高総検レポート別冊
『新学習指導要領』分析
教課審答申の問題点をさぐる
=学習指導要領改訂を批判的に検討するまえに=
神奈川県高等学校教職員組合
高校教育問題総合検討委員会
1999.7
- はじめに
- 教育に規制緩和はないのか?
- 完全学校五日制でなぜ週あたり2時間減なのか?
- 卒業に必要な総単位数はなぜ74単位になったのか?
- どうする教育内容の厳選?
- 「総合的な学習の時間」とは何か?なぜ総合学科に限りなくすり寄るのか?
- 「新学力観」と「生きる力」
- 「心の教育」、道徳教育のさらなる強化
- 「日の丸・君が代」のさらなる強制
- 各教科・科目の問題点
- おわりに
1. はじめに
1998年6月22日に教育課程審議会の「幼稚園、小学校、中学校、高等学校、盲学校、聾学校及び 養護学校の教育課程の基準の改善について(審議のまとめ)」(以下、「教課審まとめ」と略称)が公表された。ついで、7月29日、これが教課審答申となった。さらにこれをうけて、99年3月29日高等学校学習指導要領が告示された。この改訂の意味や問題点を検討するに先立って教課審答申を検討し、あらかじめ主要な問題点を列挙しておきたい。答申については、さまざまな意見が述べられていたが、たとえば、「この答申に基づいて、4年後の2002年度より、知識を一方的に教え込む教育からの脱却を目指す新しい教育課程に移行する。同時に、完全学校5日制もスタートする。21世紀の初頭は、120年を超える日本の学校教育の歴史の中でも極めて重要なターニングポイントになるかもしれない。」(毎日新聞7月30日)という評価もあるが、はたしてどうだろうか?
<新教育課程の改訂・実施スケジュール>
2000年 移行措置の実施
2002年 完全学校五日制実施
2003年 新高等学校学習指導要領、学年進行で実施
2.教育に"規制緩和"はないのか?
「教課審まとめ」は高等学校教育について、「…能力・適性、興味・関心、進路希望等の多様な生徒に対応するためには、更に各学校が教育課程上の特色を発揮し、その編成・実施上の工夫を柔軟に行えるようにする必要があり、国として定める教育課程の基準は可能な限り抑制的に示すにとどめることが適切である。」と言っており、「規制緩和」が教育にも及んだかのように思われる。しかし、従来通りの手続きを通しての新学習指導要領の策定過程の流れが変わったわけでもなく、文部省のいう学習指導要領の法的拘束力が弱まったわけでもない。この点をまず念頭に入れておきたい。
「教課審まとめ」は冒頭に言う。「まず、学校は子どもたちにとって伸び伸びと過ごせる楽しい場でなければならない。子どもたちが自分の興味・関心のあることにじっくり取り組めるゆとりがなければならない。また、分かりやすい授業が展開され、分からないことが自然に分からないと言え、学習につまずいたり、試行錯誤したりすることが当然のこととして受け入れられる学校でなければならない。さらに、そのためには、その基盤として、子どもたちの好ましい人間関係や子どもたちと教師との信頼関係が確立し、学級の雰囲気も温かく、子どもたちが安心して、自分の力を発揮できるような場でなければならない。このような教育環境の中で、教科の授業だけでなく、学校でのすべての生活を通して、子どもたちが友達や教師と共に学び合い活動する中で、自分がかけがえのない一人の人間として大切にされ、頼りにされていることを実感でき、存在感と自己実現の喜びを味わうことができることが大切であると考える。」と述べている。しかし、これまで行政は、「このような教育環境」を整える努力を怠ってきており、今日の新自由主義的な教育政策と景気の悪化、財政の悪化は教育予算をますます削減させる方向で動いている。中教審第一次答申は教員配置の改善について、「当面、教員一人当たりの児童生徒数を欧米並みの水準に近づけることを目指して改善を行うことを提言したい。」としているにもかかわらず、教課審「審議のまとめ」は、この点に触れない。まずもって、現在の教育問題を解決するためには何よりも学級定員減の実現が必要である。このことから、さまざまな「教育改革」が容易になるのである。だが、欧米ではすでに実現ずみの学級定数に未だ到達できず、多少動きが見えるものの、今後も学級定員減の見通しは暗い。「まとめ」は上記のようなリップサービスはするが、学級定員減の提言をしていない。教育条件については触れないのが従来通りなのだろうが、後述するように積極的に導入しようとしている「情報」の必修化については、対照的に教育用コンピューターの整備やインターネットへの接続が年度を限って行われることが示されている。
3.完全学校五日制でなぜ週あたり2単位減なのか?
2002年度から完全学校五日制に移行することになった。これにともなって「現行の授業日となっている土曜日分の授業時数である年間70単位時間(週当たりに換算して2単位時間)程度を削減することが適当である。」と「まとめ」は言っている。これは何を意味するのだろうか。通常、高校現場で考えれば、土曜日分は3単位時間であるから、2時間は唐突である。「まとめ」の認識は、月2回の学校週五日制が「おおむね順調に実施され」、学校行事等の精選、短縮授業などにより、児童生徒の負担も従前と比べ特に変化がないので、その分はそのままにして、残り削減される土曜日分を年間70単位時間(2×35)、週当たり2時間とした。しかし、この基本は学年制をとる小中学校の場合で、年間総授業時数1050(30時間/週×35週)から70時間を引いて980時間としたもので、これが土曜日分のおよそ半分にあたる。つまり半分は値切られてしまったのである。はたしてこれで前述した「子どもたちが自分の興味・関心のあることにじっくり取り組めるゆとり」やら「伸び伸びと過ごせる楽しい場」が保障されるとは思われない。
特に年間総授業時数のしばりの強い小中学校の現場では修学旅行や体育祭等の学校行事が削減されたりしてゆとりがなくなり、学校の日常的な運営が過密となり、ひとつひとつの行事などが余裕をもって実施できなくなり、内実の薄い日程消化的な状態に陥っていることが報告されているにもかかわらず、「まとめ」の認識は甘い。
また、高校は単位制に一応なっているので、すでに多くの現場では週あたりの授業時数を30単位に減じている場合が多いとおもわれる。したがって各科目の標準単位数を弾力的に取り扱うことが可能ならば、完全学校五日制はこの点ではむずかしい問題ではない。
4.卒業に必要な総単位数はなぜ74単位になったのか?
他方、卒業に必要な総単位数は80から74単位となった。週当たり30単位時間だから、ロングホームルーム3時間をのぞいても最大87時間(総合学習の時間を含む。)が可能となる。現行の最低単位数80でさえ、指導上の理由でこれ以上の単位を加算しているところが多いと思われるが、今度は74単位となるのである。一方で授業時数の削減に消極的な教課審が、ここでは気前よく、学年あたり2時間ずつ減らすことを認めている。今日増え続ける中途退学者対策として、もっと簡単に卒業させろ、ということだろうが、学力保障の点から問題があろうし、自由選択科目が拡大して「空き時間」が生じるが、それに対する指導上の問題を解消する教育条件が十分でないということを考慮しなければならない。また、この背後には多様化をいっそう進めるための条件作りという意味もあるようだ。
5.どうする教育内容の厳選?
