃止を検討すべき)とされたことに端を発して、県教室は、卒業展開の視点を見直して再編成したとしています。神高教は、この通知について1.それぞれ重要な施策にもかかわらず、通知発出から実施計画書の提出まで1ヶ月しか期間がない2.教育委員会が各学校のとりくみについて実施調査を行うとしているが、各校のカリキュラム編成に対してどのような権限で調査を行うとしているのか3.有効性が確認できないものは指定をとり消すとしているが、教育の施策の有効性がどのくらいのスパンで確認できるものなのか不明であるなど、問題点を指摘し、県教委に施策の見直しを迫っています。

学力向上「進学」重点校をつくり、その上数値目標まで
 中でも問題なのは、最重要施策と考えられる「スーパー高校」の中に、「学力向上進学重点校」が県立高校10校で予定されていること、そして、実施計画書に「可能な限り数値目標を示すこと」と記載されていることです。「進学」という文言が、このようにあからさまに教育委員会の施策に現れたのは初めてではないでしょうか。神高教は、そのことの是非を問うとともに、「進学重点校」の数値目標とは何かを、県教委に問い正してきました。しかし、県教委自身、例を示すことさえできませんでした。神高教は、人事評価システムにおけるとりくみ目標や、学校評価制度における学校目標などの県教委との協議の中で、「教育に数値目標はなじまない」として、その導入を許してきませんでした。しかし、県教委は、今回の通知において、「数値目標」に関して何ら議論することもなく、これまでの共通理解を覆す決定を行いました。このような独断的姿勢は許されません。神高教は、冒頭に紹介したような数値目標が現れるのではないかと憂慮してきましたが、まさに現実のものとなっています。

「進学」は教育目標になり得ない
 私たちは、「生徒一人ひとりが人生において、自らどのように社会とかかわりを持って生きていくかを選択すること」は、非常に重要なことであると考えます。その選択を実現するために、十分な学力を保障していくことは、学校教育の重要な課題であって、どの学校においても、ないがしろにすることはできません。しかし、「進学」は、学力保障の上に立って、生徒自身の主体的な選択の一つとしてあるにすぎません。くわえて「進学」は、白身の目標ではなく社会と自信のかかわりを形成するための手段にすぎないのです。そのことを、教育も生徒自信も忘れてはいけないのです。
 昨年、富山県に端を発して全国的に問題となった「履悔漏れ問題」は、「進学」を意識するあまりに招来した問題だったのではないでしょうか。「進学」は教育目標にはなり得ないのです。そして「進学」自体を目標と勘違いすることで、「学歴偏重」の社会構造に教育かゆがめられ、生徒がそのゆがみに苦しめられてきたのです。国公立大学に進学するかどうかは、その生徒自身の主体的判断の中にあることです。学校が国公立大学進学者数○○と数値目標を決めて、無理矢理生徒に受験させるのでしょうか。教員が、どうして生徒に国公立大学への進学を強要することができるのでしょうか。

大切なのは神奈川らしさ
 73年から神奈川県では「県立高校100校計画」が実施されました。そしてその施策を推進した長州県政は「騒然たる教育論議」の中で「神奈川のふれあい教育」を推進してきま」た。外国籍の生徒や、障害を持った生徒たちと、どのようにかかわっていくのか。神奈川の教育は「共生」の視点で進められてきました。結果として、神奈川では、教育における「適格者主義」を克服しようとする意識が醸成され、入学者選抜試験においては全国でも数少ない「定員内不合格」を出さない県となっています。
 国は、教育基本法改悪以降、安倍首相と教育再生会議が一体となって、ゆとり教育の見直し、授業時間の確保、全国学力調査、教員免許更新制など、生徒も教員も競争原理の中でたたかうことを強制しようとしています。そのような中で本当の教育が生み出されるとは考えられません。神奈川の教育行政に今必要なのは、これまでの神奈川のとりくみを、さらに充実させることではないでしょうか.引地教育長は、全国の教育長と連名で「教育再生会議」の独走に疑義を唱えました。なにも、地方教育行政が国施策に追随する必要はありません。地方の独自性を大切に、神奈川らしい教育のあり方を追求すべきでしょう。そのような意味からも、学力向上「進学」重点校は、神奈川にはいらないのです。(藤本泰成)

「今、ここにいる一人ひとりの子どもを大切にする教育を!

