神奈川の高校教育改革をめざして 高総検報告9 第1分冊

続・学習疎外を超えて

強制・競争の教育から 自律・協同の学習へ

1998年4月

神奈川県高等学校教職員組合
高校教育問題総合検討委員会
教育課程グループ


五十嵐雅美神奈川県立座間高校
井出浩一郎神奈川県立岸根高校
伊藤 幾夫神奈川県立厚木東高校
岡見多加志神奈川県立二俣川高校
島村 照一神奈川県立岡津高校
瀬尾  智神奈川県立立野高校
中野 直人神奈川県立都岡高校
柳川  弘神奈川県立希望が丘高校
渡辺  顕神奈川県立横須賀工業高校
高瀬 匡雄立正大学・文学部・助手
小川 眞平財団法人・神奈川県高等学校教育会館教育研究所
所属は1997年度現在

目次


これまでの検討のあらまし

  1. 教育課程の総合的検討
  2. 現行教育課程の評価と改定
    • 資料:教育課程自主編成の基本的視点
    • 資料:運動の原則・教育目標と教育課程編成の原理
  3. 教育課程試案の提起

教育課程試案の展開

  1. 教育課程の構造
    1. 教育課程の試論的定義
    2. 教育課程の領域
    3. 教育課程試案の構造
    4. タテのカリキュラム
    5. 「知育偏重」論について
    6. 共通基礎課程の量と質について
  2. タテのカリキュラム 共通必修科目
  3. タテのカリキュラム 選択必修科目
  4. タテのカリキュラム 自由選択科目
  5. ヨコのカリキュラム
  6. ヨコのカリキュラム 自主編成テーマ例
  7. 教科外活動

解説篇

解説1.自然科学系
  1. 理科をめぐる状況
  2. 自然科学教育の目的と目標
  3. 自然科学概論のイメージ
  4. 自然科学史
解説2.社会(人文)科学系
  1. 社会科の沿革
  2. 社会科の目標と学力
    • 補論:現代市民教育
  3. 日本史を含む世界史[通史]
  4. 世界現代史
  5. 政治
  6. 思想と宗教
    • 補論:「心の教育」について
  7. 現代の社会
  8. メディア・リテラシー[情報を読み解く法]
解説3.数学系
  1. 算数・数学をめぐる問題
  2. 数学史
  3. 力学と微分・積分
    • 総合解説:高校数学の改革
    • 参考資料:『すべての高校生に微分積分を』
解説4.ことば学系
  1. 母語
  2. ことばの学習の今日的課題
  3. 日本語・文学
    1. 「国語」から「日本語・文学」へ
    2. 言語の教育
    3. 言語活動の教育
    4. 「日本語・文学」のめざす学力像
解説5.ワーク・アンド・ライフ系[職業・労働・技術・生活の学習]
  1. 職業・労働・技術の学習についての検討結果資料
  2. 労働の教育をめぐる状況
  3. 技術史
  4. 一般技術
  5. 教科・家庭と総合学習「家庭・家族」
  6. 家庭科をめぐる状況
  7. 家庭[または生活の科学と技術]
解説6.こころとからだの健康学系[共通必修科目]
  1. 身体の内的構造とメカニズム
  2. 保健・体育・養護の再構成
  3. 教育内容
解説7.ことば学系
  1. 非母語
    • 補論:外国語学習についての断想
解説8.芸術系
  1. 芸術教育における「学力」問題
  2. 芸術教育の三要素
  3. 鑑賞の学習
  4. 選択しうる芸術部門の拡大
  5. 芸術系の共通学習課題・芸術史
  6. 修了制作
解説9.こころとからだの健康学[選択必修科目]
  1. 各種スポーツ
    • 参考資料:授業の主目標に対応したスポーツ実技指導の類型
  2. 各種スポーツ理論
  3. 各種スポーツ史
解説10. 平和教育
  1. 平和の概念と平和教育の内容・方法
  2. 平和教育の主要な課題とねらい
  3. 具体的な教育内容例
  4. 平和教育と学校の体制
  5. 「研修旅行」〔修学旅行〕について
  6. 部活動や地域ゼミナールによる平和学習
解説11. 人権教育
  1. 基本的人権とはなにか
  2. 人権教育とはなにか
  3. 人権教育の基本構造
  4. 具体的教育内容の一例
  5. 学校の中の生徒の人権
解説12.環境教育
解説13. 開発教育
解説14. 生と死と性の教育
  1. わが国の性をめぐる状況
  2. 学校教育の対応
  3. 生と性をの教育の実践
  4. 死の教育
解説15.基礎的総合的職業教育
解説16. 総合学習「家庭・家族」
解説17. 総合学習「コンピュータと情報化社会」
解説18. 日の丸・君が代

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これまでの検討のあらまし

1.教育課程の総合的検討

 私たち(高総検・教育課程グループ)は、長年にわたって、教育課程とそれをめぐる諸問題の検討を重ねてきた。そして、高校教育課程の改革案を、主として、『それぞれ自前の教育課程改革を』(1988年6月刊)と『学習疎外を超えて』(1991年6月刊)に報告した。※ その概要を以下に略述する。

『それぞれ自前の教育課程改革を』

PART I いま教育課程はどうなっているか。

  1. 教育課程の問題とは何か。
    1. 教育課程の問題とはなにか。
    2. 教育課程はだれが、どのように編成すべきか。
    3. 教育課程の領域と構造教科外活動の変質・形骸化
  2. 教育課程問題の歴史的背景と、今日の教育(課程)政策の基本問題
    1. 教育課程問題の歴史的背景。
    2. 今日の教育(課程)政策の基本問題。
  3. 神奈川県立高校(普通科)の教育課程はどうなっているか。

PART II いま高校生はどうなっているか。
  1. 青年期の発達課題と現代の青年の実態。
    1. 青年期の発達課題。
    2. おとなたちは現代の青年をどうみているか。
    3. おとなたちの青年観をどうみるか。
  2. 高校生の学力はどうなっているか。
    1. 教育政策が学力格差をつくる。
    2. 「低学力」の中身。
    3. 「受験学力」は不滅か?

PART III 教育課程のどこをどうしたらいいか。
  1. どこから始めるか。
    1. 改革の起点は生徒の中にある。
    2. 教育課程問題の分析の公式。
    3. 具体的な検討のポイントと手順。
  2. なにが改革の焦点か。
    1. 教育課程改革の基本視点学校(教育)回生のキーワードは「自主性復活」。
    2. 教育課程改革の中心的方法。
  3. 教育課程・時間割編成・年間計画の試案

PART IV 教育評価と教務規定の基本はどうあるべきか。
  1. 「教務規定アンケート」の結果から。
    1. 教務規定を「生徒指導」の道具に使っていないか。
    2. 合理的な評価がおこなわれているか。
    3. 教務規定は公開されているか。
  2. 教育評価と教務規定
    1. 指導要録について
    2. 通信簿について
    3. 高校教育と評価の問題。
    4. 再び、教務規定について教務規定の3原則


『学習疎外を超えて強制・競争の教育から自律・協同の学習へ』
  1. はじめになぜこの書はつくられたか:本要領の基本的性格。
  2. 教育・学習とはなにか。
    1. 人権と教育・学習の理念についての歴史的・世界的到達点に学ぶ。
    2. 現代の教育・学習の特徴。
  3. 教育課程とは何か。
    1. 教育課程の試論的定義。
    2. 教育課程の構造(領域)。
  4. 学習指導要領と教育課程との関係はどうあるべきか。
    1. 学習指導要領と教育課程との関係はどうあるべきか。
    2. 政・「教」分離の原則。
  5. これからの学校はどのような役割をもつべきか。
    1. これからの学校の役割。
    2. 教職員の任務。
  6. 教育課程改革に先行ないしは並行すべき諸課題の検討と運動
  7. 教育課程政策を検討する全教職員による教育課程政策の学習と検討。
    1. 日本の教育を貫く二大原理国家主義と能力主義の学習と検討。
    2. 文部省学習指導要領の歴史の検討。
    3. 1990年代以降の教育体系再編成政策「生涯学習体系」の検討。
  8. 教育課程自主編成運動に学ぶ。
    1. 自主編成運動史の学習。
    2. 民間に蓄積された教育実践・教育研究の学習。
    3. 世界の教育改革運動の学習。
  9. 教育課程自主編成組織を設置する。
    1. 教科課程編成小委員会の設置。
    2. 教科外活動編成小委員会の設置。
    3. 生徒・父母の意思・要求を吸い上げ調整する機会の確保。
  10. 現行教育課程を評価し改訂する。
    1. 教育課程の評価。
    2. 状況をつかむ社会と学校と生徒の状況を性格に把握する。
    3. 教育課程を改定する。
  11. 教育評価を改革する。
    1. 教育評価の改革。
    2. 教務規定の改革。
    3. 指導要録の改革。
    4. 内申書(調査書)の改革。
  12. 教育課程試案。
    1. 教育・学習によって獲得されるべき能力とは何か。
    2. 教科課程。
    3. 教育課程・時間割編成・年間計画の試案。
    4. 教科外活動。
  13. 教科・教科外活動指導を改革する。
    1. 授業を改革する「おぼえる」学習から「考える」学習へ、そして「討論する」学習へ。
    2. 教科外活動の指導を改革する自主的・自治的活動の育成へ。

 ※また、臨教審(臨時教育審議会)や中教審(中央教育審議会)・教課審(教育課程審議会)等が提案し、文部省・各教育委員会が実施した、いわゆる「高校多様化政策」のうち、「単位制高校」問題については、神高教討議用資料『単位制高校なんていらない』(1989年9月刊)・『高校神奈川・287 号』(1991年6月5日付)他に、「専門コース制」問題については、神高教討議用資料『コース制を考える・ああせいこーすせいは大きなお世話』(90年11月刊)・『高総検レポート22』他に、「総合学科」問題・「新学力観」問題については、『高総検報告[:新多様化・総合学科・新学力観』(1995年2月刊)、『高総検レポート26・28』他に、「入試制度の多様化」問題については、『高総検レポート21・23・24』他に、「新・多様化政策」全体像については、『高校神奈川・332 号』(1994年1月15日付)他に、それぞれ高総検・教育課程グループとしての分析結果を報告した。

2.現行教育課程の評価と改定

 教育課程改革の具体的な手順として、上記『学習疎外を超えて』p.13−16で提案した部分を、以下に再掲しておく。

 (1)教育課程の評価

 「それぞれの学校においては、それぞれの教育課程が作られ、それに基づいて教育が行われている。この教育課程は、絶えず、教育課程構成の原理や実際の指導に鑑みて、それが適切であったかどうかが評価されなければならない。評価といえば、学習成果の評価のみ考えやすいが、教育は、そのあらゆる部面にわたって絶えず評価される必要がある。教育課程を評価することによって、われわれは、一つには、その教育課程の目指している教育目標が、どの程度に実現されているかを知ることができる。また二つには、教育課程の改善と再構成の仕事の資料を得ることができる。」[1951年版『文部省・学習指導要領・一般編・試案』]

(2)状況をつかむ−社会と学校と生徒の状況を正確に把握する
 本書2の(2)(p.4)で触れたように、今日の教育・学習の実態を規定している諸条件(教育制度を決定する条件・教育状況を決定する条件・教育関係を決定する条件)の的確な分析・検討なしに、私たちは、最もささやかな改良さえも成すことはできない。
 ただし、私たち教職員の役割は、学者・評論家諸氏のように一般論としてそれぞれの状況や現象の「平均値」や「最大公約数」的解釈を導き出すだけでなく、私たちが直接する生徒たち一人ひとりの内部に流れ込み、また時として「問題」となって吹き出すそれらの相を、具体的・個別的に把握することである。そして、そのとき留意すべきことは、(a)各分野・各レベルの問題を、個別に捉えるのではなく、構造的に、相互作用的な連関をもったものとして捉えること、(b)問題を単一的・非文脈的に捉えるのではなく、因果関係をもった時間的パースペクティヴのなかに置いて、つまり歴史的に捉えることである。

(3)教育課程を改定する

 A.改革の起点は生徒の中にある
 (各校の教育課程の再編は、文部省学習指導要領の改訂や政府の文教政策の転換に対応した各教育委員会の教育政策の変更・修正などが契機になるケースがほとんどであろう。
いわば「上からの」、外在的な動機による改定である。しかし)『それぞれ自前に教育課程改革を』のp.5で述べたように、本来、「生徒の成長・発達過程における諸課題(あるいは広義の諸問題)の解決が、教育課程改革のアルファでありオメガ」である。何よりもまず、私たちの目の前にいる生徒たちの状況を見きわめることから、検討が始められねばならない。学習の状況、生活の状況、こころと体の状況、等できるかぎり多面的に、生徒一人ひとりの、そして、集団共通の、発達課題・教育課題を取り上げ、それぞれの根源的矛盾を剔出するように努めることが肝心である。

 B.教育課程問題の分析の公式
  教育課程問題の分析は、一般的には、つぎのような段階をふむことになろう。

  1. 問題は何か。問題状況を把握する。
  2. 教育課程のどの領域の問題かをつかむ。主として、教科の問題か、教科外の問題か、双方か。
  3. どの層の問題かをつかむ。主として、教育課程政策に属する問題か、学校の全体計画レベルの問題か、各教職員レベルの、教科・教科外指導(計画)上の問題か。
  4. 現行教育課程のどこに問題(欠陥)があるかを検討する。
  5. どこを、どのように改革すれば、問題の解決に結びつくかを検討する。
 C.具体的な検討のポイントと手順
  問題状況とその分析に基づいた現行教育課程の検討は、教職員各自の最も身近なところ、つまり、教科指導や教科外指導を見直すことから始めたい。そして、検討の対象を順次、教科内(科目間)、教科間、各教科外活動、教科外活動間、教科と教科外活動の関係へと広げてゆき、問題の全体構造を明らかにしてゆく。それを通して、諸問題の本質に対する改革目標が浮かび上がり、次第に、教育課程再編成の基本方針がしぼられてくるだろう。

(1) 問題点を正確に把握する。
 a. 各科目内を徹底的にあらいなおす。
 生徒たちの状況に対して、教育内容(教材)の選択・配列・教育方法などは適切か。新鮮な問題提起をしているか。教科書を単調に消化するだけで、教科指導が事務的・機械的になり、マンネリズムに陥っていないか。各科目の学習の人間的・社会的意義が生徒に理解されているか。日本の学校では、たとえば「ゲームのルールばかり教え込もうとして、ゲーム自体を楽しむことをさせない」といわれるが、その傾向はないか。「系統的」とは本来「すでに学んだことの必然的な発展として新しいことが学ばれること」をさす。つまり「既習内容それ自体の内部に、次の学習への推進力が含まれていなければならない」と言われるが、1回1回の授業が年間を通じて、系統的に、組み立てられているか。授業毎、単元毎、学期毎、学年末の総括はきちんとできているか。わかる授業・たのしい授業を心掛けているか。私たちの生徒は、授業中「死んで」いないか。
 b. 教科内(科目間)の関連性・体系性を検討する。
 各教科の内部で、科目間の関連性・体系性を考えたうえで、科目の設置、必修・選択の別、学年配当、各科目の教育内容の構成、各科目の単位数などが決められているか。科目セクト主義に陥ってはいないか。
 c. 教科間の関連性・系統性を検討する。
 教科課程全体の構造性が考慮されているか。各教科間の内的・有機的相互関連や系統性を検討したうえで、教科課程が組成されているか。共通基礎課程と選択科目の構成・単位数と系統制の検討は合理的になされているか。教科セクト主義や教科エゴイズムに汚染されていないか。
 d. 各教科外活動を徹底的にあらいなおす。
 教科外活動は形骸化していないか。それぞれの教科外活動において、自主的・自治的行動能力の育成が目的意識的に計画的に行われているか。生徒会活動や学級活動が、自治活動としてしっかり位置づけられているか。指導者は、自主性と自治能力の育成という目的に沿って充分に検討された指導計画をもち、それに従って指導しているか。自主的・自治的活動が、管理主義のもとで、窒息させられていないか。「ある集団が自治を成立させているかどうかの尺度は、集団みずから自己を統制し管理しているかどうかであり、その統制・管理が民主的であるかどうかの尺度は、統制・管理が成員の自主的な意志形成と自発的結集とを基礎にしているかどうかである。」クラブ(部)活動、とくに体育系の指導が
一部の教職員に押しつけられていないか。体育系部活動等が、顧問教職員コーチ先輩後輩の専制的支配体制のもとで、根性主義・勝利第一主義の貫徹に終始していないか。
 e. 教科外諸活動の体系性を検討する。
 教科外の諸活動が、相互に、関連性と体系性をもって構成され、系統的に指導されているか。
 f. 教科と教科外活動の関連性と統一性を検討する。
 知識や技術・感性の形成を主たる任務とする教科学習(指導)と、行為・行動能力の形成を主たる任務とする教科外活動が、バランスよく構成され、民主主義的思想と民主主義的行動能力の統一をめざし、目的意識的に、計画的に指導されているか。

(2)諸問題の本質(分析の結果)に対して、改革目標を設定し、改革の大綱をつくる。
 a.(問題の分析を通して、その本質をつかみ、その解決に向けて)学校としての具体的改革目標(学校・学年・学級の教育目標)を設定する。
 b. 目標に向けて教育課程改革の大綱をつくる。
  なんのために(目的)、なにを(内容)、どれくらい(量)、どこまで(質・程度)、どういう順序で(配列・編成)、どのように(方法・過程)学習させるか。

(3)大綱にそって教育課程を編成する。
 a. 教科・科目と教科外諸活動を構成する。
 b. 共通基礎課程と選択科目を構成する。

(4)教育課程の各部分の指導計画を立てる。
 a. 各教科・科目の具体的指導計画を立てる。
 b. 各教科外活動の具体的指導計画を立てる。

資料:教育課程自主編成の基本的視点と運動の原則(日教組・中央教育課程検討委員会)
  1. 憲法・教育基本法の精神にそったものであること。
  2. 子どもの全面発達を保障するものであること。
  3. 科学的・系統的で精選されたものであること。
  4. 組織的・集団的に進めなければならないこと。
  5. 父母・地域との結びつきを深めつつ進めること。
教育目標と教育課程編成の原理(日教組・中央教育課程検討委員会・報告『教育課程改革試案』T総論の要約)
  1. 教育課程を編成するには、一般的な教育目標と人間像の確立が必要である。また、それを具体化するためには、学校教育の目標(学校・学年・学級のそれぞれの諸 条件にあわせた目標)が必要である。私たちの一般的な教育目標は、憲法・教育基本法にのっとり平和で民主的な社会の主権者の形成、真理と正義を愛し、差別を許さず、労働を重んじ、感性ゆたかで、生命力にあふれた、そして国際連帯を求める人間の形成である。
  2. 教育課程編成の原理としては、次のものがある。
    1. 子ども・青年の発達を全面的に促す豊かな諸活動を、学校・家庭・地域で保障することが必要である。
       学校では、a発達段階に応じて組織される種々の分野の文化遺産と、子ども・青年たちが当面している生活の課題についての学習活動と、bさまざまな分野の自治的・集団的活動を保障しなければならない。その際、cすべての子ども・青年に対して、学習しなければならない基本について確実に到達させること、d学習集団の中で、それぞれの子ども・青年が、個性を発揮して学習していけるようにすること、e学習していることの意味や価値が互いにわかるようにすること、が必要である。
    2. 教養の内容は、国民が共通に必要とする教養を土台に、個性と実生活に対する興味と関心に応じて、a画一的でなく、b個性的・多面的なもので、cしかも能力・発達に差別をもちこまないものであることが必要である。
    3. 教育評価の改善と関連させることが重要である。
    4. 教育諸条件や学校環境改善と関連させることが重要である。
3.教育課程試案の提起

 上記のように、教育課程(問題)を、原理的側面から実際的・実践的側面まで、可能なかぎり広い角度から、総合的に検討を加えたうえで、現場の教育課程改革の一つの試案として、上掲の2つの報告書に、高総検・教育課程グループが構想したプログラムの骨格を示した。(ちなみに、これは、そのような総合的検討の、いわば「副産物」であって、それらと係わりなく独立に成立するものではない。重要なのは、その総合的検討内容の総体である。)以下にその部分を『学習疎外を超えて』から引用・再掲する。

 ■ 教育課程・時間割編成・年間計画の試案

 各校の教育課程改革・自主編成の参考として、教育課程・週時間割編成・年間計画などに関わる若干の試案を提出しておく。(なお、この試案は、全日制普通科を念頭に置いて構成されている。)

  1.  教育課程を、教科と教科外活動の二領域で構成する。
  2.  教科外活動は、自主的・自治的活動を中核として体系的に構成し、いわゆる「生徒指導」主導型を採らない。
  3.  教科課程の構造を改める。
      a 教科を次のような「系」に再編成する。
       (ア)自然科学系 (イ)社会科学系・人文科学系 (ウ)数学系 (エ)「ことば学」系(母語と非母語の学習で構成) (オ)芸術系 (カ)職業・労働・技術・生活の学習 (キ)「こころとからだの健康学」 (ク)その他
      b 各系は、それぞれのよって立つ科学・芸術・技術の体系と、生徒各人の発達のすじ道と段階に応じて、また他の系との内的連関に留意しながら、教科内容を構成し、科目に編成する。
      c 上記のような系の束を、仮に「タテのカリキュラム」と呼べば、それらに横断的にまたがる、学際的・統合的・総合的な教育(学習)テーマ群を、いわば「ヨコのカリキュラム」として編成し、総合学習や今日的教育(学習)課題・青年期にある生徒個人の興味・関心などに応じてゆく。

     図1 教育課程概念図

                      〔タテのカリキュラム〕



    〔ヨコの
     カリキュラム〕









     

     





     

     
    術職
    ・業
    生・
    活労
    の働
    学・
    習技
    康心
    学と
    系体
     の
     健

     

     




     平和教育                  
     人権教育                  
     総合的職業教育                  
     環境教育                  
     性と生と死の教育                   
      etc.                   
                       

  4. 教科課程は、共通課程と選択課程で構成する。
  5. 共通課程は、共通必修科目と選択必修科目で構成する。
  6. 選択課程は、原則として、自由選択制とし、類型・コース制は採らない。
  7. 共通課程の総単位数を60単位程度とし、その他はすべて自由選択科目とする。[図2]
  8. すべての高校の卒業認定総単位数を80単位程度とし、それ以上の単位取得は、各生徒の意思・希望・必要に任せ、各校の教育課程は、それらに出来るかぎり応じられるように反省する。
  9. 選択課程は、20〜30単位程度とし、その科目内容・時間数・設置学年・学習集団構成・学習形態など、フレキシブルに決めることができるようにする。
  10. 自由選択科目は、系統的発展を考えた科目設定の他、総合的・統合的・学際的学習や自由研究などの開設も含める。
  11. 自由選択科目のなかに、生徒たちの要求や希望を生かしたものも設置できるようなシステムをつくる。
  12. 選択科目の選択に関わるオリエンテーションとして、教職員を中心とするアドヴァイス制度を設ける。
  13. 各教科・科目の学習における個別的な「つまづき」や「遅れ」に対しては、それぞれの授業の課程・過程に、回復の手だてを組み込むことが第一に重要であるが、次の段階の手だてとして、自由選択科目のなかに、自由参加の復習クラス・治療クラスを設けることができるような条件をつくっておく。
  14. 共通課程という土台のうえに、生徒各個人の固有な関心に応じた学習の深化・発展として、多様な自由選択科目を配置するだけでなく、教科外の文化活動・研究活動などの自主的活動やクラブ活動・サークル活動なども、生徒の個性分化に応ずる場として位置づけ、積極的に活用してゆく。
  15. 生徒の校外の自主的文化活動などに対して、管理主義的な制約をしない。
  16. アルバイト(※ヨコのカリキュラムの「基礎的総合的職業教育」の項を参照。)
  17. 共通課程は、できるだけ、月曜日から金曜日までの午前中に設定し、自由選択科目と教科外活動を午後に設定する。土曜日は、週5日制の完全実施までは、教科外活動のみにあてる。[図3]

    図2教科課程の構成
    共通基礎課程
    60単位程度
    選択課程
    20〜30単位

    共通必修科目


    選択必修科目


    自由選択科目

    図3 週時間割概念図
    図3 週時間割概念図

  18. 年間の授業計画においては、各学期とも、各学年・各クラス全員を対象とする一斉授業日は、比較的早期に切上げ、個別指導あるいは小グループ指導のための日程を充分に確保できるようにする。

    図4 年間計画概念図
    図4 年間計画概念図


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教育課程試案の展開

1998年 改訂

1.教育課程の構造

 (1)教育課程の試論的定義

 教育課程とは、すべての子どもの基本的人権としての学習権を保障するために、個人の尊厳という無条件の絶対的平等のうえにたって、各人の自然的差異(条件)による固有の発達の必要に応じ、準備される教育(学習)のプログラムである。

 (2)教育課程の領域 

教   科   ←(相互作用・相互浸透)→   教 科 外
文化(科学・芸術・技術など)の基本を、子ども・青年に、各人の発達のみちすじ に応じて、体系的に伝えてゆく領域。彼らは、これを通して、みずからの世代の新しい文化を創造する準備をする。 学級会・生徒会・クラブ活動などの自治的活動、文化活動・研究・レクリェーションなどの自主的活動、その他における自主的・自治的・共同的・組織的な行動能力の獲得をはかる領域。子ども・青年は、これを通して、友愛・共感・連体・協同性・責任感など を育みながら、民主主義的行動能力の質を更新し、高めることをめざす。
知的学習(主として言語を媒介とした認識)の指導・援助:教科指導・学習指導、鑑賞・形象の指導・援助、技術・技能の学習の指導・援助。 行動・行為の学習の指導・援助、学校に関わる個別の生活指導。
陶冶:知識・技術・鑑賞力・形象力を育てる側面の教育・学習。 訓育:意志・感情・性格特性・行動能力(とくに、平等な権利をもち義務を負う各人の要求を民主的に調整・組織化し、各種共同体を主体的に管理・運営する能力、自治的能力)などの人格特質を育てる側面の教育・学習。
学力の開発 (狭義の)人間性の開発
教科・教科外の有機的統一
民主的人間性(民主主義的思想と民主主義的行動能力の統一)
精神労働と肉体労働の分裂を克服し、現代の労働を人間的なものにつくりかえ、それを主体的に担いながら、「可処分時間」(余暇)の内容もまた自由に創造しうる全面的・調和的・個性的に発達した主権者

 (3)教育課程試案の構造
 私たちの教育課程試案は、「タテのカリキュラム」と「ヨコのカリキュラム」から成る。(両者の関係については、後述する。)
 タテのカリキュラムは、誰にも共通して必要な教養の基礎をつくることをめざす共通基礎課程と、各人の主体的条件に応じて学習分野・対象を選びとってゆく選択課程とで構成される。共通基礎課程は、共通必修部分と選択必修部分とに分かれる。
 共通必修課程では、ますます相互の関係が緊密化し、(環境問題や貧富の格差の拡大など)課題の共通化が進みつつある全世界の一員として、現代日本に生活する(そして社会人・主権者への自立の準備をしている)一個の人間として、進路の別なく、共通に必要な教養を学習する。選択必修課程では、共通必修課程と同じ位置づけで、しかし、各生徒の特性・興味・関心・必要に応じて、後に掲げる3分野の内から、自主的に対象を選んで学習する。
 選択課程では、それまでの様々な学習の成果を土台として、各自の特性・興味・関心・必要・進路希望などに応じ、分野・対象を主体的に選び、個別的・重点的に学習を深めることをめざし、あるいは、進路分化への準備をする。
 ヨコのカリキュラムについては、後述する。
 このようにして、人間として現代を自律的自立的に生きるために共通に必要な基礎的教養を身につけると同時に、各人の内部に、自らのアイデンティティと進むべき方向を模索しつつ、さらに自発的に学習を発展させる意欲とそれを可能にする諸能力を育て、教養の統一化(基本的教養の共有)と個性化を図る。

 (4)タテのカリキュラム
 教科の究極の目的は、客観的実在(自然と社会)についての科学的・法則的認識の形成にある。それは、人類の文化遺産とその今日における発展としての科学・芸術・技術の基本を伝達することにより、現実的に可能となる。科学的・法則的認識の形成にとって先ず前提的に重要なことは、客観的実在の諸側面が、社会体制からの圧力による歪みを極力排除し、真理・真実の体系として把握されることである。同時に、教科は、憲法・教育基本法の基本理念をベースに現代社会を生きてゆく者として必要不可欠な内容を総合的に最低限充たしたものでもなければならない。
ここで、タテのカリキュラムと仮称するものは、科学・芸術・技術の基本に関する系統的な学習とそれらの今日の到達点への接近という側面を重視し、認識対象と認識方法の差異に応じ、学習者の発達段階・興味・関心・必要・進路希望、教育諸科学の成果なども考え合わせ、各教科を編成したものである。
 また、自然科学一般に共通な方法として、分析と総合、あるいは、解体と再構成の方法があるが、これは、社会科学や人文科学でも、基本的には、有効な方法であろう。(分析と総合・解体と再構成のプロセスは、客観的実在全体を分割し対象領域別に各科学を構築し、後にその成果を統合して全体の理解に役立てる場合にも、また、それぞれの科学内部での手続きにも当てはまる。)教科の学習でも、原理的・原則的には、つぎのような形[注2]をとることが望ましい。

なまの経験 →〔分析〕→ 単純化された要素 →〔総合〕→ 組織され法則化された認識

相互関係をもつ体系 →〔解体〕→ 集合 →〔再構成〕→ 相互関係をもつ体系
 教科の学習は、後に述べるヨコのカリキュラムの学習の土台ともなる。

〔注〕教育課程については、高総検報告『学習疎外を超えて』p.19〜22、52〜57も参照。

(5)「知育偏重」論について
 我が国の学校教育への批判の一つとして、よく「知育偏重」ということが挙げられる。しかし、実際は、偏重どころか、本来の知はほとんど育てられていないと言っていい。それは、子ども達の学力についての国際比較調査などでしばしば指摘される、日本の児童・生徒の学力の歪み(たとえば問題設定能力や分析力・応用力・想像力・創造力の乏しさ、実践能力の欠如・学力と生活との乖離など、そして、その歪みが年齢が上がれば上がるほど大きくなる傾向)や日本の大学教育に対する国際的評価の低さ、大学生の主体性や社会性の欠如・幼稚性、などからも明らかであろう。
 日本の学校と学習塾・進学予備校で子ども達の頭の中に詰め込まれているのは、実は、世界を読み解き・つくり変え・人間性を開発するための、実践力を備えた知識ではない。それらは、体制のイデオロギーを体現し法的拘束力があるとされる文部省学習指導要領と教科書検定およびその枠内での各種の試験などによって規格化・正当化され、政治の一装置としての学校(教育課程と教師に教育過程)を通して配給されることによって権威づけられた、つまり制度化された「知識」(より実体に即して言えば、非体系的「知識の剥製」)と、各種の試験に即応するためのその運用テクニックに過ぎない。(そうした「学力」は、用が済めば大抵剥落してしまうということも、教育学的調査によって実証されている。)
 この、「制度知・学校知」とも呼ばれる、子ども達の生活や内的要求から遊離しほとんど記号化した無機的な「知識」は、まず、測定と評定の対象・選別と序列化の手段として機能する。受験体制と学校ヒエラルキー(格付けされ序列化された学校階層構造)が、それに対応する。
 学校と学習塾・進学予備校で、それらの「知識」を機械的に記憶する競争が、教育の名のもとに子ども達に強制される。その結果は、各種のテストによって繰り返し測定され、各人の能力全体の指標として(さらには人格として)合理化されて、それなりの学校階層への配属の資料(根拠)となる。
 学校ヒエラルキーは、また、「知識」の配分機構として機能する。受験(学力)競争の「勝者」に、より多くの「知識」が配分される。「知識」がヒエラルキーの上層に専有され、「知識」の蓄積量によって、個人の格付け・序列化が行われる。「知識」の蓄積量は、やがて、企業社会や学校化(学校的価値の浸透)した全体社会の階層を上昇する際に効力を発揮する。
 こうして、「知識」は、能力主義と競争原理を軸として構成されている社会の序列秩序を成立・維持させる因子となり、それを支配する手段となる。情報化社会とは、メディアの発達によって一層促進された「知による支配」社会の別名である。独占された情報(知識)は、いまや富と権力のもう一つの源泉である。
 以上のような状況を背景にもつ「知育偏重」論は、単なる、教育全体の実態に対する意義申し立てではない。「知育偏重」論のあるものは、知識についての認識の不足からきているが、ほとんどは、体制が組織し家族まで巻き込んだ能力主義的競争の過熱症状を和らげるための鎮静剤の役割を負っている。鎮静剤をばら蒔くのは、「無知な」大衆の「過剰な」進学欲求を抑制し、教育への公的出費を抑えるためである。また、大抵の「知育偏重」論は(分際をわきまえ、言動を慎み、和を重んじ、社会秩序を保つことを求める)「徳育重視」の主張とセットになっている。つまり、「知育偏重」論は、実態は、(エリート以外は知育は分相応に、とする)知育軽視と表裏を成しており、政策的方略として、「徳育重視」という本論を導き出す前置きの役目も果している。(「倫理・道徳」が支配の道具になるのは、古今東西を問わない。)「知育偏重」と言い「徳育重視」を唱える声は、「個性重視」教育政策(偏差値よりも人柄を!低学力も個性!個性に合った特色ある学校へ!)、や「新学力観・評価観」*、「心の教育」などの道徳教育、さらには、「戦後教育画一化・悪平等論=学校教育体系複線化論=エリート教育推進論」などと同じイデオロギーから発している。
 しかし−後に、社会(人文)科学系の解説の「心の教育について」の項で詳述するように真の道徳性は真の知識の獲得とともに形成されるものである。
 私たちは、「知育軽視徳育重視」の教育政策を批判的に検討しつつ、人間的潜在的諸能力**の発現と生活主体・権利主体としての発達のエネルギー源となるような、実質的な知(文化の基本的な構造)を、すべての子どもが、自己に同化し統御し、さらには変革しうるように、教育課程を編成し、教育実践を積み重ねる必要がある。

 *「新学力観・評価観」については、『高総検報告[(第1分冊)新多様化・総合学科・新学力観』を参照。
 **勝田守一氏は、能力を、1)生産・労働・職業の技術に関する能力、2)人間の諸関係を統制・調整・変革する能力、3)科学的能力(自然と社会についての認識能力)、4)感応・表現能力の四つのカテゴリーに分け、「それらは相互に影響しあい浸透しあいながら、しかも独自で固有な本質的性格をおびている」としている。そして、それらのうちでも認識能力が他の能力に対して特殊な位置にあり、これらの諸能力を統合する人格の体制を支えるものとして、5)運動能力と6)言語能力を挙げた。(詳しくは、勝田守一『能力の発達と学習』国土社、高総検・教育課程グループ『学習疎外を超えて』を参照)
 角度を変えれば、1)と2)は実践力、3)は認識と思考の力、4)は想像力と創造力、に置き換えることもできよう。

 (6)共通基礎課程の量と質について
 私たちの教育課程試案では、すべての高校の卒業に最低限必要な総単位数を約80単位とし、それ以上は、各校の教育目的・目標や各生徒の必要・希望・興味・関心などに応じて、適宜、(卒業単位に含めない)増加単位として自主的に設定するというのが、原則になっている。また、そのうち60単位程度を、共通基礎課程とした。
 第15期・16期中教審答申とそれを受けた教課審「中間まとめ」の基本的方向は、学校5日制の完全実施に合わせて小・中・高の総授業時数を大幅に削減し、さらに、早期選別・棲み分けの手だてとしての教育課程内の複線化のために、小学校段階から選択制を導入し、中学校の選択履修幅をいっそう拡大し、高校は選択制を基本とする(言い換えれば、共通課程を大幅に削減する)というものである。それに対し、私たちの案が、共通課程として60単位程度を確保するとしているのには、明確な理由がある。
 ひとつの民主主義社会を維持・発達させるためには、それを構成する一人一人が、必要最低限の教養を基礎にした共通の価値観(民主主義思想)と実践能力(民主主義的行動能力)を備えなければならない。言い換えれば、誰もが、必要に応じて経済・政治・文化を担いうるように、等しく、主体的・客観的条件が整えられているというのが、民主主義社会の理念である。これが、共通課程を重視する根本的理由である。
 すなわち−
 1 誰もが、生存権・発達権・幸福追求権の基底をなす「教育への権利(学習権)」をもつ。それを差別なく保障するためには、原則として、誰にも、教育への公平な機会と共通の学習内容が与えられねばならない。私たちは、図式的に言えば、高校教育の前半期までを共通基礎課程期間と考える。そして、後半期から、自由選択制を採る。
 2 ただし、「共通教養の習得と個性的発達とを機械論的に仕分け、共通教養は共通教科で、個性的発達は選択教科でという捉えかた」はしない。共通課程での学習の中で、まず、子ども達の自由で多様な発想が大切にされ、自由で多様な学習への参加の仕方・学習目標への自由で多様なアプローチの道筋が保障され、学習集団内部の相互作用のうちに各生徒が主体的・個性的に共通教養を獲得できるようにすべきである。そして、共通課程の学習の深化・発展としての自由選択科目の学習でも、そのことが、いっそう追究される必要がある。
 3 生徒の個性を育てるとして、学校の「個性化・特色化」、すなわち学校別の教育課程の特殊化・種別化と、学習の「個別化」、すなわち、一面では、学習から社会的要素を抜き取り、もっぱら個人的利益に学習の動機と成果を結びつけさせる教育課程政策、他面では、能力主義のもとで、何重にも階層化され細分化された教育目標に対応する教育課程政策(学力別学校編成・学級編成など)、が採用されている。しかし、それは、むしろ、学校単位でみれば新たな教育の画一化であり、学校教育体系全体からみれば新たな教育的差別・選別システム化の方向である。
 (ただし、私たちは、どの子どもにも、一定期間内に共通課程の内容をまんべんなく修了させることを、必須と考えているわけではない。子どもによっては−とくに個性の分化が著しくなる高校生段階では−、特定の分野に興味・関心が集中し、そこでの学習の深化に意欲を燃やすこともあろう。当然それは認めるべきであるし、むしろ援助をする必要があろう。つまり、共通課程は、各自が主体的に選ぶ次のステップへすすむための基礎条件と可能性を均等に保障することを意図するものであって、それらをすべてクリアしなければ、それが出来ない、あるいは許さないというものではない。共通課程履修後あるいは高校課程修了後にも、学習者の必要に応じて、やり残した分野・部分の学習に再び取り組めるような、時間的心理的余裕と制度的機会を与えることが、強く望まれる。)

[注1]『講座・日本の教育・5・教育課程』
[注2] 遠山 啓『文化としての数学』

2.タテのカリキュラム 共通必修科目

科目 解説No.
自然科学系 自然科学概論
自然科学史
解説1
社会(人文)科学系 (日本史を含む)世界史および/または世界現代史
経済
政治
世界地理
思想と宗教
現代の社会
メディア・リテラシー
解説2
数学系 数学史
力学と微分・積分
解説3
ことば学系 母語(地域語・共通語)
ことば(話しことば・書きことば)による認識と表現
解説4
ワーク・アンド・ライフ系 技術史
一般技術
家庭(生活の科学と技術)
解説5
こころとからだの健康学系 こころとからだの健康学
保健分野
体育分野(運動文化・スポーツ権・スポーツ科学・スポーツ医学の基礎・スポーツマンシップ)
解説6


3.タテのカリキュラム 選択必修科目

科目 解説No.
ことば学系 非母語
アイヌ語・ウィルタ語など第三世界の諸言語とくにアジアや太平洋島嶼国などの諸言語
その他の言語
人工言語(エスペラント等)
解説7
芸術系 音楽、美術(絵画・彫刻・建築・写真・インスタレイション・など)、工芸(陶磁器・漆器・木工・金工・ガラス・織物・染織・人形・など)、書道、文学(詩歌・小説・戯曲・評論・など)、映画、アニメイション、ビデオ映像、コンピューターグラフィック、演劇、舞踊(クラシックバレエ・モダンバレエ・日本舞踊・など)、人形劇、影絵劇、服飾、伝統芸能、など
修了制作
解説8
こころとからだの健康学系 種目別スポーツ史
種目別スポーツ理論
陸上競技、水上競技、球技、体操、柔道、剣道、弓道、アーチェリー、相撲、レスリング、自転車競技、ダンス、ゴルフ、エアロビクス、バトントゥアリング、ヨガ、ストレッチ、太極拳、(ウインタースポーツ各種)、など
解説9

4.タテのカリキュラム 自由選択科目

 選択課程は、20〜30単位程度の科目を開設し、自由選択制を採る。
 科目の内容については、つぎのような方法で編成する。

  1. 文部省学習指導要領が定める科目をそのまま設置する。
  2. 文部省学習指導要領が定める科目の枠を用い、内容を改造する。
  3. 自主編成する。
 なお、教務処理については、別途検討する。

科目
自然科学系 物理学、化学、生物学、地学、生態学、天文学、海洋学、人類学、工学、自然史、などに関わる科目、各分野のケーススタディ、などで構成
社会(人文)科学系 経済学、政治学、地理学、倫理学、法律学、社会学、民俗学、歴史学(世界通史・各国史・各地域史・各分野史・郷土史など)、などに関わる科目、世界各国・各地域研究、国内地域調査・研究など、宗教学、心理学、哲学などに関わる科目、で構成
数学系 解析、線型代数、確率・統計、など
ことば学系 選択必修科目に同じ。および、言語学、文学、などの関わる科目、ことば(話しことば・書きことば)による認識と表現の発展学習、などで構成
芸術系 選択必修科目に同じ
ワーク・アンド・ライフ系 職業(専門)教育科目で構成 家庭科専門科目で構成
こころとからだの健康学系 選択必修科目に同じ
その他※ 特別講座、自主ゼミナール、卒業論文、卒業制作、など

 ※ タテのカリキュラムの自由選択科目のひとつとして、生徒と教職員の共同で、学習テーマの企画と運営などを行う「特別講座」や、生徒の自主的な学習の場として、主体的にテーマ設定と運営を行い、必要に応じて講師や助言者を依頼する「自主ゼミナール」なども、積極的に採り入れたい。両者とも、開設期間は、1回・数回・1学期間・半年間・1年間など、希望と必要に応じて弾力的に設定できるようにする。両者とも自主的な基本性格から、原則として、卒業に必要な単位への換算は行わないが、増加単位として認定するルートも考えておきたい。
 各科目の終了の総括として、あるいは、各科目の学習における生徒の興味・関心部分の深化に応じた個人の自由研究などとして、自主的に「卒業論文」「終了論文」を作成し、提出し、発表する機会を設けたい。教職員は、求めに応じて、指導・助言を行う。
 芸術系などでは、卒業制作を実施する。

5.ヨコのカリキュラム

 タテのカリキュラムに横断的に、あるいは学際的にまたがる総合的・統合的教育(学習)テーマや今日的教育(学習)課題などを、「総合(統合)的教科」と位置づけ、自主編成する。それらの集合を仮に「ヨコのカリキュラム」と呼ぶ。
 ヨコのカリキュラムは、二つの編成形態を採る。一つは、独立した科目として自主編成するかたち。(たとえば、「環境」「生と死と性」などのように。)もう一つは、あるテーマ・課題の内容を分析し要素別に分割し、その各部を、関連するタテのカリキュラムの各系の教育内容に分散して組み込み、学習者の内部で、それらの学習成果を結び合わせ再構成するかたち、である。(たとえば、環境問題を取り上げる場合、社会・人文科学的な要素−気候変動枠組条約・資源循環型経済システムなど−は社会・人文科学系の科目のなかに、自然科学的な要素−地球温暖化・オゾン層破壊など−は自然科学系のなかに、健康問題に係わる要素−大気汚染による呼吸器疾患・環境ホルモンによる生殖障害など−は「こころとからだの健康学」系のなかに、等々、あらかじめ各系科目の了解と全体計画のもとに教材を編成しておく、というように。)
 ヨコのカリキュラムは、事情のゆるすかぎり、第一の方式−独立した科目に編成すること−が望ましいが、それが出来ない場合は、第二の方式を採用する。
 ヨコのカリキュラムを、必修とするか選択とするかは、各校の教育方針・目標・必要性などにより自主的に決定する。

教科課程の編成パターン案
ヨコ・カリの各科分割再構成学習(上記第二方式)に加えて−
  1. タテ・カリの共通必修科目と選択必修科目のみで編成。(このパターンでは、重点を置く科目の単位数を適宜増加する。)
  2. タテ・カリの必修科目と自由選択科目で編成。
  3. タテ・カリの必修科目とヨコ・カリの独立科目(上記第一方式)のいくつかで編成。
  4. タテ・カリの必修科目と自由選択科目いくつかとヨコ・カリの独立科目いくつかで編成。

表3 教科課程の編成パターン案
  パターン→
タテのカリキュラム 必修科目
自由選択科目    
ヨコのカリキュラム 独立科目    
各科分割学習



6.ヨコのカリキュラム 自主編成テーマ例

テーマ 解説No.
平和教育
人権教育
環境教育
開発教育
生と死と性の教育
基礎的総合的職業教育
総合学習「家庭・家族」
総合学習「コンピュータと情報社会」
「日の丸・君が代」
解説10
解説11
解説12
解説13
解説14
解説15
解説16
解説17
解説18

7.教科外活動

 教科外活動とは、上掲のように、教科の学習成果との相互作用のうちに行われる「学級会(HR)・生徒会・クラブ活動などの自治的活動、文化活動・自由研究・レクレイションなどの自主的活動、その他における自主的・自治的・共同的・組織的な行為・行動能力の獲得をはかる領域である。(したがって、その活動の評価も自主的になされるべきでる。)子ども・青年は、これらを通して、友愛・共感・連帯・協同性・責任感などを育みながら、民主主義的行動能力の質を更新し、高めることをめざす。」(生徒会など生徒が主催または共催する行事・儀式は、これに含まれるが、教職員の主催するものは含まない。)しかし、現状では、生徒会活動の形骸化、学級集団の形成の困難さ、クラブ活動におけるスポーツ系クラブへの偏重と全体的な停滞傾向などの問題がある。
 教科外活動については、高総検報告『それぞれ自前の教育課程改革を』p.8 〜9 、p.48〜50、高総検報告『学習疎外を超えて』p.26〜30、p.57、p.72〜76を参照。以下にその一部を再掲する。

