神奈川の高校教育改革をめざして 高総検報告 X

高校教育のゆくえ

教育政策の動向
県立高校将来構想検答申と「県立高校改革推進計画」の分析
改訂学習指導要領をのりこえる

2000年10月

神奈川県高等学校教職員組合
高校教育問題総合検討委員会











高総検報告X     高校教育のゆくえ 目次

第I部.教育政策の動向
 第1章.00年代教育政策の透視図―90年代教育政策の政治・経済的背景
  1.90年代教育改革の源流
  2.90年代の教育改革 
 第2章.第16期中教審答申の分析
  1.入試選抜制度の多様化と中高一貫教育の選択的導入
  2.「開かれた学校」― 中教審答申「今後の地方教育行政の在り方について」の検討
 第3章.神奈川の学区・入選制度改変
  1.「入選改変」と「再編計画」
  2.「新神奈川方式」は中学生になにをもたらしたか
  3.さらなる矛盾の拡大
  4.今後へ向けて

第II部.県立高校将来構想検答申と「県立高校改革推進計画」の分析
 第1章 県立高校将来構想検答申の分析
  1.総論批判
  2.各論批判
 第2章 県教委「県立高校改革推進計画」の分析
  1.現場との話し合いの無視
  2.県民の声の無視
  3.行き場のない中卒者の現状の無視
  4.横浜市教委の姿勢
  5.総括
  6.公立学校間に市場原理を導入させてはならない

第III部.改訂学習指導要領をのりこえる
 第1章 教課審答申の問題点をさぐる
           ― 学習指導要領改訂を批判的に検討するまえに ─
 第2章 「総合的な学習の時間」とは何か
           ― 改訂学習指導要領を読み解く ―
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第I部.教育政策の動向


第1章.00年代教育政策の透視図――90年代教育政策の政治・経済的背景

 はじめに

 わが国の子どもと学校教育をめぐる状況は近年大きく変容し、日々さまざまの深刻な問題が生じている。それらは、いま日本社会が直面している戦後最大の全面的な激動と深く関わっている。その激動はさらに、現代世界の動きと密接に連係している。
 教育改革は、ほとんどの場合、教育の内部の事情、すなわち「学級崩壊」とか「いじめ」「不登校」のような、子どもや学校に堆積した諸矛盾への対応が主要なモメントとして挙げられる。しかし、その場合も「政財界の経済計画や労働力政策」のような教育の外部からの要請に基礎部分を規定され、実際に採用される諸施策は、その枠組みの中に収められるか、あるいはしばしば、改革の動機であったはずの教育内の諸問題はネグレクトされ、結局は教育外からの要求への対応だけに終る。ここでは、わが国で90年代に始まった行政による教育改革の背景を、主として政治・経済面にしぼって概観する。


1.90年代教育改革の源流

〔1〕新自由主義

 90年代に開始され目下進行中の行政による教育改革の骨格は、財界の主張を受けて第15期・16期中教審が検討したものがベースになっているが、その基本的な内容と方向性は、84年に自民党・中曾根内閣が設置した臨時教育審議会(臨教審)の教育改革案ですでに描かれていた。臨教審の審議は、とくに初期においては、「教育の自由化」という議論がマスコミの注目を浴びて展開された。「教育の自由化」論の基本は、アメリカのフリードマンやハイエクらの提唱した「新保守主義経済学」の理論を輸入したものであった。(フリードマンは自説を「新自由主義」と称した。)
 70年代半ばから深刻化した先進資本主義諸国の経済危機のもとで、それまで支配的であったケインズ流の社会主義的計画経済理論に替わって、新保守主義の経済理論が各国の保守政府に採用されるよになった。(アメリカのレーガノミクス、イギリスのサッチャーイズム、日本の臨調「行革」路線はその代表的な例である。)その危機脱出のための基本的処方箋は、「大きな政府」(ケインズ主義的総需要管理政策と福祉国家)から「小さな政府」(政府規制の撤廃・優勝劣敗の市場メカニズム)への転換であった。
 すなわち、新自由主義によれば、国民の生活を成立させるための種々の財やサービスの提供に際して、国家が公費で保障や援助をしたり、あるいは民間資本の経済活動に対して国家的規制を加えたりしてきた結果、国民の勤労意欲の減退や、生産性の低下、経済効率の低下、官僚主義化などを招いた。そこで、国民生活の保護への国家の関与を縮減し、国家による規制を緩和・撤廃して、民間資本の参入と自由な競争を保障・促進する一方、医療や教育・社会保障・社会福祉などあらゆる公共的サービスをできるだけ国民(受益者)の自己負担に移せば、最も効果的・功利的な選択をしようとする消費者の知恵が働き、冗費は省かれ、行政経費も節減され、ほんとうに必要なもののみが最も効率よく提供されるようになる、という。要するに、国民の活力・勤労意欲の源は、自立自助の精神と規制のない競争の中にあり、そのような競争を全面的に展開させるためには、これまで国家的・公的制度に組み込まれてきた基本的人権保障の体系も、解体あるい縮小する必要がある、とされる。ちなみに、この理論は、「人間を自己中心的で利害的関心のみに基づいて合理的に行動する存在」という理念型で捉えて構築している、と言われる。(「経済学の再生を求めて」『世界』97年5月号)
 「教育の自由化」は、そのような新自由義的全体計画の一環をなすものとして位置づけられていた。(なお、日本で「自由化」と翻訳された原語は、deregulation で、直訳すれば、「規制緩和」になる。)


〔2〕80年代の「教育の自由化」論

 新自由主義による教育改革提言のはしりの一つに、日本経済調査協議会(委員長:木川田一隆、委員:井深大・岩佐凱実・中山素平・日向方斉ら、協力:木内信胤・西山千明・村上泰亮ら)が66年から10年かけてまとめた『自由主義の前進』という研究報告書がある。これは、「教育クーポン券システム」などフリードマン理論の引き写しだった。つづいて、79年に経済同友会の教育問題委員会(委員長:石井公一郎)が『多様化への道』という報告書を出し、「教育の自由化」を提言する。さらに、それらの提言を日本の実情に合わせて応用し、内容を充実させ、新しい教育改革の構想にまとめ上げたのが、松下幸之助の作った研究団体「世界を考える京都座会」(天谷直弘・石井威望・山本七平・渡部昇一・牛尾治郎・加藤寛ら)の『なぜ「教育の自由化」が必要なのか』と『学校活性化のための七つの提言』(84年)であり、中曾根首相のブレーンの手になる『21世紀のための教育改革の五原則』(84年)であり、「政権構想フォーラム」(公文俊平・村上泰亮・守口親司ら)による『学校教育行政の行革提言 ―― 教育改革への突破口としての規制緩和・撤廃 ―― 』(85年)などであった。
 そして、そのような教育自由化論のオモテの推進本部となったのが臨教審の主として第一部会(天谷直弘部会長)、そのウラの実行部隊となったのが、先述の日本経済調査協議会の岩佐委員会だった。

 80年代の「教育の自由化」論の要点はつぎのようになるだろう。

(1) 教育の「画一性」批判
 「教育の自由化」論は、教育改革の動機と根拠を、おおよそ次のような歴史認識と課題意識の中に求めた。
 「欧米工業先進国に追いつくことを基本目標とした、明治以来の、いわゆる『追い付き型』近代化時代の教育は、総合的にみれば大きな成功を収めたが、文明史的転換を含む時代の変化の中で画一性、閉鎖性、非国際性等の弊害が現れてきた。……戦後教育においては、『教育の機会均等』の実現を目指すあまり、『平等』の概念が強調され過ぎ、個性の尊重、自律、自己責任というような『自由』の概念が軽視されてきたきらいがあり、今次教育改革の目指すべき基本方向として、教育における個性の尊重、個人の尊厳を、人格の完成のために欠くべからざるものとして掲げることが必要である……」(臨教審『審議経過の概要』)
 そして「教育の自由化」論者は「画一的教育制度・内容」の例として、(1)初等教育から高等教育まで、6−3−3−4と下から順に積み上げてゆく「単線型」学校階梯制度、(2)初等・中等・高等教育にわたる国・公立学校の優位、(3)初等・中等学校における厳格な通学区制度、(4)文部省学習指導要領によって細かく規定されている教育内容、(5)学校設置基準などによって厳密に規格化されている学校施設・設備、などを槍玉に挙げる。
 このような、国家による強力な管理・統制の下に、全国一律の制度で、同一の内容を、平等に、画一的に、効率的に、安上がりに、徹底的に行う教育は、日本の近代化や敗戦後の経済復興・それにつづく経済成長には非常に有効であったが、経済大国になり、国民の生活が豊かになって、人々の意識や欲求や価値観が多様化した現在にあっては、「制度疲労」と不適応を起こしている。また、産業構造の転換期にあたって、新しい社会の指導者となるべきエリートや創造的な人材を育てることを妨げるばかりでなく、画一的教育制度・内容についてゆけず、そこから落ちこぼれる子どもたちを大量に発生させてもいる、と彼らは言い、その状況を打破するのが「教育の自由化」だと主張したのである。

(2) 「教育の自由化」の対象
 「教育の自由化」論が求める「自由化」の対象を整理するとおおむね次のようになるだろう。
 (1)教育を供給する側(学校設置者)の「自由」:これは学校設置や学校管理・運営に関する「自由化」で、文部省無用論や公教育の民営化論・教育法人化論を含め、文部省の学校設置に関する規制を取り払い、学校をつくりたい者に自由に設置させ、また、現行の6−3−3−4という学制を大幅に緩和し、4−4−4−4など設置者が自由に選択できるようにする。また、教員を任免する自由:教員任期制もここに含まれる。
 (2)教育を受ける側(子どもやその保護者)の「自由」:これは、いわゆる「学校選択の自由」で、それを可能にするために、通学区制を緩和あるいは撤廃するなど、学校選択に関わる様々な規制を取り除く。教員を選ぶ自由もここに含まれる。
 (3)教育内容の「自由」:学習指導要領廃止論を含めた要領の拘束性の緩和、教科書自由発行を含めた教科書検定の緩和、偏差値教育の是正、教育課程への選択制の導入、飛び級制の導入など。
 このような「自由化」によって、学校は多様化し学校同士・教員同士の競争が生まれ、子ども・保護者の選択の自由を通じた学校・教員の淘汰が起こり、それにより教育水準の維持・向上が行われ、同時に、各人の個性や傑出した才能の伸長には不向きで、大量の落ちこぼれも生み出しやすい「画一的」教育の弊害を除くことができる、とされる。


〔3〕「教育の自由化」論の背景

(1) 日本式教育の基礎構造 ―― それは60年代に造成された
 現代日本の独特な教育制度の基礎は60年代に形づくられた。その特質を最もよく表すキーワードは「競争」である。
 60年代の始めに、一連の重要な教育政策が出されるが、それらは文部省の諮問機関である中教審の答申にもとづくものではなく、「国民所得倍増計画」や「人的能力開発計画」などの経済政策の一環を成すものとして、経済審議会の答申という形で打ち出された。それは、高度経済成長政策、すなわち資本主義経済の世界的危機の深まりに対する日本資本の急速度の生産拡大・強力な資本蓄積運動の下で、諸企業の急激な技術革新に対応できる、一定の学力・強健な体と耐久力・旺盛な競争心などを備えた安価な労働力を、どのように大量に効率的に養成するかという観点から、教育政策がつくられたことを象徴的に表している。国民の教育が、経済計画の一環として、労働力政策に従属したかたちで実施されるという構造は、この時代につくられた。
 その際、企業側は、必要な労働力を、企業体の頭脳に相当する(全体を指揮・監督する)職務を担う少数のエリートと、手足に相当する(頭脳の指令を受けて筋肉を働かす)職務を担う多数の労働者との二種類に分け、それぞれ別メニューの教育をほどこすのが効率的・経済的だ考えた。そして、企業とくに大企業の「職種の専門分化と新しい分野の人材需要に即応」する各種・各レベルの労働力の安定的な供給が確保できるように、後者の教育に対して、メニューをさらに細分化・特殊化することを求めた。
 そのような企業側の要請は、実際に「多様化」政策として具体化されたが、子ども・保護者の側の強い欲求によって「軌道修正」をよぎなくされることになる。その結果できあがったのが「受験学力」を評価尺度とする一元的競争構造だった。

(2) 社会階層の上昇競争
 日本の産業界は、高度経済成長政策を通じて、少数の独占企業を頂点として、その支配下に何層もの系列企業・下請け企業・その他の関連・取引業者などを従えた巨大なヒエラルヒーをつくりあげた。それに、日本独特の雇用慣行である〈終身雇用・年功序列・企業内福利厚生制度〉の3点セットを加え、特殊な「企業社会」を構成した。が、「3点セット」の恩恵に与かることができる、言い換えれば、生涯にわたり豊かで安定した生活が保障されるのは、ほとんど〈大企業〉の〈男子〉の〈正社員〉に限られていた。
 大企業は、その労働力需要を、大学・高校の新規学卒者の定期一括大量採用というかたちでまかなったので、〈大企業〉の〈正社員〉になるためには、ホワイトカラーなら「一流」大学、ブルーカラーでも最低高卒、しかもランク上位の全日制卒ということが条件となった。また、入社後も、それ以前の時代は差別があったホワイトカラーとブルーカラーの処遇・昇進体系を一本化し、事務系であれ技術・技能系であれ、企業に対して忠誠を尽くせば「平等に」昇給・昇格できるシステムがつくられた。子どもたち、とくにその保護者たちは会社員であれ農家であれ商家であれ職人であれ受験競争の先にその「昇り階段」を見、さらにその先に子どもたちの「しあわせ」を見ていた。
 こうして、企業社会の競争構造と学校教育の一元的競争体制(=受験体制)が結合され、ほとんどの子どもたちが、より上位の高校、より上位の大学、より大きい企業、より高い地位を目指す激しい競争に参加させられることになったのであった。この高度経済成長期に、日本の高校進学率は爆発的な上昇を見る。
 「多様化」政策は破綻したものの、大企業にとっても、この競争構造は、人材確保と社員・労働者の「やる気」を引き出す手段として、じゅうぶんメリットがあった。

(3) 80年代の産業構造の転換と財界の教育改革要求
 70年代の後半に入ると、さしもの日本の経済成長もゆるやかになる。やがて企業では、「減量経営」と称する、正社員労働者も含むリストラが始まった。加えて、技能労働者を大量に必要とする重化学産業から技術集約的な情報産業へと産業構造が変化し、企業のリストラの必要はいっそう激しくなってくる。その結果、企業には、均質な労働者を大量に養成するのに適したそれまでのような教育システムは、かえって不適当で非効率的と受け止められるようになった。
 また、高度成長期には、アメリカで研究・開発された創造的・先端的な科学・技術を応用し、効率的に産業化することにのみ力を入れ、基礎科学の研究はおろそかにしていたので、日本の大学では、もっぱら工学部が重視(その裏返しとして、理学部が軽視)され、工学部が多数設置されて、多くの技術系卒業生を送りだしていた。ところが、アメリカに「追いつき」、いざ日本が自前でパテントを得て新しい産業を起こさなくてはならなくなったとき、マネと応用のみ得意な従来の工学部重視の教育体制は批判され、創造的・先端的な科学・技術を生むことのできる大学院重視の研究体制の確立が急務であると考えられるようになった。
 さらに、学校でも家庭でも激しい競争に追い立てられている子どもたちに、いじめ、不登校、学校内の対生徒・対教師・対施設設備の暴力、家庭内暴力、自傷・自殺などの問題が頻発する。それらも、財界、とりわけ、やがて彼らも従業員として雇うことになる中小企業経営者にとっては、放ってはおけない一大問題だった。
 大略以上のような状況が合わさって、財界に、60年代につくられた教育体制への批判が噴出し、教育改革への要求が高まったのであった。そこに登場したのが、「教育の自由化」論である。その間の事情を日経調・教育調査専門委員会報告『二十一世紀に向けて教育を考える』は、つぎのように述べている。「われわれは現実にみられる競争の功罪を率直に認め、勝敗のモラルをも含めた、教育における正しい意味での競争の実現を図っていかなければならない。・・・今後も児童・生徒には依然として学力向上を競うインセンティヴ(刺激)が必要である。要は、そうした競争の場を従来のように単一化するのではなく、各人の個性や創造性を最大限に発揮させ得るように多様化していくことが大切なのである。」そして、エリートには、個性的な能力を多様な競争によって早期に選別し、自由で創造的な教育をすすめ、そのような競争に絶ええない子どもには、深刻な人格破壊を生み出さないように、早くから学力競争を免除し、各自の職業適性に応じた訓練や職能教育を選ばせることができる各種の教育制度・教育体系を用意するように求めた。


〔4〕「教育の自由化」論の凍結

 しかし、「教育の自由化」論は、結局は、臨教審の最終答申にも80年代の教育政策にもほとんど反映されなかった。
 その直接的な要因は、自民党文教部会・文部省連合と戦前から引き継がれている国家主義・民族主義・右翼陣営の巻き返しに、「自由化」勢力が屈したことによる。自民党文教族と文部省は、「自由化」勢力が、肥大化している教育財政の大幅な削減を要求したり、従来の文部省を頂点とする中央集権的な教育行政を根本的に改め、既存の一元的教育体系を多元化し、教育の民営化を始め公教育制度を縮小・解体することを強く求めたりしたことなどに対して、自分たちの縄張りと利権を侵すものだと猛烈に反発したのである。また、高度経済成長政策によって体力を回復した日本に、政治大国化意識と巨大化した資本の海外進出への欲求が高まりつつあり、ナショナリズムの教育への要求が強くなって、国家主義者たちを勢いづかせ、「自由化」勢力への反攻、すなわち文部省学習指導要領と教科書検定制度などを主柱とする「画一的な」国家主義的教育体制の堅持に向かわせた。
 しかし、大局的には ―― そもそも臨教審教育改革が「第二臨調」行政改革の一環として取り組まれたという状況の下で ―― 戦後、保守的支配の維持の下で経済成長政策を遂行してきた自民党の利益政治構造や、それを行政面で支えてきた官僚機構と、「自由化」など新しい教育改革を求めた財界の要求との間に矛盾が生じ、後者が退けられたことに因る、と言えよう。それには、世界の資本の展開と日本の産業構造の変化に対する将来の見通し、現在の労働力需要などについての、財界内の差異と利害によって、80年代段階では、日本資本の要求が「教育の自由化」へ一本化できなかったという事情も与かっていた。
 結局、80年代に文部省が、受験競争の激化と、それにともなう教育現場の「荒廃」という状況に対して採った対策は、既存の《学習指導要領+教科書検定》体制を維持したまま、管理主義によって教育困難を押さえ込むという路線だった。教職初任者の官制研修の実施、現職教員に対する管理・統制の強化、学校内秩序維持の強化、道徳教育の徹底、「日の丸・君が代」の掲揚・斉唱の義務化、等々が80年代の後半につぎつぎと実施されていった。


2.90年代の教育改革 

 90年代に入ると、財界は足並みを揃えて、80年代に凍結された「教育の自由化」論の解除を強く求めるようになる。その背景には、アメリカの「双子(財政と国際収支)の赤字」と純債務国への転落という経済危機の深刻化の下で行われた、85年のG5でのプラザ合意による「ドル安・円高」の進行と、日米・日欧経済摩擦の激化、日本製品の輸入制限の強化、それ以降の日本資本の「爆発的な」多国籍化の中で、企業のあり方が大きく急激に変容していったことがある。80年代にはまだ鷹揚にかまえていた大企業にとっても、教育改革はいまや待ったなしの課題になっていた。

〔1〕現代帝国主義と多国籍企業

(1) アメリカによる戦後世界の再編
 第2次世界大戦後、資本主義陣営の支配者となったアメリカは、その抜きんでた生産力と独占的な開発に成功した原子爆弾を中核とする世界一強大な軍事力とを背景に、旧世界の覇者たる大英帝国に替わって、新しい世界秩序づくりに着手する。その目的は、おおよそ2つあった。一つは、ソ連を盟主とする「社会主義」圏の拡張を押さえ込み、それが資本主義圏へ侵入するのをはばむこと。もう一つは、一人勝ちで巨大に膨れ上がったアメリカ資本の新たな進出先として、戦後世界を再編成することであった。
 この二つの目的を統一的に達成するために、まず大戦で疲弊した西ヨーロッパ諸国の復興のために、巨額の経済援助(マーシャルプラン)を行いながら、「東」側に対抗する集団的な軍事同盟としてNATOを組織した。つづいて、その他の地域の中小資本主義国ともつぎつぎと軍事同盟を結び、「西」側の陣営につなぎ止める一方、イギリス・フランス・オランダなど旧帝国主義諸国のアジア・中東などの植民地における民族解放運動に対しては、それらの政治的独立を認め、それら新独立国と個別の反社会主義軍事同盟を結び、米軍の駐留基地を設けるとともに、各国へ軍事・経済両面の援助を行って、国内からと国外からの「赤化」への防止体制づくりに励んだ。
 そうした軍事的支配の網を世界に張りめぐらすと同時に、アメリカは、46年みずからも出資して世界銀行を設立し、ヨーロッパ各国の経済再建に資金を貸し付け、47年にはIMFを立ち上げ、金ドル本位制・固定平価制を構築し、GATTによって、相互最恵国待遇や関税・輸入制限など貿易障害の軽減等により多角的で無差別な取引を保障するという自由貿易ルールの確立を図った。それらを通して、世界の金融の主導権をイギリスから完全に奪い取り、陣営内の諸国の経済再建を主導するとともに、それらの国々をドルの通貨圏に組み込んだ。こうして、アメリカ資本の進出をまつ広大な市場が開拓されていった。


(2) 多国籍企業の登場
 そして、60年代に入り、アメリカ資本は、それらの「開拓地」への資本輸出の重点的な形態を、証券投資(つまり利子・配当めあての投資)から、相手先の市場をより強力に支配し、その市場をさらに深く開拓するために、直接投資(企業支配が目的の、つまり利潤めあての資本投下)へと移し始める。これが、「現代帝国主義」の産物であり、やがてその典型となる、多国籍企業である。
 アメリカ帝国主義の援助の下で再建を果たした西ヨーロッパ諸国の資本も相次いで多国籍化していった。


