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高校神奈川 No.583

2010年07月17日

神高教第70回定期大会
執行委員長挨拶

 神高教第70回定期大会にご参集の代議員のみなさん、学期末の厳しい日程の中でお集まりいただきありがとうございます。
 また、古尾谷神奈川県副知事、日教組中村中央執行委員長、連合神奈川柏木事務局長、県労連加藤議長、県公務労協佐藤議長をはじめとする各界のご来賓のみなさま、本日はご多用中のところ、私たちのために激励にかけつけてきていただいたことに、定期大会参加者を代表して深く御礼申し上げます。ありがとうございました。

 さて、大会の開会に当たり執行委員会を代表し、執行委員長としての情勢認識や所感をのべ、大会討議の素材としていただければと思います。時節柄軽装での挨拶をお許しいただきたいと存じます。

 「子どもは親を選べない」、私は、子どもをめぐる昨今の状況を見るに、この言葉を改めて思い起こさざるを得ません。
 親の経済的な状況も社会的な地位も住んでいる場所も、子どもには何も選ぶことはできません。
 この国が憲法によって、「すべての人々の平等」を標榜するのであれば、少なくとも、「親」によって、子どもの教育や社会的訓練の機会に格差があってはならないはずです。しかし、この国が長い間そのことに目をつぶってきただけでなく、この10年間は「自己責任」の名の下に、教育を格差拡大の手法としてきたことを忘れてはなりません。
 昨年夏の政権交代の下で、「公立高校授業料の実質無償化」、「子ども手当」が実現しました。もちろん政策的に見れば様々な課題があるとしても、政治や行政の役割がつづめて言えば、所得をどのような優先順位で再配分するかにあるとすれば、なにを優先し、何を後回しにするかという物差しを決定的に転換したものとして、まさに憲法理念に沿った選択であったと考えています。
 しかし、充分ではありません。高校無償化は、これまでも授業料の減免措置を受けていた生徒には恩恵をもたらしません。公的奨学金の多くは返済義務を課しているばかりでなく、奨学金の貸与を理由として生活保護費の削減が行われることも、制度的にやむを得ないとはいいながら、対象の生徒にとっては厳しいものです。定時制・通信制など授業料が低額の課程では税制上の控除と無償化が必ずしも見合わない、との問題も指摘されています。
 私たちは昨年1年間、組合員の皆さんの議論をいただく中で、「地域・教育支援事業」を実施し、その一部を日教組「こども救援カンパ」に、そして一部を県教委の実施する「高校奨学金基金」に資金を託する一方で、本年4月からは独自に「高校生活応援基金」を発足させ、高校生活の中で大きな経済的な負担となりながら、生活保護においても補助対象とされていない修学旅行費用の一部について補助を行うこととしました。1年目の今年は、生活保護家庭、あるいは可処分所得300万円未満の家庭から通う修学旅行前の生徒について3万円を給付するとしました。総額としてはきわめて大きな額となるものの、給付を受ける生徒一人一人にとってみれば驚くほど大きな額とは言えません。この奨学金に何と1700人が応募し、今年度の給付人数は第1次分だけで1629人に達しました。「シングルマザー、子ども4人、年収200万円」「父と死別、別居していた離婚した母は外国人労働者で病気がちのため収入がきわめて少ない」。私たちは改めて、今生徒たちのおかれている経済状況の厳しさ、「貧困」というものを認識した思いです。私たちは、この現状を多くの国民・県民の皆さんや行政の皆さんと共有したいと思います。そこから給付型の奨学金の設立をはじめとする様々な政策を提起し、その実現を図っていきたいと考えています。
 あわせて、私たち自身にも、常に「厳しい環境にいる子ども」たちの存在を意識した教育実践や学校運営をすすめることが求められています。
 安易な私費依存による設備改善や進路指導などを減に戒める姿勢が何より重要であり、そのために公費教育費の増加をはからねばなりません。また、不登校や問題行動、学業不振などに対して、その原因を本人や家族の個別的な要因だけに帰することなく、社会的な矛盾にまで思いを巡らしながら、その現実から深く学び、子どもに寄り添う教育実践が求められています。
 また、同時に「高校無償化」や「奨学金」そして「応援基金」の恩恵にも浴さない子どもたちがいることにも思いをはせねばなりません。かつて「米百俵」の精神で県立高校百校計画を推進した神奈川県が、いまや全国で最も全日制高校に進学することが困難な県となっています。公立全日制高校の定員の拡大は急務といわねばなりません。
 なお、今回の高校生活応援基金の運営にあたっては、退職者会を通じて退職者の方にも呼びかけました。県立高校に関係した行政OBや、管理職OBを含め、現在までに  件 万円のお申し出をいただきました。給付を受ける子どもたちばかりでなく、このとりくみをすすめた私たち現職も勇気づけられる思いを強くしたことをご報告し、大会参加者の皆さんと共に感謝の意を表したいと思います。