日教組弟56次全国
教育研究集会

 日教組第56次全国教育研究集会が07年2月10日(土)から12日(月)までの3日間、「平和を守り真実をつらぬく民主教育の確立」をテーマに大分県別府市を中心に開催され全国からのべ12,000人の教職員、保護者、研究者、そして子どもたちが参加しました。別府市ビーコンプラザで行われた全体会では、地元の子どもたち、教職員、地域の人々による構成劇「日出生台からの風」が上演され、「教え子を再び戦場に送るな」の思いを新たにしました。また、記念講演「森を育むもの」の中で、講師のC.W.ニコルさんから、子どもたちの可能性を信じて日々教育活動にとりくんでいる教職員にエールが送られました。
 3運休ということもあり、神高教からは28人の参加。「社会科」「地域における教育改革とPTA」「総合学習」には司会を、「高等教育選抜制度」には共同研究者を、また「日本語」「家庭科」「自治的諸活動と生活指導」「人権教育」「国際連帯」「両性の自立と共生」「環境」「平和」「情報化社会と教育・文化活動」「地域における教育改革とPTA」「学校の安全・安心と学習権」にはレポーターを派遣し、各分科会で活発な討論をおこないました。

■全体会参加報告
指揮官で「日教組粉砕」と叫ぶ人と、つながることはできないのか

 C・W・ニコルさんの記念講演を聞きながら考えたことを報告します。彼は日本の自然の美しさに魅せられて日本に長く住むことになります。しかし、その自然が破壊されていく現実を目の当たりにする中で、財団をつくり森の再生にとりくみます。破壊しているのは私たち日本人です。再生しようとしているのが、ウエールズから来た青年です。生涯を賭けてとりくんでいるのです。彼はその再生している森にきびしい状況に置かれている子どもたちを招待し、ともに過ごします。子どもたちは自然の豊かさにふれる事で励まされます。誰が聞いても共感の持てる話だと思いました。自分たちも何か行動していかなければと思わせてくれます。
 しかし、全体会の会場の外では「日教組粉砕」のシュプレヒコールが響いています。彼らがこの講演を聴いたら、やはり共感するはずなのに。以前生徒から「先生、日教組ってとんでもない組織なんでしょ」と言われたことがあります。「私も日教組の一員だけど」と答えるとぴっくりした表情を浮かべていました。身近な教室の中でも、生徒同士や生徒と教職員の関係の中で、ささいなことから関係が切れていく場合があります。何故このような状況が生じてしまうのでしょうか。どのようにとりくんでいけば良いのでしょうか。
 私は同和教育からたくさんの事を学んできました。その一つは人と人とがつながっていくことの大切さです。生徒とのつながりや仲間の教職員とのつながりを大切にしながらねばりづよくとりくんで行こうと思います。(芋ヶ崎分会)

地元アトラクションにみる運動の原点
 今回全国教研初参加である。何台も連なる団体バスで向かった全体集会会場ビーコンプラザは、周辺を機動隊で封鎖され、大分の曇り空にぴりぴりとした雰囲気が漂っていた。何度も参加証のチェックを受けて会場内に入ると、そこには全国から集まった人たちがところ狭しと集まっていた。
 ただ生まれ有ったその土地で生きたい、その自然を守り子供たちに渡したいだけという気持ちのこもった劇と子供たちの歌による地元アトラクションは、運動の原点を考えさせられた気がした。そして開会。各来賓挨拶の後は、C・W・ニコルさんによる記念講演「森を育むもの」。独特の日本語で話すニコルさんの自分史はユーモアがあり、自然に対する彼の感性と、思ったことを実現させる並外れた行動力に、元気をもらった感じがした。満員の会場の熱気に圧倒された全体会を終え、分科会へ向かうバスの中、分科会への期待がふくらんできた。(荏田分会)