〔2〕輸出依存型から多国籍企業へ

 日本は、60年代以降の高度経済成長によって70年代末には経済大国になり、80年代には世界のGNPの一割を占める指折りの経済大国にのし上がる。それにともなって、日本企業も、トヨタのような巨大企業がつぎつぎと誕生した。にもかかわらず、それらの多国籍企業化は、欧米にくらべ大きく遅れる。それには、日本国内の特殊な事情があった。

(1) 世界の階層的秩序の形成
 戦後、旧い帝国主義諸国による各植民地・勢力圏の排他的支配を、展開の障害と感じ、「東」側諸国を除く世界すべてを単一の自由な経済市場とすること、すなわちモノやカネが各勢力圏や国境を自在に越えられる自由貿易主義的体制の形成を望んだアメリカ資本は、植民地宗主国に対して、軍事・経済援助の見返りに、門戸開放を要求した。その結果、「西」側世界には、列強帝国主義諸国が割拠して植民地の激しい奪い合いを繰り返す戦前までの世界とは異なる、超大国アメリカの軍事的・経済的・政治的従属下に階層的に編成された「世界帝国主義」的秩序が構築された。それは、アメリカを頂点とし、その下に「勝ち組」帝国主義諸国が、さらにその下位に西ドイツや日本など「負け組」帝国主義諸国やカナダなど「中堅」資本主義諸国が、そして最下層に旧自治領・植民地独立国を含めた発展途上国が位置するヒエラルヒー状の体制であった。

(2) 戦後日本の再建と従属的体質の形成
 戦後日本は、そのような、アメリカを支配者とするヒエラルヒーにがっちり組み込まれた状態で、すなわちアメリカ帝国主義への強い従属の下に、その世界戦略に沿って、再建されていった。
 実質的に単独占領したアメリカは、日本を、「社会主義」中国に代わるアメリカ資本と商品の有力な市場、かつアジア制覇と反共の軍事拠点とすべく、沖縄という日本固有の領土の一部を国際法に違反して全面占領し、「独立」後も日米安保条約などによって、日本全土にわたる米軍の自由な活動を保障させる一方、資金援助(ガリオア・エロア等)しながら、日本資本主義の早急な再建を主導した。また、朝鮮戦争の勃発後は、当初の再軍備禁止政策の内容を変え、「東」側との戦争に備えて、日本人による「傭兵軍」の組織化(警察予備隊→保安隊→自衛隊)をすすめた。
 敗戦によって植民地を失った日本資本主義にとっても、生産に必要な原材料や燃料の入手も、新技術の導入も、資本の調達も、また製品の輸出市場の確保も、アメリカとその勢力圏に頼らざるをえなかった。また、国内の労働争議その他の民主主義運動や社会主義運動を押さえ込むためにも、アメリカの「力」が必要だった。こうして、日本の独占資本の目には、アメリカの軍事的・経済的・政治的支えに身を任せることが、資本主義体制を維持しつつ再建を図るべき唯一の選択肢であると映った。
 経済条項も加わった60年の日米安保条約の改定は、日本の対米従属的・依存的体質をさらに深くする。

(3) 輸出依存型経済の形成へ
 しかし、そのように、アメリカへの強い従属と依存の枠の中に置かれ、戦前のような帝国主義の復活が阻まれたことによって、皮肉にも、日本の資本は、60年から80年にかけて、急速な蓄積を実現する。つまり、アメリカの対日政策と平和憲法のもとでの民主主義運動の高揚によって、自前の軍隊の保持が阻まれたことにより、日本経済の軍事化が相対的に抑制され、国家財政における軍事費の比率が他の先進諸国よりも低く抑えられたため、その分を、経済の高度成長に必要な資本蓄積基盤整備への投資に振り向けることができた。また、軍事費の枠や武器輸出の規制により、軍事産業の肥大化が抑えられ、軍産複合体の形成による経済の硬直と破綻を免れることができた。日本資本主義は、民需産業の圧倒的比重の下で激しい価格競争を展開し、絶えざる生産性向上による競争体質を強め、それが国際競争力の強化にもつながったのである。
 こうして高度経済成長は、基本的に以上のような対米従属・依存の構造の上で可能となったが、もう一つの要素は、日本の「家(族)」をモデルとする「伝統的な」社会構造や「順応」「忍耐」などを徳とする「国民性」と底で重なり合う、つぎのような日本企業独特の体制と体質だった。
 その一は、戦後の財閥解体の結果生じた、金融資本を核とする新たな企業グープ同士の激しい競争である。また、各企業グープ内の各企業は、外資の乗り込みに備えて、相互に株を持ち合い人的な交流も行うなど組織的に密接に融合し、資本蓄積にきわめて効率的な体制をつくりあげた。
 その二は、50年代中期に始まり60年代後半に確立された輸出依存型の体質である。
 そのような体質は、上述のような、企業グループ間の激しい競争体質、企業グループ内の封建的な下請け・系列支配、そして「過労死」までもたらすような従業員間の激しい競争と相互監視、昇進と賃金両面の女性差別、企業主義的労働組合を使った労務管理・労働者抑圧の体制、などから成る《構造》の産物であった。民主的規制のゆるい労働法制と労働行政、ならびに資本が育て上げた保守政党の政府から引き出される手厚い大企業優遇政策の下で、こうした日本企業独特の構造が生み出す「高い生産性・低いコスト」が日本商品の抜群の国際的競争力を支え、それによって日本資本主義は、高度成長を達成し、オイルショックなどによる世界恐慌もいち早く乗り越えることができたのであった。
 しかし、この日本の輸出依存体質は、多国籍化を大幅に遅らせた原因・理由となったと同時に、他の帝国主義諸国との摩擦を強め、その後の日本企業の一斉の多国籍化を生じさせる要因をもはらんでいた。

(4) 多国籍企業への転換
 70年代の石油危機(オイルショック)などによる世界恐慌を、上記のような独特の《構造》のフル用と、「減量経営」と称する正社員も含めた大幅な人減らしや、80年代のME化を軸にした「省力化」などで乗り切った日本企業は、いっそう強化された国際競争力を武器にして、欧米市場に対し洪水のような輸出を開始した。その結果、貿易摩擦が激化し、アメリカでもヨーロッパでも輸入制限が行われるようになり、日本企業は、それらの市場を維持するために、本格的な多国籍的進出をよぎなくされる。その画期となったのが、「ドル高是正・円高政策」が打ち出された85年のプラザ合意であった。日本資本の奔流のような海外進出が起こり、日本企業の多国籍化は一気に進んだ。そして、91年には早くも、世界第2位の資本輸出国にのしあがる。


〔3〕90年代の支配層の既存政治・制度の改革要求

 90年代の財界の教育改革の要求は、以上のような文脈の中で、80年代のそれよりも、さらに切迫感をともなって、出てきたのである。その要求の内容は、既述のように、80年代に一旦凍結された臨教審「教育の自由化」を主軸にし、一面をより強化したものであるが、それは、臨教審改革が「戦後政治の総決算」路線の一環であったと同様、既存のシステム全体の改革 ―― 大国主義的と新自由主義を基軸とする改革 ―― と連動したところで提出されているという特徴がある。

(1) 政治・軍事大国的改革の要求
 日本の支配層の内部には、敗戦後、「失われたものの回生」というかたちで、国家主義的「改革」の欲求がつねにくすぶっている。それは、これまでの自民党国会議員などによる数えきれないほどの「妄言・放言・失言」の中にその先端を現し、その度に先の大戦で日本の侵略を被ってきたアジア諸国と国内の民主主義運動の批判を招いてきた。国政レベルでも、66年に建国記念の日が制定され、69年以後何度も靖国神社の国家護持法案が国会に提出されている。
 そして、82年には、「戦後政治」 ―― すなわち60年代から70年代にかけての経済成長を最重要課題に定める政治 ―― の「総決算」を標榜する中曾根政権が登場し、今や経済大国となった日本を、政治大国として復活させることを図った。中曾根内閣は、日本の政治大国化のための負担(たとえば国際的な軍事的・経済的貢献や後方支援、ODAなど)について国民の同意を得るために、国民の経済発展至上主義意識を変革することをねらったが、それは必ずしも単純な伝統的右翼的な反動の試みではなく、戦後の民主主義の枠組みを意識したものであった節がある。しかし、結局中曾根が実施できたのは、靖国神社への首相の公式参拝・建国記念日への首相出席・昭和天皇在位60年記念式典の挙行などの復古的政策ばかりだった。
 しかし、90年代に、財界・大企業が、自民党政府に迫った新たな要求の一つである、大国主義的な改革の要求は、そうした底流とはやや内容が異なっていた。それは、主として、上に述べたような、アメリカ帝国主義への従属・依存の下での輸出依存型企業から多国籍企業への転換に起因していた。
 輸出が経済の主柱であった時代には、日本企業の絶大な国際競争力を支えた、労働者に対する強い支配や大企業傘下の系列・下請け網からの搾取などを成立させる《構造》全体を維持するために、財界・大企業の関心は、ほとんど国内に焦点が当てられていた。しかし、多国籍的進出が進み、外国への直接投資が拡大する ―― 工場をつくり労働者を雇い生産をする ―― に及んで、日本企業も、進出先、とくに最大の進出先であるアジア太平洋地域の国々での政治的安定と企業活動を円滑に進めることができる環境の維持、ことに企業側に有利な労使関係や税制・緩い環境基準などの保持に強い関心を寄せざるをえなくなる。こうして、進出先の政治の安定や秩序の維持が脅かされる事態が生じた場合に備えて、企業が本籍を置く自らの国にその対応を要望するようになり、その帰結として、「強い国家」を求める声、すなわち自国の軍事・政治大国化を要求する声が、企業から起こったのである。それが、90年代のODA増額や自衛隊の海外派兵(とくに国連PKOへの派遣)、アメリカのアジアでの軍事的プレゼンスへの補助、日米軍事同盟の強化、米軍作戦行動への支援などの要求となって表れる。
 そのような要求は、92年の国連平和協力(PKO)法の制定、78年に策定された「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」の改定(97年)、それを法的に整備するガイドライン関連法(周辺事態法・自衛隊法改正・日米物品役務相互提供協定)の制定などという形で一部実現された。
 また、国際舞台で政治的発言権を確保するために、国連の安全保障理事会の常任理事国入りを目指す運動も、政府の外交政策の中に据えられるようになる。

(2) 日本資本の90年代大国主義的改革要求の特徴
 現代の帝国主義と旧い帝国主義は、両者とも「在外邦人と権益の保護」を名として外交や軍事力を動員するという共通点がある。しかし、後者が、軍事力で排他的に一定地域を囲い込み、資源や市場を独占することを目的にしたのに対して、前者は、排他的独占を求めて帝国主義同士あい争うよりも、互いに自由に企業活動が展開できる開かれた秩序をつくる方が、巨大化した資本の欲求に合致するとして、むしろ軍事同盟を結んだり、国連などを通じ協同で軍事的政治的力を行使したりして、世界の秩序を守ろうとする。
 こうした現代の帝国主義の要求は、大国主義のイデオロギーのかたちにも影響を及ぼしている。90年代の教育改革のなかで、「日の丸・君が代」と並んで、「国際社会での責任」が強調され、政治の場でも、マスコミでも、しきりに「国際貢献」が叫ばれているのは、その現れにほかならない。
 とはいえ、日本の伝統的右翼的潮流が勢いを弱めたというのではなく、日本の帝国主義が国家主義や軍国主義を必要としなくなったというわけでもない。支配層は、少なくない日本人の間に依然としてオールマイティの潜在力をもつ天皇を柱に社会統合を図りたいという誘惑を棄てきれない。彼らは、教育改革や世論形成の公式イデオロギーとして「国際化・国際貢献」を掲げる一方で、日の丸・君が代を国旗・国歌に法制化し、教育現場などへ強権的にそれを押しつけつつ、(おそらく戦後はじめて)教育界の内部から「自虐史観からの脱却と健全なナショナリズムの回復」を主張する藤岡信勝らの「自由主義史観」などを登場させ(95年)、さらに、学者・作家・マンガ家・スポーツ関係者・財界人らで「新しい歴史教科書をつくる会」を結成させ、神話から説き起こす歴史教科書づくりとその普及に努めさせるなど、民間でのナショナリズム教化キャンペーを、行政と並行して展開させている。
 また、99年の国会への憲法調査会の設置は、改憲勢力から、憲法第9条の改正への足場づくりと位置づけられている。同調査会は、護憲勢力と改憲勢力の対立の場であると同時に、新旧の大国主義イデオロギーの交錯する場ともなっている。

(3) 新自由主義的改革の要求
 91年6月のソ連の崩壊とそれにともなう東欧地域の崩壊、それにつづく中国とベトナムの「改革開放政策」「ドイモイ」の採用、その結果の東西対立構造の消滅は、市場を一挙に単一化し全世界に拡大した。世界の多国籍企業間の競争はますます激化し、「大競争(メガ・コンペティション)」時代の到来を招いた。一極超大国となったアメリカ帝国主義を主導者とする世界の再編がふたたび始まり、競争の激化がそれに加わって、日本の多国籍企業の競争力の相対的な低下が明らかになってくる。
 日本資本は、多国籍化し生産拠点を海外に移していったことによって、国内の「産業空
洞化」をもたらし、輸出依存型企業時代にその高い国際競争力を生み出した《構造》 ―― つまり、低賃金・長時間・超過密労働などによって「高い生産性・低いコスト」を実現してきた《構造》――を失ったわけだが、今やそれに代わる新たな構造の構築を切実に求めるようになった。そのために、政府に対して、つぎのような内容の新自由主義的改革を迫った。

 a. 競争力低下の要因分析と改革要求
 90年代以降の日本企業の競争力の相対的低下をもたらした要因を、企業は大略つぎのように捉えた。
 (1)バブル景気による「行政改革」の停滞と企業リストラの停滞。他方、新自由主義的改革に成功したアメリカ企業の競争力の回復。(2)トヨタのカンバン方式などの日本型リストラをまねた他国の多国籍企業のリストラの進展。(3)バブル崩壊による構造不況の発生とそのための財政出動による財政赤字の増大。不況克服のための公共投資や弱小産業保護政策による市場開放の遅れ。
 そこで、財界・大企業は、みずからに(2)の対策としていっそう激しいリストらを課しつつ、政治には(1)と(3)の改革を強く要求した。それは旧来の自民党型(利益)政治への意義申し立てでもあった。

 b. 自民党利益政治の仕組みと改革要求
 自民党(政権)が戦後を通じて編み上げてきた「利益政治」は、既述のような、巨大企業とその支配下の何層もの系列・下請け中小企業群によって構成される企業社会を、日本の大衆社会統合の核に据え、その外の農山漁村住民や都市の商工自営業者を、各種補助金などによる保護・利益配分と規制を通じて囲いこむ仕組みによって成り立っている。これは、ヨーロッパの福祉国家のように公的に制度化されたルートによるのではなく、「日本的経営」と「補助金行政」というルートで「富の下方への再配分」をする、いわば、疑似福祉国家的な体制である。
 しかし、多国籍大企業は、みずからの企業社会のリストラを断行する一方、(1)財政の肥大化・硬直化とそれによる法人税負担の加重の要因の一つ、(2)国内市場の開放と自由競争・それを通じた不効率産業部門・弱小企業の淘汰の障害、(3)流通過程の整理の障害、(4)賃金や食料品などの物価・運賃などの低下の障害、であり、それらをひっくるめて(5)生産と流通コストの上昇、(6)国際競争力の低下、をもたらしている、農村と都市自営業者の保護政策(補助金行政)を是正するように、自民党政府に求めたのである。
 また、60年代から70年代にかけて急速に拡大した革新自治体などにてよって拡充され、まがりなりに国の制度にも採り入れられた福祉的政策や、かたちばかりの社会保障制度、貧弱な教育予算などへの支出さえも、財政の硬直化と肥大化の原因とされた。
 それらから、財政構造改革、社会保障制度改革(とくに医療制度改革や年金制度改革)、初等・中等教育のスリム化などの教育制度改革などの財政支出削減案、ならびに法人税・所得税の軽減と累進課税の緩和・大型間接税の導入、などの要求が出されてくる。
 さらに、公務員の大幅削減や、公共事業・補助金「バラマキ行政」の廃止、各種の規制(女子労働保護規定や食品添加物・残留農薬の規制など)の緩和・撤廃と行政官庁の許認可権限の縮小、疑似福祉国家的な官僚機構の縮小再編などをねらった「行政改革」と「規制緩和」が叫ばれる。

(4) 企業支配構造の再編
 大企業は、また、80年代までは高利潤の源泉であった、上記のような企業支配の《構造》自体も、根底から改編をし始めた。この90年代以後のリストらは、それまでの「減量経営」やME化などによる企業リストラとは、まったく質が異なるものである。後者は、強固に結びついた階層的系列・下請け網の基本は崩すことなく、また、各企業内の、男性正社員を中心としたブルーカラーとホワイトカラーの統一的な昇進・昇格を軸とする「平等な」競争システム、および終身雇用・年功賃金・企業内福利厚生制度の3点セットがそれに組合わさった労働者管理の仕組みを基本的に前提とし、両者をいっそう効率的に活用するためのリストラだった。しかし、90年代以降に猛威をふるっているリストラは、そのような旧い《構造》自体を解体・再編しようとするものになっている。
 こうして、多国籍化にともなう国内の「空洞化」や企業グループの中心企業内部の再編成などによって、系列・下請け群の企業まるごとの「整理」が急激にすすんでいる。他方、生き残った企業内でも、いままで企業支配の中核を担ってきた男性正社員層すらリストラの対象にし、日経連の『新時代の「日本的経営」』(95年) でも述べられているように、従来どおり企業の中核を成す少数の長期雇用正社員と周辺的労働を担当する任期つき雇用者群とに分解する。さらには、周辺労働者を派遣・パートなどの外部の労働力と代替する。加えて、年功賃金制は廃止して、「能力」給・出来高給などに変え、企業内福利厚生制度も労働コストに換算し、コスト全体の縮減を図る。
 つまり、現在も進行中のリストラの嵐は、先に述べたような、良くも悪くも日本の戦後社会の主柱になってきた企業社会とその「日本的経営」の根幹 ―― 正社員になれば、企業に忠誠をつくす限り、自分と家族の生活は一生保障されるという雇用形態 ―― 言い換えれば、「しあわせ」の構図 ―― に手をつけ、企業支配構造を抜本的に再編しようとしているのである。

 以上に述べてきたような90年代の支配層の改革要求を、はぼ全面的に受け入れ、政策化したのが、97年のいわゆる「橋本6大改革」((1)行政改革、(2)経済構造改革、(3)金融システム改革、(4)社会保障構造改革、(5)財政改革、(6)教育改革)にほかならない。教育改革は、他の5つの改革と一体のものとして打ち出され、「橋本教育改革プログラム」と呼ばれた。



〔4〕90年代の財界の教育改革の要求

 90年代以降の財界の教育改革要求の内容は、既にたびたび述べたように、基本的には、臨教審の「教育の自由化」論の再提出であるが、前章に述べたような財界の既存政治・制度に対する強い改革要求と自らの内部改編、そしてそれに応じた激しい状況の変化を反映して、全体の拡充と具体化、および部分の重点化が行われている。その特徴を一言で表せば、「スリム化した上での多様化」ということになるだろうか。その「スリム化」は、財政と教育制度の両面にわたっている。

(1) 既存教育制度への財界の不効率感
 世界の多国籍資本の大競争が激化した90年代に入って、財界は、国家財政を圧迫し硬直化し、それが大企業に税の過重負担となってシワ寄せされ、自由な活動の足かせの一つともなっている農業や都市中小自営業などの「不効率産業」に対してと同様に、また、社会保障や福祉に対してと同様に、既存の「形式的平等性」を重視した「画一的単線型教育システム」に対しても、「不効率」だとして、改革の要求をますます強めた。
 財界の不満の内容はおおむね次のようなものだった。(1)公教育予算の約半分を義務教育国庫負担費(小・中学校教員の給料)が占めている。これが財政の肥大化と硬直化の最大の原因になっている。(2)高校教育の大衆化と高等教育機関への進学率の上昇によって、教育予算が増加する一方、賃金水準がアップして、コストを高くし、日本企業の国際競争力を低下させている。(3)多国籍企業にとっては、製造業のような半熟練労働力集約的な部門は、ほとんど国外に生産拠点を移しており、もはや国内では水準の高い労働力を大量に必要とすることはない。70年代以前のような、規格化された新規学卒労働力を量産する学校制度は、改編すべきである。(4)「平等主義にもとづく画一的な」学校制度は、親に高学歴に対する「幻想」を抱かせ、一元的受験競争の加熱を招くのみか、能力・意欲のある子にもない子にも同じ教育を受けさせる結果、大量の学校不適応が起こり、教育荒廃を生み出している。