 最近5年間の新採用者の数が1000名を超えました。「仕事の流儀」というテレビ番組があります。私たちは私たちのあとに続くこの若い教職員の皆さんに、教職員としてどのような「仕事の流儀」を伝えていかなければならないのでしょうか。 
 私が新採用の時の教頭先生は、岩崎巌先生といい、ご存じの方も多いと思いますが、多くの県立高校の校歌を作詞した方としても知られています。彼は、職員室では自分で作った藁草履を履いて、私たち若い教職員の間を回っては「いいかい、教育とはしょせん生徒との一対一の関係だよ」と諭されていました。恥ずかしいことに、私はその本当に意味するところを理解したのはかなり後のことだったと思います。いま、若い教職員とこうした会話ができる教頭・副校長がどれだけいるでしょうか。それは教頭・副校長の責任だけではありません。
 「起案」「決済」などという、およそ行政の世界にしか通用しない形式を学校の中に持ち込んだあげく、それらの文書を教頭・副校長が毎日忙しそうに赤ペンで添削しているという滑稽な風景が、依然多くの現場から報告されています。私は「文書をきちんと作る」ことが、教職員の仕事だと思う若い教職員が生まれてこないか心配します。「文書をきちんと作る」ことを軽んずるつもりはありません。しかし、自分の仕事の中で何を「きちんと」することを優先するべきか、学校という現場での意思疎通の仕方はどのような方法が適切か、ということを考えないまま、赤ペンの入った文書が行ったり来たりする職場の状況は、次代の教職員の養成という視点からみても憂慮すべきと考えます。
 ある学校で、生徒の問題行動が発覚したときに、校長が、まず担当者に相当分量の「指導案」の作成を命じ、その「指導案」の決裁うけることを求めた、という報告を聞きました。おそらく問題行動の報告を受けたこの校長の脳裏をよぎったのは「説明責任」の四文字ではなかったかと推察します。指導について、まず「きちんとした指導案」を作成し校長が決済し、いつでも対外的に説明できるようにしてから、指導を行うことが必要、というのがこの校長の「流儀」だと思います。しかし、生徒指導は時間との勝負です。また相手の動きによって常に柔軟な対応が求められます。従って校長との意思疎通は必要であるとしても、それを文書にして決裁をとりながらやる、というのは、すくなくとも「学校の流儀」の中にはありません。
 このような例は極端としても、相当長期間にわたって私たちに「説明責任」が求められ続けてきた結果「実施責任」より「説明責任」、すなわちRESPONSIBILITY よりACCOUNTABILITYを優先する「仕事の流儀」が定着を始めていないでしょうか。子どもや保護者が私たちに求めているのはACCOUNT(説明)ではなくRESPONSE(応答)のはずです。RESPONSEをなにより重視する教育実践こそ、私たちの「仕事の流儀」ではないでしょうか。
 昨年来の私たちのとりくみの成果もあって、「生徒と向かい合う時間の確保」にむけた仕事の精選が少しずつ動きはじめています。今年度はさらに、評価や生徒募集・入選の問題に踏み込んでいきたいと考えています。そのうえで、仕事の精選と並んで、「仕事の流儀」という側面からも見直しをすすめる必要があると考えています。
 教員の「仕事の流儀」ばかりではありません。
 3年前の事務センター・現業の定数闘争のときに交渉の場で「下駄箱が壊れたという通報があれば修理します。しかし何度も同じ下駄箱が壊れたならば教員と連携して対処を考えます。民間委託では修理はできても連携はできません」と言った現業組合員がいました。
「特別教室の椅子を買うのでも、この学校では生徒の日頃の行動からみると座りやすさよりも壊れにくいことを優先して買う必要がある。センターの一括購入では実態にあった物品を購入することはできない」と言った事務職組合員がいました。
 私たちは学校ではたらく教職員としてどのような「仕事の流儀」を次代に伝えていくか、今真剣に考え、その条件と実践を確立していかねばなりません。


