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高校神奈川 No.546

2007年10月18日

全国から11万6000人が沖縄県に集まる

「教科書検定意見撤回を求める県民集会」が精巧に終わる
 9月29日(土)15時から宜野湾市海浜公園多目的広場において、沖縄県内20団体で構成された実行委員会主催の「教科書検定意見撤回を求める県民大会」が開催され、沖縄県内をはじめ、全国から11万6000人が集まりました。
 神高教からも、新採用者を含んだ3人が参加しました。


【日教組独自集会】
 日教組は大会参加にあたり、13時30分〜14時30分健康文化村カルチャーリゾートフェストーネ(会議室)において事前の集会を開催しました。
 荘司副委員長が、「教科書検定意見撤回を求める沖縄県民の団結によって全国津々浦々にまで関心をよびおこし、政府・与党も含みのある発言をせざるを得なくなっている。歴史の真実を次代の子どもたちに伝えていかなければならない」とあいさつを述べました。
 沖縄県教組大濱委員長は旧日本軍の規則を具体的にあげながら住民が集団自決にいたった経緯を語りました。
 高教組の松田委員長からはこの間のとりくみの様子が報告されました。「日本軍は米軍の捕虜になることを許さず、共生・共死の皇民化教育の中で集団自決は行われた。文科省は、記述修正・削除の主な理由として、現在係争中の訴訟を根拠にしているが、『未確定な時事的事象について断定的な記述をしていることはないこと』という文科省自らが定めた検定基準に矛盾している。主権者が声をあげれば世の中は変わるということを、子どもたちに示していこう」と今回の検定の問題と課題こついて訴えました。
 最後に藤本平和フォーラム副事務局長(神高教副委員長)の「団結がんばろう!」で意思統一をはかり、宜野湾市海浜公園へと移動しました。

【日教組独自集会】
 15時から宜野湾市海浜公園で開催された県民大会には、車いすに乗ったお年寄り、子ども連れの親子、一般市民や団体、労働組合、経済界、中学生や高校生などが続々と集まり、会場を埋め尽くしました。
 諸見里宏美県PFTA連合会会長による開会のあいさつで大会がはじまり、宮古・八重山でも併せて「郡民大会」が開催され、糸湾市摩文仁の平和祈念公園からスタートした「平和の火」が宜野湾海浜公園に到着し、点火台に火がともされました。仲里実行委員長(県議会議長)は、「今こそ全県民が一丸となって立ち上がり、教科書から沖縄戦における軍隊による強制の削除に断固ノーと叫ぼう!」と呼び掛けました。
 仲井真弘多知事は「集団自決の日本軍の関与については、当時の教育を含む時代状況の総合的な背景や手りゅう弾が配られるなどの証言から覆い隠すことのできない事実である」と述べ、文科省の検定意見の速やかな撤回を要求しました。
 集会では、県教育委員長、県婦連会長、県青年団協議会長、県子ども会育成連絡協議会長をはじめ各界代表が次々と挨拶をし、記述復活を強く求めました。
 高校生代表は、「私は将来高校の日本史の教師になりたい。このまま検定意見が通れば、わたしは事実でないことを教えなければならない。教科書のたった一文、一言かもしれないが、その中には失われた命と、二度と戦争を繰り返してはいけないという県民の思いがある。うそを真実と言わないでほしい。あの醜い戦争を美化しないでほしい。例え醜くても真実を知りたい、学びたい、そして伝えたい」と訴え、盛大な拍手が会場から巻き起こりました。
 渡嘉敷島「集団自決」の生き残りの吉川嘉勝さんは、「軍隊の弾薬、手りゅう弾が民間人に渡らなければ「集団自決」は決行されない。手りゅう弾は日本軍から渡された。集団自決の背景は皇民化教育、軍国主義教育、戦陣訓の住民への宣撫、島民に対する差別、閉ざされた環境。日本軍の命令、誘導、示唆などの関与がなければ、あのような惨事は起こらない結論付ける事実は山積している。事実の歪曲を許してはならない」と静かに訴えました。
 最後に検定意見撤回と記述回復を求める大会決議が満場一致で採択されました。今後、実行委員会は10月15日に福田首相、渡海文科相らに要請を行うとしています。
 沖縄県教組、高教組からは、実行委員会のメンバーとして「平和の火」のリレーを受け持つなど集会成功へ向けてとりくみ、集会へは、日教組から200人(沖縄両教組を含む)の参加がありました。
 集会の模様を地元テレビ局が実況中継し、地元紙が号外を出すなど全島挙げてのとりくみとなりました。、
 この間、日教組が平和フォーラムとともにとりくんできた「高校歴史教科書検定での沖縄戦『集団自決』に関する記載内容への検定意見撤回を求める要請署名」は52万7、217筆に達し、9月14日、衆参両議長、各政党、文科省へ要請・提出行動を行っています。今集会も当初予想されていた5万人を大きく上回る11万6、OOO人となり、沖縄をはじめ、全国に広かる大きな動きとなっています。
 さらに、複数の教科書執第者から訂正申請をめざす動きも出始めているとのことも報道されています。
 神高教は、今後も日教組・平和フォーラムとともに、文科省の「沖縄戦『集団自決』に関する記載内容への検定意見」の撤回と、史実にもとづく記述を強く求めるとともに、戦争を肯定・美化する動きに抗し、平和・人権・環境・共生の教育実践にとりくんでいきます。