(2) 教育制度のスリム化
 そのような問題意識から出てきたのが、公教育制度の「スリム化」論である。その要諦は、公教育制度を縮小するところにある。その上で、企業の労働力編成とその需要計画に沿って、教育制度を「多様化」(つまり多岐化・多層化)し、家庭の経済力と意欲に応じて、それぞれに適したコースを「自己責任で」「選択」させる、という。
 そして、財界のもう一つの教育改革要求の柱が、旧来の社会構造を解体した後つくり出そうとする新しい社会の中核を担うべきエリート層の養成である。
 この二つの要請を統一して具体的な構想にまとめたものの典型に、経済同友会の『学校から「合校」へ』(95年)という提言がある。
 そこでは、まず「学校」の機能を、「言語能力」「論理的思考能力」の養成と「日本人としてのアイデンティティ」の形成に限定する。すなわち、それらを担う教科 ―― たとえば、国語・英語・数学(算数)や日本史 ―― によって構成される「基礎・基本教室」が、あらたな「学校」いうことになる。そして、その他のさまざまな学習や活動は、すべて「自由教室」「体験教室」という形で、「学校」の外部に配置し、それぞれをネットワークで結ぶ。その全体を「合校」と呼ぶ。要するに、現在の学校が設けている教育課程 ―― 教科と教科外諸活動(生徒会・学級会・委員会・クラブ・各種行事など)・生活指導・進路指導など ―― の他さまざまな福祉的機能(学校給食・保険・健康管理など)のほとんどを、学校の外に押し出す、ということである。
 この ―― おそらく初等教育段階で修了する ―― 「学校」にのみ学習指導要領を適用し、文部省が管理し公的保障をする、という。(言い換えれば、中学校までの公営・無償制原則は棄てられる。)「自由教室」「体験教室」というのは、学区とか小学校・中学校の区分とか学年とかいった従来の学校(制度)の仕組みはまったくもたない、「地域」の教育機関で、そこに入って学習するしないは家庭(子ども・保護者)の「自主的な選択」に任される。
 ちなみに、この「地域の教育機関」は、地方自治体の諸施設でなはい。後述するように、学校「スリム化」と同じく財政上の視点から、地域の図書館・公民館・青少年会館・スポーツ施設などの社会教育施設への補助金の削減・打ち切りも強く主張されており、現にその線に沿って「行政改革」が推進されている。つまり、「地域の教育機関」とは、学習塾や英会話教室・スポーツクラブ・音楽教室などの民間の教育産業と同義ということになる。
 他方、エリート層の養成は、予算を重点的に配分した「スリム化」しない特別の教育コース・プログラムが別に設けられ、そこに乗ることのできる資格と条件を備えた者だけを導き入れることになる。
 『学校から「合校」へ』論は、現実に階層化が進んでいる教育の実態の単なる追認ではない。これまでの教育の階層化は、原則的には「平等な」チャンスを与えられた単線型教育体系の下で、参加者がそれぞれの段階で競争に勝つか負けるかというところで起こってきた。しかし、「合校」論では、ミニマムな教育だけしか公的に保障されないので、経済的事情や民間教育サービスの過疎地域などのために、それ以外の教育への機会を得られない子どもは、学力選抜において劣位を免れず、それなりの継続教育のコースを「選択」、ないしは断念せざるをえなくなるというかたちで、初等教育の段階から階層的複線化が始まる仕組みになっている。家庭の階層格差を反映し、教育資源の上層への格差的配分が常態化し、構造化する。これは、「社会階層(家庭間の経済的・文化的資本格差)に応じた教育」の制度化と言わねばならない。

(3) 新しい社会の柱となるエリート層の養成
 80年代の臨教審の「教育の自由」論でも、エリート養成の必要が叫ばれていた。しかし、90年代の財界の教育改革構想におけるそれは、前者が「従来の量を中心とした経営から質的側面重視の経営へと移行せざるをえない」(日経調)という状況認識に沿って、企業の中枢を担う人材の養成を求めたのに対して、90年代の改革構想は、それのみならず、これまでの社会を解体・再編して新たにつくろうとしている階層的社会(多国籍企業的帝国主義国家)の核となるべき階層の形成をも展望したものになっている。
 そのため、財界の要求と期待の焦点は、主として高等教育を通した人材の確保と企業の利益につながる研究・開発機関としての大学、とくに大学院に移っている。
 そこで求められているエリートのタイプは二つ。一つは「ある分野に関するスペシャリティを備えた人材」で、「半端な一般教育はいらない」人たち、もう一つは、「会社の意思決定に関わる幹部要員で、国際的な舞台でも通用する教養やディベートの能力が求められ」るが、「一握りでいい」と言われる人たちである。そして、そのスペシャリストとは、従来型の技術者・研究者ではなく、人類に新しい知見を与え新事業・新産業を生み出すような独創的な研究を行う研究者、ビル・ゲイツのように、自らリスクをおかして、独創的な先端的な研究開発の事業化(ベンチャー・ビジネス)をすすめられる人、とされる。(桜井修・経済同友会幹事)
 では、その外の者 ―― 前出の桜井修が言うところの「ロボットと末端の労働者」 ―― はどうするのか? 各々「生きる力」を身につけ、おのれの身の丈に合った場で、自由勝手に、しかし問題を起こさず生きていって欲しい、といのが財界の正直な答である。すなわち、「自立・自助」の精神をもち、行政や企業に依存せず、雇用の流動化にも弾力的に対応し、必要に応じ自己負担で自らの職業能力を開発してゆくように、また、日本人としての自覚(アイデンティティ)をもち、集団と社会のルールを身につけるように、というわけである。
 財界は、新たに創出しようとする社会を、「自立した個人」の「自己責任」による「市民社会」と呼ぶ(経済同友会『市場主義宣言』96、『戦後日本システムの総決算』『こうして日本を変える』97、経団連『魅力ある日本』97)のだが、そこで「市民」とか「新しい個」などという言葉で想定されているのは、上記のようなエリート層であって、「(市民的)資質は(社会の)全員が兼ね備えなければならないものではない」と言う。(経済同友会『新しい個の育成』89)(ちなみに、この構想は、さっそく97年12月の政府の行政改革会議の最終報告に盛られた。)


〔5〕文部省の方針転換と90年代教育改革の具体的方向

(1) 文部省の方針転換
 80年代に臨教審の「教育の自由」論を、自民党文教族や右翼陣営と力を合わせて封じ込め、旧来の体制を基本的に温存し既得権を守った文部省は、しかし、教育の荒廃その他の深刻化する教育問題に「管理主義」で対応しようとしたが、破綻する。その挫折の後、文部省の第一段階の基本方針の転換が行われた。それが、90年代冒頭の、義務教育での共通の到達目標を放棄した「新しい学力観」の採用と第14期中教審の「高校新多様化」の提起である。ここで初めて、文部省は、「新たな多様化」路線に踏み出す。それは、子どもたちを能力に応じて早期に選別し、能力別のコースに振り分けることで、一元的な競争制度による受験競争を緩和し、イジメなどの教育問題を解消しようという考え方へのスタンスの変更であった。
 文部省の方針転換の第二段階は、90年代の半ばに行われた。95年に、経済同友会の『学校から「合校」へ』が出、第15期中教審の第1次答申が、その「学校スリム化」というキー概念を基本的に受け入れたのである。これが、本格的方針転換への画期となった。

(2) 90年代教育改革の具体的内容

 a. 中教審
 それに沿って、第15期中教審・第1次答申(96年)は、学校を「スリム化」して「ゆとり」を取り戻し「生きる力」を育むと述べ、その具体的方向として完全学校週5日制と教育内容の「厳選」を挙げた。そして、第2次答申(97年)では、(1)一人一人の能力・適性に応じた教育、形式的な平等の重視から個性の尊重への転換、特定の分野について優れた能力や意欲を有する生徒に対する多様な教育機会の充実、(2)選抜方法の多様化や評価尺度の多元化への一層の転換、受験機会の拡大、推薦入学の改善、(3)高校教育の多様化と柔らかなシステムの実現、(4)中高一貫教育の選択的導入と特色ある教育の展開、(5)大学入学年齢の特例措置(飛び入学)などを提唱した。

 b. 財政制度審議会
 96年報告『財政構造改革を考える』は、改革課題として、(1)教科書無償制度の見直し、(2)教職員人権費の国庫負担をナショナルミニマムに限定し、超過分は地方自治体負担に、(3)「30人学級」など学級定数改善措置の停止、(4)高等教育・学術研究への教育費の重点的配分、(5)国立大学授業料の値上げと学部別授業料の導入、などを提起した。

 c. 橋本教育改革プログラム
 97年1月、橋本内閣は、新自由主義的体制への本格的転換を図る諸政策の一貫として、教育改革プログラムを国民に示した。その主要な項目は以下のようなものであった。(1)公立学校への中高一貫教育の導入、(2)大学入学年齢の弾力化、(3)公立小・中学校の通学区域の弾力化、(4)2003年の完全学校5日制をめざした教育内容再構築、(5)大学院の充実・強化、大学教員への選択的任期制の導入など高等教育機関の活性化、など。さらに、同年3月の橋本内閣「財政構造改革指針」では、文教予算関連として、(1)教職員定数など義務教育費の見直し、(2)高等教育(国立学校)の組織・定員の見直し、授業料のあり方の検討、(3)私学助成の総額抑制など、公教育領域への国家財政負担を大幅に削減しながら、その配分を組み換えてゆく方針が示された。

 d. 教課審
 それらを受けて、98年の教課審は、式などにおける君が代の斉唱・日の丸の掲揚の指導の徹底を求める一方、(1)教育内容・授業時数・卒業単位数・必修単位数の削減、中高のクラブ活動の廃止、(2)小学校高学年からの課題選択と習熟度別学級編成の導入、(3)中学校でのすべての教科について課題学習・補充学習・発展的学習のための選択教科の開設可能、などを答申している。これらは、「スリム化」とセットになる「多様化」、つまり、教育体系の複線化と教育課程の種別化の方策の提案にほかならない。
 しかも、これらの答申は、実際にゆとりのある教育の実現に不可欠な教育諸条件の抜本的改善を政府に求めるのではなく、子どもたちの差別・選別を強め、学校運営における校長権限と教育行政当局による教育支配の強化を進める方向で、諸施策を実施しようとしているのである。

 e. 生涯学習審議会
 また、96年には、文部大臣の諮問機関である生涯学習審議会が、地域社会でさまざまな学習機会を提供している機関や施設を、(1)大学など高等教育機関、(2)小・中・高校、(3)公民館・図書館などの社会教育機関、(4)行政部局や企業などの研究・研修施設、の4つに類型化し、それぞれの生涯学習機能の充実を図る上での課題を提示している。
 しかし、この答申は、近年国民の中に高まっている、子育てから健康・福祉・環境に至生活上の諸課題の解決につながる学習要求に応えて、地域住民が「自主的に共同で学ぶ」という学習者本位の社会教育活動をもたらすものではない。それとは逆に、社会人再教育・再訓練を含めた高等教育の改革を求める企業の要請に応じるとともに、地域生涯学習ネットワークの名のもとに、子どもや地域住民を専ら受け手として位置づけ、「地域との結合」や「地域の教育力の活用」をうたって、学校など既存施設の機能の開放を図り、地域社会の既存秩序の再編の方向へ組み込む道を開く一方、民間営利事業としての学習・文化・スポーツ活動の市場を広げるものとなっている。
 それは、95年の公民館の民営営利事業者への開放を促す通知や、経済同友会の「合校」構想に呼応し、公的事業や公的施設に利用にも、「行政改革」路線に沿って、有料化(受益者負担原理)を導入し、地域住民の学ぶ権利の保障を後退させつつ、生涯学習政策の根幹である学習文化の「商品化」の方向を一段と鮮明に打ち出したもの、とみることができる。
 さらに、同審議会は、99年、「青少年の『生きる力』を育む地域社会の環境の充実」のための提言を行い、今後「学校教育がスリム化」してゆく中で、学習塾をはじめ各種スポーツやそろばん・音楽などの民間教育事業には、地域の子どもたちの多様なニーズに応える役割が求められるとして、自然体験・社会体験、創造的体験活動・課題解決型の学習の機会を提供してゆくことを要望した。そして、学習塾については、「学校外での学習環境のひとつとして、大きな役割を果たしている」と位置づけ、はじめて学校教育を補完する存在として認知した。

 以上をたどると、90年代教育政策は、戦後教育改革から60年代までを通して組み上げられてきた「教育における福祉国家体制」を抜本的に清算し、戦前のような、階級的・差別的・行き先別複線型学校体系へと後退させようとするものだということに、私たちは思い至る。


  むすびに

 いま世界では、一極超大国アメリカが、最大の軍事力を背景に、多国籍企業群を中心とする支配層の描く世界制覇戦略に沿って、グローバリゼイション(アメリカの主張する資本主義的制度や慣習を全世界に無条件で採用させようとする試み)を展開しようとし、その横暴な経済侵略から自らを守ろうとする開発途上国・その他の諸国・各国NGOなどの反撃を受けている。
 日本国内では、依然として深くしみ込んだ支配体制の対米従属体質の下で、グローバリゼイションの波を受けた大企業らが、弱体化した自民党にムチを当てながら、庶民を犠牲にした自己中心のサヴァイバル政策をつぎつぎと実施させ、国と地方の財政の空前の破綻を引き起こしている。
 政財官の癒着・腐敗と政権担当能力の欠落によって「選挙多数」の支持も失いつつある自民党とその補完政党を寄せ集めた連立政府は、社会保障・福祉制度を切り縮めたうえに、大型公共事業の乱発・消費税増税などの失政を重ね、出口の見えない構造的大不況を生じさせ、多くの国民の現在の生活と将来設計を破壊し、大きな社会不安と文化・モラルの頽廃、犯罪の多発・凶悪化・低年齢化などを招いている。
 教育の分野では、政府・文部省は、大多数の子どもの教育への権利を奪う「公教育のスリム化」に加えて、昨今の社会的閉塞状況を、天皇の活用を軸にした国家主義的な社会統合策で切り抜けようと、法制化した日の丸・君が代を、子ども・教職員らの思想信条の自由を奪いながら、異常な執念と脅しで強権的に押しつけつつ、憲法第9条の改定を図るとともに、人格の完成を教育の目的に定める教育基本法を、愛国心重視・滅私奉公など伝統回帰の方向へ改定することをもくろんでいる。
 また、文部省・教育委員会は、教育現場の一向に回復の兆しが見えないイジメ・不登校・学級崩壊・学習放棄・暴力と性の非行・犯罪・自殺などの諸問題を、もっぱら家庭と教職員の責任に帰し、みずからの無能は棚に上げるだけでなく、国連・子どもの権利委員会による「日本の子どもは、極度に競争主義的な教育制度のもたらすストレスにより、発達のゆがみにさらされている」という異例の勧告も黙殺し、いま子どもたちの内部に何が起きているのかを真剣に追究することも怠り、教育行政当局としての責任を回避することにのみ汲々としている。
 こうした状況に直面する今、私たち教育労働者の責務はきわめて重大である。現場からの教育改革の必要は待ったなしのレベルに達している。

 [私たちの教育改革の要点]
 1 2000年の財界の戦略の重要な一貫を成す教育改革構想が、上述のような複合的要求から出てきているとすれば、それに対抗する私たちの改革も、政治・経済・軍事・社会的背景を踏まえた総合的なものであることが必要である。その総合性には、運動論のそれと教育論のそれとがある。
 2 新自由主義的政策は、わが国の産業と社会の構造の根本的な改変と、基本的人権保障の体系の破壊をもたらしつつある。その影響は計り知れないほどの範囲に及びかつ深刻である。私たちの教育改革は、それら各界各層の種々様々な運動・要求と結んで進めることが重要である。
 3 私たちの教育改革のプログラムづくりと実践において、もっとも留意すべきは、教育政策が、経済計画と労働力政策に従属している現状を抜本的に打破すること。そして、子どもたち一人一人の人権にもとづいた全面的・調和的・個性的な発達の追求が、教育改革・実践のアルファでありオメガであることを、胸に深く刻むことである。
 4 現在進行中の行政による教育改革の実情に則して言えば、「新自由主義の一つの戦略が『公教育の縮小』にあるとすれば、教育運動にとっての大きな戦略的目標は『新たな福祉国家』戦略に基づいた『公教育の拡大』である。ただし、拡大されるべき『公教育』のイメージは、従来の公立・学校中心には限定されるべきではない。60年代以来の教育における福祉国家的制度拡張が、公立学校を中心とした教義の学校制度の拡張であったとすれば、「新たな福祉国家」戦略に求められるものは、公立学校制度を中心としながらも、その周辺に、子育てと教育、福祉、職業訓練をふくむ若者の自立援助などについての公共的共同的取り組がひろがる、そういう拡張された公的空間である。」(乾 彰夫)
 5 今日の子どもたちの危機は、生活(環境)と人間関係の急激な変化・変質・抑圧の下で、乳幼児から青年にまで及んでおり、とても家庭や学校(教育)だけで対応できるものではなく、子どもの発達過程と生活(環境)全般にわたって総合的・継続的に対応するという視点が欠かせない。すなわち、教育・医療・福祉・文化など幅広い分野の専門家が、子どもやその家族と苦悩を共有しながら理解を深め、タテワリの壁を破って連携・協同し、チームで問題解決を支援するためのネットワークづくりが決定的に重要である。(高総検報告\・第1分冊)








第2章.第16期中教審答申の分析

1.入試選抜制度の多様化と中高一貫教育の選択的導入
 1997年6月の中央教育審議会第2次答申は、96年7月の第1次答申において先送りとなった「一人一人の能力・適性に応じた教育と学校間の接続の改善」が中心となり、選抜方法の多様化、評価尺度の多元化、受験機会の拡大、推薦入学の拡大、高校教育の多様化と柔らかなシステムの実現、中高一貫教育の選択的導入と特色ある教育の展開、大学への飛び入学などを提唱した。今期高総検においては、そのすべてを分析、検討することはできなかったが、99年2月と6月に、中高一貫教育についての高総検レポートを発行した。この問題に、選抜多様化のエッセンスが含まれており、そのねらいや本質を伺うことができると考える。

高総検レポート No.40
1999年2月5日発行

中高一貫教育を考える


[1] なぜ今、中高一貫教育なのか

 「中高一貫教育」の構想が文部省サイドから初めて提案されたのは、今からすでに27年前の1971年のことである。提起したのは中教審で、「漸進的な6・3・3制の学校体系の改革を推進する」ための「先導的試行」という位置づけであったが、実現しなかった。それから24年後の1985年に、今度は臨教審が、その第1次答申で、現行の中学・高校と併置の、6年間一貫教育を行う中等学校を提案した。そこには、中学教育が高校へ入るための受験準備教育と化し、子どもたちの成長・発達を大きく歪めているという社会的批判も背景にあった。しかし、このときも「受験戦争の低年齢化」の恐れなどが指摘されて、6年制中等学校構想は具体化には至らなかった。
 それが今回、「中高一貫教育」として実施に移されることになったのには、いくつかの理由がある。
 (1)政治的な背景。橋本首相(当時)は、1997年=「財政構造改革」、「金融システム改革」、「行政改革」など「5つの改革」に急遽「教育改革」を加え、文部省に「教育改革プログラム」をつくらせた。その裏には、1980年代に「臨調行革」と「臨教審教育改革」を同時進行させ未完に終わった中曾根元首相の進言があったと言われる。橋本「教育改革」の目玉は、「中高一貫教育」と「跳び入学」、「学校5日制完全実施」などであった。
 (2)文部省の思惑。戦後教育改革により教育機会均等の実現を目指して下から小・中・高・大と順に階段のように積み上げられた単線型学校体系を、能力に応じてそれぞれ異なる系統へ接続してゆく複線型・分岐型へと制度的に改編することは、歴代保守政府・文部省の積年の懸案であった。従って、学校教育法を改正して、現行の6・3・3制の中へ、新たに6年制の中等教育学校を組み込むことは、文部省の多年の懸案の解決へ向けて大きく前進する第一歩となる。文部省にとって、首相の指示は、まさに渡りに舟であっただろう。
 (3)私学との関係。国立・私立は、事実上の中高一貫教育を既に推進し、有名大学への進学で公立を上回る実績を積み上げている。それが、「公立離れ・地盤沈下」現象を生む要因のひとつにも数えられていることから、国民の一部に公立学校の「復権」を望む声が出ている。この声も、公立中高一貫教育の導入への下地をつくった。

[2] 中高一貫教育の「利点」

 中教審第2次答申(1997年6月)は、中高一貫教育の特色と利点として、次のような点を並べている。

  1. 高校入試の影響を受けずに、ゆとりのある安定的な学校生活が送れる。子どもたちが様々な試行錯誤をしたり、体験を積み重ねること等を通じて、豊かな学習をし、個性や創造性を存分に伸ばしていくこと、その中で、じっくり学ぶことを希望する子どもたちに対して充分な指導をしてゆくことを、より可能にする。
  2. 6年間の計画的・継続的に教育指導の展開や生徒の個性の把握ができ、効果的な一貫した教育が可能になる。それによって、生徒の個性の身長や優れた才能の発見もより可能になる。
  3. 中学1年生から高校3年生までの異年齢集団による活動が行えることにより、社会性や豊かな人間性を、より育成できる。
  4. ハードルを低くするという高校入試の改善の方向にも沿う。など。
 これらが、はたして中高一貫教育固有の利点であるかどうかは、あらためて吟味する必要があるが、それはともかく、最大の問題は、それら利点とされる項目の当否ではなく、中高一貫教育を一部に限って導入するという点である。(「6・3・3制を一律に6・6制に改める……のではなく、子ども達や保護者などの選択の幅を広げ、学校制度の複線化構造を進める観点から、中高一貫教育の選択的導入を行う…」[第3章(1)の(2) 中高一貫教育の選択的導入])


[3] 中高一貫教育の問題点

ちなみに、答申は、中高一貫教育の導入の問題点も挙げている。(第3章(1)の(1))


(a) 受験競争の低年齢化につながるおそれがある。
(b) 受験準備に偏した教育が行われるおそれがある。
(c) 小学校の卒業段階での進路選択は困難。
(d) 心身発達の差異の大きい生徒を対象とするため、学校運営に困難が生じる場合がある。
(e) 生徒集団が長期間同一メンバーで固定されることにより学習環境になじめない生徒が生じるおそれがある。など。
 
 問題点の指摘の方が「利点」よりずっと具体的で的確である。しかし、これらの問題をどう克服・解決するかについては、答申はきわめて楽観的・空論的であり、現実に有効な具体的対策は示していない。たとえば、(a)に対しては、「公立では学力試験は行わない。」(第3章(2)中高一貫教育の導入の具体的な在り方(4)入学者を定める方法)、(b)に対しては、「受験エリート教育を行わないよう関係者に強く求める。」(同(2)教育内容)、(c)については対策なし、(d)に対しては、「日常の指導に当たっても、教員が緊密に連携し、きめ細かな配慮をする。その際とくに、生徒の差異に応じた指導、異年齢集団による活動の展開に当たっての様々な工夫など。」(同(5)高校段階に進む時点での入退学等についての配慮)、(e)に対しては「退学・転学希望者に充分配慮する。」(同(5))
 上に挙げた中高一貫教育の利点を備えつつ、同時に問題点のほとんどを抜本的に解決する方策が、実は、ないわけではない。それは、高校進学希望者すベてを受け入れることができる教育条件(施設・設備・教材・教具・教職員・学級編成・教育予算など)を、各地域で整備し、高校入試を全廃して中高連携の一貫性のある教育課程を編成することである。これは、単なる理想論ではない。少子化のすすむ時代、やる気になりさえすれば、現実的に可能である。しかし、この方向を中教審は採らない。中高一貫教育の選択的導入に問題があることは充分分かっていても、あくまでも、学校・教育課程を差別化(特色化)し、子ども達を選別することに固執している。