 「以下の理由から、現行の40人の学級編成の標準を引き下げることが必要。(D)国際比較の観点からみて、日本の学級規模は大きく専門スタッフは少ない。(E)教育関係者、学校現場、保護者は少人数学級を圧倒的に支持。」そして「小学校低学年については、さらなる引き下げも検討が必要」この文章は、誰が書いた文章かおわかりでしょうか。この文章は日教組の要求書でもなければ、政党のマニフェストでもありません。
 実はこれは6月18日に開催された中教審初等中等教育分科会で示された「今後の学級編制及び教職員定数の改善について」という提言の骨子です。これまでの中教審の文書の中でこのような文書を見るのは私は初めてです。
 政権交代の意味、そして、私たちの喫緊の課題である「学級定員の改善」を阻んでいたものが何であったのか、あらためて目の当たりにした思いでした。
 きわめて残念なことではありますが、私たちの労働条件や職場環境そして子どもたちの教育条件や教育そのもののあり方について、労使関係や教育条理だけでは決めることができないというのが現実です。であるとすれば私たちは必然的に政治と関わらざるを得ません。その意味で、選挙も含めた政治闘争に消極的になることは、労働組合として無責任と言わざるを得ません。
 もちろん私たちの個人としての生活は学校や教育、ということだけで仕切られているわけではありません。地域社会やさまざまな人間関係の中で生きている以上は、個人個人が政治に託する思いも「教育」や「労働」という位相だけで決めつけることはできないだろうと思います。そのことも承知の上で、あえて執行委員長として今回の参議院選挙にあたっては、日政連候補者の全員当選、とりわけ神奈川県教組出身の「なたにや正義」さんの当選を訴えておきたいと思います。そのことが国段階でも、神奈川県段階でも神高教として組合員の労働条件、子どもたちの教育条件の向上を勝ち取っていく重要な一歩であると確信するからであります。私たちが直面する「教員免許法改正」「労働協約締結権をはじめとする公務員制度改革」「高齢雇用問題」などに決定的な影響力をもつことは明らかです。
 私は昨年の大会の挨拶で「政治に自らの理想を託することは重要です。しかし、同時に政治は現実の選択です。新たな現実を実現できなければ、現状に甘んじることを選択する以外にはありません。わたしたちは当面、現実の選択としてなんとしても政権交代を実現することが重要だと思います。」と訴えました。今回は、「進んだ時計の針を前へ進めるのか、逆にもとに戻すか」という思いを付け加え、昨年よりも更に強く、そのことを申し上げておきたいと思います。
 さらに、普天間問題ばかりでなく高校無償化の朝鮮学園適用問題、定住外国人の地方参政権、選択的夫婦別姓問題等での鳩山内閣の「ブレ」を見るに、情報化社会の中で、国民の声が「世論」として形成され政権に対して影響をもつ状況が強まっていることを指摘しておきたいと思います。それは一見民主主義的に見えながら、民主主義の基本である「人権」という背骨と先見的なビジョンを失えば「大衆迎合主義」場合によれば「ファシズム」に陥る危険ももっています。当時、世界で最も民主的と言われた「ワイマール憲法」をもったドイツが、その手続きによりナチスへの道を歩んだことも忘れてはなりません。私たちの運動のさらなる強化が求められるゆえんです。

