高総検レポート No 43

1999年6月22日発行

中高一貫教育を考える PART2

 中高一貫教育の提案者である中教審自身が『第2次答申』で指摘しているように、中高一貫教育を一部に限って導入することには、多くの問題点がある。そのうち最も重要なのはつぎの3点である。

  1. 中高一貫教育制度は大学受験準備教育に利用されやすく、「受験エリート」学校になる可能性が非常に高い。
  2. 中学校受験競争がいっそう激化する。
  3. 小学校卒業段階での進路選択は不適切であり、実際上困難である。

私学は中高一貫の「先進校」

I

 ところで、国立大学の付属学校や私学の多くでは、周知のように、かなり以前から事実上の「中高一貫教育」が実施されている。そして、そのうちのいくつかは、有名大学の入試で相当数の合格者を出しているのも周知のことであるが、それらの実績が、それぞれの学校の「中高一貫教育」システムと密接に係わっていることを否定する者は恐らく多くないだろう。
 しかし、言うまでもなく、中高一貫教育はつねに必然的に無条件に大学受験教育と結びつくわけではない。一方に受験体制とその下での激しい競争があり、他方に6年間一貫した教育課程を編成できるシステムが事実上存在するとき、両者は容易に結合するということだ。それは、中高一貫教育の方が、高校受験という壁によって中学と高校の教育課程が分断されている現在の公立学校などの教育制度よりも、合理的であり効果的であるという、ごく単純な事実の上にしぱしば「自然に」現れる現実的結果である。
 言い換えれば、中高一貫教育は、自動車のようなもので、使い方によって利器にも凶器にもなる。中教審自身が言うように、その導入によって、「ゆとりのある安定的な学校生活が送れ、計画的・継続的な教育指導を展開でき、個性を伸長し、優れた才能を発見でき、社会性や豊かな人間性を育成できる」学校ができるか、「受験準備に偏した」学校ができるかは、状況(条件)次第ということである。そして、上記のような国立大付属校や私学の一部に見られる現状は、その実際上の帰趨を示していると言えよう。

II

 関東地方や近畿地方などの大都市圏で、私立・国立中学受験が急増し競争が過熱状態にある。
 私立・国立の中高一貫教育校に子どもを入れようとする保護者の動機は、大雑把に分類するとつぎの3項になるようだ。
  1. 計画的・継続的にしっかり受験教育をしている学校に早くから通わせて、大学受験競争で優位に立たせたい。
  2. 高校入試のない学校で、ゆったりのびのび青少年期を送らせたい。できれば、エスカレーターで大学まで行かせたい。
  3. 「荒れ」ている公立中学校を避け、きちっとした生活指導をする学校で、イジメなどを受けない安心できる学校生活をさせてやりたい。
 受験競争は、一般に、学歴社会をべースにして、社会体制による能力主義的選別の必要と子ども・保護者の上昇志向との相乗として展開されているが、とくに私立・国立中学の受験競争は、上に挙げたような保護者の願望・欲求を―実際はどうであれ少なくとも心理的に―充足できるかどうかの争いという側面をもつ。そして、合格を果たす子どもの保護者は、比較的高学歴で経済力もある者が多数を占めるという統計的事実がある。
 私立・国立中学受験の盛行は、公立中学校に深刻な危機をもたらしている。「地域の公立中学校がセカンド・チョイスの学校となり、他に行きたかったが行けなかった生徒の集まるところとなるということが、その学校から、多様で多彩な経験と資質を持つ生徒が共同の学習・生活経験を共有することによって多様な文化の価値を知り寛容さを学ぶという民主的な社会、なかんずく地域コミュニティを形成する機能を失わせることになる恐れ」(公立大学協会「中教審I審議のまとめ(その2)」に対する意見について」)を現実のものにしつつある。それは、地域を分断し社会階層を一層深く分解させる要因の一つになるだろう。

III

 以上のような状況の中に、どのような設置形態であれ、ごく限られた数の公立中高一貫教育課程を設けるとなれば、それらは、遅かれ早かれ「受験エリート」教育にならざるをえず、中学受験競争全体がさらに激化してゆくのは、火を見るよりも明らかである。

