高総検レポート No 35

1998年7月7日発行

シリーズ 県立高校将来構想検討協議会「これからの県立高校のあり方について」(協議経過の中間まとめ)を読む 第2回

単位制オン・パレード

はじめに
 本シリーズの第1回で行った総論的な検討にひきつづき、今回は、各論として、中間まとめの中に氾濫している「単位制」〔注〕について、Q&A方式で、問題点を整理してみたい。

〔注〕「単位制による高絞」としての全日制単位制高校、総合学科に加えて、「単位制による普通科高校の拡大」として多様な学習ニーズや生活スタイルに合わせた「幅広い分野にわたる選択科目群を設置して総合的に学習できるタイプ」の学校、単位制による専門学科、専門コースでの単位制の活用、定時制・通信制での単位制の活用、単位制を利用した県立高校の再構成、「個が生きる高校教育」を推進していくための「単位制を生かした学びのシステムの拡大」等々。

Q1 生徒の立場から考えると、「単位制」の高校は、自分の好きな科目だけを選択でき、自分の選択した時間帯だけ登校すればよく、HRや行事などもなくて気楽でいい、といったイメージがあるようです。「各自で好きなものを取っていけるキャフェテリア方式のような自由で開放的な」学校というわけです。また教職員からは、生徒自身の興味にしたがって科目を選択するのだから、学習意欲のある生徒が集まって、授業はやりやすいのではないか、めんどうな生徒指導からも解放されるのではないか、などと思われているようです。「単位制」の高校とは、そういう学校なんですか? 中間まとめは、そういう高校づくりを提案しているんですか?

A1 確かに、上記のように、中間まとめでは、「単位制」をべ−スにして、様々なタイプの学校をつくる方向で、神奈川の高校を改革しようという意図が各所で述べられていますが、はたして「単位制」の導入が現状を打開する特効薬に成りうるかどうか? それを弁明するには、少し手順をふむ必要がありますので、基礎的な事柄から改めて考えてみましよう。

Q2 では、まず単位制というのはどういうものですか?

A2 単位制とは、一般的には「履修の量を判定する基準としての単位を設定し、所定の単位数をもって卒業のための最低必要要件とし、そのもとで必修教科(科目)と選択教科(科目)を履修させる方式」(『教育学大事典4』第一法規)をさします。現在の日本では、高校と大学で採用されています。  文部省・学習指導要領によれば、高校では、1週間あたり1学校時間(50分を標準とする)の授業時数を、1年間(35週を標準とする)通して履修したとき、1単位とされ、卒業に必要な総単位数は、80単位以上と定められています。

Q3 えっ、今の高校は単位制なんですか。 そうすると「単位制高校」というのは、屋上屋を重ねているような気がしますが、いったいそれはどういうことなのでしよう?

A3 そうです。普通科課程では1948年度から、その他の課程では49年から単位制が採用されています。戦後の新制高校は単位制として出発したのです。この単位制と、現在推進されている「単位制」とはちがうのです。まあ、結論を急がないで基礎的な話に戻りましよう。

Q4 では、なぜ単位制が必要になったのでしよう?

A4 単位制と新制高校の基本原則(総合制・小学区制・男女共学制・選択制など)は密接な関係にあります。とりわけ選択制(自由選択制)と不可分の関係にあります。自由選択制のもとでは、必修の教科・科目以外は、個人の選択にまかされますから、卒業のための最低必要条件を満たしたかどうかを計る量的表現法が必要となり、単位制が採用されたのでした。  しかし、ここでいう選択制とは、普通科の中だけの選択を意味しません。なぜなら、学校教育法第41条は、高校教育の目的として普通教育および専門教育を併せ施すこととしているので、高校教育の目的にそった幅広い選択制(自由選択制)は普通科に普通科以外の学科を併置する総合制高校を想定していることは明らかでした。このような理念を持つ新制高校は、文部省からも強く勧められて全国で相当数の総合制高校が誕生しました。

