高総検レポート No 58

2002年3月6日発行

検証「求められる教員像」(教育制度グループ3)

私たちの求める教員の「専門性」

 

1.教員の専門性に対するさまざまな攻撃
 学校教育法の定める教職の専門的自律性に根ざす教員の職務権限が、今まさにさまざまな攻撃にさらされている。
 例えば、昨年12月7日付け『神奈川新聞』が1面トップで報じた、神奈川県教委が「指導力不足教員等」を見極めるための判定委員会を第三者機関として設置する要綱を策定したという記事。「授業を成立させられない」「生徒指導が適切でない」などの「問題教員」を学校当局者ではない第三者の目を通じて「客観的に判断」する必要があるという。「指導力不足教員等」のレッテルに「評価の客観性」というお墨付きを得て、該当者の排除に乗り出してきたとき、抵抗しにくくなることをむしろ恐れる。
 また、昨年9月、「教職員人事制度研究会報告」(以下「報告」と略す)の形で示された勤評に代わる「新たな人事評価システム」の新年度からの導入。「目標管理手法」をうたいながら、実際は、学習指導、生活・進路指導、学校運営、特別活動の4つの評価項目で、能力・意欲・実績について5段階評価を下すというもの。本人の設定した目標とは関係なく「職務全般にわたる勤務状況」が評価対象とされる点は大きな矛盾だ。管理職による授業観察や同僚からの意見聴取、時には指導主事による参観などが行われれ、職務が日常的な監督と統制にさらされることは必至である。
 1980年代にアメリカで教員の資質向上策として試みられた給与処遇と結び付けた信賞必罰的教員評価(メリットペイ)はそのほとんどが失敗したといわれる。「報告」には「人材育成及び能力開発を目指して」という副題が付けられているのは実に皮肉なことだ。かつて1990年代に「成果主義の人事評価制度」を鳴り物入りで導入した日本の某電気メーカーでは、社員の意欲を引き出すどころかマイナス評価を恐れて目先の目標ばかりにとらわれる「守りの姿勢」を強化する悪い結果を招き、ついに昨年末、1万人を越える大リストラの発表を余儀なくされた。県教委は少なくともこの事例に学んでほしい。
 教育公務員特例法には、教員の研修は義務であり権利という定めがある。教員の「資質能力」を高めるためさまざまの研修の機会が保障されるべきは当然だが、昨今自主研修の権利は著しく制限されつつある。問題は、それに呼応する形で教員同士を競わせようとする策動が90年代末から目立ってきたことである。つまり、「資質能力」は、「育てるもの」ではなく「評価・選別の対象」というのが当局の考えなのだ。これによって職場はどう変わるのか?

2.教員の「資質・能力」の内容は何?
 様々な教育課題の解決のために「教職員の力量」を高める必要性を否定するものはいない。しかし、「教職員の資質能力として必要なものは何か」という議論が未だ明確にされていないこの段階で「指導力不足教員」の判定や「新たな人事評価制度」の導入が行われればどうなるか。「指導力不足教員等の例」の中に「上司の指示や指導を無視し、勝手な行動をとる」がある。これは「資質・能力」として一括できる事柄だろうか。管理職による恣意的な判断を防止するに足る明確な判断規準の設置が前提だ。むしろ民間企業の例にあるように、管理職についての厳格な評価制度の導入の方こそ先行して行うべきなのである。このままでは教職の多面性が無視され、羅列的な「評価項目」にとらわれる傾向をつくり出す。そうなっては、「報告」の掲げる「学校教育が直面する困難な教育課題の解決をはかり教育効果の向上をめざす」という目的とはかけ離れた結果を招くだけであろう。少なくとも1987年の教育職員養成審議会の第1次答申のレベルは踏まえつつ議論する必要がある。教員の専門性についての議論はここから出発すべきである。

学校では、多様な資質能力を持つ個性豊かな人材によって構成される教員集団が連携・協働することにより、学校という組織全体として充実した教育活動を展開すべきものと考える。画一的な教員像を求めることは避け、生涯にわたり資質向上を図るという前提に立って、全教員に共通に求められる基礎的・基本的な資質能力を確保するとともに、さらに各人の得意分野づくりや個性の伸長を図ることが大切である。   
(教育職員養成審議会・第1次答申 1987年)