 組織について触れます。今年2010年は、様々な節目の年にあたります。朝鮮半島の植民地化いわゆる「韓国併合」100年、日米安保条約締結50年、そして私たち神高教にとっては、組織分裂攻撃50年にあたります。1960年当時、神高教はほぼ100%組織でありましたが、折からの勤評闘争、教頭法制化、などの諸闘争のなかで、丁度民間の労働組合に分裂攻撃が掛けられるのと機を一にする形で、熾烈な分裂攻撃を掛けられました。
 特昇を使った賃金差別、組合役員をねらった不当人事、第2組合への加入を餌にした管理職登用、などまさに不当労働行為のオンパレードの中で、「不当労働行為が認定される頃には神高教を解体している」と当局の担当者が豪語したと言われています。その言葉の通り神高教はわずか数ヶ月で実際には組織率50%を切ったと言われています。
県労連以外の一切の交渉・協議に応じない。職場での分会との話し合いの禁止など、現場実態、現場教職員を無視する動きが強められました。「犬と執行部は校内に入るべからず」との立て札がたてられたというのもこの頃だと聞いています。
 神高教は当時日教組未加盟でしたから、地域の労働組合とりわけ神教組・自治労などの公務員の仲間や、県評に結集する民間の仲間、そして何よりも神高教を愛する組合員に支えられつつ、当局に対してねばり強く「正常な労使関係」の回復を求めていきました。その結果、分裂攻撃は数年にして放棄されたものの、その傷跡は長く残りました。
 そのころの職場の様子は神高教30年誌に詳しく書かれていますので是非お読みいただきたいと思いますが、このような組織危機克服の原動力は何よりも「神奈川のあるいはこの学校の教育に責任を持つのは私たちだ」という誇りであったのではないかと思います。
 今、私たちは大量の退職時期、大量の新採用時期を迎えるとともに多くの課題に直面しています。そのとき私はいつもこの50年前の歴史と私たちの現状を重ね合わせながら考えます。そして「神奈川のあるいはこの学校の教育に責任を持つのは私たちだ」という誇りと実践のある限り、神高教は直面する多くの課題を乗り越えることが可能であると確信をしているところであります。そしてその誇りこそが、組合員である最大のメリットであると考えています。
 分裂攻撃50年を迎えるにあたって、私を含め多くの組合員の皆さんがその歴史を学びながら、組織の重要さと意義について再確認し、組織拡大に全力を尽くしたいと考えます。

 先般私は朝鮮高校への高校無償化を求める集会に参加し、デモ行進に参加しました。そこには多くの市民団体とともに、ちょうど日曜日であったことから、東京・神奈川の朝鮮高校の生徒が数多く参加しました。デモ隊列が東京駅近くにさしかかったとき、前方の駐車場におびただしい数の「日の丸」や「旭日旗」がはためき、そのもとから大音量で気勢を上げる声がとどろきました。我々のデモを妨害しようとする「在特会」を中心とする右翼の一団でした。「在特会」正式には「在日特権を許さない市民の会」というネット右翼集団で、ネットで呼びかけては京都の朝鮮初級学校の前で登校してくる小学生に罵詈雑言を浴びせたり、朝鮮総連への乱入や、最近では子ども支援カンパを朝鮮学園に寄付した徳島県教組の書記局に乱入し書記局員に暴行を働くなど、きわめて過激・悪質な行動で知られるようになった団体です。彼らはデモ隊列の朝鮮高校生・大学生に対して聞くに堪えない罵詈雑言を浴びせかけました。そのメンバーをみると、リーダーとおぼしき人以外は、街のどこにでもいる若者たちのように見受けられました。彼らが手に手に日の丸を振り、朝鮮高校生たちに罵詈雑言を大声で浴びせる姿に大きな衝撃を受けました。何が彼らにそうさせるのか。教育の責任、時代の閉塞、いずれにしても私たち自身の責任を強く感じざるを得ません。
 
 その一方で、新しい動きも始まっています。
 昨年秋、日本人の若者たちが、「憲法9条を東アジアの平和のため、前の戦争で多くの被害を与えたアジアの人たちへの謝罪のために選ぶ」ということをテーマに、韓国人や在日コリアンの若者たちとともに、韓国を100日間かけて歩く「ウォーク9」というとりくみが行われました。のべ100名を超える若者がこのイベントに参加したそうです。
彼らは、韓国巡礼の最終日にゴールであるイムジン河で以下のような「東アジア人宣言」を読みあげました。

 私たちは100日間という巡礼を共に過ごしながらお互いを知り合い、日本と韓国の間 にある長くて深い過去の傷みを知りました。
 そして日本人でもなく韓国人でもなく東アジア人になりました。
 私たちは東アジア人として、二度と傷つけることも、傷つけられることもない、争いの ない世界をつくります。
 恐れやうらみを手放して尊重し合い愛し合う関係をつくります。
 理想を現実に変えていくために、私にできることをやります。
 誤解や無理解を恐れずに忍耐をもって歩みつづけます。
 つながるすべての命のために平和を実現する東アジア人になります

 国家や民族を超えていく新しい時代が始まっています。このような若者に私たち教職員はどう応えるのか、労働組合はどうこたえるのか、今それが問われています。

 私たちだけでなく私たちの傍らで苦しむ人々、私たちの後に続く人たちのために、たゆまずに運動を続けていきましょう。
 今日明日の議論がそのための糧となる実り多きものであることを期待して執行委員会を代表してのご挨拶といたします。