 わが国の高校における自治活動は、戦後教育改革による新制高校発足後、一部で一時期、反基地闘争などと結びついた平和運動や授業料値上げ問題・学校設備改善運動などと関連して、高揚を見せたが、60年代中期以後は、他の自主的・自治的活動ともども、少数の例をのぞいて、全般的には衰退の一途をたどってきた。
 その直接的原因は、自治活動の変質・形骸化を一貫して押し進めた教育(課程)政策と学校(教職員・生徒)管理体制の強化、および高校の差別・選別装置化にともなう受験戦争の激化などによって、その存立の基盤が奪われてきたことにある。
 「さらにその背景には、時を同じくして進行した高校進学率の急上昇によって、発足当時なお本質的にはエリート学校であった高校が、急速に大衆化したことにより、旧制中学・高校から継承されたエリート文化的色彩の強い活動を内容として一旦は成立した特活が、その基盤を失ったということもある。つまり、高校教育の大衆化に適合した(しかし迎合はしない)新しい文化を築き上げることに成功しなかったということである。さらには、戦後の特活が、民主的な理念を高く掲げたものの、指導と自主性との関連を明らかにできなかったこと、言い換えれば、科学的な指導方法を確立できなかったこと、また、機能主義的な集団観や議会主義的・形式主義的な傾向を克服できなかったことなどの、理念の具体化に深くかかわる弱点を残したままになってしまったという問題も根底にあったということができるであろう。」あるいはまた、さらに深層に、人民の自治という歴史的経験に乏しい日本の民族的「伝統」が培った、権威主義や「お任せ主義」が根をはり、それら全体の傾向を決定づけているのかもしれない。おとな達が、子ども達の自立をホンネでは求めていない、子どもの自己主張を「なまいき」として嫌う「国民性」も背景に潜んでいそうである。
 このような、自主的・自治的教科外活動の衰微は、「生徒が学校社会を創造する活動に参加することを通して、民主的市民としての資質を体得していく」という、戦後教育改革における教科外活動の中心理念を完全に崩壊させるばかりでなく、政府・財界からの「経済・軍事大国イデオロギー」の注入に対する抵抗力をまったく喪失させ、また、現在、広範な生徒たちを蝕んでいる「学校ばなれ(脱学校・学校忌避症候群)」を、いっそう進行させることにもつながりかねない。
 私たちは、このような問題意識から、日本人と日本の学校(教育)の最も弱い所−自律と自立に基づいた連帯・協同あるいは自主的・自治的精神の欠如−を補強しつつ、あわせて、それをテコとして、生徒たちの衰弱している生活意欲・学習意欲の高揚をうながすということを狙いとして、教科外活動の再組織を提案する。
 「今日の高校にとりわけ求められていることは、生徒が、学校に学ぶ歓びと、仲間と生活する楽しさを見出し、それらを自らの喜びとして作り上げていくようにすることである。教科外教育の課題も、生徒が共同して民主的で文化的な学校生活を創出していくことを通じて、自らが学校の主人公となっていくということ、そのなかで生きるちからと生きる意欲を自らの内部に培っていくことであるといえる。そのためには、生徒の自治的活動を保障し、かれらの自治能力を育てていくことと結びついて、その活動を文化的にゆたかなものにすること、生徒集団のもつ文化性の質を高めていくことが同時にめざされなければならない。」[注3]
 そこで問題になるのは、教科外活動の指導はどうあるべきかという点である。一般の教職員は、各教科・科目の専門家ではあっても、自主的・自治的活動の科学的指導については、まったくあるいはほとんど教育を受けていない場合が多い。そこで、顧問教師の個人的経験のみにたよった恣意的・場当たり的「指導」や、ひたすら先例を踏襲する形式的「指導」、果ては「自主・自治とは生徒にすべてまかせること」とする指導放棄の合理化までが横行することになるのだが、そうした状況を改革するためには、まず、私たち教職員が、民主的集団づくりの経験を積みながら、教科外活動の科学的指導法を研究し、それに基づいた実践をすすめることから始めねばならないだろう。とくに、生徒たちを、「教師の隷属物ではなくて、独立した人格の所有者として承認する」ことから出発し、小さな集団から中間的集団を経て大きな集団へと、順次・系統的に「成員の要求の民主的組織化と集団の自主的・自治的な管理・運営能力の形成」を促し、その質を高めてゆくことが重要である。(『それぞれ自前の教育課程改革を』p.49〜50)

 個の確立なき閉じた集団主義と管理主義、その枠内での排他的競争原理に貫かれた日本の社会を反映して、こども社会も、砂漠の砂粒のようなアトム化(個化)と閉塞状況での自滅的いじめ合い(排除と攻撃)がいっそう進んでいる。「仲間の中に敵をさがせ!」子ども達は、「協同の可能性を奪う荒廃した孤独」(勝田守一)のうちに、各々が築いた自閉的「巣穴」の奥で、「発達可能態」としての存在を解体しつづけている。権力・金力・暴力と学力の支配を運命か自然現象かのように受け止め、生きることの意味と目的を見つけられず、生への意欲を希薄化させ、毎日に倦怠する一方で、仲間同士では、出る杭はみんなで打とう・足の引っ張りあい式「平等主義」と、目立ちすぎず引っ込みすぎず・着かず離れず・本心は明かさず式の「処世術」で、学校時空間をなんとか無難に浮遊してゆきたいと思っている。ときに、内面を自己防衛の壁で囲って外界との関わりを断ち、あるいは、親や学校の束縛に反発し自由を求めて爆発することはあっても−。
 このような子ども達の状況に対して、自主性と自治の力を育てることの難しさは想像に余りある。しかし、子ども達の虚無には、幼いペシミズムだけでなく、抑えがたい生命力の成長にともなう痛みと不安が混入している。その痛みと不安には、自分はどう生きていったらいいのかという問が潜んでいる。自分らしくありたいという切ない願望が隠れている。どんな困難があろうとも、私たちは、それに全力で応えないかぎり、学校教育の真の再生を期待することはできないだろう。

[注3]花香実・加美越生「教科外活動の現代的課題」「講座・現代の高校教育・4・生活指導」

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解説編

解説1.自然科学系

1.理科をめぐる状況

 今日、科学・技術は驚異的な進歩をとげていると言われながら、その内実は、世界の独占体による「ルールとモラルなき科学・技術の利用」によって大きな歪みを生じている。核兵器とハイテクとコンピューター機構が結合された戦争システムや、温室効果ガス・フロン・硫黄や窒素の酸化物・環境ホルモン・ダイオキシンその他有害物質の排出と投棄・放射性廃棄物の累積・など自然環境と生殖と生物種多様性と生態系の破壊・資源の枯渇をもたらす生産・流通・消費の仕組み、コンピューターによる人間(生活・労働・学習)管理、メディアによる大衆操作(洗脳)、などはその最たるものである。
 ところが、その歪みを根本から正すべき自然科学教育の分野でも、わが国では、教育内容を権力的に統制する文部省の教科論に一貫性がなく、自然科学観に体系性が欠けている。経済計画や労働力政策に教育(内容)行政が従属し、教育内容が歪み、細切れになり、諸科学(科目)間・各科学(科目)内の諸要素の間の内的連関が見失われがちになっている。理科の学習が−入試問題の影響も加わって−脈絡のない大量の用語や記号や法則や公式などの機械的暗記作業が中心になり、人間的な価値の感覚との乖離もますます大きくなって、「理科ばなれ」を産み、統一的な自然科学的世界像を結ぶことを困難にしている。
 たとえば、文部省学習指導要領は、中学校の理科の内容について、改訂が重ねられても、教育項目はほとんど同じままで、実験回数と授業時数の削減(60年代までと89年改訂とを比べると、3年間の総時数の4分の1を削減)を進め、結果として授業速度とツメコミの強度だけが上がった。その一方で、高校では、60年代には普通科で物理・化学・生物・地学の4科目を15単位必修にしていたのを、現在までに、2科目(ほとんどの高校で6〜8単位程度)の選択に変えてきている。さらに変化の激しいのは小学校で、60年代までと89年改訂とを比較すると、小学校6年間の総授業時数は、実に3分の1も削減されている。また、生活科の新設によって、低学年には理科(とくに物理と化学に関する分野)の授業はまったくなくなった。自然科学教育の放棄の始まりとさえ言える。先頃(97年11月)公表された教育課程審議会(教課審)の「中間まとめ」も、高校で、基礎的な内容の新設科目を1科目選択必修させるなど、全体として、理科教育の減量化と脱科学・非体系化の傾向がいっそう顕著になった提言になっている。
 加えて、68年の指導要領改訂で、アメリカの科学教育の「現代化」の試みを移入して、「探究の過程を通して科学の方法を教える」理科に改められたが、科学の方法が、実験操作や思考操作などに矮小化され、しかもそれらは、具体的・実践的な自然の探究過程から切り離されてバラバラに取り上げられたに過ぎなかった。そのため、子ども達は、自然の基本的な事実や概念や法則を身につけることができず、また、実験操作や思考操作がペーパーテスト用に定式化され、新たな詰め込み教育の材料になり、本来は実験好きの子ども達を実験嫌いにしてしまった。
 さらには、中央・地方を問わず教育への極めて貧弱な予算配置は、初等・中等教育のみならず、高等教育機関とくに理工系の大学・大学院の運営や全体的レベルの維持・向上・人材養成などにも深刻な問題を生じさせている。
 昨今、子ども・青年の間に蔓延する超自然・心霊現象・超能力・占い・カルトなどの妄信やオウム真理教の元理工・医学系幹部にみられた幼児性・社会性の欠落・理知の空洞化などは、政府・文部省の伝統的な人間疎外の科学・技術(教育)観と、上記のような科学・技術教育の軽視も要因の一つといえよう。科学・技術教育の歪み(とその結果でもある一知半解)は、また、広く科学・技術そのものへの懐疑や「反科学主義」・エセ科学などの温床にもなっている。(さらに、日本の「知識人」が、しばしば、科学を、「現代文明の行き詰まりをもたらした」西欧近代合理主義の所産と決め込み嫌悪し、翻って相対主義や不可知論・神秘主義などに“先祖帰り”するのも、根本には、おそらく思考の貧困と傍観主義と科学・技術への認識不足とがある。)
 その一方で、世界的な利潤追求のメガ・コンペティション(大競争)に勝ち抜くための科学・技術の開発の遅れに危機感をつのらせ、新しい「もうかる産業」の創出を願う日本資本の要求に応えようと、政府は、97年1月に「橋本教育改革プログラム」を発表し、6月には、その内容をほとんどそのまま第16期中教審に答申させて、できるだけ早期に英才を選別し、安上がりに効率的に研究開発エリートを養成しようとする泥縄式対策に着手している。その基本的方略が、中高一貫教育制度の導入などによる学校構造の複線化と、数学・理科の「希有な才能」の促成を図る「大学への飛び入学」制度の新設である。ちなみに、高等教育レベルでは、大学・大学院と産業界との連携強化が図られている。任期制の導入で研究者の「淘汰」と研究の速成を促しながら、研究成果を直接民間企業に移転・活用する公的仕組みの整備が進められている。ビジネスに繋がる特定の研究(者)に選択的に民間資金が提供される。長期的な計画のもとに系統的・継続的に取り組まなければならない基礎研究は、ますますおろそかにされることになるだろう。それは、日本の科学全体の地盤沈下と科学教育の貧困化への悪循環に繋がってゆく。

2.自然科学教育の目的と目標

 真船和夫氏は自然科学教育の目標として次の4点をあげている。(1)自然科学の基礎的な事実や法則を体系的に学ぶ。(2)自然科学の基礎的な方法を習得する。(3)科学的な自然観を身につける。(4)自然科学の社会的機能を認識する。[注4]
 これらの目標は、田中実氏のあげる次のような自然科学教育の目的とつながっている。(1)将来の社会成員として必要な労働能力の知的基礎を準備する。(2)政治的判断の基礎として、人間による自然コントロールの限りない可能性と様々な方式についての知識を与える。(3)自然および人間についての科学的な一般的見解(科学的世界観)の基礎をつくる。(4)自然に対しても社会に対しても共通する判断と行動の基本形式を獲得させる。[注4](「自然と社会に対して共通する判断と行動の基本形式」とは、批判精神・合理精神・現象の奥に本質を見透す洞察力と諸矛盾を止揚する実践力、と言い換えることもできよう。)
 高校段階で自然像や自然観・科学観さらには人間観・人生観・世界観の形成が問題となるのは、この時期が、自我のめざめによる人生や社会への真摯な問いかけと現象の奥にある本質への生真面目な模索、そして実践的な諸活動を通して心身ともにおとなへの準備がダイナミックに進行する時だからである。
 田中氏は「一つひとつの個別の経験がどれほどおもしろく楽しくとも、それらが持続した学習となるためには、常識の目からはその法則性が隠された自然という世界が、見渡すことのできる世界に変わって」いくことが重要であると述べ、そのために「自然科学的世界像」の組織的な提示を主張した。この背景には、人が人間にふさわしく生きるのに必要な普遍的教養、また現代日本の国民生活に不可欠な教養の一要素としての自然科学の教育の目的に、「自然科学的世界像を少年少女の思想の基盤として形成させる」という主張があり、さらにその奥には「科学が思想として定着する」こと、そのための「科学的世界観の形成」の提起がある。そして、「科学的世界観は、人間は何のために科学と技術を所有し発展させるか等の科学の価値観につながる」のである。
 このように田中氏が科学的世界観の形成をことさら強調するのは、「科学的な自然像、人間観、社会観、それらを統一した科学的世界観」による「未来展望をもたせることなしには、現代という複雑で将来を見通しにくい時代に、子どもに学ぶことの意義を自覚させることはできない」と考えているからに違いない。

3.自然科学概論のイメージ

 以上を考え合わせ、自然科学概論の柱をつぎのように設定したい。

図5 おおまかな自然の階級構造(今野宏氏による)
図5 おおまかな自然の階級構造

(1)自然全体を包括的・統一的に捉える。
 私たちの「自然科学概論」が、自然諸科学の個々の知識の単なる集合と総和ではなく、自然界の客観的な姿を反映した一つの統一的な体系を成すものとして構想されるのは、上記aのような状況とbのような自然科学(教育)観による。ここでは、様々な法則や概念が相互に関連しあいながら上昇発展してゆき、やがてある一つの自然像へと収斂されることが展望されている。自然を構成する多数の階層には、それぞれ独自の法則があり、しかもそれらの法則は、互いに異なってはいるが、矛盾することなく、隣接する階層の法則の間では対応関係が成り立っていると考えられる。[図5]

(2)小・中・高の全課程を一貫した系統的な自然科学教育を追求し、自然科学概論を、その体系の高校生段階の共通課程の中に位置づける。
 日教組・中央教育課程検討委員会は、その教育課程改革試案の「教科・自然」の項で、6歳から18歳までを四つの階梯に組み立てた統一的・総合的自然科学教育のプランを提起している。表2は、さらにそれを参考にして梅原敏夫氏が新たに作成した、子どもの発達段階による認識の内容と教育活動の見取図である。私たちの「自然科学概論」構想は、この表における高校の階梯部分と同様の内容の基本的要素を精選し統一的な体系として構成したものをイメージしている。これは、小学校・中学校の理科教育を含め、高校段階までの自然科学教育の総括であると同時に、自然科学系の選択科目へ発展の土台とも位置づけられる。

表4 発達段階による自然認識と教育活動の特徴
発達段階 科学的認識 自然認識の特徴 主要な教育活動 主要な素材 学校階梯
1 科学的認識能力の土台の形成 感性による物の個別的・体験的認識 遊び 生活や身の回りの物や生物 幼児教育
2 言語・数・技術による自然認識の初歩的カテゴリーと論理の獲得 初歩的な飼育・栽培・道具による手作業
自然の探検
野性の生物
金属などの材料
小学校前期
3 科学的認識能力の形成 具体的作業を通じての物質の基礎概念、自然の個別的な法則の認識 予想−実験
飼育・栽培
固体・液体・気体
動物・植物
地球
小学校後期
4 自然についての科学的な事実・法則・概念の基本の体系的認識 実験・観察
記号・数式・モデル等による法則・概念の探究
物理学・化学・生物学・地学の基本法則 中学校
5 科学的自然観の形成 自然の運動性(弁証法、歴史性)や体系性の認識と、自然・人間・社会のトータルな認識 個々の法則のより専門的な探究
自然の全体構造の探究
物理学・化学・生物学・地学の体系 高校

(3)自然科学概論の内容は、現代の社会を人間的に生きてゆくために必要最低限の「 代の自然科学を支える基礎」に絞り込む。
 また、身近な自然事象、生徒の疑問、常識の誤り、オカルト現象などを取り上げながら、自然科学の核心をつく問題提起をし、自由でユニークな仮説と推論を引き出し、創意あふれ工夫のこらされた実験を考案し、的確で簡潔な総括をおこなう努力が必要である。
 この点について、物理の教育実践を検討している民間サークル「ガリレオ工房」の滝川洋二氏は、つぎのような提案をしている。物理・化学・生物・地学の全分野の国民教育の基礎的なミニマムは、「専門家を育成するわけではないから、現代の自然科学の最先端の理解を目指すのではなく、(しかし、必要ならば、それにも道がつけられるような)、だれにも楽しく理解できる、もっとも基礎的な内容にしぼる。そのためには、分かりやすく興味深い教材を豊富に用意する。常に内容の見直しをし、もっと分かりやすい教材ができて、教えるに値する内容が増えたときは、より基本的な内容を優先する。」

(4)自然の基礎的な事実や概念や法則を理解すると同時に、科学の方法を身につけられるようにする。
 科学の方法とは、基本的には、問題を設定し、仮説を立て、実践(実験)を通じてそれを証明し、法則を導き出し、理論を構成する、一連のプロセスを指す。その他、本質と現象の識別、基本的なものと二次的・副次的なものの識別、演繹法と帰納法、分析的方法と総合的方法、推論と検証、なども身につけることが重要である。

(5)他の教科・科目との関係づけに常に留意する。
 自然科学系の学習は、社会科学系・人文科学系その他の学習との連携と総合(再構成)が可能なように、目的意識的に組織される必要がある。
 ちなみに、社会的文脈における科学の研究に「科学の社会的研究 social studies of science 」あるいは単に science studiesというものがあるが、その成果を取り入れ、1970年代に欧米で始まった科学技術論の教育運動に、STS programがある。STSとは、科学(science)と技術(technology)と社会(society) を指す。STSは、最初は大学教育に採り入れられたが、その後中等教育にも拡大した。中等教育レベルでのSTS教育は、科学と技術と社会との関わりを、身近な題材を通して学ぼうというものである。私たちの自然科学系科目の学習にも参考になるだろう。

 【代替案】「自然科学概論」は、教務処理上の必要に応じて、物理・科学・生物・地学の全部または一部に単位換算する。「自然科学概論」が編成できない場合は、「物理」を、上記のような趣旨に沿って自主編成・再構成し、自然科学系の共通必修科目とする。

4.自然科学史
 現生人類の学名は、Homo-Sapiens(知恵のある類)と言われる。sapiens(知恵) が、生物進化・淘汰のサバイバル・レースで現人類を生き残らせ、地に満ちさせた。科学( science )の原義は、「知ること・知」であり、科学は、「知恵のある類」が膨大な年月をかけて造り上げた「知の体系」である。科学の歴史は、自然と人間との交渉と闘争・支配と敗北と妥協の歴史であり、政治史とは異なる側面の人類史でもある。科学は、人々に繁栄と福祉をもたらしもし、破壊と悲惨をもたらしもした。科学の生成・発達・発展の経緯を知ることは、単に現代の自然科学に至る道筋を知識として得るばかりではなく、その背景を成す社会史や科学の発達を直接担った科学者達の人生や思想・研究過程での試行錯誤との関わりのなかで理解することによって、科学の「人間化」(つまり、細分化・高度化が加速度的に進行し、人間疎外が著しくなりつつある科学を、人間のもとに引き寄せ、人間的意味の認識に導く)が図られ、生徒の興味と関心を引き出すことにつながるだろう。
 ちなみに、一般に、科学と技術が混同されて受け止められている。しかし、両者は、極めて密接な関係にあるものの、それぞれ異なる領域をもつ。両者は、それぞれ独自の発展法則に従って運動しており、その展開のプロセスも、科学が「本来知識の体系化を目的とし、かつ認識を深化してゆくという自己完結的な求心的特質をもっている」のに対して、技術は、「本来外部からの問題提起に応じて機能を開始し、最後は生産の形で、その成果を外部化することによって、一つのプロセスを完了する。いわば常に開放的なシステムとしてはたらく」のである。科学と人間(活動)の間を技術が媒介すると言うこともできよう。近年、核開発や環境破壊・遺伝子組み替えなど、科学的成果の応用上の問題をめぐって、科学の発達に対する疑問や、はなはだしきは反科学主義などが一部に生じているが、その要因の根本には、科学と技術の混同があるのではあるまいか。
 自然科学史の学習と、後述するタテのカリキュラムの「ワーク・アンド・ライフ系」での技術史の学習を組み合わせれば、科学についての理解はいっそう深まるだろう。

[注4]『講座・日本の学力・7・自然・社会』
[注5]日教組・中央教育課程検討委員会「教育課程改革試案」『教育評論・1976年5・6月合併号』
[注6]安斎育郎・滝川洋二・板倉聖宣・山崎孝『理科離れの真相』
[注7]『唯物論研究・10号』
【参考文献】・高橋哲郎『科学史教育入門』新生出版

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解説2.社会(人文)科学系

1.社会科の沿革

 社会科は、戦前の天皇制軍国主義教育への痛切な反省の上に進められた学校教育制度改革による新しい民主主義教育の根幹たらしめるべく、それまでの国民科(修身・国史・地理・公民)に替えて、1947年に設置された。この教科の成立には、つぎのような目的が働いていた。1)自主的・建設的であると同時に批判的能力をもった民主的人間の形成、2)社会生活の現実を総合的・連関的に理解し、その問題を事実に則した知識をもって合理的に解決する能力の育成、3)学習を、子ども達の興味や必要に則して有効に発展させる、4)知識と生活を密着させ、その学習を通じて、好ましい態度や習慣を形成する。
 社会科は、発足以来絶えず論争の的になってきた。初期には教育方法や教育内容の編成・体系性などをめぐって。その後は、憲法・教育基本法体制を否定する保守陣営と護り発展させようとする革新陣営とのイデオロギーをめぐって−。そして、文部省学習指導要領や教科書の改訂の度に、社会科が、つねに最も話題を集め、保守反動勢力の批判・攻撃にさらされてきた。(自民党大臣・議員らの侵略美化・肯定発言や教科書検定での「侵略・虐殺かくし」などが、被侵略国や旧植民地からの非難を呼び起こし国際問題になったこともあった。)その対立の典型的・象徴的な例である「家永教科書訴訟」が、世界的注視の中で、初提訴以来32年後の97年8月に、原告一部勝訴のかたちで、すべて終結したが、今でも、皇国史観の復権をもくろむ勢力の先兵が、「自由主義史観」なるものを翳しながら、歴史(教科書)の書き変えや歴史的事実の隠蔽を声高に叫んでいる。
 学習指導要領の改訂ごとの社会科の小・中学校の授業時数の削減率は、理科同様に、極めて高いが、問題はそれに尽きない。ひとつは、生活科の新設によって、小学校1・2年次の社会科を廃止したこと。(生活科の中に、社会科的単元が含まれてはいるが、「生活上必要な習慣や技能」の形成をねらう「しつけ」が強調され、道徳主義的傾向が顕著である。中・高学年の社会科でも、その基調が浸透している。)二つ目は、歴史・地理・公民的内容を融合した総合社会科として出発した中学の社会科を、55年の改定で、地理と歴史と政治・経済・社会の3分野制を敷き、69年の改訂で、政治・経済・社会の分野を公民分野に置き換えたこと。そして、高校では、89年改訂で、社会科という大枠を崩し、世界史・日本史・地理のグループと、現代社会・倫理・政治経済のグループに分割して、それぞれ地歴科・公民科という新しい教科名で独立させたこと。(必修は、現代社会から世界史に変わった。)これらによって、中学・高校の社会科は解体され、総合的社会科学教育としての体系性と統一性が失われた。また、それに、生活科の問題や中学での「パイ型学習形態」の押しつけ」などの問題も加わって、小・中・高の「社会科」教育の間に、矛盾が拡大し、連続性と発展性をますます欠落させことになった。三つ目は、入試問題への対応から、社会科(教科書)の内容が、無味乾燥な断片的知識の羅列に終始しているという問題、などである。
 さらに、97年の教課審「中間まとめ」では、臨教審路線を継承し、小・中学校の社会科の全体を通して、「我が国の国土や歴史・産業などに対する理解と愛情」が強調され−今回はとくに「愛情」という表現が繰り返し登場し−、社会科の、小学校低学年の生活科などを引き継ぐかたちの、いっそうの道徳教育化が図られている。
 このような状況に対して、私たちは、上掲のような社会科新設の目的の回生を図りながら、子ども達が社会人・主権者−言い換えれば、これからの政治や労働や文化をになう歴史の創造主体−となる上で基礎となる社会性と自治能力の形成、とりわけ自由で自立した判断主体としての、自然・人間・社会に対する科学的知性と認識力・批判力・実践力の形成をめざして、社会科学教育を自主的に創造していかなけらばならないだろう。

2.社会科の目標と学力

 社会科の学習の目的は、まず、人間の本質は、歴史的・社会的に連係しているところにあるということ、すなわち、一人ひとり、時間的(通時的)・空間的に、直接・間接に、外的にも内的にも、有機的につながり結ばれている、ということを認識することである。そこから、社会を科学し変革する必要と欲求が生まれる。
 古銭良一郎氏は、「社会科」の目標を次の3項目にまとめている。1.人間生活の理念(人間的生活とはどのようなものであるべきか)の探究、2.社会の諸現象についての科学的認識の獲得、3.社会の諸現象の認識の方法の獲得。[注4]
 また、前記の『教育課程改革試案』[注5]の「教科・社会」は、「社会科は、子ども達が、将来の社会のあり方を自分自身の生き方と結びつけて自ら選択できるような、基礎的な社会認識を育てることを中心的な課題とする教科である。私たちは社会科をとおして、科学的で民主的な社会認識の基礎を育てたいと考える。」とし、「社会科を通して育てたい力量」は、社会現象や事実についての知識を蓄えることにとどまらず、しかしながら、社会の現状をただ無比判に肯定的に受け入れるのではなく、また、さまざまな理論・学説・イデオロギーなどを鵜呑みにするのでもなくて、(a)あくまでも事実に則しながら、社会諸科学の成果を活用して社会を構造的にとらえ、(b)社会のいっそうの進歩・発展をめざす方向で社会現実に問題意識をもち、(c)自分の生き方と関わらせて、主体的・積極的に望ましい社会のあり方を追求できる力である、としている。
 そして、この力量には、すくなくとも次の各項に示される内容が基礎的要素として含まれることが望ましい、とする。
  1. 日本国憲法を中心に民主主義の原則を、現実の政治的・社会的諸問題と関わらせて理解する。
  2. 日本の経済の全体構造、資本主義経済と社会主義経済の歴史と現状を理解する。
  3. 日本の諸地域、世界の国々の学習を通じ、日本国民の課題、世界の中での日本の地位、世界の国々の課題を理解する。
  4. 地域、日本、世界の歴史学習を通じて、地域、日本、世界の一体化した歴史認識、過去・現在・未来についての歴史的展望を得る。
  5. 科学、文化の社会的役割と現状を理解する。
  6. 民主的で科学的な人間観・世界観を得る。

補論 現代市民教育

 近代社会は、平等な権利をもつ自立した市民の自由な政治参加によって維持・管理され進歩すると考えられていた。しかし、現実には、国民国家の成立と資本主義的私有財産制の確立という二つの社会的条件に強く規定されていた。したがって、その成立にともなって始まった近代的市民教育も、ナショナリズムと私有財産制のための秩序意識の形成が基軸となった。そのため−市民教育は、理念的には、自発性を重んじ、個人の自由とともに社会的責任意識の形成をめざすものであったが−実際には、国家の一員として積極的に既成の社会秩序を支え、国民的義務を果たすことが強調されることになった。
 日本では、上述のように、日本国憲法が施行される以前には、近代的市民教育は行われていなかった。1947年に教育基本法のもとで新しい学制が発足し、平和的で民主的な国家・社会の形成者・主権者にふさわしい社会的・政治的教養の形成をめざす市民教育の中心的教科に位置づけられた社会科教育も始まった。しかし、上記のように、歴代政府の教育政策が、民主的な政治教育を基礎にした市民教育の発達・発展をさまたげ、中央政治はもとより、地方政治でも地域の自治組織でも、大衆の中に広く深く「お任せ主義」や無関心やあきらめが沈潜している。
 他面、1960年、日本の実質的独立を求める安保闘争が国民的規模でたたかわれ、それへの参加を通して、農民運動や労働運動などそれまでの組織的社会運動とは異なる、新しいかたちの市民の運動が勃興した。また、60年代末からは、反基地・反核平和・ベトナム反戦・政教分離・教科書裁判支援などの運動の他、公害・日照権・教育・消費者などの地域的・現実的問題に取り組む市民・住民運動も盛んになった。さらに近年では、市民・住民運動の対象は、環境・原発・廃棄物処理・薬害・公金支出の監視など各種市民オンブズマン・女性差別・社会福祉・産直・まち(むら)づくり・など多岐にわたり、参加者も飛躍的に拡大している。沖縄県・宮崎小林市・沖縄名護市・新潟巻町・岐阜御嵩町・岡山県吉永町では、それまで問答無用で押しつけられてきた基地・原発・産廃処理などの国策に抵抗するかたちで、住民投票運動がドラマティックに展開された。(今井一・編著『住民投票』日経大阪PR発行、他)地震・津波・噴火・海洋汚染などの災害への救援活動にも市民が参加した。(これらの運動は、戦後保守政権下の社会体制と国民の基本的人権や自由との間の矛盾の現れとみることがでる。)運動の舞台も広がり、NGO・国際ボランティアなどのかたちで海外にも多くの市民が出掛けて各種の活動をしている。(すでに人々の意識は、経済活動のグローバル化・ボーダレス化−それに付随するメディアの発展−を背景として、政治的境界である国民国家の枠を一部超えつつある。)
 これらの運動自体が市民の自己教育の機会であり、形式化している国民主権の実質化の過程であり、新しい市民像の形成の契機ともなっているが、同時にそれらは、近代的市民教育の欠陥を克服する、すなわち体制秩序の維持という目的を超える「現代的市民教育」の内容を日々創造しつつあるとも言えよう。
 社会(人文)科学系は、総合的に、互いの人権を尊重しあう民主的な社会の建設主体・主権者としての自立と責務の自覚の強化に努めながら、自発的な参加と連帯によって各種の共同体の自治をすすめ、様々な社会問題を協同して解決する、さらには、憲法の精神の実現へ向け共同体の構造・システム自体を改革してゆくための基礎的能力を身につけることを主要な目標とする。
 この学習は、教科外活動の自治活動と結合させることが必須である。

3.日本史を含む世界史(通史)

 実教出版の世界史教科書『高校世界史』について、著者の一人である鈴木亮氏は、次のように言う。(カッコ内は補足部分) 
 「どの世界史教科書も、いくつかの地域世界、つまり全地球的世界に対して東アジア世界とか、ヨーロッパ世界とかいう小世界を設定している。(しかし、ほとんどの教科書では)それらが対等の立場で全世界を構成しているようには書かれていない。『主な』地域世界(たとえばヨーロッパ、中国)中心に書かれている。そうではなくて、この地球に住むすべての人々によって世界史はつくられていると考える。その地域が大きいか小さいかとか、人口が多いか少ないかとか、工業が発達しているかいないかとかに関わりなく、すべての地域が(アフリカであれ、太平洋の島々であれ、北極周辺地帯であれ)世界史をつくることに参加しているとみる。対等ということは、それぞれの地域世界は、自立し、歴史・世界史をつくっていく主体であると認識することである。各地域世界の違い、個性ある歴史と文化の存在を認める目をもつということであり、どの地域をぬかしても全地球世界史は成立しないという立場である。」[注8]
 さらに言えば、歴史をつくる主体は個人である。『世界と日本の歴史』という本に目をとめた鹿野政直氏は次のように言っている。
 「(自分が)日本人であることをア・プリオリ(生得・必然的)のものとしない観念、人類が過去から続いてきて未来へも続いてゆく存在で、私たちは(たまたま)そのなかの20世紀末という時点に立っているとの認識、日本を世界のなかの(みな同じ比重をもつ)一員とする捉え方、人々が懸命に生きることに眼を向けさせようとする姿勢、そこには様々の喜怒哀楽があるとする把握、そうした暮らしの積み重なりが歴史をかたちづくったとする見方、だから誰もが歴史に規定されているとともに歴史をつくっているのだという主張、それらがぶつかりあい融けあって、読者にしみとおる。当然そこでめざされるのは『日本史のなかに世界史を発見し、世界史のなかに日本史をみつけようとする試み』『その組み立て方によって、今まで見えていなかったことが見えてくること』となる。」
 とはいえ「もちろん地球上のすべての人間をとりあげて(歴史教科書)を書くことなぞできるはずもない。また網羅的にとりあげれば、それで(あるべき歴史叙述という)目的を達するというものでもない。(従来の、ヨーロッパ中心の世界史、中国中心の東アジア史、中央の政治・経済・文化が中心の日本史、などが切り捨ててきた地域・人々・事象が)視野に入っているかどうかの問題であろう。そして、とりあげられた事実・問題が、有機的に、構造的に書かれているかどうかである。」
 そのような眼(たとえば、アイヌなど北方先住民から・沖縄から・日本の植民地から、「障害者」や「賤民」から、女性から日本史を見る視点、農山漁村民や都市細民から貴族政治や幕藩体制を見る視点など)で叙述し直すことによって、新しい日本史が現れ、そのうえに立つて眺めるとき新しい世界史が立ち現れる。あるいは、そのような視点(たとえば、アメリカ大陸やオーストラリアの先住民からヨーロッパ人の侵略を見る視点、アフリカなど第三世界の諸民族・民衆のうごきから帝国主義体制の形成を見る視点、太平洋諸島民から太平洋戦争を見る視点など)で書き直すことによって、新しい世界史像が姿を現し、そこから振り返るとき、新しい日本史が誕生する、ということであろう。
 視座を転換し歴史をそのような角度から書き直そうとすること−ユーロセントリズム(欧州中心主義)や中央権力交代史・各国史集合世界史などからの脱却、重層的階級闘争の観点・反権威主義の導入、地域生活史や各民族(国民)文化内部の階層別文化の多様性の尊重など−は、結句、一人ひとりの実存性:いのちと暮らし・文化のかけがえのなさを重視するとともに、その深層を貫く大きな流れ、即ち、類としての人間の歴史が、各地でそれぞれ固有の生成・発展・成熟・衰退のプロセスをもつ一かたまりの時空を発展的にいくつも積み上げながら、総体としてめざす究極的方向、その方向へ歴史を変革してゆく真の主体と条件と推進力は何か、を探りだす営みに他ならない。
 私たちも、上述のような課題意識をもって、新しい世界史のなかに新しい日本史を、新しい日本史のなかに新しい世界史を、発見する創造的試みに挑戦したい。

4.世界現代史

 上記3のような課題意識と視点で、とくに日本を含む世界の現代史を取り出して学習する。
 近・現代史、とくに日本の現代史は、これまで教科書に載ってはいても−もともと軽い扱いでごく大雑把に記述される傾向があるのだが、それでも−入試問題にあまり登場しない、あるいは、授業時間が足りないなどの理由で、実際の授業では多くの場合省略されてしまうという、古くて新しい問題がある。これには、歴代の政府や体制の評価に直接つながりかねない、まだ生臭い、近い時代の歴史を生徒たちに触れさせたくない支配層の思惑や、「現代史」はまだ歴史的評価が定まっていないから、授業で扱うのは避けるべきだ、避けたいという教育関係者その他の考えも、からまっているだろう。
 しかし、「過去に眼を閉ざすものは、現在を視ることもできない。われわれは、過去を心に刻むことを通してしか、前へ進めない。心に刻むとは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを誠実かつ純粋に思い浮かべることである。」と言うヴァイツゼッカーの言葉にもあるように、歴史は、過去の事象を対象とするが、それはあくまで現在と対話するための過去であって、決して単なる過去ではない。現在の問題意識から出発し、過去へのパースペクティブの視点はつねに現在に定置される必要がある。(天文学者が宇宙の謎を解こうとして天空に向けた望遠鏡に、いま映るのは、何万光年の過去の宇宙の姿だ。)従って、歴史学習においては、それぞれの社会が現在抱える問題・将来予測される問題にどう立ち向かうかが、最も重要な課題になる。
 そうだとすれば、現在の社会状況を生み出した原因や理由を、間近な過去から順次逆上って探究したいという学習者の自然な欲求に応えないことは、極めて非教育的なことと言わねばならない。たとえば、日本が、さほど遠くない過去に、台湾や朝鮮を植民地にし、アジアや太平洋の島々を侵略し殺戮と略奪と強姦を重ね、アメリカはじめ世界40〜50カ国を相手に無謀な戦争をし、ベトナム戦争では侵略国アメリカに日本国内の基地を提供し後方支援したこと、等々を知らずに、現在の日本を、日本に向けられた国際社会の眼差しを、そこにおける現在の日本の位置・立場・在り方を、正しく認識することはおそらく不可能であろう。
 ちなみに、現代史教育では特に、史料的信頼度の高い、幅広い角度からの史料・資料を出来るかぎり豊富に提供し、それらをもとに、なるべく生徒たち自身に事実の確定と原因・結果についての推理(判断)をさせることが重要である。ことに、日本の軍事的・経済的侵略に係わる歴史的事実や天皇の戦争責任などを学校で教えることを、「自虐史観・東京裁判史観」などと非難し、教科書を書き変えさせ、あるいは、過去の事実そのものを葬り去ろうとする政治的・暴力的勢力の跳梁がある昨今、その点には一層の留意と努力が必要である。
 また、同じ歴史的事象でも異なる側面をもつこと、そしてその評価は時限的・局限的にとどまらずトータルに行うべきことを、学習の過程を通じて認識させることも欠かせない。たとえば、世界の20世紀は、一面では、君主制の衰退・帝国主義とファシズムと全体主義の興亡・2回の世界大戦と40年余の東西対立・戦後世界のアメリカ一極化の世紀であったが、他面では、共和制の拡大・民族自決(独立)と民主主義の壮大な進展の世紀であった、ように−。

 【代替案】社会(人文)科学系の必修科目として「日本史を含む世界史」が設置できない場合は、それを選択科目に移し、この「世界現代史」に「近代史」を加え、「世界近・現代史」として共通必修科目とする。
 単独の日本通史は、社会(人文)科学系の選択科目として設置する。

5.政治

 教育基本法第8条には、「良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなけばならない。」とある。私たちは、この条項の精神を正しく受け止めて、政治という、だれもが関わる社会機能についての基礎的・原則的知識、現実の政治についての科学的判断力、地域住民として身につけるべき自治的行動力の育成を、共通教養の一環としての政治教育の目標に置く。
 1954年、政府は、同法同条後段の、「法律に定める学校は、特定の政党を支持し、またはこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。」という部分を捉え、いわゆる「教育二法」(教育公務員特例法の一部を改正する法律・義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法)を警官隊の力をかりて成立させ、教職員の思想と政治的活動の自由を奪い、学校での政治教育を禁止した。たしかに、発達途上の子ども達に特定の政治的イデオロギーを注入することは、教育的配慮という観点からも、また、政治的価値判断や行動の選択は各人の自由にゆだねられるべきだとする近代的自由の原則からも当然である。しかし、個々の教員が社会人・主権者として自由に政治的信条をもち、政治的活動の自由を確保することは、すべての国民に保障されるべき基本的人権に属することであり、また、上記のような「良識ある公民たるに必要な政治的教養」を子ども達に政治的価値判断や行動の選択の基礎として身につけさせることは、「平和的な国家及び社会の形成者・自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成」を期す教職員の活動と矛盾しない。
 戦前、教育勅語の趣旨に基づく修身教育や、天皇制国家体制と超国家主義イデオロギーへの絶対的服従を強いた公民(皇民・オオミタカラ)教育が行われていたが、それは、現実政治に対する科学的究明・批判を遠ざけ、近代的市民の基本的人権である参政権の制限をうながしたことでは、強力な「実質的な政治教育」であり、民主的な政治教育を否定する「隠れた政治教育」であった。戦後も、歴代政府は、上記の教育二法による政治教育の禁止、日の丸・君が代の強制を通じた天皇制イデオロギーの注入、「期待される人間像」・学習指導要領・教科書検定などによる教育内容統制、自治的活動の抑圧、生徒の政治的活動の禁止、などによって、子ども達を、あるべき政治教育から隔離する一方、「彼らの政治教育」に浴させることに腐心してきた。その結果は、彼らの意図どおりであるか否かは別にして、子ども達や教職員の間に政治的無関心・無知やシラケを広めたり、暗黙のうちに、あるいは、無自覚に、既成の支配政党の政治を支持・容認する状況を生んだりしている。
 かくて日本人は、世界に冠たる「政治オンチ」「最も治め易い」国民と言われる。民主的な政治教育を共通必修科目として設置することは、(学校教育法第42条で)「国家及び社会の有為な形成者として必要な資質を養」い「社会について、広く深い理解と健全な批判力を養」うことが目標に定められている高校の、教育課程編成における中心的課題のひとつといえよう。
 授業では、理念・原則・一般論だけでなく、後掲の「現代の社会」と連係させながら、世界と日本の実際の重要なあるいは典型的な政治過程も、客観的な視点で、教材の中に組み込むように努める。また、しばしば「関係ない」と思い込んでいる政治と生徒自身や家族・友人・愛する人などとの関わりを、現実の生活の中の身近な事例を糸口にして気づかせ、漸次学習の核心に導くような工夫も必要である。

6.思想と宗教

何事によらず、過去の遺産の選択的継承がその後の発達・発展の基礎に必要なように、どのようにして人類が長い年月をかけて精神世界ををつくりあげてきたか、その歴史を−たとえばヨースタイン・ゴルデル著『ソフィーの世界』のように−「私の」現在の問題意識からたどることは、子ども・青年の確かでゆたかな内面形成と絶え間ない人生の闘争ための基礎的準備に欠かせない学習の一つと言えよう。とりわけ、自分らしさ(アイデンティティ)を育むゆりかごとなる「子ども期」を喪失し、各種の共同体の解体と精神の枠組みの溶解が激しく進行する現代を漂流する日本の若者たちにとって−。
 今日の子どもの成長・発達における最大の問題は、生活と学習における「自主性・目的意識性」の衰弱にあると言われる。そこで、しばしば、子ども達のなかに「自主性・自主的判断能力・目的意識性」を育成することが、教育実践の目的の中心に据えられることになるわけだが、その際に根本的な問題となるのは、その自主性・目的意識性がどのような価値に向けてのものなのか、つまり価値の「方向性」ということである。「人間の行動を終極的に決定するのは、その人がほんとうには何を大切に思い、何を軽く見ているかということ、その人格の根底にある価値意識である。」人々が思索と実践の歴史を貫いて追究してきたのも、この人間として共通の「根源的価値」あるいは真理・真実であったと言っていいだろう。
 ただし、この教育を通じて子ども・青年に求めるものは、先人達が「普遍的・根源的価値」を追究してきた道程を跡付け、すでに出来上がっている思想を知識として蓄えることではない。それらは、いわば、学習者が主体的にみずからの思想を育てるための栄養素のひとつにすぎない。肝心なのは、自分自身が「思想する」こと、「実践が提起する課題との対決・格闘、そしてこれをつうじてみずからの難路をきりひらき、みずからの展望をかちとってゆく」ことである。
 いわゆる思想と宗教の境界を截然と分けることは困難であるが、ここでは、下記のように大雑把に定義した宗教以外をすべて思想として分類しておく。
 思想の部は、哲学史が中心になるが、採り上げる対象を、定番メニュウとなっている古代ギリシャ・ローマ哲学を源とするヨーロッパ思想などに偏らせることなく、ひろく世界全域に−とくにこれまで無視され軽視されてきた諸民族の思想にも−求める。そのうえで、それらが全体として人類の思想世界を構成していうという認識のもとに、教材を精選し編成するよう留意する。日本の思想史も扱う。
 宗教の部は、宗教を、古代ギリシャのデモクリトス以来の無神論の系譜と比較しながら、社会(人文)科学の方法で分析する。ここで宗教とは、「超自然的な神が実在し、その超能力が自然や人間を支配している、という思想・感情・行為の総体。それぞれ固有の神話や神学(教学)をもち、『畏れる』『崇める』などの宗教情操や、『拝む』『祈る』『祭る』などの宗教儀礼をともなう」[注12]ものを言う。神話や伝説、アニミズム・呪術・トーテミズム・シャーマニズム・その他の原始宗教、民間信仰・迷信、なども、ここに含め、文学や神話学・文化人類学・民族学などの研究成果を活用する。
 世界宗教が中心になるが、新興宗教やセクト・カルトも扱う。キリスト教・イスラム教・ヒンドゥ教・仏教などの世界宗教の歴史と現状を、社会科学・人文科学の眼を通して捉える。それぞれの教義の概要についても学習する。また、信仰者の体質や心理についても、心理学的アプローチを試みる。その他の主要な宗教、たとえば、ユダヤ教・儒教・道教なども、同様に概観する。神道については、とくに歴史的・政治的な角度からの検討が重要である。イギリスのホーム・チャーチなど、教会のヒエラルキーや職業的・特権的聖職者の存在しない、無教会(寺院)運動も新しい信仰のかたちとして触れる。
 宗教弾圧と信教の自由・宗教への(また、宗教相互の)寛容や政教分離の原則、宗教者・宗教団体の戦争責任、宗教法人法、教団の集票マシーン化・体制維持部隊化などに関わる問題を実例を挙げて学習する。
 日本のいわゆる新興宗教についても、主なもの(天理教・金光教・霊友会など)を概観する。セクト・カルトについては、フランス国民議会の1995年12月の報告書『フランスにおけるセクト(カルト)教団』の定義が参考になる。カルトについては、オウム真理教や統一協会、ヤマギシ会などの裁判記録や研究書・報道・ルポなどを教材にして学習する。マインド・コントロールについても、心理学的に分析する。(現在わが国では、新しく発足した宗教の方が宗教運動の主流を占めており、その活発な動きは、精神界のみならず社会全体に−中央・地方の政治にさえも−大きな影響を及ぼしている。学習の即効的な実用性という観点からすれば、この部分にこそ重点を置くべきかも知れない。)
 わが国では、信教の自由を前提として、国・地方公共団体や国公立学校・社会教育機関では、宗教教育・宗教的活動を行ってはならないことを、憲法・教育基本法・社会教育法などで規定している。この教科で、宗教的情操を育てたり、特定の宗教的信仰に導いたりすることのないように、充分の注意が必要であることは言うまでもない。

【代替案】これに類似した科目に「倫理」があるが、ここでは思想や宗教を倫理という観点で括ることをせず、さらにひろく、主体的な内面形成に資する人類の「普遍的・根源的価値」の探究の遺産を学習対象としている。(倫理・モラルは、後述のように、各人の全生活・全学習過程を通して総合的に独自に形成されるべきものである。)したがって、「倫理」で代替する場合も、この趣旨を生かすように教材の編成と指導を工夫するようにする。