6・23 沖縄スタディーツアー 報告特集

新組合員が見た、戦争・平和・教育

6月23日、忘れていませんか?
 場所によっては、村民の3分の1が虐殺されたと言われる、62年前の沖縄。6月23日は慰霊の日です。
 青年委員会では平和運動推進委員会に(ほとんど)協力していただき、この日に合わせて沖縄スタディ・ツアーを行いました。対象は、新採用から3年目までの組合員です。数年後には、生徒を連れて平和学習に行くメンバーも多いことでしょう。
 今回、参加者にとっては改めて沖縄の本当の姿に触れ、戦争とはなにか、平和とは何かを考え、そして互いに交流を深めた充実の2日間でした。
 ここに参加者から寄せられた報告の中から数本を掲載し、報告特集といたしました。
 また参加者全員の報告は別途報告集を製作中ですので、出来上がりましたらそちらも合わせてお読みください。青年委員会・組合活動への理解の一助となればと思います。

(青年委員会)


【沖縄戦を伝える責任と課題 六ツ川分会】
 沖縄に行ったことがなく、正直、沖縄について勉強不足であった私には、沖縄スタディーツアーで見て聞いた多くのことが新鮮であり、また衝撃的であった。中でも、現地の人から直接聞く話には、戦争の生々しい傷跡を感じ、現在も終わっていない戦争(米軍基地問題等)に対する怒りを感じた。
 今回のツアーで印象に残っていることの一つが、このような現地で出会った遺族の方々の話である。轟の壕の入り口で出会った男性は壕で2人の姉を亡くした。「ガマから出るとへ米兵に殺されるけど、親は出ないといけなかった。でも、子どもは殺されたくないから、子どもを風呂敷にくるんで、ガマに置いて出た。そしたら、(米兵は)ここ(壕の入り口)にドラム缶を置いて火をつけ、それをガマの中に投げこんでね。姉たちは焼かれてしまった。遺体は見つからないまま。」
 まだ、このとき生まれていなかった男性は親からその話を聞かされ、毎年6月23日には、一度も会ったことのない姉たちに会うために轟の壕に来るという。
 平和の礎で出会った女性は、「治療所が騒がしくなっているのが聞こえ、おかしいと思って逃げた。でも、母と妹は治療所から帰ってくる時に日本兵に殺された。」と当時の記憶を鮮明に覚えている。話を聞いていると、一緒にいた夫とともに次から次に当時の記憶を語る。ガマでは3度、日本軍に追い出されてさまよったこと。爆弾の破片が太ももに当たり、それを海水で洗うが、蛆がわいてひどい状況だったこと。さらに、捕虜でつかまった際に、銃で腕を撃たれて、弾が貫通した跡も見せてくれた。
 こうした遺族の方々に残る当時の沖縄戦争の傷跡は、戦争は過去のことでは決してすまされないということを私に教えているようであった。それと同時にそれを誰かに伝えてもらえないかと訴えているようにも感じた。
 沖縄から帰ってきて、さっそく自分の担当する世界史の授業で沖縄スタディーツアーでの出来事を話した。そして、生徒に沖縄について知っていること、イメージすることをいくつでも思いつくまま紙に書いてもらった。その中で、戦争や米軍基地に関することについて、一つでも触れていた生徒は、受け持っている・生徒の35%ほどであった。
 社会の風潮としても米軍基地の問題が沖縄県だけの問題にすりかわっているような実態があり、戦争の記憶が薄れて憲法九条がともすれば変わってしまいそうな状況の中、沖縄の戦争を伝えるということの重要性を再確認した。実際、沖縄に行き、現地の人々の様々な思いを聞いた私には、こうした「戦争をどう伝えていくのか」という大きな課題と責任を与えられたような気がする。