荒れた森の復活と人の心の復活と
 感動的な全体会だった。地元大分が作ったアトラクションは、戦前から軍事演習地として使われ、今でも使われている日出原(ひじゅうばら)の問題を、子どもたちのうたや演技で構成して訴える内容だ。実際に日出原(ひじゅうばら)に住み、運動を続ける住民が登場したあたりから、心をつかまれてグッとくるものがあった。
 さらにC・W・ニコルさんの話が、荒れた森を復活させる話なのだか、ニコルさんの住い立ち、日本で体験したこと、あんなに美しかった日本が変わっていき絶望したことなどが語られていく。アトラクションの話と二コルさんの話が重なって、それは素敵な構成になっていた。ニコルさんという人がどういう人なのか、はじめて知った。イングランドを敵とするウエールズ人で、英語を学校で習うくだりや、北極に憧れカナダへ行くあたりなど、笑いをまじえながら語っていく。「ボ夕山ってわかる?」というような、今はあまり使われない日本語を「知ってる?」って聞くのも楽しい。楽しく、心に冠る、いい全体会だった。
(上溝分会)

情報化社会と教育・文化活動分科会
コミュニケーション能力が課題

 初めての参加だが、行きの長旅も何のその、自分の報告は反省ばかりだが、同分科会に参加の高橋さん(上溝分会)からも学びなからの、充実した3日間だった。
 初日の全体討議では、5本のレポートが報告され、2日目以降は2つの小分科会に分かれた。参加した小分科会は「情報化社会の教育・学校図書館」。1日半で18本のレポートを1人10分程度で報告、質疑応答・意見交換を次々くり返していった。小学校の実践報告を聞くのは新鮮で、情報教育や授業の工夫、読書活動などさまざまで、興味深く面白かった。(中学の報告かひとつもないのは残念だった。)
 読書活動に関する報告では、ぺ−ジ貯金、読書賞など、読書意欲を高める小学校の実践の中で読書量を評価することについてはやはり疑問が出た。また、児竜自身による3人組のブックトークの実践は、ブックトークの新しい形態として注目されるも、いかんせん議論の時間は少なく、今後に持ち越された形となった。
 高校からの情報の授業実践は一本で、ここでは「情報リテラシー」の定義、捉え方について話題になった。情報リテラシーについて共通の認識を持とう、というところで、結局定義はいまひとつ明らかにならなかったように思う。が、今後も意識していきたいところだ。
 学校図書館活動では、都立高校の学校司書の実践報告に目を見張った。また、話をうかがいたい。また、高校の学校司書の採用試願が何年も行われていないという他県からの報告も複数あった。神奈川だけではなかったこの異常ともいえる新規採用のない現状をどうすればよいのか、何とかしなければとつくづく思う。策はないものか。
 始めのうちは、この分科会の扱うテーマが多様でレポート数も多く、情報教育と学校図書活動は分けてやった方がよいのではないかと思わないでもなかった。しかし次第に共通の課題が討議の中から見えてきて、一分科会として討議を重ねていく意義を感じた。情報化社会の中で、今、情報教育も学校図書館活動も、コミュニケーション能力が課題だという点にたどり着いた。また、情報教育の先に、民主的市民を育てる、という意識が討議の中で度々確詔された。(共同研究者がこれらの討講にどう関わるのかよく分からなかったのが残念だ。)
(藤沢西分会)

日本語教育分科会
再び「読解力」重視へ?