[4] 中高一貫教育導入のホントウの目的

 言うまでもないが、一部の子どもに限って中高一貫教育を「享受する機会を提供する」ということは、その他の生徒は、その「恩恵」に浴することはできないということである。
 上掲の中高一貫教育の「利点」は、現行の学校体系の下では、実現の可能性が低いと中教審が判断しているように読み取れるし、そうであればこそ、中高一貫教育というものを新たに提起しているのであろうが、仮にそれが曲解であるにしても、中高一貫教育から除外された子どもは、その「利点」からも排除されることは確かである。このことは何を意味するか。
 たとえどのような「良いもの」であろうと、一部の者のみに与えられる場合は、そのものの内容(質)が良ければ良いほど、そして量が多ければ多いほど、与えられない者を差別する道具に転化してしまうのである。中高一貫教育校の最大の特色は、何と言っても、高校入試がないことである。高校入試の重圧に日夜苦悶しているすべての中学生にとって、それは何と「良いもの」だろうか! その「特典」を、制度的に、与えられる者と与えられない者の差を、中教審は「子どもと保護者の単なる選択の問題」とあくまで言いはるつもりだろうか? それは、実際の入試競争をそれぞれの子どもと保護者の選択の問題にずぎないと断定するのと同じくらい非現実的でナンセンスである。
 客観的にみれば、「中等教育全体の多様化・複線化、さらには学校制度の複線化構造を進める一貫として、極めて重要な意義をもつ」(第3章(1)の(2))とする、中高一貫教育の選択的導入の機能への文部省の期待の方が、はるかに色濃く答申から浮かび上がってくる。


高総検レポート No.43
1999年6月22日発行

中高一貫教育を考える PART2



 中高一貫教育の提案者である中教審自身が『第2次答申』で指摘しているように、中高一貫教育を一部に限って導入することには、多くの問題点がある。そのうち最も重要なのはつぎの3点である。
  1. 中高一貫教育制度は大学受験準備教育に利用されやすく、「受験エリート」学校になる可能性が非常に高い。
  2. 中学校受験競争がいっそう激化する。
  3. 小学校卒業段階での進路選択は不適切であり、実際上困難である。

私学は中高一貫の「先進校」

I

 ところで、国立大学の付属学校や私学の多くでは、周知のように、かなり以前から事実上の「中高一貫教育」が実施されている。そして、そのうちのいくつかは、有名大学の入試で相当数の合格者を出しているのも周知のことであるが、それらの実績が、それぞれの学校の「中高一貫教育」システムと密接に係わっていることを否定する者は恐らく多くないだろう。
 しかし、言うまでもなく、中高一貫教育はつねに必然的に無条件に大学受験教育と結びつくわけではない。一方に受験体制とその下での激しい競争があり、他方に6年間一貫した教育課程を編成できるシステムが事実上存在するとき、両者は容易に結合するということだ。それは、中高一貫教育の方が、高校受験という壁によって中学と高校の教育課程が分断されている現在の公立学校などの教育制度よりも、合理的であり効果的であるという、ごく単純な事実の上にしぱしば「自然に」現れる現実的結果である。
 言い換えれば、中高一貫教育は、自動車のようなもので、使い方によって利器にも凶器にもなる。中教審自身が言うように、その導入によって、「ゆとりのある安定的な学校生活が送れ、計画的・継続的な教育指導を展開でき、個性を伸長し、優れた才能を発見でき、社会性や豊かな人間性を育成できる」学校ができるか、「受験準備に偏した」学校ができるかは、状況(条件)次第ということである。そして、上記のような国立大付属校や私学の一部に見られる現状は、その実際上の帰趨を示していると言えよう。

II

 関東地方や近畿地方などの大都市圏で、私立・国立中学受験が急増し競争が過熱状態にある。
 私立・国立の中高一貫教育校に子どもを入れようとする保護者の動機は、大雑把に分類するとつぎの3項になるようだ。
  1. 計画的・継続的にしっかり受験教育をしている学校に早くから通わせて、大学受験競争で優位に立たせたい。
  2. 高校入試のない学校で、ゆったりのびのび青少年期を送らせたい。できれば、エスカレーターで大学まで行かせたい。
  3. 「荒れ」ている公立中学校を避け、きちっとした生活指導をする学校で、イジメなどを受けない安心できる学校生活をさせてやりたい。
 受験競争は、一般に、学歴社会をべースにして、社会体制による能力主義的選別の必要と子ども・保護者の上昇志向との相乗として展開されているが、とくに私立・国立中学の受験競争は、上に挙げたような保護者の願望・欲求を―実際はどうであれ少なくとも心理的に―充足できるかどうかの争いという側面をもつ。そして、合格を果たす子どもの保護者は、比較的高学歴で経済力もある者が多数を占めるという統計的事実がある。
 私立・国立中学受験の盛行は、公立中学校に深刻な危機をもたらしている。「地域の公立中学校がセカンド・チョイスの学校となり、他に行きたかったが行けなかった生徒の集まるところとなるということが、その学校から、多様で多彩な経験と資質を持つ生徒が共同の学習・生活経験を共有することによって多様な文化の価値を知り寛容さを学ぶという民主的な社会、なかんずく地域コミュニティを形成する機能を失わせることになる恐れ」(公立大学協会「中教審審議のまとめ(その2)」に対する意見について」)を現実のものにしつつある。それは、地域を分断し社会階層を一層深く分解させる要因の一つになるだろう。

III

 以上のような状況の中に、どのような設置形態であれ、ごく限られた数の公立中高一貫教育課程を設けるとなれば、それらは、遅かれ早かれ「受験エリート」教育にならざるをえず、中学受験競争全体がさらに激化してゆくのは、火を見るよりも明らかである。


五ヶ瀬中学・高校の入試

 宮崎県は、全国に先駆けて、中高―貫の県立五ケ瀬中学・高校を開設した。この学校の入試はどうなっているのだろうか。
 中教審は、「中高一貫教育の(選択的)導入に伴って最も懸念されることは、入学者を定める方法の在り方によっては、受験競争の低年齢化を招くのではないかということ」と言い、その「解決策」として、「学力試験を行わないこととし」「抽選や面接、小学校からの推薦、調査書、実技検査など多様な方法を適切に組み合わせて入学者を決める」やり方を示しているが、五ケ瀬中学・高校は、この方式をそのまま採用している。その内実を覗いてみよう。
 五ヶ瀬中学は全県学区。開設後の5年間、入学希望者は定員の9〜10倍。先ず、受験には在籍する小学校の校長の推薦が必要。(これが、第1段階の事実上の校内選抜。)つぎに、中学校での、調査書・推薦調書・集団活動・作文・制作・面接などによる第1次選考がある。調査書の大項目は、「学習」「特別活動」「行動」。それぞれに小項目があり、3段階で評定。その他、自由記述の「指導上参考になる諸事項」など。
 「調査書」の「学習」欄は、各教科の評定と観点別評価を表示。「行動」欄は、性格・行いなど11項目の評価を記入。「特別活動」は、クラブ活動など4分野の活動状況や成績の評価。「指導上参考になる諸事項」は、特技やボランティア活動などを特記。
 「推薦調書」は、各教科学習・教科外活動・生活習慣・他の児童との関わり・本校の教育理念との関連・知的分野と連動分野と芸術分野の特筆事項・6年間の学校と寮生活への適応、将来展望、など11項目についての自由記述と評価。
 「集団活動」は、例えばグループで絵本づくりをさせ、発言や参加の度合い等を評価。
 「面接」は、生徒10人につき県教委の指導主事を含む3人の面接官の集団面接で、志望動機・将来の進路希望などを聞き、答えの内容や態度を評価。
 以上のような項目「すべてを点数化し、総合的に評価」(学校関係者)して、この段階で、定員の約1.5倍(定員 40人に対して上位60人)にしぼる。ここで300人以上が振るい落とされる。
 そして「抽選」が行われるのであるが、抽選といっても、第1次選考に残った60人の中から最終合格の40人を決定するのに使われるのみである。
 これが、「受験競争の低年齢化を招」くことのないように、「学力試験を行」わず「多様な方法を組み合わせて入学者を決める」中高一貫教育モデル校の選抜の実態である。宮崎県内では、小学校の受験指導と児童・保護者の受験志望が過熱し、見事に「受験競争の低年齢化」が進行している。そして、同校は、早くも県内トップクラスの進学校になっているのである。


12の春の進路選択

I

 中学校受験の拡大は、否応なく小学校を激しい受験競争に巻き込んでいる。とりわけ大都市とその周辺では、私立中学受験がメイン・ストリームとなり、その流れに乗っている者も疎外されている者も共に、しばしば学習疎外を起こしている。国連子どもの権利委員会から、98年6月に、「過度に競争的で、心身に否定的な影響を及ぼしている」と異例の改善勧告を受けた我が国の学校教育と、この競争に勝たせようとする家庭の熱く過剰な期待の下で、児童たちの中に強度のストレスが蓄積している。それは、イジメ・非行などの問題行動、不登校、近ごろ程度の差はあれほとんどすべての小学校に蔓延している「新しい荒れ」、「学級崩壊」などの基本的な要因の一つになっている。

II

 中教審第2次答申は次のように言う。「総合学科や単位制高校の拡充、選択幅の広い教育課程の編成、自校以外の学習成果の単位認定の導入、中学校については、選択履修の幅の拡大など…言わば『横の多様化・複線化』」(の推進とともに)、「中高一貫教育の選択的導入は、言わば『縦の多様化・複線化』(既設6・3・3制にそれ以外の制度を新設する)を実現するものであり、中等教育全体の多様化・複線化、さらには学校制度の複線化構造を進める一環として、極めて重要な意味をもつ。」そして、そのような二重の「多様化・複線化」によって「子どもたちや保護者の選択の幅が広がっていく」と言うのだが、
  1. 「縦横の多様化・複線化」、つまり能力主義的差別選別の学校教育システムの下での高校と中学の激烈な受験競争を、単なる「選択の問題」とする中教審の基本認識に、
  2. また、公立学校への中高一貫教育の選択的導入が「過度の受験競争に一層の拍車をかけるおそれ」についての彼らの意識の脳天気さ・現実遊離のその考え方に、
  3. ことに、小学生を狂烈な受験勉強に駆り立てることによる精神的・肉体的影響の軽視に、
そしてこれら全体の無責任さに、ただアゼンとするほかない。

III

 もとより中高一貫教育そのものをここで問題にしているわけではない。問題は、中高一貫教育をすべての生徒に公的に保障するのではなく、『中等教育全体の多様化・複線化、さらには学校制度の複線化を進める」ために一部の公立学校へ導入するという点にある。そして、それによって、小学生を過酷な受験競争に引きずりこむところにある。
 そもそも、「小学校の卒業段階での進路選択」は適切なのか?
 中教審第2次答申は、中高一貫教育の「教育内容」の類型として、(a)普通科タイプの他に、(b)総合学科、(c)専門学科の2タイプを挙げている。(a)は従来よりもさらに内容を「多様化」すると言う。(b)と(c)は、その順で教育内容の専門性(特殊性)が高くなってゆくと考えられるが、12歳という発達段階で、はたして何人の児童が、みずからの資質・適性を見きわめ、5年10年先を見通して、主体的に進路を選ぶことができるだろうか?また、入学後、何人の中学生が、専門的教科・科目を自主的な判断で選択できるだろうか? いや、一体、小・中学生にそういう選択をさせること自体、教育的に問題はないのか?
 社会が発展し高度化するにしたがって、教育制度も拡充され、義務教育年限も長くなり、中等・高等教育を受ける者の比率も高くなってゆく。これは、世界共通の法則的現象である。つまり、社会はその維持・発展に必要な質と量の教養と能力を人々に要求し、それに相応した教育の機会と条件を保障するということであるが、その真の発展の基礎は、将来を担う一人一人の子どものそれぞれ異なる潜在能力を自由に可能なかぎり発達させることにあり、けっして早期に型にはめて部分的能力のみを育成することにあるのではない。子ども達が各々の可能性を実現し独自の人格を形づくってゆく過程とそこでの試行錯誤をじっくり見守ることのできる余裕こそ、その社会の文化的成熟度を測る最も有効な物差しの一つと言えよう。






2.「開かれた学校」―― 中教審答申「今後の地方教育行政の在り方について」の検討

〔1〕ある教員の不安

 少し変わったところから、話を始めてみたい。
 以下は、芝居の脚本であり、県立高校教員である作者の了解を得て、その一部を引用してある。


 場面1【教師の場合】

(男2、男3と男4が向き合う形で椅子に座っている。男2、男3は、手に報告書を持っている。)
男2 「もう少し、大きな声で話してもらえませんか。あなたと私と、1メートルも離れていないじゃないですか。にもかかわらず、私の耳には、あなたの言葉が入ってこない。いいですか。教師に何よりも必要なのは、声の大きさです。」
男4 「(小さな声で)はい。」
男3 「そう、大きな声です。しかも、はっきりとした声です。いいですか。」
男4 「(小さな声で)はい。」
男2 「大きな声で、生徒を圧倒すれば、少々間違ったことでも、生徒は、それを信じるんです。いいですね。」
男3 「生徒は、信じちゃうんだよな。」
男2 「生徒にとっての真実とは、教師の声の大きさ。その自信にあふれた態度の大きさの中にあるんです。」
男3 「それが、テクニックというもの。そうでしょ。」
男2 「それを、あなたのように、聞こえるか、聞こえないかの小さな声で、もそもそしゃべられたんでは、正しいことを言っても誰も信じません。信頼をなくした教師のなれの果てが、今のあなたではないですか。」
男3 「そう、あなたです。」
男4 「(小さな声で)はい。」
男2 「いいですか。一方で、少子化の問題がある。子供の数が急速に減ってきて、クラスの数も減り、その分、教師のだぶつき現象が始まっています。いいですか。教師は余っているんです。教師は、掃いて捨てるほどいるんです。また、その一方で、21世紀を迎え、新たな教育改革が進んでいます。それぞれの学校が、それぞれの特色を持って、時代のニーズ、社会のニーズ、生徒のニーズに応えていかなくてはならないのです。あなたには、そのニーズに応えるだけのものがありますか。あったら、それを見せて下さい。きちんと、それを示して下さい。ないじゃないですか。」
男3 「ここに、あなたの勤務評価があります。まず、あなたの自己評価ですが、あなたは、こう書いています。生徒一人一人の個性を尊重した指導の充実に努めた。そうですね。」
男4 「はい。そうです。」
男3 「しかし、それに対して、校長は、こう評価しています。授業中、生徒は、おしゃべりをしたり、漫画を読んだり、携帯で遊んだり、或いは、教室を離れて、他の授業に迷惑をかけることおびただしいものがある。」
男4 「そんな。」
男3 「まだ続きがあります。いいですか。校長の引継ぎに際して、厳重注意事項として引継ぎを受け、再三再四注意を施したが、改善の見込みなし。保護者からの要望書も提出され、県の人事委員会において善処されたし。」
男2 「これが、その要望書です。これとは別に、教育委員会にも、要望書が届けられています。これが、そうです。」(と、いくつかの用紙を見せる。)
男3 「我々は、これらの要望書を検討しました。また、あなたの学校にも出かけ、状況を視察しました。さらには、あなたの同僚教員にも、面接をして、これらの内容に間違いはないかを、十分に確認をしました。」
男2 「我々人事委員会としては、こう考えます。我々の公立学校における教育は、県民の税金によって、その財政基盤が成り立っている以上、その貴重な税金を無駄に使うことは許されない。県民の貴重な税金が正しく生かされる道を選択していかなくてはならない。わかっていただけますね。」
男3 「結論を申します。我々人事委員会として、あなたに退職を勧告します。もちろん、この勧告に不服ならば、再審査を請求することもできます。しかし、最終的に、勧告が確定し、それにあなたが従わない場合は、免職処分となります。」
男4 「ちょっと待って下さい。私は、教員になって25年。この道一筋に生きてきました。今更、この仕事をやめて、どうすればいいんですか。妻も子供もいます。私の給料で生活しているんです。」
男2 「そのお金は、税金ですよ。県民の血と汗と涙が染みこんでいる税金ですよ。ムダ遣いはできません。お分りですね。税金泥棒という声が聞こえませんか?」
男4 「私への給料が、ムダ遣い、税金泥棒?」
男2 「そうとしか、言えないでしょ。」
男3 「今までぬるま湯につかって、のうのうと生きてきたツケが回ってきたんです。教材研究だって、満足にやったのは、せいぜい新採用の5年位でしょ。もう、これからの時代は、前のようにはいかないんです。」
男4 「努力します。これからは、がんばって。」
男3 「(男4の言葉をさえぎって)努力して、どうにかなるんですか?むしろ、教員としての適性の問題じゃないんですか?」
男2 「努力ができるのも、能力の問題です。能力のない人は、努力もできないんですよ。」
男4 「私が、25年勤めてきたこの教員の職を失ったら、これから、どうやって生きていったらいいんでしょう。私には、この仕事しかないんです。この仕事しかできないんです。私には、妻や子もいます。その生活はどうなるんですか。その前に、妻や子どもにどう説明したらいいんですか。」
男3 「それは、あなたが判断すべきことです。」
男2 「我々の仕事は、そこまでは関与しません。あなた自身の問題です。」

 (男4、ゆっくりと立ち上がる。黙って立っている男1を見やりながら、次の行動を考える。男1、ロープを男4に渡す。男4、首をくくる仕草。)

 長々と引用をしたのは、脚本が、この章で指摘しようとしている事を全て、戯画化して示しているからである。
 無題のこの芝居は、2000年4月2日、横浜の相鉄ムービル内にある小劇場『相鉄本多劇場』で、生徒・保護者・教員を観客として、公立私立の演劇部顧問有志によって上演された。
 といっても、毎年行なわれている市民劇『がんばれ! 日本国憲法』のような運動を、演劇部顧問が始めたわけではない。横浜の演劇祭「アートライブ」の一環として、県高文連演劇専門部傘下の横浜市高等学校演劇連盟が、相鉄本多劇場と提携して行なっている、「春のフェスティバル」(横浜市高等学校演劇連盟春季大会)の最終日最終公演を、98年度から、参加各校の顧問有志が勤めている。つまりは、生徒の芝居の審査結果が出るまでの間の、時間つなぎの余興である。脚本にしても、様々な事情で死んだ者達の魂が、あの世でレッスンを受けて輪廻転生するという筋立てで、その一人が教員であるというに過ぎず、特に教育改革批判を主題としたものでもない。
 しかし、だからこそ、ここに色濃く表れている不安感が、私たち教員に一般的なものではないのかと考える。
 県教委の『活力と魅力ある県立高校をめざして・県立高校改革推進計画・案』(1999年8月16日)(以下、『県立高校改革推進計画』。正式に「案」の文字が取れたのは同年11月25日であるが、その内容にほとんど差異はないため、この文言で統一する)の柱の一つである「地域や社会に開かれた高校づくりの推進」が、子どもの権利条約の観点・教育情報公開の観点などから私たちが考えてきた「開かれた学校」とは全く異質の顔を持って、県教委の諮問に応えた、県立高校将来構想検討協議会答申『これからの県立高校のあり方について』(1998年9月21日、以下、『将来構想検答申』と呼ぶ)のそれとも、大きく隔たったものとなるのではないかという疑念を禁じ得ない。
 脚本に表れた不安は、それを根としている。上演当時、作者の県立高校教員は、再編対象校に勤務している。


〔2〕「開かれた学校」の変質

 「開かれた学校」という言葉が、社会的に一般的になったのは、おそらく、臨教審の頃からではないか。それは、当時、連日のようにマスコミで喧伝されていた校則問題に応ずる文脈の中で用いられていたものである。


《臨時教育審議会『教育改革に関する第二次答申』1986年4月23日》
第4部 教育行財政改革の基本的方向 第3節 学校の管理・運営の改善
ウ.一部に見られる過度に形式主義的・瑣末主義的な管理教育や体罰等を改め、学校に自由と規律の毅然とした気風を回復する努力が必要である。
 教育は人なりといわれる。児童・生徒と直接に接する教師が常に自己自身を人格的に磨き、教育者としての能力を向上させていくことができるための職場の基本的条件は、教師相互間に深い信頼と尊敬の気持ちが通い合っていることである。また、このような信頼関係の確立は、教職員と児童・生徒・父母、学校と地域社会の間でも極めて重要である。
 各学校の教職員がよくまとまり、切磋琢磨の精神で一致協力して児童・生徒の指導に当たることができるためには、また、各学校がそれぞれの地域や学校の特性を配慮した個性豊かな学校であるためには、このような関係者の相互信頼の基盤の上に、各学校に責任体制と校長の指導力の確立がされていることが重要である。

《全日本中学校長会・全国高等学校校長会『日常の生徒指導の在り方に関する調査研究報告』1999年3月20日(文部省通知『校則見直し状況等の調査結果について』同年4月10日の別添報告)
第4 日常の生徒指導の在り方について(総合的な考察)
(4)学校は家庭や地域との信頼関係を作るとともに、開かれた学校づくりをめざすことが大切である。
 調査に見られるところでは、学校は、校則見直しに当たって、PTAにアンケートをしたり、話し合いの場をもったりしているほか、生徒指導方針についても様々な場を通じ保護者への周知を図り、理解を得る努力を一生懸命に行なっている。その努力は評価したいが、しかし、果たして学校の働きかけは十分なものかどうか、また、その働きかけは学校に都合のよい一方的な働きかけになっていないかどうか改めて見直す必要があるのではないか。
 このように述べると、今回の調査の中の校長の意見にあるように、「家庭や地域の教育力の低下が見られる」状況の中で対応に苦慮する学校とすれば、保護者の理解や協力を得ることは容易なことではないという反論がでよう。教育力の低下をいうことはたやすい。しかし、保護者にとって様々な教育上の問題について相談し、悩みを受け止めてくれる身近な場はやはり学校ではないか。そのためにも学校は、家庭や地域との信頼関係の確立に努め、開かれた学校づくりをめざすことが大切である。
(下線・太字体、引用者)

