高総検レポート No 53

2001年9月27日発行

シリーズ 総合学習 その2(上)

「ヨコのカリキュラム」で平和学習をどう組み立てるか?


1.なぜ、平和学習か?

 総合学習のテーマを考えるにあたって、平和学習をぜひ積極的にとりあげるよう提案したい。その理由を列挙する。
  1. 世界や子どもたちにとって切実な課題である。
  2. 教育基本法は「平和的な国家及び社会の形成者」として「国民」を育成すると言っており、本来日本の教育が普通教育としてもっとも重要視しなければならない課題であったはずである。
  3. 人権教育とともに教育課程の中心的なテーマとして、教育内容の各教科・科目(教科外活動も含めて)を貫いて、総合的な性質をもつ。
  4. にもかかわらず、新学習指導要領の「総合的な学習の時間」のテーマの例示では取り扱われていないし、戦後の教育現場での平和教育の取り組みは「政治的である」として、しばしば抑圧されてきた。

2.今日的な問題点は?

 前号(高総検レポートNo.51)の「タテ・ヨコのカリキュラム概論」に引き続き、今回は、総合学習で平和教育(学習)をどのように扱うのかという課題を検討する。なお高総検では、1998年の『続・学習疎外を超えて』の解説10.「平和教育」(85〜91ページ)でカリキュラム案を提示している。これにならいながら、かつ、今日の「平和学習」が最も留意しなければならない点を確認したい。私たちが平和学習を取り扱う場合、おうおうにして過去の戦争被害者側からの教材が中心になりがちである。日本軍による加害やそれに対する抵抗の客観的事実を学ぶことが二の次のなる傾向がある。
 しかし、さらに欧米の平和教育が「軍拡を進め、軍事力によって敵対勢力に打撃をあたえなければならないという政府の政策を変えていく、また国民の中にある軍縮反対者の認識を変えていくための行動準備の教育」が中心に立っているのに対して、日本の平和学習はこの分野での取り組みが手薄であったことは否めない。今後拡充されなければならない分野である。
 また、小・中・高校を含めて「いじめ」の問題が深刻化しているといわれている。少年による凄惨な殺人事件もおこっており、若者による電車内や路上での暴力事件も頻発している。こうした社会や学校での暴力的な風潮と無関係に「平和学習」を論じても空しい。これらの視点をも見据えて行かなければならない。*

 *2001年8月25日付朝日新聞は「公立の小中高校の児童生徒が昨年度に起こした『暴力行為』の各市町村教育委員会への報告数は、全国で計4万374件と、前年度を10.4%上回り過去最多を更新したこと」を文部科学省発表として報じている。

3.平和の概念と平和学習

 1960年代半ばから「平和」の概念の拡大が提案され、旧来の「平和」の捉え方が「戦争のない状態」を「平和」としていた(「消極的平和観」、平和は守るもの)のに対して、平和は戦争と構造的暴力(人権抑圧・飢餓・貧困・深刻な環境破壊等により、人々の生存権を含めた人権が守られない状況)のない状態をさす、積極的な平和観、すなわち、平和は創るものという考え方が提唱されるようになった。そして、70年代半ばからは国連やその関連機関もこの拡大された「平和」概念を使用することになった。平和教育(学習)の内容は、このように戦争のない状態をどのように創り出すかを追求することに加えて、構造的暴力のない状態を地球的なレベルで創り出すことを考慮しなければならない。前者の中で日本が最も力を入れなければならない平和教育の課題は軍縮教育である(後者については人権教育・開発教育・環境問題の学習との関連が求められる。)。軍縮とはただ単に軍備を削減することではなく、全般的完全軍縮であり、全世界のすべての武装を廃棄することをめざすいっさいの行動形態を指すのである。1980年6月に採択されたユネスコの「軍縮教育世界会議最終文書」[A-(2)]は、以下のようにそれを定義している。

(2)軍縮の定義
 軍縮教育のめざす軍縮は、一方的軍縮のイニシアチブを含めて、軍縮の制限、管理、削減、そして最終的には効果的な国際管理のもとでの全般的完全軍縮をめざすいっさいの行動形態と理解することができる。それはまた、現在の武装民族国家のシステムを、戦争がもはや国家の政策の手段ではなくなり、諸国民が自分自身の未来を決定し、正義と連帯にもとづく安全のなかで生きるような計画的な非武装平和の新世界秩序へ変えることをめざす過程と理解することもできる。[「軍縮教育世界会議の報告と最終文書」2会議の最終文書A−(2)]

