高総検レポート No 69

2004年9月27日発行

「生徒による授業評価」を子どもの権利条約にもとづいて機能させ、
「観点別評価規準」による授業内容の官制マニュアル化を打破しよう!

 ■「説明責任」の暴走がもたらすもの■

 ○ 観点別評価規準に関わる異様な事態

 県教委は、04年4月30日から5月11日にかけて、「評価に関する説明会」全教科開催をおこない、評価規準と一体化したシラバスの作成を「指導」している。その際に、一部教科での観点別に関わる説明に他教科との整合性がなく、質疑応答が紛糾するという事態となっている。また、神高教の確認に対して、「@シラバスの内容・形式は各学校が生徒の実態や学校の状況に対応して主体的に編成するものである」「A『観点別評価基準』(観点別評価・評価規準)の策定は、生徒や学校の実態、教科の特性等に対応して主体的に策定されるべきものである」「B県教委の示したモデル(『研究集録』)や国立教育(政策)研究所のモデル案はあくまでも参考例であり、各校のとりくみを制約するものではない」と県教委が言明しているにも関わらず、管理職が、県教委モデルを一律に押しつけ学校独自の策定について圧力をかける(分代議案7月10日・8月14日他)という状況となっている。
 そのため、神高教は、6月10日付けで下山田高校教育課長に対して11点に渡る「シラバス・観点別評価等に関する質問書」を提出し、6月26日に回答を得ているが、その内容に得心をしてはいない。
 高総検では、月例の会議で継続的に「観点別評価規準」、また、その作製公開が必須と通知されている「生徒による授業評価試行」について討議をすすめているが、7月24日に開かれた高総検会議では、多くの委員から、管理職や管理職に指示された教務部などが、05年度シラバスに向けた評価規準の策定をこの夏季休業中におこなうことを各教科に指示しているという報告があった。県教委は評価規準と一体化したシラバスの作成を現在通知はしていない。通知なきままのこうした動向は、県教委の校長会に対する「示唆」なのか、校長会または地区校長会や個々の校長の「独走」なのかは分からないが、極めて異様な事態といわなければならない。

○ 中学絶対評価批判のハレーション

 昨年度末に、絶対評価初年度となる04入試において、その信頼性、つまり、市町村間・学校間の格差・ばらつきが神奈川新聞他のマスコミで批判された。県教委は、3月文教常任委員会で県会議員から徹底追及され、絶対評価の信頼性を高めるために、「中学生全員対象の学力検査の実施」「市町村別学校別のHPでの評価結果公表、その際の学力調査結果の公表」などの東京都にならった教育施策を求められている。
 先の「シラバス・観点別評価等に関する質問書」への「回答」に、県教委は、「シラバスそのものを作成することの法的根拠はないが、シラバスを公関することは、説明責任を果たすという観点からも有効な手段となり得る」「それぞれの学校における教育活動について説明責任を果たすという観点から、すべての県立高校において(シラバス作成に)取り組む必要があると考えている」「高校教育課としては、(シラバスを)ホームページで公開することは求めていない。校長の判断により、学校の教育内容を紹介する目的で公開することはあると考えている」「学校としては、各科目等のシラバスをまとめておき、県民からの請求に対しては、いつでも公開できる体制を整える必要はある」などと「説明責任」を乱発している。また、県教委は、8月2日に記者発表を行なった「県立高等学校における『確かな学力』のための取組について」で、「生徒による授業評価」の05年度全校導入とともに、突如として、「県立高等学校学習状況調査」(国語・数学・外国語の3教科について全日制課程の第2学年の生徒から1教科あたり1クラスを抽出)の11月実施を言明している。後者に対して、神高教は、8月3日に「声明」を発し、入試改革、カリキュラム・授業改善の方向性と矛盾し偏差値による高校序列化を促進するものとして、その撤回を強く求めている。
 04年3月の文教常任委員会での義務教育課に対する追求と、観点別評価規準に関わる異様な事態また突然の「県立高等学校学習状況調査」実施との類似は、中学絶対評価批判の高校教育課へのハレーションを示唆する。先の7月24日高総検会議では、管理職より、「評価規準の統一」の参考として近隣中学の観点別評価から評定への算出方法が提示された事例も報告されている。
 文教常任委員会では、追求した議員自身が、絶対評価は個人の到達度を測るにふさわしいものであり入試の客観基準に用いるには不向きなものであることを認めている。そのために「精度・信頼度」を高めよという結論なのだが、個人の到達度が地域・学校・教科によってばらつくのは当然のことであり、牽強付会である。田辺前高校教育課長の答弁は、絶対評価は総合的選考の意義と一致するものという内容だったが、総合的選考の意義に「高校間の序列意識の変革」(『県立高校将来構想検答申』)の可能性を見い出して絶対評価は入選資料としてそのまま採用するべきものではないのか。
 絶対評価の信頼性が槍玉に挙げられる事態となったのは、04入試が、受験業者に「公立高入試過去最高倍率」(中萬学院情報誌)と評される状況であったことが背景にある。この原因は、全日制募集計画にかかる失政にある。04募集計画では、県内私立高校進学者数の計画と実績の約2,000人にも及ぶ乖離を是正することなく、計画進学率を94.0%から93.8%に引き下げるという暴挙をおこない、公立高開門率を引き下げている。本稿執筆時に県教委の公式発表はまだないが、実績進学率はようやく90.0%に及ぶ程度であり、全国でも下位にあることが予測される。つまり、県内少子化ボトム前年に人工的な受験競争を作り出しているのであり、県教委は、計画進学率引き上げと進学実績に応じた私学枠調整を明記した『県立高校改革推進計画』を推進し得ていない「説明責任」をこそ考えるべきである。