(1)基本的には地域社会や家庭が果たしていた役割を学校が囲い込むことをやめて、「ゆとり」のある教育課程編成を行うべきことがうたわれている。学校においては学ぶことの動機付けや知識・技能や学び方を習得することに限定し、家庭や地域社会が自然体験や社会体験を通じて子どもたちに知識や技術を体験として認識させ、有機的に関連付けさせ、「生きて働く力」を培うと言う。そのうえ、生涯学習の見地から学校教育を「生涯学習の基礎となる力を育成すること」に限定して教育内容の厳選をはかると言っている。しかし、家庭や地域社会が教育力を回復するための具体的な手だては示されず、公共的、共同体的援助なしに、教育と子育て機能を地域や家庭に移すことは、教育文化の商業的、市場ネットワークにすくいとられるということになるのではないか。
行政に体験的な活動のための施策の充実を求め、「各職場における理解と協力」を望んでいるだけだ。たとえば、社会全体が労働時間の短縮を目指さない限り、家庭や社会の教育力は回復しないだろうに、このようなことすら、一言も触れられていない。そして「教師も、地域社会の一員として地域の活動にボランティアとして参加したり、地域社会の幼児児童生徒との触れ合い」を期待されて終わっている。
(2)教育内容の厳選は、「基礎・基本の確実な習得」を図り、繰り返し学習させて、確実な習得をすることを求めている。そのために「教える内容を3割減らし、授業時間の8割で消化できる『ゆとりある教育』を実現し、基礎・基本が身に着くようにする。」(98 .7.30.毎日新聞)ということである。では何を減らせばいいのか。「まとめ」は、(1)子どもたちにとって理解が困難であったり高度になりがちな内容、(2)単なる知識の伝達や暗記に陥りがちな内容、(3)学年間、学校間で重複する内容を削除したり、上学年に移行したり、扱いを軽減したりしろ、ということである。しかし、「まとめ」による教育内容の厳選は、あまり説得的でない。どういうカリキュラムが現在の子どもたちに必要であるか、彼らに何が欠けているか、教科の構造や、育成すべき能力の構造などについての論議はほとんどなされずに終わっている。ただ、機械的にけずれということしかここでは述べられていない。
(3)知識詰め込み型授業から子どもたちの主体的に参加する授業への転換が述べられているが、前述の教育条件の下で効果を上げるのは非常に困難である。
(4)学校がさらに上級学校への受験を無視することができない状況の中では、どうしても教育内容は網羅的になって、結局、知識詰め込み型教育に陥る。
以上、「審議のまとめ」は有効な教育内容の厳選方法を示すことができていない。教育内容の精選は、まず共通基礎をどのように構成すべきかを検討することからはじめる必要がある。それは教育内容の核(コア)を明らかにすることである。つまり、学習内容の構造的な把握をし直し、枝葉末節を明らかにし、同時に教科・科目の領域を再編成して、「少なく、深く学んで行くという原理」への転換を図ることである。すでに現行学習指導要領で共通必修は戦後最低の17単位になっている。また本来、共通教養の基礎をつくる義務教育段階(ことに中学校)において、安易な五日制対策として選択教科の幅が拡大していることに注目する必要がある。子どもたちが共通にもつべき教養についての分析が必要である。その上で、ひとりひとりの生徒が主体的に学び、考え、体験し、認識するような参加型の授業が求められる。
また社会一般に何でもやさしくかみ砕いて教えてもらうタイプの学習が蔓延しており、自分で思考し、発見することができない。こういう風潮を打破しなければ、延々と教えていかなければならないことになってしまう。
6.「総合的な学習の時間」とは何か? 総合学科へ限りなくすり寄るのか?
小・中・高校等それぞれ「総合的な学習の時間」が創設され、「地域や学校の実態に応じ、各学校が創意工夫を十分発揮して展開するものであり、具体的な学習活動としては、例えば、国際理解、情報、環境、福祉・健康などの横断的・総合的な課題、児童生徒の興味・関心に基づく課題、地域や学校の特色に応じた課題などについて、適宜学習課題や活動を設定して展開するようにすることが考えられる。」ということになった。「中間まとめ」に入っていた「外国語学習」が削られ、小学校段階で行われる外国語会話等に一定の歯止めをかけた。また、あらたに児童生徒の興味・関心に基づく課題などがつけくわえられて、学校の裁量は拡大されたように見える。
高校では3年間で105単位時間(3単位)ないし210単位時間(6単位)が充当される。「審議のまとめ」によれば、この「総合的な学習の時間」のねらいは、(1)各学校が地域や学校の実態に応じて特色ある教育活動を自由に展開できるような時間を確保するため。(2)国際化や情報化等の社会の変化に対応するため、(3)ゆとりをもって課題解決や探究活動に主体的、創造的にとりくむ態度の育成を図るため。(4)知識的内容を教え込むのではなく、学び方やものの考え方の習得を重視し、主体的な学習を推進するため。(5)各教科、道徳、特別活動それぞれで身に付けられる知識や技能を総合化するため、ということである。
「国が、その基準を示すに当って」は、「総合的な学習の時間」の「内容を規定することはしないことが望ましい」とされているが、例示(上記下線部)があり、「審議のまとめ」の別項には、この国際理解から福祉・健康など個々についてかなりのスペースを割いて説明が成されている(なお、ここには「外国語会話」は削られていない。)これらのテーマをあえて避けて、例えば、人権学習とか、平和学習というテーマを現場が自主的に選択する裁量は保障されていると考えて良いのだろうか。しかし、懸念が全くないとはいえないだろう。
また、この科目には教科書もなく、他の教科・科目のように数値的な評価もない点をよしとする向きもあるが、文部省が作成する「指導資料」等が教育課程の自主的な編成を縛る可能性も否定できない。それは総合学科の原則履修科目である「産業社会と人間」を見れば明らかである。
評価については、「この時間の趣旨、ねらい等の特質が生かされるよう、教科のように試験の成績によって数値的に評価することはせず、活動や学習の過程、報告書や作品、発表や討論などに見られる学習の状況や成果などについて、児童生徒のよい点、学習に対する意欲や態度、進歩の状況などを踏まえて適切に評価することとし、例えば指導要録の記載においては、評定は行わず、所見等を記述することが適切であると考える。」として、「新学力観」にのっとった評価をせよと言っている。(新要領では、単位の修得および卒業の認定について「総合的な学習の時間」と普通の教科・科目とを区別しているのみで、どのように評価するのかは具体的に記されていない。新しい指導要録の改訂を待たなければならない。)
また、「高等学校においては、『課題研究』や『産業社会と人間』との関連を考慮し、生徒が主体的に設定した課題について知識・技能の深化・総合化を図る学習や、自己の在り方生き方や進路について考察する学習なども、この時間において適切に行われるよう配慮することが望まれる。」、および「現在、職業に関する学科や総合学科において原則履修科目とされている『課題研究』のような、生徒が主体的に設定した課題について知識・技能の深化・総合化を図る学習や、総合学科において原則履修科目とされている『産業社会と人間』のような、自己の在り方や生き方や進路について考察する学習は、今後、どの学科においても適切に取り組むことが望まれる。」という記述に注目したい。この2つの科目は、総合学科における原則履修科目である。それが「総合学習の時間」の設定において考慮せよと言っているのである。「情報」の必修とともに考えれば、普通科のカリキュラムは多様な選択科目の設置をのぞけば、かぎりなく総合学科に近づくことにならないか。学校の統廃合の中で、普通科が総合学科に容易にスライドしやすくしようとする意図が見える。
つぎに、この時間は、知識を学ぶ形式とはちがう形式が考えられている。実体験、体験的な学習、問題解決的な学習を重視している。(1)ある時期に集中的に行うなど時間設定を弾力的に行う。(2)グループ学習、異年齢集団による学習など多様な学習形態。(3)外部の人材の協力を得る。(4)異なる教科の教師が協力、全教員が一体となって指導に当たる。(5)校内にとどまらず地域の豊かな教材や学習環境を積極的に活用する、ということである。十分な条件整備が保障されない中で、いっそう学校に努力を求めることになるだろう。
「審議のまとめ」に述べられた「総合的な学習の時間」の内容は、活動主義的な傾向や道徳的態度の形成に傾斜する傾向がある。「ボランティア活動や自然体験活動などの体験的・実践的な活動を積極的に取り入れる必要」とか、「ボランティア活動の一層の充実を期したいと考える。ボランティア活動は、地域社会の一員であることを自覚し、互いが支え合う社会の仕組みを考える上で意義のあることであると同時に、単に社会に貢献するということだけでなく、自分自身を高めるためにも必要なこと」であるとしている。ことにボランティア活動には熱心で「少子高齢化社会への対応等」においても、「実際に幼児、高齢者や障害のある人と交流し、触れ合う活動や、介護・福祉に関するボランティア活動を体験することを重視する必要がある。」、としている。教職の単位として学生自身にボランティア活動が義務化されたこととあいまって、今後、少子高齢社会の中で行政の負担すべき行政サービスをサボタージュするために学校にそれを補完させようということが露骨である。そもそもボランティア活動のボランティアvolunteerの字義は「自発的」ということだが、日本では学校の中でボランティアが強制され、それが評価の対象となるという変なことがおこる。ボランティアとは社会全体が自主的に担っていけるように労働時間の短縮などの措置が図られなければないだろう。生徒が活動をする場合でもあくまで自発的で評価の対象外の行為でなけれならないだろう。その他、自然体験的活動、外国語教育における実践的コミュニケーション能力の育成、情報手段の活用、身近な自然環境から地球規模の環境までを対象に環境を調べる学習など、問題解決学習や作業的な学習、体験的な学習等、全体的に体験的、実際的な学習が強調されているし、また、道徳教育については後述するが、たとえば、国際化について「我が国の歴史や文化・伝統に対する誇りや愛情と理解を培う教育」がいわれ、少子高齢化社会について、「男女が協力して、子どもを産み育て、高齢者のために主体的に行動し実践する態度を育成するとともに、他者を尊重する態度や尊敬する気持ち、他人を思いやる気持ちや共に生きていくという考え方」がいわれる等道徳的態度が強調されている。結果、学習内容の科学的、統計的、論理的な理解がおろそかにはりはしないか。小学校低学年で行われている生活科においてすでに報告されている弊害が蔓延しそうである。
