神奈川県教育委員会は昨年末に出された高課研二次答申を受けて、この5月に『中間報告』を発表しました。その内容はすでに知られているとおり、複数希望制の導入はじめ、すべての学科にわたる推薦制、傾斜配点、受験教科数の弾力化導入等、さまざまな問題を含むものでした。その後、『中間報告』に対する県内各方面からの疑問と批判が強まり、県教育委員会も多くの部分について見直しをせざるを得なくなりました。そのため『本報告』つまり『大綱』は『中間報告』に比べるならば、多少とも改善されたものになったと言えるかもしれません。しかし、複数希望制をはじめとして、『中間報告』において問題とされた多くの制度が、『大綱』の中にも残りつづけています。今後も一層の改善に向けた、強力な取り組みが求められています。今後の運動展開の一助にするため、以下において、『大綱』を批判する上でのいくつかの視点を整理してみます。
1.『適格者主義』
93年初めに『高等学校教育の改革の推進に関する会議』は文部省に最終報告を提出しました。この報告は、全国における『改革』の状況を分析した上で、今後の『公立高等学校入学者選抜の改善方策』を提起しています。その中で、『改善』の基本姿勢は次のように明らかにされています。「高等学校入学者選抜は、昭和59年の初等中等教育局長通知にあるとおり『各高等学校、学科等の特色に配慮しつつ、その教育を受けるに足る能力・適性等を判定して行うものと』と考える」。『その教育を受けるに足る・・・』あからさまな『適格者主義』の表明です。しかし、これまでとはやや違った響きをもっています。いままで『適格者主義』という言葉は、一般的には『高校で学ぶのに適合した生徒の選抜』という意味でつかわれてきました。今回は、高校全体について学ぶことの『適格性』は問うていません。問題にしているのは、『各高等学校、学科等』についての『適格性』です。『高校一般への進学は認める』、しかし『各高校ごとに適格者を選抜しなさい』。いま『適格者主義』はこれまでとかたちを変えて現れてきたと言えます。
今回の神奈川県の『大綱』においても、この『適格者主義』の姿勢は貫かれています。前書きにあたる『大綱の制定にあたって』の中には、「生徒一人ひとりの個性や能力、適性を多面的にとらえ、調査書の評定や学力検査などのいわゆる数値のみではなく、生徒の特性や長所に注目した選抜制度とすること」というように書かれています。そして他方では『特色ある高校づくり』が強調されています。つまり、『特色ある高校』がその『特色』にあった生徒を的確に選抜することが今回の『大綱』の基本姿勢となっています。たしかに『数値のみではなく』という言葉は、一見もっともらしく響きます。しかし、数値『のみ』ではなく、その他の視点も含めた上で『多面的』に生徒の『適格性』を正確に判断しなさい。つまり、これまで以上に正確に『適格性』をとらえ選抜しなさい。『大綱』からはこうした言葉しか聞こえてきません。
2.『学校の個性』か『生徒の個性』か
もちろん、生徒の個性を伸ばす教育は、中等教育の最大の課題といえるでしょう。しかし、成長過程にあり、個性形成の途上にある十代の生徒を一律に『特色ある学校』に振り分けようとすることは、あまりにも乱暴といわざるを得ません。どのように『多面的』に生徒を測ってみても、その『適格性』を確実に把握することはできません。また、成長し、変化しつづける生徒の『適格性』を固定して捉えようとすることは、あまりにも無理があります。『大綱』を書いた人々は『成長過程にあることを考慮して』と言うでしょう。しかし、特定の『特色ある学校』に『適合した生徒』を選抜しなければならないのです。当然、受験の時点で順位づけをしなければなりません。成長の行き着く先、将来を見通した判断などは、無理があるばかりではなく、憶測にもとづいた、不確かな選抜となってしまうでしょう。
もし、個々の生徒の個性を伸ばそうとするならば、その多様な発達過程にあわせて、中等教育全体の中で、個性を伸ばそうとする教育課程が組まれるべきです。学校が個性を持ち、その個性にあわせて生徒を選抜するのではなく、それこそ多様な個性を、多様な発達過程を経て形成しつつある生徒を受け入れることが大切なのではないでしょうか。多様な個性を持つ生徒を振り分けるということは、ある個性を持つある生徒を受け入れ、他の個性を持つ者を排除することになってしまいます。『学校の個性』を固定化することは、その学校内部を画一化し、生徒の多様性を押しつぶしてしまう結果に終わってしまいます。大事なのは『学校の個性』ではなく『生徒の個性』であるべきです。
3.多段階選抜
この『適格者の選抜』と並んで、あるいは密接に結び付けて、『高等学校教育の改革の推進に関する会議』は次のような選抜方法を推奨しています。「生徒が、その希望に応じて高等学校を選択できる余地は大きいことが望ましい。また、受験機会が複数になることにより、一回のみの受験によってもたらされる心理的圧迫感を軽減することができる」。定員を区分し、何回かに分けて選抜をおこなう方式を多段階選抜とよんでいますが、はたしてこの方法が『心理的圧迫感を軽減することができる』でしょうか。考えるまでもなく、定員を区分することにより、各段階の選抜の枠はせばまります。もちろん、各段階ごとの倍率は上昇します。当然、各段階ごとの選抜に対する『心理的圧迫感』は増大するはずです。これは、だれもが気づくところでしょう。どうして『心理的圧迫感を軽減することができる』と言えるのか、まったく理解に苦しみます。