 『臨教審第二次答申』に既に、16期中教審の「校長のリーダーシップ」に通ずる「校長の指導力の確立」という文言が見えるのが興味深い。
 が、それはさておき、「開かれた学校」の概念は、校則問題に象徴的な「学校には学校の中だけで通じるルールがある」という状況、つまり、学校の閉鎖制の打破として発想されたものであることは間違いない。
 私たちは、教育現場において、子どもの権利条約の観点などから、様々にそれに対するアプローチの努力をしてきている。学校の儀式的行事の「厳粛」さなるものが、閉鎖制に依存して成立しているとすれば、卒業式・入学式のフロア方式の取り組みも、その一環ということさえできよう。
 しかし、現在、教員の一連の不祥事を背景として、「学校には学校の中だけで通じるルールがある」という社会の状況認識が、「教員には世間的常識がない」という認識に変化をしているのではないか。以下、最近の新聞報道から、「開かれた学校」に関連する記事を拾ってみる。


●文部省教育職員養成審議会答申案[教員採用社会人枠]●
教員の不祥事が相次ぎ、『必ずしも適性ある人を採用できる制度になっていない』という批判 が出ているのを踏まえた答申案で、新卒者とは別に社会人採用枠を設けることを提言している。閉鎖的になりがちな学校現場に多様な人材を迎え入れようという考えだ。」【『朝日』'99.11.22】

●文部省教育職員養成審議会答申[教員企業研修]●
「答申は、とかく『世間知らず』と言われがちな教員について、民間企業で社会体験研修を積んで視野を広げるよう求めている。また、教育委員会に対し、教職にふさわしくないと判断された教員については、免職を視野に入れて人事を考えることも提言した。答申は、公立校の教員の不祥事が相次いでいることなどを踏まえ、現時点で各教育委員会がとり得る『処方せん』を示したものだ。」
「教員の社会体験研修は、学校という、一般社会から離れた世界にいる教員たちに『普通の感覚』 を失わないようにしてもらおう、という考えから盛り込まれた。」【『朝日』'99.12.10夕】

●文部省学校教育法施行規則改正[学校評議員制]●
「学級崩壊や不登校など、学校現場には問題が山積みになっている上、最近は教員の不祥事が後を絶たない。」
「文部省は、学校運営に一般の人たちが加わることで、学校の閉鎖制に風穴があき、教員らに一般社会の『普通の感覚』をもってもらうきっかけになる、と考えている。」【『朝日』'99.12.18夕】

●文部省制度改正法案[社会人教師教員免許取得簡易化・身分保障]●
「(社会人)特別免許は、「とかく閉鎖的で、視野が狭くなりがちな学校に外部の血を導入しよう」 と1989年に鳴り物入りで始まった。」【『朝日』'00.2.8】
東京都教育庁、'00年度募集小学校教員450名中30名程度社会人枠採用決定。 【『朝日』'00.4.3】
(下線・太字体、引用者)

 現在の、神奈川県での不祥事の最大のものは、県立高3校での調査書転記・得点計算・パソコン入力のミスによる入試・転入学試験の合否判定ミスや、全校の2度の再点検によって発覚した75校の入試ミス【『朝日』'00.3.31, 5.13, 5.26】であろう。受検生の事を考えれば、無論、これは、許される事ではない。が、'00年度入試の第一・第二希望同一校志願が全体の86.3%に及んでもなお複数志願制に固執し、ただでさえ忙しい学年末を複雑な入選スケジュールによって忙殺状態にしたまま、現場に対する何の措置もなく、放置している行政の責任も追求されてしかるべきではないか。
 しかし、体罰・破廉恥行為などの不祥事が、99年度に、処分の記録をとり始めた91年以来最高となり、県教委処分が35人に及ぶ状況【『朝日』'00.3.31】に対しては一言もない。また、最近校則問題はあまり耳にしなくなったものの、子どもの権利条約の定着などによって、それが全校において解消をしているとは聞かない。さらには、定員内不合格こそゼロに近付きつつあるものの、急減期ボトムに至る現在においてなお現場から適格者主義が払底できているとは言い得ない。
 これらの問題の根が、「閉鎖的で、視野が狭くなりがちな学校」の状況にあるのは事実であろう。その対策として、「開かれた学校」は必要であり、上に、新聞報道を掲げたのは、行政の動向の全てに一律に反対することを意図したものではない。
 例えば、東京都足立区教委では、児童・生徒による授業診断の制度を、4年以内に全区立小・中学校に導入する意向だという。これは、「教師の個人評価に結びつけるのではなく、子どもたちの声をもとに、学校が地域と一緒に授業の改善やいじめの問題を考えていく制度」(同教委)であり、診断結果は、学校ごとに約20人の住民でつくる<開かれた学校づくり協議会>に報告されるという【『朝日』'00.4.21夕】。
 また、'00年度開校の単位制総合学科のチャレンジスクール、都立桐ケ丘高校では、生徒が担任の他に好きな先生を選んで相談役とすることができる、〈パーソナルチューター制〉を、5月から導入する。これは、「堅苦しい形ではなく、気楽に話せる町医者のような存在として生徒に使って」もらう(天井校長)制度だという【『朝日』'00.4.13】。
 こうした行政や学校の取り組みは無論のこと、人事考課制度と結びついて個々の教員の「営業ノルマ」とならないことが前提であるが、生徒の参加という観点から注目されるべきであり、特に後者は、単位制礼賛の中で生じるであろう陥穽を修補するものとなる可能性があるのではないか。
 とはいえ、私たち教員は、そんなに「世間知らず」であり、「一般社会から離れた」存在であり、「普通の感覚」が欠如した人間なのであろうか。そうであるならば、私たちは全員が、教壇に立つよりも先に、カウンセリングを受けなくてはならない。一部の不祥事によって作り出された「教員には世間的常識がない」というマスコミ・イメージがあり、それに乗じた行政によって、「開かれた学校」の概念が、学校の閉鎖制の打破から変質をさせられ始めているのではないか。とすれば、現状は、国労に「怠け者」のレッテルを貼って断行された国鉄分割・民営化の前夜に酷似している。
 以下、「開かれた学校」の逸脱の危険性、また、教育現場からの発想による「開かれた学校」のあるべき姿を、「高総検レポートNo.41,42『開かれた学校』」('99.5.15,24)での報告に、X期高総検での討議内容を補強して、述べていきたい。


〔3〕中教審答申と『将来構想検答申』の「開かれた学校」

 X期高総検は、県立高校再編を最重点課題として取り組むべく、「臨戦体制」で、これに臨んだ。その「体制」と結果については、他の章で述べる。
 中教審答申の検討にしても、神奈川の再編の進行に視点を置いて、これを行なった。
 以下は、『将来構想検答申』の時点での、それに即した、「開かれた学校」の検討である。


高総検レポートNo.41
1999年5月15日発行

16期中教審答申と将来構想検答申

「開かれた学校」その1

■ 「開かれた学校」とは何か? ■


 昨今とみに目にするようになった[開かれた学校]という言葉、これは、一体何を意味するものだろうか。ある人は子どもの権利条約の観点から生徒の学校運営への参加として論じ、また、ある人は不登校問題の視点から学校の〈居場所〉化・非学校化として論じている。さらに、保護者に対して開くための教育情報の公開、地域に対して開くための生徒の地域参加や地域の教育力の導入など、様々な観念が[開かれた学校]という言葉で繰られている。最近の新聞報道から拾ってみても、所沢高校卒入学式問題をはじめ、フリースクールの拡充、小田原市個人情報保護審査会の指導要録所見欄訂正の答申など、98年度に入ってからだけでも、[開かれた学校]という言葉を思い起させる動きが著しい。
 しかし、この語義は何なのだろう。プラスイメージのみが先行して、その意味するところは玉虫色である。そこに、危険性を感ずる。
 80年代に臨教審は、[生涯学習]をキーワードとして利用した。キーワードとしての利用とは、「教育臨調」である臨教審が、[生涯学習]という言葉のプラスイメージのみを喧伝し、その語義は玉虫色にして、結局は、合理化・内需拡大の政財界の要請に応じた内容にすり替えてしまったということである。結果、[生涯学習]は、人権としての学習権という本義から遠く隔たったものとなる。つまり、ハイテク化などに即戦力となる労働者の育成、公教育の市場開放、複線型教育制度による学校階層化という理念を統合する言葉が臨教審のいう[生涯学習]であり、これは、現在進行している「教育改革」の全てを含んでいる。


■ これが「開かれた学校」なのか?? ■

 都立高校長期構想懇談会の答申を受け、97年9月に東京都教委が策定・発表した「都高校改革推進計画」は、募集停止をする33校(含定時制)の具体的校名を挙げ、それらの統合・改編による新しいタイプの高校を99年までに設計・工事することを明記して瞠目されたが、「第4章 開かれた学校づくりの推進」の中に、「2 生徒に開かれた学校づくりの推進」を章立てしている。[生徒に開かれた学校づくり]という言葉を聞いてイメージするのは、誰もが子どもの権利条約に基づいた生徒の学校運営への参加であるはずだ。しかし、その章に「学校の教育活動について生徒の声を十分に聞く」と明記しながらも、家庭や地域との連携の枠組みの中で、「学校評価の実施にあたっては、教職員による内部評価に加えて、生徒、保護者、地域住民等による外部評価をも取り入れ」(「1 地域・社会に開かれた学校づくりの推進」)と記されているだけで、「生徒の声を十分に聞く」ための具体的方策にはまったく触れていない。98年7月に、都教委は、同年3月の16期中教審中間報告に応じて、職員会議は校長の補助機関にすぎないとする管理運営規則の改変を定めた。教職員に対してさえ学校運営が開かれない状況の下で、「生徒に開かれた学校づくりの推進」が実現するとはとうてい思えない。事実、この章で述べられているのは、既設校の整理を背景とした特色・多様化路線のための「(1)多様で弾力的な教育課程編成の推進」であり、寄せ集め単位制や施設をけちった安上がりの公教育を目論んだ「(2)学校間の連携の推進」であり、また、校種間格差による落ちこぼしへの対処療法でしかない「中途退学を防止するための」「(3)学校・学科間の移動の容易化」、チャレンジスクールなどへの「(4)再入学制度の改善」である。
 また、新聞報道によれば、98年8月に、埼玉県教委は、県立高校155校に対して卒業式や入学式に地元選出の県議を招待するように通知を出している。「所沢高校問題をきっかけに地域の人を式に呼ぶべきだという意見を市町村長らからいただいた。中央教育審議会が地域に根ざした学校づくりを打ち出したこともあって通知を出した」(桐川卓雄県教育長)とのことだが、この背景には、県議会文教委員会の自民党議員の「(卒入学式の)正常化のために県議を招くべきだ」という発言がある。【朝日98.11.15夕刊】
 この原稿の校正をしているのは、99年3月下旬である。広島県教委の職務命令と現場の強制反対の声との板ばさみとなった、広島県立世羅高校校長自殺を契機とした、政府中央での「日の丸」「君が代」法制化論議の最中である。現在、世論は法制化に追い風とならず、政府中央でさえ、法制化にともなっての学校現場への義務規定には慎重な態度を取っている中で、わが神奈川県教委は、98年度卒業式後に全県立高校校長を召集して、99年度入学式をにらんだ「限りなく職務命令に近い」圧迫をかけている。埼玉県教委の通知は、こうした「日の丸」「君が代」強制強化の嚆矢であった。そして、それは、中教審の「開かれた学校」の構想ををその根拠としている。
 中教審答申「今後の地方教育行政の在り方について」における[開かれた学校]は、〈地域〉に開くことを想定している。本県においては、それは、県立高校将来構想検討協議会答申「これからの県立高校のあり方について」に「地域や社会に『開かれた学校』」(III.これからの県立高校のあり方・3)として表現されている。東京都や埼玉県の実例をみれば、[生涯学習]と同じように、県当局が、[開かれた学校]という言葉のプラスイメージと語義の曖昧さに乗じて、その意味を変転させて利用する危惧を禁じ得ない。


■ 「開かれた学校」は管理強化の道具!? ■

I.〈地域〉に開くために、校長権限を強化する?


16期中教審答申:第3章 学校の自主性・自律性の確立について
         2 教育委員会と学校の関係の見直しと学校裁量権限の拡大

子どもの個性を伸ばし、地域に開かれた特色ある学校づくりを実現するためには、上記1の(1)(現行制度の概要と課題)で述べたような教育委員会と学校の基本的な関係を踏まえて、校長が、自らの教育理念や教育方針に基づき、各学校において地域の状況に応じて、特色ある教育課程を編成するなど自主的・自律的な学校運営を行なうことが必要である。

         4 学校運営組織の見直し<具体的改善方策>

(主任制のあり方) ア 主任制については、学校の裁量権限の拡大に対応し、その責任体制を明確にする。
(職員会議のあり方) イ 職員会議は、校長の職務の円滑な執行に資するため、学校の教育方針、教育目標、教育計画、教育課題への対応方策等に関する教職員間の意志疎通、共通理解の促進、教職員の意見交換などを行なうものとすること。
(下線:引用者)
 16期中教審答申により、「地域に開かれた特色ある学校づくりを実現するために」、学校の裁量権限が拡大される。しかし、ここでいう「学校」とは、全教職員の総意ではなく、校長権限を意味する。答申には、「地域や学校の状況を的確に把握」「地域に開かれた学校運営を推進」するための、校長のリーダーシップ強化が至る所で強調されている。そのために、「依然として一部の地域においては適切な運用が行なわれず、主任制が形骸化している例も見られる」等、また、「職員会議があたかも学校の意思決定権を有するような運営がなされ、校長がその職責を十分に果たせない場合もある」等の理由によって、上に示したように、主任制や職員会議のあり方を見直そうというのである。
 さらには、「特に必要がある場合には、都道府県教育委員会等がこれ(教諭の免許状がなくとも10年以上教育に関する職に就いた経験がある者)と同等の資質・経験を有すると認める者についても校長に任用できる」、「(教頭の)教諭の免許状の所有用件の取り扱いについて検討する」(同3.校長・教頭への適材の確保と教職員の資質向上<具体的改善方策>)として、管理職の登用に民間活力の導入を策定している。つまり、学校に、「社長」が生まれるということである。「社長」の管理統制の下に、企画会議を開き、営業実績を上げるように教育活動を行なうことが、[地域に開かれた学校]を成立させるために必要な要件なのだろうか。
 本県の将来構想検答申には、これに応じた記述はない。また、中央段階の交渉によって、校長の人事・予算における権限強化は、「意見具申」「ヒヤリング」といった「改善」にとどまっている。(「神高教見解」98.11より)しかし、県当局が、答申をどのように具体化して発表するかは、まだ分からない。主任制や職員会議の改変を通して、校長の管理統制強化を行なうために、[地域に開かれた学校]を利用しないとは言い切れない。
 先に触れた、「日の丸」「君が代」強制の動向は、生徒・保護者の人権や思想信条の自由を侵す問題であると同時に、教職員にとっては、職員会議決定がないがしろにされることであり、教育課程自主編成権が教職員の総意によってはなされなくなる問題である。これを一点突破の好機として、卒業式入学式のみならず、学校運営の全てが、県教委の上意下達機関と化した校長によって、ワンマン経営されていく懸念がある。
 しかし、懸念があるとしても、[開かれた学校]を全面否定してしまうのは正しくない。
 例えば、福島県立石川高校の日本史での社会人講師の導入、在日大韓民国民団福島地方本部団長ソン・ジョンテ氏による「日韓の歴史のはざまに生きて」という授業のような実践【朝日横浜版98.6.29】は、もっと積み重ねられるべきである。キーワードとして利用されないためには、[開かれた学校]の語義を明確にし、意味の変転を許さない取り組みが必要である。「職場から教育改革を!」という視点に立つ時、それは、具体的にどういう取り組みであるべきだろうか。


高総検レポート No.42
1999年5月24日発行

16期中教審答申と将来構想検答申

「開かれた学校」その2

■ 「開かれた学校」は管理強化の道具!? ■


II.〈地域〉とは何か?


16期中教審答申:第2章教育委員会制度の在り方について
5 地域住民の意向の積極的な把握・反映と教育行政への参画・協力
<具体的改善方策>
(地域住民の意向の把握・反映)
イ 小・中学校の通学区域の設定や就学する学校の指定等に当たっては、学校選択の機会を拡大していく観点から、保護者や地域住民の意向に十分配慮し、教育の機会均等に留意しつつ地域の実情に即した弾力的運用に努めること。

県立高校将来構想検答申:IV将来構想の推進に当たって  2 行政に期待するもの
(6) 学区および入学者選抜
学区については、平成5年の「高課検」の第2次報告においても、隣接学区の高校への通学が便利な生徒に対する扱いなどについて、検討していくことが盛り込まれている。今後、県立高校の再編成や統廃合等の進展 の中で、学区の在り方について、検討が必要になることも考えられる。
 
 16期中教審答申は、学校を「地域コミュニティ形成の拠点として重要な役割を担う」(第4章地域の教育機能の向上と地域コミュニティの育成及び地域振興に教育委員会の果たすべき役割について)と規定し、日教組も、98年9月の文部大臣宛ての要請で、その視点を一定評価している。将来構想検答申でも、「高校・中学校間の連携」などで、高校が学校外へ働かけ、「ボランティア活動等、生徒の体験的活動の積極的な促進」などにより、教育活動を学校外へ展開し、また、「保護者、地域の人々や団体、企業等がボランティアとして学校をサポートするような活動(学校支援ボランティア)」などの、教育活動の地域との連携・交流を図り、さらには、「学習施設と体育施設の開放や各種の講座」により、地域を支援していく視点を持ち、と、〈地域〉に期待するところ大である。
 だが、そもそも、この〈地域〉とは一体何だろうか。この〈地域〉という言葉が、住民の顔が見える隣近所の共同体を指すものでなければ、地域の中の学校・地域に根ざした教育活動を目指すこれらの構想は、画餅に過ぎない。
 現行学区ではそうした地域を成立させることは不可能に近い。これらの構想が成立するためには、学区縮小が必要不可欠である。しかし、中教審は、右に示したように義務制学区の「規制緩和」を提言している。97年に、文部省が通学区域の弾力化を打ち出して以来、名門指向の弊害や、荒れが目立つ中学校や統廃合の噂の出た小学校の入学者が減り規模の格差が広がる問題が生じている。将来構想検答申は、学区・入選については「本協議会としては課題の認識にとどめ、今後の検討を待ちたいと考える。」(同右記)と別課題としながらも、「生徒がさまざまな観点から高校を選ぶようになることによって、高校間の序列意識の変革が促される」(III.これからの県立高校のあり方 1.多様で柔軟な高校教育の展開)どころか、学校間格差の拡大につながる、隣接学区規定による学区拡大を示唆している。
 98年12月22日に、横浜市教委が、一方的なトップダウンによって発表した市立高校再編整備計画は、市立定時制のリストラを行なうとともに、市立全日制5校全校を単位制高校とし、同時に全県一学区とするとしている。つまり、横浜市教委は、地域という考えを完全に放棄してしまっている。県立高校の再編整備計画が、その影響を受けないと言い得ようか。
 ここで言う[地域に開かれた学校]の〈地域〉は、幻想である。幻想を前提としている以上、[地域に開かれた学校]が、そのプラスイメージ通りに機能することは期待できない。


III〈地域〉の民主的代表として機能するのか?