3.「公僕」としての教員とは?
 それでは、われわれが求めるべき「専門家」としての教員とはどのようなものか。現実の教員は、医者や弁護士のように自律性を有する「専門家」という社会的な認知を得てはいない。公立高校の教員に関しては、むしろ行政の官僚機構の末端で所定のサービスを提供する「公僕」として社会に受け止められているのを「県民の声」という形で知ることが多い。「公僕」としての教員とは、学習指導要領に拘束されつつ教科書の内容を伝達し、教育委員会の指示する業務を忠実に遂行する存在、ということになろうか。しかし、既定の職務を忠実に実行する「公僕」という抽象性は、生身の生徒を前にして直ぐに脆くも崩れ去ることになる。課題集中校の例をあげるまでもなく、教員は目の前に展開する様々な諸課題を前にして、子どもに、親に地域住民に、そして同僚からも、やはり「教育の専門家」として代替不可能の役割を期待されていることに気づかざるを得ない。
教育職は専門職として職務の遂行にあたって学問上の自由を享受すべきである。教師は生徒にもっとも適した教材および方法を判断するための格別の資格を認められた者であるから、承認された枠内で教育当局の援助を受けて教材の選択と採用、教科書の選択、教育方法の適用などについて不可欠な役割を与えられるべきである。
(ユネスコ・ILO「教員の地位に関する勧告」1966年)

4.教員としての専門性を高めること
 昨年12月6日付けの『朝日新聞』に「都立高教員の予備校研修」の記事が載った。都教育庁の企画により代々木ゼミナール本校で開かれた「進学対策のための教科研修」である。私立に水をあけられた都立高の復権を目指す都教育庁のねらいは「進学を目指す生徒にこたえる教員を育てる」ことだ。100人の定員に226人が応募し、予備校の担当者が意外に思うほど熱心に3回シリーズの研修に参加したそうだ。あくまで私事に過ぎない生徒個人の進学に的を絞った教育体制をこれから公立学校につくり出そうとする時代錯誤に驚く。予備校の教授法の真似をして振り向かせようとするさもしいやりかたに今どきの生徒がついてくるとは思えない。ある完成済みのパターンを真似して習得できるようなやり方で教員の「専門性」を高めることができると考えるのは大いなる誤解である。教員の専門性は、現場に即応できることを条件とするからである。
授業において、子どもはそれぞれに固有の生育史、家庭や地域の背景、独自の経験、学習歴をもって、固有名の子どもとして学んでいる。学級もまた個性をもった特定の集団である。教師は授業において、子どもたちの実態に即して、特定の教材を選ぶのである。このように、授業は固有名の子どもたちを対象に、特定の内容、教材に即して、特定の方法を選びつつ行われる活動であるが、教師自身もまた、特定の固有名の存在である。そのような関連において、実践は、基本的に個別の教師の判断と責任において行われるのである。
(稲垣忠彦「教師教育の課題」岩波講座・現代の教育6より)

5.現代の教員に期待される役割
 経済・社会の激しい構造転換が進行しつつある今日、教員の専門性の輪郭が不明確になっているのは事実である。かつて敗戦後から70年代半ばまで教員は国民国家と産業社会のイデオロギーの伝達者として明確に位置づけられており、この時代には「授業の技術や教科内容のスペシャリスト」という明確なイメージが教員像として存在した。同時に、学歴社会を背景にして、学校から社会への「出口」に立ち、子どもたちを能力によって効率的に振り分ける「選別者」の役割を果していたことが、教員の仕事に絶対的な権威を与える効果をもたらしたことを、反省を踏まえつつ認めないわけにはいかない。
 やがて1980年代を迎えて学歴社会に翳りが見え始め、その影響が教育現場に「校内暴力・不登校・いじめ・高校中退」という形の「社会現象」として現れたとき、日本社会はこれらの現象をもっぱら教員たちが担うべき「教育の課題」とした。そのとき重く深刻な課題に直面して呻吟する教員に対して投げかけられた言葉は、「学校は生徒を指導し切れない」という実に冷たいものでしかなかった。先の「報告」の言説にもこれと同様の、教育現場を一般社会とは異質の閉鎖的空間として捉えようという発想が働いている。ここには教員たちを温かく支援しようという意図は微塵も感じられない。
教員の活動は、相互に干渉せず、前例踏襲的・画一的になりがちであるといわれ、また、社会の変化に対応できない学校の閉鎖性も指摘されているところであり、「学校の常識は世間の非常識」と批判されるような状況があることも否定できない。・・・教員は、多くの民間企業や公務部門の職員と異なり、新採用時から上司の指導や指示をあまり受けず、ベテランの教員と同様に児童・生徒に接し、各自の発想や自主性に委ねられることの多い教育活動に従事しており、互いに切磋琢磨する契機が少ないことから、ともすると職場がマンネリ化しやすくなる。
(教職員人事制度研究会報告)