 だが、日本国憲法の前文や第9条・第12条、教育基本法の前文や第1条を考えれば、「憲法の非武装・非戦主義の教育(=軍縮教育)の必要が日本の教育の基本的課題になっている。」(藤田秀雄「平和教育」、平和・人権・環境『教育国際資料集』堀尾輝久・河内徳子編、青木書店、1998年)はずだった。ところが、日本の軍拡問題、日米防衛協力の諸問題等の重要課題に関する教育は立ち遅れており、国連やユネスコ文書をもとにして問題解決のための行動への教育が今日日本の平和教育の課題とならなければならない。
 

4.平和教育(学習)の主要な課題とねらい

(1) 「ヒロシマ・ナガサキは核時代の始まりであるとともに、地球時代の始まりであった」(坂本義和『地球時代の国際政治』1990年)という言葉に示されているように、広島・長崎への原爆投下やビキニ環礁での水爆実験による第五福竜丸等の被爆は、単なる過去の歴史知識だけにとどまるものではない。一都市を一瞬にして破壊してしまう広島型原爆の破壊力の大きさは、原爆資料館の展示をして私たちを驚愕させるにもかかわらず、その後の米ソ超大国を中心とした核開発は地球を数十回全滅させてしまうほどの核兵器を保有するにいたった(3万発以上の核弾頭)。冷戦体制が崩壊しても、基本的にはその状況は変わらないし、パキスタンやインドのように核兵器を保有する国が増加する危険性は減少しているとはいえない(核の拡散)。さらに今またアメリカを中心とした「ミサイル防衛構想」が大きな外交問題となっている。「終末の共有」によって「人類はひとつ」、「地球の危機」という認識を再確認する必要がある(もちろん、さらに今日では、「環境」や「エネルギー」等、地球レベルで解決を迫られている問題は多い。)。しかし、その一方では、核軍縮や廃絶の運動も世界中でねばり強く行われてきており、子どもたちに、将来への不安を抱かせるだけでなく、一人ひとりの市民が世界規模で連帯することが、核保有国や自国政府の政策に影響を与えること、核廃絶がけっして実現不可能ではないしという展望を持たせるようにする。日本政府がいうようにけっしてそれは遠い将来の「究極的な」目標ではない。

(2) 近代日本が朝鮮・中国等アジア地域に対して行った植民地化と侵略戦争の実態を明らかにする。また、天皇をはじめ軍人・政治家・旧財閥・知識人などの戦争責任、そして民衆も無知と隷属と臆病さによって戦争体制を支えていたことを明らかにする。本年夏、大きな政治問題となった首相の靖国神社公式参拝問題や狭隘なナショナリズムに染まった中学校の歴史や公民の教科書採択問題、数々の戦後補償問題等、21世紀に入ったとはいいながら、あいかわらず前世紀の問題を清算できていない。それは日本政府が15年戦争を「やむをえない」自衛戦争とし、欧米列強からアジアを解放する戦いであったと考えているからである。侵略戦争を行った事実を認めず、被侵略国に謝罪しないことが、国際的な信用を得られない要因になっており、すでに有数の軍事力を保有していることと合わせて、アジア諸国の安全保障上の潜在的脅威になっている。また、戦後世代に対して加藤周一は次のように語っている。

「戦後に生まれたひと個人には、戦争中のあらゆることに対して責任はないと思います。しかし、間接の責任はあると思う。戦争と戦争責任を生み出したところのもろもろの条件の中で、社会的、文化的条件の一部は現在も存続している。その存続しているものに対しては責任がある。もちろんそれに対しては、我々の年齢のものにも責任はありますが、我々だけでなく、その後に生まれた人たちも責任はあるんです。なぜならそれは現在の問題だから。」(加藤周一『戦後世代の戦争責任』かもがわブックレット67,1994年)
 