【平和への奮い立つ思いに触れて 大井分会】
参加の動機
 「沖縄に1万円でいけるよっ!」という、耳を疑うような安さにひかれました。青い海…青い空…遠い沖縄へのあこがれを胸いっぱいに参加を決意。のちにたくさんの資料が届きおどろきました。自分たちだけの旅行では、行けないような場所がたくさん設定されておりドキドキしながら当日を迎えました。

1日目(6月23日慰霊の日)
 沖縄に到着し、バスに乗り込み、その日のガイドの「げんさん」と出会う。バスの中で、沖縄戦中の轟壕で起こっていた事実を勉強しました。そして轟壕の見学…。真っ暗で、ごつごつしていて、なんといっても独特の湿ったような壕の臭い。壕の中でも大きいとはいえ、その中に何百人もの人たちが避難していたというのは、想像に耐えない事実でした。げんさんから、壕の中で、集団自決や虐殺も行われていたと聞きました。数秒の間、懐中電灯の明かりを消して真っ暗な壕を、体中で感じました。
 今まで沖縄戦の事実をあまりにも知らなかった自分を知り、また戦争で犠牲になった人々に心を痛めながらの「うちな−ツアー」のスタートでした。
 この日、次に向かったのは、魂醜の塔・摩文仁の丘・平和記念公園。中でも摩文仁の丘に立っている慰霊塔の多さに圧倒されました。沖縄戦では、たった3ヶ月もの間に20万人以上の人々が亡くなっています。その慰霊塔に刻まれた名前を見て初めてその数の多さ、悲惨さを感じることができました。
 その慰霊塔の前で、刻んである名前を撫で、手をあわせていらっしゃったご家族と少しお話をしました。70代くらいの男性とその母親と奥さんの3人で、慰霊塔にはその男性の父親や兄弟の名前が刻んでありました。その男性は、沖縄戦のとき5歳。南部からやんばるまで、家族で歩いて疎開していたそうです。その途中、攻撃されて、家族ばらばらで逃げたこと、ばらばらに逃げた後、母親が見つけてくれるまでその場でじっとしていたこと、その繰り返しでやんばるまでたどりついたことなどを回想しながら語ってくださいました。またその途中で兄弟とも死に別れ、遺体も見つかっていないと言っておられました。大人でもこんな恐怖には耐えられません。まして5歳の子どもだったらどんなに恐ろしかっただろう…。その記憶は一生消えることなんてないのだろうと思います。

2日目
 まず、この日に向かったのは嘉数公園と佐喜眞美術館。コレクションのテーマは、生と死、苦悩と救済、人間と戦争。展示されている作品からは、作者の思いや美術館のオーナーの思いがぶつかってきました。テーマはとても暗く重いのですが、何か私たちを平和に向かって奮い立たせるような、言葉ではあらわせないようなパワーを感じました。
 この美術館からは普天間記地を見下ろすことができました。基地と隣合わせに小学校。とても複雑な思いがします。続いて嘉手納基地を展望。広大な土地に、とってもふつうに軍の飛行機が離着陸しています。こんなびっくりする光景が沖縄の日常だということに驚きました。

最後に…
 今回の平和学習旅行は、内容が盛りだくさんでハードながらも、充実感いっぱいの旅行でした。この若い時期に沖縄戦について学習できてよかったと思っています。この旅を企画し、運営してくださったスタッフの皆様に感謝の気持ちでいっぱいです。ほんとうにありがとうございました。来年も、このような機会に恵まれる方が増えるといいなと思います。