16期中教審答申:第3章 学校の自主性・自律制の確立について
        6.地域住民の学校運営への参画
学校外の有識者等の参画を得て、校長が行なう学校運営に関し幅広く意見を聞き、必要に応じて助言を求めるため、地域の実情に応じて学校評議員を設けることができるよう法令上の位置付けも含めて検討することが必要である。

将来構想検答申:III.これからの県立高校のあり方 3.地域や社会に「開かれた高校」
       6.開かれた高校づくりを促進する仕組みづくり
一定の地域を範囲として、高校教育や県立高校のあり方について、地域の人々や県民の意見を聞く、「学校モニター」のような制度を導入することについても、今後、検討していく意義があると考えられる。
 

 16期中教審の「学校評議員」は、「学校内外の有識者、関係機関、青少年団体等の代表者、保護者など、できるだけ幅広い分野から」(同上記<具体的改善方策>)としながらも、「学校評議員は、校長の推薦に基づき教育委員会が委嘱するものとすること。」(同)と明記されている。
 将来構想検答申には、「学校モニター」の設置構成に関する記述はない。しかし、都教委「都立高校革推進計画」に謳われている「教育モニター」は、学校のPR活動の推進の枠組みの中に規定されており、16期中教審中間報告に応じて、「都教育委員会が委嘱している」モニターを活用することとしている。県当局が、答申具体化の際に影響を受ける可能性は大きい。
 この評議員なり、モニターなりが、地域の民主的代表として、正当に地域の声を学校運営に反映させられるだろうか。
 「その1」に記した埼玉県教委の例などを見れば、とてもそうとは思えない。校長権限強化による教育現場への管理統制強化の動向、学区拡大による〈地域〉の実体の虚構化の動向を考える時、むしろ、行政や管理職が、〈地域〉の名によって学校を恣意的にコントロールすることに利用するものと判断する方が自然である。それは、具体的には「経営コンサルタント」としての、県財政状況に沿った県立高校リストラの提言にシフトしていくものではないだろうか。
 のみならず、評議員やモニターは、行政に都合のよい、ガス抜きとして機能することとなるのではないだろうか。すなわち、「教育はこうあるべきだ」と県教委に異義申し立てをする人たちを、個別の学校へ向けさせ、そうした意見の公的ファクターを軽くして私的要素を強くし、結局は霧散させていくのである。
 とはいえ、学校の様々な活動に対して、傍観的な立場でしかなく、生徒指導に関する苦情を学校に寄せるくらいしか積極的な関わりを持つことのなかった地域の人々が、発言する機会や権利を持つようになることについては、評価されるべきである。発言する機会や権利は、無論の事、保護者・生徒に関してももっと拡充されてしかるべきである。神高教は、この仕組みを学校協議会として提唱している。
 放置すれば、将来構想検答申が提起している「学校モニター」は、学校協議会とは似て非なるものにその意義を変転させられてしまう危険が大きい。すなわち、「開かれた学校」のキーワードとしての利用である。「学校モニター」の設置構成及び運営がどのように具体化されるのかは現段階では不明だが、学校を中心とした組織である以上は、その民主的運営を追求することが、我々教職員の責務である。それを通しての、地域の民主化をも構想するべきである。


■ 教育自治の確立を!■

 例えば、隣に誰が住んでいるかも定かではないマンションが多い住宅地などでは、隣近所の共同体といえども、地域が機能しているとは言い難い。地域に開くためには、まず、地域を成立させることが第一の課題である。学校を「地域コミュニティ形成の拠点」とするには、16期中教審答申に示されているような、施設開放やコミュニティスクールの拡大版めいた方法だけでは不十分であり、本義である教育によって臨むべきである。学校とは、生徒をどう育てていくかが教職員と保護者、そして地域の人々の共通課題となる空間である。そこに、学校を中心とした新共同体を成立させるための教育自治を行い、地域を形成する努力をしなくてはならない。
(ドイツの教育自治について…略。高総検レポートNo.42参照)


将来構想検答申:III.これからの県立高校のあり方 2.生徒数の動向を展望した適正規模と適正配置
        2 高校の適正規模
 学校の小規模化が進んだ場合、学校の活力の低下が懸念されるとともに、教員配置数の減により、多様な 教科・科目への対応が困難となったり、校務分掌等の学校運営に支障を生じたりすること、また、部活動等へ の影響などが考えられるため、一定の学校規模の確保が必要である。
 将来構想検答申は、「国の動向を踏まえ将来的には、学級定員を少なくしていくことが望ましい」(同:ア学級定員)としながらも、「当面1学級40人を算定基礎とし、学校全体で18学級(720人)から24学級(960人)を標準とし」(同:イ 学校規模)て、定数法における基準値が学級数であるにも関わらず、学校人数を県立高統廃合の基準としようとしている。つまり、30人以下学級が実現したとしても、統廃合は決行するという伏線に読める。上に示したのが、将来構想検答申の県立高統廃合の根拠である。30人以下学級実現の際は、「また」から前の文脈は全く意味を持たなくなる。部活動については、急減期問題が顕著となる以前から課題集中校などでは低迷している学校が多い。先に示したドイツの例を実現することは容易ではない。しかし、現在でも、他校と合同の活動を行なっている部活動は珍しくはない。「始めに統廃合ありき」の根拠を無力化するためにも、それを拡充して、部活動を社会体育活動・社会文化活動とリンクさせ、そこから、学校を保護者を含んだ地域に開いていくことを踏み出すことはできないだろうか。
 こうした展望を持つためには、学校は、まず教職員に開かれている必要がある。それに逆行する、主任制の実働化や職員会議の補助機関化は阻止しなくてはならない。また、保護者に開かれている必要がある。そのために、教育情報公開の前進が必要である。さらに、生徒自身に開かれている必要がある。生徒が真実何を望んでいるかを把握できるシステムがなければ、生徒を通しての地域の形成などできない。子どもの権利条約は強く意識されるべきである。
 そして、何より学区の縮小が必要である。少なくとも、現在以上の拡大は許してはならない。

【高総検レポート「開かれた学校」その1・その2とも、本文・引用文中の下線は、筆者による。】




〔4〕16期中教審答申と『県立高校改革推進計画』の「開かれた学校」

 『将来構想検答申』に記された「開かれた高校づくりを促進する仕組みづくり」の主たる記述は、「『学校モニター』のような制度」のみに過ぎない。「世間的常識のない」教員・学校の矯正に、「開かれた学校」が強引に結び付けられた時に、その意味が変転させられて、教員管理強化・学校コントロールの道具として利用されるという構図がうかがえ、『高総検レポート「開かれた学校」』では、『中教審答申』や他県の動向を引いて、危惧を示した。
 この冊子の原稿を記している'00年4月現在、その危惧は続々と現実のものとなりつつある。
 以下に、レポートに記載した順に従って列挙をしてみる。

 a. 現場無視の高校再編計画
  99年8月16日に、既設校の整理を背景とし、具体的校名を含んだ『県立高校改革推進計画』が、県教委の一方的なトップダウンで示された。

 b. 学校現場への政治勢力の直接介入
  招待ではなく、県教委の通知があったわけでもないが、99年3月1日の県立高校の卒業式を、自民党県議団全員が「地元の住民」として組織的に視察をしようとした。(日本婦人会議県本部の自民党県議団長への要請等によって、各県議の「自主的判断」となった。)

 c. 職員会議補助機関化・管理職民間登用
  '00年4月1日に、地教行法改「正」にともなって、学校評議員制度とともに、これらを主たる内容とした学校教育法施行規則(文部省令)の改「正」がなされた。これは、99年2月21日に、文部省全国教育長会議の席上で示された。特に、職員会議補助機関化に関しては、文部省事務次官通知によって、『中教審答申』よりもさらに踏み出された内容となった。


《学校教育法施行規則(職員会議に関する事項を抜粋)》
「校長の職務の円滑な執行に資するため、職員会議.を置くことができる。」
「職員会議は、校長が主宰する。」

《文部省事務次官通知(職員会議に関する事柄を抜粋)》
「学校の管理運営に関する校長の権限と責任を前提として、校長の職務の円滑な執行を補助するもの」
「職員会議は校長が主宰するものであり、これは、校長には、職員会議について、必要な一切処置をとる権限があり、校長自らが職員会議を管理し運営するという意味であること。」
 
 これに応じて、県教委は、99年3月22日に、管理規則の改訂を教育委員会(教育委員5名で構成)に付議し、教育委員会は改訂を決定した。県教委は、この課題に対する神教協(神高教・神教組)の交渉を、「管理運営に関することは交渉対象外」として、教育改革問題検討会課題検討会(神教協・県教委)の機能を実質的にないがしろにした。


《県教委「高等学校の管理運営に関する規則改訂」(職員会議に関する項目を抜粋)》
 1 高等学校に校長の職務の円滑な執行を補助資するため職員会議を置く。
 2 職員会議は、校長が招集し主宰する
 3 職員会議においては、学校の運営方針、教育活動、その他の校務に関する事項のうち校長が必要と認めるものについて校長の指示・伝達、所属職員からの意見の聴取、所属職員相互の意見交換等を行なう。
 4 前3項に規定するものの他、職員会議について必要な事項は校長が定める。
 
 d. 学区拡大
  '00年1月1日の『神奈川新聞』に、「県立高、学区拡大へ」という記事が掲載された。が、これは、『県立高校改革推進計画』に応じた記事であり、特に県教委がプレス発表を行なったものではなかった。しかし、岡崎県知事は、'00年1月5日の年頭記者会見で、「(学区は)制度的にきちんと見直す前に、運用でより柔軟に行なえるよう足早に取り組んだ方がいい」「学区の縛りをより緩やかにすることで志望した学校に行けるようチャンスを広げることを考えていかなければならない」   と言明している。【『読売』'00.1.6】
 「足早に取り組」むためにか、'00年2月24日、県教委は、突然一方的に、県立全日制の学区外からの入学者受け入れ枠を、現行の定員数の8%から20〜25%に拡大する方針を決定した。

 e. 学校評議員制度
 県教委は、'00年度にモデル校を10校設置し、'01年度から県立高校全校に学校評議員制度を導入すると言明している。

 『県立高校改革推進計画』の記載には、『将来構想検答申』の記載にないものが挿入されている。さらに、学区の問題について言えば、『県立高校改革推進計画』からも逸脱して事態が進行している。 不祥事問題を背景にして、「開かれた学校」は、教員管理強化・学校コントロールの道具へとどんどんと変質させられていっているのではないか。
 私達の行き着く先はどこなのか。『将来構想検答申』と『県立高校改革推進計画』の記載の差異を中心に、3点に絞って分析をしてみたい。

 (1) 学区拡大=「地域に根ざした学校」の有名無実化


将来構想検答申:IV.将来構想の推進に当たって 2.行政に期待するもの
       F 学区および入学者選抜

 学区については、平成5年の「高課検」の第2次報告においても、隣接学区の高校への通学が便利な生徒に対する扱いなどについて、検討していくことが盛り込まれている。今後、県立高校の再編成や統廃合等の進展の中で、学区の在り方について検討が必要になることも考えられる。
 


中教審答申:第2章 教育委員会制度の在り方について
 5 地域住民の意向の積極的な把握・反映と教育行政への参画・協力<具体的改善方策>
(地域住民の意向の把握・反映)

 イ 小・中学校の通学区域の設定や就学する学校の指定等に当たっては、学校選択の機会を拡大していく観点から、保護者や地域住民の意向に十分配慮し、教育の機会均等に留意しつつ地域の実情に即した弾力的運用に努めること。
 

県立高校改革推進計画:第7章 改革推進のための条件整備等 4 入学者選抜制度の改善の推進と通学区域の検討 B 通学区域(学区)についての検討
[学区の弾力的な扱い]
 学区間の受験機会や条件整備の均等を図る観点から、交通機関や交通網の整備状況等に配慮して、隣接する学区の高校への通学を可能にする扱いなど弾力的な対応を進めます。
[学区のあり方の検討]
 また、学区全体のあり方については、平成17年度から実施予定の「後期計画」の進展も踏まえ、教育関係者や県民の皆様のご意見も広くいただきながら検討していきます。
 
(下線・太字体:引用者)

 『将来構想検答申』では、隣接する学区同士での越境受験を認める制度、隣接学区についての「検討」であったはずのものが、『県立高校改革推進計画』では、その導入を前提とした「弾力的な対応」の進展となり、さらには、「学区全体のあり方」の検討に及んでいる。
 県教委は、97年11月に、教育改革問題検討会での検証とは全く別個のものであるにも関わらず、「『教職員団体』の意見を聴取した」という虚偽のもとに、『平成9年度入学者選抜の検討』を、教育委員会に報告している。その中で、すでに隣接学区について、「平成11年度以降の入学者選抜で、何らかの措置の必要性と方法を検討する。」と述べている。隣接学区は、学区の拡大であることはもちろん、接する学区の境がなくなることであるから、学区制自体の崩壊にもつながる制度である(『高総検レポートNo.33「平成9年度入学者選抜の検討、の検討」』<97.12.22>参照)。
 『県立高校改革推進計画』は、それを飛び越え、県教委の、学区外枠大幅拡大の一方的決定は、『県立高校改革推進計画』からも逸脱をしている。
 新入選制度のもととなった94年の『入選大綱』では、学区については、「隣接学区の扱いを設けることについては、今後の学区外への志願状況を見ながら検討する」と記されている。いつどこで、隣接学区の必要の検討がなされて、その導入が当然のものとなったのだろう。さらには、「平成17年度から実施予定の『後期計画』の進展」のはるか以前に、「教育関係者や県民の皆様のご意見」を聞くこともなく、どうして学区外枠大幅拡大が決定できるのだろう。
 県教委は、もはや私たちと話し合うことはおろか、正規の手続きでの検討さえ放棄して、足早に取り組むことしか考えていないように思える。県教委にとって取り組むべきは、『中教審答申』に示された「学校選択の機会」の拡大、すなわち、学区自由化をにらんだ学区拡大である。学区自由化・学校選択の機会拡大とは、いわば公立学校の「民営化」的路線であり、公教育への市場原理・競争原理の導入である。競争とは、偏差値教育打開の現在、ただちに生徒間の受験競争を意味するものではない。競争をするのは、学校間、さらには教員間であり、「特色」による生徒獲得合戦である。競争には、必ず勝者と敗者が生ずる。敗者をリストラの対象とすれば、財政難にも対応できることとなる。
 競争原理導入は、99年2月26日の『経済戦略会議答申』(首相の諮問機関)をはじめとする財界からの要請によるものであって、教育界から出た発想ではない。つまるところ、その目的は、公教育の切り下げ・コストダウンに他ならない。
 教員間・学校間の競争、「営業実績」の向上のためには、「社長」が必要である。行政から見れば、現在の管理職は、しょせんセイフティ・ネットの中にある公教育現場の人間であり、通知で縛ったり、呼び付けて恫喝したりして、コントロールするだけでは心許ない。管理職民間登用は、公立学校の「民営化」のための「社長」の登用であり、教員企業研修は、「社員」教育なのではないか。
 '00年3月29日、東京都議会において、中島東京都教育長は、校長の民間登用の方針を明らかにしている。「私立高に推され気味の都立高校改革の一環で、新年度以降に開校する新しいタイプの学校への配置を目指す」(下線、筆者)【『朝日』'00.3.1】。教員企業研修については、『将来構想検答申』と『県立高校改革推進計画』の記載の差異が、この東京都の動向に一致をしている。


将来構想検答申:IV.将来構想の推進に当たって 2.行政に期待するもの
       (4) 教職員の資質向上

教職員の研修の充実については、教科や職務に関する研修などのほか、民間企業や社会福祉施設への派遣体験研修が実施されており、このような体験的な研修は、教職員の職務に対する自覚を深め、教職員自身の自己啓発や指導力の向上などに資するとともに、高校教育の充実・発展にも寄与するものと考えられるため、一層の充実が必要である。
 


中教審答申:第3章 学校の自主性・自律性の確立について
   3 校長・教頭への適材の確保と教職員の資質向上<具体的改善方策>

(校長・教頭の選考と人事の在り方等の見直し)
ク.校長、教頭の学校運営に関する資質能力を養成する観点から、例えば、企業経営や組織体における経営者に求められる専門知識や教養を身に付けるとともに、学校事務を含め総合的 なマネジメント能力を高めることができるよう、研修の内容・方法を見直すこと。
(教職員の研修の見直しと研修休業制度の創設)
サ.中堅教員の研修について、将来の校長、教頭としての人材を育成する観点から上記クと同様に研修の見直しを行なうとともに、教職以外の経験を豊富にするため、社会教育施設等で の勤務体験や長期社会体験研修の充実を図ること。
 

県立高校改革推進計画:第7章 改革推進のための条件整備等
           1 教職員の資質向上及び計画的配置
 (1) 教職員の資質向上
 今日的課題に対応した研修の充実:
 特に、今日的課題に対応するための研修として、民間企業への派遣体験研修、ボランティア体験を含む社会体験研修、教育相談やカウンセリング能力を高めるための研修など、社会性や専門制を高める各種の研修を充実します。
 また、開かれた学校づくりや特色ある学校づくりなど、主体的な学校づくりに資する研修の充実を図ります。
 
(下線・太字体、筆者)

 『将来構想検答申』の教員企業研修に関する文脈に、『県立高校改革推進計画』では、「開かれた学校づくりや特色ある学校づくり」の文言が挿入されている。「主体的な学校づくり」という言葉にくくられて、並列に記されているので分かりづらいのだが、『中教審答申』の影響を考えれば、「開かれた学校」=「世間的常識のない」教員の矯正のために、管理職登用を餌とした教員企業研修=「社員」教育を施し、管理職民間登用によって「社長」を配した「特色ある学校づくり」に資する=市場原理・競争原理の公教育への導入に資する、という構図であろう。
 虚心に考えてみよう。「特色ある学校づくり」の意義について、『将来構想検答申』には、次のように謳われている。


将来構想検答申:II.今後の高校教育に求められるもの 1.個が生きる教育
       (3) さまざまな個性への着目
個人がどこで学んだかという、いわゆる『学(校)歴』ではなく、生涯にわたってどのような技術や知識を身につけ、どのようにして豊かな人間性を養ってきたかという『学習歴』が認められることが必要である。
      同:III.これからの県立高校のあり方 1.多様で柔軟な高校教育の展開
各高校の特色が明確なものになり、生徒がさまざまな観点から高校を選ぶようになることによって、高校間の序列意識の変革が促される
 
 多様な教育の提供は、生徒の多様なニーズに応えることによって、今日の教育病理を解消しようとする試みであるはずで、市場原理の公教育への導入による学校間さらには教員間の競争、ましてや、公教育の切り下げ・コストダウンのためのものではない。教育病理の解消に、「企業経営や組織体における経営者に求められる専門知識や教養」が何の役に立つというのだろうか。
 ともあれ、学区拡大によって、県教委が、『県立高校改革推進計画』の「県立高校改革の基本方向」の一つ、「地域や社会に開かれた高校づくり」を、「地域の中の学校」「地域に根ざした教育活動」としては、本気で考えていないことは明白である。先に指摘したように、〈地域〉という言葉が、住民の顔が見える隣近所の共同体を指すものでなければ意味はなく、現行の学区でもあまりにも大きすぎる。さらには、隣に誰が住んでいるかも定かではないマンションが多い住宅地などでは、隣近所の共同体といえども、〈地域〉が機能しているとは言い難く、学校が中心となった教育自治によって、〈地域〉を形成する努力をもしなくてはならない。これらの実現のためには、学区の縮小が必要不可欠のはずであるが、現状は、その破壊でしかない。
 『県立高校改革推進計画』でいう〈地域〉とは、行政が、その名によって学校を恣意的にコントロールすることに利用されるものと判断するべきである。

 (2) 職員会議補助機関化=「日の丸・君が代」強制の構図の日常化


将来構想検答申:職員会議に関する記載は、特にない。
 

中教審答申:第3章 学校の自主性・自律性の確立について 4.学校運営組織の見直し

学校運営における職員会議の位置付け及び運営の在り方等については、法令上の根拠が明確でなく、学校管理規則による位置付けも都道府県、市町村によって異なるほか、次のような指摘がなされている。すなわち、(1)その運営等をめぐる校長と教職員との間の意見や考え方の相違から、職員会議の本来の機能が発揮されていない場合もあること、(2)職員会議があたかも学校の意思決定権を有するような運営がなされ、校長がその職責を十分に果たせない場合もあること、(3)校長のリーダーシップが乏しい、職員会議が形式化して学校全体で他の学年や学級、教科などに係る問題を話し合うような雰囲気が乏しい、あるいは、運営が非効率的であるなどの運営上の問題が指摘されている。このため、職員会議の法令上の位置付けも含めて、その意義・役割を明確にし、その運営の適正化を図る必要がある。

〈具体的改善方策〉(職員会議のあり方)
ウ.職員会議は、校長の職務の円滑な執行に資するため、学校の教育方針、教育目標、教育計画、教育課題への対応方策等に関する教職員間の意志疎通、共通理解の促進、教職員の意見交換などを行なうものとすること。
 

県立高校改革推進計画:第7章 改革推進のための条件整備等
          2.学校運営等の改善・充実画的配置
校長がリーダーシップを発揮し、教育活動が円滑かつ効果的に実施できるよう、職員会議の位置付けの明確化や校長を支える校内組織の整備など、管理運営規則の見直しを含め、学校運営組織の改善に取り組みます。
 
(下線・太字体、引用者)

 『中教審答申』の影響による、『将来構想検答申』と『県立高校改革推進計画』の記載の差異の最たるは、この部分である。速戦即応で、「法令上の位置付け」「管理運営規則の見直し」がなされたのは、すでに述べた通りである。行政が、「開かれた学校」を、学校を恣意的にコントロールすることに利用するためには、それが実働する可能性を摘み取っておかなくてはならない。今までの職員会議が、学校の閉鎖性の打破に機能していたとは言い得ない。しかし少なくとも、生徒会の意思表明、PTAの意思表明などを、学校運営にリンクさせる場が、担当教員の発言を通しての職員会議以外になかったのが、大多数の県立高校の状況ではないだろうか。教職員にさえ開かれない学校が、生徒・保護者、ましてや、〈地域〉に開かれる道理はない。
 行政は、学校を恣意的にコントロールするが、失態が生じたときの責任は学校に負わせる。「学校の自主性・自律性」とは「校長のリーダーシップ」を意味し、「校長のリーダーシップ」とは、この行政や行政に圧力をかける政治勢力に都合のよい、責任体制を意味する。先に述べた、入試・転入学試験の合否判定ミスでは、教育長・管理職・教員の計821人の処分となったが、行政は、不合理な入選システムによって現場を忙殺状態のまま放置している、自らの責任を検証することを何ら行なっていない。
 この図式は、すでに「日の丸・君が代」強制の構図に表れているものである。
 先に触れたように、神奈川では、99年3月1日の卒業式を、自民党県議50人程が、出身地区にある県立高校を「視察」するという、極めて分かりやすい強制の形をとろうとした。市民団体の自民党県議連に対する抗議などによって、卒業式直前に「各議員の判断に任せる」という形式になったが、「視察」に影響されて、職務命令を口にした校長もいると聞く。無論の事、県教委の校長に対する「指導」は、恫喝に等しいものであった。以下、週刊誌の記事から拾ってみる。


 神奈川県教委は昨年(99年)4月と6月に、入学式で「君が代」を実施しなかった県立高校の十数人の校長を呼び出した。「伴奏でなくテープでやれば教職員に対して強制にならない。『ご唱和ください』と言えば親や生徒に強制することにはならないだろう」などと具体的な指示をしたという。
 これを皮切りに、同県教委は卒業式や入学式での「日の丸・君が代」の取り組みを強く「指導」し始めた。校長を対象にした学校経営研修や教頭研修の席では、専任主幹が「できないようだったら管理職を辞めなさい」とまで言い切る力の入れようで、法制化後はさらに加速度がついた。
 昨年11月には、校長の「取り組み状況」を報告させる調査用紙を配った。卒業式と入学式に向け、校長は実施方針について教職員に明確な意思表示をしたか、職員会議で議論はあったか、教職員の反対・妨害行動はあったか、教職員の反応はどうか、など6項目について具体的に記入させる内容になっている。翌月の回答期限には、校長全員から調査用紙が提出されたという。
  【池添徳明「『日の丸・君が代』最前線・教育 (4)[揺さぶられる学校現場]」(『週刊金曜日』'00.3.31)より】
 