○ 授業のマニュアル化・硬直化

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7実施方法等 (1)生徒に対するシラバスの提示 イ
「試行校の授業担当者は、年度当初に当該の科目を履修する生徒に対して、シラバスを提示し、履修期間における授業計画、評価規準、履修上の留意点等について説明を行い、当該授業のねらいや学習の進め方について十分な理解を図る。」
(「『生徒による授業評価』の試行に係る実施要領」04年3月22日、以下「要領」)

上記のように規定された「要領」と同内容のまま、05年度から「生徒による授業評価」が全校導入となるならば、評価規準と一体化したシラバス作成とその公開は必須の業務ということになる。状況によっては、「県立高等学校学習状況調査」結果とともに、生徒・保護者に対しての公開のみならずHP公開をおこなうという事態にもなりかねない。換言すれば、「生徒による授業評価」は、「説明責任」のみを目的とした観点別評価規準導入のための大義名分として機能することとなる。
 「説明責任」が先行する観点別評価規準は、評価が授業内容を規定するという本末転倒を招く。評価には、例えば定期試験や小テストの平均点によって授業の難易度を測るといった「教育活動の修正と点検のための評価」の側面とともに、例えば指定校推薦校内選考の資料とするといった「社会的な選抜やふるい分けのための評価」という側面がある。「説明責任」の先行は後者にのみスタンスを置くためである。共通テストが先にありそれに従ってシラバスが作られるような状況となり、授業のマニュアル化が強要されることとなる。
 観点別評価は「個性評価」であることも忘れてはならない。中学校現場では、観点別評価が通知票に導入され始めた10年以上前から以下のような指摘がある。「説明責任」のみが目的とされれば、こうした批判に応じた評価方法の改善は極めて困難となる。

A教諭(*1)は、学習の過程にみられる「関心・意欲・態度」を評価する際、できる限り自分の主観を排除しようと思い、授業中の発言回数を数えるという方法を導入した。ところが、この方法にも、ある問題が潜んでいる。
 授業中、挙手して発言しようとしないのは、「関心・意欲・態度」が低い生徒だけなのだろうか。たとえば、人前で話すことが苦手な生徒、あるいはA教諭との関係がうまくいっていない生徒も、その中に含まれてしまうのではないだろうか。生徒の個性はまちまちである。この方法では、教師や学校とはあわない個性の持ち主は、「関心」や「意欲」が乏しく、「態度」の悪い生徒だと評価されてしまい、さらに、評定も下げられてしまいかねない。評価・評定は調査書(内申書)にも掲載される。即ち、選別のためにも用いられるのだ。
 従来より、内申書は、生徒を管理・統制するための抑止力として作用しているということで、批判にさらされてきている。それらの批判は、内申書開示への一連の運動へとつながり、社会は開示の方向へと動きはじめていた。ここで紹介したA教諭の実践は、「副表」の開示(*2)にみられるように、一見、時代を先取りしているかのようにも見えるが、実は、さらに巧妙に、生徒を管理・統制するための権力を、数字の中に隠し込んでいる可能性がある。一旦、数字に転化され、なお偏差値に換算された権力は、そう簡単にはあばき出されまい。もう、開示に耐えうるということなのである。
 (*1)92年から通知票に観点別評価を導入した中学の教員
 (*2)評価・評定をどのような項目によって出したのか、また、個々の生徒の各項目   の偏差値がいくらであるかが一目でわかる一覧表、教科担任が学級担任に渡し、    学級担任は、それを見て、保護者や生徒の質問に答える
(原田琢也「新しい学力観と観点別評価についての一考察 − 観点1『関心・意欲 ・態度』」より、大阪高等学校教育法研究会ニュース第167号96年7月)

 また、「県立高等学校学習状況調査」結果とともに、観点別評価規準に逆規定されたシラバスが公開(受験業者等による「県立高等学校学習状況調査」各校結果開示請求という状況も含め)されることとなれば、本来「履修ガイド」のはずであるシラバスがその域を越え、授業内容の硬直化を招く。7月24日高総検会議では、某進学校の教職員が校長にシラバス記載事項以外の授業をおこなうなと「指導」された事例が報告されている。当該の教職員は、日教組全国教研の常連レポーターであり、優れた実践を持つ方である。ご本人に詳しくお話を伺ったところ、校長は、シラバスは記載事項以外の授業をおこなわせないためにあると言明しており、教務部が簡略な形のシラバスを提案した際にはそれを拒否し、各単元ごとに観点別の評価規準を示したものを作れと命じたという。また、某校の体育の授業で、シラバス消化のために気候による生徒の体調を無視して長距離走を実施したという事例の報告もあった。こうした状況が全校に蔓延することとなる。
 多くの学校では、教科書の単元(目次)をそのまま用いてシラバスを作成していると聞く。全てがやりきれるはずはなく、そのことに対する批判が起きるのは当然の流れである。
生徒・学校の実態に合わせ単元を精選したシラバスを作れば、「ここまでしかやらないのか」という批判が出るのが必至となる。授業時間確保のために2学期制にして始業式や終業式にも授業をおこなう必要が生じ、よけいな事をやっている時間はないという意識が授業改善に関わる様々なとりくみを放逐することとなる。
 例えば、教科を横断し特別活動も動員した沖縄修学旅行事前学習は総合学習を先取りしていたと評することができると考えるが、多数の学校に広がったそのとりくみは、学校全体で課題の共有をなして始めて動き始めたものではない。とりくむ意志を持った教職員がまず自分の授業で実践をし、学年に広げ教科に広げ学校に広げ、ついには全県に広がったものである。「履修ガイド」の域を越えたシラバスは、こうした授業の自由度を奪い去る。平和学習のみならず、開発教育、環境教育、コミュニケーション教育など様々に発信されているとりくみの内容と方法が成立するのは、学校設定教科・科目か総合学習の領域のみになり、しかも、現在それらが成立、充実しているのでなければ、05年度以降は「よけいな事をやっている時間はない」という意識がそのとりくみを阻害する可能性が高い。