補論 「心の教育」について

 文部省は、世界経済競争と新自由主義政策下の個人レベルにまで及ぶ弱肉強食状況にあって自己啓発・自助努力でたくましく「生き(残)る力」を養うとする教育政策を押し進めているが、「酒鬼薔薇斗」事件を契機に急遽「心の教育」というものを付け足した。この「心の教育」について、(97年末)現在中教審で審議中とのことだが、その内容は、どうやら、子ども達の問題行動の原因をもっぱら子どもの資質や親子関係・教師の指導力不足などに置く従来の路線の延長で、道徳教育を強化し、さらには修身教育を焼直し復活させ、アメリカへの隷属という枠組みの中で日本人としてのアイデンティティと愛国心を育むようなものになる気配である。
 「こころ」とは、思考・感情・意志の三部門からなる心的能力であるというのが一般的定義である。また、同類の概念に「精神」があるが、これは哲学的には「世界的な原理・理性的な根源力」の意味で用いられることが多い。そこから転じて、「こころ」の中でも高次の要素がしばしば「精神」と言い換えられる。「こころ」は、ときに、肉体から分離独立した存在として二元的に捉えられ、ある人々によっては、「たましい」などとも呼ばれて、神の存在と結び付けられもする。[注13]文部省は、伝統的に、人間を心(あるいは魂)と体の二元論で捉える傾向が強く、おそらく、「心の教育」における「心」は「倫理をつかさどる部位」に限定され、そのめざすところも、個々人の内面に現れる矛盾や葛藤を精神主義的に処理する方向に定められることになるだろう。しかし、人間の健全で自律的な内面をつくる営みは、そのような、権威主義的な徳目注入の方法で成就するものではないことは、敗戦前までの「教育勅語」などにもとづく修身教育や戦後の「期待される人間像」などによる道徳教育の結果が明確に実証している。(例えば、それは、戦中や敗戦後の混乱の中でしばしば引き起こされた皇軍将兵の破廉恥な行為に、端的に露れた。)
 そもそも、人間は全一的な有機体である。生気論・二元論が説くように、こころや精神が肉体と別個に存在しているわけではなく、倫理・道徳感覚を専門につかさどる脳の分野があるわけでもない。そして、「思考・感情・意志の能力」の総称たる「こころ」もまた、全一的有機体の一機能として、生命体の各部と同じように、内的条件(遺伝的要因)と外的条件(環境)との相互作用を通じて、発達(つまり分化・複雑化・構造化というプロセスをとりながら発展的に変化)する。
 したがって、人間のこころのありかとされる内面世界は、まず、「権利としての教育」−すなわち、すべての個人の人間性の全面的・調和的・個性的発達、とりわけその知的・精神的自立、科学的世界観・人生観の形成、主権者としての社会的・政治的能力の養成、労働能力の基礎の形成を目的とする教育の保障によって発達の可能性が開かれる。また、そのような、意識的・意図的・計画的な人間形成の作用の他に、「社会的形成」−すなわち、社会生活の中での言語、感性、価値観、行動様式、規範意識などの(無意識的・非意図的・非計画的)形成が並行して行われるが、教育・学習が、「社会的形成」に対して、批判的視点を保持しつつ、教育的価値の実現に向かってそれをうまく統御できたとき、人間性の発達の可能性はさらに高くなる。[注14]
 権力や権威によって外から強制的に与えられた社会的規範・規律ではなく、各人の自主性と自覚−「自己が自己だけの存在でなく、社会的な連関においての自己であり、自己の行為は社会的共存のために高められねばならないという」自覚−にもとづいたモラルは、民主主義思想や民主的・自治的行動能力とともに、そのような全体的・全面的発達の過程で、(自己と他者との、自己の内部での)種々の矛盾を止揚しながら、段階的に獲得されるのである。また、そのような主体的モラルの形成なしには、人は、不正や腐敗・理不尽・欺瞞・偽善・頽廃を見破り、それを自らの行動で正してゆく力を身につけることもできないだろう。
 付言すれば、今日の子ども達の危機は、生活(環境)と人間関係の急激な変化・変質の下で、乳幼児から青年にまで及んでおり、とても家庭や学校(教育)だけ対応できるものではなく、子どもの発達過程と生活(環境)全般にわたって総合的・継続的に対応するという視点が欠かせない。すなわち、教育・医療・福祉・文化など幅広い分野の専門家が、子どもやその家族と苦悩を共有しながら理解を深め、タテワリの壁を破って連携・協同し、チームで問題解決を支援するためのネットワークづくりが決定的に重要である。また、急増する暴力的少年犯罪への学校の対策について、佐藤学がアメリカの例を挙げ、つぎのようなコメントを加えている。
 「わが国の教育で参考にすべきなのは、所持品検査の方法よりも、暴力の根絶をめざす多数の教育プログラムだろう。1.仲間と協力して抗争を調停する学習、2.暴力による解決を思考による解決に置き換える学習、3.葛藤や対立を感情的に処理し知的に解決する道筋を探究する学習など、暴力に対抗する知性と想像力を育てる教育が、多くの学校で正規の授業として取り組まれている。暴力の原因は多様で複合的だが、ニヒリズムとの闘いこそが克服の鍵と言ってよい。虚無感に覆われた少年の内面に確かな自尊心を蘇らせ、人間の尊厳と信頼の感情と平和な社会を築く強靱な意志を育てる教育を粘り強く推進することこそが、破滅的な暴力の闇から脱出する道を準備するのである。」[注15]

7.現代の社会

 地理・経済・政治・歴史などの学習のうえに、あるいはそれらと並行して、「現代の社会」という枠の中で、つぎのような内容を相互に関連づけながら学ぶことを通して、今日の日本社会の構造とダイナミクスを世界全体との関わりの中で立体的に把握しつつ、そこに生じている諸矛盾を分析し、その解決への見通しを探る。

(1)憲法

 わが国の教育の根本法にあたる教育基本法は、前文で「(日本国憲法)の理想の実現は、根本において教育の力にまつべきである。・・・憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。」と述べており、この規定と、教育の目的を定めた第1条によって、憲法教育が法的に(学校および社会)教育の基底に据えられた。これを受けた1947年の学習指導要領は、教育の中心に憲法教育を置き、また、憲法理念を学校内外の日常生活に生かすことを目的とする教育をすすめようとした。(現在、『あたらしい憲法のはなし』等その具体例を『文部省著作社会科教科−日本図書センター発行−にみることができる。)
 しかし、憲法を「連合軍の押しつけ憲法」として「改正」をもくろむ歴代自民党政府は、その後、憲法教育を次第に歪めてゆく。すなわち、学習指導要領と教科書の改訂のたびに、授業時数削減や教科書での軽い取扱いなど憲法教育の軽視、憲法知識の細切れ化と憲法理念の変質化・形骸化、などの傾向が強まり、今日では、教育基本法制が定めている憲法教育の理念と内容とは大きく異なる「教育」が、政府・文部省によって実施されている。(ちなみに、公務員には憲法99条で憲法の尊重・擁護の義務が定められている。その一員である教職員の免許取得要件について、かつては日本国憲法の修得が必須となっていたが、現在では不要とされている。)
 このような政府の姿勢に対して、憲法擁護の陣営から厳しい批判や反対運動が展開されてきたが、政府は、「国家の教育権」説に基づき、その姿勢を固持するばかりか、いっそう強化さえしている。加えて、昨今では、国会の自民党政治翼賛体制(オール与党化)の成立を好機として、従来の手法である「解釈改憲」による憲法の空洞化から、第9条の削除などの「明文改憲」へと、戦略を転換しつつある。
 こうした、戦後一貫して続けられてきた政府による憲法の「継子いじめ」は、「憲法は企業の門を入れない」とか「官僚の憲法は先例である」とかの例えに代表されるような、さらに端的に言えば、「憲法は六法全書から外へは出られない」というような、憲法不在の状態を社会全体にもたらし、国民の意識と日常生活の中へ「憲法疎外」が広く深く根を下ろす要因にもなっている。
 そのうちでも最も大きな問題は、60年代に始まる高度経済成長政策のもとで形成され、今日に至る日本の「企業社会」の体質の影響である。日本の企業では、正社員・従業者に平等な昇進の機会と処遇のシステムをつくる一方、労働能力や業績で格付けするよりも、彼らの全生活の企業への貢献度と忠誠心の度合いによって、昇進と処遇を決めるという、独特の査定制度を導入している。企業内での人格にも及ぶ権威的従属関係が、企業外の私生活、さらには彼らの家族にまで拡大・延長する構造がつくられているのである。こうして、国家(公権力)が国民の自由と民主主義を抑圧する以前に、企業が思想・信条の自由などの基本的人権を侵害するという事態も生じた。学生運動への参加経験を理由に新入社員を解雇したり(三菱樹脂事件)、特定の組合に所属しているという理由で転属・解雇したり(国労事件)、特定の政党員であることを理由に昇進・処遇の差別や暴力的抑圧を加えたり(東電事件など)などの人権侵害が、企業社会の内部で続出している。企業社会のイデオロギーは、社員・従業者の意識と言動を通して家庭内に入り込む。
 そのような状況にある今、私たちは、憲法「改正」の企みを打ち破り平和で民主的な国家の基本的枠組みを護るためにも、その最も基礎的で緊要な方策として、教育基本法の定めに正しく則った憲法教育−すなわち、憲法の基本精神と内容を理解させ、その諸価値をあらゆる機会に教育の場に生かし、人権の自覚や感覚を実践的に身につけさせる教育−の回生を図ることが不可欠であることを深く認識すべきであろう。

(2)教育基本法・学習権宣言・世界人権宣言・国際人権規約・子どもの権利条約

 それぞれのエッセンスを抽出して、教育基本法の学習で、日本の教育(制度)の本来あるべき姿を、ユネスコ学習権宣言の学習で、人間にとってそもそも学習とは何か、その普遍的意義を、世界人権宣言・国際人権規約の学習で、人権についてのグローバル・スタンダードを、子どもの権利条約の学習で、国際的に承認され保障された、生徒自身を含めた子ども達の諸権利の内容を(同条約の遂行に責任をおう国連子どもの権利委員会の活動を含め)学ぶ。

(3)日米安全保障条約・行政協定・経済協力・地位協定・安保共同宣言・物品役務提供協定・防衛協力指針

 自民党政府とその亜流政府は、とくに80年代以降、アメリカと日本の間の軍事同盟にすぎない安保条約−日本全土を米軍の前線基地に提供する同条約と在日米軍の存在・駐留経費の負担自体、直接であれ間接であれ戦力の保持を一切禁じている憲法第9条に違反しているのだが−を、最高法規であるべき憲法はじめ我が国の一切の法令・制度に優先させ、アメリカの要求に積極的に応じ、軍事・政治・経済の全面にわたって、日本をアメリカの世界制覇戦略に組み込む企てを強化してきた。そして、このような新植民地的体制の構築の延長上で、「世界に貢献する国家体制」づくりを名目に、憲法第9条を主柱とする憲法の平和原則をないがしろにして、違憲の軍である自衛隊の海外派兵を本格化させる策動や、「米軍用地特措法」の改悪による沖縄の私有地強奪の追認(半永久米軍基地化)、米軍基地の沖縄県内たらい回しなどをはじめ全国の米軍基地機能を強化・近代化する策動、日米戦争マニュアル(ガイドライン)の改訂によって、戦時法制を整備し、アジア・太平洋地域での(さらには世界中の)自衛権の発動とは関わりのないアメリカの軍事干渉や戦争に、日本が主権を放棄し自動的に官民挙げて参加・協力する総動員体制をつくる策動、そして、国会に憲法調査委員会を新設して憲法第9条の「改正」をねらう策動、等々をつぎつぎと強行している。
 今日、アジア・太平洋地域の安定と平和に対する最大の脅威は、この地域の政治が相対的に安定し、ASEAN 東南アジア平和・自由・中立構想、同非核地帯条約、同地域フォーラムなどをベースとする安全保障対話が活発化している新しい情勢に逆行して、日米が軍事同盟を強化し、軍事協力を拡大していること、すなわち、この地域に、アメリカ軍需産業が大量の武器を供給する一方、「唯一の超大国・全世界の指導者」を自認し「核拡散対抗戦略」(核兵器独占・先制使用)を採る米政府が、日本政府を従属させ、「日本領土専守防衛」を建前とする安保条約の枠を破る好戦的で時代錯誤の戦争準備・遂行メカニズムを作り上げようとしていること、から生じている。
 私たちは、生徒たち自身の将来を含め日本の運命をも左右しかねない日米軍事同盟体制づくりの根底に位置する日米安保条約・共同宣言・その他の関連協定・宣言・指針の、成立の経過と内容の意味することの要点を、正直に正確に教える責務があり、生徒にはそれらを知る権利がある。

(4)ILO(憲章)とILO条約、日本の労働法制

 社会人・労働者となる準備として、労働法制のグローバル・スタンダードと日本の状況を学ぶ。また、国内外の労働組合(運動)の歴史の概要と現状、とくに現代の労働問題とその解決の方法を学ぶ。

(5)時事教育

 歴史・政治・経済・地理その他の教科の系統的学習の総合によって科学的な推理力や批判力の発達を図りながら、自分たちをとりまく社会状況への関心を深め、メディア・リテラシーの学習をもとに時事的知識を批判的に摂取し、社会問題を解決する能力の基礎をつくることをめざす。

8.メディア・リテラシー(情報を読み解く法)

 (ここで、メディアとは、テレビ・ビデオなどの視聴覚媒体、映画、ラジオ、レコード・テープ・CDなどの聴覚媒体、写真などの視覚媒体、新聞・雑誌・本・マンガなどのプリント媒体、広告・宣伝、インターネットなどの大規模情報網、など、大量情報伝達媒体全体を指す。メディア・リテラシーとは、それらの媒体を通して発せられる情報を主体的に読み解き、みずからメディアによるコミュニケイションを創りだすための基礎的知識・技術・心理的構え、を表す。)
 情報化時代といわれてすでに久しい。昨今では、さらにマルチ・メディアとか通信衛星デジタル多チャンネル放送などというタームも飛び交い、メディアなしには一刻も生活できない時代がそこまで来ているかのような“常識”がつくられるまでになっている。そのような状況に対する検討はさしあたり置くとしても、マス・メディアが現代生活に極めて重要な位置をしめるようになっているのは間違いない。
 実際日頃私たちが認識し感覚していること、あるいは認識し感覚していると思っていることのすべては、直接的な経験を除けば、何らかのメディアを媒介にして間接的に得られたものである。言うまでもなく、どのような種類のメディアであれ、それを通して私たちに提供される「現実」は、どれほど精巧で迫真的なものであっても、現実そのものではなく、各メディアの機能によって様々に記号化された「つくられた現実」でしかない。したがって、どの種のメディアのどのような表現も、人(製作者・制作者)の手が加わっている以上、客観的でもニュートラル(価値中立的)でもありえない。しかも、メディアは、ほとんどの場合、企業その他の団体や行政に所有され支配されている。メディアの生産物は−直接制作にたずさわる者の思想・信条・価値観がどのようなものであれ−メディアの所有者・出資者・管理者・経営者またはスポンサー自身の(あるいは彼らによって構成される体制全体の)目的と利益に基本的に規定され、しばしばその内容が企画や制作の過程で操作される。言い換えれば、真実・事実がそのまま伝達されることを阻害しようとする力ががつねに働いているということである。こうして、メディアは彼らのイデオロギーが浸透したメッセージや意識・下意識向けの記号をひっきりなしに広範囲に発信しつづける。メディアは、単に世界についてのあれこれの情報を私たちに供給するばかりではなく、私たちの知覚(世界の見方・感じ方)や価値観の形成にも、意識すると否とにかかわらず、重大な役割を果しているのである。
 ところが、メディアが、社会のほとんどの領域で圧倒的な支配力・操作力を発揮するようになり、私たち個人の意識(または無意識)形成に大きな作用を及ぼすほどになっているにもかかわらず、また、とくに子ども達は、情報化時代のただ中に生まれ、人生の「最初のカリキュラム」(N・ポストマン)といわれるテレビやビデオ・ゲーム・漫画などを通じた情報のシャワーを毎日無際限に無防備に浴びて育ち、「造られた現実」と「現実の現実」との混同さえ起こしかねないような状況にあるにもかかわらず、文部省学習指導要領はもとより、ほとんどすべての初等・中等教育機関では、これまで、マス・メディアについての学習をカリキュラムの中に位置づけることはなかった。
 しかし、上記のような諸事実を直視するならば、メディアについての系統的な学習を始めることとは、現代学校教育(全階梯全課程)の不可欠の喫緊の課題と言わねばならないだろう。
 メディア・リテラシーの目標は、ひとつは、国民の「知る権利」をもとに、情報の「受け手」として、「メディアが、どのように機能し、どのようにして意味(社会的・文化的・政治的・経済的意味)をつくりだし、どのように組織化されており、どのようにして『現実』を構成するのか」(各メディアの特性、テクニック、その効果)について、それを解読し解析するのに必要な知識・技術・心理的構えを育成し、メディアに対する批評眼・鑑識眼・選択眼を養うこと。もうひとつは、子ども達自身が、メディアによる作品を制作する基礎的能力を身につけ、将来、メディアを改革し、自ら民主的な情報の「つくり手・送り手」になりうる素地をつくることである。要するに、「メディア・リテラシーの最終的な目標は、クリティカルな(批評眼・鑑識眼をそなえた)主体性の確立にある」と言えよう。[注16]

 メディア・リテラシーの教育・学習の具体的展開については、カナダ・オンタリオ州の教育省が編集した教育課程が、FTC(市民のテレビの会)の翻訳で紹介されているので、参照されたい。(カナダ・オンタリオ州教育省・編、FTC訳『メディア・リテラシー:マスメディアを読み解く』1992年第1刷・リベルタ出版)その他、メディア・リテラシーについての出版物には、鈴木みどり編『メディア・リレラシーを学ぶ人のために』世界思想社、メディア・リテラシー研究会編『メディア・リテラシー』日本放送労働組合、渡辺武達『メディア・リテラシー』ダイアモンド社、などがある。

【代替案】この学習は、独立した教科として自主編成するのがベストであるが、ヨコのカリキュラムとして位置づけることも可能である。

[注8]鈴木亮『日本からの世界史』、( )内は補足部分、[注9]田中孝彦『子どもの発達と人間像』、[注10]『岩波講座・哲学・第9巻・価値』、[注11]古在由重『思想とはなにか』、[注12]社会科学辞典編集委員会『社会科学総合辞典』、[注13]坂野登『こころの構造』、[注14]現代教育科学研究委員会『教育の原理とその展開』、[注15]朝日新聞・1998年2月25日夕刊、[注16]カナダ・オンタリオ州教育省(編)・FTC(市民のテレビの会)(訳)『メディア・リテラシー』

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解説3.数学系

1.算数・数学教育をめぐる問題

(1)算数だいすき
 小学校の低学年では、「好きな・分かる科目」の上位に数学(算数)が挙げられるが、学年が上がるにつれて、「嫌いな・分からない科目」の上位に移行してゆく、という多くの調査結果がある。
 原因・理由はいろいろ考えられる。初等数学(算数)の学習の段階で比較的多くの子ども達が好む理由を、遠山啓氏が推理している。[注2]算数では、おおむね静止し固定した平面的「世界」を対象とし、いつどこでも通用する普遍的な簡単な形式論理が適用される。また、ある調査では、算数は、最も生活環境(経験)の影響を受けない教科であることが分かった。それは、算数(数学)が、ある意味で、公平で民主的な特性をもつことの証拠でもある。現実の世界は、絶えず運動し変化しつづけており、複雑で曖昧、しばしば不条理・不公平で、子ども達にはスッキリ理解できないことや不平・不満がいっぱいだが、算数の「世界」は、単純で素直で明快で分かりやすい。白黒がハッキリしていて、ワルガキでも答えが合えばマル。「先生だって計算違いをしたら生徒にあやまるほかはない。」そこに算数が好まれる要因がある。「算数は原理がすこぶる簡単であって、その原理をよくつかんでそれを系統的に適用していけばよいのだから、別に本をたくさん読む必要はないし、もの知りである必要もない。正直でねばり強い子どもにならできるようになっている。」[注2](上記のような算数・数学の特徴は、数学的抽象−その現実的要素を抜き取った没価値的な純粋の形式性−とも深く係わっているように思われる。)

(2)算数・数学だいきらい・わからない
 他方、数学(算数)が嫌いになり分からなくなってゆく原因を、遠山氏は、算数や数学の教育法の問題の中に探っている。授業やとくに入試で、不必要でひねくれていて難解な、特殊な技巧や訓練が要るような問題を解かせて、人為的に数学(算数)嫌いを大量生産している、というのが氏のさしあたりの結論である。あるいは、単調な計算ドリル攻めも算数嫌いを増やした原因のひとつかもしれない。さらに源を探れば、算数・数学教育の内容から教育法まで細部にわたって規制してきた文部省学習指導要領の数学(算数)観の問題に行き当たる。
 中学校・高校レベルの数学の教育では、また別の問題が加わる。その一部は、数学自体の性格から生じている。そもそも数学は実在を反映するものである。人間の実践的な必要から発生し、数学の最初の諸概念・諸命題の誕生は、経験にもとづく長い歴史的発展の成果である。唯物論に立てば、(現代数学ではその関係がしばしば見えにくくなっているが)、少なくとも近代数学までは、それは明らかである。(たとえば、数・量・幾何学的図形の概念は、現実に実在する量的関係と空間的形態を反映しており、これらの概念は膨大な具体的な材料の概括にもとづいて形成された。)[注17]
 しかし、「数学は、一定の完全に実在的な材料をその対象としてもつが、ただこの材料を具体的な内容と質的特殊性を完全に捨象したうえで考察する」。つまり、実在の抽象によって初めて数学が成立する。「第一に、数学の抽象概念のなかには、他のすべてのものが捨象されて、量的関係と空間的関係だけが残される。第二に、数学の抽象概念は多くの段階を経て生まれ・・・自然科学に普通みられる抽象概念よりも、はるかに高度な段階に達する。」[注17]
 そして、抽象の高度化は実在との関係をますます希薄にし、ときに初歩的数学の学習期での好感度が低下あるいは逆転して、「数学における人間疎外」を引き起こす。(「整数という概念や幾何学的図形の概念は、数学のもっとも原始的な概念の一部にすぎない。このような簡単な抽象的概念にひきつづいて、抽象の程度が高まり、複素数、関数、積分、微分、汎関数、n次元空間、さらに無限次元空間などのような抽象にまでいたる多数の難解な抽象的概念が出てくる。これらの抽象的概念は、ひとつ又ひとつと積み重なり、その抽象性をましていく。そこではちょっと見たところ、生活とのあらゆる結びつきが失われ、凡人には、『すべてが理解できない』というほかには、何一つ理解できないように思われる。」[注17]
 また、そのような「数学の抽象的性格がすでに、数学の諸定理は概念そのものから出発して、思考による以外には証明されないという事実を大前提としている。」「自然科学者が自分の命題を証明するにあたって、つねに実験という手段にうったえるのに対して、数学者は、思考と計算だけにたよって定理を証明する。」[注17]ここから、数学の思弁的な性格が生まれる。数学に思弁的な推論がどうしても避けられないという点が、「数学は純粋思考のうちに根拠をもち、経験から出発するのではなく、先験的であり、数学が現実を反映することはない、という(存在と意識の関係が逆立ちした観念論的な)考え方に口実を与える。」[注17]ここにも「数学における人間疎外」が起こる原因がある。遠山氏は、観念論的な数学観の系譜から、「数学は(天下りに与えられた)いくつかの公理系から導き出される演繹的で自律的な知識体系であって、帰納をもとにする他の自然科学とは決定的にことなった学問である」という「公理主義」とそこから派生する数学無用論・数学至上主義を取り上げ、数学の生成発達の歴史を示してそれに批判を加えている。[注2]

2.数学史

 文部省学習指導要領に関わる数学教育の問題は、文部省の数学観や指導要領そのもののもつ問題性を改めさせるか、または、現場の教育実践によって克服するほか解決の方法はない。
 「数学における人間疎外」の問題、すなわち、数学そのものに内在する抽象性とその高度化による数学の生活からの遊離や難解化の問題、「公理主義」など観念論的数学観から発生する数学の空理化などの問題、そして、そこに由来する数学教育上の諸問題については、それらを解きほぐす一つの有効な手だてとして、数学の発達・発展史をたどることを提案したい。
 数学の特質として先ず挙げられるのは「普遍性」であるが、それに劣らず重要なのは歴史性である。数学は天文学とともに最も古い科学である。それは、他のあらゆる科学と同じく、点の一角から天下ってきたものではなく、人間によって−人間の集まりである社会によって−歴史的に形成された、実在(自然と社会)を反映する客観的な知識の体系である。古代・中世・近代・現代と、順次、複雑化し高度化し、あるときは連続的にあるときは飛躍的に質を革新しながら、発達・発展してきた。数学史は、また、数学が力学など他の姉妹科学との複雑な相互的影響のもとに発達してきたことも、われわれに教えてくれる。数学が人間と社会とによる知的活動の歴史的産物であるとすれば、当然数学は孤立した学問ではなく、文化全体の有機的構成部分であって、文化の他の分野との緊密な連帯性をもつ。実際、数学は、他のほとんどすべての科学、すべての現代技術、生活活動全体に広く適用されている。
 非常に長い年月にわたる漸次的変化によってつくりだされたものは、しばしば、永遠の昔からそのままで存在してきたかのように見誤られ易い。そこから、数学が人間が長い歴史の間に創りだした文化の一部分ではなく、なにか人間とはかけはなれた雲の上の理論であるという印象が生まれる。数学にかぎらず、自然科学一般は、論理的に一点のすきもない厳密で整然たる体系であり、人間の自由な創造力や構想力のはたらく余地のない非人間的な知識分野であるという固定観念が根強く広がる原因がそこにある。
 出来上がった数学や自然科学を外からながめると、たしかにそのような姿をしている。しかし、内部から見ると、外見とはまるで逆である。研究者の前には、闇に包まれた果てし無い未知の荒野が横たわっている。かれは、想像力という明かりを掲げながら、闇の中を進む。目的地(真理)を求めて、さまざまな予想をめぐらし、仮説を立て、さらに近づいて、その正誤を確かめる。仮説が誤っていれば、また新しい仮説を立て、さらに進む。そうして、運がよければ、数多くの誤った仮説の中で、一つだけが真理として生き残る。[注2]
 「数学が、さらに広くいって自然科学が人間の自由な想像力とは無縁である、という誤解を生み出したものは、これまでの数学教育、自然科学教育であるといっても過言ではない。既成の知識をできるだけ多量につめこむことにのみ力を注ぎ、それらの真理が多くの誤謬を犯しながら獲得されたという過程を子どもたちに追体験、もしくは拡大的に再体験させるという不可欠な手続きを抜かしているからである。」[注2]
 (古代ギリシャ起源の数学とは全く異なる発展をした中国の数学や、江戸時代に独自の発達を遂げた日本の数学・和算についても要点を概観する。)

3.力学と微分・積分

 積分学は、結局、距離の時間に対する関数関係が既知でるとき、任意の与えられた時点における運動速度を見いだす方法である。この問題は「積分すること」によって解かれる。積分法は、結局、速度の時間に対する関数関係が既知であるときに、通過した距離を見いだす方法(あるいは一般的にいえば、変量の運動の総和を求める方法)である。この課題は、積分法の課題、すなわち速度を求める問題とは逆の問題である。この問題は「積分すること」によって解決される。[注17]
 中世までの数学の特徴は、不変量を対象とするという意味で「静的」だということであるが、その時代に活躍したアルキメデスは、すでに中世的限界を超えて、つぎの時代の数学−すなわち、物体の運動や変化(変量)を探究する数学−の核となる微分・積分の入口にまで進んでいた。しかし、彼の達成は長く理解されず、中世数学の清算は、17世紀のデカルトの『幾何学』の登場まで待たなければならなかった。
 デカルトの始めた運動と変化を対象とする「動的な」近代数学をさらに押し進めたのが、微分・積分学であった。微分・積分学は、連続的な運動や変化に徹底的な分析・総合の方法を適用したものであった。いわば、連続的な変化を無限に細かく分割して瞬間的な変化に帰着させるのが微分(無限小への分析)であり、逆に、一度無限小へ分析されたものをつなぎ合わせてもう一度有限に帰るのが積分である。つまり積分は総合にあたる。
 微分・積分学が創りだされる直接の刺激となったのは力学の発達であった。16世紀から17世紀にかけての科学上の最大の課題は、太陽系の構成とその運動法則の解明であった。ガリレオとケプラーが、その秘密を明らかにしたが、彼らは、それを一般法則化することはできなかった。それを成し遂げたのはニュートンであった。彼とライプニッツがその目的のために考えだしたのが、微分・積分学である。ニュートンとライプニッツ以後19世紀まで、微分・積分学を原型とする解析学が数学の中心を成す。
 言い換えれば、近代数学はニュートン力学的な構造をもっていた。その最も良い例は、近代数学の主要概念である「関数」である。y=f(x)という関数において、xは原因、fは法則、yは結果という形をとることが多く、y=f(x)を、因果法則の抽象的表現とみなすこともできる。これは、原因によって結果が一通りに定まるニュートン力学的な因果法則の形と等しい。量子力学の誕生までは、理論物理学の仕事はすべて微分方程式を解くことだと考えられていた。
 19世紀は、現代数学の胎生の世紀となった。現代数学の特徴は−近代数学が、実在を反映するという意味で「自然模写的」であったのに対して−実在との直接的関係を問わず、人間の構想力を自由に発揮して新しい数学的体系をつくりだすという意味で、「構成的」である。この構成的方法は、1801年にガウス『整数論研究』によって受胎され、約百年の(カントルの集合論その他の貢献による)懐妊期間を経て、1899年にヒルベルトの『幾何学基礎論』で産み落とされた。
近代数学の主役は運動と変化であり−ニュートンが変量を時間の流れでとらえ、微分係数を「流率」と名付けたように−動的であり開放的(未完結)であり「時間的」であった。しかし、現代数学では、運動や変化は背景に退いて、静的で閉鎖的(完結的)な−たとえばカントルの集合は、不特定多数のものの集まりではなく、「他と明確に区別される」ある特定の条件(要素)に縛られている−概念でできた建造物ともいうべき「構造」が主役になる。その意味では、現代数学は「空間的」である。
 現代数学は、人間の構想力を思い切って解放することによって、数学という学問の地平をそれまでと比較にならないくらいの広さに拡大した。それは事実であるが、では「このような性格をもった現代数学は万能でありうるだろうか。実在は空間的であるばかりではなく時間的でもあるとすると、それに対応する数学もやはり時間・空間的でなければならないだろう。(しかし)そのような数学はいまのところ生まれてはいない。」[注2]
 ここで、青年期の教育・学習における誰もがエッセンシャル・ミニマムとして学ぶべき数学の内容を考えるとき、私たちは、より実在との関係が見えやすい近代数学までを、その範囲として捉えたいと思う。これが、近代数学の中核となる微分・積分を数学系の共通必修科目のひとつに据える所以である。

[注2]遠山啓『文化としての数学』、[注17]ア・デ・アレクサンドロフ「数学とはどのような学問か」遠山啓編『数学入門』


総合解説 高校数学の改革

1.戦後数学小史

 敗戦後、文部省はGHQ・CIEの指導・援助のもとで教育内容と方法の改革をすすめたが、その際、1947年・51年学習指導要領 (試案) や教科書の作成の基本理念をデユーイらの経験主義教育理論に求めた。47年に始まる「新教育」では、すべての教科教育の内容を、子どもの生活経験を最重要視する学習 (「生活単元学習」)の立場から構築しようとした。そこでは、系統的・論理的な学問・知識の体系よりも、子どもの生活経験が優先され重視された。(たとえば、「稲作の研究」や「家計の研究」「結核の研究」の単元は、『中等数学第3学年用 (2)』 の中にあった。)
 このような「生活単元学習」にもとづく教育実践の展開に対して、50年代始めに、数学教育・理科教育の分野から批判がなされた。遠山啓らの「数教協」は、科学の体系性にもとづく指導内容・方法を積極的に提起し、「生活単元学習」の見直しを迫った。58年・60年に改訂された学習指導要領は、「生活単元学習」を廃止したが、作成者が前回と同じメンバ−であったこともあり、数学教育の体系化に対しては、従来と同様に否定的であった。50年代は、文部省からの攻撃的施策が相次ぎ、教育の国家統制が強まった。指導要領も「試案」という性格が変更され、「法的拘束力」があるとされるようになった。また、全世界的な「技術革新」の中で、数学のレベルを飛躍的に引き上げることが産業界から要求され、指導要領はますます自律性を失っていった。57年にソビエトが打ち上げた人工衛星スプ−トニクに衝撃を受けたアメリカは、数学教育の「現代化」を唱え、その波は全世界に波及し、日本もこの影響を受け、68〜70年の「現代化」学習指導要領を生んだ。この指導要領は、こどもの発達段階や理解度を無視し、最先端の「現代数学」を、未消化のまま、大量の雑多な教材とともに、安易に算数・数学教育に持ち込んだ。つめこみ教育の強化は、大量の数学嫌いと「おちこぼれ」を生んだ。60年代は、高度経済成長政策を背景に、教育制度の能力主義的再編がおこなわれ、70年代には中教審が高校「多様化」をうたいあげるが、「おちこぼれ」問題はいっそう深刻化し、「教育荒廃」が社会問題化する。そこで、77〜78年の学習指導要領は「現代化」を取り下げ、代わって「ゆとり」をテ−マにした。学習内容の量と水準は「現代化」以前にほぼ戻って、その過密ぶりはやや緩和されたが、同時に授業時間数も減ったために、子ども達にも教員にも真のゆとりは生まれなかった。ひきつづく「教育荒廃」の中で管理主義教育が横行し、76年の任命主任制を始め教職員への管理体制も強化された。
 80年代、臨教審が次々と「教育改革」を提言する中、89年、リクル−ト疑獄に汚染された学習指導要領が改訂された。高校では、数学の科目選択において「差別感をあまり感じさせないでいっそうの多様化を図る」ことをねらって、数学I・II・IIIのコア科目と数学A・B・Cのオプション科目の2系列とし、体系性をいっそう後退させた。
 以上のように一貫性のない学習指導要領改訂を繰り返す一方で、文部省は、その間、能力主義と競争原理にもとづいて子ども達の差別・選別を図る受験体制の確立と、教職員への管理強化を通じた子ども達の管理体制の整備、高校教育「多様化」政策をテコとした学校教育体系全体の複線化などの推進に、一貫して、邁進してきた。そして、その差別・選別の中心的道具の一つとして数学が利用されてきたのである。
 こうして今日、「わが国の数学教育は崩壊の危機に晒されている。初等・中等教育における数学の授業時間は減り続け、消化不良の学生を大量に生み出している。さらに、大学入試センター試験が拍車をかけて、高校数学から考えることを排除し続けている。試みに、問題を考えながら解いてみると一時間の制限時間をあっという間に超えてしまう。考えたらよい点は取れない!センター試験は高校生に考えることをやめさせ、独創性が育つのを大きく阻害している。このままいけば、まもなく日本の科学技術は崩壊してしまうだろう。」 (上野健爾:京都大学教授[数学]、朝日新聞・1998年3月3日付)

2.受験数学=「学校の数学」の特徴と問題点

 数学は、上記のように、本来、古代以来の長い歴史を通して、人類が、創造力と推理力を駆使して、序序に発達・発展させてきた文化の一分野であり、自然や社会を反映する客観的知識の独自の体系である。それは、今日では、自然科学はもとより社会科学から芸術にいたるまで、現代文化のあらゆる分野に、基本的な、あるいは不可欠の要素として浸透している。言い換えれば、数学は、無数の経験の中から思考を通じて抽出された形式 (型) の科学であるばかりでなく、つねに現実と相互関係をもち、そこに生起する諸問題の分析と解決に大きな有効性を発揮する、応用性の高い実用的な学問でもある。つまり「生きた」学問なのである。
 しかし、受験体制のなかに、選別の道具として組み込まれた「数学」(受験数学) は、本来の数学の姿ををおおきく歪め変質させてしまった。受験数学の特徴と問題点を挙げると、おおよそ次のようになるだろう。

 (1)数学テストを選抜の手段につかうためには、誰もが解ける問題では役に立たない。そこで、数学の入試問題として、数学の理解力を試すのには必ずしも必要でない、もっぱら受験生を振るい落とすための難問がつくり出される。この難問解きに向けて、教材の扱い方、演習のやり方、評価の視点などが決められてゆく。学年が上がるにつれて、数学の学習は、テストで点を取るための、公式の丸暗記とその機械的適用の反復練習に傾斜してゆく。
 (2)子ども達は、入試問題の解法のテクニックの上達に全精力を傾けさせられるために、実在と数学との関係や、現実社会のさまざまな問題を数学を活用して解決していくという数学本来の姿を見失って、数学は単なる味気ない記号操作の技術だと思い込まされてしまう。
 (3)数学は、強い系統性をもっているので、その教育課程もやはり一貫した系統性を備えていなければならない。ところが、数・・といった系列と内容の分割は、数学の体系・系統に基づいているのではなく、実は、大学入試の出題範囲としての区分に対応しているにすぎない。これは、中学や小学校でも同様で、各学年での範囲や配列の原理は、自然や社会の法則性の探究からの必要性ではなく、また、児童・生徒の知的発達段階への考慮でもなくて、選別と序列化のための「テストの論理」にほかならない。
 (4)文部省の数学の教育課程は、「単線型途中下車方式」とも呼ばれるべきもので、小学校から高校まで通して、本質的には一系統しかなく、子どもの能力・適性・興味・進路などに応じてどこで下車する (打ち切る) かということだけで区別される。[注4]
 (5)受験数学をマスターし、難関の入試を突破した「優等生」たちの学力にも問題がないわけではない。大学関係者からしばしば指摘がある様に、彼等の多くは、与えられた問題に対してミスをしないように素早く解く注意深さと反応力は身についていても、数学に対する深い理解や応用力、数学をさらに発展させる源となる想像力・構想力・創造力には乏しい。

3.数学の教育課程改革案

 それでは、このような状況にある「学校の数学」を、本来の数学に回復していくためには、どの様に、その内容をつくり変えていけばよいのか。
 日教組・中央教育課程検討委員会 『教育課程改革試案』 が、私たちに、ひとつの方向を示してくれている。
 同試案は、初等教育から中等教育まで12年間の一貫した系統的な教育課程という全体構想のもとで編成されている。人間の数学的実践活動一般を、「数と演算」「量と関数」「点と変換」「統計」という4つのカテゴリ−に分ける。記数法や代数は、そのための言語的記号的手段とみなす。一方、子どもの数学的活動は、子ども自身の行動・操作・思考の協応に依存する面が大きいので、知的発達段階にかなり制約される。そこで、同試案は、前記のようなカテゴリーを縦糸とし、幼年段階 (5, 6歳)、 初等段階 (小1〜小4)、 中等段階 (小5〜中2)、 高等段階 (中3〜高3) という4つの知的発達の「節」を横糸として、表5のよう構成されている。

表5.数学教育課程改革試案
数と演算 量と関数 点と変換 統計 言語的側面 階梯
幼年 1対1対応
系列化
量判断
比較(直接・間接)
位置関係(上下・左右・前後)
線・面・形の知覚
  属性と集合
二重分類
初等A 小12 入門期の数、十・百・千
位取り記数法
加減の素過程
多位数の加減
乗法の導入、九九
長さ
かさ=液量
質的座標(1、2次元)
量的座標(1、2次元)
   
34 万・億・兆
多位数の乗法
除法の導入
多位数の除法
小数の導入
小数の加減と乗除
十進数のまとめ
重さ、1Lの水=1kg
角度
時間
面積・体積
点・直線
平行と垂直(平面上)
角・方位
区間と端点、植木算
折れ線・多角形
三角形・四角形
角の和
方体(2、3次元)
   
II
初等B 56 初等整数論
分数の導入
分数の加減と乗除
分数と小数
負の数の導入
正負の数の加減と乗除
四捨五入
有理数のまとめ
求積法(多角形)
求積法(円)
求積法(柱・錘・球)
平均
内包量(密度・速度)
内包量(流量・勾配)
量と単位のまとめ
対称(線対称・点対称)
三角形・四角形の分類

立体・展開図
面対称
平行と垂直(空間)
  文字と式
一次方程式
演算の関係
中12

無理数と平方根 正比例関数と内包量
複比例・反比例と外延量
1次関数(1、2変数)

ピタゴラスの定理
座標と量
投影図
ベクトル(加減・スカラー倍)
重心・面積
直線の式



確率(加法と乗法)
期待値
連立一次方程式
文字式
集合
ドモルガンの法則
III
初等C 2次関数・2次方程式
n乗に比例
落下現象
高1


23
  微分係数と内包量
積分法と外延量
初等力学
指数関数と内的成長
簡単な微分方程式
      IV
複素数
三角関数
微分方程式(2階線型)
振動現象
多次元量と数ベクトル
変位と幾何学的ベクトル
内積と角
外積と面積・体積
変換と行列
線型計画法など
確率分布(2項・多項・ポアソン)
正規分布(中心極限)
推定・検定など
マルコフの鎖など
 

4.高校の数学の現状と問題点

 高校の数学教育の現状と問題点は、前章で挙げた一般的事項と重複するが、次の3点を特記しておきたい。

 (1)大学受験対策の問題
 「受験校」では、授業のすべてが、大学受験対策に終始する。試験範囲をもれなくカバーすること、出題傾向に沿って重点的に教育・学習すること、点を取るためのテクニックを身につけること、などが、授業と学習の中心になる。本来の数学のもつ系統性は軽視され、現実社会での有用性などの実践的性格は度外視される。数学の「できる」生徒が比較的多いので、問題を解ける満足感や自信・優越感などが、逆に、想像力・構想力・創造力が試される本来の数学の学習から乖離していることへの疑問や批判を起こさせ難くしているという面がある。
 (2)高校間格差の問題
 適格者主義による入試選抜制度、大学区制、高校「多様化」政策などの下で、「輪切り」選抜が行われ、高校が序列化され格差づけられている。高校ヒエラルキーの下層に位置づけられた学校では、小・中9年間の中学・高校入試対策用の算数・数学の授業で苦手意識・挫折感・劣等感を深く植えつけられ、誤った算数・数学観と学習方法を身につけてしまった生徒たちが、あと何年間かの数学の授業に嫌悪をつのらせている。高校で初めて取り組む教科ではないので、ゼロからの出発どころか、根強い偏見と強固な先入観を抱いたままの、マイナス地点からの再出発にならざるをえない。数学は系統的に一段一段学習を積み上げてゆかなければならな教科なので、途中で「つまづいた」場合、それを挽回するのはただでさえ難しい。大きなハンディを負った生徒たちに数学への学習意欲を再生させるのはなかなか容易なことではない。
 (3)「超低学力」の問題
 ひところ、1/2+1/3を2/5と回答する高校生があらわれ、話題となったが、数学の学力の低下 (というより欠如) は、深刻化さをいっそう増しており、学校によっては、分数計算どころか、整数の四則計算もあやしい生徒がめずらしくなくなっている。基礎学力の低下あるいは空洞化の問題は、中位校以上の学校の生徒でも重大で、仮にある簡単な式の計算ができた場合でも、その意味はまったく分からないとか、実際の事例に当てはめられない、とかいうことがしばしばある。単純な現実の問題に対して、数学的方法を適用できない生徒は、さらに多数にのぼる。

5.高校の数学の改革への道

 これらは、上記のように、基本的に、歴代政府の文教政策と文部省学習指導要領体制が産みだしたものであり、高校生の能力や不勉強、「やる気のなさ」、 数学教師の力量不足などで片付けらる問題ではない。
 高校数学をとりまく状況は−他の教科の問題と同様−教育制度や、さらには社会制度にも大きくかかわっているため、抜本的な解決を図るには、文部省を頂点とした中央集権的教育行政の見直し (教育行政の自治体主権化)、 学習指導要領の法的拘束性の撤廃・教科書検定制度の廃止など、制度の刷新に大なたを振るうことが先ず必要であろう。そして、その上で、上掲の「教育課程改革試案」のような、数学教育全体の根本的な建て直しをしなければならない。
 しかし、その方向で改革をすすめながらも、当面、数学教師が日々の教育実践のなかで取り組むべきことがある。

 (1)これまでの数学 (受験数学) は、それ自体が基本的に大学受験のために組み立てられているので、そして、教師も一般にそういう数学に慣れているので、受験校ではもとより、それ以外の学校でも、ランクにスライドしてレベルダウンした「受験数学型」の授業が行われている。これに先ず深くメスを入れ病巣を剔出し、上記のような本来の数学へと再構成し、数学教育を再生させる。
 (2)そのためには、先ず、本来の数学の観点から、学習内容を最も基本的で重要な項目のみに絞り込み、それを時間をかけて徹底的に学ばせること。また、たとえば−数学と実在世界との関わりや現実問題を解明する手段のひとつとしての有用性などを知らせることをねらって−数学の学習を数学の中だけに閉じ込めないで、現実の問題や他教科との関連を取り挙げ、そこに積極的に数学的方法を活用していくことである。(下表はそのいくつかの例)

*自然科学の中で
正比例関数と等速度運動・濃度、重心と静力学、二次関数と落体法則、電気と複素数、人口問題と指数対数、放射性物質の半減期と指数対数、微分法と初等力学、ベクトル解析と電磁気学、単振動と三角関数、など
*社会科学の中で
経済の中の関数、線型代数学と線型経済学、線型計画法、社会と確率・統計など
*日本語・外国語のの中で
集合・論理と言語、数学の文法と外国語

 (3)「落ちこぼれ」問題の解消のために、数教協などの民間教育研究団体の数々の実践報告にも学びながら、「わかる授業」「楽しい授業」を追及してゆく。大きく「つまづいた」生徒には、いつもいつも「つまづいた」地点まで戻って同じことを何度もやり直すのではなく、生徒の自尊心を考慮した、年齢と社会経験に相応しい内容で、有効なバイパスになる教材を工夫したり、途中からの乗り入れも可能な柔軟な教育課程をつくる。

6.高校数学のあるべき姿を考える

 以上述べてきたことをまとめると、数学教育の大原則は、次の2点になろう。
  1. 数学固有の体系性にもとづいて<<系統的>>であること。
  2. 現実問題の処理に応用しうる<<実質的>>性格を備えていること。
 算数・数学教育の最終段階として位置づけられる高校数学においては、この大原則が、より明確に具体化されなければならない。
 そこで、私たちは、高校数学の主要な柱として、上掲の 『教育課程改革試案』「数学」を参考にしながら、「数学史」「微分・積分」「線型代数」「確立・統計」を据えた。そして、人類が長い年月をかけて創りあげてきた道筋を追体験する「数学史」と、具体的に自然現象や社会現象を分析・総合するうえで、最も有力な手法である「微分・積分」を、全ての生徒が共通に学ぶ必修科目とし、さらに、生徒の興味・関心・個性の分化に応じた選択科目として、「解析 (微分・積分の応用)」、「線型代数」「確率・統計」など配置した。(『教育課程改革試案』「数学」第4階梯 (高校) 講座の内容例を参照。)
 共通必修科目としての「微分・積分」は、従来の面倒な計算に終始する微分積分ではなく、微分積分の誕生の歴史的背景をおさえながらその基本的な考え方とその手法の習得を目標とする、自然科学と結びついた「力学と微積分」である。

参考資料 『すべての高校生に微分積分を』

高校段階の共通必修科目としての微分・積分の教育はいかにあるべきか。私たちは、その答えを遠山啓の諸論考と数教協の主張と教育実践の中に求めた。遠山啓の考え方をおさえるために、遠山啓 (著) 『すべての高校生に微分積分を』 (1978年発行) の一部を紹介しておきたい。

 いままでの微分積分の教え方は、無数の種類の関数を 100パ−セント微分積分しないと承知しないというやり方である。現実の問題にはでてこないような妙な微分をやる。実際にはないつくった関数をやらせているが、そういうやり方はやめないといけない。種類は少なくても、いちばんでてくる関数の微分の練習だけをやる。それでたくさんの問題が解決できる。新しい現象がでてきたら、そこで新しい関数を入れるという方式でやればよい。
 数学というのは、学問として、ある程度閉じてしまって (いるので)、 外界との接触をなくして、自己増殖してしまう危険がある。とくに、微分積分というのは、自然現象や社会現象を解決するという観点を失ってしまうと、生徒はぜんぜんついていけなくなる。そうすると面倒な計算をいやがる。それより、いかに現実の問題を解決して数学の切れ味をわからせるかという観点が必要である。
 高校では、たとえば、太陽系の惑星の運動法則などをゆっくり時間をかけてやる。コペルニクス、ガリレオ、ケプラ−、ニュ−トン……などを歴史的にやっていけば、それほど面倒な関数もでてこないし、微分積分の意味は実によくわかる。そういうふうに切り換えていくと、生徒もおもしろがるし、理解もできる。それは十分可能だと思う。外国にはそういう教科書があるが、そういうやり方だと、数学ぎらいはなくなってくるのである。
 ほんとうは微分積分などは数学のなかでいちばんおもしろいと思う。そして、いちばん威力のある学問である。………<略>………
 高校の数学は細かくたくさんの科目に分かれているが、少し乱暴にいうと、高校では、実際に即した微分積分をやれば、ほかは何もしなくていい。微分積分を柱にして、それをやるのに必要なほかのものを少しずつ加えていく。日本国民の93パ−セント (高校進学者) が、微分積分の意味がわかったとしたら、これはたいへんなことだと思う。それ以上、望まなくてもいいのではないか。
 そうすると知的水準が下がるかというと、けっしてそんなことはない。そういう生徒をつくっておけば、その中からいくらでも優秀なものはでてくるし、それは可能だと思う。そのためには、駆け足の授業ではダメで、いろいろ実験をしながら、数学と現実との関係を密接にしながらやっていく。
 数学の先生は理科や技術の先生と同じ覚悟をしなければいけないと思う。黒板とチョ−クの授業をやめて、道具をつくり、教具をつくって教える。……<略>……
 わたしは黒板をぶっとばせといっているのだが……

