高総検レポート No 28

1996年3月7日発行
知ってるつもり 総合学科 不思議発見

総合学科って何?

 戦後、新憲法とそれにもとづく教育基本法のもとで、学校教育法が制定され、新しい高校は「中学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、高等普通教育及び専門教育を施す」教育機関と定められ、「社会において果たさなければならない使命の自覚に基づき、個性に応じて将来の進路を決定させ、―般的な教養を高め、専門的な技能に習熟させること」を目標に掲げました。
 このような新しい高校の基本的性格づけは、戦前の非民主的・差別的な中等教育制度に対する反省から生まれたものでした。ですから、根本の法律体系どおりに高校をつくれば、すべての高校は、普通教育と専門教育を合わせ施す、共通・単一の学校になったはずなのです。ところが、行政の反動的な政策転換に従い、法律はそのままに、行政措置によって、高校は普通科と専門(職業)学科に分離され、次第に格差づけされていきました。
 そして、1993年3月、文部省通知によって、高校に、「普通科、専門学科に並ぶ新たな学科」として、新たに「総合学科」というものが設けられることになったのです。
 その文部省通知は、「総合学科は普通教育及び専門教育を・・・総合的に施す学科」であると規定しています。とすれば、この文言の示す限りでは、「総合学科」というものは、上記の学校教育法の高校の定義と何ら異なるところはありません。
 では、ことさらな「総合学科」なるものの“新設"のネライは、―体どこにあるのでしょうか?
 おおづかみに言って、ひとつは、第三の学科(総合学科)の設置による、第一の学科(普通科)と第二の学科(専門学科)の差別的分裂状態の追認です。つまり、高校が、「普通教育および専門教育」を受けるところではなく、「普通科または専門学科または総合学科」を選んで、それぞれ別種の教育を受けるところとして、実質的に定式化されるということです。そして。もうひとつは、そのことを通じた、高校の種別化・複線化の制度化・公認と、普通科・専門学科の再定義・再編成です。
 さらには、「総合学科」の設置を含め、専門コース・特色化・入試の多様化など「新・高校多様化」政策全体を通して、高校の人材配分機能をいっそう強化し、貿易摩擦・産業空洞化・リストラ・「規制緩和」時代の大企業の労働力政策に即応しようという動機が、文部省の高校教育政策の基底にあります。

総合学科の皮をむくと・・・

 「総合学科」設置の趣旨とそのマスタープランについては、高校教育改革推進会議の報告や前記の文部省通知などで、その建前のほぼ全容をながめることができます。そして、その設置後の実際は、94年度に開校した7校と95年度に開校した16校の状況で知ることができます。(第14回高校シンポジウム報告などを参照)
 「総合学科」の最も基本的な制度上の問題については、上記「総合学科って何?」の項で指摘しましたが、その他の周辺の問題でも、個々のプランの建前だけでなく、具体化された実際の姿を、青写真とよく見比べて検討することが必要です。これまでにも、教育政策に係わる「構想」や「計画」が、実施までの過程で、大きく変形・変質し、見るかげもなくしぼんでしまった例を、私たちはしばしば経験させられてきたからです。「構想」や「計画」の実像を見極める最も確かな方法は、「構想」や「計画」から、虹色の修飾語句を取り去り、予算のかさむ部分をはずしてみることです。その結果最後に残ったものが、その施策のホンネであり、もともとの骨格なのです。「総合学科」構想も、その例外ではありえません。
 「総合学科」の教育課程上の特徴を―口で表現すると、学習指導要領の定める必修科目の他、「産業社会と人間」「情報に関する基礎科目」「課題研究」の三科目を原則履修科目として設置する完全単位制・選択制高校、ということになるでしょう。さらに煎じつめれば、「単位制高校」の―種にすぎず、とりたてて新味はありません。したがって、「総合学科」は、単位制高校のマイナス面をそのまま引き継いでいます。
 「総合学科」のウリは、「生徒の主体的な選択を重視する観点に立ち、普通科目及び専門科目にわたって多様な選択科目を開設する」ところにあるようですが、上記のように、法令上は、現行の普通科でも、そのような教科編成は可能なばずで、「総合学科」だけの新しい特色とはいえません。普通科で実際にそのような「多様な選択科目の開設」ができにくいのは、それに必要な施設・設備・教育スタッフの配置などへの予算措置を、行政がシブルからです。「総合学科」設置政策は、「総合学科」だけに、特典として、それを可能にする予算配分をし、その制度の導入・拡大を誘導しようとしているわけです。
 また、「総合学科」は、オプションとして、「学校間連携」や「専修学校における学習成果や技能審査の成果の単位認定」を組み込むことができるとされていますが、これらも同趣旨の制度が、すでに単位制高校で導入され、さらに遡れば、定時制・通信制の「多様化」政策として長く採用されてきており、「総合学科」だけの新装備ではありません。ちなみに、それらの制度は、これまでの実施の経過のなかで、さまざまな問題点が指摘されてきたものばかりです。
 要するに、「総合学科」の最も際立った「特色」は、教育課程上にあるのではなく、教育内容の理解よりも学習への意欲・関心・態度を重んじる「新学力観」や、入試の「多様化・多元化」とセットになった、「新・高校多様化」政策の一方略として、上記「総合学科って何?」で指摘したような役割を果たすところにあると言うべきでしょう。