6.教職の公共的使命と管理統制の強化
 それでは我々は新しい教員の専門家像をどのように描いたらいいのだろうか。かつて高度経済成長期までの一般的な教員像であった「技術的熟達者technical expert」は色あせてしまった。授業の技術や教科内容の「スペシャリスト」として知識量の優位を誇るだけでは、現代の高度情報化社会では通用しないのだ。マスメディアとハイテク産業は、学校の外に多様な学びの場を提供している。何を今さらあえて学校に学びの場を求める理由があるのだろうか。こうして学校固有の役割が不透明になりつつある「教育のポスト・モダン状況」は、教職の役割の転換を促していることは事実である。
 けれども教職の公共的使命としての重要性はいささかも減じてはいない。テロや戦争が世界を覆い、新しいナショナリズムが戦争の記憶を歪めようという企んでいるとき、平和と民主主義の実現に向けて教職の使命はますます重要になっているからである。児童・生徒が学びから遠ざかり、生きる意味を喪失して刺激的な消費社会に浮遊する現代の状況において、彼らを学びに繋ぎ止める役割を担うのはやはり教員をおいて他にはないからだ。 また一方で、東京都の新たな職階制導入にみられるように、教育の管理統制は強化されようとしているのは事実である。日の丸・君が代の教育現場への強制に見られるごとく教育課程編成権が剥奪され、新たな人事評価制度の導入で官僚的支配が強まる。今後、教職の「自律性」の維持は一層困難になるだろう。その結果、生徒と時間を過ごすより事務的な雑用に熱心になったり、外からの批判に防御的になったり、学校運営における意思決定の場でも言いたいことを言わなくなったり、の後ろ向きの傾向が出てくるのを心配する。

7.「開かれた専門性」へ
 これからの教職の「自律性」論議は、政府・文科省による権力的統制からいかにして教育課程編成権を守るかという方向だけに重点が置かれてはならない。教員を教職の「専門家」とし、教育活動の企画・実践・評価に第三者の介入を拒む発想は、教員が「真理の代理人」という特権的な地位にあるという錯覚に根ざしている。保護者を始めとする地域住民の様々なニーズをきちんと受け止める態勢を学校は未だ整えていないが、それは教員の誤った「専門性」認識と官僚的で形式的な学校運営によるものである。保護者が学校の教育活動に対して発言し、決定に参加する機会を保障する柔軟な形の教育実践こそ未来に求められる。ここに「開かれた専門性」を追求する根拠がある。
教師は学習を促進するだけではなく、市民性の育成と社会の統合を進め、好奇心、批判的思考、創造性、自発性、自己決定能力を発達させる。教師の役割はますます集団の中での学習のファシリテーター(支援促進者)となるだろう。・・・
他の、情報を提供する機関や社会化機能を持つ機関が果たす役割が増大する中で、共通の教育目標に向かって様々なパートナーによって供される教育活動のコーディネーターとしての役割を果たす。
(教師の役割と地位に関するユネスコ勧告 1996年)
 現在進行しつつある「規制緩和」の方向をうまく活かしていけば、現場の創意工夫をとりいれた民主的な学校改革は可能となるだろう。その場合、学校の自律的経営が拡大すればそれだけ、学校・教職員のアカウンタビリティー(結果責任の追求)は重要度を増す。「学校づくり」や「学校経営」は、生徒・保護者・地域住民と協働で行われることになる。「教職員集団」の資質能力のありようは、地域社会で学校をどれだけ創造的な場に作り得たかで判断されるべきである。こうした意味での「評価」ならば、我々は喜んで受け入れるべきだろう。