 全国の悲惨な話をたくさん聞いて来た。私が接したのは、教育改革の名のもとに競争を強いられ、仕事が多忙化している小・中学校の教員たちの生の声である。30代の教員が教壇で倒れて、過労死したという話。平均点を上げなさい、と校長に尻を叩かれている小学校の教員の話。しばしばマスコミに登場し、「教育改革」の先頭をきっていると目されている某地域の学校では、仕事が忙しすきて家庭を顧みないでいたら、その教員の妻が育児ノイローゼになって自殺してしまった。事情に通じている人たちは、あの亡くなった妻も「教育改革」の間接的な犠牲者だと言って胸を痛めているという。
 学校選択制になってから、「自分たちがこの学校を選んでやったのだから、学校はそれに応じたサービスをするのが当然だ」という態度の保護者が増えた、というウソのような本当の話。「ゆとり教育」から一転して、学校間の競争を全面解禁したために、定見のない地方の教育委員会が、今度は反対方向に暴走しはじめているのだ。
 少し前には「新学力勧」を唱導し、戦後教育の編み出した精読を重んずる文学教育を全否定して、指導要領の中にまでそれを書き込んでいたのに、世界的に権威のあるピサの調査結果で、日本の学生の読解力に問題があることが明らかになると、当局は、今度はやっぱり「読解力を身につける教育が必要だ」と言い始めた。
 今回の教研では、文図を用いて全文を解析した北海道(中)のレポートや、魯迅の作品を生徒に読ませて卒業文集を作っている埼玉(中)のレポートや、生活苦と戦う家族の姿を描いた綴り方を紹介した大阪(小)のレポートなどが印象に残った。手袋に「は」とか「へ」と書いて、器物や地図を持って文の書き方を教えている小学校の女性教員の話は、感動的でほほえましかった。「机は〜」と言いながら子供たちがみんな床にもぐってしまう。「〜は」は、そのモノの下につくから、というわけだった。その方は自分の教え子が自殺し、競争で子供の心を切り刻むような教育をしてはならないという切実な気持ちを抱いて教研に参加したのだという。全国一斉の学カテストが行われたあとの現場を危惧する声には、切実なものがあった。
(元石川分会)

国際連帯分科会
多文化ニッポンの現実が噴出

 今回、「在日外国人にも住みやすい川崎を作るためには?」ということで、麻生区在住外国人の方に話をうかがった上で、生徒なりの「地域改革案」を作らせた「総合」での実践を発表した。この分科会では多文化ニッポンの現実が噴出する。例えばクラスの生徒が「退去強制」で国外追放になる。そんな現実を突きつけられることもある。外国籍生徒に寄り添い、真摯にとりくむ実践も争い。
 別の意味で勉強になることもある。某県の発表は、フィリピンの「可哀想な」子どもたちのビデオを見せ、とても「効果的」だった、という「実践」だった。ちょっと待ってほしい。今や、15組に1組は国際結婚という時代。この県でも、確実にフィリピン国籍の人々が暮らしている。たとえ「見えなく」ても、外国にルーツを持つ子どもたちが存在する可能性を前提に、授業実践は組立てねばなるまい。「フィリピンの子どもたちは貧しく苦しい生活をしている」というようなステレオタイプを植え付けてもいけない。このような実践が県の代表として出てきてしまうことも、日本の教育のもう一つの現実である。
 フィリピンの生活用具など実物教材のセット「フィリピン・ボックス」(ピナット制作)やアジアやアフリカの笑顔の子どもたちの写真が満載の「地球の仲間たち」(開発教育を考える会制作)を、その若い先生に紹介した。来年、新しい実践が生まれるだろうか。
(麻生分会)