総合学科と労働力政策

 「総合学科」を「今後の高校改革の切り札」として設置する―方、文部省は、普通科をいっそう大学受験予備校化し、また、専門(職業)学科の方は教育内容をいっそう専門化する計画をすすめています。その際、普通科と総合学科と専門学科の全国比率を、2:6:2にするのを理想にしているようです。少なくとも「五千の高校のうち千や二千が総合学科になっても可笑しくない」状態を望んでおり、「普通科だけからの直接変換には財政上の難しさがある(から)、(普・職)併置校や職業科からの転換、職業科と普通科との統合」によって、「総合学科」設置の推進を図っていこうとしています。(『文部時報・95年6月号』)
 税収の伸びが当分見込めそうもない状況で、かつ、教育に金は出さない"伝統的"政策のもとで、教育条件整備に比較的予算のかかる「総合学科」の設置が、文部省の思惑どおりに進むとは考えにくいですが、普通科と職業科のリストラ・再編成と、精選された前者の進学エリート養成機関化、後者の技能スペシャリスト養成機関化は、金がかからないだけに、現実に進行する可能性が高いで,しょう。そうだとすれば、残った五割・六割の高校は、「総合学科」になろうが、専門コース制や単位制などを取り入れようが、「総合学科」に課せられた役割−−労働力再編・流動化に適応する人材養成−−を担う学校群として、後期中等教育体系の低層に、否応なく、位置づけられることになるでしょう。
 実際、企業間や国家間の経済競争の激化・産業構造の急速な変化とそれにともなう絶え間ない労働編成の変更・労働力の流動化などに直面している財界は、「就職目当てに大学を目指すより実務知識と起業家精神をもってべンチャービジネスにとびこんでいく人材養成機関として総合学科に期待」(住友銀行相談役)を寄せています。
 その財界が、日経連『新・日本的経営システム等研究プロジェクト(中間報告)』で、大略つぎのような労働力政策を提起しています。
 日経連がめざす「今後の雇用システムの方向」は、従業員のうち、管理職や総合職・技能部門の基幹職など「長期蓄積能力活用型」を「期間の定めのない雇用契約」(長期継続雇用)とする他は、すべて「期間に定めのある雇用契約」(短期雇用)にします。
 さらに、この短期雇用労働者を、二つのグループ−−一つは企画・営業・研究開発などを担当する、二・三年間の雇用契約の「高度専門能力活用型」、もう一つは必要に応じて随時に雇用・解雇する、一般職・技能職・販売職などの「雇用柔軟型」−−に分けています。
 また、これら三つのグループは、賃金・賞与・退職金や年金・昇進昇格・企業内福祉などでも格差が設けられています。第二・第三のグループは、現在の臨時工、社外工、日雇い労働者、派遣労働者、パートタイマー、フリーターのようなものだと考えられます。
 新しい高校再編計画に寄せる財界の思惑を透視すれば、受験高校→エリート大学・大学院は第一のグループに、受験高校・職業高校の上層→一般大学・高専・短大等は第二のグループに、「総合学科」など「特色化」高校・職業高校下層は直接あるいは短大・専修学校・各種学校等を経由して第二あるいは第三のグループに、それぞれ接続させるような図式を想定しているのでしょう。