さらに留意しなければならないことは、教科との関係や教育課程の中での位置付けが不明なことである。どういう課題を選ぶことにもよるが、教科との関係はどうなるだろうか。また、通常、教育課程は教科課程と教科外活動とに分けるが、この「総合的な学習の時間」は、教科にもかかわり、教科外活動にもまたがる領域とにある。しかし、教科に横断的にまたがっているという点が強調されるのと教科外活動のひとつとするのでは意味合いがたいへんちがう。前者では、現行の教科・科目をかえることなく、「総合的な学習の時間」が入るので、相互の関係を整理して、「総合的な学習の時間」を編成する作業量は膨大である。またこの科目をだれが担当するか等実務的な問題も大きな課題である。拙速で教育現場を混乱させてはいけないだろう。教課審の意図は、2010年頃の次の改訂で教科の再編が予定され、今回はそのための「最初のステップ」として「総合的な学習の時間」を導入しようということらしい。
7.「新学力観」と「生きる力」
「新学力観」は、高等学校段階では、あまりなじみのないものだが、現行学習指導要領改訂後の指導要録の改訂作業にともなって登場し、行政サイドの強力な圧力の下で推進され、学校現場を混乱させている。昨今の小学校の荒れや中学校に突出している生徒の荒れの背景の有力な一つになっていると考えられる。しかし、実は高等学校でも新入試制度の導入によって各校ごとの選抜方法の追求の中で「新学力観」を無意識のうちに招き寄せてしまっている。もともと「知育偏重」や「偏差値教育」の教育に対する批判の中で再浮上してきたひじょうに曖昧な考え方である。自ら学ぶ意欲と社会の変化に主体的に対応できる能力の育成をめざし、知識・能力を重視した伝統的な能力観に対し、意欲・関心・態度あるいは、思考力・判断力・表現力をとくに重視する見方である。これにより教員は授業をしながらそれぞれの子どもの意欲・関心・態度の度合いを正確に記録しなければならなくなったり、主体性を引き出させるために授業の中で教師が目だたないようにしなければならないということで、科学的な思考が無視されたり、成果のほとんど達成できないものになったりしている。知識の習得を保障しない態度主義、学力の形成に学校として責任を負わず、個人任せにする無責任と学力の階層化へと結果せざるを得ない。勢い、授業に積極的に参加しているという態度を示せばいいことになり、結果、授業の内容が十分に理解されないままに放置されるという現象が起こっている。また高校入試などでは、本来、点数化することができない意欲や態度など、特別活動や行動の記録、運動能力などを数値化して、評定とともに選抜資料として利用している。このような弊害にもかかわらず、「審議のまとめ」はさらに新学力観をひきずっており、中教審第一次答申を受けて、「生きる力」をはぐくむことを重視し、高校段階では、「義務教育の基礎の上に立って、自らの在り方生き方を考えさせ、将来の進路を選択する能力や態度を育成するとともに、社会についての認識を深め、興味・関心等に応じ将来の学問や職業の専門分野の基礎・基本の学習によって、個性の伸長と自律を図ることが求められている。」としている。評価の在り方も、「生きる力」を身に付けているかどうかによって捉えるべきとしている。
そもそも「生きる力」とはもともと民間の教育実践の中でいわれていた言葉で、これを利用して中教審第一次答申は、「いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに強調し、他人を思いやる心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を〔生きる力〕と称する」とし、新学力観のもっている一面を意識化し、新学力観の導入によって生じた矛盾を「教育内容の厳選」と「過度の受験競争の緩和」によって解消しようという意図をもっている。
また「総合的な学習の時間」の評価についても、上述したとおり、新学力観にもとづく評価が予定されている。新学力観は、たとえば国語の読み方・文学教育への攻撃にみられるように「多様な読み」、「主体的な読み」が流行し、作品を深く読むことよりも、勝手な感想をいいあう授業が評価され、これにより、「自分なりの理解や自分なりの表現」がその子どもの個性として高く持ち上げられ、表現や理解の普遍性が見落とされ、思い付きや主観が個性にすり替えられて、それなりの個性によって自らひとりひとりの生徒に分を悟らせようというような事態が生じている。このことにも留意が必要である。
8.「心の教育」、道徳教育のさらなる強化
「時代を超えて変わらない価値あるもの」を身に付けるとして、「審議のまとめ」は、他人を思いやる心、正義感、公徳心、ボランティア精神、郷土や国を愛する心、かわりばえのない徳目を合理的な説明も方法も示すことなく、子どもたちに身に付けさせろというのである。高等学校における道徳教育は「人間性としての在り方生き方の教育の視点に立って公民科や特別活動」をはじめ学校の教育活動全体を通じて行うこと」としている。家庭や地域社会の教育機能の回復に着目はしているが、具体的な提案はほとんどなく、相変わらずもっぱら、学校における道徳教育のさらなる充実が求められているにすぎない。ただ上述した「総合学習の時間」の中で、外部の人材の協力を得たり、校内にとどまらず地域の豊かな教材や学習環境を積極的に利用することが書かれており、学校を超えて、地域社会全体を学校的な道徳教育の影響下におこうとしている。それは特別活動領域におけるボランティア活動を一層促進することに大きな教育的意義をもたせようということとあいまって、道徳教育の強化がくわだてられている。また各地で起きた少年事件をきっかけに中教審から出された中間報告「新しい時代を拓く心を育てるために」(1998.3.31 .)の「心の教育」にも注目しなければならないだろう。
9.「日の丸・君が代」のさらなる強制
なお「審議のまとめ」には「日の丸・君が代」等の扱いについては、特別活動の改善の基本方針の(ウ)に「国際社会の中で主体的に生きていく上で必要な日本人としての自覚や国際協調の精神を培い、国旗及び国歌の指導の徹底を図る。」となった。現行要領の「入学式や卒業式など」という文言がなくなったことは、「日の丸」の常時掲揚など無限定に拡大されるおそれがあった。しかし、1999年3月29日に告示された高等学校学習指導要領では結局、現行要領と同じ文言にもどった。一般に、「日の丸」・「君が代」の強制圧力は増加しつつあり、このことによってそれが弱まったとはとは思われない。ただ、さまざまな政治的力学が働いて、微妙な揺れがあることは感じられる。今春(99年)の卒業式について、広島県教育委員会が県立高校に職務命令を出し、その中である高校が校長の自殺するという不幸な事件が起こったことを考えると、この問題の異常さ、異様さがわかる。人の良心や信条ををねじ曲げるためには莫大なエネルギーを使ってもなお完全にはならないのである。
教課審の上記文言のいう「国際社会の中で主体的に生きていく上で必要な」のはナショナル・アイデンティティより以前に今や国際平和や地球規模での環境問題を念頭に入れれば、「地球人」としての自覚が優先するはずであり、いたずらに「国旗及び国歌の指導の徹底を計」って、ナショナリズムを煽るよりも、真に「国際協調の精神を培う」のであるならば、なによりも日本が侵略戦争によって周辺諸国にあたえた罪科を率直に認め、その反省の上に立った「国際協調」の育成でなければならず、どうみても学問的・教育的な文言とは言い難い。またこうした強制は、「国旗・国歌」の歴史と現状を生徒自らが学び、「自ら考え、判断し行動」することを否定しており、思想・信条の自由と意見表明権を圧殺するものである。しかも、音楽の「改善の基本方針」に「各学校段階の特質に応じて、我が国や諸外国の音楽文化についての関心や理解を一層深める表現活動及び鑑賞活動の充実を図るとともに、国歌〈君が代〉の指導の一層の充実を図る。」という文章が加えられた。いうまでもないことだが、「日の丸・君が代」のような納得のいかないことに服従させようとする強制は、上述した「新学力観」の態度主義と連動していることも忘れてはならないだろう。
教課審答申の教科外教育観と、そこで求められている人間像は、生徒を権利の主体としてとらえ育てるのではなく、つねに上からの「指導」に服する対象と考え、「自治」とは名ばかりで、権利主体として生徒を育成することがスポイルされ、所沢高校の卒業式や入学式をめぐる事件に見られる政権党議員や文部大臣の反応や、国連子どもの権利委員会での日本の高校生の発言に対する「週刊文春」の誹謗などに見られるように非民主的な風潮を助長しようとしているのである。
10.各教科・科目の問題点
(1) 国語
ことばの学習をこんなに軽視してもいいのか?