○ 県教委「評価に関する説明会・総合的な学習の時間」の矛盾

 県教委は、「公明かつ信頼のおける教育活動を実施するために、授業改善のプロセスの一つ(PDCAサイクルのP(PLAN)に該当)として位置づけ、17年度までに全県立高校においてシラバスを作成することを指導している」(神高教「シラバス・観点別評価等に関する質問書」への「回答」)と言明しているが、授業改善には、日常的な授業の柔軟性が不可欠であり、内容から方法を模索し方法から内容を探索する「実験」が必要である。「説明責任」の暴走がもたらす授業のマニュアル化・硬直化は、「公明かつ信頼のおける教育活動」という外見を装うが、PDCAサイクルを起動はさせない。
 5月10日に教育センターで開催された県教委「評価に関する説明会・総合的な学習の時間」は、この矛盾を端的に露呈している。
 指導主事の説明によれば、総合学習は新学習指導要領の目玉であり、目玉であることの意味は、その領域にとどまらず「自ら学び自ら考える力の育成」を他の教科にも発信をするということである。何をテーマとするか、どのように調べたらよいのか、誰に聞いたらよいのかなどを教職員と生徒が共に学ぶべきものであるとの説明もあった。
 しかし、総合学習の学習目標・評価の観点・評価規準は各学校で設定するものとしながら、例示された「03年度研究集録」のシラバス例・指導事例は、ほぼ各時間ごとの内容が規定され、評価については、中学の観点別評価から評定への算出方法並に細かい規定がなされたものである。また、「評価規準による評価」として示されたのは、「十分満足できる」「おおむね満足できる」「努力を要する」という文章による段階別評価である。さすがに指導主事は、あくまでも例示であり表現方法は各学校で考えるべきとしたが、段階別評価であることを否定はしていない。「生きる力・考える力」に「赤点」があり得るということだろうか。
 「自ら学び自ら考える力」は課題解決能力と「翻訳」されており、事実多くの学校が課題研究の方法論を取り入れている。課題解決能力は、あらかじめ答えも筋道も用意されていない「授業」によって培われるものである。
 また、03年12月の学習指導要領一部改訂によって、@各教科・特別活動との関連付け(総合化)、A全体計画作成、B主体的学習への適切な指導、の三点が総合学習の要件として加えられたが、この改訂は、改訂以前の、@目標と方法の未分化、A階梯制の欠如、B指導者のスタンスの未整理という不備点が現場の実践から照射されたためと推測する。「主体的学習への適切な指導」とはファシリテーションであると多くの実践が示している。 課題解決とファシリテーションの意義とその浸透を放置して、評価の外形にのみこだわる県教委の姿勢は、プログラムされた総合学習、予定された課題解決という矛盾を招き、その本義を破壊する。「自ら学び自ら考える力の育成」が他の教科にも波及されるべきものであるならば、マニュアル化・硬直化した授業は、決してそれを受け入れない。

○ 学習指導要領準拠の矛盾

 県教委は、「評価に関する説明会」などにおいて、シラバス作成に際しては、授業展開の手立ては各学校ごとであるが、学習の目標は学習指導要領に示された目標や内容を踏まえなければならないとしている。シラバスの観点別評価規準との一体化によって、授業内容の学習指導要領への準拠性は強化されることとなる。
 高校教育においては、この準拠性が授業内容に矛盾を引き起こすこととなる。
 文科省は、学習指導要領の最低基準化を宣言し、学習指導要領に依らない発展的学習を容認している。学習内容三割削減に対する学力低下批判から宣言・容認したものであるが、個に応じた特色多様化を推進している高校では、義務制と事情が違う。特色多様化の意義から言えば、学校設定教科・科目のみならず選択科目のすべてで「発展的学習」がおこなわれなくてはならない。学習指導要領への準拠性の強化は、最低基準が発展的内容を規定するということになる。そもそも評価の観点は、必ず発展的内容を包括できるのだろうか。 また、多くの高校で、大学・専門学校での受講やインターンシップなどを校外学習活動の単位認定としているが、これは、教育条件整備の問題から選択多様化の意義を補完する措置としておこなわれているとも見なすことができる。校外学習活動の単位認定を、学習目標・評価の観点・評価規準を各学校で設定する学校設定教科・科目として扱うとしても、高校で準備したシラバス・観点別評価規準が必ず当てはまる内容・展開・評価であるなどということが可能だろうか。それとも、各校各企業に準備してもらうのだろうか。