 そして、数教協は、「微分積分で扱われる量を、量の体系の観点から調べなおし、微積分との関連の下に、それらの量を系統づけること」を求め、微積分教育の改革の視点を以下の4点にまとめている。
  1. 微積分で扱う量を系統づけること。
  2. 微積分の基礎概念を、量の立場から見なおすこと。
  3. 幾何学的な要素を、量の図形的な表現という立場から見なおし、その中から適切なシェ−マをとりだすこと。
  4. 微積分の計算体系を考えなおすこと。
 その具体的内容を、1963〜1964年の数教協機関紙 『数学教室』 (国土社) に、宮本敏雄が「微積分教育の新しい方向」と題して、11回にわたって展開した。(数教協 『東数教ゼミナ−ル1』 に一括集録) ここでは、その第1回目 (1963年5月号) のはじめにある「外延量・内包量と微分・積分」を紹介したい。

 遠山啓氏が指摘しておられるように
 微分の演算は、「引いてわる」ことであり
 積分の演算は、「掛けてたす」ことである。
 この場合、加・減は同種の量の間に行われる演算であり、その結果も同種の量であるから、量の立場からみると、新しい量をつくり出すのは、乗除の演算である。
 したがって
  微分の演算は、本質的には、除法の拡張であり
  積分の演算は、本質的には、乗法の拡張である

といえよう。ところで、よく知られているように、乗除の最も典型的な場合は

  y[外延量]/ x[外延量] = k [内包量]

  k [内包量] × x [外延量]  = y [外延量]

である。このk、いわゆる1あたりの量、くわしくいえば、xの単位量の増しに対するyの変化量である。
 たとえば、水を容器にいれる場合、xを時間、yをその間の水の蓄積量とすれば、kは単位時間あたりに流れ込む水の量、いわゆる水の流量である。
 また、xを針金の長さ、yをその質量とすれば、kは単位長さあたりの質量つまり針金の質量密度 (線密度) である。
 ただ、このような乗除の計算ができるためには、kが一定でなければならない。つまり一様な変化 (一様な流れ)、 一様な密度分布の場合に限って、上のような乗除計算ができるのである。
 見方を変えれば、これは正比例の関係であり、kは比例定数にほかならない。
 しかし、この場合、比例定数kを単なる定数としてでなく、内包量として、1あたりの量としておさえておくことがきわめて大切である。これが、xについてのyの変化率の意味にほかならない。
 それでは、一様でない変化、一様でない分布の場合にはどうすればよいだろうか。この場合には、一様でない変化 (分布) を局所的に一様な変化 (分布) と考え、その変化率 (流量、密度) を求めねばならない。これが微分法である。
 また、そのような局所的な変化率が与えられたとき、それから全体の蓄積量 (分布量) を求めるのが積分法である。

 これは、微積分を、量の体系によって小学校の乗除の意味から掘り返し、その意味を明確に提起したものとして画期的なものである。この「微積分と量」をもとにした実践報告は、これまで数多くなされている。(ちなみに、つまらない・役に立たない・計算中心の「教科書の中にある微積分」をつくりかえていく原点として、授業での実践的な活用がいっそう望まれる。)

【参考文献】○日教組・中央教育課程検討委員会 『教育課程改革試案』 (1976) 一ツ橋書房、○日教組・教育課程検討委員会 『改訂学習指導要領批判と私たちの課題4・算数・数学科編』 (1989)、○『遠山啓著作集・数学教育論シリ−ズ』太郎次郎社、1.数学教育の展望、2.数学教育の潮流、5.量とはなにかT、6.量とはなにかII、○宮本敏雄「微積分教育の新しい方法」『数教協・東数教ゼミナール1』 (1988) 東数教、○数教協・提言『開かれた多様な数学教育をめざして』 (1995)、○森毅『微積分の意味』 (1978) 日本評論社

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解説4.ことば学系

1.母語

 ここで「母語」というのは、さしあたり、日本語のことであり、「非母語」という新造後は、日本語以外のすべての言語を指す。社会的慣行に従って、日本語を「国語」と言わず、国語以外を「外国語」と呼ばないのには理由がある。国語とは、いわば「国家の言語」であり、「国家が公用語として認定した言語」のことである。また、国語には、方言・地域語に対する共通語・標準語という含みもある。
 これに対して、「母語」というのは「母のことば・母から習ったことば」のことである。「我々は親から受けた肉体を通じて自然とつながり、母のことばによって社会とつながる。」(アイヒラー)という言葉にもあるように、人間が最初に習い覚えるのは、自分を直接育ててくれる人(多くは母親)の「話すことば」である。しかもそれは、ほとんどの場合それぞれの方言・地域語であり日常語・俗語である。そして、私たちは一般に母のことばであり地域のことばによって私たちの内面世界の土台を築くのである。
 たとえ国家が一定の言語(標準語)を「国家語」として領土内に定めたとしても、そこに住む一人ひとりには固有の母語すなわち「自分のことば」がある。(ちなみに、日本の生まれながらのロウ者のことばは、一般に、日本語とは体系の異なる日本手話である。)それぞれ固有の母語をもつことは、単一民族国家でなければなおさらのことである。(日本の国語は日本語だが、日本国籍人アイヌの母語はアイヌ語である。)母語は、親(保護者)と自分を含む言語共同体の歴史と文化と風土のかけがえのないシンボルなのである。(この意味では、厳密に言えば、狭義の母語は、各地域語を指し、共通語・標準語としての日本語は、広義の母語、あるいは「中央語」・「規範母語」・「超母語」、ないしは「最も近縁の非母語」という関係に位置づけられることになるだろう。母語とその共同体は、「超母語」としての共通日本語を媒体にして、自らと、地域言語共同体の集合体である民族言語共同体を維持し発展させてゆく。)
 つまり、母語という概念を基礎にしてことばの学習をする目的は、日本語(地域語と共通語)と日本語以外の言語の学習を通して、まず、標準語としての日本語が公式のことばであり、本来正しく美しく良いもので、方言(地域語)は、内輪だけで使うべき、マルダシにするのは恥ずかしい醜く劣った卑俗なことばである、という固定観念を除き、地域のことばの再評価を図ることであるが、それだけではない。もうひとつは、それと同じ原理で、日本に定住し滞在する他の民族の母語を人権・文化とともに尊重すべきことに気づくことである。
 私たちは、以上のような「事実」と理念を大事にしたい。そして、母語・「非母語」というカテゴリーを基本にして、「ことば学」系の教育・学習を構成したいと考える。
 また、言語には、音声言語と文字言語がある。歴史的には、どの言語も音声言語がまず創られれ、文字言語が後で創られている。文字を持たない言語はあるが、文字言語だけの言語というのはない。これまで我国の国語教育は、文字言語による教育が大部分を占めてきた。文字言語には、視覚性と記録性およびそこから生じる蓄積性・再生性・伝播性・正確性・情報量の大きさなど、音声言語にはない(あるいは乏しい)、優れた機能があるが、それを認めたうえでも、従来、学校でも社会でも、音声言語の教育(重要性)があまりにも軽視されてきた。私たちは、これを改めて、音声言語による学習に対し、文字言語によるそれと同等の比重を付与したいと思う。

2.ことばの学習の今日的課題

 ことばの学習には、もう一つ、今日的な課題がある。まず、昨今の青少年に一般的な傾向として、活字を嫌い、文章をじっくり読む集中力と持続力が乏しいという点、文章を書くことはさらに苦痛、書けないという点が挙げられる。同様に、人の話を正確に聞き取れない、(仲間同士での空疎なオシャベリは止めどなくするが)改まった場面では自分の考えをうまく言い表せない。これらの傾向の根底には、認識力(内言活動)の貧困という問題があると思われる。家庭も能力主義的競争に巻き込まれ、子どもの成長(試行錯誤)をじっと待つ余裕、情愛と心遣いのこもったゆたかなことばを失っている。代わって、テレビやゲームなど感覚器官を過剰に刺激するメディアの情報放射を繰り返し無防備に浴びつづけることによって、刺激に対する短絡的反応(ときには感情の暴発)のパターンが形成され、学校・塾では、組織された排他的競争のもとでの断片的知識の機械的暗記が教育の中心になっていて、自然や人間(社会)・良質の文化とのゆったりした相互作用を通じて、それぞれ独自の感じ方・考え方やその表現力、論理的な批判力などを養うことができない。また、近年のメディアの発展と情報の収集・管理・加工・利用・流通等における中央集権化によって、中央のマス・メディア文化が地方を支配し、それにともなって全国にわたる言葉の画一化という現象が起こっている。(ことばの画一化は、思考や感性・行動様式の定式化、価値観の一見多様なようだが本質は一元化でもある。)おそらくはそれも大きな要因となって、どの地方の青少年のことば(日常語はもとより仲間うちの隠語まで)も、語彙や表現の貧困化とともに画一化が進んでいる。ことばは人格の表現であるとするならば、人間性の根幹にも関わるこのような状況を、教育が見過ごすことはできない。
 図式的に言えば、音声言語による学習では、聞き取り、考え・感じ取り(内言活動)、話す・言い表す・語る、という一連の能力の発達が目指される。文字言語の学習では、読み取り、考え・感じ取り、書き表す、という一連の能力の養成が目指される。(実際には、両プロセスの各部分がいろいろに組み合わされる。)

(地域語としての母語を対象とする教育・学習については、まだ検討が不充分であるので、今回は、共通語・標準語としての日本語の教育・学習の提案にとどめる。)

3.日本語・文学

  (1) 「国語」から「日本語・文学」へ

 「ことば学系」のなかの「日本語・文学」は、従来の教科名でいえば、「国語」ということになる。「国家の言語」という意味をもつ「国語」という名称はつかわず、ここでは「日本語」とよぶことにする。日教組でも、第40次教研 (1991年) において、従来の「国語教育」分科会から「日本語教育」分科会に、名称変更をおこなっている。分科会名称の変更について、日教組はつぎのように説明している。
  1. 国際化の進むなかで、日本語を母語としない子ども達もかなり多くなってきている。こうした現状の下で「国語」はそれぞれの国の言葉であり、日本語とするには無理がある。日本の学校で学ぶすべての子どもたちに、「ゆたかな日本語の力」をつちかう教科と考えたい。
  2. 戦前、日本史のことを「国史」といっていた。「国語」とか「国史」といういい方は、戦前の日本の体制の尾をひきずっている言葉である。
  3. 諸外国で自分の国の言葉を教えるときに「国語」などといわないで、「イングリッシュ」とか「フレンチ」とかいい、その意味でも「日本語」が適当である。
(日教組中央執行委員長・大場昭寿「第40次教研分科会構成についての考え方補足」)
 また、神奈川高教組の「教研国語小委員会」も、1996年度に「教研日本語教育小委員会」へ名称変更をおこなっている。偏狭なナショナリズムを想起させる「国語」ではなく、世界のなかの一言語としての「日本語」というとらえ方が、かなり一般化してきている。保守的な日本語研究の世界では、あいかわらず「国語学」とか「国語学会」などの名称がつかわれているが、英語に翻訳するときは、"Studies in the Japanese Language & quot""The Society for the Study of Japanese Language & quot" となり、「国語学」は英訳することができない。そもそも、「国語」という単語は、日本人が自分の国の言語をさすのにはもちいられるが、日本人以外のひとたちが日本語をさすばあいにはつかえない。したがって、「国語学」といったばあい、日本人が日本語を研究する学問という意味になり、日本人以外の研究者が日本語を研究するときにはつかえないという矛盾が生じてくる。(鈴木重幸「国語学と日本語学」) そのため、閉鎖的な「国語学」「国文学」という名称をきらい、「日本語学」「日本文学」をもちいる大学・短大もふえてきている。「国語学」「国文学」という用語には、日本人以外の日本語・日本文学研究者を排除するという意味あいがある。まさに排外思想のあらわれとみてよいだろう。
 以上の点から、わたしたちは、世界のなかの一言語として日本語をとらえなおし、「国語」という教科名のもつ国粋主義的な面を払拭し、「日本語・文学」へ、名称を統一していきたいとかんがえている。もちろん、単なる名称だけの変更であってはならない。名実ともに、文部省流の形式主義的な読解指導、実用主義・言語活動主義による言語技術指導をのりこえていかなければならない。そこで、「日本語・文学」の教科構造を、言語の教育 (日本語そのものについての教育)、言語活動の教育 (日本語をもちいてする諸活動の教育) とし、それぞれの領域で、なにを、どのように、おしえたらよいか、ひとつの試案を提示してみたい。

  (2) 言語の教育

 文部省の学習指導要領では、戦後一貫して、実用主義・言語活動主義による言語教育がおこなわれてきた。それは、「ならうより、なれろ」式の言語教育で、言語生活をおくるうえでの、言語技術の修得という側面に重きがおかれていた。したがって、言語の科学的・体系的な教育は、まったくといってよいほど、おこなわれてこなかったのである。そのため、中学生・高校生になっても、日本語についての科学的・体系的な認識をもつことができないというのが現状なのである。こうした科学的・体系的な認識ぬきの言語技術教育では、肝心の言語技術の習得も、たいして効果はあがっていない。高校生の文章表現力ひとつとってみても、文部省流の言語技術主義が、いかに破綻しているかがわかるであろう。
 これに対して、日教組教研では、「すぐれた日本語のにない手をそだてる」ということを目標に、科学的・体系的な言語教育の実践がおこなわれてきた。こうした自主編成運動の具体的な成果として、『教育課程改革試案』 (日教組・中央教育課程検討委員会1976年)、『国語・文学の教育』 (日教組・自主編成研究講座1978年)、『日本の教育』 (日教組教研の報告集、毎年発行) などがだされており、わたしたちは、その到達点を容易にしることができるのである。「自主編成」ということばそのものも、風化しようとしているいま、もう一度、日教組教研のつみあげてきた成果を、謙虚にまなびなおすことからはじめたい。ここ10年の、日教組「日本語教育」分科会での、報告・討論をふまえながら、高校における、科学的・体系的な言語教育のひとつの試案を、ここに提示したい。
高校段階での言語教育は、本格的な言語学への入門段階として、音声学・文字論・語い論・文法論 (形態論・連語論・構文論) などを、とりあつかう。しかし、小学校・中学校で、科学的・体系的な言語教育が、一部の地域 (たとえば、岩手、岡山、長崎) をのぞいて、ほとんどおこなわれていない状況では、小学校・中学校段階の学習内容を高校であつかわなければならなくなる。そのため、以下にかかげる学習内容には、小学校・中学校段階での学習内容が、ふくまれている。かなりの量なので、どの項目を必修とし、どの項目を選択とするかは、さらに議論の余地があるが、ひとつの試案として、具体的な学習内容をあげてみたい。
  1. 音声学の初歩として、音節と単音・母音と子音・はれつ音・まさつ音・はれつまさつ音・はじき音・鼻音・有声音と無声音・長音と短音・半母音と拗音節・促音・母音の無声化・アクセント・イントネーションなどを学習する。「非母語」の教育との関連のなかにおいて、日本語以外の言語の発音・音声と比較しつつ、日本語に関する発音・音声の知識を、よりたしかなものとする。
  2. 文字については、漢字の科学的・体系的な学習を軸に、漢字の起源からその発展への歴史的な過程、日本における漢字使用の歴史的変遷、世界の文字の発展の歴史などをあつかう。
  3. 語いについては、単語の語い的性質、単語の意味、単語の系列 (類義語・反対語・上位語と下位語・同音語)、 単語の文体 (日常語・文章語・俗語・専門語)、 和語、漢語、外来語、擬声語と擬態語、こそあど、合成語、転成、連濁、慣用句などをあつかう。
  4. 文法については、形態論・連語論・構文論を、とりあつかう。形態論としては、動詞のテンス (とき)・アスペクト (すがた)・ムード (きもち)、 名詞の格・とりたてについての知識。名詞・動詞・形容詞・副詞などの基本的な品詞のほか、接続詞・陳述副詞などを学習する。連語論としては、動詞を核とする連語 (ヲ格の名詞と動詞のくみあわせ、ニ格の名詞と動詞のくみあわせ、副詞と動詞のくみあわせ)、 名詞を格とする連語 (ノ格の名詞とのくみあわせ、形容詞と名詞のくみあわせ) などを学習する。連語論では、文の成分・ひとえ文・あわせ文・あわせ文の構造などを学習する。
  5. 現代日本語の科学的な学習を土台として、古代日本語 (いわゆる中古語) の発音・文字・語い・文法について学習し、古典文学の読解ができるようにする。
  6. 古代日本語から現代日本語にいたるまでの歴史的変遷について、科学的・体系的な学習をおこなう。その学習と関連づけながら、日本の諸方言についての概括的な知識を科学的・体系的に学ばせ、現代日本語 (標準語) の歴史的・社会的側面についての認識をふかめさせる。
 以上、試案をあげてみたが、学習指導要領、検定教科書の枠のなかで「国語教育」を、とらえてきたひとたちにとっては、いささかとっつきにくい内容であろう。しかし、ここにあげられた内容は、日教組教研、日教組自主編成講座、神高教県教研の成果をもとに、まとめたものであることを、再度強調しておきたい。
 この試案のなかで、とくに違和感をかんじるのは、文法ではなかろうか。たとえば、学校文法では、現代語の動詞「よむ」は「マ・ミ・ム・ム・メ・メ・ (モ)」 と5段に活用するとおしえられている。しかし、日教組教研では、動詞はムード (きもち)・テンス (とき)・みとめかた・ていねいさによって、つぎのように活用するというのが、ひろく一般化している。

ていねいさ ふつうのいい方 ていねいないい方
きもちみとめ方 みとめ うちけし みとめ うちけし








いいきり
断定
非過去形 よむ よまない よみます よみません
過去形 よんだ よまなかった よみました よみませんでした
おしはかり
推量
非過去形 よむだろう よまないだろう よむでしょう よまないでしょう
過去形 よんだ(だ)ろう よまなかっただろう よんだでしょう よまなかったでしょう
さそいかけるいい方 よもう (よむまい) よみましょう (よみますまい)
命令するいい方 よめ よむな よみなさい  

 学校文法では、「よんだ」は、動詞「よん」と助動詞「だ」になり、「よもう」は動詞「よも」と助動詞「う」にわけられ、「よんだ」「よもう」を動詞としては、あつかわない。そのため、いきた日本語のすがたをとりだすことができず、形式的な活用の暗記に終始してしまっている。学校文法をいくら学習しても、文章表現にはいかせないし、文章の読解にもやくにたたないというのは、動詞の実際のつかわれ方をおしえていないからである。助詞・助動詞のような文の成分 (主語・述語・修飾語など) にならないものを、単語と認定することに根本的なあやまりがあるのである。
 それでは、古代語の文法ではどうだろうか。大学受験にはばまれて、教室での実践はあまりおこなわれていないが、古代語の動詞「よむ」もつぎのように活用する。(スペースの関係で、みとめ形式のみ)

むすび方 第1終止形 第2終止形
(連体形)
第3終止形
(已然形)
きもち とき
断定法 一般叙述形 よむ よむ よめ
第1過去形 よみき よみし よみしか
第2過去形 よみけり よみける よみけれ
推量法 一般推量形 よまむ よまむ よまめ
過去推量形 よみけむ よみけむ よみむめ
命令法 よめ    

 以上、文法を例に、日教組教研の水準を紹介したわけだが、学校文法の活用表を暗記させるかわりに、こちらの活用表を暗記させろというのではない。自分たちの日常の言語生活をふりかえらせ、そのなかから法則性を発見させる、そういう手順で授業はおこなわれなければならない。そのためには、わたしたちが学校文法にとらわれていたら、生徒たちに真の日本語のすがたをつかませることはできないであろう。文章表現や文章理解の基礎となる文法とはなにか、ということを、わたしたちは真剣にかんがえる必要があるのではなかろうか。各分会での議論をおねがいしたい。

  (3) 言語活動の教育

 言語活動の教育は、ア. 読み方教育・文学教育、イ. つづり方・作文教育、ウ. 話しことばの教育の3領域からなっている。それぞれの領域ごとに、学習内容をまとめてみたい。

ア. 読み方教育・文学教育
 高校段階では、本格的な「文学教育」をおこなうことが原則となるが、小学校・中学校において、「読み」の力がついていない場合は、共通課程の部分で、文章にでてくる単語の意味や文の意味をていねいにおしえながら、「読み方教育」をおこなう必要があろう。「読み方教育」を土台に、「文学教育」へ発展させていくことを目標としたい。以下、学習内容を具体的にしめすが、教材の選定にあたっては、日教組第17次教研 (1968年) 以来ひきつがれている、「形象性・思想性・教育性においてすぐれた作品であること」を基準に、ヨコのカリキュラムの平和教育・人権教育・総合的職業教育・開発教育・環境教育・性と生と死の教育などに関連のある作品も、積極的にとりいれるようにする。

  1.実用的・科学的・評論的な文章を素材に、論理的な思考力・批判力を身につけさせるようにする。その際、文章の叙述の推移を正確によみとり、主題をとらえられるようにする。また、書き手の意見がうみだされた社会的・歴史的な背景、書き手の立場などについても認識をふかめさせる。
  2.近代・現代の文学作品 (小説・詩・短歌・俳句・評論・随筆) を、言語の教育でつちかった力をもとに、形象をゆたかに正確によみとれるようにする。その際、人物の心理・性格・生き方をよみとるとともに、作品がうみだされた社会的・歴史的背景についても認識できるようにし、作品論的・文学史的・作家論的によむための基礎を身につけさせる。なお、平和教育の観点から、侵略戦争の実態や戦争責任問題を題材とした、形象性・思想性・教育性においてすぐれた文学作品を、かならずあつかうようにする。
  3.日本の古典文学の代表的な作品を素材に、過去の人びとのもののとらえ方について理解するとともに、作品がうまれた社会的・歴史的背景についても認識できるようにする。古典文学を、古典文法の暗記のための道具としたり、道徳教育の道具としてはならない。古典文学を文学作品としてあつかい、作品論的・文学史的・作家論的視点もおりまぜながらよめるようにする。なお、琉球古語やアイヌ語でかかれた文学作品にもふれ、琉球やアイヌの文学についても、認識をふかめさせる。
  4.古代から現代までの日本文学の流れを、作家論・作品論的視点をおりまぜながら、体系的にまなばせる。
  5.中国の古典文学の代表的な作品を素材に、中国の人びとの思想・文化について認識を深める。紀元前にかかれた中国の作品が、わずかな送りがなと返り点でよめるということに注目させ、中国文化の日本にあたえた影響についてかんがえさせるとともに、日本語と日本文化を相対化してとらえる視点を身につけさせる。
  6.外国の文学作品についても翻訳を通してあつかう。その際、従来のように欧米諸国中心の教材選定をあらため、アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの国々の作品も可能なかぎりあつかうようにする。とくに、朝鮮文学・韓国文学は、かならずあつかうようにする。

 読みの指導過程については、日教組教研でもきびしい議論がくりかえされてきた。しかし、指導過程のちがいはあっても、作品を一文一文ていねいによみ、形象をゆたかに正確によみとるという点では一致している。また、最近では、言語学の成果を読みの授業にいかすという実践もあり、形象をより正確によみとろうという方向性がうまれてきている。読み方教育・文学教育の実践にあたっては、日教組教研の議論の過程や民間教育研究団体 (教育科学研究会・国語部会、日本文学協会、日本文学教育連盟、科学的「読み」の授業研究会、文芸教育研究協議会、児童言語研究会、文学教育研究者集団など) の研究成果を謙虚にまなびながらとりくみたいものである。読みの授業が、指導者の恣意的な解釈のおしつけになったり、低俗な道徳教育や性急な政治的アジテーションの場になったりしないように注意しなければならない。

イ.つづり方・作文教育
 つづり方・作文教育は、たんなる作文技術の習得を目標にしているわけではない。自分をとりまく現実世界とのかかわりあいのなかからうまれてくる、感動・怒り・悲しみ・希求などを、言語という手段によって表現させることをとおして、ものごとや人間の見方・かんがえ方・感じ方の質をたかめていくことをねらいとしている。生徒たちが、なにかにふかく感動したり、あらたな発見のよろこびにつつまれたりしたとき、その内容が、表現のための技術を要求するのである。その際、言語の教育で身につけた語いや文法の知識、読み方教育・文学教育でまなんだすぐれた表現技法が、表現のための技術として、いかされることはいうまでもない。まさに、「語いや文法がいいかげんで、すばらしい作文がかけたということはありえない。」 (第45次教研での鈴木康之共同研究者の発言) のである。この“内容と表現”の統一は、「子どもを真に人間らしい人間にきたえあげることを、その仕事の根底におき、すべての子どもに文章表現の道をひらいてやる教育」(『国語・文学の教育』) でなければならないのである。以下、高校であつかうべき、学習内容をまとめてみたい。

  1.自分の実際生活をもとにした生活記録や文学的な報告の文章をかけるようにする。
  2.自分の見聞や思考・感情をもとにした説明的な文章、主張の文章をかけるようにする。その際、事実の叙述と自己の意見を区別してかけるようにする。
  3.他の教科で学習した科学的知識や芸術的真実、自治的諸活動や総合学習などの体験からえた見解・信念・意志・理想・行動の方法などをもって、周囲の事物や現象をとらえなおし、それを生活記録、説明文、論文、フィクションをもちいた文学的文章などにまとめられるようにする。題材として、ヨコのカリキュラムの平和教育・人権教育・総合的職業教育・開発教育・環境教育・性と生と死の教育なども、積極的にとりいれるようにする。なお、個性的な表現・文体などについても、獲得できるようにする。
  4.現代社会に氾濫している宣伝・コマーシャルコピー・政治的プロパガンダなどの表現を意識化・相対化してとらえられるような視点を身につけさせ、その表現技法・表現効果などについてまなばせる。

ウ. 話しことばの教育
 話しことばの教育については、学校教育全体でとりくむべきものである。それぞれの教科で、発表・討論などをとりいれ、従来の「おぼえる」学習から、「考える」学習、「討論する」学習へと授業形態をかえていくことが必要である。その中心的な役割をになうのが、日本語・文学の授業である。発表、討論、グループ討議などの具体的な方法についてまなばせ、話すこと・聞くことの能力をのばすための意識的な指導がなされなければならない。その際、注意しなければならないのは、いわゆる「新学力観」の授業実践でみられるような、空疎な討論ごっこ (ディベート) のための、形式的な技術指導におわらせてしまってはならないということである。ディベートの授業では、自己の思想・人生観とは無関係に、賛成派・反対派にわかれて討論の真似事をさせるということがおおくみられる。表面的には、活発な授業風景がみられるのだが、自己の思想・人生観を確立しようとしている若者に、自己の信念をまげ、その場、その場に応じた、口先だけの弁論術をおしえるというのは、民主的な人間形成にたいする否定につながり、非教育的行為以外のなにものでもない。ディベートではない、真の討論を成立させるためには、討論の内容が討論するに足りうる価値のある内容でなければならないし、若者が自己の思想・人生観を確立できるような方向性をもっていなければならない。技術偏重の討論ごっこ (ディベート) をのりこえ、真に民主的な討論を組織していかなければならない。

  (4) 「日本語・文学の教育」のめざす学力像

 最後に、日本語・文学の教育によって身につけた能力は、どのようにいかされるべきか、のべてみたい。従来から、読み・書きの能力は、算術の能力とともに、すべての教科の基礎、社会生活をおくるうえでの最低限の教養として、とらえられてきた。たしかに、高校卒業後、どのような職業・社会活動・研究創造活動に従事するにせよ、言語能力がその土台となることは、まちがいのない事実である。しかし、従来のかんがえ方から、すっぽりぬけおちていたのは、言語は認識・思考の機能をもっているという視点である。言語能力を、たんなる社会生活をおくるうえでの技能としてとらえるのではなく、「ひろく日本社会と文化の進歩発展、世界の平和、人類の共存共栄を希求するような、わかわかしく夢多い青年の認識と行動の武器」(『教育課程改革試案』) として、とらえていくべきであろう。これを、日本語・文学の教育のめざす学力像として、ここに提示したい。

〔付記〕 この項をまとめるにあたって、『教育課程改革試案』「国語・文学の教育」を全面的に参考にさせていただきました。

【参考文献】
<日本語・文学教育一般>
『教育課程改革試案』 日教組・中央教育課程検討委員会 1976年 一ツ橋書房、『国語・文学の教育』 日教組・自主編成研究講座 1978年 一ツ橋書房、『日本の教育』 (日教組全国教研の報告) 日教組 毎年発行 一ツ橋書房、 『国語教育の理論』 奥田靖雄・国分一太郎編 1964年 むぎ書房、 『続国語教育の理論』 奥田靖雄・国分一太郎編 1966年 むぎ書房、 『戦後文学教育方法論史』 浜本純逸1978年 明治図書、 『文学教育基本論文集(1)〜(4)』 西郷竹彦・浜本純逸・足立悦男編 1988年〜 明治図書
<文法>
「動詞の終止形(1)〜(3)」 奥田靖雄 『教育国語』 2期9・12・13号 むぎ書房、 『日本語文法・形態論』 鈴木重幸 1972年 むぎ書房、『文法と文法指導』 鈴木重幸 1972年 むぎ書房、「動詞(1)〜(9)」 高橋太郎 『教育国語』 88・89・90・91・92・93・96・99・100号 むぎ書房、『日本語文法の基礎』 鈴木康之 1977年 三省堂、 『文学のための日本語文法』 日本語文法研究会 1986年 三省堂、 『概説・古典日本語文法』 (改訂版)日本語文法研究会 1991年 おうふう
<語い>
『語彙教育・その内容と方法』 教科研・言語教育研究サークル 1964年 むぎ書房、 『単語指導ノート』 宮島達夫 1968年 むぎ書房、
<言語政策・文字>
『国語国字問題の理論』鈴木康之編 1977年 むぎ書房、『つづり方教育について』国分一太郎 1985年むぎ書房
<自主編成テキスト>
『にっぽんご4の上文法』明星学園・国語部1968年むぎ書房、『にっぽんご5発音とローマ字』教科研・秋田国語部会1966年むぎ書房、『にっぽんご6語い』教科研・群馬国語部会・語い研究サークル1977年むぎ書房、『にっぽんご7漢字』明星学園・国語部1969年むぎ書房
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解説5.ワーク・アンド・ライフ系
    職業・労働・技術・生活の学習

1.職業・労働・技術の学習の検討結果資料
 一般普通教育としての「職業・労働・技術の教育・学習」については、これまで長年にわたり検討を重ねてきているので、先ず以下の資料等を参照されたい。

  1. 第1期高総検:「普通高校における職業技術教育について」『神奈川の高校教育改革をめざして高総検報告I』(以下、高総検報告と略す)1977年刊、p.41〜43
  2. 第2期高総検:「職業・技術」『高総検報告II』1980年刊、p.43〜47
  3. 第3期高総検:「あるべき高校像と職業・技術・労働教育」『高総検報告III』1983年刊、p.17〜26
  4. 第4期高総検:「普通教育としての職業・労働・技術教育」『高総検報告IV』1986年刊、p.68〜79
  5. 第5期高総検:「普通科高校における職業教育」『高総検報告V(中間まとめ)』1987年刊、p.49〜53 E) 第五期高総検:「普通科高校における職業教育」『高総検報告V(第1分冊)』1988年刊、p.57〜60
2.労働の教育をめぐる状況

 労働を学校教育と結びつける考え方やその実践は、近代学校とともに長い歴史をもっている。しかし、わが国の学校教育の歴史においては、「労働教育」という言葉はほとんど使用されなかった。「労働」という言葉が、おもに社会主義や労働運動などとの関わりで、教育学の語彙から意識的に排除された時代もあり、労働の過程が教育課程に採り入れられる場合も、手工教育・勤労教育・労作教育・実業教育・生産実習・職業実習などの言葉が当てられた。たとえば、明治時代に初等教育で設けられた手工教育は「勤労ノ習慣」や「勤労の態度」を第一義に重視する勤労主義によって色濃く支配されていた。このような明治以来の精神主義的労働観は、戦後の職業科(47〜50) 、職業・家庭科(51 〜61) 、さらには技術・家庭科(62 〜) にまで尾を引いている。
 現在、中学校では、技術・家庭科のなかで曲がりなりにも労働教育が行われている。しかし、小学校では、(美術教育としての工作や飼育・栽培活動などはあるが)、ほとんど、そして、高校普通科では、(一部の職業科目の選択履修はあるとしても)、まったく、科学・技術教育を基礎とした系統的労働教育は行われていないと言って過言ではない。
 1979年、文部省が高校普通科に「勤労体験学習」の研究と試行を求めたが、ほとんどの研究指定校が行ったのは清掃活動であった。その後、研究指定先は中学校・小学校に拡大されたが、主な内容はやはり「環境整備・美化」と「花づくり・野菜づくり」であった。小・中・高一貫した技術教育教科の(条件整備を含んだ)確立なしに、「勤労体験学習」を導入しようとすれば、必然的に、道徳的実践の指導の機会としての体験的な活動が選ばれることになる。
 また、91年に、第14期中教審が、「普通科と職業学科を総合するような新たな学科」総合学科の設置を提案し、94年から、7県でその開設が実施され、現在も拡大が続いているが、労働教育という視点からの総合学科に対する評価は、高校課程の(普通科・職業科・総合科への)格付け複線化という根本的・制度的な問題の検討を含め、もう少し時を置かねばならないだろう。
 74年、ユネスコは、「技術および労働の世界への手ほどきは、これがなければ普通教育が不完全なものとなるような、普通教育の本質的な要素であるべきである。」とする勧告を行い、つづいて81年に、「教育と生産労働の相互作用に関する勧告」を行った。そこでは、初等から中等教育までの一貫した技術教育と中等教育における職業準備教育の必要性が強調されている。
 「初等教育段階の教育計画には、最もありふれた道具や機械・材料、および労働と生産過程に関する創造的活動に親しませることを含ませ、さまざまな経済活動分野における労働と生産の諸条件、および科学・技術の基本的原則、ならびに生産物またはサービスの教育的価値への初歩的洞察を含ませるべきである。」「教育制度の適当な段階においては・・・継続教育・訓練または職業の進路の選択に備える見地から、さまざまな経済活動分野および職業についての学習を含ませること・・・」[注19]しかし、この理念−一般普通教育として労働・技術・職業の教育を系統的にすべての子ども達に保障する−は、上記のように、未だわが国には正しく受け入れられていない。日本のほとんどの学校の教育課程におけるこのような歪みは、その根源を成す文部省学習指導要領とともに、すみやかに矯正する必要がある。

 なお、私たちの教育課程試案では、一般技術教育を中核に据え、その周囲に職業・労働・技術に関わる諸学習を配置した「総合的職業教育」を、ヨコのカリキュラムの一分野として提案している。その詳細は、本報告のヨコのカリキュラムの「基礎的総合的職業教育」および「職業・技術・労働・生活の学習」の項、『高総検報告III』のp.17〜26および『高総検報告IV』のp.68〜79を参照されたい。
 タテのカリキュラムの「職業・労働・技術の学習系」の共通必修科目としては、つぎの2科目を置く。

3.技術史

科学の発達(科学史)と生産様式の発展(経済史)との関わりを、技術史を中軸として学ぶ。

4.一般技術

一般技術教育は、原則として、次のような項目を目標とする。

技術教育の目標[注20]
 技術教育の目標は、生産の科学的基礎を理解させ、生産技術の基礎を習得させるものである。すなわち、(1)数学や自然科学の法則を生産に応用することを学ばせ、(2)技術学の法則、技術の理論的知識を習得させ、(3)現代の生産における基本的道具・機械・材料の技術的特性を理解して、その取扱いに習熟させるものである。また、これらの学習を通して、(4)現代の生産の主要部門について知らせ、(5)手や道具や機械による労働のプロセスを理解させ、(6)労働を基礎にして成立している社会的関係を理解させるものである。
 しかし、昨今、わが国の職業・労働・技術をめぐる状況は激しく変化しており、それらの学習の中核となる一般技術教育の内容にも、部分的な修正や新たな要素の追加が必要になってきている。
 その変化は、まず、日本の全産業の就業者の構成に現れている。長期継続的に、農林・水産業(第一次産業)就業者の構成比が急速に減少し、逆に、第三次産業(商業・金融・保険・不動産・公務・教育・医療・情報・運輸・通信・旅行・娯楽・飲食等)就業者の構成比が急速に増加している。第二次産業(製造・鉱業・建設・エネルギー等)就業者の構成比も、全体を平均すれば、高度経済成長期をピークとして減少し続けている。これは、要するに、わが国の産業から生産・加工労働が大きく減りつつある−全体がサービス労働化しつつある−ということにほかならない。
 つぎに、製造業内部では、生産拠点の国外移転、あるいは国内工場の生産「合理化」の強化などによって、単純労働の減少・熟練労働の機械への移転すなわち生産過程の自動化(FA化)が急激に進行している。その結果、極限まで人員削減された単純労働者のJIT方式などによる労働強化(長時間超過密労働)と、FA化の進展にともなう生産工程への情報投入労働や(機械の保守点検を含めた)監視労働などの増加が、並行してすすんでいる。とくに後者のような、(直接には物質的生産にタッチしないという意味で)「間接的な」労働の絶対的・相対的増大が、現代の基幹産業の生産労働一般を基本的に性格づけている、と言えよう。
 これまで普通教育の一環としての技術教育は、物質的生産を対象とし、「自然の一部である人間が、外部の自然への能動的働きかけをとおして、新しい価値をつくりだし、同時に自らの内部の自然を発達させる」という本源的労働の定義から基本的な教育的意義を引き出し、冒頭に示したような目標にしたがって内容を構成してきた。一方、上記のように、現代の生産労働は、量的に減少しているばかりでなく、「間接化」が進んで、子ども達に見えにくいものになっている。そこから−仮に労働における人間疎外や搾取の問題などは捨象したとしても−技術教育をとおして、子ども達に、本源的労働と大きく乖離した現代の具体的生産労働を理解させようとすることの難しさが生じてくる。
 また、サービス産業の拡大に加えて、その他の産業でも各企業内で、サービス型職種、たとえば管理・事務・企画・研究開発・販売・アフターサービスなど、の比率が年々高まっている。そのような現代の大多数の労働のいわば「サービス労働型化」も、職業・労働・技術の教育に、大きな影響を及ぼさずににはおかないだろう。このことに関連して、すでに次のような指摘がされている。「1960年代以降アメリカで盛んになった教育の経済学が明らかにしたのは、普通教育が一般的で抽象的な能力を高め、そうした一般的能力のほうが、企業のなかで生産活動などを行う労働者にとっては、特定の職業的能力(技能)を高めようとする職業教育より有用だということである。日本の大企業の採用方法は、その理論を先取りするものであった。」[注21]つまり、産業構造の変化と技術革新・労働編成の絶え間ない転換が、労働者に、多能工化(柔軟な適応能力)を要求し、その基礎として、特定の職種に直結した技能訓練ではなく、汎用性のある普通教育を求める一方、従来の職業教育が、労働の急速な質的変化に即応できていないということであろう。これは、生産労働者について言われたものだが、サービス労働者に、いっそう当てはまる。
 「しかし」、上掲の引用は次のように論を結んでいる。「こうした仕組みには重大な問題がある。何をするかよりも、どんな企業に入社するかを巡って、小学生のころから長くつづく厳しい競争が展開したからである。」言い換えれば、普通教育が、その一般性・抽象性ゆえに、規格化され、選別や序列化の尺度・手段に転化してしまった、ということだろう。教育(学習)の成果が、人間性の開発・個性の確立とも、職業あるいは労働を通じた自己実現とも結びついていない、というわけである。労働と生活とから遊離した、すなわち実践能力の獲得を内部に組み込まない普通教育は、つねにそのような危険性を孕んでいる。
 結論として、私たちはつぎのように考える。職業・労働・技術の教育は、特定の職種に限定された狭い技能の訓練や順応的な態度の形成を目的とするのではなく、知的一般的教養とともに、社会人・主権者としての自立の基礎条件となる国民的教養の不可欠の要素として、あらゆる社会的労働に対して基盤を準備する実践的教養(知恵と技を兼ね備えたからだ)を育成するものになるべきである、と。
 職業・労働・技術の学習の中核となる一般技術教育は、以上のような点を総合的に検討して編成する必要がある。
 なお、教育予算削減政策の下では、普通科課程で職業・労働・技術の教育の条件を整備するのは非常に難しい。引き続き教育条件整備を当局に強く要求してゆかねばならないが、当面の対策としては、近隣の職業科高校などとの連携システムづくりも考える必要があろう。

5.教科・家庭科と総合学習「家庭・家族」

 家庭科は、現実の種々雑多な生活事象を対象とする。したがって、一つの科学・一つの技術の体系に教科を対応させることはなかなか難しい。そこで、私たちは、ヨコのカリキュラムの中に、総合学習の一つとして、「家庭」を設置するのがベターと考える。ここでは、タテのカリキュラムの一教科としての、そして、総合学習「家庭」の中核ともなりうる、教科「家庭(または、生活の科学と技術)」を提案する。

6.家庭科をめぐる状況

 関係者の長年の運動と85年の女子差別撤廃条約の批准などによって、懸案の家庭科の男女共修(共学・必修)が86年に実現し、男女平等・教育への機会均等のうえに立った自立と共同(協同・共生・共育)をめざす新しい家庭科の実践が各地で積み重ねられている。また、「生活事象を教育対象にすえる家庭科の特質を重視して、子ども達の関心を大切にしながら、教材を子どもの生活や意識に結びつける取り組み」や、「家庭科を、いのちと暮らしを守る教科としてとらえ直し、現実の家庭・地域の生活に根ざした教育内容を(地域住民や保護者と連帯して)つくりあげようと」する実践もすすんできた。そこには、「家庭生活の本質やそこで行われている基本的な仕事の意味の探究を中心目標として、社会科や理科など各教科で学んだ知識を総合的に活用して学習する場とする可能性が含まれている。」[注19・22]
 しかし、家庭科をめぐる諸問題がすべて解決に向かっているわけではない。それらを整理し大別すれば、ひとつは、遅々として改善が進まない教育行政の体質であり、もうひとつは、現代の家庭・家族の急激な変容とそこから発生する様々な問題である。
 (1)自民党政府・文部省の家庭科男女共修の容認と制度化は、内発的ではなく、女子差別撤廃条約の批准を迫る「外圧」(国際的圧力)が最大の誘因になった。つまり、それによって、60年代に「男女の進路・特性に対応した教育的配慮」として「中学・高校家庭科の女子必修」を定めたとき以来の、深部では戦前からの良妻賢母主義を引きずったままの、家庭科教育に対する認識が改まったわけではなかった。夫婦別姓選択制などを盛り込んだ民法改正論議の際の自民党などの反対論には、旧態依然たる家父長制的「家」観があり、それには、固定的性別役割分担や男女の特性(男らしさ女らしさ)などに対する強い固定観念が結びついている。(専業主婦がスタンダード・子育ては専ら母親の責任・嫁が老親介護など)性別役割分業主義による女子の教化(家庭基盤充実政策など)や、(出産・育児一段落後の)パートタイマー・契約社員・派遣労働者の創出をもくろむ労働力政策なども変更されていない。このような政府・文部省の体質が、教育行政に現れないはずはなく、現に、学習指導要領・教科書検定や、さらには各教育委員会の家庭科専任教員の配置にも影響が及んでいる。
 (2)近年、日本の家庭・家族のかたちに、「先進」諸国と類似して、著しい変容が見られ、家庭・家族の“伝統的”定義と概念が激しく流動し変質している。(そして、生活環境もますます変化の速度を高めているが、学習指導要領流の家庭科教育は、状況の変転に対応できていない。)
 1). 日本では、50年代後半から60年代にかけて、複合家族(3世代以上の親子と近親者)から核家族(夫婦と未婚の子ども)への急速な移行があった。主として産業構造の転換政策により、地方の長男以外の子ども達が、都市部に、第2次産業ん労働力として集中し、そこで結婚し、家庭をもった結果である。生活の中心が、複合家族での家長から核家族での子どもに移ってゆく。
 それを追いかけて、高齢者のみの世帯が増加した。農林畜産業「見殺し」政策によって、それらから最後の後継者が奪われ、地方に老親がとり残されたのである。後継者が残った場合でも、一年の半分家を後にして出稼ぎに行かざるをえなくなった。(都市部に多い核家族も、やがて子ども達が成人し独立すると老人世帯に移行してゆくことになる。)
 これらは、地域社会の崩壊、過密・過疎問題の始まりでもあった。
 2).しかし、70年代に入ると、大都市圏では、土地や建築費の高騰で若い世代が新たに住宅を確保することが困難になり、親に財政援助を求めて住宅を取得し親を呼び寄せて一緒の住むことを選ぶケースや、既に取得していた住宅を増改築したり買い換えたりして、2世帯(3世代)で生活するケースも増えてくる。(しかし、これらのケースは、戦前の家父長制的大家族への回帰ではなく、それと比較して、各世帯の独立性が高く、両者の関係も比較的に対等なのが一般的特徴である。)
 3).また、老親の身体不自由・病気・痴呆などによる介護の必要に迫られて、両親または片方が子ども(核)家族の中に「収容」される例も増加し、核家族の一般化によって出来上がっていた「My核家族意識」に、初めて異物(老・病・死)が「侵入」し、介護の負担が「嫁」などに「のしかかり」、「もう一つの三世代家族」と新たな家族問題を生じさせている。
 4).日本の世帯の持ち家率は、ここ数年60%台の前半を上下しているが、核家族であれ三世代家族であれ、全体的居住水準は「ウサギ小屋」状態を脱していない。こうして、核家族・新旧三世代家族・老人世帯が併存するなかで、80年代以降、さらに家族の変質と分解がすすんでゆく。
 5).60年代の高度経済成長政策が生み出した「会社人間・企業戦士」は、それが破綻した70年代以降の労務管理のもとでも「生き残り」、家庭は父親不在が常態化した。また、単身赴任・強制配転・出向などによって、家族の長期別居をよぎなくされる場合も急増した。育児・教育・地域住民との付き合いは、もっぱら母親の役目になる。さらに、共働きの増加と幼児・学童の保育制度の不備も加わって、「カギっこ」や「心理的欠損家庭」等の問題も生じている。
 6).離婚率が戦後(ほぼ)上昇の一途をたどっており、死別も合わせて「ひとり親家族」が急激に増加している。「シルバー(60歳以上の)離婚」や「家庭内離婚」と呼ばれる、法的離婚後も同居する形・法的には夫婦のままの事実上の「離婚」(別居)などの増加も新しい事象である。また、子連れ再婚は、血縁のない親子関係の含まれる家庭(ステップ・ファミリー)を生み出している。
 7).形骸化した社会福祉・社会保障制度のもとで、@〜Eに述べたような状況が交錯して、キッチンドリンカー、老親への虐待や、若い母親・父親の育児ノイローゼ・育児放棄・拒否・虐待などが、閉ざされた「家庭」の内側で増殖しつつある。また、家庭・学校・社会それぞれの中に潜む因子が複合した結果と思われる、子どもの家庭内暴力や「引きこもり」も深刻化している。
 8).結婚年齢の平均が世界でも最も高く上昇しつつある。一生結婚しない(できない)男女(「非婚」)も急増している。そして、結婚してもあまり子どもを産まなくなってきている。その結果、女性が一生のうちに産む子どもの数が急激に減り、平均値は年年限りなく1.0 に近づいている。(「少子化」社会の到来)
 9).妻の仕事や社会活動を支えるために、家事や育児に積極的に参加する、あるいは、それに専念する夫(内助夫・主夫)も出てきている。育児休業や介護休暇を夫が取ることも漸増している。
 10).平均寿命が世界最高水準へ伸びるにつれ、高齢者世帯で、配偶者が死亡し、独居状態になるケース(とくに女性)が年毎に増えつづけている。また、夫と死に別れ生き別れた熟年女性同士が、共同生活を始める例も近年出始めており、これも、もう一つの新しい「家族」のかたちであろう。
 11).従来からの定住外国人・難民に加え、近年、外国企業の日本支社や日本企業に勤務する外国人、ニューカマーと総称される(不法入国者も含む)出稼ぎ外国人の家庭も激増している。また、外国人居住・滞在者の増加や、日本人の海外勤務・留学などの増加は、日本人の国際結婚・異文化との接触の機会を増やし、家族の姿に多様性を加えている。
 12).70年代後半あたり以降、農政の貧困により農家の嫁不足が深刻化し、日本と東南アジアの経済格差を利用して、東南アジア諸国から外国人花嫁を「買って」きて、「国際的な」家庭をつくることが増えている。
 13).夫婦別姓選択制法案が国会に提出されている。現在でも、婚姻届をしないで別姓のまま「事実婚」をしているカップルや、別姓の必要・希望があって、便宜的に離婚届を出して法律婚から事実婚に移行するカップルも少なくない。同法が成立すれば、結婚や姓・家族・家庭に対する意識も大きく変わってゆくだろう。
 14).アメリカ隷属・大企業奉仕・庶民切り捨ての政策と「構造的複合不況」のもとで、倒産・転廃業・失業・賃金削減・超過密長時間労働・無給残業・(再)就職難などが激増し、その結果、(親の蒸発・自殺を含め)家庭崩壊が進み離散家族が数を増している。さらに、女性の残業や深夜・休日労働を制限した労働基準法の規制が、99年4月から撤廃され、男女とも野放しの長時間労働を強要される危険性が大きくなっている。それに加えて、「裁量(みなし8時間)労働制」の拡大や「変形(不規則)労働時間制」の要件緩和、「短期労働契約(解雇自由)制」、派遣事業の原則自由化などの労働法制の全面改悪が行われようとしている。これらが、労働者の健康や家族・家庭(生活)に及ぼす影響は量りしれない。
 15).家事・育児のいっそうの合理化・省力化を求めて、それらの外部化・商品化されたそれらの買い戻しや、ホームオートメイションが急速に進行・拡大している。すべての生活機器にマイコンを組み込み集中管理する「電脳住宅」なども造られ始めた。ベビー産業・幼児教育産業が隆盛し、幼稚園・保育園入園が「常識化」している。また、社会の情報化・メディアの日進月歩の発達が与える生活への影響は素人の予測を超える。これら生活環境の急激で大きな変容は、おそらく家族・家庭(生活)の基本に関わる質的変化をもたらすにちがいない。そのとき、家族・家庭のかたちを保つ必要最小限の条件(要素)とは何かが改めて問われるだろう。
 16).89年、NY州最高裁で、同性愛カップルを「家族」と認定、法の保護の対象とするとの判決が下って以来、アメリカ各地で同様の認定と法制の整備が行われている。これらの動きは、同性愛者の権利拡大のみならず、婚姻関係に基づかない様々な形態の「家族」の増加とも相まって、「家族」についての従来の定義・概念そのものの変更を促すものと受け止められている。新しい家族の概念規定は、世界に広がり始めており、その波は早晩わが国にも及ぶだろう。
 17).総じて、現代の家族・家庭は、どのような形態を採ろうと、アトム化(個化)が進んでいると言えよう。ここにはプラスとマイナスの両面がある。一方は、現代の社会状況やその病理を反映した側面。地域社会の解体・各家の孤絶・伝統的家庭秩序の崩壊を背景とする家族の心理的解体、夫婦間の疎隔・親子の断絶、家族一人一人の孤立化。家族の物理的解体による単身生活型の増加。など。他方は、個人の自立・近代的個人主義化という側面。一族・家系の構成単位としての「家」意識や家父長制の残滓・非民主的家族関係からの脱皮、個の自立と連帯による家族・家庭の形成。個人のライフスタイル選択の自由。など。