Q5 そうすると、総合制高校として出発した戦後の新制高校が、その選択制の実施のために単位制が必要になったのですね。ではその後、総合制高校はどうなったのですか。

A5 すべての新制高校が総合制をとったのではありません。全国の4割ちかい高校は、普通科単独校のままでした。その後の反動的な文教政策は、総合制を後退させ、総合制高校における単位制・自由選択制の解体が進みました。また1952年以降、漸次、小学区制がとられなくなり、また教育条件整備に経費のかかる単位制・自由選択制は否定されるようになります。他方、学習指導要領の「法的拘束力」が次第に強化され、大幅な選択制は不可能となり、限定された範囲内での選択にすぎなくなります。1956年の学習指導要領の改訂によってコース制(文系・理系などの類型選択制)が導入されるようになり、単位制は形骸化され、学年制への移行がよぎなくされていくのです。

Q6 そうすると、今の高校はもう単位制ではないのですか?

A6 原則的には、単位制ではないとは言えません。それは最初にA2で述べたとおりです。最近の教課審の中間まとめでも、「総合的な学習の時間」に関連して、「高等学校が単位制による教育課程であり・‥」と言明しています。しかし、周知のように、現実の学校は、教育行政が単位制を完全実施できるような教育条件の整備をサボタージュしているために、通信制の他ははとんど学年制を基本にしているわけです。ですから、1科目でも単位が取れなくて原級留置になると、修得したはずの残りの科目の単位も全部ダメになって、もう一度やり直しさせられたりする矛盾が生じてしまうのです。  行政は、この、原則は単位制であることと実際の運用上は学年制であることを、ご都合主義的に巧みに使い分けています。たとえば、転入出などの場合は部分的な取得単位を認める(つまり、厳密な学年制をとらない)ことがありますが、学校が教育課程の改変に際して総合制による単位制選択制の導入などを申請しても、「高校は学年制で進行しているので…」というような理由で申請を却下したりもしています。

Q7 では、なぜ中間まとめは、あらためて「単位制」を持ち出したのでしょうか?

A7 そこが、この問題の解明のキー・ポイントです。ポイントには、大きく分けてこつの側面があります。  中間まとめが、将来の高校づくりの中核的制度とも位置づけるほど、単位制にメリットを認めているのであれば、それを、上記のような本来の趣旨に沿って、すべての高校に「復活」させればよいと思うのですが、将来構想検は、そういう提言はしていません。  将来構想検が中間まとめで「単位制」を強調している基本的理由は、実は、新制高校がそれを採用した本来の趣旨とは別のところにあります。すなわち、「単位制」を、高校の「新たな多様化」政策、つまり多線化と種別多層化を基本とする高校教育全体の再編成に便利な一つの道具として−そこに新しい利用価値を見つけて−採用しようとしている、ということです。  他面、すべての高校に名実共に単位制を復活させない理由のひとつには、前にも触れたように、学年制よりも相対的に費用がかかるという点があります。とくに、普通科と専門学科にまたがる大幅な選択制や無学年制とセットになった単位制は、神奈川総合高校や大師高総合学科に類例が見られるように、他の高校よりも多くの教職員と予算が必要になります。  (したがって、中間まとめが提案する「選択制」を実際に導入するとしても、県は、教育予算の削減を基本方針としていますから、特定の高校に「選択的導入」を行うか、あるいは、全日制の一部の高校や定時制・通信制などには、「高校以外での学習成果の単位認定」などを「活用」する安上がりの「寄せ集め式単位制」等を採用することになるでしよう。)