○ 愛国心評価

 先の「評価に関する説明会・総合的な学習の時間」で、田中専任主幹は、観点別評価規準が、中学では地域ごとに統一され高校では学校ごとに統一されるという差異を、教科書採択の差異によるものと説明した。教科書採択は、義務制では教育事務所の地域ごとにおこなわれ、高校では「最終的に校長の判断に基づいて」(高校教育課「使用教科書の校内選定における留意事項について」)各校で採択されている。「自ら学び自ら考える力の育成」を教育の主眼とするならば、教科書は「道具」であるべきである。なぜ教科書採択が評価規準の統一性の規準となるのだろうか。
 03年10月の文教常任委員会で、教育委員会の権限と責任が明確になるよう全市1採択地区とすることなどを求めた「神奈川県における小・中学校教科書採択についての陳情」が承認され、12月の県議会本会議では、「現在使用されている教科書の中には、文部科学省の検定を受けてはいるものの、偏った歴史観に基づき記述されているものもあり、子供たちの教育にふさわしいとは言えない」と言明した「教科書検定制度の見直しを求める意見書」が採択されている。この陳情・意見書は、「つくる会」の総会方針と一致する内容である。教科書採択と観点別評価規準の統一基準を一致させる発言の裏に、こうした政治動向を透かし見るのは考え過ぎだろうか。
 それを過慮としても、02年に話題になった福岡市の愛国心評価が校長会マニュアルから生じたことには留意しなければならない。
 これは、福岡市の小学校144校の内52校が、評価項目の中に、「国を愛する心情」及び「日本人としての自覚」を記載した校長会「公簿等研究委員会」作成の通知票を採用していた(「朝日」02年11月13日)という事件である。校長会マニュアルは、同年より実施された新学習指導要領に応じて、「目標に準拠した評価」すなわち絶対評価としての観点別評価を発展充実させるために作成された例示であり、学習指導要領社会6年の「目標」にある「(1)国家・社会の発展に大きな働きをした先人の業績や優れた文化遺産について興味・関心と理解を深めるようにするとともに、我が国の歴史や伝統を大切にし、国を愛する心情を育てるようにする。」「(2)日常生活における政治の働きと我が国の政治の考え方及び我が国と関係の深い国の生活や国際社会における我が国の役割を理解できるようにし、平和を願う日本人として世界の国々の人々と共に生きていくことが大切であることを自覚できるようにする」を部分的につなぎ合わせて「学習の目標」とし、「関心・意欲・態度」という観点から3段階で評価するようにしたものである。
 この動向は拡大し、03年の報道では、小学6年生の通知表の社会科の評価項目に「国」や「日本」を愛する心情を盛り込んでいる公立小学校が、全国で少なくとも11府県28市町の172校にのぼっている(「朝日」03年5月3日)。
 周知のように、「国を愛する心」となるのか「国を大切にする心」となるのかは現在不明だが、愛国心を盛り込んだ教基法改悪が間近の政治日程に上っている。授業のマニュアル化・硬直化に無自覚であれば、愛国心を注入し評価することが学校の常態となる危険性が高くなることには十分に注意を払う必要がある

  ■形式受け入れ・内容形骸化は通用しない■

 先の「シラバス・観点別評価等に関する質問書」において、神高教からの「生徒の学力、実態などについて県立高校間で大きな差があるが、この実態に対する具体的な対応をどう考えているか。」という質問に対して、県教委は、「評価規準は、各学校の生徒や地域の実態をふまえて作成されるものであり、『その学校の生徒にとっておおむね満足できる』と判断される状況を具体的に示したものといえる。それに基づいて指導内容についても学校の実態をもとに作成するものであると考えている。」としつつも、「ただし、学習指導要領に示された目標や内容を踏まえなければならないので、その点は留意する必要がある。」と回答している。
 90年1月18日の伝習館闘争最高裁判決(第一審判決取り消し)以来、学習指導要領の法的拘束性が自明の理と化したかのような世相ではあるが、県教委が、卒入学式の「日の丸」「君が代」(近年は周年行事にも波及しそうな情勢だが)以外でそれを強調し、教育課程自主編成権を限定するかの態度を取っていることには十分な警戒が必要である。先述の最低基準化また総合学習や学校設定教科・科目など、文科省は、自らが学習指導要領の「大綱的基準化」を示している。また、学習指導要領自体が増単・減単を認めており、減単の教科のシラバスは学習指導要領記載通りの内容展開となる訳はない。こうした情勢の中で、神奈川では、行政が教職員個々の授業内容を束縛しようとしているかに見える。
 私たちは、家永教科書裁判などを通して培ってきた教育課題にかかる運動の原点を再確認する必要がある。私たちが依って立つところは「国民の教育権」であり、対決するべきは「国家の教育権」である。国(行政)が教育内容を決定し教職員の教育の自由に制約を加えることに通じる状況を許容してはならない。繰り返し語られている、下記のスタンスを忘れるべきではない。