両性の自立と平等をめざす教育分科会
制服見直しはひろまっていく
 「多様姓の無いところに可能性は無い」全体会講師のC・W・二コルさんの言葉である。懲りずにジェンダーバッシングをしている人々に聞かせたい言葉だ。男女別名簿や男女別座席、男女の色分け。固定観念を押し付けてどんな可能性が広がるのか?
 今回、「おんなはスカート、おとこはズボンでいいの?」と題して性別制服の廃止を求める神奈川高のとりくみを報告した。女子にスカート、男子にズホンの強制は、女と男は違うというメッセージを日々与え続けることになる。これは「隠れたカリキュラム」であるとここでも主張した。
 性別名簿が復活した県からは、混合名簿にして同が変わったか検証が必要という意見が出た。それはおかしいだろう。結果が芳しくなければ、男女別名簿のままでいいのか。大事なのは日常に巣食うジェンダーバイアスをすべて無くしていくことだ。混合名簿だけではないのだ。検証はそれからで良い。
 全国教研は、スーパー教師の発表の場ではない。発展性の無いわれもわれもの発言ラッシュには食傷気味だった。しかも新しい報告は少ない。デートDVにかんする千葉(高)のとりくみなどは今後を展望するものだと思うが、共同研究者等の意識がそこに追いついていない。勉強不足を感じる。
 ただ、男女別制服についての私達の主張は十分納得されたと確信する。すでに神奈川の城郷中や奈良中ではこの議論が始まっていると聞いた。かつて私通が混合名簿を提案したときのようにはいかないまでも、来年からこのテーマに関するレポートが増えることは間違い無し!
(百合丘分会)

家事労働のもつ意味
 分科会は、実践交流を主とした場であることは分かっていたが、特に前半、各県の実践の打ち上げ花火的あり方が残念であった。ただその中で、共同研究者の佐藤さん(千葉大)の発言内容は興味深いものがあった。「男の子にこそ、家事労働を身につけさせること。競争にかかわらない生活的自立を促すこと。それは、社会的労働だけに価値を見出そうとする日本の男性の生き力に、多くの変化をもたらすのではないか。」という趣旨のものである。
 両性の平等を訴えるとき、家事労働は性別役割分業批判の視点で語られる。ジェンダー・フリーの視点で意識や慣習、労働のあり方を見直すとき、多くの女性が差別されている状況がクローズアップされていく。しかし同時に、男性の生き方もまた性による差別を受けていること。家事労働の持つ意味を、再度捉えなおしてみたいと思った。
(住吉分会)

社会科教育分科会
「賛成も反対も教室の中で出し尽くす」意味

 昨年にひきつづき司会者として参加した。私が担当する歴史認識小分科会では、提出レポート数が、昨年の21本から16本に減り、高校のレポートは6本からゼロになってしまった。今年は神高教もレポートを出しておらず、どうこういえる立場ではないのだか、さすがに寂しい。
 ところで、徳島(中)のレポーターは、イラク戦争をとりあげた研究授業が新聞記事になったため、強制配転になってしまったという。福島(中)のレポーターも、生徒向け配布物に教科書掲載の反核集会の写真を挿入したら、担任を外されたそうだ。高校レポートの減少が、こうした職場環境の変化に起因するものでないとよいのだが。
 それにしても小中のレポートには、「地域素材」とよばれる地元密着教材を手がかりに進められる「調べ学習」や、あくまでも子どもたちの討論が授業の中心となる、「オープン・エンド」な参加型授業がなんと多いことか。こうした授業展開のために絞られる智恵、そこに注がれる労力・情熱…こちらが恥じ入りたくなってくる。
 参加型授業で紹介される子どもたちの生の声は、いろいろな意味で刺激的だ。今回、最も印象に残ったのは、地元に残る殉国碑から「戦争とは何か」を考えた三重(小)の実践。聞きとり調査で「戦争に行けなくてくやしかった」と述懐した男性の証言をめぐって、「戦争は醜い」「本当に国のためになっているのか」と発言する一人の児童に対し、「醜いと言ったら、国のために戦ってくれる人が悲しむ」「国のために命まで捨ててがんばってきたのだから、そんなきつい言い方をしなくてもいい」「戦争も生活を続けていくためにあった」「日本のためによかれと思って戦争を起こした」等々、他の児童は口々に反論し、ほとんがど同調者がいない。六年生の授業だが、教員が「しかけ」をしなければ、おそらくこれが子どもの現実だろう。私自身も似たような経験がある。
 こうした「オープン・エンド」に対しては、「討論させて次はどうするのか」「問われているのは教育方法だけか」といった、しごく真っ当な批判も向けられる。扶桑社版歴史教科書を採用した杉並区のレポータは、教科書以外、資料すら「絶対配れない」状況のなかで、こちらが伝えたいことをいかに伝えるかに苦心しているという。
 社会科教育のあり方はじつに多様だ。共同研究者の村井淳志さんは、「賛成意見も反対意見も教室のなかで出し尽<す」授業設定の重要さを助言していた。外でどんな意見に出会っても免疫がついていることが大事だというわけだ。確かに小林某のマンガ一冊で、「先生のウソつき」となるのが一番まずい。一堂に会した多彩な参加者が、こういう意識を共有できたのであれば、全国教研はやはり意義がある。
(旭分会)