藤原正彦は、「小学校六年生になった三男の時間割りを見て驚いた。国語の時間が図書、書写を含めて土曜のある週でも六時間しかない。戦前に十二時間、大正時代には十四時間あったものである。青少年の読書離れがよく話題になるが、国語力の低下が読書をおっくうにさせているのも一因であろう。」(98年5月9日朝日新聞掲載)とし、教課審答申ではさらに主要教科が十数%減らされることに驚いている。氏はその上で「日本の初等教育は国語を中心にすべきではないだろうか。母国語こそが言語だけでなく、思考や情緒の中枢だからである。母国語は小学校で固めないと中学校ではもう遅い。」と今後の言語教育に危機感をもって提案している。教課審答申によれば、小学校で国語にあてられる時間は合計で1377単位時間になり、224単位時間減る。中学校では350単位時間で105単位時間減る。合計329単位時間、従来よりも授業を受けていない生徒が入学してくることになるのである。これは16%減にあたる。この急減に対応してなおかつ教課審のかかげる目標が達成できるのだろうか。本来、このような急激な変化には教科科目の改革が必要であるはずだ。そうでなければ藤原氏の言うようなことはできない。
また、高校段階では、国語I(4単位)が国語表現I(2単位)か国語総合4単位必修にかわる。普通科ではあり得ないだろうが、高校3年間で国語を2単位しかとらない生徒ができる可能性が生じている。これらのことをまず念頭に入れて、以下問題点を論じたい。
まず「国語」という名称についてである。現実の学校現場が「国際化」しており、現行学習指導要領も「国際化」をスローガンとして掲げ、教課審答申でも「国際理解」などというものがあるにもかかわらず、教科名「国語」の再検討がなされた形跡がない。自国中心主義を捨てて、外国語を意識・学習しながら、日本語を相対的にとらえなければならないはずである。
教課審答申は、改善の基本方針の(ア)で「……豊かな言語感覚を養い、互いの立場や考えを尊重して言葉で伝え合う能力を育成することに重点を置いて内容の改善を図る。特に、文学的な文章の詳細な読解に偏りがちであった指導の在り方を改め、自分の考えをもち、論理的に意見を述べる能力、目的や場面などに応じて適切に表現する能力、目的に応じて的確に読み取る能力や読書に親しむ態度を育てることを重視する。」(教課審まとめ2 。下線部筆者)という。文学的教材をさけて、より実践的な言語活動を取り上げろというのである。これを受けて小学校では「日常生活に必要な話す・聞く、書く、読むなどの基礎的な内容を繰り返し学習し確実に言語能力を育成することを重視し、内容の改善を図る。」としている。また中学校では「社会生活に必要な言語能力を確実に育成」する。高等学校では「社会人として必要とされる言語能力の基礎を確実に育成する」とし、実用主義が貫いている。また、新聞等の報道によれば、30%減になったといわれているが、中学校までの学年別漢字配当表の漢字(1006字)の数を減じることはなく、読みについては現行通り、書きの指導は上の学年に移行することになった。国語学習の中でかなりの負担になる漢字がその内容が減らされることなくほとんどそのままになっていることになるのである。言語を道具として、その反復練習のみに固執する授業では、生徒にとって魅力ある学習にはなりそうにもない。他方、重ねて文学的学習を抑制するように書きながら、(ウ)として「古典に関する指導については、我が国の文化と伝統を尊重し、生涯にわたって古典にしたし無態度の育成を重視する。」としている。現行要領と同じように国語を尊重する態度の育成や伝統文化の尊重やら道徳的な色彩も残存しており、文学的な色彩を払拭する中で生涯にわたって古典に親しむ態度が育成されるとは思われない。教課審が強調するコミュニケーション能力の育成が図られるえだろうか。そもそも言語能力は身体的な運動能力とともに人間にとって基底的な能力であり、人はものごとを言葉によって認識し、思考するものである。そしてさらに、文字を獲得することによって、言語そのものを客観的に分析=総合することが可能になり、そのことによって人間の言語活動は飛躍的に発達をとげた。原点にたちもどって「国語」学習の構造を視野に入れて、学習内容の精選をはかるべきであろう。
(2)社会科
科学的で民主的であることを求めない社会科
改善の基本方針(ア)は、(1)日本や世界の諸事象に関心をもって多面的に考察し、公正に判断する能力や態度、(2)我が国の国土や歴史に対する理解と愛情、(3)国際協力・国際協調の精神など、(4)日本人としての自覚、(5)国際社会の中で主体的に生きる資質や能力を育成することを求め、これらを重視して内容の改善を図れというのであるが、どのような領域の方針を述べているのか、不分明な文章である。まずもって問題なのは歴史である。歴史の学習を通じて、愛国心をもてということだが、たとえ自国の歴史といえども無前提にそれに愛着を持てというのは、児童・生徒の人権に対する侵害になるし、ましてどこの地域の学校にも必ずと言ってもいいくらいに外国人生徒が在籍する時代に錯誤的であることを免れない。あわせて、(4)に日本人としての自覚を述べているが、民族的なアイデンティティの形成と国際的な視野に立てる人間との間の関係については触れられていない。(3)と(5)についても必ずしも矛盾がないとは言えない。国際社会の中で主体的に生きる資質や能力とは、おそらく多国籍企業の一員として外国語を駆使し、他国において縦横に経済活動に邁進できたり、国際的な場面で正確な情報を収集したりすることをイメージしていると思われるが、これは1974年に出された「国際理解、国際協力および国際平和のための教育ならびに人権および基本的な自由についての教育に関する勧告」(略称「ユネスコ教育勧告」)をふまえて作られているとは思われない。また、『教育課程改革試案』(中央教育課程検討委員会)がいうような「科学的で民主的な社会認識を育てることを中心的な課題とする教科」であるべき社会科とはほど遠い。もっともなんの合理的、説得的な説明もなく、社会科を解体し、なおかつ実態的には、従来の社会科という教科のメリットをそのまま利用しつつ、地歴科・公民科を存続させようとする行政にとってはしごく当然のことなのかもしれない。
さて、小・中・高校を通じて歴史はどのように学ばれることになるのか。小学校第3・第4学年では地域学習(市町村・都道府県)の中で身近な歴史について一定度学ぶことを手始めとして、第6学年では「人物の働きや代表的な文化遺産を中心にした歴史学習を一層徹底する。」とあり、通史をさけて、歴史的事象を精選せよといっている。この点では現行学習指導要領と同じだが(東郷平八郎を含む42名の例示)、登場する人物に偏りが見られ、人物の力を誇大に評価しがちであったり、現代の社会史や経済史や文化史の成果を無視して、各時代にその生産を担っている一般庶民についての記述がおろそかになってしまうおそれがある。それよりもむしろ、通史を「悪者扱い」することなく、大きな歴史の流れをつかませるために、これを取り扱うべきではないか。中学校の歴史的分野では、はじめて通史的な取り扱いがなされるが、事項を精選して重点的に扱うにことになる。ここでは世界の歴史を背景にしながらも日本史を中心に据え、「先人が築いてきた文化と伝統を尊重する態度を養い、我が国の歴史に対する理解と愛情を深めるようにする。」としている。大きな歴史の流れをとらえ、多面的な見方をするようにとしながら、自国の文化伝統を愛せよ、愛国心を持てというのである。高校段階では、世界史も日本史も取り立てて、注目すべき事柄は書かれているないが、近年、さかんにキャンペーンがはられている「自由主義史観」等のように自国にとって不名誉な歴史的事実を隠蔽しようとする圧力に対して、科学的で民主的な視点に立った歴史の見方を明確にすべきではないか。また、従来の歴史学習の中で無視されがちであった社会的なマイノリテイーな人々や辺境な地域の歴史についても通史の中で登場させ、その文化とともに歴史について共通に学ぶ場を設定する必要があるのではないか。なぜならば、民主的なものの考え方は、マイノリティーにたいする寛容を身につけることによって完成し、「ともに生きる」ことになるのであるから。
今回の答申は教育内容の厳選が最優先にされている関係であろうか、各科目についての記述が簡単でとりたてて、述べることがない。「地理」・「倫理」・「政経」・「現代社会」については省略する。ただ、「現代社会」はかつ鳴り物入りで、必修科目とされ、現行要領のもとで必修からはずされ、さらに今回の答申では2単位に減ぜられた。何の反省もなく、「現代社会」は静かに安楽死させられたことを書いておこう。
さて、教育内容の精選は、どのようにはかられるのだろうか。(1)内容の重点化をはかり、網羅的で知識偏重の学習にならないようにする。(2)基礎的基本的な内容にしぼる。(3)学び方や調べ方の学習、作業的、体験的な学習や問題解決的な学習など児童生徒の主体的な学習を重視する。また、小・中学校では内容を上の学年に移行したり、2学年まとめて内容を示すことによって精選をはかることが述べられている。これらの方法の妥当性については、すでに述べたので省略する。
最後に、「総合的な学習の時間」と「社会科」との関係について述べたい。答申に例示された「国際理解、情報、環境、福祉・健康」等をテーマとして設定すると、いずれにしても社会科との関連が一番強くなると思うが、例えば、それを専門教科を問わず、担任が行うとなると、かなり困難が伴うであろうし、両者の内容の整理を行うのもかなりたいへんな作業となるであろう。逆に社会科に各学年1単位ないし2単位、増単することによって、例えば、平和学習の修学旅行を大きなイベントとして、その事前学習と事後学習を含めて、相互乗り入れのような形で設定して、平和学習や人権学習を設定する方法もあると思われる。もちろん、生徒が主体的な学習ができるようにし、体験的な学習も組織する。
(3)数学
数学嫌いをつくるのが意図か?