子どもの教育は、親を中心とする国民全体により、憲法26条の保障する子どもの教育を受ける権利・学習権に対する責務として行われるべきものである。国は教育の外的事項について条件整備の責務を負うが、教育の内的事項(教育内容・方法)については、教育課程の大綱つまり学校制度に関する事項を定めることを除き、介入することができない。子どもを教育するにあたっては、子どもの発達段階に応じた教育的配慮がなされねばならないのであるから、教師が、教育専門家としての立場から、親の信託を受けて、子どもに対する教育内容および方法を決定、遂行すべきである。それゆえ、教師には、憲法23条の学問の自由の一環として(省略)教育の自由が認められる。
市川正人「教科書検定と教育権の所在」法学セミナー502号(96年10月号)

 管理職が県教委モデルを一律に押しつけて学校独自の策定について圧力をかけるなどの動向は、本部・分会一体となったとりくみによって、悪化しないうちに除去する必要がある。また、管理職の圧力がなくともその安易さから、国立教育政策研究所モデル、県教委モデルを引き写したり、教科書会社のHPからダウンロードしたものをそのまま使用してシラバスとすることはおこなうべきではない。私たちは、私たち自身の手でシラバスを作らなくてはならない。中央では、憲法改悪と連動して「国家の教育権」を拡大させようとする以下の政治情勢がある。

自民党憲法調査会
 「国民の権利及び義務」
 提言3 家族の尊重・保護、教育に関する国家の責任を明記すべきである。
[2] 教育はこの憲法の前文に掲げられた理念を基本として行われるべきこととと
 もに、学校教育に関する国家の責任を明記すること。
 a. 教育に関する様々な事項のうち、教育権の所在をめぐっては、戦後、家永教科  書訴訟等において長期間にわたり激しい論争が繰り広げられてきた。
 b. この問題は、公教育における国の教育権を認めた先の学力テスト事件最高裁判  決及び国に教科書検定権を認めた今回の家永訴訟最高裁判決によって一応の決着を  みたわけであるが、今後再び混乱が生じないようにするためにも、憲法に学校教育  に関する国の責任を明記しておく必要がある。
   ※国家の教育権を認める規定はスペインやドイツの憲法にもある。
自民党憲法調査会憲法改正プロジェクトチーム第9回会合(04年3月11日)

旧勤務評定、主任制等に対して、神高教は、形式受け入れ・内容形骸化の獲得を戦術としてきた。自主研修権や人事評価を引き合いに出すまでもなく、現在、その戦術が通用する状況ではない。一方で、組合員の高齢化多忙化などにより、組織総体としては現場での運動の停滞が否定できない状況であると考える。このまま、情勢を看過し、授業のマニュアル化・硬直化が突破口となって、授業の官制マニュアル化、「国家の教育権」が現場を支配するようになることを危惧する。私たちは動かなくてはならない。多忙化を押して動く必要がある。そもそも運動とはそういうものだったのではないか。そういう意味でも、運動の原点を再確認する必要がある。
 教育権については、「国民の教育権」対「国家の教育権」という二元論に対する批判も忘れてはならない。直接の権利主体である子どもを中心的課題にしていないという批判である。「国家の教育権」に対峙して、「人々を、なりゆきまかせの客体から、自らの歴史をつくる主体にかえていく」基本的人権である学習権(「ユネスコ学習権宣言」85年3月)を想定する時、それは、子どもの権利条約に立脚するべきである。

 ■「生徒による授業評価」の活用■

 ○ 大前提としての授業の自由度・柔軟性

 県教委は、「評価に関する説明会」や「『生徒による授業評価』試行校連絡会」(第1回04年5月14日)において、毎回「参考資料」として「これからの評価の在り方について」というプリントを配布している。教課審「児童生徒の学習と教育課程の実施状況の評価の在り方について(答申)」(00年12月4日)とそれに応じて通知された文科省「生徒指導要録の改善等について(通知)高等学校生徒指導要録の改善等について」(01年4月27日)から抜粋したものだが、国教育施策と「説明責任」の暴走によって神奈川で引き起こされつつある状況との矛盾を示す皮肉な資料となっている。

第1章第1節 3評価の現状と今後の課題(2)
「新しい学習指導要領等が、基礎・基本を確実に身に付けさせることはもとより、それにどどまることなく、自分で課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力などの「生きる力」の育成を目指していることを踏まえ、これからの児童生徒の学習状況等の評価の在り方を検討することが課題である。」(「教課審答申」)


1各教科・科目等の学習の記録 (1)評定
「評定に当たっては,ペーパーテスト等による知識や技能のみの評価など一部の観点に偏した評定が行われることのないように,「関心・意欲・態度」,「思考・判断」,「技能・表現」,「知識・理解」の四つの観点による評価を十分踏まえながら評定を行っていくとともに,5段階の各段階の評定が個々の教師の主観に流れて客観性や信頼性を欠くことのないよう学校として留意する。」(「文科省通知」)
 考えるまでもないことだが、国教育施策が求めているのは、「確かな学力の向上」すなわち基礎・基本の定着とともに「『生きる力』の育成」を育む授業の改善であり、授業改善にもとづいた「ペーパーテスト等による知識や技能のみの評価」からの脱却である。授業改善がシラバスを改善し、シラバスの改善が評価方法を改善するのであって、教育改革の嚆矢に過ぎない現時点で、授業をマニュアル化・硬直化させることではない。
 「生徒による授業評価」試行の「要領」には、その目的が、以下のように明記されている。ここを立脚点として、授業の自由度・柔軟性を保障し、「自ら学び自ら考える力の育成」の様々なとりくみにかかる「研究開発」を全ての授業で実践するべきである。
2目的
「本試行は、生徒の確かな学力の向上をめざして、各学校における授業の質の向上を図
ることをねらいとした生徒による授業評価の全校実施に向けた取組みであり、生徒による授業評価の結果を授業の質の向上へ生かす方法や実践等について研究開発を行うことを目的とする。」(「要領」)

