高総検レポート No 41

1999年5月15日発行
16期中教審答申と将来構想検答申
「開かれた学校」
その1
「開かれた学校」とは何か?


 昨今とみに目にするようになった[開かれた学校]という言葉、これは、一体何を意味するものだろうか。ある人は子どもの権利条約の観点から生徒の学校運営への参加として論じ、また、ある人は不登校問題の視点から学校の〈居場所〉化・非学校化として論じている。さらに、保護者に対して開くための教育情報の公開、地域に対して開くための生徒の地域参加や地域の教育力の導入など、様々な観念が[開かれた学校]という言葉で繰られている。最近の新聞報道から拾ってみても、所沢高校卒入学式問題をはじめ、フリースクールの拡充、小田原市個人情報保護審査会の指導要録所見欄訂正の答申など、98年度に入ってからだけでも、[開かれた学校]という言葉を思い起させる動きが著しい。
 しかし、この語義は何なのだろう。プラスイメージのみが先行して、その意味するところは玉虫色である。そこに、危険性を感ずる。
 80年代に臨教審は、[生涯学習]をキーワードとして利用した。キーワードとしての利用とは、「教育臨調」である臨教審が、[生涯学習]という言葉のプラスイメージのみを喧伝し、その語義は玉虫色にして、結局は、合理化・内需拡大の政財界の要請に応じた内容にすり替えてしまったということである。結果、[生涯学習]は、人権としての学習権という本義から遠く隔たったものとなる。つまり、ハイテク化などに即戦力となる労働者の育成、公教育の市場開放、複線型教育制度による学校階層化という理念を統合する言葉が臨教審のいう[生涯学習]であり、これは、現在進行している「教育改革」の全てを含んでいる。

これが「開かれた学校」なのか??

 都立高校長期構想懇談会の答申を受け、97年9月に東京都教委が策定・発表した「都高校改革推進計画」は、募集停止をする33校(含定時制)の具体的校名を挙げ、それらの統合・改編による新しいタイプの高校を99年までに設計・工事することを明記して瞠目されたが、「第4章開かれた学校づくりの推進」の中に、「2生徒に開かれた学校づくりの推進」を章立てしている。[生徒に開かれた学校づくり]という言葉を聞いてイメージするのは、誰もが子どもの権利条約に基づいた生徒の学校運営への参加であるはずだ。しかし、その章に「学校の教育活動について生徒の声を十分に聞く」と明記しながらも、家庭や地域との連携の枠組みの中で、「学校評価の実施にあたっては、教職員による内部評価に加えて、生徒、保護者、地域住民等による外部評価をも取り入れ」(「1地域・社会に開かれた学校づくりの推進」)と記されているだけで、「生徒の声を十分に聞く」ための具体的方策にはまったく触れていない。98年7月に、都教委は、同年3月の16期中教審中間報告に応じて、職員会議は校長の補助機関にすぎないとする管理運営規則の改変を定めた。教職員に対してさえ学校運営が開かれない状況の下で、「生徒に開かれた学校づくりの推進」が実現するとはとうてい思えない。事実、この章で述べられているのは、既設校の整理を背景とした特色・多様化路線のための「(1)多様で弾力的な教育課程編成の推進」であり、寄せ集め単位制や施設をけちった安上がりの公教育を目論んだ「(2)学校間の連携の推進」であり、また、校種間格差による落ちこぼしへの対処療法でしかない「中途退学を防止するための」「(3)学校・学科間の移動の容易化」、チャレンジスクールなどへの「(4)再入学制度の改善」である。
 また、新聞報道によれば、98年8月に、埼玉県教委は、県立高校155校に対して卒業式や入学式に地元選出の県議を招待するように通知を出している。「所沢高校問題をきっかけに地域の人を式に呼ぶべきだという意見を市町村長らからいただいた。中央教育審議会が地域に根ざした学校づくりを打ち出したこともあって通知を出した」(桐川卓雄県教育長)とのことだが、この背景には、県議会文教委員会の自民党議員の「(卒入学式の)正常化のために県議を招くべきだ」という発言がある。【朝日夕刊98・11・15】
 この原稿の校正をしているのは、99年3月下旬である。広島県教委の職務命令と現場の強制反対の声との板ばさみとなった、広島県立世羅高校校長自殺を契機とした、政府中央での「日の丸」「君が代」法制化論議の最中である。現在、世論は法制化に追い風とならず、政府中央でさえ、法制化にともなっての学校現場への義務規定には慎重な態度を取っている中で、わが神奈川県教委は、98年度卒業式後に全県立高校校長を召集して、99年度入学式をにらんだ「限りなく職務命令に近い」圧迫をかけている。埼玉県教委の通知は、こうした「日の丸」「君が代」強制強化の嚆矢であった。そして、それは、中教審の「開かれた学校」の構想ををその根拠としている。
 中教審答申「今後の地方教育行政の在り方について」における[開かれた学校]は、〈地域〉に開くことを想定している。本県においては、それは、県立高校将来構想検討協議会答申「これからの県立高校のあり方について」に「地域や社会に『開かれた学校』」(IIIこれからの県立高校のあり方・3)として表現されている。東京都や埼玉県の実例をみれば、[生涯学習]と同じように、県当局が、[開かれた学校]という言葉のプラスイメージと語義の曖昧さに乗じて、その意味を変転させて利用する危惧を禁じ得ない。