平和教育分科会
これからの平和教育の可能性

 神奈川高教組は、レポート「平和運動推進委員会22年の活動との今後の課題・展望」で参加した。1)どのように次の世代に活動をひき継いでいくか、2)平和運動の記録を作成する、3)情報をホームページでアクセス可能にしていく、など現在の課題をを発表した。
 分科会では、昨年「改正」された教育基本法に関連した各地のとりくみが報告された。これから平和教育に対する弾圧が増していくことが予想される。これに対し、平和を守るたたかいを発展させるとともに、地道な教育実践を身近なところで行い、両者を車の両輪と考えてとりくみを進めていくことを確認した。
 また、平和教育を次の世代にひき継いでいくためのさまざまなとりくみが、各県から報告された。1)青年部が中心になって平和教育を学習するとりくみ、2)平和運動の歴史をDVDなどで記録をしていくとりくみ、3)中高生の平和へのとりくみ、4)小学校へ出前発表するなど子どもが子どもに平和を伝えるとりくみ。それぞれのとりくみに、これからの平和教育発展の可能性を感じた。
(元石川高校)

家庭科教育分科会
家庭科の危機感

 家庭科教育分科会のレポートは小・中・高等学校から計20本の参加がありましたが、高校のものは神高教を含め3本で、もっとたくさん聞きたい気持ちもありましたが、小・中学校の授業実践もふみ込んだ内容の興味深いものが多く、家庭科教育の流れを考えていく上で参考になる内容でした。
 熱心な講論が展開していく中で、家庭科単位数の削減傾向や家庭科をとり巻く社会情勢の変化など、近年家庭科教員が感じ始めている家庭科教育の課題が浮き彫りになっていきました。
 「家庭科潰し」に対する懸念といった趣旨の発言も多数あり、これからの家庭科教育について、全国的にそして、校種を問わず危機感が高まっていることを強く感じました。しかし、それは決して愚痴ではなく、何とかするんだというたいへん前向きにとり組む懸命な姿勢がうかがわれるものばかりで、自分自身も何か少しでもできることにとりくもうと気持ちを新たにさせられるものでした。
 家庭料教育の歴史といった視点で考えても、現在は大きな節目を迎えているのではないかと思います。今一層の組織力の強化、教研の充実を図る必要があることを強く感じました。
(弥栄西分会)