○ 子どもの権利条約

 県教委「生徒による授業評価」試行校連絡会(第1回)の資料には、当然想定されるべき視点が三点欠落している。
 その第一は子どもの権利条約である。子どもの権利条約には、次の規定がある。

第12条
1 締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべて の事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児 童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。

第28条
1b 種々の形態の中等教育(一般教育及び職業教育を含む。)の発展を奨励し、すべて の児童に対し、これらの中等教育が利用可能であり、かつ、これらを利用する機会が 与えられるものとし、例えば、無償教育の導入、必要な場合における財政的援助の提 供のような適当な措置をとる。
d すべての児童に対し、教育及び職業に関する情報及び指導が利用可能であり、かつ、 これらを利用する機会が与えられるものとする。

以上は、政府訳であり、89年の批准当時第28条の「これらを利用する機会が与えられるもの」という日本語訳が問題となった。原文は以下の通りであり、現在では、多くの市民団体、教職員組合等は、以下の国際教育法研究会などの原文に近い日本語訳を採用している。

(原文)
b  Encourage the development of different forms of secondary education, including general   and vocational education, make them available and accessible to every child, and take    appropriate measures such as the introduction of free education and offering financial    assistance in case of need;
d  Make educational and vocational information and guidance available and accessible to   all children;

(国際教育法研究会訳)
b 一般教育および職業教育を含む種々の形態の中等教育の発展を奨励し、すべての子 どもが利用可能でありかつアクセスできるようにし、ならびに、無償教育の導入およ び必要な場合には財政的援助の提供などの適当な措置をとること。
d 教育上および職業上の情報ならびに指導を、すべての子どもが利用可能でありかつ アクセスできるものとすること。

 アクセス権は、最近、知る権利にもとづく情報公開制度の充実ととも定着してきた新語であり、三省堂「デイリー 新語辞典」には次のように解説されている。

(1) 一般市民が,国・自治体などのもつ文書・情報の内容などを公開させて知ることの  できる権利。
(2) マス・メディアを利用して意見広告や反論を発表する権利。

 第12条「意見表明権」と第28条「教育への権利(アクセス権)」は、「生徒による授業評価」の機能そのものではないだろうか。
 また、児童生徒の思想良心・内心の自由は、憲法とともに、子どもの権利条約第14条「1締約国は、子どもの思想、良心および宗教の自由への権利を尊重する。」によって保障されていることも忘れてはならず、「生徒による授業評価」にリンクさせる必要がある。


○ 学校評価システム

 第二は、学校評価システムとの有機的な連結である。「学校評価システムの手引き」(03年11月)には、「児童生徒からの意見や感想などを積極的に生かし、年度内の(取組の)改善につなげるよう努めます」(P12)、「(グループ評価には)児童生徒に係る具体的な手立てでは、評価資料として、生徒の感想や意見、アンケート結果等を活用することが有効です」(P13)と明記されている
 以下に「要領」の記載を列挙するが、評価運営会議が運営をおこなうことが可能であり、外部意見を踏まえた学校目標や取組の内容(グループ目標)の改善を指示する規定を示しながら、学校評価システムとの関連に触れていないのは奇異である。「授業改善のプロセスの一つ(PDCAサイクルのP(PLAN)に該当)として位置づけ」たシラバスを提示しておこなうとりくみであれば、各教科及びカリキュラム委員会・教務部などの取組の内容の自己点検への有力な資料とし、学校評価システムの中に位置付ける方が自然である。

7実施方法等(2)運営に係る組織の設置
「ア 校長は、生徒による授業評価を実施するため.運営に係る組織を校内に設置する。
ただし、校長が運営に係る組織の職務を既存の組織で代替できると認めたときは、その組織をもって職務を行わせることができるものとする。」
「イ 運営に係る組織は、生徒による授業評価の実施後、集計・分析を行い、結果をま
とめ、校長に報告する。生徒による授業評価の分析・評価にあたっては、当該年度の学校目標とその取組の内容等とも関連させながら、教科、学年ごとにまとめる等の工夫をするものとする。」

同(6)留意事項
「校長は、生徒による授業評価の趣旨を生徒、保護者、学校評議員等に予め説明すると
ともに、生徒による授業評価のまとめについても公表するように努めるものとする。」

8生徒による授業評価のまとめの活用
「校長は、生徒による授業評価のまとめを、次年度の生徒による授業評価の取組に反映
させるほか、当該校の学校目標、評価規準・シラバスの内容等についても併せて見直しを行うなど、生徒による授業評価のまとめを活用し、確かな学力の向上をめざして、授業の質の向上に努めるものとする。」(「要領」)