[1]根拠のわからない「厳選」
教課審は「算数・数学」の「改善の基本方針」を次のようにまとめている。
(ア)小学校、中学校及び高等学校を通じ、数量や図形についての基礎的・基本的な知識・技能を習得し、それを基にして多面的にものを見る力や論理的に考える力など創造性の基礎を培うとともに、事象を数理的に考察し、処理することのよさを知り、自ら進んでそれらを活用しようとする態度を一層育てられるようにする。
(イ)そのために、実生活における様々な事象との関連を考慮しつつ、ゆとりをもって自ら課題を見つけ、主体的に問題を解決することを通して、学ぶことの楽しさや充実感を味わいながら学習を進めることができるように内容を改善する。
今回のねらいはなんといっても、「厳選」である。教課審は、小・中学校においては、「算数・数学」の現行教育内容の3割近くの削減を提起している。高校では、中学からの移行部分が加わるので、削減部分は少ないと思われる。
しかし、「ゆとり」の下の「厳選」の根拠がよくわからない。たとえば、小学5年の文字式は、中学校に移された。実在の問題を数学の世界に引き寄せて解決する際、文字の導入は不可欠である。むかしの「鶴亀算」式に「カメさんの足を2本引っ込めて……」などに逆戻りを考えているのだろうか。現在の小学校高学年でやっている題意を把握して、未知数を文字にして立式する学習は、中学での数学(代数)への第一歩にもなるし、はるかに、“先につながる”学習内容である。文字の導入は、小学校高学年からの導入が可能であり、効果も十分であると思うのだが。
少数・分数の導入も小学3年から「上学年へ移行」している。少数・分数は簡単に言えば、半端を量る必要から生まれたが、十進位取りの原理を用い実生活でよく使われている少数の方が、互除法を原理とする分数より、子どもには馴染みやすく理解しやすい。しかし、現行では、小学3年の2学期に分数、3学期に少数を導入し、分数では、子どもたちが理解しにくい「割合分数」「分割分数」が導入時に現われているなど、現行の教科書構成(指導要領)が、少数・分数の理解を難しくしていることは否めない。単に後回しにすることより、現行の指導要領をもっと反省・検討すべきではないか。
中学では、一元一次方程式や二次方程式の解の公式といった代数初歩が、高校に回された。これに代わって、「論理的な思考力を重視して、例えば、内容の軽減を図りつつ図形の証明に関する学習を重点化するようにする」(中間まとめ)と述べているように、図形の証明に力点を置くという。図形の指導は、論証と切りはなして、図形や空間の性質を具体物に即して学習するべきであり、「論理的な思考」は数学教育の全体を通して系統的な学習からとらえるべきことであろう。高校では、小学校・中学校で示した「数と式」「図形」「数量関係」といった構成領域は、示していない。現行の科目構成に「数学基礎」を加え、他は、現行の内容に中学からの移行内容を加え、「引き算」によって組み立てているにすぎず、十分な議論がなされたとは言いがたい。
新科目「数学基礎」は、「具体的な事象を通して数学的な見方や考え方のよさを認識しることをねらい……数学史的な話題、日常の事象についての統計処理及び生活における数理的な考察などを扱う」としている。しかし、「数学的な見方や考え方」は、数学史や統計的な処理を学ぶ中だけでしか扱えないのか。数学そのものゐ学ぶことによって得られてくるものではないのか。さらに、数学史は「数学」の必要性・有効性を認識するために取り組むべきではないか、など疑問が多い。
「実生活における様々な事象との関連」を説くならば、力学・電磁気学や社会・自然現象の法則性の探求を目指し、微分積分、線形代数、確率・統計を高校数学の柱に構成すべきである。
とにかく、完全学校五日制実施を目の前に、「厳選」だけが前面に出過ぎて、高校数学の内容を“全ての高校生にとって必要な内容は何か”をじっくりと議論したとは言い難いし、その姿勢も感じられない(小学校算数・中学校数学も同様)。
教課審の「改善」は、「ゆとり」の名の下に、系統性を一層後退させ、安易な「引き算」による「厳選」と、「問題解決学習」と称し、「関心・態度」尊重の新学力観にたった“学習内容”の再構築でしかないと言えよう。
[2]高校新科目「数学基礎」のねらいは何か?
ところで、「数学基礎」は「数学I」と並列され、どちから一方の必履修とされているが、この高校新科目「数学基礎」のねらいは何か。
「数学基礎」は「数学学習の系統性と生徒選択の多様性の双方に配慮し」科目内容の構成を見直す目玉とも言えものである。しかし、本音は“必修内容を切り下げ、選択科目を増やし、できる子には数学の系統性にもふれさせ、数学嫌いの子には系統性よりも「作業的・操作的学習」「問題解決学習」で、「学ぶことの楽しさや充実感を味わ」ったということにして、数学をやったことにしておこう”“そのために、新たな科目(差別的な科目)=「数学基礎」をおいた。”と聞こえてならない。
数学の科目選択について、能力主義的再編−「多様化・複線化」は、文部行政の多年の悲願であった。すべてを学ぶ「数学I・II・III」と中身の部分選択学習を取り入れた「 A・B・C」で構成する現行の数学は、「とかく、従来の科目を選択させる方法<最近では、前回の基礎解析、代数・幾何に対する数学II>が複線型として敬遠され、定着しなかったことへの画期的な試みであるといっても過言ではない」(指導要領作成会議での片桐重延氏の証言−< >内は筆者注)と、科目選択の「多様化」への決定打とも言えるものである。今回、現行の構成を変えないでの新科目の導入は、「敬遠され」ていた「従来の科目を選択させる方法」を堂々と採ったものであり、そのダメ押し策とも言えるものである。
[3]子どもの視点にたった学習内容の議論が不十分
しかし、“できる子”にしても、系統性を軽視した現行指導要領を踏襲している以上、今回の改訂で「数学の系統性」に触れられるとは考えられない。
戦後、高校指導要領は、それぞれの時代の「多様化」の方策を反映してきた。高校数学の構成は、以下に簡単に列挙するように、その内容をタテ割・ヨコ割と前回の総括・反省なしに繰り返してきた。
1947年 |
学習指導要領<試案> |
解析I、解析II、幾何学 |
(タテ割り) |
1955年 |
〃 |
数学I、数学II、数学III、応用数学 |
(ヨコ割り) |
1960年 |
高校指導要領告示 |
(同上) |
|
1970年 |
〃 |
数学I、数学IIB、数学III |
(ヨコ割り) |
1978年 |
〃 |
数学I、基礎解析、代数・幾何、微積 |
(タテ割り) |
1989年 |
〃 |
数学I・II・III、数学A・B・C |
(ヨコ割り) |
「系統性」という言葉は、ときおり、周囲の批判をかわす程度に使われたに過ぎず、中身の議論がなされたことはないのである。
いや、「系統性」どころか、文部行政は、数学教育(数学にかぎらないかもしれないが)そのものを、子どもの視点にたって議論・検討したことがあったのだろうか。あったのは、ひたすら、能力主義的再編・産業界・財界・時代の要請に、“数学としても”いかに応えるかではなかったか。
昨今、跳び入学・中高一貫教育と中教審を中心に明らかな“エリート養成”が叫ばれているが、肝心の小学校から高校までの教育内容の検討・提起が、余りにも貧弱過ぎやしないか。
「英才教育のためには、入念な質の高い凡才教育を行うべきであり、凡才教育が高くなれば、英才は自然とそのなかから現われるだろう。……凡才教育を充実することを忘れた英才教育は空中楼閣にすぎないし、やがて、失敗するほかあるまい。」という遠山啓(『教師のための数学入門』)の忠告を、文部行政は痛切に受け止めるべきであろう。
(4)理科
改訂ごとに授業時数が削減
理科は、学習指導要領の改訂のたびに、授業時数が削減されている。小学校においては、授業時数が60年代と比べると、3分の1も削減されており、しかも生活科の新設によって低学年では理科の授業がなくなってしまった。中学校においては20年前と比べ、時間数は4分の1削られたが、内容の密度は高くなっていて、現行学習指導要領で中学3年の理科が4単位から3単位に減少したが、基本的な内容は減らせないということで、教育項目は削減されなかったため、過密な内容を詰め込むことになり、実験をやる余裕がますます少なくなり、教科書の実験の数も減った。高校では60年代では、物理・化学・生物・地学の4科目を必修としていたが、現在では、ほとんどの高校で2科目となってしまっている。これ以上、理科の授業時数を減らすな、むしろ小・中学校では増やすべきだという物理学会等の主張がある。しかし、教課審は、さらに現行要領より、95単位時間を減ずることになった。国民全体がサイエンス・リテラシーをもつべきだとするイギリスでは、ナショナル・カリキュラムがつくられ、サイエンスの時関数は20%が確保された。結果的には、日本では、ますます実験や観察などはできにくくなるはずだが、改善の基本方針では、