【歴史認識の大切さを再認識 保土ヶ谷分会】
 今回、沖縄へ行ったのは2回目となったのだが、前回は、ダイビングと美ら海水族館が目的であまり沖縄戦や基地のことについては深く考えずにいた。ひめゆりにも行ったのだが、あまり周りの仲間が沖縄戦に興味がなかったので一人で長時間見学するわけにもいかずに出てきてしまった。また、高校の修学旅行は北九州だったので、長崎の原爆については資料館に行ったが、沖縄のことについては教科書やその他の本で読んだ内容くらいしか知らず、ここまで深いことは何も知らなかった。今回よかったと思う点はまず、ガイドがいて事細かく説明してくれたという点である。自分一人で回っていたらたぶん表面の事しかわからなかったであろうことが、かなり深くまで知ることができた点である。初めに行った天然の洞窟などは、たぶん個人では行けなかったであろうし、また、行ったとしても、そこで説明がなければ理科の時間として、鍾乳洞の見学で終わっていたと思う。また、慰霊の日という特別な日に沖縄に行くことができ、普段は見ることのできない沖縄の一面を見ることができたのも大きな収穫であった。基地に関しては自分の中にはほとんど知識がなかったので沖縄の現状を全く知らなかったため大変勉強になった。それぞれの場所で丁寧な説明がありより深くまで知ることができたことが大変良かったと思う。
 また、参加者全員が沖縄戦や基地の事に対して興味を持っていたので、普段自分の周りではしないような戦争や歴史についての話をいろいろな人と交わせたことも新鮮であった。初めて現地の沖縄戦を経験した人から話も聞けたし、その人たちの間でもいろいろな意見があることがわかった。
 個人的には、今回のツアーは沖縄修学旅行のようでとても勉強になった。普段の観光では見ることのできないものをより深くまで見て、そして知ることができた。今自分たちが生活している社会の下には、このような歴史、出来事があったことを再認識し、今の生活をもっと大事にしなければならないことを思い起こされた。私は歴史が好きなので、今回はいろいろなことを違う角度から、より深く知ることができた。また、このような機会があればぜひ参加したいと思う。


【「命の重み」を伝えていきたい 寒川分会】
 「1泊1万円!?いいなあ、行ってきなよ。でも一番年上かもよ、スタッフよりも…」なんて、夫に言われながらも、張り切って参加してきました。
 沖縄は自分が高校生の時の24年前、家族旅行で、あとは大人になってから離島へのりゾートヘ3回ほど訪れていました。高校生の時は、何の事前学習もなく、歴史などは苦手だった私は、観光ガイドさんの話は全く耳に入らず、ただ海で泳ぎたがっているだけでした。17歳の私は「戦争なんて何よ、つまんない」と反抗的で、何も知ろうとはしませんでした。
 沖縄には、それ以降も、ただ青い海を求めて訪れていました。沖縄の人はいつでも優しく温かく迎えてくれていました。この心の温かさはどこから来るのだろうとずっと考えていました。なので、この年になって、戦争や平和について学ぶために沖縄を訪れることが出来て、本当によいチャンスに恵まれたのだと思います。一週間後にやはり修学旅行で沖縄を訪れることになっている、あの時の私と同じ年になった高校2年生の娘と話題を共有することも出来ました。
 なんといっても、印象に残っているのは「ガマ」です。降りていくときに、地上との温度差や空気の差に愕然としました。「このままずっといたら、息苦しくて死んでしまう」と思ったのですが、本当にこの中で「死」を体験していった数多くの人々の悲痛な叫びを体中で感じ取れた気がします。ものすすごい段差を上って、やっとの思いで地上に出て光を浴びた時、自分の命があることに感謝することが出来ました。
 平和の礎でのインタビューは、伯父さんの名前に向かって話しかけている男性と話をすることが出来ました。「自ら望んで軍隊に入ったんだ。無理やりやらされたんじゃないんだよ。そういう教育を受けたんだ。」と言いながらも涙ぐんでいらっしゃるのがこちらまで涙を誘われました。
 家族や親戚を大切にする心、戦争を忘れない心が、沖縄の人の心の温かさなのでは、と思いました。歴史は本当に苦手なので「知らなくてもいいんだ」としていた自分を恥ずかしくいます。沖縄で平和学習を若いうちにできることは本当に価値のあることと思います。
 私も、これから養護教諭という仕事をしていく上で、命について生徒たちと話す機会は多くあります。語る「命の重み」が沖縄の歴史を知ったことで少しは厚みが増すでしょうか。いや、人生まだこれから、というところでしょうか。皆様、ありがとうございました。