県教委が02年に通知した「神奈川における『開かれた学校づくり』についての基本的な考え方」(02年3月5日)には、「子ども、保護者、地域の学校運営への参画を積極的に進めるための取組を行います」と明示されている。しかし、学校評議員については、「神奈川県立高等学校の学校評議員設置要綱」(02年4月1日)に、校長は当該校の生徒・教職員を推薦しない(「運用について」3)と規定されている。また、「開かれた学校づくりの一環」として位置づけることが確認されている(02年3月22日課題検)学校評価システムについては、先の「手引き」の記載があるにもかかわらず、「子どもの権利に関する条例」を施行している川崎市教委がパンフレットで児童生徒の意見反映を宣伝していることなどに比べ、県教委には積極的なスタンスがなく現場での実践も乏しい。
 県教委は、「子どもの学校運営への参画」を内心嫌がっているように思える。生徒の意見はストレートであり大人の計算がない。その意見が、県の教育施策や校長の学校運営のマイナス評価として機能することを恐れているのではないか。神高教「『県立高校改革推進計画後期実施計画(骨子案)』についての見解」(04年7月23日)からの引用だが、以下のアンケート結果がある。

今年1月に教育委員会が実施した「魅力と特色ある県立高校づくりについてのアンケート」結果は興味深いデータを示している。現在教育委員会がすすめている「改革」に対して、全県立高校の3年生とその保護者対象に初めて実施された大規模な満足度調査である。
 32,489人(回答率82.5%)の生徒から回答を得ているが、満足度の高い上位2項目は、「学校行事や生徒会活動での充実した活動」(67.5%)、「部活動での充実した活動」(41.8%)となっている。第3位の項目が「興味や関心に応じた科目の学習」(23.0%)で、上位二つの数値とは大きな隔たりがある。この調査結果からは、生徒が求めているものと「改革」がめざしているものとは必ずしも合致していないという事実が浮かび上がっている。

88年12月にアメリカ・イリノイ州議会を通過した「シカゴ学校改革運動」は、「選挙で選ばれた6人の親と2人の地域代表者と2人の教師と校長と、ハイスクールの場合は生徒代表者で構成される学校委員会が、学校の校長を任命し解雇する権限を行使し、学校予算を自由に運用して、教師の雇用やカリキュラムにおける学校の自立性を大幅に拡大する改革」であり、「シカゴには、すでに600近い学区のうち550の学区で学校委員会が組織され、6,000人の市民が学校の運営に直接参加している。」という。(佐藤学「カリキュラムの批評」世織書房、96)こうした欧米での先例に比べて、神奈川の、また日本の「開かれた学校づくり」は何ともいじましい。
 「生徒による授業評価」が、観点別評価規準導入のための大義名分に過ぎないのではないかと懐疑する所以である。
 が、現場においても「生徒による授業評価」に対して積極的な姿勢は見られない。分代や試行校対策会議で目立つ意見は、人事評価との峻別の保障である。校長の評価以上に生徒の評価には公平性公正性に信頼がおけないということである。無論、校長権限強化の下では、人事給与への活用(を県教委が目指している)のための資料と学校運営に対する点検(すなわち校長に対する校内評価)のための資料は分別をするべきである。また、生徒が低い評価・評定をつけた教職員を高く評価するとは人情として考えづらく、公平性公正性に信頼がおけないのも事実である。
 しかし、だからこそ、自己評価・相互評価の導入などを通して、公平公正な評価の方法を授業で教えることが必要である。「『生きる力』の育成」の位置づけでおこなうその実践自体が、授業をマニュアル化・硬直化から脱却させるとりくみとなるのではないか。
 神奈川の人事評価において、「意欲」の項目が論議の的となったことは記憶に新しい。「能力」における評価に当たっての着眼点「知識・技術・技能、情報収集・活用能力、企画・計画力、判断力、説明・調整力」、「実績」における着眼点「業務実績、業務改善」に比べて、「意欲」の「責任感、連携・協力姿勢、積極性」は段階別評価に耐える客観性を保つことが不可能ではないかという論議である。これは、先に引用した大阪高等学校教育法研究会ニュースの「関心・意欲・態度」の評価に挙手・発言回数がデータとして妥当かという批判と同質である。人事評価に対する検証は、そのまま格好の教材となる。

○ 評価方法に対する評価

 その実践を経た上でとりくむべきことがもう一つある。
 県教委試行校連絡会資料に欠落している視点の第三は、教職員の評価方法に対する生徒の評価である。評価規準と一体化したシラバスが提示されるのであるから、その評価規準自体が「生徒による授業評価」の対象となるのは当然である。
 観点別評価の実際に対して、「関心・意欲・態度」の評価に対する批判があるのであれば、また、「教課審答申」に記されているように指導と評価は一体化であり、評価の改善を授業の改善の一環ととらえるべきであれば、教職員の評価方法に対する生徒の評価は「生徒による授業評価」の目的に含有されるはずである。