地域における教育改革とPTA分科会
学校には現業職が必要

 全体集会では合唱構成劇が、子ども達、教職員など地域の人々により上演された。舞台となった「日出生台」は広大な自然あふれる大地で高原植物の宝庫であり、また地元の畜産農家の牛も放牧されていて一見のどかな様子を見せる大地であるが、そこには100年以上も演習場としての重荷を背負わされてきた歴史があり絶えることなく地元の人を悩ましている…その演習場の湿原で、ひっそりと咲き続けてきたサクラソウの見てきた歴史「光をください とどけて ください ひとりぼっちは きらい だって わたしはここでしか 生きられない…」
 涙がとまらなかった。私は多分センター化問題とだぶらせて見ていたのかもしれない。
 この分科会のレポート報告から見える事
 今、全国の教育現場は、かってないきびしさにさらされ、格差拡大社会が大きな影響を及ぼしている。市場原理、競争主義が持ち込まれ、子ども達は学カテスト等で競争を強いられ教職員は新たな評価システムの導入等によって管理強化される。職場の「民主主義」の存在が危ぶまれ、教職員同士のつながりが、子どもや保講者とのつながりが、なかなか持てない。以前にも憎して超勤に追い込まれている。しかし、絶望盛や無力感に襲われ、明日の活力すら奪われようとしているきびしい現状にあっても「子どもの未来を見据えた教育実践」には、働きやすい民主的な職場が必要であるという認識に立って、解決の糸口を見いだし努力しているとりくみの報告が多数を占めていた。
 私は今回、「センター化」についてレポートした。県教委は昨年7月に県立高校配置の現業職員について「センター化」という「新たな考え方」を待っている事を明らかにした。この間のとりくみで目指した、「『「センター化』については『正式提案』をさせない」という出は実現したが、当局の姿勢が変わったわけではない。
 今後複数の配置の必要性を訴えるとともに、どのような職務を共同作業の内容にするのか検討し、あわせて成果が出るようにとりくんでいきます。
 私たちもサクラソウと同じに学校で咲きたい…学校でしか生きられないから。
(横浜翠嵐分会)

■自治的諸活動と生活指導分科会
「いじめ・不登校」をうむ学校のあり方こそ問題
 今年、人びと全国教研に対する関心は、全国の小中高の教師が「いじめ問題」にどうとりくんでいるか、また現実的対応はいかなるものかというものだっと思う。
 以前の「いじめ」問題の時作られ、7年前まで存在した「いじめ・不登校」の特別分科会は、まさにこれに答えるものであった。6年前この分科会が突然なくなり、この問題は第11分科会に吸収されるようになった。そしてレポートは減り続けてきた。今年、「学校・子どもの安全」特別分科会にいじめ問題を加えた。当然、ここに「いじめ・不登校」のレポートを持っていくと思ったところ、そうではなかった。共同研究者の1人は、あちらは「いじめ」こちらは「不登校」といったわけのわからない回答をしていたが、この姿勢にこそ「教育再生会議」の発想にちかいものである。「いじめ」の加害者を学校から排除する考え方では、「いじめ」はなくならない。「いじめ・不登校」を生む学校のあり方こそ問題なのである。
 少なくなったレポートの中にはこれに答える内容のものがあった。教師が一方的に教えるのではなく、子どもがグループを作ってお互い教えあう授業実践でクラスのいじめがなくなったという報告などその1つであった。私は「スクールカウンセラー」の問題をレポートした。残念ながらまだ全国ではスクールカウンセラー制度が本県のように整備さえておらず、論議を生むことは出来なかったが、学校に教員以外の目が入る有効性には多くの賛同が得られたと思う。「いじめ・不登校」問題にきちんと向かい合えない教育組織に明日はないと、今、強く感じている。
(外語短大附属高校分会)

環境・公害と食教育分科会
環境省にはつくれない教材の話
 04年に熊谷での全国教研に通って以来の3年ぶりの参加である。「環境」の分科会は、レポート総数42本と多く、今回も時間不足であった。論講されたテーマを2〜3紹介する。
 オール電化住宅について。オール電化はCO2芝1・6倍くらい増やすということ。そして、電磁波の問題がある。電磁調理器は、10cm離して40mG(ミリガウス)、4mGで白血病が倍になる。ただし、使う時間は短いので、職業的に使う人・若い人は避けたほうがよい。携帯を開発する仕事をしている人が「携帯を身につけてはいけない」と言っている。おぞましい話だ。
 青森県六ヶ所村の核燃料再処理工場について。大量に放射能を出す。単純化すると、原発が1年間に出す量を1日で出す。海に排出されたものは、海流の関係で、沿岸を流れる。暖かいので上のほうを流れる。千葉に至るまでの海岸が汚染される恐れがある。日本が原発をやめないで再処理をするのは核武装の選択肢があるからだ、という指摘があった。
 神奈川高教組、根岸さんのレポートは、環境省が地球温暖化防止の教材を作成・配布するという事業に参加した報告である。「違いの違い」というカードゲームを作成したなかで、「ペットボトルの問題」「アフリカなど発展途上国の飢餓の問題」などがボツになった。ひっかかりそうな内容は、<業界>にお伺いを立てているかのようであった。ペットボトルのカードは『ドイツでは厚いペットボトルを回収して何回も使うが、日本では薄いペツトポトルを使い捨てにしている』という文である。こんな、当たり前のことが載せられないでカットされた。根岸レポートには、「作れなかったものについての本を作ってほしい」と注文が出された。
 今回も、全国の仲間との再会・交流は意義深く、頑張らなきゃ」とあらためて元気をもらった集会でした。
(大和東高校)