 こうした状況にも拘わらず、県教委は「職務命令」の体制をとっておらず、教育課程自主編成権は各校校長にあることとなっている。つまり、99年度卒業式の、「日の丸」掲揚全校と「君が代」斉唱111校(99.3.1時点での115校の県教委調査【『神奈川新聞』'00.3.2】)、'00年度入学式の、「日の丸」掲揚全校と「君が代」斉唱165校(99.4.6時点での166校の県教委調査【『朝日』'00.4.7】)は、「学校の自主性・自律性」=「校長のリーダーシップ」に基づいて、各校が自ら選択をした結果ということに、公的にはなるのである。要するに、「校長のリーダーシップ」とは、「校長のマリオネット化」に他ならない。
 自民党県連は、99.9県議会・総務企画委員会での、県教委の、『県立高校改革推進計画』前期分の必要総額450億円という提示に対して、「財政・行革当局のチェックを受けたのか」という質問を出している。('00年度に予算計上されたのは、わずか3億5000万である)また、『県立高校改革推進計画』自体を不満とし、対案を提起すると言っていた(99.10.22京都での日教組高校シンポジウムにおける神高教報告書)ことを考えれば、彼らの興味が、「日の丸・君が代」強制だけではないことは明白である。都合のよい介入の足掛かりを得た彼らが、後期計画策定を傍観しているとは思えない。
 職員会議補助機関化と連動するシステムとして、つまり、教職員に対して学校を「閉じる」仕組みとして、『将来構想検答申』には記載がないにも関わらず、『中教審答申』の影響によって、『県立高校改革推進計画』に挿入されたものに、主任制の実働化がある。また、『中教審答申』では「適格性を欠く教員等への対応」に過ぎない記述が拡大されたとおぼしき、人事考課制度の導入を思わせる記載が、『県立高校改革推進計画』にはある。
 これらが学校に装備された時に、学校運営のあらゆる分野にわたって、「日の丸・君が代」強制の構図が日常的に定着することであろう。


中教審答申:第3章 学校の自主性・自律性の確立について 4.学校運営組織の見直し

主任制は、現在ではおおむね定着し、多くの学校において本来の役割を果たしているが、(1)依然として一部の地域においては適切な運用が行なわれず、主任制が形骸化している例もみられる、(2)「学校教育法施行規則」に規定する主任の種類やその設置の在り方が一律のものとなっており、高等学校における総合学科の導入や中等教育学校の創設、中・高等学校の選択履修の幅の拡大など学校教育の個性化・多様化の進展や、いじめや不登校の深刻化、子どもの数の現象に伴う学校の小規模化など学校教育をめぐる状況の変化に十分対応することができなくなってきている、等の問題点が指摘されている。
 このような問題点や指摘を踏まえ、主任制については、地域に開かれた特色ある学校づくりの推進など教育上の課題に対応し、校長の学校運営を支えることができるよう、法令上の位置付けを含めて、その在り方を見直す必要がある。
 (中略)学校には、校長、教頭、教務主任など各校務分掌の代表等から構成される企画委員会や運営委員会などが置かれているが、学校によってはそれらが活用されていないなどの問題点が指揮されている。

〈具体的改善方策〉
 (主任制のあり方)
ア 主任制については、学校の裁量権の拡大に対応し、その責任体制を明確にするとともに、学校がより自主的・自律的に教育活動を展開し、組織的、機動的な学校運営が行なわれるようにする観点から、校長を支えるスタッフとして全国共通に置くことが適切なものと、学校の種類や規模、地域の状況に応じて各学校ごとに置くことが適当なものとを改めて整理し、その在り方を抜本的に検討すること。
 (企画委員会等の活用)
オ 各学校の実態に応じて企画委員会や運営委員会等を積極的に活用するなど組織的、機動的な学校運営に努めること。
 


県立高校改革推進計画:第7章 改革推進のための条件整備等
          2.学校運営等の改善・充実画的配置
校長がリーダーシップを発揮し、教育活動が円滑かつ効果的に実施できるよう、職員会議の位置付けの明確化や校長を支える校内組織の整備など、管理運営規則の見直しを含め、学校運営組織の改善に取り組みます。
 
(下線・太字体、筆者)

 「地域に開かれた特色ある学校づくりの推進」を前項で指摘したように、「行政の〈地域〉の名による学校コントロール」によっての「市場原理の公教育への導入」の促進と読み替え、学校の「自主的・自律的」運営を本項で指摘したように、「校長のマリオネット化」と読み替えれば、校内中間管理職たる主任の役割は明白であろう。
 『県立高校改革推進計画』には、「主任制」の文字は見えないものの、「校長を支える校内組織」が、『中教審答申』にある「校長、教頭、教務主任など各校務分掌の代表等から構成される企画委員会や運営委員会」、つまり、主任会であることもまた明白である。


中教審答申:第3章 学校の自主性・自律性の確立について
     3 校長・教頭への適材の確保と教職員の資質向上<具体的改善方策>
(適格性を欠く教員等への対応)
セ 子どもとの信頼関係を築くことができないなど教員として適格性を欠く者や精神上の疾患 等により教壇に立つことがふさわしくない者が子どもの指導に当たることのないよう適切な 人事上の措置をとるとともに、他の教員に過重な負担がかかることのないよう非常勤講師を 任用するなど学校に対する支援措置を講じるよう努めること。
 


県立高校改革推進計画:第7章 改革推進のための条件整備等
          1.教職員の資質向上及び計画的配置
教職員の職務に対する評価:
 今後も、高い意欲と教育力をもつ人材を育成するため、教職員の職務に対する評価のあり方等について検討し、なお一層の効果的な活用を推進します。
 
 『県立高校改革推進計画』の「教職員の職務に対する評価」の検討・活用の記述は、現行の新勤評方式の説明に続く文脈である。つまり、現行よりも踏み込んだ内容のものの導入を意味する。それは、東京都にならった、給与・人事への影響だろう。
 都教委が強行導入した人事考課制度は、年度当初に、教員自身が、管理職に「自己申告書」を提出して、年度末に、管理職がそれに基づいて、「学習指導」「生活指導・進路指導」「学校運営」「特別活動・その他」の領域にわたってそれぞれ、さらには、「総合評価」を5段階の絶対評価で付ける。各教委は、これらをもとに、全教員を相対評価に整理し直し、給与や人事に直接に活用していくというものである。
 神奈川でも、'00年度より一般行政職を中心とした「新たな人事評価システム(案)」が試行的に実施されることとなっており、教職員についても、'00年度予算に、教職員の人事評価審議会発足のための予算である「教職員人事制度検討事業費」が、148万円計上されている。
 『中教審答申』では、「教員として適格性を欠く者」については、最終的には、「必要に応じて『地方公務員法』第28条に定める分限制度の的確な運用に努める」と記されている。県教委が「管理運営に関することは交渉対象外」という態度をとっている現在、人事考課制度が強行導入されて、「社長」や「校内中間管理職」の意にそわなければ、管理職登用は無論のこと、特昇や勤勉手当への影響のみならず、処分にまで至る、というシナリオを見るのは考え過ぎだろうか。
 「教師も『実力主義』の時代・給料は生徒の成績次第・競争原理の導入で学校は変われるか」という記事が、『NEWSWEEK(日本語版)』00.2.2号に掲載されている。アメリカ各州の、生徒の成績とリンクさせた教員の能力別給与制度についての記事だが、都教委の人事考課制度に関して、同誌の井口景子記者が、日本女子大佐藤全教授にインタビューをしている。その一部を引用する。


 Q.日本で、今になって教員評価のシステムが見直されようとしているのはなぜか?
 A.教育界はこれまで「護送船団方式」で守られ、不適格と思われる教員も排除されなかった。 (略)今後は納税者への責任という意味でも財政面でも、適性を欠く教員はそれなりに処置 し、有能な教員を処遇することで、教員の能力開発とモラールの向上を図るのがねらいだ。
 Q.教員の間に競争が生じ、協力関係が損なわれるのでは?
 A.評価が気になって上司に相談できなくなるとか、チームワークが乱れるといったマイナス面ばかりが強調されているが、(そんな教員は)そもそも不適格だと思う。(略)
 
 佐藤教授は、欧米と日本の学校観の違いから、アメリカのように、教員の評価を生徒の成績とリンクさせることは否定しているが、人事考課制度もまた、市場原理・競争原理の公教育への導入のための装置であることを明らかにしている。特色競争の「敗者」は、リストラの対象とされるのではないか。
 とはいえ、教員不祥事から「教員には世間的常識がない」というマスコミ・イメージがある現在、50年代の勤評闘争の再現を期待することはとうていできない。都教委の人事考課制度には賛否両論あるものの、世間一般のそれに対する評価は、佐藤教授と同等だろう。
 人事考課制度が強行導入されれば、私たちは、様々な教育課題に対する主体性を捨てて、沈黙せざるを得ない。

 (3) 学校評議員制度の利用=〈地域〉の名による学校の恣意的コントロール


将来構想検答申:III.これからの県立高校のあり方 3.地域や社会に「開かれた高校」
       (6)開かれた高校づくりを促進する仕組みづくり

家庭や地域の人々の意見を学校づくりに取り入れることや、学校のさまざまな活動に参加する仕組みづくりを工夫することによって、閉鎖的といわれることもある学校の意識が変わり、学校が活性化され、開かれた学校づくりの一層の推進が期待できる。
 そのため、PTA活動の一層の充実や活性化を期待するとともに、地域の人々、自治体、企業等の代表と、学校の情報の提供や意見の交換、教育活動への協力依頼等を行なう場や仕組みづくりを工夫することが考えられる。
 一定の地域を範囲として、高校教育や県立高校のあり方について、地域の人々や県民の意見を聞く、「学校モニター」のような制度を導入することについても、今後、検討していく意義があると考えられる。
 


中教審答申:第3章 学校の自主性・自律性の確立について
     6.地域住民の学校運営への参画〈具体的改善方策〉

(教育計画等の保護者、地域住民に対する説明)
ア 各学校においては、教育目標や教育計画等を年度当初に保護者や地域住民に説明するとともに、その達成状況等に関する自己評価を実施し、保護者や地域住民に説明するよう努めること。また、自己評価が適切に行なわれるよう、その方法等について研究を進めること。

(学校評議員の設置)
イ 学校に、設置者の定めるところにより、学校評議員を置くことができることとすること。
ウ 学校評議員は、校長の推薦に基づき教育委員会が委嘱するものとすること。
エ 学校評議員は、校長の求めに応じて、教育活動の実施、学校と地域社会の連携の進め方など、校長の行なう学校運営に関して、意見を述べ、助言を行なうものとすること。

(学校評議員の構成)
オ 学校評議員については、学校の種類、目的等に応じて、学校内外の有識者、関係機関、青少年団体等の代表者、保護者など、できるだけ幅広い分野から委嘱することが望ましいこと。

(意見交換の機会の設定)
カ 校長は、必要に応じ、学校評議員が一同に会して意見を述べ、助言を行ない、意見交換をする機会を設けるなど運営上の工夫を講じること。
 

県立高校改革推進計画:第5章 地域や社会に開かれた高校づくりの推進
           2.地域の意見を反映した学校づくり

(2) 地域の意見を反映する仕組みづくり
 学校評議員制度の導入:
保護者や地域の代表、学校外の有識者などの参加を得て、学校の教育目標や教育活動、教育環境などについて意見や助言をいただく「学校評議員」を設置します。
 学校評価システムの導入:
各学校が、教育活動や教育環境などについて、地域の意見を生かしながら改善を図ることができるよう、学校が自ら、客観的な評価基準を設け、学校評議員などにより、総合的に学校を評価していただくシステムの導入を検討します。
  [学校モニター制度(地域の学校に対する意見を幅広くいただく)に関する記述もあり。]
 
(下線・太字体、引用者)

 99年8月16日、県教委は、既設校の整理を背景とし具体的校名を含んだ『県立高校改革推進計画』を、一方的なトップダウンで示した。公式発表は、当初8月25日に予定されていたが、99年8月15日に、『朝日新聞』がその内容をスクープして報道したため、発表が急遽繰り上げて行なわれた。
 このことは、県教委が、『県立高校改革推進計画』に、教職員の声も県民の意見も反映させる意思はなく、それを密室の中で作成してきたことを、自ら暴露している。
 「学区(地域)内での検討・協議を保障」し、「事前に該当する学校との十分な協議と同意を踏まえた」計画にせよという、私たち神高教の再三の要求(『県立高校の将来構想に関わる要求書』〈99.1.29〉他)にも関わらず、県教委はそれを頑なに拒否し続けてきた。
 県内6箇所で行なわれた県民対象のフォーラム(「高校フォーラム神奈川'99県立高校改革を考える」)でも、参加者に骨子案を示すのみで、計画の具体内容を提示することなく、会場で意見表明希望者を募るものの、その中から主催者が指名した者だけに一般的な意見や感想を述べさせるに終わっている。
 その最終回(横須賀・藤沢会場、99.7.25)からわずか3週間ほどで、また、手紙またはFAXによる意見公募の〆切である7月末日からは半月ほどで、『県立高校改革推進計画』は発表され、『再編による新しいタイプの高校等の概要』が再編対象校向けに配られた。
 『朝日新聞』のすっぱ抜きによる発表繰り上げを考えれば、公式発表予定日より10日以前に、すでに再編対象校の基本的骨格まで含めた内容が確定していたこととなる。県民の意見を反映する時間的余地がどこにあったのだろう。これらの意見公募は、形だけのセレモニーにすぎないのではないか。
 とすれば、『県立高校改革推進計画』の柱の一つ、「地域や社会に開かれた高校づくりの推進」、特にその中の「地域の意見を反映した学校づくり」は、全く信用できないことになる。
 『将来構想検答申』では、従前のPTAや自治会との連携の拡充や、体験学習を想定した地域や企業等との連携(「保護者、地域の人々や団体、企業等がボランティアとして学校をサポートするような活動〈学校支援ボランティア〉の拡がり」【同章Aウ】)の他の試みとしては、「学校モニター」が記されているだけである。これは、各校版の「高校フォーラム」のような機能を期待したものであろう。しかし、『中教審答申』に応じて挿入された、『県立高校改革推進計画』の「学校評議員」は、その域を大きく越えている。『中教審答申』では、学校は、保護者・地域住民に対して教育目標や教育計画等の達成状況等を「自己評価」することとなっている。『県立高校改革推進計画』は、そこからさらに踏み込んで、学校が自ら設定した「客観的な評価基準」にしたがって、「学校評議員などに」よって「総合的に学校を評価」をしてもらうこととなっている。
 この仕組みは、人事考課制度に似てはいまいか。
 先に指摘した学区拡大の状況と、「学校評議員」が「校長の推薦に基づき教育委員会が委嘱するもの」であることを考え合わせれば、その「評価」が、正当に、〈地域〉の声を学校運営に反映させるものになるとは信じがたい。むしろ、〈地域〉の名によって学校を恣意的にコントロールするものとなるだろう。「学校評議員が一同に会して」の「意見」「助言」の場は、「民営化」された公立学校が、査定を受ける「株主総会」の場面となるのではないか。その時、「総会屋」の役割を演じるのは、誰なのだろうか。

 以上のように、分析をしてみると、この章の冒頭に掲げた脚本が、戯画化とはいえ、リアリティーをもってはこないであろうか。私達は完全に包囲をされており、四面楚歌である。ある日突然、「人事委員会」が、退職を勧告にやって来るのではないか・・・


〔5〕学校協議会の試み

 この予測される状況の下で、私たちには何ができるのだろうか。
 「開かれた学校」の逸脱の危険性を、「開かれた学校」の本義の実践によって防ぐことである。学校が、閉鎖的で、視野が狭くなりがちなのは事実である。また、様々な教育病理が、学校のみでは解決できないのも事実である。「開かれた学校」は、「世間的常識のない教員」の[監視]として機能するのではなく、生徒・保護者・地域の、学校への[参加]として機能しなくてはならない。
 学校とは、生徒をどう育てていくかが、教職員と保護者、そして地域の人々の共通課題となる空間である。学校を中心とした共同体を成立させるための教育自治が行なわれ、その共同体が〈地域〉を形成していなくてはならない。
 私たちは、そのことによって、県民に、事のおかしさに気付いてもらうよう、アピールをするべきである。
 「開かれた学校」が、学区拡大によって、地域に根ざすことから遠ざかるとすれば、それは矛盾をしている。ましてや、市場原理・競争原理の導入によって公教育の切り下げ・コストダウンに結びついていくことは、行政サービスの低下である。
 学校が、「校長のリーダーシップ」という名の「校長のマリオネット化」により、行政や行政に圧力をかける政治勢力に都合のよい機関となるのであれば、それは不当である。国旗国歌法法制下直後の、99年度卒業式では、市民団体の「日の丸・君が代」強制反対の運動がずいぶんと活発だったではないか。
 学校評議員の学校への「意見」「助言」「評価」が、〈地域〉の意思からかけ離れたものとなれば、それは不可解である。高校再編計画が密室で練られたことがすでに矛盾を露呈している。学校評議員には保護者が加わることができる。学校への「意見」「助言」「評価」が、真実〈地域〉の声となるように、教職員とPTAとの連携を図ることができるのではないだろうか。
 『高総検レポートNo.42「開かれた学校 その2」』(99.5.24)では、保護者・生徒の学校運営への参加の例として、伊藤和衛著『父母の教育権と行政参加』(明治図書 1973)から、1919年制定のワイマール憲法に父母の教育権を明記した伝統を持つ、ドイツの父母組織を紹介した。
 ここでは、生徒・保護者・地域の参加の実践例を、99年11月20日に日本教育会館で行なわれた、「日教組教育改革シンポジウム」(2日目第2分科会 新しい学校・地域づくり)での報告から、その概略を紹介をし、合わせて会場での討議も記してみたい。すべて義務制での実践例であるが、そこから、私たちの行ない得ることを探ることができると考える。

 (1) 生徒の参加
   ●北海道教組「子どもの権利条約の精神が根づいた学校づくり」●
 士幌中央中学校では、脱管理教育の観点から、学校に「子どもの権利条約」を根付かせる取り組みを、89年の旧生徒心得の廃止からスタートをさせている。96年に、『生徒憲章』を制定し、 それを生徒と教職員の精神的支柱として、「行事を子どもの手に」を具体的な目標として、様々 な改革を行ない、現生徒心得においては「生徒の決定権」を保障している。その内容は、以下のようにまとめられる。
[生徒に決定権のあるもの(教員は決定に加わらない)]
  ○生徒会行事文化祭・体育祭の種目(内容)を含む一切。学校は共催者として時間保障。
  ○学年行事修学旅行・キャンプ・遠足・球技大会の期日・行き先・活動内容及び全ルールなどの一切。
  ○学級活動学級組織・学級活動の一切。
[生徒と教職員の共同決定]
 ○入学式・卒業式生徒実行委員会・教員間ですり合わせ。司会進行を含め生徒が実施。
[生徒・教職員・PTAの共同決定]
 ○生徒心得98年度から改定作業開始を生徒会決定。
【士幌中央中学校 生徒憲章〈抜・「人権の章」より〉】
  人間だから/私の生命も心もたった一つ/かけがえのないひとりとして/大切にされる
 あなたも人間だから/私はあなたを大切にする

 (2) 地域の参加
   ●兵庫教組「トライやる・ウィーク」●
  阪神大震災に対する「心のケア」の問題、また、地域から殺人事件まで起こしてしまった少年犯罪の問題から、県教委が心の教育推進の方針を決定し、これに対して、県教組は学校の主体性確保・労働条件の整備を要求・交渉して、95年より「トライ・やる・ウィーク」が開始された。
 これは、従前から行なわれていた、小学校5年生での5泊6日の自然学校を継続・発展させるために、中学2年生を対象とした地域に学ぶ中学生体験活動週間だが、学校の主体性の確保によって、行政のトップダウンによる行事とさせなかったことが、地域の教育力の再生につながりつつある。
 この行事は、学校による生徒・保護者の希望の把握と、校区推進委員会による受入先や指導ボランティアの確保の両輪で推進されていく。学校が、オブザーバー参加の立場に撤することによって、生徒自身が体験先を探してくる例が生まれた。また、校長が校区推進委員会に加わっているが、あくまで一委員という立場で、自ら開拓にも動いている。これらにより、「地域に根ざした学校」の方向性が、リアリティーをもってきつつある。
 しかし、単なる学校行事に終わっていないか、職場体験学習に偏重していないか、という反省点や、煩雑な入選制度が授業時間を圧迫して、授業時間の確保が「トライ・やる・ウィーク」の活動を阻害している、という問題点もある。後者に関しては、兵庫県高校将来構想検での入選改革の議論の中で、過大学区解消の方向の模索が行なわれている。
 2000年度の第5回「トライやる・ウィーク」では、トルコ等他国を交えたシンポジウムが企画されている。

 (3) 保護者・地域の参加
   ●三重県亀山市立中部中学校PTA「学校協議会の取り組み」●
 亀山市立中部中学校では、校長・PTA・教職員の議論から、「学校協議会」の立ち上げを決定し、98年度から活動を開始している。
 「ひも付き」とならぬために行政からの予算援助は受けず、学校・保護者・地域のみで運営を行なうこととし、PTA役員とともに全教職員が地域(自治会)まわりをして、学校への支援を要請することから始めた。
 結果、中部中教育協議会が設立されたが、「学校協議会」に懸念される、地域の実力者の独壇場となるのではないか、校長意向の傀儡となるのではないか、女性の発言力が弱い場となるのではないか、一方的な学校批判に終始するのではないか、といった協議会を形骸化する要因は一つも発生していない。
 会長は、地域から出すこととなっているが、自治会にせよPTAにせよ、役員役職と関係のない者が会員の70%であるため、地域の実力者の発言のみが強くなるという状況にはない。また、校長は、協議会の一会員にすぎず、協議会の決定を左右していない。さらには、協議会に集まる会員は80%が女性であり、女性の意見の方がよく通っている。そして、報告者であるPTA会長自身が「意外」と語っていたが、協議会会議の中で、地域から出るのは学校批判ではなくむしろ保護者批判であり、学校・地域の声を保護者が聞くことが必要との指摘が強くなされた。中部中学校PTAでは、その声に応じて、PTA内の機構を協議会に合わせて作り変えている。
 自治会からの学校・保護者への要望に応じ、墓掃除・道普請などの地域の行事に、生徒・保護者が参加をするようになった。保護者参加は自治会の条件でもある。その結果、住民相互の関係性の薄い新興団地の地区などでは、、協議会が〈地域〉を作るという作用も生まれ、自治会から、協議会が過疎化を阻止するという効果を期待されている。