【戦争と平和を語る使命 川崎工業分会】
 6月23日土曜日、午前の便で那覇に到着しました。空港到着と同時に、なんとも言えないアノ暑さがすぐに襲ってきました。しかし不快だったわけではありません。むしろ嬉しかったのです。なぜなら、私が今回のツアーに参加したのは「この感じ」を求めていたからです。正直に言います。今回、私は都心を脱出し、気分転換を求めて参加しました。参加費わずか1万円です。即座に決めました。不純な動機ですいません。でも本当のことなのであらかじめ書いておきます。
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 沖縄平和祈念公園でのことです。水平線が見渡せる海際にあります。当日は週末、さらに「沖縄慰霊の日」ということもあり、多くの方が訪れていました。ここには沖縄戦で亡くなった全ての方の名前が(今も)刻まれ続けている碑があります。遺族や関係者が、戦死者の墓碑銘の前に佇んでいます。ある人は名前に手をやり何かを語りかけています。またある人は供え物や花束を置き、愛しそうに碑銘に水や酒をかけています。
 このように碑銘に手を触れ、様々な思いをめぐらせる多くの方は高齢者でした。その後ろで、息子や娘、そして孫ら、家族が見守っています。そのときの何ともいえない光景、深い思いが交錯した場の雰囲気が、私の印象に最も残りました。
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 またまた正直に言うと、戦争の話は苦手です。顰蹙、非難を買うのは承知で正直に書きます。あの、独特のしんみりとした「戦争の話をしている雰囲気」が苦手です。自分が悪いことをしたわけでもないのに聞いている私自身が申し訳ない気持ちになってしまいます。その場全体がセンチメンタルな感情で覆われている気がして、逃れたくなります。
 しかし、言うまでもなく、戦争、平和を語り継ぐのは教師の使命です。私は昨年まで約15年間サラリーマンをしていました。サラリーマンが職場で戦争や平和を語ることは、まずあり得ません。でも教師は、次代を担う生徒のために存存します。人類が犯した過ちを再び繰り返すことのないよう導かなければなりません。もしも教師が語らなければ、生徒たちは戦争や平和のことを考えないまま大人になり、社会に出てゆくのでしょう。
 だから、教師は、「俺は関係ないよ」などとは言えないのです。
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 ツアー当日の沖縄の気温は31度。スコールのような雨も降りました。62年前の6月も同じような暑さだったのでしょうか?公園からは海が見渡せ、水平線が広がっています。62年前の夏、その水平線には上陸を目指す米軍の戦艦で埋めつくされていたそうです。百聞は一見に如かず、沖縄を訪れ平和と戦争に思いを巡らせることは生徒にとっても意義のあることです。修学旅行には沖縄を、と思いました。
 最後になりましたが、今回のツアーを企画して頂いた関係者の皆様、平和ガイドの方々、沖縄高教組の方々に深く感謝を申し上げます。