(ア)小学校、中学校、高等学校を通じて、児童・生徒が知的好奇心や探究心をもって、自然に親しみ、目的意識をもって観察、実験を行うことにより、科学的に調べる能力や態度を育てるとともに、科学的な見方や考え方を養うことができるようにする。
(イ)そのため、自然体験や日常生活との関連を図った学習及び自然環境と人間とのかかわりなどの学習を一層重視するとともに、児童生徒がゆとりをもって観察、実験に取り組み、問題解決能力や多面的・総合的な見方を培うことを重視する。
と、あり、いたるところで観察、実験が重視されている。しかし、効果的に実験をするには、1クラス20人程度が必要であり、したがって実験室等の教育条件の整備も必要である。小学校の「生物とその環境」では、「児童が動植物の生活の実際や成長に関する諸現象を観察、実験を通して追求する」ことに重点を置き、「その際、例えば、動植物の運動や成長と天気や時刻の関係などは削除する」(教科審まとめ)とあり、これで実験や観察が成り立つのだろうか。「理科離れ」はますます深刻になるだろう。
さて、学習内容の厳選については、基本的な枠組みはほとんど変化がなく、上の学年に移行することしか書かれていない。その移行にも根拠が乏しい。例えば、現行の中学1年で学ぶ「比熱」は、高校へということになる。しかし、「ものの暖まり方、熱の性質、熱のエネルギーの正体とその行方、熱エネルギーの利用、それにまつわる地球環境問題こそは、循環型社会を考えるさいの基礎・基本」であり、一般の家庭で使われるエネルギーの2/3は熱エネルギーの形であるにもかかわらず、高校にまわった。同じく遺伝の基礎も中学校で学んでも良いのではないか。
高校の理科においては、「理科基礎」、「理科総合A」、「理科総合B」から1科目、「物理I」、「化学I」、「生物I」、「地学I」から1科目が必修となった。
このうち「理科基礎」は、初めて科学史・科学論がとりあげることになった。イギリスでは、歴史上の科学者たちの発見の過程を追体験させる科目を作っているという。“発見の喜び”が理科を好きになる鍵になるというのである。
科学の歴史は、自然と人間との交渉と闘争・支配と敗北と妥協の歴史であり、政治史とは異なる側面の人類史でもある。科学は、人々に繁栄と福祉をもたらしもし、破壊と悲惨をもたらしもした。科学の生成・発達・発展の経緯を知ることは、単に現代の自然科学に至る道筋を知識として得るばかりではなく、その背景を成す社会史や科学の発達を直接担った科学者達の人生や思想・研究過程での試行錯誤との関わりのなかで理解することによって、科学の「人間化」(つまり、細分化・高度化が加速度的に進行し、人間疎外が著しくなりつつある科学を、人間のもとに引き寄せ、人間的意味の認識に導く)が図られ、生徒の興味と関心を引き出すことにつながるだろう。
この科学史学習を理科の共通基礎の中心に据えて科学的な思考力を育成しなければならない。科学的判断力を身につけた社会人を育てるための国民教育が必要である。
(5)芸術
あいかわらず情操教育的な芸術教育
相変わらず、芸術教育は、情操教育として捉えられ、道徳教育に従属させられている。「豊かな情操を養う」ことがどの科目にもうたわれ、さらに「心の教育」や「生きる力」の導入にともなって情操教育のポジティブな面を強調し、他方、完全学校五日制等にともなう授業時数の減少を回避しようという教科担当者の意見もあるので、情操教育を批判的に見る力が弱い。芸術的な営為では感覚(知覚)が最も重要な役割を果たすのだが、感覚は認識の器官であり、認識の深化が感覚の質を高めるのである。
芸術は、創作のみならず鑑賞においても、みずから自然の一部である人間のもっとも根源的な部分と直接的に関わる営みである。したがって、芸術は、原初的自我がそうであったように、常に完全な自由と解放を激しく求めるという属性をもつ。
いま、子ども・青年の心とからだが、自然破壊や今日の社会体制下の種々の抑圧によって著しく歪められ閉塞状態にあるとき、その克服の突破口として、私たちは、芸術に内在するそのような〈力〉を改めて想起し、その復権を図るべきではないだろうか。
いったい、共通基礎として芸術で何を学ばせるのかを考えなければならない。また、完全学校五日制にともなう授業内容の厳選にともなって、他の教科・科目と同様に芸術科目の授業時間数は減少するが、ことに中学校等では減らされており、実習を中心とする教科がたとえば週あたり1時間の授業になったりすれば、その学習効果は著しく減殺されることになるだろう。全体に厳選しなければならない上に「総合的な学習の時間」や「情報」の導入に絡んで各教科・科目の単位数を減じなければならないのであるが、比較的単位数の少ない教科・科目に対する配慮が必要となるだろう。
また、教育内容の厳選に対応して、多くの教科・科目で選択的に学ばせることによって形の上で内容の「精選」を安易に行おうとしている傾向がみられることにも注意が必要である。
さらに憂慮すべき点は、音楽における「君が代」の取り扱いである。現行学習指導要領で「国旗」・「国歌」の強制がいっそう強まったが、小学校の要領においては、さらに「国歌〈君が代〉は、各学年を通じ、児童の発達段階に即して指導すること。」という項目がある。しかし、今回の教課審の「審議のまとめ」は音楽の改善の基本方針に「各学校段階の特質に応じて、我が国や諸外国の音楽文化についての関心や理解を一層深める表現活動及び鑑賞活動の充実を図るとともに、国歌『君が代』の指導の一層の充実を図る。」という文章が入った。前半の「…音楽文化についての……表現活動及び鑑賞活動の充実」と後半の「国歌『君が代』の指導」の文が因果関係も有機的なつながりも感じられない。不可解な文章である。このようにして「国旗」にくらべて実施率が低い「国歌」が教科外から教科内に入ってきた。一方で、教科内容を選択的に選ばせようとする傾向が強まる中で、「各学校段階の特質に応じて、」小学校からずっと「君が代」を学習させ続けようというのは異様としか言いようがない。こうした中で子どもたちが音楽を愛し楽しむことが期待できるだろうか。(新学習指導要領の音楽の項には、「君が代」の記述が消えている。)
(6)家庭、技術・家庭
「改善の基本方針」(教科審まとめ)は、以下の通り。
(ア)(1)衣食住やものづくりなどに関する実践的な活動を通して、家族の人間関係や家庭の機能を理解し、生活に必要な知識・技術の習得や生活を工夫し創造する能力を育成、
(2)家庭生活をよりよくしようという意欲・態度を育成するために。小・中・高校の領域構成や内容を改善する。
(イ)(3)男女共同参画社会の推進、少子高齢化等への対応を考慮し、家庭の在り方や家族の人間関係、子育ての意義などの内容を一層充実する。
(4)情報化や科学技術の進展等に対応し、生活と技術とのかかわり、情報手段の活用などの内容の充実を図る。
(ウ)(5)基礎的・基本的な知識・技術を確実に身に付けさせるため、実践的・体験的な学習を一層重視する。
(6)環境に配慮して主体的に生活を営む能力を育てるため、自ら課題を見いだし解決を図る問題解決的な学習の充実を図る。
(エ)(7)家庭・地域社会との連携や生涯学習の視点を踏まえつつ、学校における学習と家庭や社会における実践との結び付きに留意して内容の改善を図る。
(3)を受けて、高等学校では、「男女共同参画社会の推進、少子高齢化等への対応を考慮して、家族や生活の営みを人の一生とのかかわりの中で総合的にとらえ、家庭生活を主体的に営む能力と態度を育てる観点」から改善を図るとされている。この「男女共同参画社会」とは、相変わらず男性優位の企業社会において、女性が母性保護を撤廃されて男性と同様に酷使されることを意味する。結果、当然の「少子」については、何ら有効な対策をうつことなく、民間のサービスに委ねるだけで公共のサービスをスリムにすることしか考えていない。したがって、子どもがほしければ、専業主婦の道を選ばざるを得ず、「男女共同参画」とは矛盾することになる。また、「高齢化」も同様に民間サービスを受益者負担せよということである。「教課審中間まとめ」では、「少子高齢化やサービス経済化等に対応する観点から、家庭生活における男女の協力、親としての責任、高齢者等に対する理解や福祉マインドと介護の基礎、消費者としての自覚などを重視して改善を図る。」と露骨に書かれている。公的サービスの低下に対応するための学習をせよということである。教課審答申では、改善の(ア)として「家族・家庭の機能、子どもの発達と、高齢者の生活と福祉などについてライフステージごとの課題とかかわらせて扱うことにより、生徒自身の問題としてとらえさせるとともに、衣食住や消費生活と環境などに関する基礎的・基本的な知識と技術を習得させることを重視する。」と書かれ、出産、育児、教育、医療等はすべて私事として受益者が負担せよということになる。しかし、「少子高齢化」への対応を考慮すればするほど、個別の家族、子ども自身の努力では解決しがたい課題が山積しており、「生活課題を主体的に解決できるようにする」[高等学校〔家庭〕エ]ことは単純にはできない。したがって、結局のところ教育の中では、「家庭の在り方や家族の人間関係、子育ての意義など」いきおい、道徳教育的な中味に陥る危険性をもっている。また、「地域に対するボランティア活動の一層の重視」がここにもまた顔を出している。ボランティアがどういう背景で教育の中に登場してくるかがよく理解できる。