学校・子どもの安全「特別分科会」
凍った心をとかすのも、「人の心」
 分科会のテーマは、「いじめ」、「防災教育」、「防犯と事故防止」…の3つ。
 北海道教組の養護教諭チームから発表された「いじめは、結局人と人とのつながりの中でしか防げない、守れない」という考え方は、3つのテーマ、共通のキーワードとなった。
 保健室の扉をたたけた人は「まだ安心」。教員や親、友達に相談できた人は「まだ大丈夫」。保険室や教員、そして誰かの心の扉をたたけなかった人の悩みは、いったいどこへ持って行けばよいのだろう。氷のように冷え切った人の心をとかしてくれるものは、結局人の心でしかありえないと感じた。
(湘南台分会)

総合学習分科会
総合学習は進化している
 「総合的学習の時間」はビッグチャンスだったはずだ。点数評価でしばられず、教科書もなく、学習内容も、さらには標準単位数すら決められていない。70年代から日教組が提唱してきた「総合学習」が、経緯はどうあれ、ここで実践できたはずだった。
 現実はどうだろう。学力低下批判、ゆとり教育批判にさらされ、生徒だけでなく教員からも嫌われている。小学校では英語に、中高でも普通教科科目に侵食されて、総合学習はこのまま息の根が止められてしまうのだろうか。そんなことはない、総合学習はさらに進化している、という数々の実践報告がなされているのが、総合学習分科会だ。
 子どもたちの発案により1年間近くの山に登り続けた兵庫(小)の実践は、その「教えなさ」貝合が爽快で、こういう実践もあるかと目を開かれる思いだった。千葉(高)は、生徒のアルバイト経験にあわせた労働教育実践で、これは実際のところ、私の周りの生徒にも今すぐにでも必要なものである。指導要領の「総合的学習の時間」がこれからどうなるかも大事な問題だが、それよりも我々教員が、学校をどういうところと考え、生徒のどんな「まなび」を実践しようと考えるのか、それこそが今、問いかけられている。
(金沢総合分会)

人権教育分科
ジェンダー・性教育・同和教育への攻撃の中での実践
 東京の中学校養護教諭の報告。採用4年目。性教育、バッシングが吹き荒れる東京都。ジェンダー・イクォリティーの教育、性教育を避けて通ろうとする現状がある。一方で、誤った性情報の中に生きる生徒たち、自分を大切にできないでいる生徒たちがいる。同僚の理解を得ながら、HIVについての学習を、全校をあげて作り上げていった。
 広島の中学からの報告。呉市における差別紙片の問題。「○○さんは部落民です」と記された名刺大の紙切れが、05年3月から06年11月までの間に4万枚もまき散らされた。広島では「是正指導」以降、同和教育を避けて通ろうとする現場がある。その一方で、紙片を拾って読んでいる生徒たちがいる。その中にあって、部落問題にかかわりつづけようとする報告者の姿勢が語られた。
 神奈川からは、外国にルーツを持つ生徒が全校の3割を占める横浜の富士見中学のとりくみ、厚木南高校通信制のとりくみを報告した。部落出身生徒、傷害のある生徒、不登校経験者、高校中退者、年輩者との出会いとそれぞれの生徒の間に生まれたつながり。参加者が、うなずきながら聴いてくれていたことがうれしかった。
(ひばりが丘分会)