 (97年度末の「家庭一般」の教科書検定で、上記の二つの事項が交錯する象徴的な問題が起こった。伝統的な「標準世帯」をモデルとした家族ワンセットの生活から、個人単位の生活的自立やライフスタイルの選択へ、視点を移して編集した教科書(9点のうち3点)を、文部省が、学習指導要領の求める家族・家庭像・生活様式と家庭科・「家庭一般」の目標に合致しないとして、不合格したのである。そこには、家庭科教育に道徳教育を浸透させようとする文部省の意図も露れている。)

7.家庭(または生活の科学と技術)

(1)教科・家庭の目標

 これまで私たちは家庭科の目標をおおむねつぎのように定めてきた。
 憲法第25条「健康にして文化的な生活」への権利と憲法第24条を中心とした、生活における「民主主義」の理念を、たてまえに終わらせず実質的に保障させ・実現することをめざして、生命と生活の再生産にかかわる家庭の営みとその仕組みを、家庭科教育の独自の対象として押さえ、(1)家庭の営みと仕組みについての事実を正確に捉え、(2)生命と生活を守り発展させるために、科学や技術をどう生かしてきたか(生かすべきか)を学びとることを通して、(3)実際の家庭生活の課題(矛盾)を認識し、(4)それを打開する道筋を展望し、実践しうる力を育てる。[注5・23]
 しかし、上記のような急激な家族・家庭の形態の多様化と、家族機能の縮小・質的変化は、個人の生活における自立・自律のための知識と技術(技術的認識・実践的能力)の育成を、家庭科教育全体の核に据えることを求めているように思われる。
 (これまで本質的・普遍的と考えられてきた家族機能、たとえば(1)公示(公認)された成年男女の持続的結合による性的秩序の維持、(2)子どもの扶養・愛護、を基礎とする、(3)構成者の経済的・心理的とくに情緒的な結合と安定、(4)子どもの人格形成と社会化(望ましい価値・態度の内面化と慣性化)、など、に揺らぎが現れはじめている。)

(2)教科・家庭の自主編成の視点

教科・家庭(または生活の科学と技術)を編成するにあたっては、とくにつぎのような視点に留意したい。

  1. 世界的規模で考え、地域で行動する視点。世界の自由と社会進歩、世界的・人類的課題、たとえば人権問題・地球環境問題・南北問題など、を視野に入れる。
  2. 家族・家庭(生活)の問題を社会との関わりのなかで捉える視点。総合的・社会的な視点から、みずからの生活を捉えなおす。
  3. 憲法を暮らしに生かす視点。憲法の平和的・民主的原則と日常生活上の問題との関わりを認識・検証する。
  4. 生活を科学する視点。
  5. 生活を技術的・実践的側面から捉えなおす視点。生活の中のリアルな問題を実践的・体験的に学ぶことを通して、論理的・科学的に実証された生活技術を体得し、みずから生活を変革する力を身につける。
  6. 生活の創造主体の形成という視点。上記のような家族・家庭の変容に対応しつつ、現代における家族・家庭の意味・価値を考え、主体的にライフスタイルを選択しうる能力を育む。
  7. 他教科との連携を強化する視点。文部省は、「他教科で学ぶことは『家庭一般』では取り扱ってはならない」として、家庭科教育を狭い範囲に封じ込めようとしているが、私たちは、逆に、家庭科独自のスタンスを保ちつつ、他の学習領域と積極的に結合・連携して行きたい。

(3)教科・家庭の内容の構成

日教組・中央教育課程検討委員会『教育課程改革試案』の「家庭」の「第4階梯・共通家庭科」をベースに、上記(2)の諸視点を考慮に入れて修正・補強・追加・削除などを行い、学習内容を再構成する。
その基本的な構成要素は以下のようになる。
  1. 人間が生命を維持し、肉体的・精神的・社会的に健康で文化的な生活を手に入れ・守り・発展させてゆくために必要な衣・食・住についての知識と技術。
  2. 女性の reproductive and health rights を基礎とした、愛し合い、新しい生命を産み、育てる、性・出産・育児・教育についての知識と技術。
  3. 上記1と2に関わる、生活資料の生産・分配・流通・消費・廃棄の仕組みについての知識と技術。
  4. 上記1と2に関わる、家族・家庭(生活)の仕組み、たとえば、家族(制度)史・家族形態と家族機能の変遷と現状・家族家庭にかかわる政策・家庭づくりの基本理念など、についての知識と技術。
  5. 主体的なライフスタイルの選択と自立的・自律的生活の確立のための知識と技術。
[注19]労働旬報社『現代教育学辞典』[注20]長谷川淳『現代教育学・Vol.11・技術と教育』[注21]橋本寿朗『戦後の日本経済』[注22]『岩波教育小辞典』[注23]和田典子「家庭科の理念」大学家庭科教育研究会『年報・家庭科教育研究・第1集』

【代替案】「家庭一般」を、上記のような方針にそって改造する。
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解説6.こころとからだの健康学系

「人間は、自己の肉体を意識的に形成する唯一の動物である。」[注24]

1.身体の内的構造とメカニズム

 私たちは、高総検報告『学習疎外を超えて』のなかの「教育・学習によって獲得されるべき能力とは何か」という章で、勝田守一の次のような能力構造モデルを紹介した。
 すなわち彼は、能力を、(1)生産・労働・職業の技術に関する能力、(2)人間の諸関係を統制・調整・変革する能力、(3)科学的能力(自然と社会についての認識能力)、(4)感応・表現能力、の4つのカテゴリーに分け、「それらは相互に影響しあい浸透しあいながら、しかも独立で固有な本質的性格をおびている」とした。そして、それらのうちでも認識能力が他の能力に対して特殊な位置にあり、これら諸能力を統合する人格の体制を支えるものとして、(5)運動能力と(6)言語能力を挙げた。[注25]
 また、全国生活指導研究協議会では、「文化としての身体」という表現で、生活指導の目標としての身体を、「身体をつかって自然や社会や文化をつかみ、これをつくりかえる『わざ』、身体をつかって自己を自由に表現する『わざ』を内にふくんだ」もの、言い換えれば、対象としての世界(自然・社会・文化)が、認識能力として内在化する側面と、実践能力として内在化する側面の、相互に媒介・浸透・転化・統一されてゆく場、と規定しているが、この身体観も、勝田の人格論と同様の基礎の上に立っていると言ってよいだろう。
 私たちがここで提案する「こころとからだの健康学」は、その教育・学習の対象となる人間の身体を、生理的な側面のみならず、まず、そのような内部構造とメカニズムをもつ有機体と捉える。

2.保健・体育・養護の再構成

 子ども達の心身の発達上の問題が指摘されて久しい。すでに(1975年に)正木健雄氏は、日本の子ども達の背筋力の低下という統計的事実を示しながら、彼らの身体の諸機能の発達における危機が、人格・精神の発達にも深く作用するような性質を帯びて、進んできているのではないかという大問題を提起している。つづいて76年から、岐阜県上矢作町教育研究会が「子どもの心とからだ」の調査に取り組み、精神的ストレスによる疲労・心のハリのなさ・生きる目あての喪失の実態を明らかにした。また、石田和男氏は、上矢作町教育研究会の調査結果や自ら行った調査の結果をもとに、今日のわが国の子ども達は、自分のからだと心(また、両者の複雑で動的な関係)に対する認識が乏しく、発達のそれぞれの段階にふさわしく目あてをもって主体的に身体を形成してゆく意識・自覚・意欲が育てられておらず、そのことが、身体発達の危機を一層深刻なものにしていると総括した。その危機は、それぞれの時代状況を反映しながら、今日まで深化の一途をたどっている。
 この問題は、直接的には、子どもの生育環境としての家庭や地域社会の問題であり、根本的には、家庭や地域を基礎的に性格づける経済・政治・社会・文化などの状況に由来する問題である。しかし、だからと言って、統一的な人格形成における「身体の教育」の位置を軽視することはできない。心身一元論そこでは、「人間的自然・内なる自然・潜在的諸能力」という身体的生理的基礎のうえに、その人格の情操や意志、知的認識や技能・技術的能力の発達と成熟が捉えられるに立って、学校教育課程における教科(認識)と教科外(実践)の両面にまたがり、しばしば両者を連係するところの、「身体の教育」の特殊な位置と役割に注目するとき、また、子ども達の成長が、環境の改善・改革を悠長に待ってはいられないことを考えれば、現実問題として、学校教育がその課題の中心的部分を担わざるをえないだろう。「こころとからだの健康学」は、そのような状況にも対応しうるように構想される必要がある。
 そこから、これまで学校教育において、「体育」「保健」「養護」の相対的に独立した3分野として位置づけられてきたものを健康権・環境権・スポーツ権などの確立を志向する国民の教育要求と権利の実現という基本的課題のみならず、上記のような現代日本の子ども達の心身の発達上の深刻な状況も視野に入れた上でそれぞれ捉え返し、三者の機能の有機的な関連を図ることが、「こころとからだの健康学」の内容として、要請されてくる。
 「こころとからだの健康学」の中心的課題は、子ども達に、自分自身の身体の現実を直視させ、身体についての認識を深め、身体形成(身体変革)の目的意識を育てることである。そのなかから、主体的な身体形成に対する意欲・健康に生きる意欲も育まれてくるだろう。
 ただし、もとより身体の形成や、危険・疾病などからの防衛は「こころとからだの健康学」のみによって達成しうるものではない。この、身体を直接の対象とする教育・学習が、他の教科・教科外活動と結合され、総体として、子どもの全面的発達に関わることが不可欠である。

3.教育内容

 保健・体育・養護の三機能の有機的な連携による「こころとからだの健康学」の第一義は、身体の自己管理能力と自主的実践能力の獲得である。自らの心身の発達についての科学的認識、実際に身につけた運動能力、生活のなかで形成された身体の動かし方、健康を維持するための知識と能力、それらをともに取り込み結合させることによって、はじめて、自己管理能力・自主的実践能力というものが形づくられ、子ども達は真にみずからの身体・「文化としての身体」の主体・主人公になることができる。

  (1)学校保健活動の機能

学校保健活動
子どもの健康保護と発達の保障
学習条件の整備と学習権の保障
保健についての認識と能力(自己管理能力)の育成

  (2)学校保健活動の内容

  1. (学校医・カウンセラー・ソウシャルワーカーなどとの連携・協力による)
    1. 学校保健計画の立案
    2. 健康診断と事後指導
    3. 健康相談
    4. カウンセリング 疾病・負傷・伝染病・食中毒などの予防処置
    5. 「保健室登校」問題の分析と対策 など
  2. 学校安全
    1. 安全管理
      1. 生徒・教職員を対象とする対人管理
        医療施設との連携を含む緊急時の救急体制、校内組織としての安全・保健委員会の確立、通学経路を含む安全に関連した子ども達の行動についての実態把握、水泳指導時の監視体制、遠足・修学旅行などの校外活動の際の事前調査を含む安全確保、災害避難訓練、など
      2. 施設・設備等を対象とする対物管理
        学校設置者と学校の責任において、学校施設・設備・用具・備品などの物的教育諸条件を、子どもの安全確保の見地から、点検・整備・拡充すること全般
    2. 安全教育
      1. 通学途上・体育・クラブ活動・技術技能教育・職業教育・理科教育などにおいて安全に行動できるように子ども達を指導すること
      2. 安全確保に必要な諸条件に関する知識・技能を教えること
      3. 交通安全教育
      4. 校内暴力(教師による・生徒による暴行)対策
  3. (学級担任や養護教諭などによる)
    1. 健康観察
    2. 健康相談
    3. 保健指導
      1. 性教育、エイズ教育、飲酒・喫煙・薬物吸飲※、美容・エステ・ダイエット、摂食障害(拒食・過食)、ストレスといじめ、不登校などをテーマとする特設教室
      2. 主として学級担任が学級指導を通して行う保健指導
        学校安全・保健行事にかかわる指導、体育的行事・校外活動などにともなって行われる保健指導、長期休暇中の子ども達の生活についての事前の保健指導、等
      3. 保健委員会活動など
      4. 主として養護教諭が行う、病気や健康上の問題をもつ子への個別の、あるいは小集団対象の保健指導
      5. 「保健室登校」問題の分析と対策
  4. 傷害や急病の応急処置
  5. 病・傷害児の養護
  6. 教科の保健学習
    つぎの4点の結合によって、自らの身体の主人公としての自己管理能力を形成することを中心的目標とする。
    1. 身体(精神と肉体)についての認識
      (人体の進化の歴史と自らの身体の構造・機能・発達・障害についての科学的認識)
    2. 保健についての認識
      (健康・疾病・障害とは何か、健康破壊の状況、環境破壊・食品公害・薬害などの状況、飲酒・喫煙・薬物吸飲※の害と対策、頽廃文化の実態と影響、青少年心理学、美容・ダイエットと保健、いじめのメカニズム、不登校の心理、家庭内暴力、自傷・自殺、健康に生存するために必要な環境・条件、環境権、保健行政・社会的対策・諸制度の実情と課題、健康に生きるための人類の闘いの歴史と遺産と課題、健康権、労働災害・長時間過密労働・長時間残業・深夜労働・交代制勤務・休日勤務と健康破壊・過労死、検疫、WHO ・ILO ・労働法、核実験・原発・核廃棄物と放射能汚染・病障害、など)
    3. 身体についての自己管理・統制(自治)
    4. 身体の運動および生活の中の行動を通しての認識の内在化(知恵を生活に生かす力とワザを身につける)

(※薬物汚染:子どもの権利条約第33条には、薬物の汚染から子どもを守るために、政府は「立法上・行政上・社会上および教育上の措置を含むすべての適切な措置をとる」こと、とある。

  (3)体育(科)の目標
従来の学校体育は、スポーツの商業主義化や国威発揚の手段化、労働力政策に応じた能力主義的体力づくり、軍国主義的練成法に根ざした伝統的な精神主義的選手養成法、勝利至上主義などの影響の下で、身体を、子ども自身の内部の要求に基づくのではなく、外部からの要請・必要・強制に服従させるような、他律的訓練に陥りやすい傾向があった。
 そこで、それを反省し、上記のような、保健・体育・養護の捉え返しと三者の機能の有機的な再構成との関連において、学校教育における体育(科)固有の任務と役割を見直し、(1)身体についての自然科学的および社会科学的な認識と、(2)運動文化の学習を通じた運動能力の基礎の形成、(3)さらに、各自の生活と心身の健康を管理し、身体の全面的発達の可能性を追求する、自治(自己管理)能力の獲得、総じて、身体とその活動における自由と民主主義の追求を基本的目標とする。
 また、その学習過程を通じて、現存の運動文化を主体的に継承し、さらには、それらを変革し、あるいは新しい運動文化を創造することを目指す。そして同時に、運動文化財に本来含まれている、科学性・合理性、道徳性・倫理性、芸術性を身につけさせ、個の自立に基づいた集団性(社会性・共同性)を獲得させる。

〔注〕運動文化:人類が歴史的に積み上げてきた、様々な運動様式をもつ身体的活動の総称。「文化としてのからだ」やスポーツ文化などを歴史的・社会的にとらえようとする概念であり、その根底には、現存する運動文化とそれを継承する主体者である人間の変革・創造を意図する教育理念がある。

  (4)体育(科)教育の内容
 保健科その他の教科において身体についての科学的認識の深化を図ったうえに、体育(科)教育の学習内容・対象となる教材を、歴史的・社会的遺産としての運動文化財の中から、教育目標にそって改造・組織し、子ども達の発達段階と運動要求に応じて、スポーツ科学・スポーツ医学の到達点に学びながら、指導する。具体的には、スポーツ、体操、遊戯、舞踊やクラブ活動、レクレーション活動などによって、子ども達の心身の健康の維持・増進と運動能力の発達を図り、保健・体育・スポーツ分野の認識を育てる。体育科は、その中核的役割を担う。

  (5)体育科固有の学習活動の3領域
  1. 歴史領域
    運動文化財(競技様式・ルール形態・競技施設や用具など)の誕生・発展と社会(政治・経済・文化)・人間との関わり、スポーツ権、スポーツマンシップ(フェアプレイの精神)など
  2. 技術・技能領域
    体育科学習の直接領域であり、その中心的内容を構成する。それぞれの運動技術・戦術の発展と技術構造、それらの理論と実践、スポーツ科学・スポーツ医学の基礎、など
  3. 組織・運営領域
    施設・設備・用具の管理や用具開発の発展方向、競技会その他の体育活動の企画・運営など

[注24]城丸章夫『近代教育における身体観』『岩波講座・現代教育学・第14巻・身体と教育』 [注25]勝田守一『人間の科学としての教育学』 [注26]全国生活指導研究協議会『生活指導・1975年8月号』

【参考文献】・志摩陽伍「学校教育と国民的教養」『講座・日本の教育5』・中央教育課程検討委員会「教育課程改革試案」『教育評論 1976 年 5-6月号』・労働旬報社『現代教育学事典』・内海和雄『体育科の学力と目標』
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解説7.ことば学系

1.非母語

 〔注〕母語、「非母語」の語義・概念については、タテのカリキュラム・ことば学系・共通必修科目・母語の項を参照。

 現在「外国語」教育の内訳は、ほとんど英語一辺倒であり、「自分のことば」以外のことばを学ぶ意義がきわめて限定されている。
 一般に、「非母語」学習の目的の中核的要素は、「客観的実在と観念(意識)と言語との関係、母語と『非母語』との同一性と差異性あるいは共通性と独自性、思考様式や文化における人間としての同一性・共通性・普遍性と人種的・民族的差異性・独自性などについての認識を深め、世界の多様性を理解するとともに、母語やみずからの民族・共同体の文化や思想に対する認識と自覚を高める」こと、そして、それを通して「飢餓と貧困からの解放・平和的生存・自由・人権・民主主義・環境保全・社会進歩のために諸民族との連帯を深める」ことである。(「国際言語」として、現在最も有効な国際的共通語として、英語を学ぶことは、いわゆる国際化時代を迎えてきわめて重要であり実用的でもあるが、「非母語」学習の目的をそれに限定してしまうのは、目的の矮小化と言えよう。)「非母語」教育が英語に独占されることは、前記のような目的に反し、「非母語」学習を歪めその内容を非常に貧しいものにするだろう。
 ちなみに、世界にはいくつの自然言語があるか。それを確定するのはほとんど不可能である。まず、言語(とくに少数民族の言語)は次々に消滅し、あるいは−外因で音韻・語彙・構文が大きく変化するなど−新たに生まれ続けている。それに、言語の学術的調査・確認が行き届かない。調査できても、一個の言語として確定するのが難しい。ある祖語から分岐派生した親族的諸言語を、何を指標として独立した言語と認めるか。ある言語の下位単位をなす方言を、どこまで独立の言語と認定するか。ピジンやクレオールをどう位置づけるか。等・等。そういう事情で、(調査と確認が行われている限りの)、現存の人類の言語の数は、研究者の観点の差異によって、約3千から6千までの幅の中で語られる。
 現在の自然言語の90%が、21世紀末までに消滅すると予測する言語学者もいる。経済的・政治的・軍事的に強大な国家・民族・集団の言語が、他の弱小のそれらの言語を征服し絶滅させてゆくのである。たとえば、今日世界中のあらゆる分野で不可欠の人口知能システムとして利用されているコンピューターの(プログラミング言語などの)機械言語や用語・国際情報ネットワークの共通語が、超大国アメリカなどの国家語に独占され、その使用を通じて、その言語の支配力が浸透するように−。あるいは例えば−これは失敗例であるが−戦前日本が台湾や朝鮮などを植民地にし日本語を強制したように−。征服された言語共同体は−たとえ、かつてそのことばを話していた人間は生き残ったとしても−その母語の死とともに、歴史や文化の未来も、やがては過去も失う。
 「私(たち)」とともに「私(たち)のことば・歴史・文化」の尊重を要求するものは、「かれ(ら)」とともに「かれ(ら)のことば・歴史・文化」を尊重しなければならない。自由・独立(民族自決)・民主主義は、その基底に、ことば(思想とコミュニケイション)の「自由・独立・民主主義(言語主権)」の保障を不可欠とする。超大国による世界秩序の構築、つまり一定の価値観に基づく世界の再編成は、文明と文化の支配−従属体制化と画一化をもたらし、人間活動の硬直と衰退となって帰結するだろう。(神も権力も一つに集中するのは極めて危険である。)生物種の多様性の保持が地球上の生命の存続と自然環境の保全に欠かせないように、ことば、つまり言語共同体と文化の多様性の維持と擁護、異質の存在との共生が、人類社会全体の持続的な発展の基礎である。それは、一人ひとりの、ある何かをきっかけにした、みずからとは異なるある文化・ある「非母語」への興味から始まる。
 「ことば学」系の選択必修科目としての「非母語」は、条件のゆるすかぎり、アイヌ語や「第三世界」の言語、エスペラントなどの人工語を含め、なるべ広い対象から選ぶことが望まれる。
 また、上記のような目的による「非母語」の学習は、必ず専任教員の指導がなければ成立しない、というものではない。生徒の興味・関心を優先し、指導者は−専任教員がどうしても配置できない場合は−生徒たちが希望した「非母語」を教えられる者を、学校の外部から招聘したり、それも不可能な場合は、テキストや辞書・視聴覚教材などを与え、その言語や民族・歴史・文化などに関わる書籍・写真・オーディオ・ビデオ・映画・芸術作品などを紹介し、あるいは関係国の大使館・領事館や直接本国の対外機関などへ生徒に聞き取りをさせたり、インターネットなどで必要情報にアクセスさせたりして、グループで自主学習させるような学習形態も考えたい。

補論   外国語学習についての断想

1.外国語教育 (学習) の目的

 まず、外国語教育 (学習) の一般的目的を確認してみたい。日教組全国教研の外国語教育分科会では、つぎのような4つの目的が、教育実践を通して引き継がれている。
  1. 外国語の学習を通して、世界平和、民族独立、民主主義、社会進歩のために、諸外国人民との連帯を深める。
  2. 労働を基礎として、思考と言語の密接な結びつきを理解する。
  3. 外国語の構造上の特徴と日本語のそれとの違いを知ることによって、日本語への理解を深める。
  4. その外国語を使う能力の基礎を養う。
 1と3について、日教組・中央教育課程検討委員会『教育課程改革試案』でも次のような考察がされている。「母国語とは全く異なった体系を持った外国語を私たちが理解したり表現することができる、つまり言語の相違のさらに奥に人類共通の思考・認識の様式が存在することを具体的・体験的に知ることにこそ、真の国際理解の基盤があるはずだ。」 3については、つぎのような言葉もある。「外国語を知ることによって母語への意識が生まれ、新しい発見が呼び起こされる仕方は二通りある。一つには異質の言語を知ることによって、もう一つは同類の言語を知ることによってもたらされるのである。」「外国語の学習は白紙の上に、すなわちすでに知っている言語である母語と全く独立に行われるのではなく、母語の知識を介して行われる。」「教室における外国語獲得はダイレクトメソッドが想定しているような無邪気なものではなく、一種の対照比較分析の過程である。この過程がある限り、外国語学習は、それ自体の実用の域をこえて、たとえ無意識にでも理論的作業に近づいている。だからこそ外国語を知ることによって、母語の特質が照らし出され、言葉そのものにも広い展望が与えられるのである。」 (田中克彦『外国語を学ぶ意味』) また、2と関わって、外国語教育 (学習) の目的を「母国語だけによる狭い思考力を拡大していく」(遠山啓) とするものもある。「すべての言語は伝達の手段であると同時に、思考・認識の手段でもあるが、外国語もまた言語である以上、私たちの思考認識の形成・拡大に関わってくる。そしておよそ思考・認識の形成・拡大を抜きにして人間形成が考えられるだろうか。」 (日教組・中央教育課程検討委員会 『教育課程改革試案』)

2.なぜ英語だけなのか

 しかし、外国語教育 (学習) といっても、実際に日本の学校で教えられている外国語は、ほとんどすべて英語である。しかも、これまでは、外国語は、学習指導要領で学校選択とされてきたが、教課審「中間まとめ」は、英語を必修教科にするとしている。(仮に、外国語学習の選択肢が英語しかないという前提に立てば、遠山啓も主張するように、政府をはじめ支配層に「情報の独占を許さないため」に、英語を必修にすることは、肯定されなければならないが)
 なぜ英語一辺倒なのだろうか。日本の学校の教育課程に設置される外国語が、ほとんどすべて英語になっている直接的な契機は、言うまでもなく、日本の敗戦とアメリカ軍の占領支配によって、アメリカの主導権の下に戦後の教育制度が敷かれ教育内容が決められたことによる。(「脱亜入欧」の方針で始まった近代化で、すでに日本には欧米崇拝の下地は出来上がっていたが、戦後アメリカが持ち込んだ「民主主義」の理念とハリウッド映画によって、アメリカが理想化され、大金持ちで「自由の国」アメリカの生活様式と文化が貧しい敗戦国日本のめざす唯一の目標になった。) ソ連と並ぶ2つの超大国の一つとして、戦後世界の覇者となり、資本主義陣営の盟主となったアメリカは、ソ連の崩壊後、唯一の超大国として、軍事的・政治的・経済的に全世界を支配するに至り、アメリカの言葉 (英語) が、「世界中で通用する言葉」になった。わが国は、日米安保条約などを通じて、アメリカへの従属の度合いをますます高めており、外国語教育の目的を、いまや国際語となった英語を教えることに事実上限定しても、違和感をもたれない強固な環境ができあがっている。
 英語の位置づけについては、教育界の外でも同様の認識がみられる。英語とは媒介語・変換ソフトのようなものだと加藤秀俊は言う。(『アエラ』 10・7)また、英語は世界語ではないが国際語と呼べると斉藤次郎も言っている。(『英語教育』 1992・9月号別冊) いずれも、英語の持つ実用性、つまり世界中で発信される情報の8割が英語だと言われている現状を反映しての発言だろう。
 実際に、外交上でも、ビジネスでも、学術の分野でも、国際語としての英語の存在は以前より増大し、好むと好まざるとに関わらず英語を使用せざる得なくなってきている。英語を、国家の第二言語としたり、公用語としたりする開発国も増えている。(他方では、肝心のアメリカで、移民が各自国語によって言語共同体や独自の文化圏をつくりあげ、その「市民権」を主張し、英語の確固たる公用語としての地位が揺らぎ始めているという、皮肉な逆転現象も起こっているのだが)

3.英語の国際語化

 ところで、このあたりでちょっと立ち止まって注釈を加えなければならないことがある。「国際語としての英語」とは、かならずしもアメリカ人やイギリス人など英語国民の、それぞれの風土や歴史や文化と不可分の英語と同じものではない。英語が国際語と言われるほどに世界で一般化したという事は、英語自体が、各国・地域で使用される過程で、その国・地域の言語の影響による変質、つまり現地化や「クレオール」化を受け入れざるを得なかったということだ。逆に言えば、規範を英米の英語に求めながら、多くの点で変質を余儀なくされることで、英語は、世界の伝達言語としての役割を担えるようになった。(実を言えば、アメリカ英語でさえ、移民の影響や世代交代・地域差などによって、年年かなりの変容を余儀なくされている。)
 英語の国際語化に関わって、かつて、様々な人々がつぎのようなな提唱をしたことがある。国弘正雄は、脱英米化を強調しながら、Universal Englishを発案した。また、小田実は、エスペラントの平和精神に学んで、国際便宜語として、English + Espelant つまりEnglantを唱え、鈴木孝夫は、国際補助語としてのEnglicを提案した。渡辺武逹も、日本人のための英米語そのものでない国際交流語として、JapaneseとEnglish を結び合わせてJapalish (日本人式英語) を薦めている。いずれも、中立的な国際語としての位置づけと、現実に国際語的役割を果している英語とを折衷した、意思伝達の手段としての半ば人工的な世界共通語の試みである。
 ところが、英語教師には、文語・文学派であれ、口語・会話派であれ、文法・言語学派であれ、「本場」アメリカやイギリスの「標準的」英語そんなものが実在するのかどうか疑わしいのだががスタンダードでありモデルであるという固定観念をもつ者が少なくない。大学教授と中・高校教師とを問わず、英米人の話す英語を、それがどんなシロモノであれ、絶対視する。英語のスピーチコンテストでも、発音とイントネイションをどのくらい上手にネイティヴに似せているかが優劣の基準になり、主張の中身が最も重要な評価の対象になることはほとんどない。英語教育界以外の人々の意識も、それと似たりよったりである。遠山啓は、英語学習の目的の一つに「英語のできない人間は低級だというコンプレックスからすべての日本人を解放する」ことを挙げているが、日本人がコンプレックスを感じるのは、特に、英米人と英語で会話ができない時であろう。しかし、自分の国で会話するのに、相手の国の言葉を使えないからといって、一方的に劣等感をもつというのもおかしなことだ。この底には、言葉以前に、ガイジンといえば先ず欧米人を連想する日本人の白人 (とくに米人) コンプレックスが潜んでいるのだろう。(事実、たとえば非白人と対してコトバが通じない場面で、卑屈になっている日本人を見かけるとはまれだ。) 英米人とのコミュニケイションに際して、たとえ英語を用いるとしても、意志疎通の道具としての国際語として使っているという意識をもてば、流暢に話せない場合でも劣等感を抱くことは少なくなるはずである。大学の英米文学・語学部でもなく、英米への留学準備でもなく、英米ツアーのコンダクター養成でもない、中等教育の普通教育の場では、なおさら、英米現地語にこだわるべきではない。「国際語としての英語を学習し、教えるとは (中略) 文法体系と音韻構造、それに共通基礎語いの修得である。(中略) 国際語としての英語が使用されるのは、多くは公式的場合であるから、砕けすぎた言い方や表現、慣用句等は不要といって良い。又英米独特の表現や言い回しなども同様である。こうしたことを考えずに、いたずらにイデイオムとか日常表現とかに多くの時間をかけるのは正しい教育とは言えない。」 (斉藤次郎、『英語教育』同前)

4.なるべく多くの選択肢を

 しかし、もう一度原点に戻って考えてみると、国際語としての英語の重要性と必要性を認めるとしても、誰にでも共通に必要な教養の一環としての外国語学習が、英語の学習に制度的に限定されることには、上掲の外国語学習の目的に照らして、やはり疑問を感じないではいられない。
 「今の授業外国語における英語の独占状態から考えて、英語の運用力にあまりにも価値をおきすぎることによって、英語は他の外国語への道をふさぐことにさえなりかねない。つまり・・・真の意味での外国語の学習を妨げているとも言える。」 (田中克彦 『外国語を学ぶ意味』) また、「日本にもっとも多くいる外国人は朝鮮半島や中国の人々だが、それらの言語を無視して英語一辺倒であったわれわれの外国語教育を考え直す時機にきている。」 (第41次日教組全国教研・広島高教組) 英語教育一辺倒は、しばしば日本人の意識 (また無意識) のなかで英語を特別な地位に押し上げ、英語 (国民) に関わるもろもろの物事に特別の価値を置くようにマインド・コントロールする。そればかりでなく、副次的作用として、その他の言語 (国家・国民) に対する関心を希薄にし、はなはだしきに至ってはそれらを蔑視させるようになる。ときには、自国に対する卑下や嫌悪まで引き起こす。 外国語教育 (学習) を通じて、私たちは、私たちの母語に改めて意識を集め相対化し、母語と外国語との言語体系の相違点や共通点を見いだすことで、「無意識の膜に被われて、つやを失った母語への自覚を開き」、 母語自体をも豊かにする事を願っている。それはやがて他の数多くの言語への興味・関心を広げるだろう。さらに、様々な外国語の学習と使用を通して世界をとらえ直すことによって、自己の認識を広げ深めることを願っている。あるいはまた、ことばには、人と人を出会わせ、つなぎ、誤解や偏見を解き、理解しあい、お互いのいのちとくらしのかけがえのなさを知り、人に働きかけ、世界の平和を創りだす働きと力があることを、体験的に学んで欲しいと思う。外国語学習の成果は、きっと、自己の確立を助け、将来多くの困難が待ち受けている人生を力強くこころ豊かに生き抜くための、もうひとつの「武器」になるだろう。
 (そのためには、外国語そのものの運用能力の上達にだけ力点を置くのでなく、言語と人間・社会・歴史・文化・自然などとの結びつきをつねに立体的に学習に組み込むことが重要である。「読み取り」を例にとってみよう。「読みとり」は、勿論、文法や慣用表現に注目しながら日本語に直訳することで終わるわけではない。日本語 (母語) の助けを借りながら、文章のテーマや登場人物の心理、そうしたものの背後にある風土や社会、広い意味での思想や文化に迫りながら、解釈を深め、さらに様々な活動、たとえば「表現読み」や翻訳・イラスト化・劇化などへと展開し全体を総括してゆくというように。「読みとり」は、ある意味で、教材との対話であり、その背後の作者やその教材が設定する時代の人達との対話である。その際、日本語を使わないで文章の解釈をすすめる場合が有ってもよいのは言うまでもない。だが、母語と外国語のすり合わせを重視する教科観に立てば、そして、生徒の想像力・創造力を自由に十全に発揮させるために、日本語が有効な助けになると判断されれば、つまり日本語という母語を通してこそ深い認識に到達できるというのであれば、日本語を使うことをためらう必要はないだろう。)

5.未来を切り開く

 しかしながら、ふたたび現実に立ち戻ったとき、複数の外国語を必修科目として設置することの難しさが目の前に現れる。学習指導要領は、たしかに「外国語」という枠組みになっており、英語以外の言語を選ぶことは制度的には可能である。けれども、周知のように、実際には日本のほとんどすべての学校の外国語教育は英語一色に塗りつぶされている。日教組全国教研の英語分科会でも、英語教育以外の実践レポートは皆無である。そういう状況を反映して、当然、教材も英語のもの以外を見つけるのは難しい。外国語の教員免許をもっている者も、内訳はほとんどが英語である。高校・大学が入試で課すのも原則として英語、公務員試験・就職試験でも、少数の例外を除いて、みな英語。巷に林立する語学の学校・教室も、大半が英会話学校・教室である。
 それでもなお、私たちは、子ども達が世界中の言葉から自分の興味・関心のある言葉を選び学ぶ自由を保障する努力を放棄することはできない。国民教育の一環を成す外国語教育が英語に独占されることは、たとえ英語は今日国際語であると理由付けしたとしても、外国語教育 (学習) の本来の目的からみれば、けっして望ましい状態とは言えない。(私たちの意識はすでにほとんど麻痺状態にあり明確に自己診断ができなくなっているが、日本は半ばアメリカの植民地になっていると指摘し嘆き警告する著名な外国人識者・芸術家が少なくない。日本にとって国際化とはアメリカとの関係を深めることだと言った有力な政治家もいる。これらの例も、英語教育オンリー問題と根っこで繋がっていよう。) かつて、ソ連が「東」世界の盟主であった時代、その陣営内の、中国・東欧諸国・北ベトナムなどの諸国の学校で第一外国語として教えられていたのは、すべて陣営内の「共通語」であったロシア語であったという。自ら省みて、わが国の状況を「異常」とみる感覚、事は日本の真の独立に関わる問題であるという認識を、私たちは、外国語教育 (学習) のあるべき姿を実現するまで、失ってはなるまい。

【参考文献】・「外国語と私たち」『高校で何を学ぶか 4』 大月書店、・ 『検定教科書で英語ができるようになるか』 太郎次郎社、・長谷川潔 『英語教育で何を教えるのか』 高文研、・田中克彦 『国家語をこえて』 筑摩書房、・田中克彦 『国家とことば』 岩波書店、・田中克彦 『言語学とは何か』 岩波新書、・日教組・中央教育課程検討委員会 『教育課程改革試案』 一橋書房、・ 『日本の教育』 (日教組全国教研の報告)、 ・ 『日本の民主教育』 労働旬報社
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解説8.芸術系

〔注〕芸術系については、高総検報告『学習疎外を超えて』p.65〜66も参照。

1.芸術教育における「学力」問題

 「問題なのは、子どもがその現実の生活の中でどのような感情的対応をしているかということである。そしてその感情的対応がどれほど人間的かということである。芸術教育はここに根ざし、ここに帰るものでないかぎり、それはどのような芸術文化を教えても、またどのような表現技術の訓練をしても、芸術的能力、感応・表現能力を育てるものにはならないだろう。
 今日の子どもの感情生活、子どもの感応・表現は、生活文化の解体とマス・コミ文化の支配のなかで、粗野であったり、自閉的であることは否定しえない。しかし、子どもがひとりの人格としてそこに生きているかぎり、子どもは現実世界に対して彼なりの感情的対応をしており、その感情的対応を外的に・内的に形象として表現しようとしているはずである。
 芸術教育はこの子どもの感応・表現に深くくいいったかたちで芸術文化を提供し、それによって子どもの感応・表現をより人間的に豊かで深いものにするものでなければならない。そうしたとき、はじめて芸術教育は、子どもの内からの感応・表現を発達させる芸術的「学力」を築き出すことができるだろう。いやそればかりか、それはその芸術的「学力」をとおして子どもの感応・表現能力をより高い水準へとひき上げると同時に、それを芸術的能力に発展させていくことになるだろう。
 そうだとすれば、子どもの芸術的「学力」、能力を高めていくために必要なことは、現実生活のなかでの子どもの感応・表現をより人間的なものにする芸術文化を発見していくことである。そのためには私たちは、学校教育がこれまで提供してきた芸術文化を疑ってかかる必要があるだろう。私たちは、子どもの感応・表現にささりこみ、かつそれを育むような芸術文化を発見できたとき、芸術的能力のあるなしは生まれと育ちによるという臆見や、疑似的な「芸術的学力」の高い低いという問題を乗り越えることができるだろう。」[注28]
 私たちの「芸術系」の教育・学習は、ハーバート・リードが言うように、「自然との接触を失い、疎外された存在になってきている」現代人が、「みずからを救い出す」方法としてたち帰るべき「感覚面の」活動へのいざないであって、生まれつきの芸術的才能の早期発見や芸術の専門家の養成を目的とするものではない。「人間の根源的エネルギーに根ざした真の創造力を培う」[注29]ばかりでなく、「広い範囲における優れた『文化の受け手』の育成」[注29]を図り、人々に「『生きる力』と『生きる歓び』を養う」[注29]ことをめざすのである。

2.芸術教育の三要素

 芸術教育・学習には、図式的に分類すれば、創作、表現、鑑賞という三要素がある。

芸術教育・学習 創作
表現
鑑賞

 音楽を例にとると、作曲が「創作」、(創作と表現の境界は必ずしも截然とはしていないが、あえて分ければ)、他の作曲者のかいた楽譜で演奏するのが「表現」、他の演奏者の演奏を聴くのが「鑑賞」に当たる。
 高校教育段階の芸術教育・学習では、なるべく多くの部門(種類)から選択できるように条件を整えるだけでなく、上記の三つの要素のうち、どれに重点を置くかについても、生徒たちの選択を可能にするべきである。つまり、学習集団(レッスン・クラス)の全員が一斉に同じカリキュラムをこなす必要はなく、たとえば、ある生徒たちは、鑑賞だけを選択し一年を通して学習することもできるようにすべきだ、ということである。

3.鑑賞の学習

 言うまでもないことだが、どの部門の芸術も創作だけでは成立しない。鑑賞者が居て−ある場合は表現者による媒介があって−はじめて芸術(活動)は完結する。(たとえどんな名画であっても、金庫の中に入れっぱなしでは価値はない。)その意味では、芸術は、創作者と芸術的形象(物・者)と鑑賞者との関係である、ということができる。その関係とは、言い換えれば、創造の共同であり、創造的時空の共有である。鑑賞という視点から見れば、それは芸術によって創造された世界への参加、ないしは芸術的創造への参加である。
 鑑賞の学習は、それぞれの芸術部門の基本的な鑑賞の方法を、作品あるいは芸術的形象(物・者)自体についての、また、それらの背景を成すさまざまな、鑑賞に必要な知識とともに、学ぶことから始まる。さらに進んで、批評の方法の基礎を学び、生徒自身の感性を洗練させながら、独自の鑑賞・批評の方法を確立し、それぞれの芸術の骨法に触れることができたとき、鑑賞の学習はほぼ理想的な修了ということになろう。

4.選択しうる芸術部門の拡大

 生徒が選択できる芸術部門は、なるべく広く多いのが望ましい。これまでのところ実際の芸術科の選択の幅はきわめてせまく、ほとんどが美術か音楽、あるいは書道などに限られている。しかし、芸術は、すぐれて、個々人の特性、ことに複雑で微妙な要素と経緯で成り立った各々の感性と深く関わる営みである。言い換えれば、それぞれの人間性の根源と結びつく活動である。したがって、それらに対応するためには、できるだけ広い範囲の多くの芸術部門から選択できることが望ましい。絵画や彫刻・文学など、主として個人で、対象を凝視し、自己の内面を深く掘り下げ耕し、技術を磨きながら、アートする部門。演劇や映画など、スタッフ・キャスト互いに異なる役割を分担しながら協同して一つの作品を創り上げてゆく総合芸術。それぞれ教育的意義は計り知れない。
 たしかに、芸術部門の選択幅を拡大するのには、人的・物的その他の条件整備にかかわる予算の不足という現実的問題があるが、従来の形式的制約を取り払い、発想を転換し、総意を発揮し工夫を凝らして、豊かな芸術学習・芸術的体験の機会を生徒たちに提供したい。
 その一案が、校外の(プロ・アマチュアの)芸術家や特殊技能保持者・職人さんなどの協力を求めることである。マスコミ・ミニコミを活用して、地域から子ども達の教育に力を貸してくれる人をさがす。軌道に乗るまでのマネジメントに労力が要るが、最初は小さなものでも、教育ボランティアの組織が一旦出来上がれば、人が人と結びつき人を拡大してくれるというメカニズムも働く。
 もう一つの案は、校外の公立・私立の芸術に関わる施設・設備(美術館・コンサートホール・映画館・劇場など)、あるいは行事・催し・イベントなど(音楽会・器楽公開レッスン・演劇ワークショップ・美術講座・映画会など)の活用である。それらについての情報を常に入手するように努め、それらのうちから生徒たちが利用できる(無料・低料金・安全)ものを適宜それぞれの部門の学習計画に組み入れ、積極的に参加させるのである。この方法は、とくに鑑賞の学習に有効であろう。この学習形態が各校に発展すれば、情報ネットワークを作り上げることも可能であり、校外での学習機会捜しも比較的容易になるだろう。

5.芸術系の共通学習課題・芸術史

 生徒たちが、どのような芸術部門・どのような芸術学習要素(創作・表現・鑑賞)を選択するとしても、是非共通に学習して欲しいことがある。それは、芸術史である。芸術もまた人間社会の活動の一部であるから、その時代その社会のありかたに常に制約されざるをいない。それは、芸術そのものの進歩発達と社会の進歩発達の歴史的関係と言い換えることもできるだろう。
 しかし、厳密に分析的に言えば、芸術には、歴史的に変化する要素と超歴史的な要素がある。たとえば、芸術の道具や技法−美術であれば絵の具や遠近法など・音楽であれば楽器やオーケストレイションなど−は、一般的には、発達・発展すると言っていいだろうが、「芸術するこころ」とでも表現すべきもの感動の根源や人間存在の核の無限の探究・自ら小さな神のように「世界」を創造したいという欲求は、空間・時間を貫いて不変であろう。芸術の歴史には、そのような特徴がある。
 芸術家が、身分制から開放され一個の職業として経済的に自立する以前の時代、すなわち古代・中世までは、時の権力者に隷属し従属し、他の奴隷・農奴・領民・商工業者と相似して、スポンサーの欲するままに彼らの「芸術」を提供させられていた。そして、「芸術家の作品」は、権力者に独占され、支配階層だけの鑑賞の対象になった。いわば、芸術の疎外。創作者階層と鑑賞者階層の断裂乖離。そこに、近代以前の芸術の歪みの根源があった。また、芸術の世界でも、一般社会と同様、長く女性差別があった。美術の世界でも音楽の世界でも、女性の芸術家の進出はきわめて制限されてきた。少ない機会をとらえて苦難の末芸術の世界に加わった女性もいたが、差別にあった。己の芸術においては完全な自由と真実を追究してやまない芸術家が、芸術の外では、時代の制約を破ることができず、それらを否定するという矛盾を抱えていた。
 とはいえ、民主主義が発達し社会が豊かになったからといって、それに比例して芸術の質が向上するとは限らない。モウツァルトやベイトゥヴェンの時代よりも確かに現代は総じて民主的で物質的に裕福かもしれないが、現代の作曲家が彼らより優れているかどうかは、はなはだ疑わしい。ここにも、芸術史の特殊で複雑な側面がある。
 ただし、芸術の歴史において確実に進歩・発達した部分のひとつと言えるものがある。それは、今日、少なくとも日本を含め先進国では、ほとんど誰もが、その気になりさえすれば、なんらかの芸術を享受することができるようになりつつある、ということである。この点は−これもまた確実に−生産力の向上と民主主義の発達によって社会下層への富の配分が漸増した結果である、と言うことができる。