第1章第2節 3指導と評価の一体化(1)
「学校の教育活動は、計画、実践、評価という一連の活動が繰り返されながら、児童生徒のよりよい成長を目指した指導が展開されている。すなわち、指導と評価とは別物
ではなく、評価の結果によって後の指導を改善し、さらに新しい指導の成果を再度評価するという、指導に生かす評価を充実させることが重要である(いわゆる指導と評価の一体化)。評価は、学習の結果に対して行うだけでなく、学習指導の過程における評価の工夫を一層進めることが大切である。また、児童生徒にとって評価は、自らの学習状況に気付き、自分を見つめ直すきっかけとなり、その後の学習や発達を促すという意義がある。
 自ら学び自ら考える力などの「生きる力」は、日々の教育活動の積み重ねによって児
童生徒にはぐくまれていくものであり、その育成に資するよう、日常の指導の中で、評価が児童生徒の学習の改善に生かされることが重要である。また目標に準拠した評価においては、児童生徒の学習の到達度を適切に評価し、その評価を指導に生かすことが重要である。そのため評価活動を、評価のための評価に終わらせることなく、指導の改善に生かすことによって、指導の質を高めることが一層重要となる。」(教課審答申)

そもそも観点別評価は、真実「生きる力」の育成に資するものなのだろうか。生徒一人一人を詳細に観点別に評価することは可能なのか。可能だとして、「個性評価」を綿密におこなうことが「生きる力」の育成を阻害するという矛盾は起きないのだろうか。評価方法に対する生徒の評価の蓄積が、観点別評価を検証していく資料となることを期待する。

○ 民主的学校づくり

 管理運営規則の改変(00年3月)によって職員会議が校長の補助機関と規定されて以来、その資質に関わりなく校長権限が強化され、学校の民主的体制は漸次弱体化している。「管理運営に関する規則の運用について」に、「各教職員の自発性・創造性の尊重」「個々の教職員の協調体制の整備」「職員会議における職員の建設的な意見の参考」等が明記されているにもかかわらず、独断的学校運営をおこなう校長が増加しつつある。
 加えて、県教委は、主任制度の見直しにともなう新たな「職制度」を導入する方向性を決定し、「校長・教頭を補佐する職のあり方の検討」(第5章2学校運営の活性化)が「県立高校改革推進計画後期実施計画(骨子案)」に記載されている。このことに関わる民主的体制を懸念する意見が毎回分代で提示されている。
 神高教は、00年の第60回定期大会以来、民主的学校づくりの方針を教職員のみによるものから生徒・保護者・地域との協働を視野においたものに転換したが、そのとりくみが全県的にすすんでいるとは言い難い現状である。
 「校長・教頭を補佐する職」が中間管理職である「主幹」となるのかどうかはまだ分からないが、「子どもの権利条約を尊重した学校づくり」を実働させるものとして「生徒による授業評価」を機能させ、それと連結して、「開かれた学校づくり」を実働させるものとして学校評議員・学校評価システムを機能させる必要がある。学校評価システムは、学校運営の責任者でる校長に対する評価をおこなうシステムである。結果として学校・生徒の実態を無視し「『生きる力』の育成」を阻害する、状況によっては愛国心評価が強要されることにもつながりかねない、授業のマニュアル化・硬直化が懸念される現在、教職員のみならず生徒・保護者・地域によって管理職の独断的学校運営を監視する体制を作る必要がある。
 神高教が提起する「職員会議の(教育課題決定機関としての)再規定と学校運営組織の中核への位置づけ」とともに、このとりくみをおこなうことは急務である。「生徒による授業評価」には、こうした意義も見出せるものと考える

 ■「生徒による授業評価」にかかる提言■

 以上にもとづいて、高総検は、「生徒による授業評価」について以下を提言する。

「生徒による授業評価」の位置付け

 「生徒による授業評価」を、「『生きる力』の育成」にもとづく授業改善に実質的に 機能させるために以下のように位置付ける。

1.「生徒による授業評価」の目的である授業改善は、子どもの権利条約第12条(意   見表明権)・第28条(教育への権利)アクセス権の理念の実現を観  点とする。
2.意見表明権・アクセス権の行使に対しては、組織的に対応する必要があり、個人(黒  板の字云々)のスキルアップのレベルに止めるべきではない。
3.上記二点の実現のために、「生徒による授業評価」を各教科及びカリキュラム委員  会等の委員会・教務部等の分掌などの自己点検への有力な資料と し、学校評価シス  テムと有機的に結合させて、教職員・保護者・地域とともに、生徒が授業改善ひい  てはカリキュラム改善を介して学校運営に参画で きるシステムの一環とするべきで  ある。評価運営会議がその任に当たるべきである。

授業改善の視点

1.「『生きる力』の育成」にもとづく授業はいまだ研究途上であり、授業改善が実働  するためには、各学校・教科・科目・教職員の様々な実験的な実践が 保障されるシ  ラバス・観点別評価規準の柔軟性が前提となる。シラバスには、「新しい教材を取  り入れ授業の工夫に努める」「授業時間に余裕のある 場合にはOO学習にもとりく  む」等の一文を記載し、授業改善の核とするべきである。
2.基礎基本学力とともに、「生きる力」の育成、知識や技能への偏重からの脱却が課  題である。
3.上記に則した評価方法(ペーパーテスト等にのみに依存しない評価)をどのように  おこなうかが課題である。その際、評価の「社会的な選抜やふるい  分け」という側  面に留意し、適正な「個性評価」の在り方を探求するべきである。
4.「指導と評価の一体化」の観点から、授業改善の一環として、教職員の評価方法に  対する生徒の評価が必要である。その実働のために、「『生きる力 』の育成」の実  践として、公平公正な評価の方法が授業の中で扱われなければならない。



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