緊急集会「想定外」地震が原発を襲った

【柏崎刈羽から現地報告 主催 原子力資料情報室
8月2日東京・総評会館 (永谷分会)】

 7月16日、これまで世界のどの原発も経験したことのない巨大地震が柏崎刈羽原発を襲った。今回の地震は今まで恐れていたことがついに起こってしまったことで特筆されるべきだ。
 総評会館の大会議室にほぼ満席の聴衆。TV局のカメラも何台も入っての報告会。問題の大きさが伝わってくる。
 最初に現地の報告をされたのは武本和幸さん(原発反対刈羽村を守る会)。ご自身の自宅も被害を受けられたそうだが、自宅は二の次にして、原発問題で飛ひ回っておられるという。柏崎刈羽原発に反対する立場から村議に当選し活動してこられた。武本さんらは79年に地震の想定・耐震性に問題ありとして原子炉設置許可取り消し訴訟を起こし、一審二審と敗訴して現在最高裁で係争中である。武本氏は7月15日(地震前日)、東京で訴訟に関わる報告会に出席し、その夜新潟へ帰られ、翌日地震に遭われたとのこと。東奔西走の毎日。
 この日の会では、武本さんらが原発敷地に入って撮影してきた写真が公開された。一部新聞などで公開された映像とおなじ場所の写真もあったが、武本さんの写真は原発細部の致命的な損傷をしっかりとらえている。例えば、1)横に伸びた直径2m余りの巨大排気筒の接続部分が地盤の不等沈下によりズレているところ。2)敷地内に一直線に走る地盤の変形は、原発直下に存在する断層面の露頭を疑わせる。3)建屋の脇につながっている消火用水の配管が周囲の地盤沈下で断裂しているが、証拠を隠蔽するため?真新しい配管でつぎはぎしている様子など。
 武本さんによると、04年の新潟県中越地震が起こって、あの地域では大きな地震はもう600年は起こらないといううわさが原発の推進側から振りまかれていたらしい。そうした根拠のない安全神話をふりまいていた無責任体質にはあきれるばかりだが、そもそも裁判でも争われている地震の想定そのものがご都合主義の固まり。この地域は昔から国内でも数少ない石油産地であったため、地殻構造はかなり詳しく調べられていたという。ところが、耐震設計の基準になった活断層は新潟県中部を南北に走る長岡平野西縁断層帯(原発西側約20km)のみ。今回活動した海底部の活断層群は、長さを「値切って」短くして「安全」と断定、地震想定に盛り込ませずにいた。訴訟の原告団はこれまで何度もその危険性を指摘していたにもかかわらず、当局側は無視し続けてきた。今度の地震で原発直下の活断層の存在が突音つけられ、当局側も言い逃れができない状況に追い込まれている。つまり武本さんらに言わせれば今度の被害は「想定外」ではなく、十分に「想定内」のものだという。
 現在武本さんたちは原発周辺で、今回動いた断層面の露頭がないか探しているそうである。敷地内路面の段差や不等沈下などは、東電によってすでに埋められてしまっているところもあるとか。証拠が隠滅されてしまう前に探し当てられるかどうか、勝負である。
 次に報告したのが、原子力資料情報室のスタッフ上澤千尋さん。原発の設置基準と比較した、今回の地震による原発施設の揺れの大きさ解析結果の報告。
 原発施設はその設置塾準において、その重要度に応じて耐震基準がAs、A、B、Oとランク分けされている。もっとも厳しいAsの施設について振動の大きさの基準は2段階あるという。施設・機器の変形に余裕があり弾性変形(変形しても元に戻る)の範囲の限界の振動をS1。それを超えて、構造物の相当部分が降伏し塑性変形(元に戻らない)するが、それでもまだ「ねばり」に余裕がある限界の振動をS2というのだそうだ。
 今回の地震による震動は、報道されているとおり、想定の3倍以上に達する場所もある。解析の結果、7つの原子炉のどれもが、地震の様々な周波数のほとんどすべての帯域において、揺れの大きさはS2を超えている。S1を超えてS2までは、施設・機器は変形しても大規模な放射能漏れを起こさないようにというのが設計の基準だそうだが、S2を超えたものは、「事故状態」「損傷状態」であり、とうてい修理して再使用するなどとは、当局であっても元々想定していないはずだという。
 上澤さんの報告では、結論として、これほどの振動にさらされた原子炉は「再起不能」であり、「廃棄」「閉鎖」すべきものだというのだ。
 なお、会場の金属工学の専門の方から次の指摘があった。S1以下の振動でも繰り返せば塑性変形は起こりうる。それが金属疲労であり、典型的なのは日航搬の事故であるという。
 そもそも自分たちでつくった耐震基準によって、柏崎刈羽原発は使用不能のレッテルを貼られたことになるが、なぜかこの点については一言の報道もない。そればかりか、何年かかかるにしても、修復・再使用しようとしているのではないだろうか?あきれる、恐ろしい、なんと形寄したらよいのか、言葉に迷う。
 柏崎刈羽原発、出力約800万kwはその発電能力では世界雄大の原発基地。そもそも、こんな場所に建つべきではない施設がつくられてしまったことに問題がある。でも、それを言うなら、そもそも地震列島日本に原発建設の適地はない。