6.修了制作

 それぞれ選択した芸術部門と重点を置いた芸術学習要素(創作・自己表現・鑑賞)について、自主的に設定した課題で、修了制作を行う。たとえば、絵画の創作を選択した者はタブロウを、音楽の自己表現をを選択したものは楽器の演奏を、文学の鑑賞を選択した者は作家論や作品論を、演劇・映画など総合芸術を選択した者は公演・フィルム(上映)を、各課程の修了時に出品・発表する。

 芸術系の時間割設定に際しては、1回2コマ以上4コマまでのまとまった時間枠を取りたい。

[注28]竹内常一「芸術教育における『学力』問題」『講座・日本の教育・9・芸術』 [注29]上野泰郎「美術選択制は文化の軽視」朝日新聞・1997年9月11日
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解説9.こころとからだの健康学

 「こころとからだの健康学」の総論については、上掲の、タテのカリキュラムの共通必修科目「こころとからだの健康学系」の解説を参照されたい。

1.各種スポーツ

 スポーツの選択種目は、各生徒の多様な興味・関心・適性などに応じられるように、できりがぎり多く設置したい。各校内にその種目に適する施設・設備がなかったり、指導者がいなかったりする場合は、校外の公・私のスポーツ施設を利用したり、指導者の協力を得ることも考えたい。(その際は、タテのカリキュラムの必修選択科目・芸術系の項で提案したような、プロ・アマチュアを問わず校外から専門技能者・識者を広く募り協力を依頼する「教育ボランティア」のシステムなどを創る必要などもでてくるだろう。)
 通年でできる種目と水上競技やウインタースポーツのように季節が限定される種目の双方を設置できるようにする。スキーや登山などのように、活動場所が遠方であったり、宿泊を要するような種目については、休日中の集中授業も可能にしたい。
 (中国では、労働者が、心身の健康維持・増進のため、毎朝始業・出勤まえに、近所の丘に登ったり、公園で太極拳をしたり、河で泳いだりする習慣があるというが)、「こころとからだの健康学」の趣旨に沿い、その一環として(とくに、こころとからだを目覚めさせ、緊張をほぐし、ストレスを発散させ、疲労を取り去り、リズムを整えるなどのために)、ストレッチ体操やダンベル体操・太極拳・ジャズダンス・ヨガ・座禅などを、毎日、始業時や午前授業終了時・全授業終了時など、15〜20分程度、全校一斉に行う時間(仮称、リフレッシュ・タイム)を設けるなどの工夫をしたい。
 スポーツ実技の授業は、準備や練習・ゲームなどに必要な時間をまとめて取れるように、また、生徒の疲労がつぎの授業まで残らないように、なるべく各授業日の最後に2コマ以上連続の授業時間を設置するようにしたい。
 スポーツ実技部分の単位取得のシステムについては、選択幅を大きくし、通年のみでなく、半年、学期、月、休日集中、上記「リフレッシュ・タイム」、などの分割履修を認めた「完全単位制」を敷き、単位認定の総単位数だけを設定しておいて、単位の集積の計画と方法は生徒の自主性に任せる方式(各自が単位取得のタイム・テーブルをつくる、一種のアラカルト方式)なども検討の対象に含めたい。


 参考資料  授業の主目標に対応したスポーツ実技指導の類型[注30]

  A型:身体志向型
 ある運動文化財への技能の習熟を図りながら、主要な認識の対象を「自分自身やなかまの身体」に向ける。現実(自分の身体の発達上の問題状況)を自覚させ、それを克服してゆける主体を育てることを目指す。そのため、例えば、ひとつの技能の習熟をすすめている過程でも、ある段階でつまずくと、その原因を、学習者の身体の側に着目させ、探らせる。そこから、身体とその発達のもつ法則性・可能性・いのちの尊さなどを認識させていく。

  B型:ルール志向型
 技能の習熟を図りながら、その過程での認識対象の焦点を、その教材のルールや競技様式などに向ける。競技の様式やルールは、すでに与えられたものであり、永久不変であり、絶対遵守しなればならないものである、という固定観念を拭い、それは、過去に誰かが定めたもので、今後変更可能であり、不都合なら訂正も可能であり、自分たちでメンバーの合意のもとに新しく創り出すこともできる、ということを悟らせる。また、競技者の体力・運動能力の向上や戦術の深化が、ルールの深化を要求すること、さらに、適正なルールは、自分たちの行動を抑制するものではなく、ある目標にとって発展的に作用する(新しい可能性を開く)ものであることを認識させていく。

  C型:技術志向型
 技能の習熟とともに、認識の対象をその種目の技術に向ける。教師の指導に受動的に従った反復的練習によって感覚的に技能に習熟させるのではなく、子ども自身が、能動的・科学的に技術を習得していく方法を学ばせる。そのため、子ども自身が、ある種目について、予想(仮説)を立て、実験方法を考え、実験し、その結果から得た一般法則を、練習で確かめる、という指導を行う。

  D型:本質志向型
 C型と同じく認識の対象を技術に向ける。体育科の目標は運動文化の継承・発展であり、運動文化の中核は技術である。そして、それぞれの種目には特有の技術的特質(本質)がある、と考える。そして、例えば、バレーボールを、パス・トス・レシーブ・スパイクなどの要素の単なる総合とし、各要素を分離して練習しゲームで寄せ集めるのではなく、その本質を「スパイクを含むパスラリー」と捉え、練習は、ネット際のスパイクプレーを中心とした練習から入り、順次、本質から遠くなる要素の練習へと進む。また、球技の基礎技術と技術の系統を、それぞれのコンビネーションプレーの中に見、その練習を通して、子ども達に、各教材における空間的・時間的認識(ゲームの中で、なぜ・いつ・どこへ・どのように自分が動くべきかという主体的予測・判断力)をつけさせようとする。

  E型:集団志向型
 技能の習熟と技術の認識を図りながら、さらに生徒たち自身の集団形成に認識の焦点を定める。教科指導のねらいはあくまでも技能の習熟と技術の科学的認識に置き、そこに向けて学習集団の自治化・組織化を達成しようとする。さらに、技術認識と集団認識の発展を、自己の学習結果を自分の内部で確認する第一段階、自分自身の過去の学習結果やなかまとの比較により自分の現在の学習結果に対する原因を感性的に探ろうとする第二段階、そして、技の構造とその要点が整理され、しかもなかまを批評したり、批評を受けたりして個人的認識がなかまをくぐり抜ける段階(技術の集団的客観的認識)の三段階に分析する。第一段階では集団を必要としないが、第二・第三の段階では、自己の技術(認識)を映し出すなかま(集団)の存在が、学習者の技術認識を深化させるのに不可欠である、とする。

2.各種スポーツ理論

 各自が選択したスポーツ種目のスポーツ理論を、指導者の指導を受けながら、自分で参考資料を捜し、集め、研究し、レポート案にまとめ、同じ種目を選択した生徒の間でレポートを発表しあい、討論し、各自のレポート案を修正し、小論文に仕上げ、最後に指導者の評価を受ける。

3.各種スポーツ史

 各自が選択したスポーツ種目の歴史を、指導者の指導を受けながら、自分で参考資料を捜し、集め、研究し、レポート案にまとめ、同じ種目を選択した生徒の間でレポートを発表しあい、討論し、各自のレポート案を修正し、小論文に仕上げ、最後に指導者の評価を受ける。

[注30]内海和雄『体育科の学力と目標』
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解説10. 平和教育

1.平和の概念と平和教育・学習の内容・方法

 平和教育は平和の概念をどう解するかによってその教育内容に大きなちがいが生じ る。平和を「戦争のない状態」「直接的暴力のない状態」ととらえる「消極的平和」(negative peace) 観からすれば、東西対立や核兵器など主として戦争に直結した教育内容が中心となるのに対して、平和の概念を拡大して「物心共に保障された状態」「人権の完全に保障された状態」ととらえる「積極的平和」(positive peace) 観に立てば、人権の教育、人口教育をはじめ食糧問題、飢餓問題など南北格差や構造的暴力に関する広範な内容に及んでいく。開発教育と呼ばれる分野とも深いかかわりをもつ。
 平和のための教育は、今後の人類の教育を方向づける教育思想であり、教科・教科外を問わず学校教育、家庭教育、社会教育を貫く基本原理であるとともに、各教科や教科外活動に教育内容として具体化されなければならない。(『現代教育学事典』労働旬報社)

 平和教育の内容は、この「消極的平和観」「積極的平和観」の両視点から、構成するべきであろう。
 生徒がみずから平和を創りだす主体となるようにするためには、限られた教科・科目の中で「平和」を単なる知識として注入しただけでは不充分である。しかし、また例えば、教科外活動の一環として、充分な準備と計画もなく沖縄や広島への修学旅行を実施しても、その効果は、「昔は大変だった。でも今は幸せだ」とか、「かわいそう」「気持ち悪い」等の印象を持たせただけで終わってしまうかもしれない。平和についての認識が個々の生徒に定着し、その後の生徒の生き方にも影響を与えるためには、教科課程と教科外活動をトータルに考え、教科の学習だけでなく学校行事・生徒会活動など様々な領域での形や視点を変えた平和学習が必要である。
 また、国際社会において、個々の社会に属する個々人の基本的人権が尊重されている状態があれば、平和は維持されるだろう。また逆に平和が維持されていないところでは、個人の人権侵害を防ぐことはできない。平和を求めることと、基本的人権を尊重することは同じ流れの中に属する。また、平和教育は開発教育 (後述) とも密接に関わる。

2.平和教育・学習の主要な課題とねらい

 (1)広島・長崎の原爆被爆、第五福竜丸のビキニ環礁での被爆など米ソ他核保有国の核実験被害を含めて、原水爆の実相 (その破壊力、人体や生物・環境に与える影響、兵器としての性格、など) を客観的に認識させ、核戦争が勝者なき戦争であり、人類全滅の危険性をはらんだものであるということを論理的に理解させる。米ソ対立の終焉後の今日も、アメリカを始めイギリス・フランス・ロシア・中国(「核クラブ」)が核兵器を独占し、その他の国の保持を許さず、世界各国を威嚇している状況を知らせる。しかし、その一方では、核軍縮や廃絶の運動も世界中でねばり強く行われてきており、近年新たな広がりと高まりを示している事実も知らせ、子どもたちに、将来への不安を抱かせるだけでなく、核廃絶が決して実現不可能ではないという展望をもたせるようにする。
 (2)近代日本が朝鮮・中国等アジア地域に対して行った植民地化と侵略戦争の実態を明らかにする。また、天皇を始め軍人・政治家・旧財閥・知識人などの戦争責任、そして民衆もまた無知と隷属と臆病さによって戦争体制を支えていたことを明らかにする。また、歴代日本政府が、国内的にも対外的にも、15年戦争は国際的経済封鎖などに対抗した「やむをえない」自衛戦争であり欧米列強の支配に対するアジア解放の闘いであったとし、侵略戦争を行った事実を認めず、被侵略国に謝罪しないことが、国際的信用を得られない要因になっており、世界第二位の軍事力保有と合わせて、アジア諸国の安全保障上の潜在的脅威のひとつになっていることを理解させる。さらに、戦後世代も、「戦争と戦争犯罪を生み出したところの諸々の条件の中で、現在も存続している社会的・文化的条件の一部に対して責任がある」(加藤周一) ことを認識させる。
 (3)沖縄戦を扱う場合には、日本固有の領土内で唯一住民を巻き込んでの地上戦闘が行われたことを知らせ、ことに軍隊はけっして自国民の生命・財産を守るものではなく、その銃口は時に自国民にも向けられるものであることを実例を挙げて理解させる。また、近世以来、琉球王国がヤマト (日本本土) から歴史的にどういう扱いを受けてきたか、なぜ沖縄は対米戦で本土防衛のための捨て石にされ、なぜ敗戦後はアメリカに売り渡されたか、なぜ祖国復帰後も米軍基地がそのまま居すわったのか、なぜ現在も日本政府は沖縄を、米軍の世界制覇戦略の前線基地として、巨額な駐留経費まで負担して提供しつづけ、県民に多大な犠牲と不利益を強いているのか、等を調べさせ、本土と比較しながら考えさせる。そして、日本の安全保障のためとされている米軍の駐留が、かえって周辺諸国への軍事的脅威となって、東アジア地域における不安定要因となっていることを理解させ、近頃ではアメリカ国内でも沖縄からの海兵隊などの撤退論が出始めていることを知らせる。
 (4)世界第二位に達した日本の軍事力と日米安全保障条約などによる日米の軍事同盟は、今日、アジア諸国間の緊張を増幅する要因の一つになっている。「自衛隊」と名乗る日本の軍隊は、その装備内容と規模のみならず、「国際貢献」論に乗じた海外派兵の実施や日米戦争協力指針などの改定によって、すでに自衛の範囲をはるかに超えている。神奈川県は、沖縄県に次ぐ基地県であり、その実情を学習することを通して、日本の「戦争構造」を解明する。
 (5)アメリカを盟主とするG7やロシアは、また武器輸出国のリストでもある。戦争は、政治の延長であり、経済の延長であることを、産軍複合体などの分析を通して、理解させる。日本も、国会決議に反する武器の生産・輸出国の一つであることを、資料をもとに知らせる。
 (6)戦争の防止には、国内的・国際的に民主主義を貫徹することが重要であり、地球規模の「共生」の思想を育て広げることが不可欠になっていることを理解させる。米ソ対立終焉後の今日、唯一の超大国となり全世界の指導者を自認するアメリカの世界制覇戦略とその展開が、世界の平和を左右する最大のモメントになっている。地域紛争に関しては、正確な情報伝達手段の確保と基礎的教育機関の整備などを通した、少数者・他宗教に対する寛容の精神や他民族の文化に対する理解が重要である。対立や差別・抑圧を解消し和平を実現する前提として、地球レベルでの生産と分配における公正さの実現 (南北問題の解決) と強国の干渉の排除が不可欠である。この部分は開発教育との連携を要する。
 (7)日本の憲法の第9条を柱とする非武装平和主義を「古くなった」と攻撃し、違憲の自衛隊の存在と海外派兵の実現へ向けた、改憲の策謀をめぐらす勢力がある。平和を追求しつづけてきた人類の歴史の跡をたどり、またパラオその他の世界の国々の非核憲法や平和憲法の学習を通じて、憲法の永久絶対平和主義が、今後も世界の和平を導く最も先端的な「つねに新しさを失わない」原理であることを理解させる。

3.具体的な教育内容例

 平和教育・学習の具体的内容例をタテのカリキュラムにクロスさせて整理すると、以下のようになる。

自然科学系
  1. 原子力とは何か
    1. エネルギーの歴史
    2. 原子の構造
    3. 原子の質量数と同位体
    4. 放射能の発見
    5. 放射能の種類
    6. 元素の寿命と半減期
    7. 物が燃えるとなぜエネルギーが出るか
    8. 核分裂と核融合
    9. 連鎖反応の発見
  2. 「原爆瓦」を教材とする「原爆炸裂時の火球表面温度の推定」や「爆心高度の測定」等
  3. 核爆発と地球環境
  4. 生物・化学兵器と通常兵器の科学と技術
  5. 科学・技術の発達と科学者・技術者の倫理

社会科学系
  1. 近・現代の世界史−さまざまな戦争の本質を把握する
    1. フランス革命による人間の自由・平等思想の波及
    2. ブルジョワを主権者とする議会政治の発展
    3. 国民国家の形成と戦争
    4. 産業革命と資本主義の確立
    5. 列強による世界分割
    6. 労働運動と社会主義
    7. 帝国主義諸列強の形成と植民地再分割競争による戦争
    8. アジア・アフリカ等の民族自立運動
    9. 社会主義革命と社会主義国の成立
    10. 国際連合の形成と冷戦体制
    11. 後発の近代国家日本の特質とその戦争
  2. 日本の近代史の加害の歴史と戦争責任
    1. 南京大虐殺、731部隊、重慶無差別爆撃等中国大陸侵略
    2. 朝鮮・台湾の植民地支配、従軍慰安婦、強制連行・労働
    3. マレー半島やシンガポールでの華僑などの虐殺
    4. ベトナムでの大量餓死
    5. 戦争責任
  3. 沖縄戦と沖縄の近世・近代・現代史
  4. 広島・長崎への原爆投下
    1. 原爆の原理
    2. マンハッタン計画
    3. 広島と長崎の惨劇
    4. 被爆者は今も苦しむ
  5. 核軍拡競争
    1. 水爆の原理
    2. 核の拡散
    3. 世界の核兵器と米ロの核戦略
    4. 中性子爆弾
    5. SDI(戦略防衛構想)
    6. 日本の非核三原則とアメリカのアジア戦略
  6. 死の商人・武器輸出国と輸入国
  7. 生物・化学兵器・「眠らない無差別殺人兵器」地雷の製造・使用禁止と撤去
  8. 思想
    1. 戦争はなぜ起こるか?
    2. 「国を守る」とはいったい何を守ることか?
    3. ファシズムとヴァイツゼッカー演説
    4. B・C級戦犯・兵士の責任 『私は貝になりたい』 などの観賞
    5. 愛国心と差別的民族観、右翼思想と「自由主義史観」、 植民地:台湾・朝鮮の皇軍将兵たちの悲劇
    6. 日の丸掲揚と君が代斉唱の強要の役割
  9. 日本国憲法の平和主義と自衛隊
    1. 第九条の成立と天皇の免責
    2. 自衛隊をめぐる憲法論争
    3. 日米安全保障条約と米軍基地の存在
    4. アメリカの戦争への加担 (朝鮮戦争・ベトナム戦争・湾岸戦争) と日米戦争協力指針の改訂
  10. 民主政治の進め方
  11. 地球的規模での生産と分配
  12. 国際連合の改革と世界平和・軍事同盟の解消・軍縮と核廃絶に向かって

ことば学系
[日本語]
  1. 文学作品を鑑賞する (読書感想文・感想を語る)
    1. 井伏鱒二「黒い雨」、 原民喜「夏の花」、 大田洋子「屍の街」、 井上光晴「明日」等
    2. 峠三吉「人間をかえせ」、 栗原貞子「ヒロシマというとき」、 正田篠江「さんげ」
    3. 被爆体験記・吉川清「『原爆一号』 といわれて」、 福田須磨子「われなお生きてあり」等
  2. 平和の表現−詩・評論等の創作
  3. 自己の考えや思いを話したり、書いたりして表現すること。
  4. 外国人生徒・帰国生徒への日本語学習保障
[非母語]
  1. 英語以外にアジアなどの言語を加える。外国人生徒に母語学習を保障
  2. 英語教材による平和学習
  3. 非母語で平和宣言文を書く。
  4. 米軍情報の収集・調査※

芸術系
  1. 平和 (戦争) をテーマとして制作された作品の鑑賞とその制作の背景を探る。丸木位里・とし「ひろしまのピカ」「原爆の図」、 ピカソ「ゲルニカ」、 儀間比呂志「りゅう子の白い旗」、 ハンス・ヴィルヘルム「トラップ一家物語」、 絵画記録「テレジン強制収容所」等(音楽、書道、工芸などにおいても同様の試みが可能)
  2. 平和を表現した作品制作 (美術・音楽・書道・工芸・文芸等)

こころとからだの健康学
  1. 放射線の生物・人体への影響
    1. 放射線の単位
    2. 放射線の生物への影響
    3. 放射線障害
    4. 放射線許容量の考え方
    5. 身の回りの放射線
    6. 食物連鎖と生物濃縮
    7. 体内被曝と異常出産
    8. 世界の被曝者たち (核実験被害者・人体実験被害者・原発事故被害者・湾岸戦争後遺症兵士など)
    9. 核実験・核艦船海洋投棄・原発と広がる放射能汚染
    10. 遺伝子への影響
    11. 増大するガン発生と低線量被曝
    12. 放射能障害と医療
  2. 戦争のもたらす心の障害

ワーク・アンド・ライフ系
  1. 技術思想と技術 (政治・経済の論理と科学の応用)・平和産業と軍需産業
  2. 兵器製造と技術の「発達」
  3. コンピューターの発達とハイテク技術と現代の戦争体系
  4. 戦争と生活
    1. 日本の戦時中の生活
    2. 現代世界の紛争地域の生活

教科外活動
  1. 研修旅行 [修学旅行]
    1. 広島 [平和記念公園・原爆資料館・記念館・本川小学校資料館・大久野島毒ガス資料館等] 見学、被爆者による講演、碑めぐり、被爆した樹木を訪ねる、被爆建物を訪ねる、
    2. 長崎 [平和公園・爆心地公園・長崎原爆資料館・浦上天主堂・如己堂等] 見学、被爆者による講演、碑めぐり、被爆した樹木を訪ねる、被爆建物を訪ねる、
    3. 沖縄 [摩文仁丘・ひめゆり平和祈念資料館・ガマ・沖縄県立平和祈念資料館・ヌチドゥタカラの家・南風原文化センター・嘉手納基地等] 見学、沖縄戦体験者による講演
  2. 身近な戦争を掘り起こすツアー
    1. 神奈川県内の米軍基地・厚木基地の夜間離発着訓練の体験・米軍機墜落記念平和の母子像など
    2. 東京大空襲・横浜・川崎空襲の跡地
    3. 第五福竜丸資料館・平和博物館等
  3. 生徒会:平和に関するテーマを生徒会がとりあげて、講演会や展示等を開催、学年の修学旅行委員が資料展示、ビデオ上映等を行う。
  4. 学年行事
    1. 学年だより等資料を作る。
    2. 映画 (ビデオ) 観賞会・感想文 [「予言」「人間をかえせ」「黒い雨」「原爆の子」「第五福竜丸」「コルチャック先生」「シンドラーのリスト」「ピカドン」「明日」等]
    3. 修学旅行事後学習としてレポートと文集作成
  5. 自治活動の活性化:学級・学年・生徒会・部活動の民主的な運営
  6. 図書館の平和 (原爆) コーナー設置:「戦争と平和のブックリスト」等の作成
  7. 部活動による平和学習・活動:社会科学研究部、平和クラブ、部落研究部、原爆研究部、放送部等 [広島]
  8. 個別の高校生の共同学習と活動
  9. 民主的議事進行法を学ぶ。
※米軍情報の収集・調査:
 日本政府は、アメリカの声を神の声と聞き王の命令のように従う。駐留米軍の情報に対しては完全な秘密主義を採っている。たとえば、湾岸戦争は、日本国内の米軍基地を出撃地として戦われたが、「事前協議」も何の制約もなく使用され、国民には一切知らされなかった。日常の駐留米軍の演習でも、米本国では禁止・制限がなされている事項たとえば市街地付近での夜間離発着訓練や砲撃訓練などが、日本ではフリーで行われていることが多い。低空飛行訓練空域などは、米本国や欧州では一般公開されているが、日本では当局でさえ明確な情報を受けていない。これらはほんの一例にすぎない。そのような、沖縄のみでなく日本全土を米軍基地に駐留経費まで負担してほぼ無条件で提供している属国状態をよく認識し、平和に生きる権利の基礎を掘り崩している状況を知るために、米本国で入手できる軍事情報を収集し内容を調べ、必要に応じてそれらを人々に知らせることを、平和学習の一環に加えたい。アメリカの情報公開法などを活用して米軍を監視する、市民運動家・学者らが中心の「平和資料共同組合」(ピース・デポ)の活動が、98年1月から始まったが、これらの運動などとの連携も考えたい。

4.平和教育・学習と学校の体制

 a.卒業式や入学式での「日の丸」掲揚や「君が代」斉唱は、生徒たちに平和学習との間に矛盾を感じさせ、教育の不統一性を示すことになる。元号の強制的使用においても同様である。民主的な討論によって校内における「天皇制」の残滓を払拭・克服していかなければならない。また、さまざまな矛盾・不合理を感じながら、あえて言挙げせず、長いものには巻かれ、祟る神には触らぬようにし、自己の主体性と責務を放棄する「内なる天皇制」も取り除かねばならない。
 b.日米戦争協力ガイドラインの改訂や自衛隊の海外派兵によって、「教え子を再び戦場に送らない」というスローガンはにわかに現実性を帯びてきた。就職難の折から、進路指導にも留意が必要である。
 c.平和教育を教育課程全体を通じ全教職員で当たる体制をつくる必要がある。学内外での教職員のための学習会や講演会の開催など、研修の機会が保障されるようにする。
 d.体罰という名の教職員による暴力やいじめ、対教職員暴力、生徒同士の暴力やいじめなどを学校から根絶する全校的態勢づくりと取り組みが、平和教育・学習の基礎であると位置づける。管理主義・取締り的生徒指導を克服して、生徒の心を開かせる姿勢を教職員がとることが求められる。

5.「研修旅行」(修学旅行) について

 修学旅行は、伊勢神宮等を参拝させるのが主目的で始められた学校行事であった。その後、子どもが旅行をする機会の乏しい時代、学校の卒業に合わせて、名所・旧跡を含めて広く社会を見学させることへ、ねらいが変化し、修学旅行は全国に広まり一般化していった。やがて庶民の経済力も向上し、家族旅行も普及して、修学旅行の目的に社会見学を置く必要性は次第に薄くなってきたが、一旦定着した学校行事を廃止するのは、他の行事と同様、どこでもなかなか難しいようである。その後、マンネリ化した修学旅行を反省し、娯楽的な観光旅行から目的を定めた旅行へ、一学年一斉の団体行動からグループ・個人行動へ、など、内容と形式の改革・改善の試みが各地で行われるようになっている。そのうちの一つで近年盛んに実施されているのが、平和学習を目的とした修学旅行である。
 しかし、そのような平和学習旅行に対しても、国民の戦争体験・反戦意識の風化、いわゆる「平和ボケ」の反映や、学校の杜撰な計画・準備不足などのために、早くも形骸化という批判も出始めている。そうした問題の発生を防ぐためには、明確な目的意識の確立をもとに綿密な計画を立て、それをしっかり教育課程に組み込み、充分な時間をかけて着実に展開することである。計画の立案や旅行の下準備などに生徒も参加させ、現地との連絡・調整・交渉・手配などを始め交通機関や宿泊所の選択・予約なども旅行業者任せにせず、できるだけ生徒に直接行わせるようにする。あるいは、平和学習旅行を、スキー修学旅行や観光修学旅行などと並列の選択肢の一つと位置づけるのではなく、別の観点から思い切って独立させることが必要になるかもしれない。
 広島での平和学習については、法政大学女子高等学校が行っている「ヒロシマ研究旅行」が参考になる。(亀井博編著 『昭和史を学ぶ高校生たち』 平和文化、1990年) この「ヒロシマ研究旅行」は3泊4日で行われるもので、いわゆる修学旅行ではなく、法政大学女子高等学校の特別講座のひとつ「昭和の歴史」に組み込まれたものである。現地高校生との交流会を中心に、被爆者の講演会や、広島市内の原爆関係の資料館見学、原爆遺跡・平和祈念碑めぐりなど、純粋な研究旅行になっている。
 ちなみに、この特別講座は、同校で30年来行われているもので、「昭和の歴史」の他「私たちの生活と法律」「ソクラテスを読む」「現代社会を考える」「人間としての社会」「戦後史」などの講座があり、「昭和の歴史」は、週1回 (90分) で、1945年を中心に必要に応じて戦中・戦後を扱う。毎年度7月に実施される研究旅行に備えて、1学期には「原爆学習」、 2学期には、ヒロシマでの被爆=戦争の追体験と旅行で得た学習の成果をもとに、15年戦争期を中心とした日本 (軍隊) の行った戦争加害の問題にスポットをあてる。同時に、日本国民自身の戦争協力という側面、つまり加害者として振る舞った面と、天皇制軍国主義と戦争により被害を受けた者としての側面を、できるだけ多角的に学習し、戦争がもつ本質を深く追求していく。詳細は、亀井博編著 『昭和史を学ぶ高校生たち』 平和文化、1990年を参照。なお、沖縄を中心とした平和学習については、田港朝昭「現代の課題と教育・核時代における平和教育と沖縄学習」『教育の方法5・社会と歴史の教育』 岩波講座を参照。

6.部活動や地域的なゼミナールによる平和学習

 現在、平和学習において、実質的に最も大きな成果をあげているのは、各地の高校の文科系部活動や、ヒロシマ高校生平和ゼミナール、高知の幡多ゼミナール等の自主的・自治的な活動によるものであろう。そのような活動として以下のようなものがある。東京・正則高校「学習クラブ (のちルポルタージュ・クラブ)」 の原発・原爆問題等についての研究、長野の篠ノ井旭高校「郷土研究班」の「マツシロ大本営」についての研究と地下壕保存・平和祈念館建設運動・冬季オリンピック開催の機会をとらえたピースメセージ運動、広島の「高校生平和ゼミナール」による原水爆禁止世界大会参加の外国代表へのインタビュー (1977年)・「ノエル・ベーカーの手紙」運動・原爆瓦の発掘・学習・遺跡保存運動・平和記念公園内のモニュメント建設 (1982年) ・非核宣言運動・反核ソング運動・爆心地の調査活動・アパルトヘイトの学習等、高知の幡多郡・宿毛市・中村市の「幡多ゼミナール」による特攻隊の調査・原爆被爆者の聞き取り・ビキニ水爆実験の被災者の調査とドキュメント映画 『渡り川』 制作・上映運動、1988年発足の中・高生の団体「ピース・ボイス」の湾岸戦争当時の緊急アピール、埼玉県立庄和高校「地歴部」の「731部隊展」(1996年) 等。
 1981年2月の第4回広島高校生平和ゼミナールの内容を紹介する。

(1)高校生平和ゼミ校長の記念講演「解放の礎−『解放運動無名戦士の碑』について、(2)英語「原爆モニュメント」、(3)社会「教育勅語と軍国主義教育」、(4)理科「エネルギーの危機」、(5)国語「平和の条件」、(6)書道「書による平和の表現−詩を書く」、(7)詩作「私の詩作法−ヒロシマに来て誰を」、(8)工作「ハンドクラフト−ヒロシマを表現する」、(9)総合学習「被爆体験継承−ヒロシマ・それぞれの青春」(詳細については前掲書)

 これらの活動に参加した生徒は、「自分」というものに自信や誇りをもつようになったと語っている。勉強嫌いの成績のパッとしない、ある高校生は、原爆瓦の発掘作業に参加して、指導教員をもびっくりさせる 『そのくるしみをわすれるときに』 という鋭い一篇の詩を作り、市当局の元安川美観工事を批判した。瓦を掘りながら、もうひとりの別の生徒は、「平和ゼミ」の活動についてつぎのように語っている。

 この瓦を掘りおこすことは、あの日焼かれたいった人びとの叫びを聞くことです。それは私たちの活動の基本となるべきものです。過去にあった事実を、ただ知識として頭で理解するにとどまらず、それを自分たちの目で見、耳で聞き、手足を動かしてひとつひとつ確かめる。それが私たち平和ゼミの活動のスタイルです。そして、それを自分の生き方と重ね合わせて考えるのです。(澤野重雄 『世界史をつくる子どもたち』)

〔注〕平和教育・学習については、『高総検報告 V』 p.56〜57も参照。

【参考文献】・ 『原子力読本I II』 東研出版、・中野光 『希望としての子ども』 岩波ブックレット、・澤野重男 『世界史をつくる子どもたち』 平和文化、・『平和博物館・戦争資料館ガイドブック』 青木書店、・『平和BOOK!!』 公人社、・埼玉県庄和高校地歴部+遠藤光司 『高校生が追うネズミ村と七三一部隊』 教育史料出版会、・太田尭・小岩井増夫 『平和を学ぶゼミナール』 岩波ブックレット 1987年

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解説11. 人権教育

1.基本的人権とはなにか

 人権は普遍的な権利であり、人間をして人間的存在もしくは人類の一員たらしめる 本質である。それは、時代、場所、皮膚の色、男女、素姓、環境の区別を問わず、人間が姿を現わすところでは、常に人間に随伴しているものなのである。人権は、事実、人間の尊厳を支える基石である。
(アーノルド・J・ライエン 『人間の権利』 ユネスコ、1951年)

 人権 (思想・法制・享受の実態) は、支配階級と被支配階級との闘いの歴史を通して発達・発展してきた。基本的人権という原理・原則は、17〜18世紀の近代的自然法思想にもとづき、国家・政府によっても制限できないとされた、人間個人に固有の普遍的な自由および権利の主張に始まる。現段階における日本の憲法体制下の基本的人権は以下のように整理される。

基本的人権
  1. 自由権:身体・精神・経済活動などについて、とくに権力に対して干渉しないように求める権利
    1. 身体の自由
      1. 奴隷的拘束からの自由とその意に反する苦役からの自由
      2. 刑事的手続きにおける身体の自由
    2. 精神の自由:
      1. 内心の自由
      2. 信教の自由
      3. 集会・結社・表現の自由
      4. 学問の自由
    3. 経済活動の自由
      1. 職業選択の自由
      2. 財産権の不可侵
    4. その他の自由
      1. 居住の自由
      2. 移転の自由
      3. 外国移住の自由
      4. 国籍離脱の自由
      5. 婚姻の自由
  2. 社会権:人間らしい生活を営むために必要な権利
    1. 生存権
    2. 教育を受ける権利
    3. 労働の権利と労働条件の法定
    4. 労働三権 (団結権・団体交渉権・争議権)
  3. 受益権:国民の利益のための権力の積極的な行動を求める権利
    1. 請願権
    2. 国や地方公共団体にたいする損害賠償請求権
    3. 裁判を受ける権利
    4. 刑事補償請求権
  4. 参政権
    1. 公務員の選定・罷免権
    2. 普通選挙の保障
    3. 投票の秘密と投票について責任を問われないことの保障
    4. 参政権に関するその他の保障
      1. 衆議院議員と参議院議員の選挙権・被選挙権について人種・信条・性別・社会的身分・門地・教育・財産・収入による差別の禁止
      2. 最高裁判所の裁判官についての国民審査
      3. 一つの地方公共団体だけに適用される法律についての住民投票
      4. 憲法改正についての国民投票
    5. 法の下の平等
    6. 新しい人権
      1. 環境権
      2. プライバシーの権利
      3. アクセス権 (知る権利)
      4. その他
*<参考文献>杉原泰雄『憲法読本』・岩波ジュニア新書、1981年

2.人権教育とはなにか

 人権教育とは究極的には人間の尊厳の確立をめざし、そのために個々の人間が人権の自覚にたって不断に努力し、他の人間の人権を擁護し、自由と平等と連帯ある社会の実現を図ることができるような人間の教育である。 (河内徳子『人権教育論』)

 人権教育の目標は、言い換えれば、1.に掲げたような基本的人権を、差別なく誰もが何時でも何処でも行使し享受できるような、主体的条件と客観的条件を確立するために、基礎的な知識・価値観・実践能力・態度を身につけることである。では、その際、何が最も基本になるだろうか。
 生物の行動原理の根本は「自己保存」である。そして、自己保存につながる限り、あるいは自己の生存を脅かさない限りにおいて、自己以外の生物 (同種・他種) の保存あるいは共生を行う。生命力の弱い、生存に適さない個体は、自然の摂理として、淘汰される。しかも、生物にあっては、自己保存とは、遺伝子を積んだ生殖細胞を次代に送り込むことが第一義であって、他の細胞 (体細胞) によって構成される身体は、その役目が済めばもう意味はない。(産卵を終えた鮭のように−)
 しかし、人類は、進化の過程で「心的能力」を獲得し、心的能力は「身体を単にDNAを育て次代に伝えるための特別の乗物以上のものとみなす」[注28] ようになる。文化はそこから生まれた。そして、人類は、他の大方の生物と異なり、群れ (部族・種族・民族・国家) の間で互いに対立・戦争・殺戮・略奪・征服を繰り返すなかで、みずからの群れ (共同体) を強く大きくすることによって、勝ち残り・生き残りを図っていった。共同体自体の保存が、自己 (自身の生と遺伝子) の保存の手段となってゆく。そこでは、必然的に、共同体を構成する個の存在の重みが次第に増し、権利の自覚と権利の拡大が行われてゆく。こうして、人類は、自然の支配を進め、より複雑で高度な物質文化と精神文化を作り上げながら、より有効な自己保存の様式を考え出してゆく。それは、つまり、自己の存在を無条件で認めさせ守るために、共同体を構成する個人すべての存在を無条件で認め守るという「遠回りの」自己保存の方法論である。そのような原理と方法の理念は、人々の自然と社会に対する認識の深化とともに、共同体の枠を超え広がっていった。「汝自身を愛するように、隣人を愛せよ。」 それは、やがて、博愛主義、自由主義、平等主義、人道主義、民主主義、あるいは平和共存主義、多民族・多文化共生主義などへと昇華・発展してゆく。そしてさらに、国連憲章・ユネスコ憲章 (1945)、 世界人権宣言(48)・人権規約(66)、障害者の権利宣言(75)、女性差別撤廃条約(79)、ユネスコ学習権宣言(85)、子どもの権利条約(89)へと結実してゆく。
 個体発生的には、乳幼児は、先ず、自己を発見するまえに、自身も他者も物体も環境すべてを一様にひっくるめた「世界」を発見する。そして子どもは、周囲の「世界」との相互作用のうちに、やがて「自己」を発見する。それは、「世界」と自己との分化、いわゆる自我の目覚めの始まりである。それから、自分が何者であるかと自問し、子宮回帰の願望と心理的離乳の間を激しく揺れながら、試行錯誤を繰り返し、他者との関わりを通じて次第に自己を確認しつつ、独自の人格を形成してゆく。

 なぜ、私は、現にあるような人間であって、他の人間ではなかったのか。すなわち、私がこのような性格や能力をもって、このような家庭環境や経済的境遇の中で生きているのは、どうしてだろうか。そもそも、私は、なぜ、この世に存在しているのだろうか。すべての人生には目的があるのだろうか。いな、<<人生の意味>>といったようなものが、果たして存在するものだろうか。私たちは、とくに宗教的関心が深いというわけでない人でも、折にふれて、<<生きる意味>>について、こうした問いを覚えることがあるのではないでしょうか。
(宮田光雄 『いま人間であること』 岩波ブックレット、1993年)

 宮田は、このように (他の誰でもない、この自分が、ここで、この時) 「人間らしく生きる」こととは何かを、原点にたちかえって追求することが、青年期特有の課題であるとしている。古代ギリシャのデルフィの神殿に掲げられていた神の言葉は「汝自身を知れ」であり、また、先ごろ話題になった 『ソフィーの世界』 (ヨースタイン・ゴルデル、NHK出版、1995年) の展開を導く「哲学者」からの手紙が、「あなたはだれ?」という問いから始まっているのも示唆的である。まさにフィロソフィア (知の探求) はこの問いから始まる。子ども達の「自分さがし」は、アイデンティティの追求とも言われるが、アイデンティティの確立こそ、乳幼児期のオモチャやテーブルや猫や自動車などと並列の「他者」の発見でなく、本物の他者の発見と認知と尊重の契機であり、人権学習の出発点である。

 人間は、生きる意味を問いつづける存在であり、その想像力に希望を託すことを通して、現実に根ざしつつ現実を超える理念を生み出し、その現実をめざすことを通して、不断に現在を超え出る創造的な存在である。学習するとは、問いをもち、問い続け、現在の自己を超え出ることに他ならない。それを人間存在にとっての不可欠の権利として感得できるような学習が保障されなければならない。
(堀尾輝久 『現代社会と教育』 岩波書店)

3.人権教育の基本構造

 人権教育・学習はどのような構造を持つべきか。
 ユネスコ編 『人権に関する教育への示唆』 (1968年) は、人権の達成において学校が果たす役割が大きいと指摘し、人権教育の原則として、つぎのような項目の育成を目標に挙げている。

  1. 異なる人種、宗教、文化、国籍の人びとを受容する態度
  2. すべての人びとが平等に基本的人権をあたえられていることの認識
  3. 信念、習慣、社会的・経済的・政治的システムにおける違いへの寛容さ
  4. 他国の民衆が文明の局面に価値ある貢献をしていることへの評価
  5. 他国文化の芸術の力への興味と認識をそれらを楽しむ能力とともにもつこと
  6. 外国の人びとの視点から多種の疑問を見出す能力をはぐくむこと他者の視点でみること>
  7. 外国の人びとや個人に関する意見の一般化の推論はステレオタイプや偏見よりも、むしろ証拠から推論する性向
  8. 苦悩の緩和、人権の達成、平和の維持のために外国の民衆と協力し、援助したいという願望
  9. 今日国民が当面している主要な問題を国民的視点からと同様グローバルなまたは世界的視野からみる性向

 ちなみに、1994年の「ユネスコ新教育勧告」は、教育改革の目的として、「知識」「スキル (実践力)」「価値・態度」の統一的獲得を挙げているが、ともすれば、形骸化した「知識」を注入することにしか目が行かない日本の教育の現状を考える時、人権教育・学習においても、知識を知識にとどめておくのではなく、それと並行してスキルを獲得し、さらにその両者の展開を媒介にして、それらを内在化し価値観と態度の形成にまで高めることが欠かせない。
 その意味で、学校の教育課程内の人権学習ばかりでなく、自主的な活動として、ユニセフなどへの募金やアムネスティの活動などへの参加なども大いに推奨したい。
 なお、「スキル」とは「批判精神、問題解決能力、協同する能力、想像力、自己を主張する能力、葛藤を平和的に解決する能力、寛容の精神 (差異の認識と受容)、 参加すること、コミュニケートする能力」などを指す。

4.具体的な教育内容の一例

 人権教育・学習の具体的な教育項目の例を、タテのカリキュラムの社会科学系とクロスする部分から挙げておく。
  1. 人権概念の系統的教授すべての人びとが平等に基本的人権をあたえられていることの認識
    1. 人権思想の歴史
    2. 人権、義務、負担と責任といった主要なカテゴリーの理解
    3. 基本的人権の全般とその意義にたいする理解
    4. 個人的権利と集団的権利の概念、民族的アイデンティティ問題等
    5. 民主主義と人権 (日本国憲法を理解する中で)
  2. 人権・基本的自由擁護のための、主要な国際条約・規約・憲章・宣言・制度等、国内法制・憲章・宣言等の理解
  3. 現実の社会における不公正、不平等、差別の多様な形態を見る。現実の差別を具体的にとりあげ、その状況を客観的にとらえ、偏見の除去をはかりつつ、問題発生の要因を追究し、解決への展望を探る。
    1.性差別主義と男女平等教育 2.人種差別主義・民族差別:在日・定住外国人・アイヌ・ウィルタなどへの差別 3.滞日外国人 (外国人労働者・不法入国者・他) の人権 4.難民の人権 (国際条約と実態) 5.ハーフ (混血児・者) への差別 6.被差別部落民の人権 7.沖縄出身者への差別 8.障害者の人権 9.疾病 (ハンセン病、エイズ、難病、精神病など) 患者の人権 10.高齢者の人権 11.子どもの人権 12.その他の社会的弱者 (ホームレス・生活保護世帯・母子家庭・など) に対する差別 13.国・地方自治体の政策 (基地・原発・産廃処理・鉄道・道路・観光開発など) と住民の権利 14.労働者の権利と不当労働行為・過労死・過労自殺 15.企業社会と人権 (思想・信条の自由の抑圧と差別) 16.職業差別 17.犯罪捜査・訴訟と人権 (プライバシー保護、犯罪被害者と家族の人権の保護、盗聴・買収などの違法捜査、冤罪、通り魔犯罪への保障、死刑制度など)  18.マスコミと人権 (取材対象者、加害者・被害者とその家族などのプライバシー保護) 19.教育制度と学校の中の児童・生徒・学生の人権 20.医療と人権・informed consent・尊厳死 21.社会福祉と人権 22.公害と人権 23.日本人男性が東南アジア女性などに産ませ棄てた子ども達の人権 24.中国など残留日本人孤児の人権 25.阪神大震災などの被災者の人権、など

5.学校の中の生徒の人権

 学校の中の生徒の人権はどうなっているだろうか。そもそも、日本の教育制度・教育行政そのものが、差別と選別という基本構造をもっている。その能力主義と競争原理のもとで、小学校就学まえから「学力」競争に駆り立てられ、ひとにぎりの「勝者」しか自己肯定感をもって生きられない。誰もが「勉強マシーン」にさせられ、「敗者たち」はもとより「勝者」も、子ども時代を喪失し、子どもらしく生活する権利を奪われている。高校の適格者選抜主義も高校間格差も、高卒が9割を超え「普通」になった社会では、人権を侵す差別のシステムそのものである。どこかの学校になんとかもぐりこんだとしても、学校の中は、外以上に息苦しい。

 学校空間が「教育の場」なるがゆえに市民社会から隔絶され、さらに古い「特別権力関係論」が生き残ることを許しているという現実に対して、とくに教師間の関係、教師と父母の関係のなかに、市民的平等の感覚が回復されるべきことは重要だが、その上さらに、教育空間であるがゆえに、教室には大幅な自由が保障され、子ども達は失敗を繰り返し間違える権利を含んで、考え直し、やり直しの可能な親しみの場となり、あるいは悪ふざけやばか騒ぎも許される解放的空間でもなければならない。それは、「市民社会では許されるが、学校では許されない」という関係ではなく、「市民社会では許されないが、学校では許される」という、そのような空間でなければならないだろう。教育の本質が自由を要請するとはこのことを含んでいる。
 逆にまた、人権と相互の人格の尊厳を学ぶ場である学校で、教師による体罰や、仲間の間でのイジメが、この人権と自由の空間になじまないこと、それを侵す行為に対しては、いっそう厳しい態度が望まれるという特殊性もまた強調されねばならないだろう。(堀尾輝久、前掲書)

 人権を学ぶ学校で生徒の人権が軽視されているとしたら、人権教育は空疎で偽善的なタテマエを教えることになる。人権教育・学習でもっとも基本的に重要な点は、現実生活の中で学習者自身の人権が尊重されていることである。無権利な状態にある者は、しばしば他人の権利について配慮する余裕を失う。憲法や教育基本法・子どもの権利条約などで保障されるべき諸権利が、学校の中の生徒たちにも保障されているか?一度、一項一項チェックしてみたらどうだろう。
 EC (当時) の「学校における人権に関する教授と学習」の勧告 (1985年) は、学校の政策目標として、以下の項目を示している。

  1. 教師は人権を理解し、人権が学校の生活およびカリキュラムに適用される方法を会得していること。
  2. 人権が学級と学校における人間関係の基盤として受け入れられていること。
  3. 人権概念が系統的に教授されること。
  4. 学校規則と原則的手続きが公正な扱いと適切なプロセスにもとづいていること。
  5. 学校は性・人種・障害のような不公正な差別を退け、平等を促進する政策をもつこと。
  6. 教師はグローバルな視点をもつことを励まされ、成長が可能になること。