高校の家庭科は、新たな科目「家庭基礎」(2単位)、「家庭総合」(4単位)[家庭一般」を改善]と「生活技術」(4単位)の3科目を、「生徒の多様な能力・適性、興味・関心等に応じて選択的に履修できるようにする。」とある。しかし、現行の教育条件のもとでは学校選択になるしかないし、無理に選択履修にすれば、従来選択科目としておいていた「保育」、「食物」等を開講することができなくなる。また、(1)や(5)に示されている実践的・体験的学習についても十分な教育条件の整備がなければ不可能である。
さて、家庭科では、どのようにして教育内容の厳選を図ろうとしているのだろうか。
- 2学年分まとめて内容を示して弾力的な指導を可能にする。(小学校)
- 基礎的・基本的な知識・技術の確実に身につけさせる。(小学校・中学校・高校)
- 中学校に移行する。(小学校)
- 選択的に履修する。(中学校)
- 各学校の創意工夫に委ねる(中学校)
- 3科目からの選択をし、地域・学校、生徒の実態に応じて弾力的な指導をする。(高校)
- 「家庭基礎」(2単位)科目の設置(高校)
- 改善の基本方針(エ)[上記7](高校)
だいたい以上のようなことになるだろう。たとえば、食生活を例にとると、小学校では、「……食品の栄養的な組み合わせや簡単な調理に重点を置いて指導することとし、細かな栄養素の種類と名称などについては中学校に移行する。」となった。中学校では、「栄養を重視した食生活」がとりあげられている。しかし、食生活に関する学習は物質中心主義で、現在の児童・生徒の「孤食」、食材の乏しさ等の問題の背景にある家族関係などについての言及がなく、これでは問題解決学習を組むことはできないだろう。高校「家庭総合」では、「衣食住の生活の科学と文化に重点を置」くとされているが、これを達成しようとするならば、自然科学だけではなく、人文科学、社会科学を含むすぐれて学際的な性質をもっており、総合学習として採用するにふさわしいものである。教育条件さえ許せば、ぜひ総合学習として設置すべきである。また、生徒が生活上かかえている課題を解決するべく、学習が行われるとすれば、ぜひこうした視点が必要となるであろう。
(7)保健体育
さまざまな課題を負わされた保健体育
体育の授業時数が現行7〜9単位時間から7〜8時間に減少されることになる。通常、各学年3時間で行われていたものをひとつの学年で少なくとも2時間になるということで、平均、小・中学校ともに2.6時間の授業で発達刺激的な意味で体力を向上させることはできないことは明白であるのに、これで「基礎的な体力を高めることを重視する」という基本方針は達成されるのだろうか。しかも、この「基礎的な体力」の内容が不明である。また、時間数の減少に対応するために3学年において今まで3〜4領域を選択していたものを、2〜4領域を選択履修するように改められ、選択幅が拡大した。体育における共通基礎の内容をどのようにすべきかの議論をへないまま、一番安易な方法で時間数の減少に対応しようというのである。
それでいて新たにさまざまな課題が保健体育には課せられている。「改善の基本方針」から引き出すと、「生活習慣のみだれ」、「ストレス・不安」対策、それらの対応するとみられる「体ほぐし」(仮称)なるあらたな項目の登場、「心の健康に関する学習」、「食生活をはじめとする生活習慣の乱れ」、「生活習慣病」、「薬物乱用」、「性に関する問題等」さらに「自然災害等における安全の確保」、「健康・安全と運動とのかかわり」、他教科等との関連で「自然体験的活動」など現在の子どもたちがかかえている病弊対策が相変わらず対症療法的、羅列的に書かれている。教育内容の厳選とどのように整理をつけろというのだろうか。健康権・環境権・スポーツ権をその土台にすえて、子どもたちに、自分自身の身体の現実を直視させ、身体についての認識を深め、身体形成(身体変革)の目的意識を育てることの検討がまず求められるだろう。
(8)外国語
コミュニケーション能力だけが肥大しても……
「改善の基本方針」は、(1)外国語による実践的コミュニケーション能力の育成にかかわる指導の一層の充実、(2)外国語の学習を通して、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成、(3)視野を広げ異文化を理解し尊重する態度の育成、(4)言語の実際の使用場面に配慮した指導の充実、(5)中・高校での外国語科を必修とすること。英語履修を原則とすること、となっている。
「国語」同様にコミュニケーション能力の育成に重点がおかれている。そのため、中学でも高校でも実践的コミュニケーション能力の育成を第一番にかかげることになった。「読むこと」や「書くこと」よりも、「聞くこと」、「話すこと」が優先し、「日常的な言語の使用場面や言語のはたらきを例示」(中学校)することが述べられており、高校では「オーラル・コミュニケーションI」、「英語I」のいずれかを選択必修することになった。前者において「音声によるコミュニケーション活動」の指導を重点的におこなうことが書かれている。「英語I」や「英語II」でさえ、「コミュニケーション活動」の指導が中心になっている。
しかしながら、外国語を中等教育において学習させる意味は、ただ実用的な「コミュニケーション活動」にあるわけではない。「中等学校の外国語教育に関する各国文部省への勧告59号」(ユネスコ公教育会議、1965年)は以下のように述べている。
(8)現代外国語教育の目的は、教育的であると同時に、実用的である。外国語教育のもたらす知的訓練は、その外国語の実用的使用を犠牲にしてなされるべきでない。一方、その実用的運用がその外国語の言語的特徴を十分に学習することを妨げてもならない。
(9)外国語教育はそれ自身が目的でなく、その知性と人格を鍛え、よりよい国際理解と、市民間の平和的で友好的な協力関係の確立に貢献することに役立つべきである。
このように言語は伝達の手段であると同時に、思考、認識の手段であることをを忘れてはならない。「実践的コミュニケーション」は、ただ日常会話ができれば良いわけではなく、人権、民主主義、平和・非暴力、環境・民族問題などに教材を求め、上記(9)に掲げられているような国際的な協力関係を構築すべきである。
教育条件からも問題がある。外国語教育での一クラス定員は15人が国際的常識であるということだが、現行指導要領で必修化された「オーラル・コミュニケーション」を行う上で現場ではクラスを2つに割って授業を展開できるような定員の保障を求めたが、行政はこれを無視したのである。音声による伝達を重視する授業を成立させるには、国際的常識を日本にも適用することである。また、外国語を効果的に学ぶためには、毎日授業があることが理想とされ、さらには中学校段階が、外国語学習に最適の発達段階であるということだが、中学校の外国語は週あたり3時間とされ、年あたり従来35時間であったものが、30時間に減らされることになった。本気で外国語教育を実効あるものにしようとする意図はあまり感じられないのである。しかし、この答申が中高一貫校の教育編成について述べているところによれば、特例により週5時間の英語を学べるようになっている。中高一貫校の性格がこのような点にもかいま見ることができる。
また、答申ははじめて外国語科を必修とすることを決めた。そしてその外国語には英語が国際語として使われている点を考慮して選ばれた。もちろん、現状が追認されただけである。英語以外の外国語については、「その科目の構成、内容、指導方法等を弾力的に扱うことができるようにし、地域の実情や学校の実態に応じその履修が一層推進されるよう配慮する。」という文言が申し訳程度に添えられた。言語学的にどのような外国語を学ぶべきかは、「外国語学習は、それ自体の実用の域をこえて、たとえ無意識にでも理論的作業に近づいている。…母語の特質が逆に照らし出され、ことばそのものにも広い展望が与えられるのである」(田中克彦「外国語を学ぶことの意味」『教育の方法』4)という見地からすれば、ヨーロッパ諸国の伝統的な外国語が同じヨーロッパ語の中から選ばれているように、まずもって同類の言語(たとえば、朝鮮語、トルコ語、モンゴル語など)から、つまり近隣諸国の言語をまずもって学ぶべきなのである。しかし、こうした英語以外の外国語が安定的に学校において学習されるための条件作りはあまりなされていない。
(9)情報
“必修化”は拙速
「教課審まとめ」の「I.教育課程の基準の改善方針」の「1.教育課程の基準の改善の基本的な考え方」の「(3)各学校段階・各教科等を通じる主な課題に関する基本的な考え方」の中で、道徳教育、国際化、情報化、環境問題、少子高齢社会への対応について述べており、「情報化への対応」も重要な要素として取り上げている。