Q8 「単位制」を高校の「新たな多様化」の道具にしようとしている、という部分をもう少し説明してください。

A8 1960年代に始まった高校「多様化」政策は、普通科の拡大を抑制する一方、職業科の比重を大きくし、その学科の構成を多種多様に細分化・専門化するものでしたが、それが破綻したあと、次には国民の要求によって増設がすすむ普通科の「多様化」(能力主義的再編)に取りかかり今日に至っています。最近の「新たな多様化」の基本構想は、中等教育を単線構造から多線構造へ変換することです。「特色ある高校づくり」「新しいタイプの高校づくり」などの名のもとに、「単位制高校」や総合学科・6年制中等学校(中高一貫校)・専門コース制などを新設して、高校教育全体を細かく種別化・多層化し、それと入試方式の「多様化」を連結させて、高校教育の共通制と共同制を解体し、全面的に再編成することをねらっています。  中間まとめは「単位制は、普通科・総合学科・専門学科のいずれにも共通する教育展開のシステムであることから、さまざまな展開を考えることができ、今後、積極的な設置の拡大が必要である。」と特筆し、「これからの県立高校のあり方」のほとんどすべての施策にわたって「単位制」の導入を繰り返し提唱しているのですが、これを逆さまにしてみると、「単位制」なしでは、中間まとめの「これからの県立高校のあり方」は成立しないのではないかとさえ思われてきます。なぜ、それほど「単位制」が強調されるのでしようか?  その答えは、はじめに「新たな多様化」方針ありき。それを可能にする方策を突き詰めていったら、「単位制」に行き着いたと考えるのは、はたして邪推でしようか? そこでは「単位制」は、もっぱら、教育内容を規格化された単位に細かく分割し、その履修(修得)の集積によって卒業(修了)認定を行うシステム、と捉えられ、それが、学校形態や学習形態の基本に位置づけられています。そして、その上に、高校教育の「新たな多様化」が展開されるという組み立てになっているのです。

Q9 それでも、「単位制」がいいものであれば、問題ないのではないですか?「単位制」はなかなか評判がいいようですよ。

A9 たしかに、「単位制」は一般にいいイメージをもたれているようですね。中間まとめが「単位制」をしきりに持ち上げているのには、そういうプラス・イメージを「活用」したいという思惑も含まれているのでしよう。  しかし、「単位制」に対する一般的イメージには問題の部分もあるのです。たとえば、Q1に挙がったような「単位制」を評価するさまざまな項目は、実は、必ずしも単位制だけによって成立するものではなく、またそこからのみ生じる効果であるとも言えません。多くの人々が抱く「単位制」のイメージは、そのような単位制以外の様々な要素でふくらみ、彩色されているようです。単位制そのものは、A2にあるように、要するに、履修(修得)量を計る方式の一つに過ぎす、それ以上のものではないのです.それだけ取り上げても特に教育的価値があるわけではありません。  肝心なのは、格差のない高校に希望する者だれもが入学でき、そこで各生徒が共通に必要とする基礎課程と個別に必要とする選択課程が差別なく保障されることです。そうすれば、単位制は、自ずと多くの高校で便利な制度として採用されることでしょう。

Q10 「単位制」は、現在、県教委からどのように位置づけられているのでしようか?それと中間まとめとの関係は?

A10 単位制全日制高校である神奈川総合高校は、「単位制」である故に、特色ある新しいタイプの高校とされ、学区制の枠を外れています。大師高校総合学科も単位制を採っていますが、総合学科である故か単位制である故か、同じく特色ある新しいタイプの高校とされ、学区制の枠をもっていません。「単位制」が、特色ある新しいタイプの制度と位置づけられ、それ故に学区が外されているとすれば、中間まとめに氾濫する「単位制」の高校は、すべて相似の根拠で、学区制の制約を外されることになるのでしようか?「単位制」の高校が増えれば増えるはど、特殊性も低下し、学区をはずす根拠も薄らぐことになり、県教委はジレンマに陥るでしよう。それとも、逆に、ほとんどの高校を「特色」化することによって、学区制度全体をなし崩しにしてしまうつもりでしようか?  この可能性は小さくありません。そうなれば、学校問格差はさらに拡大し、受験競争はいっそう激しくなるでしよう。