 これらのことを子どもたちに理解させ、戦前から無反省に今日まで続いている清算すべき諸問題を批判的にとらえさせたい。

(3) 沖縄戦を扱う場合には、日本固有の領土内で唯一住民を巻き込んでの地上戦闘が行われことを知らせ、ことに軍隊はけっして自国民の生命・財産を守るものではなく、その銃口は時に自国民にも向けられるものであることを実例をあげて理解させる。また、島津の琉球侵入から始まる近世において、琉球王国がヤマト(日本本土)から歴史的にどのような扱いを受けてきたのか、「琉球処分」から始まる近代において明治新政府は沖縄をどのように考え、どのように扱ってきたのか、なぜ沖縄は対米戦で本土防衛の捨石にされ、なぜ敗戦後はアメリカが統治することになったのか(1956年)、なぜ祖国復帰(1972年)後も米軍基地がそのまま居すわったのか、なぜ現在も日本政府は沖縄を、米軍の世界制覇戦略の前線基地として、巨額な駐留経費まで負担して提供し続け、沖縄県民に多大な犠牲と不利益を強いているのか、等々を調べさせ、本土と比較しながら考えさせる。そして、日本の安全保障のためとされている米軍の駐留が、かえって周辺諸国への軍事的脅威をあたえ、東アジア地域における不安定要因になっていることを理解させる。*
*沖縄の歴史については、沖縄歴史教育研究会・新城俊昭編『高等学校・琉球・沖縄史』(東洋企画、1998年)が参考になる。

(4) 世界第二位に達した日本の軍事力と日米安全保障条約などによる日米の軍事同盟は、今日、アジア諸国間の緊張を増幅する要因のひとつになっている。「自衛隊」と名乗る日本の軍隊は、その装備内容と規模のみならず、「国際貢献」論に乗じた海外派兵の実施や日米戦争協力指針などの改定によって、すでに自衛の範囲をはるかに超えている。神奈川県は、沖縄県に次ぐ基地県であり、その実情を学習することを通して、日本の「戦争構造」を解明する。

(5) アメリカを盟主とするG7やロシアは、また武器輸出国でもある。戦争は、政治の延長であり、経済の延長であることを、産軍複合体などの分析を通して、理解させる。日本も、国会決議に反する武器の生産・輸出国のひとつであることを、資料をもとに知らせる。

(6) 戦争の防止には、国内的・国際的に民主主義を貫徹させることが重要であり、地球規模の「共生」の思想を育て広げることが不可欠になっていることを理解させる。米ソ対立終焉後の今日、唯一の超大国となり全世界の指導者を自認するアメリカの世界制覇戦略とその展開が、世界の平和を左右する最大のモメントになっている。地域紛争に関しては正確な情報伝達手段の確保と基礎的教育機関の整備などを通した、少数者・他宗教に対する寛容の精神や他民族の文化に対する理解が重要である。対立や差別・抑圧を解消し和平を実現する前提として、地球レベルでの生産と分配における公正さの実現(南北問題の解決)と強国の干渉の排除が不可欠である。この部分は開発教育との連携を要する。
(7) 日本国憲法の第9条を柱とする非武装平和主義を「古くなった」と攻撃し、違憲の自衛隊の存在と海外派兵の実現へ向けた、改憲の策謀が具体的な作業日程に入っている。平和を追求し続けてきた人類の歴史の後をたどり、またコスタリカやパラオ等その他の世界の国々の非核憲法や平和憲法の学習を通じて、憲法の永久絶対平和主義が、今後も世界の和平を導く最も先端的な「常に新しさを失わない」原理であることを理解させる。*
(つづく)

*「常設の制度しての軍隊は、これを禁止する。」コスタリカ憲法第12条
**「各国議会は、日本国憲法第9条のような、政府が戦争をすることを禁止する決議を採択すべきである」1999年平和アピール市民社会会議、「公正な世界秩序のための10の基本原則第1項
***さらに、戦後五〇年をへた今日あらためてこの憲法の精神は、これからの世界秩序づくりにとって先駆的かつ現実性をもつことが認められてきている。アメリカにも、湾岸戦争後に、チャールズ・m.オーバービー氏を中心に「憲法第九条の会」がつくられ、「日本国憲法第九条の理念を世界中が取り入れる活動」を始めた。また、ハーバード大学のブライアン・ウドール助教授は、「冷戦後の新世界秩序には、日本の憲法、とりわけ第九条の精神が、どの国の憲法よりも適している」と語り、総司令部の一員としてマッカーサー・ノートにかかわり、女性の権利の拡大の恩人でもあるベアテ・シロタ・ゴードン女史は、「それは最良の憲法」であり、第九条は「廃止されるべきではなく、むしろ模範とされるべきだ」と述べている。また、また、シンガポールのジャーナリスト、陸培春氏は日本の不戦憲法は、アジアの民衆二〇〇〇万人の犠牲の上につくられたものであり、アジアの人々はだれもそれを変えることを求めてはいないと述べている。(堀尾輝久「地球時代とその教育」『岩波講座11現代の教育・国際化時代の教育』1998年、所収)