神奈川県においても、『大綱』は選抜方法を『学力検査等に基づく選抜』と『推薦に基づく選抜』に区分しています。そして『学力検査に基づく選抜』は第一希望と第二希望の枠に区分され、さらに第一希望の枠の中70%は学力検査と調査書の評定により選考し、残り30%は『調査書の評定以外の記載事項』も含めて総合的に選考されることになっています。まさに多段階に分かれた選抜です。神奈川県の公立高校全体の倍率は94年入試においては1.1倍に過ぎませんでした。しかし、段階を分けることにより、たとえば第一希望の枠が定員の80%になってしまったならば、倍率はほぼ1.4倍に上がります。もちろん全体の枠が縮小したのではないのだから、最終的には同じ倍率になるはずだ。とも言えるかもしれません。しかし、それならばなおさら、なぜ全ての枠を受検生に開かないのでしょうか。なぜ、あえて各段階で不合格者が出なければならないのでしょうか。しかも、第二希望は第一希望校に不合格になった受験生を選考対象にします。ですから、その倍率も受験生には分かりません。受験生の不安はこの点でもますます高まることになるでしょう。受験生の不安を煽って何を得ようとしているのか、まったく理解できません。
また、第二希望の枠をわざわざ確保することが、第一希望の枠を縮小する結果になるのは当たり前です。そうなれば、ある高校を第一希望として選んだ受験生の一部がはじき出されることになります。それがどうして『生徒の希望を生かす』ことになるのでしょうか。この点を見ても、複数希望制に受験生の悩みを解決する何の力もないことは明らかでしょう。
4.推薦制
推薦制度もこの多段階選抜の中に位置づけることができます。『推薦制をやればやる気のある生徒が集まるはずだ』。『推薦制をやれば、たんなる学力だけではなく、やる気や適性を配慮した選抜ができるはずだ』。こういう声が聞こえます。一見、推薦制はたいへんよい思いつきのように見えるでしょう。しかし、定員が区分され競争が煽られるなかで受験生は、より早く、より確実な進学への保障をえようとします。多くの中学生は、まず推薦を受けようとするでしょう。それにより、必ずしも本来の希望ではない入学、不本意入学が多発するおそれが、ここにもあります。あるいは、本来の希望の学校への推薦を受けたとしても、かなりの高倍率になることにより、せっかく推薦を受けたにもかかわらず希望がかなえられない結果になる可能性も高くなります。
もちろん、『推薦にあたっては、本人の適性、意欲によく配慮して』と言うでしょう。しかし、その通りにおこなわれるならばなおさら、不合格者にとっては納得のいかない結果になるでしょう。『君は意欲が足りなかった』『君は適性に欠けていた』と言われて、せっかく推薦を受けながら不合格になった受験生が納得できるでしょうか。
そして、推薦制を取り入れた場合の最大の問題は、高校入試が中学校3年間すべてに影を落としてしまうということです。3年後の受験が不安であればあるほど、中学生は1年生の時から『推薦を受けられるように努力すること』を強いられます。平素の学習でよい評価を残すこと、特別活動、ボランティア活動に励むこと、さまざまな努力を強いられます。『推薦を受けなくても他の道があるから大丈夫だ』といわれて、中学生が安心するでしょうか。
5.選抜方法の多様化
93年に各都道府県教育委員会あてに出された文部省通知は、選抜方法について、『各学校・学科・コースごとの特色に応じて多様であることが望ましいこと』『同一の学校・学科の中でも入学定員を区分して複数の尺度に基づく異なる選抜方法を実施することにも配慮すること』と『多様な』方法をとることを求めています。
『学校・学科・コースごとの特色に応じ』ながら、同時に『学校・学科・コースの定員を区分して』異なった入選方法の実施を推奨すること自体、すでに矛盾しています。この矛盾は置くとしても、『多様な選抜方法』にはさまざまな問題がつきまとっています。多様化を主張するひとたちは、次のように言います。「選抜方法が多様になれば、いわゆる偏差値による学校間の序列づけも是正されるはずだ」と。物差しが多様であれば、長さは分からなくなるだろう。ずいぶん乱暴な発想です。ことはそれほどかんたんではありません。たしかに、偏差値が『格差』を測る尺度になっていることは言えるかもしれません。しかし、物差しが長さの違いを生みだしたのではないと同様、偏差値が『学校間格差』を生みだしたのではないのです。『学校間格差』は、社会全体のしくみの中に根をもっています。尺度をどのように多様化しようとも、今度は尺度そのものに格差が生まれます。結局『格差』はなくなるどころか、より鮮明なかたちで現れることになるでしょう。『格差』を無くそうとするならば、選抜そのものを無くす、あるいは限りなく選抜の役割を薄めるしかないでしょう。
今回の神奈川の『大綱』においても、『それぞれの学科やコースをはじめ、各高等学校の教育目標等に基づいた学校の独自性か生かされるよう、特色ある教育課程や教育活動などの教科活動に基づいた選考か行われることか望ましい』とされています。あきらかに文部省の通知に素直にのった方向づけです。もし、このとおりにことが進んだ場合には、神奈川県内の高校間の『格差』はなくなるどころか、『特色』そのものが『序列づけられる』ことにより、『格差』はより明確に、より固定的に、より細分化されて再生産されることになるでしょう。そして、受験生も『多様な尺度』に合わせて細かに分けられ、類型化され、『序列づけられ』ていくことでしょう。
むすび ―公立高校の役割―
神奈川県では1973年からいわゆる『百校計画』がすすめられました。公立高校の定員を広げることにより、増加する高校進学希望者を可能な限り受け入れる体制をつくってきました。いま、この方向は大きく転換されようとしています。高校自体を『特色ある学校』として振り分け、そして各学校に合った生徒を選別しようとする方向へと進もうとしています。この新たな『適格者主義』をいかにして乗り越え、すべての生徒に中等教育を保障していく方向を見つけ出すか、これがいまわれわれに与えられた最大の課題ではないでしょうか。