「開かれた学校」は管理強化の道具!?

T〈地域〉に開くために、校長権限を強化する?

16期中教審答申:第3章 学校の自主性・自律性の確立について
          2 教育委員会と学校の関係の見直しと学校裁量権限の拡大


 子どもの個性を伸ばし、地域に開かれた特色ある学校づくりを実現するためには、上記1の(1)(現行制度の概要と課題)で述べたような教育委員会と学校の基本的な関係を踏まえて、校長が、自らの教育理念や教育方針に基づき、各学校において地域の状況に応じて、特色ある教育課程を編成するなど自主的・自律的な学校運営を行なうことが必要である。

          4 学校運営組織の見直し<具体的改善方策>
(主任制のあり方)
 ア 主任制については、学校の裁量権限の拡大に対応し、その責任体制を明確にする。
(職員会議のあり方) イ 職員会議は、校長の職務の円滑な執行に資するため、学校の教育方針、教育目標、教育計画、教育課題への対応方策等に関する教職員間の意志疎通、共通理解の促進、教職員の意見交換などを行なうものとすること。

 16期中教審答申により、「地域に開かれた特色ある学校づくりを実現するために」、学校の裁量権限が拡大される。しかし、ここでいう「学校」とは、全教職員の総意ではなく、校長権限を意味する。答申には、「地域や学校の状況を的確に把握」「地域に開かれた学校運営を推進」するための、校長のリーダーシップ強化が至る所で強調されている。そのために、「依然として一部の地域においては適切な運用が行なわれず、主任制が形骸化している例も見られる」等、また、「職員会議があたかも学校の意思決定権を有するような運営がなされ、校長がその職責を十分に果たせない場合もある」等の理由によって、上に示したように、主任制や職員会議のあり方を見直そうというのである。
 さらには、「特に必要がある場合には、都道府県教育委員会等がこれ(教諭の免許状がなくとも10年以上教育に関する職に就いた経験がある者)と同等の資質・経験を有すると認める者についても校長に任用できる」、「(教頭の)教諭の免許状の所有用件の取り扱いについて検討する」(同:3校長・教頭への適材の確保と教職員の資質向上<具体的改善方策>)として、管理職の登用に民間活力の導入を策定している。つまり、学校に、「社長」が生まれるということである。「社長」の管理統制の下に、企画会議を開き、営業実績を上げるように教育活動を行なうことが、[地域に開かれた学校]を成立させるために必要な要件なのだろうか。
 本県の将来構想検答申には、これに応じた記述はない。また、中央段階の交渉によって、校長の人事・予算における権限強化は、「意見具申」「ヒヤリング」といった「改善」にとどまっている。(「神高教見解」98・11より)しかし、県当局が、答申をどのように具体化して発表するかは、まだ分からない。主任制や職員会議の改変を通して、校長の管理統制強化を行なうために、[地域に開かれた学校]を利用しないとは言い切れない。
 先に触れた、「日の丸」「君が代」強制の動向は、生徒・保護者の人権や思想信条の自由を侵す問題であると同時に、教職員にとっては、職員会議決定がないがしろにされることであり、教育課程自主編成権が教職員の総意によってはなされなくなる問題である。これを一点突破の好機として、卒業式入学式のみならず、学校運営の全てが、県教委の上意下達機関と化した校長によって、ワンマン経営されていく懸念がある。
 しかし、懸念があるとしても、[開かれた学校]を全面否定してしまうのは正しくない
 例えば、福島県立石川高校の日本史での社会人講師の導入、在日大韓民国民団福島地方本部団長ソン・ジョンテ氏による『日韓の歴史のはざまに生きて』の授業ような実践【朝日横浜版98・6・29】は、もっと積み重ねられるべきである。キーワードとして利用されないためには、[開かれた学校]の語義を明確にし、意味の変転を許さない取り組みが必要である。「職場から教育改革を!」という視点に立つ時、それは、具体的にどういう取り組みであるべきだろうか。

以下、 「高総検レポート」次号へ続く。