 また、ユネスコ編 『人権に関する教育への示唆』 は、教師に対して次のような自覚を求めている。

……各学校の各時間、教師は人権にかかわる事がらを扱っている。すなわち、秩序、正義、個人の尊厳の維持、真実と客観性の尊重、人間相互の尊重である。

 管理主義的な傾向がしばしば指摘される「生活指導」の領域でも、同様の対応が要求される。
 つぎに紹介するのは、サンフランシスコ合同学校区内の全公立高校で採用されている 『生徒の権利と義務の手引き』 の一部である。日本とは歴史的背景も社会状況も異なっており、直ちにそのまま適用することの是非は議論の余地があるが、生徒を権利主体と捉える感覚は、私たちにも大いに参考になろう。

8 .生徒は、自分の権利にかかわる管理委員会で民主的に代表に選出される権利を持つ。
9 .生徒は、自分が対象になっている規則類の制定に参加する権利を持つ。生徒はそのような規則類を知らされる権利をもつ。
10 .後見人、権限ある代理人、権限を与えられた場合の生徒は、学校の業務時間内であればいつでも、その生徒の個人ファイル……等を閲覧する権利と、不利な記載がなされる場合にその旨の通知を受ける権利をもつ。
12 .生徒は、通常の学校の業務を妨害しないかぎり、学校内で、憲法上保護されている表現・集会の自由を行使できる。
(ディビット・セルビー 『ヒューマン・ライト』 日本評論社より)

 とくにここで注目すべきは、「自分が対象になっている規則類の制定に参加する権利」や「学校内で憲法上保護さている表現・集会の自由を行使できる」などの点である。

 民主的に生活することは単におとなになって機会のあるたびに投票することではなく、現在自分が住んでいる学校を含めた共同社会の生活において多様な形態で積極的に参加することなのである。それは学校生活改善に向けたさまざまな政策の決定にすべての子どもの参加を促すことになる。
(河内徳子「人権平和教育の国際的動向」『教育』 94年8月号)

 権利は、つねに、与えられるものではなく、かちとるものである。たとえ、権利が権威ある紙に書き込まれているとしても、現実には、改めて自分 (たち) の権利を自覚し、権利を主張し、障害を取り除いて実際に権利を行使することをかちとらねばならない。かちとった権利は、不断の努力で維持しなければならない。学校の中の生徒の権利をめぐる様態も、基本的にはそれと変わりはない。ここでのキーワードは、参加、主張、連帯、協同である。
 京都府立桂高校の生徒たちは、それまで服装は自由であったのに、校長が生徒・教職員多数の反対を押し切って97年度から導入したことに対し、抗議の運動を展開し、国連子どもの権利委員会へも訴えて、予備審査会で経過報告を行った。また、静岡県の中・高生の自主学習グループ"Think of Earth" のメンバーも、「制服や内申書をなくして」など、千人近い子どもの声を集め、それを旗に縫い付けて、国連同委員会に届ける運動を行っている。桂高校の生徒が言う。「活動をとおして、問題を自分に引きつけて考えていくという、生きていくうえで大切なことを学びました。自分でも信じられないけど、今すごく学びたいって思ってます。」
 ただし、人権は、権力に対しては、でき得る限り無制限であるべきであるが、仲間相互には当然制限的に働く。

 われわれが主張する自由を守る諸権利は、多かれ少なかれ、ある程度お互いに相殺し合うので、実際には、無制限にその権利を行使することはできない。自分がしたいことをする自由という、つまりわれわれの能動的権利と、有害で不快なことから免れる自由という、つまりわれわれの受動的権利とのあいだに均衡が保たれるようにしなければならない。(ディビット・セルビー、前掲書)

[注] 人権教育・学習については、『高総検報告 V』 p.57〜58も参照。

[注28]ウィリアム・R・クラーク 『死はなぜ進化したか・人の死と生命科学』
【参考文献】・神奈川人権センター編 『国際化時代の人権入門』 1996年、・「民族差別と人権」問題小委員会編 『わたしたちと朝鮮』 公人社、1986年、・同 『この差別の壁をこえて』 公人社、1992年、・神奈川県渉外部国際交流課企画 『ともに』 明石書店、1992年、・河内徳子 『人権教育論』 大月書店、1990年、・同「人権平和教育の国際的動向」『教育』 1994年8月号所収
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解説12.環境教育

1.地球環境と温暖化防止京都会議

 1997年12月、気候変動枠組み条約第3回締約国会議(地球温暖化防止京都会議)が開かれた。世界161カ国から約1万人が参加し、その前後に百以上の関連イベントをともなったこの会議は、地球環境についての過去・現在・未来を改めて浮かび上がらせた。
 一つは、地球環境をめぐる事態の深刻さ。二つ目は、地球温暖化の主たる元凶である先進工業国政府と産業の問題対処への消極姿勢。三つ目は、問題解決への真の推進力は、世界に広がる環境NGOと国際世論の中にあるということであった。
 地球環境の危機は、92年の地球サミット(ブラジル)以降も、一段と深まっている。その危機の深化の大半が、発達した資本主義国の産業活動と政府の姿勢に由来している。すでに始まっている地球温暖化・気候変動を、生物の生存にとって安全なレベル(産業革命以前から1°Cの気温上昇)までに抑えるには、21世紀の前半に二酸化炭素の排出を50%以上削減しなけらばならない。世界の2千5百人の科学者を組織する国連調査機関「気候変動に関する政府間パネル」は、温暖化を放置による、世界規模で乾燥化・干ばつ・渇水や集中豪雨・洪水の多発、氷山・氷河の溶解、海面上昇による沿岸の後退・島嶼の水没、などの問題を警告している。また、病原菌汚染地域の拡大による病気の蔓延、病害虫発生地域の拡大と農業生産の減収による食料危機を招く高い可能性も指摘されている。温室効果ガスの排出削減は「可能かどうか」ではなく「かならず達成すべき」課題である。問題は温暖化ばかりではない。熱帯雨林を始めとる森林破壊や、フロン(オゾン層破壊)・硫黄酸化物(酸性雨)・ダイオキシン・その他有害物質の排出と投棄、放射性廃棄物の累積、環境ホルモン(生殖異常)の拡散などによる、自然環境と生物種多様性・生態系の破壊、生殖障害・健康破壊・等々、数え上げればキリがない。
 しかし、京都会議の結果は、世界中の人々の期待に応えるものとはならなかった。世界中の環境NGOが支持した小島嶼国連合の議定書案(2005年までに20%削減)は、温暖化を防止するためのギリギリの目標であったが、採択された京都議定書は、目標が低すぎるばかりでなく、温室効果ガスの排出削減量をさらに割り引く様々な〔抜け穴」を組み込んでいた。そのような結果をもたらし原因と責任は、主に、世界最大の温室効果ガス排出国アメリカと、それに追随した議長国日本にあった。
 このように、京都議定書は多くの問題を含むものになったが、半面、温室効果ガスの排出削減に関する世界で初めての法的拘束力をもつ国際的取決めであることの意義は大きい。アメリカや日本の政府と大企業の執拗な抵抗のなかで生み出されたこの成果は、目標の重大さに対してはささやかな一歩ではあるが、運動面では意義のある前進である。アメリカとそれに迎合した日本政府による環境問題の深刻さを無視した策動を、大筋で許さなかったのは、世界の良識ある人々の連帯と献身的運動の力であった。とくに環境NGOの精力的でねばり強い活躍は、会議の全体的動向をリードし、小国・発展途上国とEUを励まして、日米両政府を孤立させた。(ただし、京都会議の参加したNGO3500人の3分の1は、企業や業界の意思を代弁する「産業NGO」だったが。)
 京都議定書を実効性あるものに発展させ、さらに環境保護の目標を引き上げることができるかどうかは、今後の世界の人々の途切れることのない関心と運動にかかっている。それが不可能でないことは、すでに、オゾン層の保護に関するモントリオール議定書の改定の歴史が証明している。私たちも、希望を失うことなく、引き続き地球環境保全のためにあらゆる努力を積み重ね、未来の地球に生きる人々に対する最低限の責務を果たさなければならないだろう。[注31]

2.人間と地球の未来への選択

 私たちの前には、人類と地球の未来への選択肢が二つある。資本主義生産の発展の必然的帰結である大量生産・大量消費社会を継続する方向と、再生可能資源の利用と資源の循環利用を基本とする持続可能な社会を創りだす方向と。ただし、前者の選択は、自然の不可逆的なバランスの破壊へと導かれ、未来の世代に耐えがたい負担・負債をもたらすことになるだろう。
 泉邦彦は、地球と人類を救うためには、環境行政の転換が必要であることを指摘し、政府と企業が、(1)地球生態系の保全、(2)地球有限性の自覚、(3)世代を超えた公正の維持、(4)予防的アプローチの重視、(5)環境情報の公開と市民参加、の5つの原則に立って責任を果たすこと、そして、その取り組みを促す市民の役割の重要性を強調している。
 和田武は、さらに具体的に、「社会のあり方を根本から見直し、資源循環型生産システムの確立、通常の石炭・石油火力発電所建設の抑制、省エネ型交通輸送体系の確立、無用な公共事業の抑制、炭素税の検討、軍備削減等を通じて無駄なエネルギーの削減を図るとともに、再生可能エネルギー利用を飛躍的に高めれば、二酸化炭素の一層の削減も可能である」とし、世界の流れに逆らって、日本政府のみが、(猛毒プルトニウムを原料とする高速増殖炉の開発を含めた)原発の増設を進めていることを批判している。
 「太陽光・風力・小型水力・バイオマスなどの再生可能エネルギー生産は、小規模分散型であり、資源を企業が専有できないので、住民所有が可能であるという特徴をもつ。しかも住民が生産手段を選択する場合は、利潤よりも環境優先の論理が働き、助成金や免税などの優遇措置を導入して負担を軽減すれば、相対的に高価な再生可能エネルギーでも急速に普及する。また働きがいのある新産業も発達する。(デンマーク・ドイツなどで実現例)・・・また住民所有は、住民の環境保全意識や社会参加意識を高め、地方の自立をも促す。このような変化は、社会発展の重要な要素となるはずである。」[注32]

3.環境教育

 中教審は、1996年7月、『21世紀を展望した我が国の教育のあり方いついて』の第1次答申の中で、教科総合的・横断的な特色をもつ環境教育や国際理解教育などは、「総合的な学習の時間」などを活用して取り組むべきだ、と提言した。それを受けて、97年に、教課審が「総合的な学習の時間」の単位数・内容などを検討した。その結果、「中間まとめ」で、「総合的な学習」は、小・中では特別活動の中に高校では教科単位として位置づけられ、「国際理解・外国語学習、情報、環境、福祉」の4テーマが例示されて、その内容は建前としては各校の自主的な裁量に任されることになった。

 私たちが構想する環境教育の視点を以下に挙げる。できるだけ必修にすることが望ましい。

 (1)環境教育・学習は、環境について学ぶとともに環境から学ぶ生涯学習であるべきであり、高校教育も、国民的共通教養の基礎を仕上げる段階として、それにふさわしい部分を分担する。

 (2)日本内外の環境問題の歴史と現在の状況を、文献・映画・ビデオ・写真などや、実地見学・聞き取り調査・環境実態調査などによって理解する。

 (3)環境問題の発生原因を、様々な角度から追究する。(自然科学系、社会科学系、ワーク・アンド・ライフ系、こころとからだの健康学系などとの連携)

 (4)自然環境の仕組み(生物の多様性と生態系)を、生態学などの基礎の学習と自然との接触・観察・実験などを通して理解する。(生物学などとの連携)
 また、国内外の自然保護運動や、絶滅の危機に瀕した動植物の取引規制をする「ワシントン条約」・生物の遺伝子を守る「生物多様性条約」・森林の持続的な利用や保護をめざす「森林条約」・湿地の保全を図る「ラムサール条約」などの国際環境保護条約について学ぶ。
 さらに、酸性雨霧による樹木の立ち枯れ・林野庁による国有林の乱伐を始めとする山林の荒廃、ゼネコン奉仕のための巨大ダム建設による自然と集落の破壊や河口堰の建設による河川の死滅化・水産業の衰退、「改修」と称する護岸工事・砂防堰工事など河川湖沼池の破壊、海岸・湿地の不必要な干拓・埋め立て、観光・リゾート開発や道路・工業団地・集合住宅地・産廃処理場などの建設による自然の乱開発、軍事演習による自然破壊、工場廃液・家庭下水処理・ゴミ投棄・船舶塗料や廃油投棄などによる海洋汚染、山林と河川の荒廃による「海やけ」、等々の実態と、それらの民主的規制、自然環境破壊による動植物の衰亡の危機と絶滅種の激増の実態、および、それらへの対策、水源地の自然の保全などについて考える。
 農業問題を、「自由化」問題・減反・食料自給率の向上・安全性などの面のみならず、国土保全と景観保存など環境面からも検討し、その対策として、農業の大規模化政策をやめ、日本型家族農業を維持・回復してゆく方向を考える。また、化学肥料・防虫剤・除草剤などの大量使用による食品公害・環境汚染や地力の低下を防ぐために、低・無農薬有機農法・天敵除虫・生物除草の拡大を図る。里山を保護してゆく。

 (5)人間の生活(衣・食・住の文化、労働、学習、自由時間の処分)と自然環境との関わりを、生徒自身や家族などの生活を対象化し検証しながら、理解する。(社会科学系、自然科学系、ワーク・アンド・ライフ系、こころとからだの健康学系などとの連携)
 そして、生活様式の転換を図る。資本の論理に支配された各自の生活(ライフ・スタイル)の見直しを通じて、現代の生産と流通と消費のあり方を批判し、環境の保全と人間の本性を実現しうる新しい生活様式(シンプル・ライフ)を創りだすための基礎的能力を獲得する。
 「学校、地域団体、メディア、家庭、消費者(も地球温暖化防止に)重要な役割を担う。意識改革、教育、生活様式の変化、購買行為や投資などを通じて、個人こそが重要な変化をもたらすことができる。すべての人々が日々の生活や業務において、温暖化ガスを排出しており、たとえ一人一人の決心は小さなものであっても、それがすべての人々のものとなれば、その効果は莫大なものとなる。」たとえば「環境家計簿」は、節水や節電・ゴミ処理など細かい項目ごとに、なぜそうすることが環境保全にいいか、なぜムダな出費が抑えられるかなど、納得できる根拠をわかりやすく示し、自発的に環境を気づかう生活スタイルを身につけることをねらっている。主体的な学習を促す環境教育の教材の一つとして活用できるだろう。

 (6)芸術作品の鑑賞・制作をとおして、人間と自然の感性的交渉における自然の価値の認識を深める。(芸術系との連携)

 (7)「環境権」について学習し、環境倫理(人間と自然との関係を律する規範性)の確立の方途を探る。(社会科学系・自然科学系との連携) 人権教育との連携。どのような時代・どのような社会制度のもとであっても、人間の生命と健康・暮らしが至上の価値であることを認識する。また、公害・環境破壊・環境汚染と企業の社会的責任と人権、環境保護思想の歴史、などを学ぶ。

 (8)環境NGOの活動と国際環境条約を知る。
 環境NGO(非政府環境保護諸組織)の活動の歴史を学ぶ。フロンを規制するモントリオール議定書、ワシントン条約、有害廃棄物の越境移動を規制するバーゼル条約などの国際環境条約について学ぶ。また、環境NGOなどと連携し、その研究と運動の成果を吸収しながら、それらの社会的諸活動への直接参加の機会をとらえ、実践的諸能力を蓄える。たとえば、ナショナル・トラスト(環境保護基金)などの自然環境保護団体への理解や活動への参加を促す。

 (9)生産・流通・消費と環境保全との矛盾を解決する新たな物質代謝システムの創出をめざす。
 地球温暖化は、産業革命以来の工業文明に反省を迫る、未来からの貴重な警告である。現代の生産と流通と消費の過程における排出物・廃棄物によって生じる環境問題を解決する道はどこにあるか。問題の核心は、どのようにしてそれら有害な排出物・廃棄物を産まない生産・流通・消費のシステムを創出するか、あるいは、一次的には有害な物質を排出せざるをえない場合でも、どのようにしてそれらの再利用ないしは処理・再処理の方法(技術)を創りだすか、にある。(自然科学系、社会科学系、ワーク・アンド・ライフ系などとの連携)
 原子力・火力・大型水力発電の計画的・段階的な縮小・廃止。(途中とくに原発の事故防止と放射性廃棄物の処理に万全を期す。)エネルギー効率を高めるコジェネレーション(電気と熱を同時に供給・利用する熱併給発電)などの普及。ソフト・エネルギー(自然エネルギー:太陽光・風力・地熱・潮波力など)の活用。廃棄物の焼却・埋め立て主義から廃棄物抑制・製造者責任制・無害化・再使用・再利用主義への転換(リユース・リサイクルのシステムづくり、廃棄物再資源化率の向上)。デポジット制の導入。有害化学物質の規制強化。大型建築物のスクラップ&ビルド主義からリフォーム主義へ。交通システムの転換(自動車交通の総量規制と公共交通機関の充実・市電の復活・高速道路網の縮減、など)。水素を燃料に酸素と反応させ副産物は水のみの燃料電池の開発。ハイブリッド車(ガソリンエンジンと電気モーターの組み合わせ)・電気自動車・ソーラーカーなどの開発・普及。省エネビル・省エネ住宅・エコロジー住宅の開発・普及。電化製品の消費電力低減化。自動販売機の設置と稼働時間の規制。2酸化炭素などを吸収する森林の保護・植林。

 (10) 政治・経済システムの改革を展望する。
 京都会議での米・日・多国籍企業らとNGO・EU・途上国などとの対立は、現実主義と理想主義、国家主義と国際主義、市場原理優先主義と公共政策優先主義という、21世紀の政治・経済システムの選択をめぐる対立であったとも言える。そして、前者のやり方では、地球環境保全は困難であることが明らかになった。人類が地上で生き残るためには、利潤追求を至上とする大量生産・大量廃棄の資源浪費型経済から、環境の保全を第一とし大気も含めた有限な地球資源を持続的に使う循環型経済システムへ転換してゆかねばならない時がきている。また、その達成と現在の政治システムとの矛盾も明らかである。とくに、温室効果ガスの最大の排出国であるアメリカと第2位の日本の政治のあり方を改革することが、この問題の解決の鍵になると言ってよい。
 まず、選挙を通じて、政府に、我が国は外交や内政で地球環境保全を最優先させる、という明確な意志表示をさせる必要がある。つぎに、日本の産業の構造を「環境保全優先型」に計画的・段階的に転換してゆく。
 当面の対策としては。環境庁を、地球環境保全のための基本政策を企画・立案し、大気、水、土壌の保全を一体的・一元的に扱えるような、強力な「省」に改組する必要がある。工場ごとの汚染物質の排出量や廃棄物の量などの環境情報の公開制度をつくる。自動車税・石油関連諸税などの改正と炭素税(化石燃料への課税)など環境税の導入。地球環境対策・環境保全産業への転換・省エネやリサイクル技術開発などへの助成制度の拡充。世界でも異常なゼネコン奉仕型公共投資の流れを変え、ムダを省き、「自動車が増えれば道路も増え、道路が増えれば自動車が増える」式の道路政策の転換を求めてゆく。「かつての公害克服の歴史に学び・・・自治体が総量削減を決めて、条例や企業との協定で主要汚染源の削減目標を定め、企業の自主努力と違反者に対する規制を実行して初めて削減は具体化する。」[注34]労働時間を短縮し、休日や深夜の労働を制限し、工場やオフィスのエネルギー消費を削減してゆく。
 国際的規模の問題に対しては、「国連に環境保全理事会のような行政組織と国際環境裁判所のような司法組織を新設」[注34] し、公害産出国や企業の民主的規制を行う必要もあるだろう。国際貿易にも地球環境や資源の有限性に配慮する仕組みが必要になっている。熱帯雨林の伐採や先進国から途上国への有害廃棄物の輸出など、自由貿易による環境へのマイナスの影響を防ぐには、各国の環境政策を強化することのほかに、「国際環境条約に盛り込まれた貿易規制を認める」ことが求められる。

 (11) 環境教育・学習は、平和教育・学習である。核戦争は急激な人類の絶滅をもたらし、環境破壊・汚染は緩慢な人類の滅亡をまねく。核戦争は最悪の環境破壊・汚染である。平和教育・学習の起点と目標が、生存権を基底とする基本的人権の擁護にあるとすれば、環境破壊・汚染による人類自滅の危機を乗り越え、人間と自然との調和ある共存・共生の実現によって、生命と基本的人権を守ろうとする環境教育・学習は、もう一つの平和教育・学習であると言えよう。

[注31]泉邦彦「地球環境と大気汚染を考える全国市民会議(CASA)」代表理事、京都工芸繊維大学教授・「温暖化防止京都会議を終えて・小さな一歩を確かな一歩へ」、[注32]和田武:日本科学者会議・公害環境問題研究委員会委員長、立命館大学教授・「温暖化防止京都会議を前に・日本に何が求められているか」[注33]マイケル・ザミット・クタヤー:国連気候変動枠組み条約事務局長「京都合意がもたらす利益」朝日新聞・1997年12月2日、[注34]宮本憲一「京都会議が求める環境政策の転換」朝日新聞・1997年12月11日

[注]環境教育情報センター:
 環境教育への支援・普及を行っている民間組織に「環境教育情報センター」がある。学者・教師・市民団体メンバーなどが設立。環境教育についての情報の収集と提供・指導者の養成が活動の柱。環境関係の書籍や資料を備え、貸出やファックス・サービスもしている。全国各地の自然保護団体の調査結果や、環境教育の教材などの資料も整っている。また、環境ボランティアの派遣や環境教育教材の開発、プログラム・カリキュラムへの助言、講師派遣なども行う。
 同センターの利用時間は、水・木・金曜日の午後1時〜9時と、第2・第4土曜日の午前10時〜午後5時。会員年間1口5円会費。所在地:東京都豊島区目白3-17-24。TEL 03-5982-8098
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解説13.開発教育

 「開発教育」というと、生徒の「能力開発」と混同したり、国内外の乱開発に組みするものを想起する人もいるかもしれないが、そうではない。一言でいえば、地球上の全人口の80%以上を占める開発途上諸国 (地域) の低開発の現状と問題点、および先進工業国や多国籍企業との関係について正しい認識を築くとともに、これらの諸問題の解決に参加する能力と姿勢を育てることが、開発教育の目標とされる。
 従来、この開発教育に近接する領域として、国際理解教育という用語が幅広く用いられてきた。しかし、その内容は、他国・異文化の理解に重点が置かれ、平和・人権・環境・開発等の問題はどちらかといえば後回しにされてきた。とりわけ日本においては、高校多様化政策の流れの中で、「国際」の名を冠した学科・コース・学校が多く登場し、「国際化教育」が大流行の観を呈しているが、実態としてその内容は、異文化理解、英語教育、帰国子女対策などに矮小化され、その目標も、「多国間競争の中でのわが国の発展」「日本国民としての自覚と誇り」といった方向に歪められているのが現状ではなかろうか。
 1960年代に、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸地域で多くの国が独立し、平和・人権・環境・開発等の概念を、第三世界も含めて国際的に拡大適用すべきだという要請が強まった。また、先進諸国 (日米等の政府は消極的ないし敵対的だったが) の中でも、これらを人類共通の課題として考えていこうという気運が高まった。こうした動きを受けて、1974年にユネスコ=国連教育科学文化機関は、「国際理解、国際協力および国際平和のための教育ならびに人権および基本的自由についての教育に関する勧告」を採択した (以下、「ユネスコ教育勧告」と略称する)。
 「ユネスコ教育勧告」は、教育の指導原則として、次の諸目標を挙げている。

(a) すべての段階および形態の教育に国際的側面および世界的視点をもたせること
(b) 国内の民族文化および他国民の文化を含むすべての人民ならびにその文化、文明 、価値および生活様式に対する理解と尊重
(c) 諸人民および諸国民に間に増大する世界的な相互依存関係についての自覚
(d) 他の人々とコミュニケーションする能力
(e) 権利を知るだけでなく、個人・社会的集団および国家にはそれぞれ負うべき義務もあることを自覚すること
(f) 国際的な連帯および協力の必要についての理解
(g) 個人がその属する社会、国および世界全体の諸問題の解決への参加を用意すること
(国際教育法研究会編 『教育条約集』 三省堂、1992年)

また、同じく「ユネスコ教育勧告」は、取り扱うべき諸問題として、以下の事柄を挙げている。

(a) 諸人民の権利の平等と人民自決権
(b) 平和の維持。諸種の型の戦争とその原因および結果。軍備縮小。軍事目的のための科学と技術の使用の禁止および平和と進歩のための科学と技術の使用。諸国間の経済的、文化的および政治的関係の性質と効果およびこれらの関係のためとくに平和維持のための国際法の重要性。
(c) 難民の人権を含む人権の行使と遵守を確保する措置。人種主義とその根絶。種々の形態の差別に対する戦い。
(d) 経済成長、社会発展およびこの両者の社会正義に対する関係。植民地主義と非植民地化。発展途上国への援助の方法と手段。文盲根絶の戦い。病気と飢餓の防止運動。生活の質の改善および健康の水準を最大限高めるための戦い。人口増加およびこれに関連する諸問題。
(e) 天然資源の利用、管理および保存。環境汚染。
(f) 人類の文化遺産の保存。
(g) 前記の諸問題の解決のための努力についての国際連合システムの役割と活動方法ならびにその活動の強化および促進の可能性。
(前掲 『教育条約集』)

 開発教育の概念自体は、1960年代からおもにヨーロッパで提唱されていたが、その内容は、「北」という向こう岸から「南」の国々を見聞きする程度のものだった。だが、この「ユネスコ教育勧告」によって、開発教育は、平和・人権・環境などの課題と密接不可分な人類共通の課題として、そして「南」の低開発の問題を解決する主体を「北」の国々でも育成すべきものとして、国際的なコンセンサスが形成されることとなった。
 日本においても、1982年に開発教育協議会が設立され、開発教育を次のように定義している。
 「開発教育とは、これから21世紀にかけて早急に克服を必要としている人類社会に共通な課題、つまり低開発について、その諸相と原因を理解し、地球社会構成国の相互依存性について認識を深め、開発を進めていこうとする多くの人々の努力や試みを知り、そして開発のために積極的に参加しようという態度を養うことをねらいとする学校内外の教育活動である。」 (開発教育協議会 『開発教育の進め方を考える』、大津和子 『国際理解教育』 162ページより再引用)
 こうした動きがあるにもかかわらず、日本政府は前述の狭義の国際理解教育に固執している (その理由については後述する)。 だが、一部ではあるが、開発教育の意義をふまえた実践も広がりを見せている。私たちは、開発教育を、狭義の国際理解教育ではとらえきれない、真の「グローバル・エデュケーション」=地球市民を育てる教育に不可欠なものととらえ、私たちが提唱しているカリキュラムの中に組み込んでいきたいと考える。その際の留意点を以下に述べる。

 (1) 第一に、開発教育はそれ自体では完結せず、人権教育・環境教育・平和教育などと密接に関わり合い、相互に補い合う関係にあるということである。開発途上国の歴史や現状を学習していけば、多くの「開発独裁」の存在にぶつかる。韓国の朴政権、インドネシアのスハルト政権、ビルマ (ミャンマー) の軍事政権など、枚挙にいとまがない。これらが、真の自立的発展を願う人々を多く逮捕・監禁・虐殺し、人権を蹂躙している。これらの政権を日本の歴代政府は政治的経済的側面から強力に支えている。また、日本など先進国資本主導の開発は、途上国の環境を急速に破壊している現状がある (排気ガス対策をまともに施していない自動車の輸出・現地製造・販売による大気汚染の深刻化、現地進出企業・工場による放射性物質のたれ流しをも含めた公害の「輸出」、 森林の大量伐採、エビ養殖池の乱造によるマングローブ林の激減とこれにともなう海洋環境の悪化、等々)。 そして、第三世界の多くに見られる内戦や近隣諸地域間の戦争は、人々の平和的生存権を脅かしているとともに、多額の軍事費が国家財政を圧迫し、そうした政権を先進国が支えながら兵器産業=死の商人が懐を肥やしている。こうした歴史と現状を顧みると、途上国の開発のあり方は、人権・環境・平和の問題をいかに解決するか、そして、これら諸問題に日本など先進国がいかにかかわっていくかにかかっている。以上から考えて、開発教育は、途上国の問題を自らの問題として考えるグローバル・エデュケーション=地球市民を育てる教育の一環として、人権教育・環境教育・平和教育等と有機的連関を持ちながら行われる必要がある。

 (2)第二に、開発教育は政治教育である、ということである。日本の文部省は、たとえば現行学習指導要領の「地理歴史科」地理の部分で、世界の諸地域を教える際にも「政治・経済的内容には深入りしないこと」とわざわざ釘をさしており、同様の趣旨の教科書検定が地理に限らず他科目・教科においても執拗に行われている。文部省のそのような「指導」は多くの教科書執筆者にとって足かせになっていて、政治課題を取り上げることに及び腰になっている教育現場の実践者も多い。だが現実に日本の政治経済は前述の通り途上国の開発の問題に深くかかわっている。とりわけ、アメリカの世界制覇戦略を補完し、海外に進出する大企業のための経済的基盤を整備する役割を負っている日本のODAは、「開発独裁」を支え、被援助国の特権層を肥え太らせ、得られる利潤のほとんどは日本企業が得るシステムになっており、被援助国の人々の生活文化の向上には役立っていないばかりか、多くの場合、その国の自然環境を破壊する要因にもなっている。しかもその財源は、消費税というかたちで生徒たち自身もその一部を負担している税金である。私たちは、自国の外交・対外経済政策を正しく認識し、問いただし、改める教育を行う必要があり、生徒たちにはこれらを学ぶ権利がある。この権利に対応する教育が政治教育に他ならない。後述するが、「ドイツでは開発教育は政治教育としてとらえられている」(西岡尚也 『開発教育のすすめ』 94ページ)。 政治教育は政治的プロパガンダとは異なる。日本においても教育基本法第8条が定めるとおり、政治的教養は国民の基礎教養である。そして、政治課題は開発教育には不可欠な構成要素である。

 (3)第三に、途上国の開発をめぐる国際経済 (金融) システムの問題がある。IMF−世界銀行体制は、USドル=国際通貨を基軸とし、アメリカ金融資本の意志を体現することを中核となす国際金融システムであり、途上国の開発に関する融資もこの体制に固く組み込まれている。「札ビラで森林をなぎ倒す」国際金融システムである。日本も、日米軍事同盟による対米従属のもと、その代弁者として第三世界に対する経済・金融政策を実行している。これらを乗りこえて、いかなる世界経済のシステムを築いていくかは、開発教育にとっての重要な課題である。

 (4)第四に、この開発教育をいかにカリキュラム化していくかという問題がある。従来、こうした内容の授業は、取り上げられるとすれば、社会科の地理・現代社会・政治経済などで扱われてきた。しかし、開発教育で扱われるべき問題は、社会科学系のものばかりではない。ことば学系の中で、第三世界の文学作品を扱ったり、識字教育の意義を扱ったり、開発途上国・地域の言語を扱ったりすることも考えられよう。また、自然科学系において途上国における環境 (破壊) のメカニズムを扱うこと、芸術系において開発途上国・地域の映画・芸能・各種の芸術作品を扱うこと、教科外活動において、生徒の研究成果を発表したり途上国・地域の人々との交流をはかることなども想定されよう。以上のことから、この開発教育は、私たちが提唱している「タテ・ヨコのカリキュラム」の中の1テーマ=「ヨコカリ」の一つとして扱っている。現に、前述した、開発教育を政治教育として扱っているドイツにおいて、あるギムナジウムでは、「熱帯林」というテーマを扱う際、地理を中心として美術・生物・音楽・国語の五教科が協力し、教科の枠を超えた作業グループをつくって連携をはかり、同時期に異なる教科間で同じテーマの授業を行っている。(西岡・前掲書、93〜94ページ。なお、西岡氏は、同書において、ドイツよりも学級定員や教職員の教材やカリキュラム開発の時間的余裕などの教育条件が劣悪な日本においては、こうした「総合学習」的扱いでは、どの担当者にとっても開発教育の扱いが負担となり、責任の所在が不明確になるとして、単独の「開発科」の設置を主張している。)
最後に第五点として、この開発教育に限ったことではないのだが、特にこの学習においては、知識の教授・学習型中心の学習から、参加中心の学習への転換が重要となる。前掲「ユネスコ教育勧告」に述べられていたように、開発教育を含めた地球市民を育てる教育=グローバル・エデュケーションにおいては、「個人がその属する社会、国および世界全体の諸問題の解決への参加を用意すること」が主要な教育目標となる。こうした「参加」の能力・姿勢を育てることが中心課題である。
 ユネスコ「学習権宣言」(1985年) は次のように述べている。

学習権とは、
読み、書く権利であり、
質問し、分析する権利であり、
想像し、創造する権利であり、
自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利であり、
教育の手だて (resources) を得る権利であり、
個人および集団の力量を発達させる権利である。
(前掲 『教育条約集』)

 ここでいう学習とは、「個人および集団の権利の側から現実の世界を読み開き、個人ならびに集団の権利を世界の中に書き込んでいくことなのである。だから、学習権は、歴史を綴る権利であり、参加の権利であるとされている」「いいかえれば、学習とは、学習者が自分自身の、また自分が属する集団のコンテクストにもとづいて、世界(テクスト)を意識化し、それに批判的に介入していくこと」(竹内常一 『学校の条件』 120ページ) なのである。そして、こうした学習権は、子どもの権利条約第12条の意見表明権、第13条にある、子どもが意見を形成するために必要な情報を求め受け取る権利、第17条にある、国内外の情報・資料へのアクセス権等によって、より発展的・積極的に保証された。私たちは、生徒を、教えられる客体から学ぶ主体へ、単に知識や技能を蓄積・獲得する学習から、歴史と世界と自分をつくる主体を育てる学習へと、学習概念の転換が求められているのである。

【参考文献】・西岡尚也 『開発教育のすすめ−南北共生時代の国際理解教育』 かもがわ出版・1996年、・大津和子 『国際理解教育−地球市民を育てる授業と構想』 国土社・1992年、・竹内常一 『学校の条件−学校を参加と学習と自治の場に』 青木書店・1994年
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解説14.生と死と性の教育

1.わが国の性をめぐる状況

 天皇専制と軍国主義が社会を覆っていた戦前、庶民の人権が羽毛よりも軽く扱われていた時代、人間の「性」は、生殖、でなければ、精神よりも下位に位置づけられた肉体の、それも排泄器官の生理の処理の問題として、人格とは切り離され、きたないもの、はずべきもの、したがって、秘すべきものとみなされていた。そこでは、禁欲主義が、社会階層の別なく(特に、男尊女卑思想の支配下で、女性全体に)押しつけられたが、それは建前で、実際には、蓄妾が社会上層で容認され、売春が公認された社会装置として組織化されており、男の性の放縦と建前との間に大きな矛盾を生じ、社会的な差別と偽善をつくりだしていた。
 戦後、敗戦による国土の荒廃、経済的困窮、飢餓、心身を強力に締めつけてきた旧体制の枠の崩壊、それらの結果である社会全体の混乱、そして、新しい支配者・アメリカの文化の急激な流入に対する無比判の表層的・部分的な受容、などによって、人々の性は、一挙に野に放たれた。民主主義・基本的人権の擁護を標榜する近代的な新憲法を、そのとき日本人は戴いたが、しかし、性の「解放・開放」に必ずしも性における民主主義(人権としての性)の獲得はともなわなかった。
 その後、対米隷属の安保体制の下で、朝鮮戦争などを契機とした独占資本の復活、高度経済成長政策によるその急激な膨張、それにともなう国民の生活水準の上昇・大量消費社会への突入、その一方での公害・自然破壊・地域社会と家庭の解体・古里喪失、人々の労働と生活のすべての分野にわたる矛盾の激化など「新しい貧困化」の発生、受験戦争、そして高度成長政策の破綻、経済成長の停滞、「ルールなき資本主義」化、貿易摩擦、軍事大国化・海外派兵、バブルとその崩壊、政官財の癒着腐乱・政治不信・無党派層の増大、リストラ・倒産・産業空洞化・失業・就職難、等々を、一億総エコノミック・アニマル化した日本人は経験することになるが、核戦争・世界崩壊の脅威と不安の影に覆われた社会の、そのよなめまぐるしい変転に応じて、日本人の性意識も、基底の歪み(すなわち人権意識の未発達)はそのままに、現象的には大きく変わってゆく。
 禁欲主義から性の快楽性の肯定へ、避妊技術の進歩と普及、(マス・メディアの発展と)ポルノ情報の氾濫、性の商品化の伸展とセックス産業の拡大、海外セックスツアーの蔓延、エイズの流行・・・
 その他、性をめぐる急激な環境の変化は、子ども達をも巻き込みながら、現在も続いている。そして今や日本は、セックス・アニマルの国という国際的評価を確立し、世界で最も、ポルノグラフィに誰でも何時でも何処でもアクセスし易い国の一つという定評を得るまでに至っている。
 この間、青少年の精神的自立なき肉体的早熟化がすすみ、性交体験や妊娠・中絶・性病罹患の増加と低年齢化、「援助交際」などを含む売春やレイプ・痴漢行為・性的逸脱など性に関わる「問題行動」「非行」「犯罪」などの加速度的な増加・拡大が進行しており、また、問題として表面化しない場合でも、彼らの性についての観念・行動にしばしば軽視できない歪みを生じさせてもいるが、それは上記のような経過の必然的帰結と言えよう。

2.学校教育の対応

 このような状況に対して、1947年、文部省は「純潔教育の実施について」という通達を出した。さらに49年には「新制中学校の教科と時間数の改正について」という通達を出し、保健体育科の一項目として、性の教育(「成熟期への到達」)を設けた。86年に「生徒指導における性に関する指導−中学校・高等学校編」を出し、92年には、小学校でも性の学習を実施するよう、教科書への記載(理科と保健)を含めて、指示を出している。
 性の教育が「純潔教育」という用語で表現されたことに象徴されるように、わが国における性の教育は、基本的に「男女間の道徳の確立、性道徳の高揚」(純潔教育基本要項)をねらいとするものであった。その底にある性についての認識は、根本的には、上述のような戦前のそれと大差ない。1920年代に世界に先駆けて科学的な性教育を提唱・実践した山本宣治をパイオニアとして、60年代頃から、科学教育を軸とした性の教育の研究・実践が始まるが、その進展のきざしに対しても、わが国の伝統的性教育観は、それを「性器教育」として否定・排除してきた。その傾向は今なお残存している。
 純潔教育系性教育の特徴は、基本的に女子を対象として禁欲主義の植えつけが行われるという点である。まず、小・中学校の女子のみに「初潮指導」が行われ、つぎに、女子が、女子のつとめとして、婚前交渉・婚外妊娠を避け、処女を守り貞節を守ることを目標に道徳的教化が施される。ほとんどの場合、男子は教育対象から除外される。
 男子に「性に関する指導」をする場合も、性は、基本的に、抑圧すべきものとして否定的に扱われ、科学や民主主義・自由・人権などとは切り離された、精神的・倫理的レベルの問題として、「青少年健全育成」のための生徒指導上の課題として、要するに、取り締まりの対象として、もっぱら位置づけられる。これは純潔教育の裏返しに他ならない。
 このような、子ども達の性をめぐる危機的状況への教育(内容)行政の対応の大きな立ち遅れに対して、近年、子ども達自身の中から、保護者・教職員の中から、あるべき性の教育・学習を求める声が、日増しに高まりつつあり、それに応えた自主的な教育実践が漸次各地で積み重ねられている。1985年の、生活の全面にわたって男女の平等を追求する「男女差別撤廃条約」や、1994年の、子どもを権利主体として認める「子どもの権利条約」の日本政府の批准が、その動きに大きな推進力を与えたことは疑いない。
 そこで求められ試みられている教育・学習は、一口に言えば、おのおのの性全体の正確な科学的認識のうえに、性における人格・人権・民主主義の確立をめざす「生と性の教育「human sexuality education 」である。そして、その基礎には−それを意識しているか否かにかかわらず−全面的発達の理論がある。
 [注]sexuality:カーケンダール(USA)によれば、「sexは、両肢の間にある生殖にかかわる器官であり、かつ、その行動の総称。sexualitは両耳の間にある器官、すなわち大脳に関わる性的存在としての人間の全生涯と全人格を包含する概念」で、生物学・心理学・社会学・人間関係学的な性の現象のすべてを全体として表現した言葉である。また、genderは、男らしさ・女らしさのように、社会的・文化的に規定され、要求され、常識化された男女の性的役割や行動様式・心理的特性をいう。

3.生と性の教育の実践

 (1)石田実践「生き方を考える性の教育」

 1970年代に、岐阜・中津川市の小学校教諭、石田和男氏は、復興期にあった西小学校の生活綴り方教育を土壌にして、丹羽徳子氏や地域の教師集団の長年の教育実践の積み重ねと保護者たちの協力のうえに、思春期前期にある小学校高学年の子ども達と、「生き方を考える性の教育」を創りだした。
 60年代、地域や家庭の崩壊がすすみ、学校も差別と選別の性格を強め、また、かつては遊びの中で知恵と技を身につけることができた子どもの生活集団が自然発生的には生まれ難くなってきているなど、生育環境全体の教育機能が低下しているところへ、性の商品化による混乱の波がもろに押し寄せ、子ども達の性(意識)に大きな問題を引き起こしている状況に対し、氏は、「子ども達に、性を、人間の体の問題として重視することから、こころを含めた人間固有の問題として考えるようにし、さらに自らを含めた人間の生き方の問題として捉えるようにさせることが、必要で可能だ」と考え、手さぐりで実践をつづけた。それは、「現実の生活の中で、子ども達の体とこころの奥底に人間的矛盾として巣くっている性を、学習の場へ引き出して科学の光を当て、子ども達自らの力で人類の発展と社会進歩の方向に向かって人間らしい性を創りだしていくことへの自覚を促そうとした」教育的試みであった。それは、とりもなおさず、「人間の性の中に民主主義を確立させ、子ども達が性の自由を獲得し、自らの性の主人公に」なることを追求する営みにほかならなかった。

 (2)性教協の「科学・人権・自立・共生」の性教育

 1982年に、“人間と性”教育研究協議会が結成された。同会の主唱する性の教育は、科学・人権・自立・共生の4つ理念を柱にして、内容を組み立てている。

 (1)科学の教育

 (調査結果によれば、今日、青少年男女の、性に関わる情報源の圧倒的割合を示しているのは、エロ本・アダルトビデオ・ポルノコミック・週刊誌や月刊誌のピンクページなど、専ら欲情する男の視点からつくられたセックス商品である。男女を問わず、青少年達は、ポルノグラフィを通して、自らのセックス観を作り上げていると言って言い過ぎではない。性交体験率が高くなろうが、この事情は変わらない。学校の教育から知識を得ているケースはせいぜい1〜2割である。)
 性教育は単なる性器教育ではない。しかし性器の構造や機能、そしてみずからの性や異なった性の生理、性交・生殖、性と心理との関わり、などについて正確な知識を得ることは性教育の絶対の基礎である。しかもその学習は、民主主義的な男女関係を創るうえで不可欠でもある。セックス産業やポルノ文化によって注入された子ども達の歪んだ性の知識を科学的な学習を通して是正し、真に人間的な性からの疎外状況から子ども達を救い出すことは、性の教育のみならず、現在の学校教育全体の喫緊の課題と言えよう。
 また、メンスやマスターベイションなどについての偏見や妊娠・避妊についての不正確な理解、あるいはエイズを含む性行為感染症や人工妊娠中絶などに対する誤解や過剰な恐怖感などは、性意識の発達を歪め、性的トラブルを生み、将来の性関係をそこなう要因ともなる。こうした点からも科学的に性をみつめる力を育てることが重要な柱となる。

 (2)人権の教育

 人間にとって、性は、年齢・性別などに関わりなく、人間らしく生きるうえでの基本的権利のひとつである。それは結婚をした男女のみに認められるものではなく、子どもには子どもの、老人には老人の、あるいは障害者には障害者の、病者には病者の、さらに同性愛者には同性愛者の、それぞれの性行動がある。強制や暴力・抑圧などをともなわない限り、あるいは他人に不利益や不愉快を与えない限り、それは基本的に、第三者の介入が許されないプライバシーであり、個人の完全な自由の領域に属する。性は、その人の生(人格)そのものと同じく人権であり、性器や肉体も単なるモノではなく人権の主体そのものであることを、すなわち、人は等しく性的自己決定権をもつということを、誰もが(とくに男性が)認識しなけらばならない。
 また、従来、性は、出産につながる場合にのみ社会的に肯定され、その他の場合は否定的に扱われてきたが、今や、誰にでも認められるべき、すぐれて人間的な意思疎通のかたち human communicationとして性を捉える視点が必要になっている。

 (3)自立・共生の教育

 労働と生活と自由時間の全面にわたる男女の平等が求められる時代状況のなかで、性の教育は、これを徹底させ相互の自立と共生をすすめる点で、重要な役割をもっている。  真に人間的な性関係とは、それぞれの個性・異質性を承認し合いながら、経済的にも社会的にも精神的にも自立した人間相互の共生的エロス的関係である。これを一口で言い換えれば、性における民主主義的関係である。そのような関係を創りだすためには、自分の心とからだは自分で管理し保護するという基本的な能力の獲得のうえに、おのおのが責任をもって自律的に自分の性のあり方・性行動を選択し決定する、総合的な性的自己決定能力を身につけることが前提となる。
 この学習は、因習的・固定的な男性観・女性観から抜け出ること、また、男性にも女性性が含まれ、女性にも男性性が含まれていて、その構成やあらわれ方によって多様な個性が存在し、それは極めて自然なことであるという人間観を形成することにもつながる。
 そして、両性間の、性交・避妊・妊娠・中絶・出産・哺育・子育てなどにおける相互理解と協同や、社会的マイノリティ・弱者などの性の権利を含む人権の尊重に基づいた共生の実現も、性の教育の重要な現代的テーマである。

 (3)科学・人権・自立・共生の性教育の高校段階のテーマ例

 (1)性欲と性行動・性衝動 (2)性差と性役割 (3)同性愛とsexual identity (4)愛情・友情・恋愛 (5)男女の人間関係 (6)性交・避妊 (7)妊娠・出産 (8)人工妊娠中絶 (9)不妊と生殖技術 (10)家事と育児と労働 (11)sexual harassment ・rape・性的問題行動 (12)芸術に描かれた性 (13) sex観と人格形成 (14)母性と父性 (15)性解放と差別・人権 (16)射精・自慰 (17)性産業と性情報 (18)結婚・離婚・家族・非婚 (19)売・買春 (20)従軍慰安婦 (21)STD(性行為感染症) ・AIDS

 [注]私たちの「生と死と性の教育」では、さらに、reproductive health rights(性と生殖に関する健康と権利)、国家・法律と性(例えば、sex 産業の放任とワイセツ裁判、優生保護法、性に関わる刑法・少年法・淫行防止条例・警察の「性非行」対策、性犯罪、女子中高生売春・「援助交際」、など)、戦争と性暴力(例えば、戦争の本質と戦地での強姦、PKO など海外派兵への性病予防対策、軍事基地と性犯罪、など)、日本人の人種差別主義とセックスツアー・「嫁不足」と「国際結婚」、家族による性的虐待・近親相姦、幼少年者への性欲と性的搾取、宗教・カルトと性、などもオプショナル・テーマに加えたい。