問題解決に王道なし

 今日の学校教育問題の主要な病原は、(1)学習指導要領による教育内容の強制、(2)能力主義的競争の組織化・激化と学校の格差づけ、(3)文部省・教育委員会・各校管理職体制による教職員管理と教職員による生徒管理、(4)教育予算の貧困などにあるというのが、ほぼ衆目の―致するとろでしょう。
 しかし、これらは、すべて歴代教育行政のポリシーに基づくものですから、国民的な運動と世論形成によって、下から改革していくしか、問題を根治する方法はありません。
 @の文部省による教育内容の統制の問題では、教科書検定をめぐる裁判闘争が、家永氏や高嶋氏らによって今も続けられており、日の丸・君が代の強制反対の闘いも、各地でホットに継続中です。また、学習指導要領の撤回・修正の要求運動も、全国で展開され、今年1月12日現在で776にものぼる自治体の議会で決議や意見書の採択がなされています。教育内容の自主編成運動も、教育方法の改良の実践と結んで、さらに強力に拡大させていかねばならないでしょう。
 (2)の受験体制の下での過酷な排他的競争とその原因であり結果でもある学校間格差の問題については、かつては文部省でさえ、受験地獄と呼ばれた戦前以来の入試の歴史に学び、その反省から、小さな学区を設け、進学希望者数に見合った学校・学級を用意するよりほか解決の方法はない(1951年初中局長通知)と結論づけていました。
 ところが、学区の縮小や総合選抜制度などが受験競争と学校間格差の緩和や中退者の減少に効果があることが実証されていても、文部省監督下の各教委は、差別的選別体制の維持に固執しています。
 この問題でも、「競争よりも自立・協同」を求める保護者・教職員・地域住民などの運動の着実な積み上げが、抜本的解決への最も有効なプロセスになるでしょう。
 (3)の管理主義の問題については、体罰、人権感覚を欠いた生徒指導、イジメ、自殺、不登校、留年、中途退学、勉強嫌い、非行などの多発によって、文部省・各教委も、保護者や教職員に責任をなすりつけるだけでは事が済まなくなり、具体的対策に乗り出さざるをえなくなっています。
 けれども、問題の根底にある、取締り主義的教育観や教職員に対する権力的管理への反省、労働条件の改善などを回避しているようでは、問題の発生の増加を抑えることさえおぼつかないでしょう。
 ここでも、教育基本法・子どもの権利条約などを指針とし、教育に関わる民間団体や弁護士などの活動とも連携した、教育現場の地道で忍耐強い改革の取り組みの継続が、おそらく解決への唯一の道になるでしょう。
 (4)の教育予算の貧困の問題ば、わが国の教育状況を規定する根本的問題として、ひきつづき、教組のみならず、国民の総力をあげて取り組む必要があります。とくに、希望者高校全入を保障する財政措置、学級編制・教職員定数法の改善、学校運営費予算の増額、教育費保護者負担の軽減などが重要です。
 また、「総合学科」や単位制高校など、文教行政の方針に応じたものだけに予算を重点的に配分する、非民主的なやり方にも強力に批判を加えていかなければなりません。

 「総合学科」が、今日の高校教育問題への、文部省なりの対応策のひとつであることは確かです。文部省は、「多様化政策」では60年代以来の長い破綻の歴史をもっているにもかかわらず、「総合学科」の新設や単位制高校の設置、普通科の「特色化」と入試「多様化」、「新学力観」の導入等の「新・多様化政策」をまた採用し、財界の新たな労働力政策に応えるだけでなく、その中に、「底辺校」問題など、小学校・中学校教育を通じて堆積してきた様々な問題を、解消させようともしています。
 しかし、私たちは、困難を増す職場状況からともかく脱出しようと、文部省の意を体した御用学者や評論家、マスコミなどの宣伝文句を鵜呑みにし、あるいは教委の誘導に乗って、それら「新・多様化政策」に安易に飛びつく前に、それぞれの施策を、政府の教育政策全体との関わりも考え合わせながら、深く掘り下げて吟味し、じっくり本質を見極めることが肝要です。たとえ「総合学科」などに、魅力を感ずる部分があるとしても、木を見て森を見ない誤りは避けねばなりません。オラガ学校・オラガ生徒だけに視野を限定し、目先の利を求めて先走るのは、新しい不毛の競争を生み、全体のいっそうの悪化をもたらし、果ては自分自身をも台無しにするのがオチでしょう。