「今後、ますます高度情報化社会が進展していく中で、児童生徒が、溢れる情報の中で情報を主体的に選択・活用できるようにしたり、情報の発進・受信の基本的ルールを身に付けるなど情報活用能力を培うとともに、情報化への影響などについても理解を深めることは、一層重要なものになってくる」と述べ、現在、中学校や高等学校で技術・家庭科、理科、家庭科で扱っているが、「今後は、児童生徒の発達段階に応じて、一貫した系統的な教育が行われるよう更に関係教科等の改善充実を図り、コンピュータや情報通信ネットワーク等を含め情報手段を活用できる基礎的な資質や能力を培う必要がある」としている。
具体的には、小学校においては「総合的な学習の時間」をはじめ各教科で、中学校においては技術・家庭科の中で情報に関する基礎的内容を必修とし、高等学校においては教科「情報」を新設し必修とすることが適当であると述べている。
新設教科「情報」の説明は、以下の通り。
ア.教科解説の趣旨とねらい
(ア)大量の情報に対して的確な選択、情報手段の適切な活用、主体的に情報を選択・処理・発進できる能力が必須である。
(イ)情報化の進展が人間や社会におよぼす影響を理解し、情報社会に参加する上で望ましい態度を身に付け、健全な社会の発展に寄与する。
(ウ)情報及び情報手段をより効果的に活用するための知識や技能を定着させ、情報に関する科学的な見方・考え方を養うためには、高等学校段階においても継続して情報に関する指導を行う必要がある。
イ.科目構成及び内容構成の考え方等
(ア)普通教科「情報」には、選択履修できるように、「情報A」、「情報B」、「情報C」を置く。
(イ)各教科の内容
a 「情報A」 コンピュータや情報通信ネットワークなどを活用して情報を選択・処理・発進できる基本的な技能を育成
b 「情報B」 コンピュータの機能や仕組を通して、コンピュータの活用について科学的に理解させる。
c 「情報C」 情報通信ネットワークなどが社会の中で果たしている役割や影響を理解し、情報社会に参加する態度を育成する。
1997年10月に「情報化の進展に対応した初等中等教育における情報教育の推進等に関する調査研究協力者会議」(以下協力者会議)は「体系的な情報教育の実施に向けて」という答申を出し、その中で“次期学習指導要領の改訂に向けた提言”を行った。今回の教課審のまとめはそれを受けてのものである。協力者会議の答申では、“情報教育の目標”を次のようにしている。
- 課題や目的に応じて情報手段を適切に活用することを含めて、必要な情報を主体的に収集・判断・表現・処理・創造し、受けての状況などを踏まえて発進・伝達できる能力(情報活用能力)
- 情報活用の基礎となる情報手段の特性の理解と、情報を適切に扱ったり、自らの情報手段を評価・改善するための基礎的な理論や方法の理解(情報の科学的な理解)
- 社会生活の中で情報や情報技術が果たしている役割や及ぼしている影響を理解し、情報モラルの必要性や情報に対する責任について考え、望ましい情報社会の創造に参画しようとする態度(情報社会に参画する態度)
これらを相互に関連づけ、発達段階や他教科等の学習とも関連づけて効果的に育成するため、系統的、体系的な情報教育カリキュラムの編成が必要なのであるが、その前提条件として、「小学校、中学校において新たな教科を設けることについては、教育課程全体の在り方の問題としての検討が必要であること、現状を前提にしながら理想型との間の中間的段階を模索することも、着実な前進を図るという観点から重要である。来るべき完全学校五日制、教育内容の厳選、基礎・基本の徹底、「総合的な学習の時間」の設置、中学校以降の選択教科の拡大等を念頭に置き、「情報活用の実践力」の育成については、原則として既存の教科等で行い、「情報の科学的な理解」及び「情報社会に参画する態度」については特化した教科・科目、領域等で行いつつ、その一部については、既存の教科等で行うことを前提として提言をまとめた」としているのである。
したがって答申では、“既存の教科等における「情報活用の実践力」の育成”の項目があり、すべての教科等での指導例の例示があって、例えば「理科」では次のようになっている。
「自然現象をモデルとしたモデル化の方法、観察、実験データの処理、表現、解釈の方法を実践的に扱う学習活動の中で、コンピュータを観察・実験の道具として活用したり、動植物等のデータベースを作成、検索したり、天体の動きをモデルで表現し、シュミレーションしたり、科学技術情報を情報通信ネットワークで収集する、あるいは、宇宙空間や人体の中に入るなどバーチャル・リアリティで仮想体験する学習活動などが考えられる」
要するに、今回の「教課審まとめ」では、小学校では、コンピュータに「触れ、慣れ、親しむ」ために「総合的な学習の時間」を活用して、主として「情報活用の実践力」を、中学校段階では、技術・家庭科の「情報基礎」を必修扱いとし、「情報の科学的な理解」、「情報社会に参画する態度」を育成する観点から内容を充実する、また「総合的な学習の時間」においては、「情報活用の実践力」を養うため、課題解決的な学習活動を情報手段を活用しながら行い、高校段階では、普通教科としての「情報」を必修科目として複数設置し、「情報の科学的な理解」及び「情報社会に参画する態度」を育成する、ということである。
情報化に関する学習は、膨張する情報環境の中で主体性を確立し、情報の公共性、プライバシーの保護、情報の公開、情報公害や犯罪など情報に関わる基本と人権教育等がその中心でなければならない。
情報社会のシステムとそれがもたらす諸様相、情報に対する自由で公正なアクセスと情報発進の自由が国民の権利であることを理解しなければならない。
こういう見地に立って、「情報」の問題点をあげてみよう。
- コンピュータの必要最低限の操作は短期集中的に行うのが効果的であり、1年間を通して学ぶ必要はない。
- 「情報A,B,C」の内容は、相互に密接な関係があるものなので、どれかを選択して学べばよいというものではない。
- 「情報C」において、“情報通信ネットワークが社会の中で果たしている役割や影響を理解し”とあるが、コンピュータの活用を中心としたこの傾向は変わることはないだろう。このように幅広い内容を、独立した教科で実現することはもともと考え難いのであり、まだまだ理論的、実践的な積み上げが必要なのではなかろうか。
- 協力者会議の提言の中で“「情報活用の実践力」については、既存の教科で行い、「情報の科学的な理解」、「情報社会に参画する態度」については特化した教科・科目で行いつつ、その一部については、既存の教科等で行う”と述べているのであるが、「審議のまとめ」の中で既存の教科等の関連については(ウ)各教科等との連携に配慮し、情報科での学習成果が、他教科の学習に役立つように、履修学年、課題の選定、指導計画の作成等を工夫せよ、とは言っているが、既存の教科等の関連は具体的には書かれていないし、系統的、体系的などと言えるものではなく、内容の研究も不十分である。具体的な学ぶ対象から切り離して「情報活用能力」だけを育てるということは考えられない
。
以上のような問題がある上に、現状、行われている「情報」ではどうしてもコンピュータの操作を中心とした学習がなされており、担当教員は固定化されてしまっている点を考慮するならば、「情報」必修化によって相当数の教員養成に関する条件整備が必要になると思われるが、家庭科男女共学の時と同様、十分な教員養成は期待できないのではないか、「特別の事情がある場合には、当分の間、数学や理科等に関する科目において」(p.68)、代替することが可能であるとあり、「当分の間」は「学習指導要領」的な意味ではかなり長いので、十分な教育条件が保障されない中で現場の努力だけが求められることになる懸念が濃厚である。少なくとも必修化は現段階では拙速といわなければならない。
情報教育とは、「情報化社会の意味の理解」が基本であり、究極的には「情報化の進展とあるべき社会像」の探究である。
FA・OA化による職業・労働の変化と問題点、言論・表現・出版の自由、知る権利、プライバシー問題等、情報管理の状況調査やコンピュータ合理化労働者の実態調査等を含めて、生きた情報教育が必要なのであり、今回の情報の“必修化”がそれに役立つとは思えないのである。
11.おわりに
現行学習指導要領は最低最悪といわれたが、教課審答申から読み取れる新学習指導要領はおそらくさらにそれを更新して最低最悪となるだろう。「総合学習の時間」や「情報」の新設、しかし、完全学校五日制にともなう学習内容の厳選という問題や矛盾をくぐりぬけて、どうやって各学校現場で新教育課程編成をしていけば良いのだろうか。本稿で列挙した問題点にくわえて、さらに中高一貫校、総合学科、単位制高校、また評価をめぐる問題等も検討を加えなければならない。
《参考文献》
- 『教育』1998年2月号、11月号、国土社
- 『教育評論』1998年9月号、10月号、アドバンテージサーバー
- 『高校のひろば』vol.30,1998年、日高教・高校教育研究委員会