シリーズ「共生への道」11

「共生への道」への第三歩想像力の欠如(下)

 わたしが教員になったのが1975年であることはすでに述べた。その年、サイゴンが陥落したことも。
 言い換えれば、その年から大量のインドシナ難民が発生したことを意味する。
 インドシナ難民の子どもたちが、神奈川の高校にやって来たのは1980年の頃だったか。はじめて、その話を聞いたのは友人の高校教員、Tさんからだった。
 「ヴェトナム人だってよ」転入用に対し、「ごんたくれ」揃いの高校生たちは手ぐすね引いて待っていたのだそうだ。ところが、あらわれたヴェトナムの高校生は、歳も少し上。おまけに、まさにボートピープルとして生死を彷徨ってやってきたのだ。日本の高校生たちのかなう相手ではなかった。「いじめる」つもりが、完全にその少年の配下になってしまったそうだ。
 Tさんの斡旋で、そのヴェトナム人高校生は、下宿住まいをするようになった。まだ言葉が不充分だったころ。旅に出かける大家さんからイヌを預かった。それを彼は、「ごちそうさま」とばかり食べてしまうという事件があった。「文化のちがい」とは、こういうことなのか、とTさんもびっくりしたが、大家さんの怒りをおさめるのには時間がかかったそうである。
 そろそろ進路のことも考えなくては、Tさん「将来の夢は」と彼に聞いた。即座に帰ってきたことばは「祖国に帰って『ベトコン』たちを追い払うこと」だった。
 ヴェトナム戦争といえば、アメリカの一方的な侵略戦争という理解だったわたしは、サイゴン政府のもとで、いろんないきさつの中でサイゴン政府側に付いていた人間もいるということに思いが至らなかったのである。
 解放民族戦線の兵士がサイゴン政府の軍人に、市街地で、ピストルで銃殺される写真を見たことがある。ヴェトナム市民の中には、彼を「密告」せざるを得なかった市民もまた存在したはずだったのだ。サイゴンの陥落によって、彼らの多くはもはやサイゴンを捨てざるをえなくなった。その他、100人の難民がいれば100通りの理由があるだろう。わたしは自らの想像力の欠如を自覚した。
 現任校に移り、21世紀を迎え、はじめて「南京大虐殺はなかった」とくってかかる生徒と出会った。
 バグダッドを占領している米軍兵士たちが、自爆テロに怯えながらパトロールしている映像が、毎日のように流れているでないか。彼らは恐怖と戦っている。バグダッド市民全員が「敵」に見えているはずだ。1937年の南京は、今のバグダッドだったはずだ。こんなに長引く戦争とも知らずに動員された日本兵が、恐怖の南京市でどういう行動に出たか。想像できませんか。記録がない!公文書がない!と君はいう。虐殺された人間は記録残せないよね。そういう想侮力が働きませんか、と応えた。
 鳥取県の琴浦町というところに「日韓友好交流公園」というのがある。
 その公園内に「江原道友好碑」というのがあり、その文言に「日本海(東海)」とあった。ところが、ある団体からの抗議で、町は「東海」という文言を削り取ってしまったそうだ。
 あの海のことをどのように表現するかは、かような微妙な問題があるので、国際的にもペンディングになっているらしい。わたしは、個人的にはあの海を東海とするのは無理がある、と思っている。日本海とするのが妥当だろうと思っている。でも、こんな事件がおこるから、国際的にはペンディングになるのだと思う。
 おそらくは、「日本を愛する」と勘違いしてい団体が、町に抗議したのだろうと思う。
 「ひいきの引き倒し」という表現で片づければ綺麗なのかもしれない。だが、ここにも、恐ろしいほどの「想像力の欠如」が見られる。

(川和分会)