五ヶ瀬中学・高校の入試

 宮崎県は、全国に先駆けて、中高―貫の県立五ケ瀬中学・高校を開設した。この学校の入試はどうなっているのだろうか。
 中教審は、「中高一貫教育の(選択的)導入に伴って最も懸念されることは、入学者を定める方法の在り方によっては、受験競争の低年齢化を招くのではないかということ」と言い、その「解決策」として、「学力試験を行わないこととし」「抽選や面接、小学校からの推薦、調査書、実技検査など多様な方法を適切に組み合わせて入学者を決める」やり方を示しているが、五ケ瀬中学・高校は、この方式をそのまま採用している。その内実を覗いてみよう。
 五ヶ瀬中学は全県学区。開設後の5年間、入学希望者は定員の9〜10倍。先ず、受験には在籍する小学校の校長の推薦が必要。(これが、第1段階の事実上の校内選抜。)つぎに、中学校での、調査書・推薦調書・集団活動・作文・制作・面接などによる第1次選考がある。調査書の大項目は、「学習」「特別活動」「行動」。それぞれに小項目があり、3段階で評定。その他、自由記述の「指導上参考になる諸事項」など。
 「調査書」の「学習」欄は、各教科の評定と観点別評価を表示。「行動」欄は、性格・行いなど11項目の評価を記入。「特別活動」は、クラブ活動など4分野の活動状況や成績の評価。「指導上参考になる諸事項」は、特技やボランティア活動などを特記。
 「推薦調書」は、各教科学習・教科外活動・生活習慣・他の児童との関わり・本校の教育理念との関連・知的分野と連動分野と芸術分野の特筆事項・6年間の学校と寮生活への適応、将来展望、など11項目についての自由記述と評価。
 「集団活動」は、例えばグループで絵本づくりをさせ、発言や参加の度合い等を評価。
 「面接」は、生徒10人につき県教委の指導主事を含む3人の面接官の集団面接で、志望動機・将来の進路希望などを聞き、答えの内容や態度を評価。
 以上のような項目「すべてを点数化し、総合的に評価」(学校関係者)して、この段階で、定員の約1.5倍(定員40人に対して上位60人)にしぼる。ここで300人以上が振るい落とされる。
 そして「抽選」が行われるのであるが、抽選といっても、第1次選考に残った60人の中から最終合格の40人を決定するのに使われるのみである。
 これが、「受験競争の低年齢化を招」くことのないように、「学力試験を行」わず「多様な方法を組み合わせて入学者を決める」中高一貫教育モデル校の選抜の実態である。宮崎県内では、小学校の受験指導と児童・保護者の受験志望が過熱し、見事に「受験競争の低年齢化」が進行している。そして、同校は、早くも県内トップクラスの進学校になっているのである。

12の春の進路選択

I

 中学校受験の拡大は、否応なく小学校を激しい受験競争に巻き込んでいる。とりわけ大都市とその周辺では、私立中学受験がメイン・ストリームとなり、その流れに乗っている者も疎外されている者も共に、しばしば学習疎外を起こしている。国連子どもの権利委員会から、98年6月に、「過度に競争的で、心身に否定的な影響を及ぼしている」と異例の改善勧告を受けた我が国の学校教育と、この競争に勝たせようとする家庭の熱く過剰な期待の下で、児童たちの中に強度のストレスが蓄積している。それは、イジメ・非行などの問題行動、不登校、近ごろ程度の差はあれほとんどすべての小学校に蔓延している「新しい荒れ」、「学級崩壊」などの基本的な要因の一つになっている。

II

 中教審第2次答申は次のように言う。「総合学科や単位制高校の拡充、選択幅の広い教育課程の編成、自校以外の学習成果の単位認定の導入、中学校については、選択履修の幅の拡大など…言わば『横の多様化・複線化』」(の推進とともに)、「中高一貫教育の選択的導入は、言わば『縦の多様化・複線化』(既設6・3・3制にそれ以外の制度を新設する)を実現するものであり、中等教育全体の多様化・複線化、さらには学校制度の複線化構造を進める一環として、極めて重要な意味をもつ。」そして、そのような二重の「多様化・複線化」によって「子どもたちや保護者の選択の幅が広がっていく」と言うのだが、
  1. 「縦横の多様化・複線化」、つまり能力主義的差別選別の学校教育システムの下での高校と中学の激烈な受験競争を、単なる「選択の問題」とする中教審の基本認識に、
  2. また、公立学校への中高一貫教育の選択的導入が「過度の受験競争に一層の拍車をかけるおそれ」についての彼らの意識の脳天気さ・現実遊離のその考え方に、
  3. ことに、小学生を狂烈な受験勉強に駆り立てることによる精神的・肉体的影響の軽視に、
そしてこれら全体の無責任さに、ただアゼンとするほかない。

III

 もとより中高一貫教育そのものをここで問題にしているわけではない。問題は、中高一貫教育をすべての生徒に公的に保障するのではなく、『中等教育全体の多様化・複線化、さらには学校制度の複線化を進める」ために一部の公立学校へ導入するという点に ある。そして、それによって、小学生を過酷な受験競争に引きずりこむところにある。
 そもそも、「小学校の卒業段階での進路選択」は適切なのか?
 中教審第2次答申は、中高一貫教育の「教育内容」の類型として、(a)普通科タイプの他に、(b)総合学科、(c)専門学科の2タイプを挙げている。(a)は従来よりもさらに内容を「多様化」すると言う。(b)と(c)は、その順で教育内容の専門性(特殊性)が高くなってゆくと考えられるが、12歳という発達段階で、はたして何人の児童が、みずからの資質・適性を見きわめ、5年10年先を見通して、主体的に進路を選ぶことができるだろうか?また、入学後、何人の中学生が、専門的教科・科目を自主的な判断で選択できるだろうか?いや、一体、小・中学生にそういう選択をさせること自体、教育的に問題はないのか?
 社会が発展し高度化するにしたがって、教育制度も拡充され、義務教育年限も長くなり、中等・高等教育を受ける者の比率も高くなってゆく。これは、世界共通の法則的現象である。つまり、社会はその維持・発展に必要な質と量の教養と能力を人々に要求し、それに相応した教育の機会と条件を保障するということであるが、その真の発展の基礎は、将来を担う一人一人の子どものそれぞれ異なる潜在能力を自由に可能なかぎり発達させることにあり、けっして早期に型にはめて部分的能力のみを育成することにあるのではない。子ども達が各々の可能性を実現し独自の人格を形づくってゆく過程とそこでの試行錯誤をじっくり見守ることのできる余裕こそ、その社会の文化的成熟度を測る最も有効な物差しの一つと言えよう。