4.死の教育

 私たちが、この総合学習において、生と性の教育に、さらに死の教育を結合させようとしているのは、その根底に、「生」そのものの中にそれと対立する「死」が始めから組み込まれているという「生命」についての弁証法的認識があるからである。生は生の過程であると同時に死への過程でもある。(しかも、そこには、個体は滅んでも、そのDNA のみは子々孫々に受け継がれ生きつづけるという類的自己保存のメカニズムが貫通している。) 生を認識することは、死を認識することと表裏の関係にあり、生の尊厳は死の尊厳によって初めて正しく照射される。
 近年先進諸国では、医療技術の高度化と医療のビジネス化にともなう病院による死の「管理」、および核家族化の拡大(老人の不在)、地域生活共同体の崩壊(没交渉)などによって、死も死への過程も隠され秘密にされ、「死を身近に見なくなった結果の(知識・価値観・感情面での)欠落」が、とくに子ども達に起こっていると言われる。死に至る経過と死そのものとの対面の実感と認識を欠いた“生”の理解は、一面性を免れず、生命の尊厳という原理をよそよそしいものにしてしまうだろう。 私たちの総合学習「生と死と性の教育」は、「生と死を考える性の学習」を目指すものである。
 しかし、死の教育 death educationは、わが国では、ほとんど未開拓の分野である。そこで、ここでは、西平直氏による子ども研究における死の問題につての指摘と、上智大学で学生と一般市民を対象に死への準備教育講座「生と死を考えるセミナー」を開設している、アルフォンス・デーケン教授が編集した書物の一部を紹介して、死の教育のイメージを描くための素材に供したい。

 「子ども研究は死の問題を避けるべきではない。しかし同時にそのためには慎重な手続きが必要である。〈死を含んだ生の全体、死まで視野に収めた人生の時間的全体性において子どもを見る目〉〈人の生は刻々と死に近づく歩みであるという生の有限性の現実を見すえた発達の思想〉〈死を隠し、死を切り離した後に残る生にのみ目を向けるのではなく、逆に死を一事実として意識のうちに収めこんでしまうのでもない、何か別様のかかわり方〉がいま求められているのではあるまいか。」(西平直「子どもにおける死の理解」)
 「死は誰にでも必ず訪れる、普遍的かつ絶対的な現実である。ハイデガーがいみじくも定義したように、人間は『死への存在』であり、この世に生をうけた瞬間から常に死に向けて歩みつづけている。したがって私たちは人生において、いつかは身近な人々の死と自分自身の死に直面せざるをえない。死そのものを前もって個人的に体験することはできないが、死を身近な問題として考え、生と死の意義を探究し、自覚をもって自己と他者の死に備えての心構えを習得することはできるし、また必要でもある。これが、死への準備教育の主な目的である。また、人生全体の意義は究極的には死をもって決定づけられ、完成されるものであるから、死への準備教育は同時によりよく生きるための教育でもある。」(A.デーケン「死への準備教育の意義」)

 そしてデーケン氏は、市民講座で実践している教育内容を次のようにまとめている。
 (1)死への準備教育の4つのレベル
(1)知識伝達のレベル−死に関わる学際的な研究成果の多様な専門知識を学ぶ。 (2)価値解明のレベル−自分の価値観の見直しと再評価を行い、生と死に関するしっかりとした価値観を身につける。 (3)情緒的および感情的なレベル−死に対して抱いている過度の不安や恐怖を自覚し、克服する。 (4)技術習得のレベル−死にゆく患者とのふれあいを通して、具体的な技術の習得を行う。

 (2)死への準備教育の課程内容
 (1)死の意義 (2)死へのプロセスの6段階 (3)告知・末期患者の知る権利 (4)死への恐怖とその理解 (5)死にゆく患者への援助とケア (6)愛と死 (7)死とユーモア (8)美術における死 (9)音楽と死 (10)文学における死 (11)安楽死 (12)自殺とその予防 (13)死の判定と臓器移植 (14)喪失体験と悲嘆のプロセスにおける人格成長 (15)世界各国における葬儀の風習 (16)ホスピス (17)宗教における死の解釈 (18)死後の生命

 また、同書には、青年期中期(高校時代)の葛藤と苦悩の中で自我同一性(identity、主体性、独自性、普遍性・単一性・一貫性・連続性とその感覚)を確立するための課題のひとつとして、「性の問題」も取り上げられている。
 肉体の成熟とともに高まる性衝動について生理的・人格的なレベルで理解させる。そして生と死の本能(タナトス)と性愛(エロス)とが深く関わっていることや、性本能が充足されない時の自他への攻撃性・破壊性の問題を学ばせる必要がある。
 高校という時期は、人生の中で、親との分離を図り、社会における自己のidentityを創り上げるべき最も重要な時期であると同時に、性衝動のコントロールの問題を克服しながら、自らの性的identityを確立し、性愛の対象を選択・決定する大事な準備の時でもある。identityの確立と性衝動のコントロールなど心身の統合の問題は、青年にとっては文字通り life-and-death problem であって、それを乗り越えるという経験は、人間の生と死を考える絶好の機会である。それによって若者は、自分らしさを発見し、友愛や恋愛を通して、自己や肉親以外の他者を受け入れ愛することや、他者のために滅私・奉仕・献身・利他(自己犠牲)することができるようになる。そして、自分の生のすべてを相手に捧げて、かえって、更に輝いた自分が再生すること、「愛の表現は惜しみなく与える、しかし愛の本体は惜しみなく奪う」ことを知る。
 逆に、親子の分離や社会的・性的identityの確立、性愛の対象の選択・決定における蹉跌は、しばしば拒食・過食や「性非行」・ふれあい恐怖・退行・ファミコン症候群・思春期非離脱症候群・青い鳥症候群・性的逸脱・近親相姦・パラノイア・などの、病気や行動異常の要因のひとつとなる。性の早熟のもとでの青少年期のエンドレス化・モラトリアムが問題となっている現代社会では、とくにその点への充分な教育的・医学的対応と具体的な援助・ケアのシステム化が肝要である。
 性的欲求は、生の欲求であり、死への反抗である。しかし、この欲求の中には攻撃性・破壊性が潜んでおり、これを上手に昇華できないと、表裏の関係にる破壊や死への本能が時に表面に現れる。家庭内or学校内暴力・イジメ・器物損壊・車の暴走・自傷など、欲求不満による問題行動の病理や、はなはだしいケースは自殺・レイプ・通り魔的暴行・放火・殺人にまで至る心理的原因なども、社会的・環境的要素だけでなく性の問題とも関わらせながら、分析的・総合的に学ばせるべきであろう。

 以上のような事項や国内外の関係文献・実践例などを参考にしながら、子ども達の発達段階と教育目標に応じて、「死の教育」の具体的内容を編成し実践を試みるのが、現段階での私たちの課題である。
 ちなみに、戦前の軍国日本の公教育は、全体として、文字どおり「死の教育」(自らすすんで死ぬための教育)の典型であった。教育を通じて、若者たちは、「悠久の大儀に生きる」、すなわち天皇と天皇専政体制の護持のために死ぬことが、最高の真・善・美であり、臣民の義務であると洗脳され、実際に死んでいった。その死は、他殺でも、自殺でも、事故死でも、もとより自然死でもなく、「教育による死・教育死」というより他ない死であった。私たちが、今、死の教育を考え、その教育課程づくりを行おうとするとき、このことを、その基底に据えることを不可欠としたい。私たちの死の教育は、あくまで、活き活きと生きるための死の教育である。

 【参考文献】・労働旬報社『現代教育学事典』、・石田和男『生き方を考える性の教育』〔新装版〕、・“人間と性”教育研究協議会「性教育総論と用語解説」『人間と性の教育・別巻』、・同「高等学校の性教育」『シリーズ:科学・人権・自立・共生の性教育・4』、・あゆみ出版『性と生の教育Human Sexuality No.5』、・アルフォンス・デーケン、メヂカルフレンド社編集部「死を教える」『叢書・死への準備教育・第1巻』、・『ひと』編集委員会『「死」と「生」を教える』、・横湯園子「生と死をめぐるドラマ」『シリーズ・中学生・高校生の発達と教育・2・からだと心の青年期』
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解説15.基礎的総合的職業教育

 基礎的総合的職業教育の内容の詳細については、『高総検報告W』P.71〜79を参照されたい。その基本的骨格と性格をまとめると以下のようになる。
  1. この教育は、「一般技術教育」を中核とし、それに「労働教育」「知育・体育の教育」「職業指導」「労働安全・衛生教育」「環境教育」が有機的に結合された総合的職業教育である。
  2. この教育は、あらゆる職業に対して開かれた基礎的職業準備教育である。
  3. この教育は、幼児期から青年期まで一貫して系統的に組織されるべき「遊び・労働・技術教育」の最終(完成)段階に位置する。
  4. この教育は、国民的共通教養に不可欠の基本要素であって、男女・進路の別なくすべての生徒に平等に保障されねばならない。


補論  アルバイトについて

 「労働体験の欠落した現代の高校生にとって、唯一貴重な労働体験たるべきアルバイトも、しかし、職業・労働観の形成には、必ずしも望ましい効果を発揮してはいない。
 その理由のひとつは、調査されたアルバイトの大方の動機が、ファッションや遊びのための資金調達など、コマーシャリズムに操作され肥大化された欲望から生じている点で、アルバイトが単なる小遣いかせぎの手段に矮小化されてしまい、概して、人間の諸能力を総合的に発達させる契機にはなりえていないということ。もうひとつは、定期的アルバイトの職種の60%までが、外食産業などのサービス業か販売業で占められている点で、体験する労働の種類の偏りが、社会的労働に対する理解を一面的なものにしがちであるということである。」(「普通教育としての職業・労働・技術教育 (1)現代の青少年と職業・労働 (1)労働体験の欠落」『高総検報告IV』p.69)
 「アルバイトは、『労働体験の欠落』で述べたように、現状のままで職業・労働教育の入門とするには問題が残る。
 しかし、アルバイトという労働形態の特徴や、賃金形態、労働力編成上の価値・役割、労働力政策との関わり、労働法制、労働災害と社会保険、雇用契約、等々の諸知識を学習しながら、また、アルバイトの職種も、飲食サービス業に偏することなく、第1次・第2次産業の労働も体験できるように配慮したうえで行うならば、アルバイトも社会的労働への一つの有力な参加学習となりうるのではないか。」(「同 (4)職業指導」『同』p.77)

総合解説 技術・労働・職業・生活の教育

1.一般技術教育と職業技術教育

 技術教育は、工業や農業の生産技術および生活に必要な技術を学習の対象とするが、一般には、工業の生産技術とその基礎をなす技術学の学習と技能(実技)の習得を目的とする。また、技術教育は、一般的な技術的能力を高めることを目的とする普通教育的技術教育と、産業界の生産性向上の実質的な推進力となる職業人を養成することを目的とする職業的技術教育とに大別される。技術・技能の習得とその過程によって、生活全般や人間形成に寄与させようとするのが、一般教育としての技術教育であり、習得した技術・技能によって個人の職業生活が支えられる程に、それらに習熟させようとするのが、職業教育としての技術教育である。
 しかし、両者は、多くの部分で内容が重なっている。一般技術教育も職業観の形成を欠くこはできないし、職業高校でおこなわれる職業教育も、卒業生の多くが自分の専門以外の産業に就職している事実や技術の進歩の速さを考えれば、特定の職種のみに対応した狭い職業準備教育ではなく、一般的、基礎的な性格を持たせる必要がある。

2.技術・労働・職業教育の今日的意味

 現代の青少年の生活環境は専ら消費生活の場と化し、自分達でものを作り価値を生み出す経験は殆どない。自分達の生活が実は生産労働によって支えられているにもかかわらず、生産と消費の場がほとんど分離している現代社会の仕組みによって、それが見えにくくなっており、労働を蔑視する傾向すら生んでいる。消費中心の価値観が支配的になり、自分の手や体を使い外界に働きかけ、ものを創り変える経験がきわめて乏しいため、子ども達は概して不器用になっている。さらに受験体制が子ども達に重くのしかかり、自発性を圧しつぶし、その結果、受験という外的要因なしには、学習意欲が起きないという逆転現象を生じさせている。受験勉強のなかで得られた「知識」は、しばしば現実から大きく隔たっている。
 今日、こうした歪んだ価値観や労働観は、青少年の人間的な発達にとって最も重大な問題になっている。 生活意欲や学習意欲の減退、価値観の歪み、非行、不登校・登校拒否、暴力、薬物乱用、いじめ、自殺等の昨今の教育をめぐる危機的状況の根本原因は、幼・少年期における遊びや労働体験の喪失と無関係ではない。
 一般に、青年の社会的自立の基底を構成するものは、人間社会に不可欠な永久の条件である生産活動に参加し得る身体的・精神的能力の獲得である。そして、労働過程で自由に自己を発揮するためには、個々の労働に対しての習熟が必要であり、そのような習熟に対する自信と自分の労働の社会的意義についての科学的認識が、労働者としての権利と連帯の必然性の自覚を生み、未来への見通しを与え、自立的人間に仕上げてゆく。
 従来から我々は、普通科への技術・職業教育の導入を主張してきたが、それは、必ずしも就職のための直接的準備を企図するものではない。その主要な目的は、高等教育機関への進学希望者を含むすべての高校生に対して、現代の労働と社会的生の主要な分野に対応する職業についての一定の科学的認識と、それらの技術・技能の習得を通じて、労働を基礎にして成り立っている社会の基本構造を理解し、労働する者の権利の自覚を促し、進路選択を含めた将来展望を切り拓く土台を築き上げることにある。
 しかし、わが国では、学校教育でも「労働への手ほどき」が充分行われていないのが現状である。一般教育(普通教育)としての技術教育は、中学校の技術・家庭科の中に「技術」領域で取り上げられるだけで、それは小学校にも高等学校にもつながってはいない。しかも、技術・家庭科は、本来別教科であるべき「技術科」と「家庭科」を一つの教科としたため、教科の目標が「生活に必要な技術の習得」に置かれ、「生産労働」という視点は抜け落ちてしまっている。

3.技術教育の役割

 技術および技術の諸科学は、労働の中から直接的に生み出された文化であり、その成果も労働の中で実を結ぶという関係にある。労働と深く関わる技術の基本を学ぶことは、労働とその値打ちの納得的な理解を促し、正しい労働観、価値観を育む役割を果たす。また、ものを作り出す活動に参加することを通して、能動的活動が広がり、連帯の学習活動を組織することができる。さらに、技術は自然と対峙してきた人類のさまざまな知識や工夫が結晶しているのであり、道具や機械を使用し、技術の本質をつかむことは、人類の知識の社会的有用性やその意義を納得させる。
 現代は高度に発達したハイテク社会であり、その技術は一般の人々には分かりにくくなっている。しかし、いかにハイテク社会であろうと、子どもたちは次代を担う主権者として育てられなければならない。現代社会に決定的な影響を与えている技術について本質的なことが分かり、そのありかたや発展の方向性について的確に判断できる力は、現代の主権者には不可欠である。
 さらに、現代社会は地球規模での環境問題に直面している。人間は自然から得た資源を利用して財貨を生産し、消費して、その過程で生じた各種廃棄物を自然に戻すという方法で生活を維持しているが、環境を保全するためには、人間社会と自然の循環関係を正常に維持するように合理的に規制し、コントロールすることが必要である。したがって、環境問題の解決のためには、生産の技術的過程と社会的編成を認識し、的確に判断できる能力が必要になる。

4.労働教育

 労働は、人間が能動的に外部の自然を改造し、何らかの使用価値の生産をめざす活動である。その目的は労働主体の頭の中であらかじめ実現され、その構想に適合した自然の物質が選択され、労働手段が創造される。また、労働はその目的の実現に向けて意志を制御し、肉体的・精神的諸能力を組織し、常に直接・間接に結合された集団の共同活動として営まれる。
 労働教育は労働を教育的に組織しようとする試みであるが、その目的は学習者の諸能力・人格の全面的・統一的発達である。今日のさまざまな社会的な問題意識から、労働に内圧する総合的教育力・人間形成力を再評価し、遊びや労働を通して体と頭の調和のとれた発達を促す多様な教育実践が求められている。しかし、明治以来、勤労主義・態度主義・精神主義などが貫かれてきた我が国の教育風土の中で、労働教育の正しい実現は容易なことではない。
社会人としての自立を中心的課題として担う高校段階の労働教育において、労働に内包する総合的自己教育力・人間形成力を発揮させるためには、社会的生産活動に参加することが最適であるが、労働の主体性を完全に剥奪する資本主義のもとではあるべき労働教育の目的がゆがめられる恐れがある。そのため、学校の教育課程の中に労働の教育を組織し、労働の原形というべきものの教授によって、現実の労働の諸矛盾を看破する目を養い、それらを抑止する根源的エネルギーを育む必要が生じてくる。

5.生活の学習

 現在、男女必修の実践として家庭科が実施されている。それは、家庭建設における男女の協力、人間形成における家庭生活の価値、家庭経営と社会経済、消費者としての家族など、社会の生活単位としての家庭や家族ないし個人の立場からの技術と生活をめぐる基礎的な理解と能力の育成をめざすものである。
 これらは単に良き家庭人としての道徳的捉え方ではなく、生活の中のリアルな問題を実践的、体験的に学ぶことが必要であり、そのためには技術教育と同様に実験や体験をプロジェクトを通して学ぶことが中心となるべきである。総合的・社会的な視点で生活を捉え、多くの商品や情報の氾濫の中で、何を主体的に選択し、どのように望ましい生活の質をつくりあげるか、社会の中で主体的に生活を学びとる力を養う必要がある。また、論理的・科学的に実証された生活技術を体得し、みずからの力で実践する能力を身に付けなければならない。
 「この生活の学習の目標は、現代の生活課題に対する自覚とそれを打開する実践的な能力を身に付けること。いいかえれば、人民の利益と生活向上を実現する能力(とくに技術的認識)を啓発し定着させることであり、その1つの柱は、憲法25条にかかわる「生存権」の自覚、健康にして文化的な生活の具体的内容についての科学と技術の基本とし、2つめの柱は、それを実現していくための憲法24条を中心とした生活における「民主主義」の理念の実現である。」(大学家庭科教育研究会編『解説・現代家庭科研究』)

6.技術教育の教育課程の編成

 (1)普通教育としての技術教育
 技術は自然的・物質的側面と社会的・経済的側面を持っている。そのため、教育活動にあっては、他の教科の内容と密接な関連を持つ。しかし、これは、普通教育としての技術教育が、他の教科の教育によって解消されることを意味するものではなく、固有の目的を持っている。
 技術は、その発達の過程で技術の科学を誕生させた。技術学は、自然科学との結合を強め、技術学を基礎とする技術教育では、生産から廃棄までの全過程を見通した技術に関する科学的認識の形成が図られる。また、技術および労働の教育は、頭だけでなく肉体を通して学ぶ教科である。実際に手や体を使って、道具や機械の使用法を知り、それによって初めて技能の合理性が納得できるのである。さらに、技術教育では、技術の社会的性格を正しく掴むことのできる技術観を育むことと、ものを作り出す活動の中で、労働こそが価値をつくりだすという労働観を形成することが重要である。要するに、普通教育としての技術教育の目的は、技術に関する科学的認識、生産に関する技能、技術観・労働観の形成である。技術教育の教育課程は、これらの目的が実現できるよう編成されなければならない。
 (2)教育課程編成の視点
 子どもの発達段階によって、技術教育が取り組むべき主要な課題と形成すべき技術のレベルが異なってくる。
 小学校段階における技術教育は、道具を使う技能の習得を通して技術に対する見方を広げていき、中学校段階では、技術の科学的認識の初歩と、それに関する技能を獲得させることが中心課題になる。
 高校段階では、今日の現実社会における技術および労働に関する関心を高め、技術が社会でどう生かされ、人間の生活にどう関わっているかを学ばせる。労働疎外や環境破壊といった現代社会の矛盾等に関する教育的働きかけも重要になってくる。
 今日、技術は個々バラバラに存在しているのではなく、一定のシステムを構成して存在している。現代社会の技術の根幹は、コンピュータ制御オートメーションであり、電子技術が技術のシステムを広範囲に維持している。高校教育を終えるまでに、オートメーションを軸に編成されている現代の技術の諸側面とシステムの全体像が捉えられる教育課程が必要である。
 技術教育の内容の主なものは、技術に関する科学と作業の基本であるが、それだけが目的ではない。その教育課程は、生徒たちを、技術および労働の世界の本質的部分へと導き、その真の意味を再発見させる可能性を展望して構成されるべきであり、技術教育の最も重要な目的は、あくまで現実世界を我がものとすることである。

7.基礎的総合的職業教育

 私たちの考える総合的基礎的職業教育は、小中高段階での一般技術教育を中核に含み、その上に専門的職業教育が接続される中間段階のものとして構想し、次のような性格をもつものである。
  1. 原始から現代に至る労働・技術と生産様式についての自然科学的・社会科学的認を与えるものである。
  2. 広い範囲のさまざまな職業に対応し得る基本的・一般的で総合的・体系的な職業技術・技能の習得を図るものである。
  3. 必然的に自然科学・社会科学的諸原理の教授を目標とする普通教育と密接な関連をもつものである。
  4. 手と頭とを結び付けて、精神労働と肉体労働との分裂を克服して労働できる人格の形成をめざすものである。

8.基礎的総合的職業教育と生活の学習の内容

高校段階では、小・中学校の一般技術教育を前提として、生産技術を中心とした体系化された技術の基礎を共通課程とし、その上に選択必修として職業技術の基本を習得できる科目をおく。(共通履修の内容は、技術教育研究会『小・中・高校を一貫した技術教育のための教育課程試案』を参考とした。)
  1. 共通必修の内容
    1. 技術概論
      産業と技術、技術と自然科学
    2. 材料の製造と加工
      工業材料、機械要素の設計・製図
    3. エネルギー
      仕事とエネルギー、熱力学と流体、電気回路、エネルギーの変換
    4. 計測・制御と情報
      計測の基礎、情報、制御の基礎、生産の自動化
    5. 環境
      物質とエネルギーの循環、食料生産と環境、公害、環境破壊
    6. 労働と職業
      技術と労働の歴史、労働と職業
    7. 家族・家庭
      家族形態、家族生活と法律、家族生活と職業、家事労働の意義と問題点
  2. 選択の内容
    機械工学の基礎、電気工学の基礎、化学工学の基礎、農業の基礎、商業経済、簿記会計、情報処理、家庭生活と衣食住、家庭生活と経済、生命の育成、家庭生活と福祉

 【参考文献】・毛利亮太郎『技術教育学概論』風間書房、・第3期高総検報告『神奈川の高校改革をめざして』、・技術教育研究会『技術教育研究(別冊1)』、・細谷俊夫『技術教育概論』東京大学出版会、・原正敏『現代の技術・職業教育』大月書店、・高総検報告『学習疎外を超えて』

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解説16.総合学習「家庭・家族」

 総合学習「家庭・家族」については、高総検報告『学習疎外を超えて』p.66〜68、タテのカリキュラムのワーク・アンド・ライフ系「家庭」の項を参照。

 家庭科は、現実の種々雑多な生活事象を対象とするという教科の特徴から、基本的性格が、すでに総合学習的であると言えよう。したがって、タテのカリキュラムのワーク・アンド・ライフ系の「家庭(または、生活の科学と技術)」を中軸に据えて、他の系でも「家庭」に関わる項目の学習を行うやり方、すなわち、上記ヨコのカリキュラムの編成法の項で提案した「分割再構成方式(第二方式)」を組み合わせるやり方が、最適の学習方法ではないかと考える。
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解説17. 総合学習「コンピュータと情報化社会」

 総合学習「コンピューターと情報社会」については、高総検報告『学習疎外を超えて』p.68〜70も参照されたい。


総合解説 コンピュータと情報化社会

1.情報化社会の中で

 今日の子ども達は、多くの時間をテレビに接している。テレビによる情報伝達はほとんど一方通行であり、視聴者には、チャンネルを変える程度の選択の余地しかない。各種のメディアを通して洪水のように押し寄せてくる情報の中で、受け手の側は、基礎的な知識をもち、主体的な選択をし、自らを律する力を養うことが、これまで以上に重要になっている。
 ファミコンもまた、情報化時代の産物であり、遊びが個別化され、子ども達の出会いや連帯の契機と可能性が断ち切られている。子ども達の長電話も情報化時代の現象である。携帯電話やポケベルが流行し、いつも誰かと軽くつながっていたいという欲求は、電話回線を通して実現している。
 子ども達の情報伝達機器は、以上のものに止まらず、多くの子どもが自分専用のパソコンをもち、巨大ネットワークを通して、情報のやりとりをしている。その結果、子ども達は、幼児期から、テレビやビデオ、ファミコンなどによる膨大な疑似体験を重ねながら育つことになる。それは、自然や人や物事と直接かかわる実体験の欠如と裏腹の関係にある。昨今、社会的弱者に対する偏見や人権感覚の喪失をうかがわせる様々な事件が子ども達によって頻りに引き起こされているが、そのような生育環境と無関係ではあるまい。
 これらの問題を深く分析し対策をたてることは、重要な今日的課題の一つである。
 近年の「情報化」の最も重要な特徴は、急速に進歩したコンピュータを活用することにより、複雑で大量の情報の処理・伝達・蓄積・検索などが高速化されたことである。コンピュータ同士の回線による結合や、乗車券の予約、銀行の自動預入・引出などのように、ホストコンピュータに多数の端末機を結びネットワーク化したシステムづくりなどが急速に発展している。また、コンピュータを測定機器や制御機器と結びつけた生産工程の自動化も飛躍的に進歩している。近年では、数値制御(NC)工作機械も増加し、さらに進んで、設計から生産工程、検査、搬送の行程の全体の自動化(FA)化も実現している。実際コンピュータは、通信、財貨の流通過程、金融、消費生活のさまざまな領域、科学・技術研究、事務、医療など、社会生活のあらゆる分野に利用され普及している。

2.活発化する学校へのコンピュータ導入

 政府や産業界は、他の先進国にくらべて、わが国の教育界へのコンピュータの導入が遅れているとし、それを受けて、1985年、文部省は「学校教育設備整備費等補助金(教育方法開発特別設備)交付要綱」を決定し、補助金を出す政策を始めた。コンピューター関連産業が、学校など教育界への導入を急いでいたのは、コンピュータ市場の発展を教育界に求めていたからである。
 将来の大市場の獲得を巡って、その年から、コンピュータ業界のフィーバーが全国各地でくりひろげられた。文部省の補助金を利用して導入されたパソコンは、「潜在的な需要を含めた学校市場の魅力を考えた」各メーカーによって、平均5割以上の値引きが行われた。千葉県のある市では、「市の大規模な導入計画を考えるとなんとしても落札したかった」メーカーにより89%引きという大サービスも行われた。また、「全国教育研究所連盟」がこの年発表した「教育におけるコンピュータ利用の開発計画」には、大手メーカーが数百台規模のコンピュータを2年間無償で提供することを申し出た。
 学校におけるコンピュータの活用の文部省の基本方針は、同年の「社教審教育放送分科会報告」と「情報化社会に対応した初等中等教育の在り方に関する調査研究協力者会議の審議のまとめ」の二つによって知ることができる。
 協力者会議の報告は、学校教育におけるコンピュータ利用について、次の3形態を挙げている。
  1. コンピュータ等を利用した学習指導(CAI)
  2. コンピュータ等に関する教育(コンピュータ・リテラシー)
  3. 教師の指導計画作成および学校経営援助のための利用(CMI)
 これらをどう進展させていくかが、このあとの文部省の「情報化対応政策」の中心課題となっていった。
 コンピュータ業界は、情報化社会の到来に対応するためには、子どものうちからコンピュータを道具として使いこなせることが必要とし、学校教育の中でもコンピュータが利用されるべきで、また、教育の多様化のための効果的手段としても期待されていると盛んに宣伝した。家庭でも学校でもパソコンの導入率は急テンポで上昇し始めた。
 学校にコンピュータが導入されたからといって、それらがすべて有効に使われているわけではない。マスコミが一部の学校で実験的に活用している事例を紹介しりことはあるが、全体としては、コンピュータを学校で有効に活用するするには、解決すべき課題があまりにも多いのである。

3.中央教育審議会の動き

 中教審・第2小委員会では、「社会の変化に対応する教育の在り方」をテーマに、「国際化と教育」「情報化と教育」「科学技術の進展と教育」「地球環境問題と教育」等について検討している。
 「情報化と教育」の分野の検討項目は、
  1. 情報化と教育
  2. 具体的な対応
    (1)情報教育の体系的な実施 (2)情報ネットワークと学校教育の質的改善 (3)高度情報通信社会に対応する学校の条件整備の推進 (4)情報化の影の部分への対応
となっている。
 文部省・通産省を中心とする教育分野へのコンピュータ導入の動きの中で、全く欠落している問題点がある。
 一般的に、コンピュータが導入された場合に起きる問題は次の3つといわれている。
  1. 合理化の問題(人員削減や管理強化・仕事内容の変化等)
  2. VDT操作による労働安全衛生や健康問題
  3. プライバシー保護の問題
 学校へのコンピュータ導入に関しては、この3点の問題は、なおざりにされている。コンピュータ化にあたっては、CAI、CMI、コンピュータ・リテラシーや教育情報システムなどについて論議するのと同時に、コンピュータ導入に伴う3つの問題についても十分な論議を行うべきである。さらなる管理強化や教員の人員の削減、教育内容の変質、あるいはVDT操作による生徒や教員の健康障害、生徒のプライバシーの侵害などの問題は、起こってしまってからでは取り返しがつかない。
 「臨教審第2次答申」でも、「情報化」について「光」と「影」の両面があるという表現はあったが、「影」の部分の具体的な対応は全く取り上げてはいなかった。今回、その気運が少し出てきたとはいえ、まだ不十分である。

4.情報化における身近な問題

 (1)学校における情報管理
 教職員の給与、人事管理に関する諸事項等のデータをどこまでコンピュータで管理し、活用するかといった問題は、教職員組合と当局で充分論語しなければならない。また、学業成績、健康に関するデータ、生活指導上の記録、家庭環境のデータ等の生徒の個人情報の管理に、コンピュータを利用することが益々多くなっている。コンピュータに入力した情報は、誰でも取り出すことができ、コピーすることも改ざんも容易である。生徒の個人情報の処理に、コンピュータを活用するようになると、従来の文書管理とは違った管理規定を設定する必要がでてくる。コンピュータをネットワーク化し、どの端末機からもデータを呼び出すことができるようにする場合は、一層の対策が必要となる。すみやかに学校としての情報の操作と活用に関する基準を設定し、関係者すべてがそれを遵守することが求められている。

 (2)VDT労働の安全衛生の問題
 情報化の進展、コンピュータの普及は、広範な分野にVDT労働という新たなタイプの労働を現出させてきた。手もとの書類とディスプレイの表示に絶えず視覚と神経を使いながら、長時間にわたってほぼ同じ姿勢でキーをたたく作業を繰り返すことによって、視力の低下などの視覚障害、神経性の疲労の蓄積、頚肩腕症候群などの種々の障害が発生している。しかしながら、この種の労働の歴史が浅く、経験と研究の蓄積が少ないため、安全衛生面での法的規制の整備が遅れている。

 (3)知る権利を補償する情報公開制度
 情報化時代の特色のひとつは、膨大な情報がつくられ蓄積されることでる。国民生活に直接に関係する情報を、最も多数収集し蓄積している国・地方自治体などの公的機関にたいして、国民はその情報を知る権利を持ち、公的機関にはそれを公開する義務がある。

 (4)個人情報にかかわるプライヴァシ保護
 現在ではすでに国・自治体の各種の機関に本人の意思とは無関係に収集された個人情報が膨大なものとなっており、私企業も、利益につながる基礎資料として収集につとめている。自治体などで個人情報保護条例を制定する例が増えているが、国が88年に制定した「個人情報保護法」は、OECD理事会の勧告をクリアしてはいない。

 (5)情報化時代の著作権問題
 コンピュータ・メーカーは近年ハードを売るだけでなく、ソフトウエアの販売も重視するようになった。コンピュータのソフトウエアは独創的発想を基礎とした膨大な時間と労力を投入して作成される著作物であり、著作権を守ることにも多大なエネルギーを費やしている。
 行政は、学校にコンピュータを入れることには熱心であるが、ソフトウエアの予算は殆ど付けない。そのため、教師が自分でプログラムをつくることになるわけだが、その著作権が問題になる。個人がソフトを作成する場合も、独創が必要であり、膨大な時間と労力を要することに変わりはない。しかし、教育行政のソフトウエア著作権尊重の認識は極めて貧弱である。

 (6)コンピュータ関連産業の労働問題
 産業界は、コンピュータを導入することによって、利便性と操業効率をあげることができるが、同時に「合理化」も推進する。一方、ソフトウエア製作、情報処理サービス等の新たな産業を起こし、プロジェクト請負、業務請負などを行わせる。実際、業務全体の外注やる請負や派遣労働者の活用が進んでおり、そこでは、コンピュータに関わる緊張度の高い長時間労働が一般化している。最先端産業ともてはやされ、一見華やかなコンピュータ業界の中で、私たちの学校の卒業生も過酷な労働に晒されているのである。

5.学校教育とコンピュータ

 生徒の学習活動や教職員の校務活動の中で、コンピュータはどんな使い方があるだろうか。
 比較的早くから導入された高校職業科では、商業事務、数値計算、機械の制御、実験装置と結びつけた計測とデータ処理の自動化、さらに成績処理などコンピュータをひとつの道具として使ってきた。教師が教材プリントを作成したり、テストの採点結果を集計したり、あるいは時間割を作成したり等、教師の教育活動を助ける道具として利用するのがCMIである。
 生徒自身がコンピュータを使う授業方式は、職業科では70年代から実践されてきた。コンピュータの仕組み、組み込み型コンピュータと機械語、プログラミング等を教え、生徒がコンピュータの仕組みとその使いかたを身につけるのである。工業高校では、長く実践されているが、コンピュータに没頭して夢中になる生徒もいる反面、ついていけない生徒も多い。
 コンピュータを教科指導の道具として学習をすすめる方式がCAIである。教師が、教材と質問および生徒の回答を予測した処理手続きをあらかじめ用意しておき、生徒は、手元のディスプレイの画面で教師の設問を受け、キーボードで教師に答えるという、対話型の学習を進める方式がその典型であり、小学校などで始められている。
 現在、個別学習のCAIソフトウエアが市販されているが、良いものは非常に少ない。ワープロソフト、表計算ソフトなど(アプリケーションソフト)のように汎用性があり、大量な販路が開けている分野については、安価で良質のものが多いが、需要者が限られ、予算規模が極端に低い中で良いソフトを期待するのが無理なのである。授業の目的や内容を知り、授業の流れを予測できる教師が作れば、良質のソフトができるはずであるが、これには、前述のように、膨大な時間と労力を必要とする。
 CAIの導入によって、コンピュータが教師の代わりををして学習が進められるとか、個別学習が可能となり、多様な授業展開ができるとかいわれるが、現在のCAIソフトでは授業活動のほんの一部をコンピュータが代行するだけで、授業そのものが置き換わるわけではない。授業を展開するのはあくまでも人間教師である。

6.コンピュータの導入と管理

 事務用機器としてだけではなく、教育機器として数十台の規模で学校にコンピュータが導入されてくるが、たいていの場合、教職員側の要求に基づいてではなく、行政側主導で実施されている。行政のやり方は画一的であることが基本になっているので、一旦導入するとなると、各校の希望の有無に関係なく、一斉に入れてくる。機種や台数、納入時期、ソフトの種類、運用コストなど、各校の必要性や希望が反映することはほとんどない。
 コンピュータ導入に関して留意すべきことは、さしあたって各校に「コンピュータ委員会」をつくること。そして、委員会は次のような仕事を受け持つようにする。
  1. 導入するコンピュータの機種、台数、導入時期などの検討と決定(周辺機器、ソフトウエアについても検討する)
  2. コンピュータの教育的位置づけ
  3. コンピュータに関する予算配分(特にソフトウエアの予算の要求)
  4. コンピュータに入力する情報の管理
  5. コンピュータの管理方法の策定
  6. 教職員の研修計画の立案
  7. VDT労働への安全衛生対策
7.情報化社会と情報権と教育

「情報化社会」とは、コンピュータとニューメディアなどコミュニケーション技術の高度な発達がもたらした新しい社会システムの包括的な総称であり、コンピュータを重要な要素としているが、コンピュータの問題のみに矮小化することなく、それを含めた社会システムとそれがもたらす諸様相の問題として把握する必要がある。
 情報化社会を主体的に生きるためには、情報に対する自由で公正なアクセスと情報発信の自由が国民の権利として保障されなければならない。今や、学習権とともに「情報権」の確立が求められているのである。今までも、知る権利、プライバシーの保護、情報公開等の問題が論議され制度化されてきたが、必ずしも統一的な法・規定とはなっていないし、国・自治体の規定はまちまちである。また、それらの制度は、主に国・自治体など行政と市民との間の権利・義務関係を規定しているだけであり、現代の情報化社会が生み出す諸課題の全ての領域をカバーしているわけではない。
情報化社会における学校の基本的目的は、「構想し(imagine)、創造する(create)権利」「自分自身の世界を読みとり、歴史を書く権利」を中核とした新たな学習の権利(ユネスコ)の保障である。それは、情報化社会を生きるに必要な諸能力(急速に変化し、膨張する情報環境のなかで主体性を確立し、社会を形成する諸能力)を獲得するための教育と学習の機会を提供することである。

8.情報化リテラシーとコンピュータ・リテラシィ

 情報化リテラシィとは、情報化社会の進展で要求される情報活用能力である。情報化リテラシーの教育は、「情報化社会の意味の理解」が基本であり、情報についての基本認識、「情報権」に対応する教育である。次のような事項を内容とする。
  (1)情報の公共性 (2)プライバシーの保護 (3)情報の公開 (4)情報公害や情報犯罪、など、情報に関わる基本と、(5)人権教育、等
 コンピュータ・リテラシィの教育の目的は、コンピュータの利用に関わる知識と技術を身につけることである。そこには、何故コンピュータを使うのかという根本的な問も含まれているが、現状ではコンピュータの操作の熟練を中心とした教育が先行しており、この部分のみを突出させることは、一面的な人格の形成につながる危険性がある。また、「商業科における情報処理教育の普及は、教師の担当科目の固定化の傾向を強めた。・・・こうしたコンピュータ担当者グループの固定化は、従来ささやかながら保ち得た諸科目の有機的関連を壊し、ひとりコンピュータ操作技能教育の独走を許してしまった。」(全国商業教育研究協議会編『コンピュータと教育」』との指摘もある。

9.総合的情報教育

 「情報教育」は、総合学習的扱いとし、コンピュータ化された工場や機械・ロボット等の見学、公共団体の情報管理の状況調査、コンピュータにより「合理化」された労働者の実態調査等を含む、新しい学習形態として展開されるべきである。

10. 総合学習「コンピュータと情報社会」の内容
  1. 情報化社会について
  2. 高度情報化社会と情報化施策
  3. コンピュータ・リテラシーの修得
    1. コンピュータを操作する基礎的知識・技能
    2. コンピュータプログラミングについての基礎
    3. コンピュータによる通信・検索を含めた情報処理
  4. コンピュータが人間の心理・行動や社会に与える影響について
  5. 「情報化」と職業・労働(FA化・OA化による職業・労働の変容と問題点、その改革の展望)
  6. 「情報化」と言論・表現・出版の自由、知る権利、プライバシー問題等(情報権、情報アクセス権、情報公開、個人情報保護等)
  7. 「情報化」の進展とあるべき社会像の探求

 【参考文献】・日教組・教育課程検討委員会編『コンピュータは教育をかえるか』、・教育コンピュータ研究会『コンピュータの中の子供たち』、・エイデル研究所『情報化社会と教育のアイデンティティ』、・全国商業教育研究協議会編『コンピュータと高校教育』、・文部省職業教育課編『産業教育』1965年10月号、・神奈川県高等学校教職員組合・高総検討報告『学習疎外を超えて』

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解説18.日の丸・君が代

1.あるエピソード

 冬季オリンピック長野大会のフリー・スタイル・スキー女子モーグルで金メダリストとなった里谷多英選手(北海道教育大)が、表彰式の「国旗掲揚」の際に、帽子を脱らなかったため、JOCから注意を受けるという「事件」があった。「事件」は、まず、文部省競技スポーツ課がJOC選手本部に連絡・注意し、つぎに本部がフリー・スタイルの監督に注意し、監督が「大変申し訳ない。里谷は礼儀を欠いていた。本人に充分注意したい」と謝罪した、という経過をたどったという。その際、文相が「里谷選手が『君が代』を口ずさんでいた気配がなっかたのは残念」というコメントを加えたとも伝えられている。ここにも、「日の丸・君が代」問題の本質が象徴的に現れている。
 いまは政治の力で歪められているが、オリンピックはそもそも個人参加が建前である。表彰式で讃えられるべきは選手個人の成績であって、けっして国家などという形式(抽象物)ではない。文部省は、「国旗に敬意を表するのは国際的常識」と言ったそうだが、この場合、尊敬を払うとしたら、その対象は表彰される者であり、払うのは観客である。表彰される者がなぜ国旗に敬意を表さねばならないのか。(しかも、帽子を取る取らないは「敬意」とは無関係である。)ここには、国家は国民の上に位するものであって、国民個人の存在・能力・働きは国家に由来し国家に帰属する、という思想が根底にある。そして、国家の象徴は、日の丸・君が代であり、天皇である。オリンピックのメダリストであれ、国家を戴く国民の一員として、日の丸に脱帽し君が代を歌わねばならない、とうわけである。文部省・JOCと彼らと考えを同じくする人々にとっては、メダルを獲得し威力を発揚したのは、まさしく国旗=日本国そのものであった。

2.日の丸・君が代小史

 「日の丸」の由来。「『日の丸』は、(始めは、扇の紋様や、江戸幕府が日本船と外国船とを区別するための船印などに用いられていたが)、1870年、太政官布告により定められた商戦国旗、陸軍国旗、海軍国旗の3つの『国旗』のうち、商船国旗が政府の推奨により一般に広がった。」
 「君が代」の由来。「『君が代』は、1880年代、海軍の要請に応え宮内省雅楽課によって作曲され、同年11月日(天長節)、宮中で初演された歌。しかし、1882年刊行の音楽取調掛編『小学唱歌集』初編には、別の『君が代』が掲載され、また同年、文部省は同掛に国歌選定を命じているので、政府も宮内省作曲の『君が代』を国歌として認めていなかったことは明らかである。」
 「日の丸を『国旗』、君が代を『国歌』として普及する役割を負わされたのは、主として学校であり、時期は1890年の教育勅語発布と翌年の小学校祝日大祭日儀式規定公布以後である。君が代は、国定修身教科書で、天皇陛下のお治めになる御代がいつまでもつづくように祈る歌であるとされ、日の丸は、同じく国定教科書の教師用書で、「天来神授」の旗であると教えるように指示された。日の丸は、また、侵略戦争の先頭で打ち振られた旗であった。
 日の丸・君が代は、「第2次世界大戦後、日本国憲法のもとで、廃棄し、国旗・国歌が必要であれば、ドイツ・イタリアのように改めるべきであった。しかし、日本人にそれを実現する意識と力量が欠けていた。朝鮮戦争の開始、警察予備隊の発足などを背景に、1950年10月、文部省は、学校の祝日行事に日の丸掲揚・君が代斉唱を薦める天野文相の談話を通達したが、当時はそれにただちに応じる学校は少なかった。(サ講和条約・日米安保条約の締結、再軍備へと日本の進路が逆コースへと向かうなか、53年の池田=ロバートソン会談での米国政府への約定に基づいて、政府は、『自分の国は自分で守る』という気概を青少年の中に育成するとし)、58年、小・中学校の学習指導要領改訂にあたり、掲揚・斉唱が『望ましい』とした。この後、卒業式・入学式・運動会などの学校行事で、日の丸・君が代をどう扱うべきかが、各学校で繰り返し問題とされてきた。文部省は、85年、都道府県別、小中高校別の入学式・卒業式における日の丸掲揚・君が代斉唱の実態を発表した。都道府県別の違いは大きく、文部省は指導の徹底を求める通達を出した。実施率の最も低かったのは京都・沖縄であ・・・沖縄では懲戒処分まで出された。87年12月、教育課程審議会は、掲揚・斉唱を明確化すべきことを答申、88年学習指導要領改訂案で、58年以来の掲揚・斉唱が『望ましい』が、『すること』に改められることになった。国民の間で意見が分かれていること、しかも思想・良心の自由にかかわることを、学習指導要領によって強制するという方針に、疑問・批判がだされ」[注35] たが、政府・文部省は批判に耳を傾けず、各教育委員会を締めつけ、その後も、日の丸掲揚・君が代斉唱を各学校に力ずくで押しつけさせている。

3.日の丸・君が代学習の視点

 (1)行政権力がなぜ学校での日の丸の掲揚・君が代の斉唱を強制するのか。それを考えることは、天皇=大日本帝国の旗:日の丸を押し立ててアジア・太平洋諸国を軍事侵略し(いまも経済的侵略をしている)日本の近代・現代の歴史をどのように観るかということとパラレルである。

 (2)君が代は、紛れもなく、天皇の讃歌である。中教審答申・別記「期待される人間像」は、「天皇を敬愛することは、その実体たる日本国を敬愛することに通ずる」と言い、日本民族の伝統をよく理解し身につけた者こそ真によき日本人であり、そうあって初めて「真の世界人」になることができる、と説いた。天皇=国家を崇め奉る歌を公教育機関で斉唱することと、天皇制ファシズムの敗北と反省の上に成立したはずの新憲法、とくに国民主権・基本的人権・民主主義との関係はどうなるのか。神話の崩壊した後にフィクションとして存続している天皇(家)。象徴天皇制とは何か。

 (3)政府・文部省は、右翼勢力・思想を背景に、民衆支配・統治政策の最も効果的な伝統的シンボルとして、また自衛隊員の国防精神の鼓舞と自衛隊の存在への国民の認知・支持の動機づけのエフェクト(効果)として、天皇=日の丸・君が代=敬愛すべき日本国を掲げる。一方、財界は、それに同調しながら、資本家(使用者)と労働者(勤労者)との矛盾を解消し、日本資本の先兵として海外に乗りだす社員のアイデンティティ(帰属意識)を固定するために、天皇=日の丸・君が代=日本国を、リクツ抜きの絶対的求心力(ブラックホール)として求める。学校教育における日の丸掲揚・君が代斉唱は、その深層心理の基礎を固めるためのマインド・コントロールの手段にほかならない。

 (4)大日本帝国憲法の破棄・昭和天皇の「人間宣言」とともに、日本人が、日の丸・君が代を廃止できなかったことは、天皇を始めとする「戦前的なもの」との決別ができなかったことの象徴であった。新憲法は、すでに制定のときから空洞化が始まっていたとも言える。アメリカの思惑もからんで、敗戦後ほとんど間を置かず、旧勢力が復活・復権し、再び日本の支配層を成して現在に至っている。戦後日本は、アメリカに隷属しつつ経済的「繁栄」を謳歌したが、その裏には常に「うさんくささ」がつきまとっていた。世論調査では、日の丸を国旗・君が代を国歌と認める率の平均がその度に高くなっており、違和感や拒否反応は年年薄れてゆくようだ。飽食のうちに、敗戦・日本再生の原点を風化させてゆく。「自由主義史観」などを傀儡にして、憲法「改正」(天皇元首化・9条破棄など)への反動が画策されている。アジア諸国民の日本に対する根強い不信は、そのような、戦前と戦後をズルズルとなしくずしにつなげて、過去のことには口をぬぐい、舌先で平和や未来を語るような日本人達の姿を凝視してきたことから生まれるのだろう。そして、無能な政府と献金ワイロ汚染の与党・政権への近道を探って無原則無節操な離合集散を繰り返す政治家たち・政官財(業)ヤ(右翼暴力団)の癒着と底無しの腐敗・巨額な国家財政赤字・出口なき構造的不況から、オウム事件、さらに「援助交際」・家庭内暴力・青少年凶悪犯罪の多発・イジメや不登校・小中学生の「新しい荒れ」の蔓延まで、世紀末ニッポンの混迷の深まりもまた、上述のように、憲法よりも日米安保条約を上位に置き国の独立と国民主権を確立できないまま、一億総馬車馬となってモラルなき金儲けのみに突っ走ってきた日本の戦後50年のツケが回ってきた結果と言えまいか。

[注35]山住正己「日の丸・君が代問題」『現代教育学辞典』労働旬報社、( )内は補足

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