 (4) シンポジウムでの主たる討議内容
□子どもの権利条約□
☆子どもを自立した存在として認めない最たるものが高校である。運動が高校へは広がっていかない。(北海道教組)
☆子どもに権利を教えるならば、教職員の権利を守るべきである。職員会議補助機関化には、闘いが必要である。(北海道教組)
☆校則見直しは、日教組が踏み込めないまま、文部省の鶴の一声で行なわれた。子どもの権利条約の取り組みは、最優先の課題とすべきである。(千葉教組)
☆教育シンポを毎年開催して、子ども会議を実践しているが、校長のリーダーシップの問題、職員会議の補助機関化が壁となって、学校の中にまで運動が浸透していかない。子どもだけではなく、教職員・教育委員会を巻き込んだ展開が必要と感じている。(連合福岡)
□学校協議会□
☆県内30校が、地域教育協議会を立ち上げている。協議会出席が休日勤務となる労働条件の問題をクリアしなくてはならない。(千葉教組)
□学区自由化□
☆品川・杉並・日野で行なわれている学区自由化は、学校間の競争を生んで、教育改革推進の阻害要因となる。日教組としての取り組みが必要である。(東京退職者)
■日教組執行部(副委員長)見解■
★学区自由化は、臨教審の民営化路線にのっとったもので、アメリカに先例があるが失敗している。日教組は反対である。当面、3月までに実態報告をする。
★子どもの権利条約に対する高校の硬直は、1960年代の、社研・部落研つぶしのために文部省が高校生徒会間の交流を禁止したことに根がある。今、その反動が出ている。高校における取り組みも大きな課題である。
★学校協議会については、まず地域とは何かという根本の概念が不明確な点がある。それを今後の運動課題として意識していく必要がある。

 「日教組教育改革シンポジウム」での、日教組執行部の見解を記したところで、日教組のシンクタンクである、国民教育文化総合研究所(略称、教育総研)の提案する学校協議会の設置「規則」を紹介したい。これは、『中教審答申』に応じて、教育総研が考案した『学校運営規則要綱』(案)からの、該当部分の抜粋である。


《教育総研「参考になる『学校運営規則要綱』」より(教育総研ニュース99.11.1)》

第4章 学校と児童・生徒、保護者、地域住民
3 学校協議会
 学校に学校協議会を置く。学校協議会は、学校評議員・校長・関係教職員・保護者代表・地域の有識者、その他必要により子どもを含めた関係者によって構成する。学校協議会は学校運営の基本方針・重要事項及び地域や家庭の教育課題について話し合う。校長は年間の学校活動、徴収金を含む学校予算、その他必要な事項について、学校協議会に報告する。
4 学校評議員
 学校評議員は、保護者・地域住民から校長が推薦し、教育委員会が委嘱する。選出基準・任期等については別に定める。校長は必要により学校評議員会を開催し教育活動その他について報告するとともに学校の教育計画等を説明し助言を求める。
 
 教育総研のプランは、校長が、行政の「マリオネット」なら、その校長を学校協議会で包囲してしまう、学校評議員制度が、〈地域〉の名による学校の恣意的コントロールの道具であるなら、その評議員を学校協議会の中に取り込んでしまう、というものである。状況が許せば、学校協議会委員をそのまま学校評議員へスライドさせてしまう方策も可能かと思う。
 以下に、この学校協議会プランを議題とした、高総検での討議内容('00年1月29日全体会)を記したい。まだ、フリートーキングの段階であり、高総検としての、学校協議会の取り組みもしくは学校評議員制への対応は、「県立高校にとっての〈地域〉の分析」と「文部省学校評議員についての批判」の2点が確認されただけであり、それらも、任期切れのため次期高総検への引き継ぎ課題となってしまう。
 が、以下の討議から、このプランを具体化する方法が、少しでも見えてくるのではないかと考える。

●教育総検プランについて
 ◇外部評価導入は阻止できない。教員の社会的評価は低下している。
 ◇学校評議員は行政的な位置付けのもので、校長権限強化にシフトするものだが、学校協議会にその位置付けはできない。ただ立ち上げただけでは闘えない。
 ◇学校評議員も学校協議会メンバーも、「地域の有識者」というのは危険。地域とは何かという問題がある。学校が教育自治の形成をめざすべきである。退職校長・政治家・自治会長などは不適当。
 ◇学校協議会へ横滑りできるように、学校評議員を選ぶ方策をとるべき。その際は、「校長が推薦し」という点が問題となる。草の根の市民活動家などがベスト。校長に推薦させるためには、校内民主化をいかにやっていくかが重要。職員会議補助機関化は阻止すべき。
●学校評議員への対応について
 ◇「意見」「助言」「評価」には、どこまで影響を受けるのか?異義申し立てはできるのではないか? 予想される内容は、生徒指導・「日の丸・君が代」・教職員の服務などではないか?
 ◇形骸化すべきである。そのためには、職員会議補助機関化の阻止が必要。
●学校協議会の具体的な取り組みの方策について
 ◇まずPTAの民主化が必要。教職員が共同的な課題を投げ掛けることから始めなければならない。
 ◇PTA拡大版のような、保護者+地域といった、権限をもたない形からのスタートを。地域=保護者であってもよい。敢えて拡大するのなら、PTA・OB、卒業生を地域住民とせよ。
 ◇保護者・地域への働き掛けが重要。保護者・生徒・教職員による、校則見直しなどから取り組んでは。
 ◇保護者・地域を我々の側に引き寄せるためには、保護者・地域住民に、目の前の子どもの現状に対するパートナーとなってもらわなくてはならない。キーワードは、「参加」である。しかし、その際は、教職員サイドも、保護者・地域住民から批判を受ける覚悟が必要である。
 ◇現段階では、保護者・生徒・教職員による学校協議会を作って、学校評議員の「意見」「助言」「評価」を検証する場とする取り組みが必要。
 これから、それぞれの現場が、「開かれた学校」に対してどのような取り組みを行なうにせよ、職員会議補助機関化が、大きな阻害要因となることは確かである。
 最後に、次の私たち神高教の方針を確認をして、この章の筆を擱きたい。


《第1期['00年度1学期]職場民主化緊急方針・抜粋【'00.2.19分代確認】
(神高教職場討議用資料00-01より)》

職員会議の民主的運営の再確立

  1. 職員会議の「議長団制」「採決制」の確保・再確立をはかります。
  2. 職員会議への全教職員の参加体制確立をはかります。
  3. 職員会議の形骸化を許さず、すべての重要課題について責任をもった議論をすすめます。
  4. 校長が職員会議の結論と異なった判断を行なった場合には、教職員の意見尊重を強く求めるとともに、事後においてもその判断の当否について職員会議の場で検証し、責任を追及する体制を確立します。





第3章.神奈川の学区・入選制度改変

1.「入選改変」と「再編計画」

 97年の春から、神奈川の入選制度は大きく変わった。いわゆる「新神奈川方式」の導入である。新制度実施のこの年、神奈川の県立高校では、大幅な欠員が発生した。


59校で 641人、16クラスに相当する欠員 (高総検レポートNO.31 を参照)
 

 しかも、この年に入学した生徒から、多数の中途退学者を発生させる結果にもなった。


過去最高の 2.29%の退学率 (高総検レポートNO.38 を参照)
 

 これらの事実を見るだけでも、「新神奈川方式」には疑問をもたざるをえないだろう。だが、新制度導入後に県教委がおこなった「検証」は、新入生を対象としたアンケート調査だけであった。合格した生徒を対象にして、現行の入選制度が「適当ですか?問題点はありませんか?」と問うて、制度の妥当性の検証が可能なのだろうか。しかも、神奈川県教委は「新神奈川方式」について、この程度の検証しかおこなわないまま、今度は県立高校のあり方全体におよぶ改変を提起したのである。
 99年の夏には、「活力と魅力ある県立高校をめざして」というタイトルをつけて、「県立高校改革推進計画」なるものが、神奈川県教委により公表された(以後、「再編計画」と略す)。この計画は、全部で7つの章からなる、県立高校全体のあり方の変革を意図する包括的な計画であった。とはいえ、この計画を報じた新聞がつかった、「14校がなくなる」という見出しが注意をひいたためか、「統合」以外の部分は、各新聞の報道においても、あまり取り上げられる機会もないまま、焦点があてられずにすぎた観があった。もちろん、「再編」という名のもとで、県立高校の「リストラ計画」がすすめられようとしていることは、まちがいようもない事実であり、「統合」部分に注目して、この計画を論ずることに、誤りがあるわけではない。しかし、今後の展開を考えるとき、十分な注意を払っていかなければならない内容が、「統合」を展開する部分とはまた別のところに含まれているのである。
 この「再編計画」の最末尾には、「改革推進のための条件整備等」という表題のついた章が設けられている。そして、「教職員の資質向上及び計画的配置」「学校運営等の改善・充実」などの項目のもとで、教職員の職務評価、管理職による指導、学校運営における校長の権限の強化など、多くの問題をふくんだ事柄が、いともかんたんに書き込まれている。その同じ章の中に、「入学者選抜制度改善の推進と通学区域の検討」という項目がたてられ、「『前期計画』期間中に普通科の推薦制度を導入」し、「学区の弾力的な扱い」を「『前期計画』の進展を見ながら推進」すると、学区・入選制度にかかわる改変計画まで、さも当たり前のことであるかのように書き加えられている。そして、まだ前期計画も発表したばかりであるのに、「後期計画の進展を踏まえ」入選制度のあり方、学区のあり方全般にわたる検討を進めると、先の予定までしめしている。
 もともと、学区・入選の問題は、そのための検討機関を設置し、その答申を踏まえてはじめて方針が立てられるはずの事柄であり、これまでもその手続きを踏んできたものであった。「再編計画」の中に学区・入選問題を、その一部として組み入れ、一定の方向づけをすることは、手続きの上でも問題があると言わざるをえない。しかも、手続上の問題を無視しながら、新しい計画は議会答弁、記者発表というかたちで次々に公表され、とどまることなく先へとすすもうとしているのである。


2.「新神奈川方式」は中学生になにをもたらしたか

(1) 「死に体」の「複数志願制」

 現在の神奈川県の入試制度でもっとも目につく特徴は、受験生に第一希望・第二希望の二つの希望を提出させる「複数志願制」にあるといってもよいだろう。しかし、この「複数志願制」はすでに「死に体」を呈しているとも言える。2000年度入試における、第一希望・第二希望ともに 同一の学校を希望する者の率は、出願締切(2/2)段階 で、86.3%に上った。第一・第二希望を同一校を志願する者の率は、下にみるように、この制度を導入した以来、一貫して上昇している。この事実は、「複数志願制」を目玉とする「新神奈川方式」そのものの存在理由を疑わせるに足りる事実であろう。


受験者に占める同一校志願者の率
1997年度:75%  1998年度:83%  1999年度:84%  2000年度:86%
 
 とはいえ、なお10数パーセントの受験生が、「複数志願制」を利用していることも、またたしかである。この数字に注目すれば、「複数志願制」を利用している受験生もいるのだから、「複数志願制」にも一定の存在理由がある、という「複数志願制弁護論」もなりたつのかもしれない。しかし、だからといって、「利用したくないものは利用しなくてもよい、利用したいものだけが利用すればよいのだ」、と言い切るのはあまりにも乱暴である。第一、第二希望を同一校にした受験生、いわゆる同一校志願者の中で、首尾よく第一希望の枠内で合格できなかったものは、他校からまわってきた「複数志願制」を活用した受験生に席をうばわれてしまう可能性が高い。とくに、学区内で下位に位置づけられた学校においては、第二希望選考で合格する者のほとんどが、他校からまわってきた受験生によって占められてしまうという事態が、毎年くりかえされている。「利用したいものが利用すればよい」といっても、その影響は全体が受けるのである。利用する受験生の存在をもって、「複数志願制」を弁護することはできないのである。
 「複数志願制」という全国でも珍しいこの制度については、これまでも高総検レポート等で論じてきた。また、この制度の矛盾と不合理さは、もはや論ずる必要もないほど、だれの目にも明らかである。入選制度の改善を言うならば、まず最初にこの「複数志願制」の廃止からはじめなければならないだろう。

(2) 中学生に重くのしかかる「総合的選考」 

 ここで、「複数志願制」からはなれて、「新神奈川方式」のもつ問題点の別の面に目を移してみたい。普通科の第一希望の選考では、その定員の70%(全定員からすれば56%)については、学力検査の結果と調査書の成績を4:6の割合で用いてつけた順位で選抜することになっている。そして、第一希望選考の残り部分と第二希望選考は、いわゆる「総合的選考」の対象とされている。つまり、定員の44%が総合的選考の対象とされることになる。さらに、普通科専門コース、職業各学科の場合は、一般入試においても定員のすべてが「総合的選考」の対象となっている。そして、その「総合的選考」とは、各学校の「特色」に応じた基準にしたがい、調査書の記述部分をつかうものとされている。
 現行の入選制度が導入される以前、神奈川では、学力検査、ア・テスト、調査書の成績が、3:2:5の割合で用いられていた。「新神奈川方式」では、一次選考の定員56% 部分であっても、合否結果への調査書の影響力は、5割から6割へと大きくなっている。もちろん、学力検査の占める割合も増加したが、ア・テストが全県一律に行われる学力検査に近い性格を持っていたことを考えると、いわゆる内申点の比重は、新制度導入以前よりも大きくなった、と言わざるをえない。
 ところで、「総合的選考」において「重視する内容」は、あらかじめ明らかにされることになっている。では、その「重視する内容」はいったいどんなものなのか。県教委が作成している「募集案内」を見ると、ほとんどの学校の「重視する内容」には、特別活動、もしくは部活動という項目が入っている。この項目を挙げていない高校は、10校ほどにすぎない。もちろん、それぞれの高校が、実際の選考の場で部活動や特別活動をどのように「重視」しているかは、「募集案内」から読み取ることはできない。部活動、特別活動を「重視」することの是非を、いまここで論じようとしているわけではない。しかし、「神奈川県の高校入試において、中学時代の学業以外の生活、生徒会の活動や部活動が、「新神奈川方式」導入以前よりも、はるかに重い意味を持つようになっていることは、否定できない事実だろう。そして、たとえば「継続的な部活動の実績」という項目をつくってしまうと、ひとつの部活動を3年間継続したかどうかが問われる結果になってしまうのである。こうして、「総合的選考で重視する内容」を意識するかぎり、中学生は、途中で部活動をやめたり、部を変更することもできなくなってしまう。これが、「新神奈川方式」のもとで、中学生が置かれている現実である。


3.さらなる矛盾の拡大

(1) 推薦制拡大とその行方

 新年度がはじまるとともに、普通科への推薦制導入にむけた状況を調査する文書が、県教委から各学校現場におろされた。推薦制導入の予定年度と推薦制に生かす「特色内容」についての回答を、わずか1か月にも満たない期間で提出させようとする、はなはだ乱暴なやり方であった。かりに、推薦制そのものの評価を脇に置いたとしても、あまりにも乱暴なやり方には、それ自体で問題があると言わざるをえない。しかも、回答の欄は、再編該当校とそれ以外の学校を分けていた。例の「改革推進計画」によるならば、いままさに県立高校は「学校づくり」に取り組んでいる最中である。再編該当校にいたっていは、「統合」をすすめる中、これから新しい学校をつくろうとしているのである。今の段階で、入学後の教育内容を前提とした、推薦制度の導入が可能だと、行政担当者はおもっているのだろうか。
 さて、調査方法の問題から、先に進む。すでに指摘したように、「新神奈川方式」という現在の入選制度のもとでも、中学生は、つねに評価を意識して、中学校生活をおくる結果になっている。そんな状況のもとで、すべての普通科に推薦制が導入されるようなことになったら、どうなるのか。もちろん、この場合でも「推薦を受けなくても、高校へ進む道も確保するのだから、よいではないか」という反論もあるだろう。だが、推薦制が一部の学校にとどまることなく、すべての学校に広げられても、推薦をあてにせず、別の道を歩むことを決断できる中学生が、いったいどれだけいるというのだろうか。
 あるいは、推薦制の拡大を説く人々は、「それぞれの生徒の長所を見るのだから、けっして負担が重くなるはずはない」と言うかもしれない。しかし、推薦制を意識する中学生は、考えうるすべての分野にわたり、油断なく努力することを強いられることになるだろう。なぜなら、どの高校への推薦を受けるかは、まだ先の話であり、どこの高校を目指すかを決める前に、推薦を受けるための努力がはじまるからである。自分の進路をせばめないためには、中学生は、可能なかぎり多くの分野、日々の学習活動、部活動、生徒会活動・・・にわたって、努力を重ねなければならない。そして、ある者は実績を積み上げて希望どおりの学校への推薦を受け、ある者は自分が希望していた学校の推薦をあきらめ、ある者は推薦そのものをあきらめることになる。しかも、無事に推薦を受けることができたとしても、各学校には推薦募集枠が存在する。今度は、推薦を受けた者どうしの競争、「長所」の比較という競争がはじまる。
 もちろん、ここでまた反論があるだろう。どのような理由であれ、中学時代に努力を重ねることはよいことではないか、希望する高校への入学をめざして競争することはよいことではないか、この反論はそれなりの説得力をもって聞こえる。しかし、評価を意識しつつ中学生活をおくることが、教育のあるべき姿だ、と言い切ることのできる人がいるだろうか。しかも、その評価が、入試選抜を前提とした評価、推薦を受けるための評価だとするならば、その評価をえるために努力することに、教育的意味を見いだすことは、まず無理であろう。いま、推薦制をはじめとする「学校生活すべてが評価の対象となる」方向へと入選「改革」がすすんでいく中、内申書の評価を上げるためのマニュアル本さえ、すでに登場しているのである(たとえば「高校合格100%ブックス『新調査書対策』内申UP方程式」学習研究社)。マニュアル本にすがって評価を上げようとする状況を、教育的とみなす人はまずいないだろう。さらに、入選「改革」の動きと、多発する深刻な「少年事件」を関連づける指摘すら、見かけるようになってきたのである。


 …それまでの学力だけの評価や偏差値で割り振る進路指導の反省から、1994年度の入試から(内申書を重視する入試を)全国的に拡大させた。この年を境に中学にある変化が出た。文部省の統計では、生徒間の暴力事件は、93年度の約2400件が三年後には倍近い約4700件に、同じく器物損壊は約 700件が約三倍の2200件に増えていた。
【朝日新聞 '00.5.27「『暴発』少年事件が映すもの」】
 もちろん、個々の「少年事件」には複雑な背景があるだろう。「少年事件」について、単純な分析は慎まなければならない。しかし、入選「改革」の展開と、「少年事件」の増加が、時期の上で重なっているという事実から、目をそむけることも許されないはずである。

(2)学区の拡大(あるいは学区外し)へ

 年が明けるとともに、神奈川新聞は、「県立高学区拡大へ」という見出しのもとで、新年度に協議会を設置し、学区のあり方について検討をはじめることを報じた。この記事の中では、学区縮小、学区拡大両方の意見があることを紹介しながらも、「高校改革の狙いの一つは、次代を担う子どもたちに対して多様な選択の扉をつくること。計画の趣旨を発展させるには、学区の枠は当然、現在より大きい方がよい。」と、学区拡大の方向へ向かう検討が進められることが、教育長の言葉としてあきらかにされた。また、知事の年頭記者会見(1/5)においても、学区について、現行の学区外受入れ枠を、上限8%から拡大することが望ましいとの見解をしめした。新聞報道がどこまで的確に伝えているかは別としても、教育行政の責任者、さらに県政の最高責任者の一連の言葉には十分な重みがあるだろう。
 もともと、学区の見直し(あくまでも拡大へ向かった見直しであるが)の方向は、いまはじめてしめされたものではなかった。この方向は、行政の側から、これまでもくり返し提起されてきたものであった。現行の「新神奈川方式」が導入されるときにも、すでに学区の見直しは、今後の課題とされていた。いわゆる「神奈川県公立高等学校入学者選抜制度改正大綱」でも、「(学区については)神奈川県公立高等学校通学規則による」と、当面は現行の学区の枠を守るとしながら、次のように含みをのこした表現をつけくわえていた。


 学区外限度枠の扱いの中に、隣接学区の扱いを設けることについては、今後の学区外への志願状況を見ながら検討することとします。
 
 だから、先の知事と教育長の発言も、新神奈川方式導入時の、この含みに答えようとしたものであり、その点では「大綱」の延長線上にいる、と言おうとしているのかもしれない。しかし、いま見たように、「大綱」は、「今後の学区外への志願状況を見ながら検討する」という条件をつけていた。だから、「学区の弾力的扱い」などは、学区の外への志願状況を検証した上ですすめられなければならないはずである。もし、現在の8%の学区外枠をを越えるところまで応募者が殺到し、この枠ではおさまりきらないという事態が、いまおこっているならば、現行の学区外枠は小さすぎる、もっと広げなければならない、という主張もなりたつだろう。だが、いまのところ、学区外枠が限度までつかわれているという事実を確認することはできない。過去の入試においても、学区外枠の応募者は、その限度をはるかに下回っていた(ほとんどの学区では、ほぼ5%前後)。だから、「大綱」の言い方にしたがうならば、いまだに隣接学区の枠を設ける段階にはいたっていないという結論にならざるをえないのである。
 「大綱」をもう一度見なおしてみよう。「大綱」が課題としてあげていたのは、「隣接学区の扱いを設けること」にすぎなかった。つまり、全県募集枠を広げることは、もともと「大綱」では課題とされてはいなかったのである。とすると、全県に開かれている現行の学区外枠を拡大しようとする発言は、入選改変をすすめる上で、「大綱」の範囲を明確に踏み越えていることになる。とするならば、隣接学区枠の設定ではなく、全県学区枠の拡大へと方針を転換した理由を、まずあきらかにしなければならないはずである。
 だが、この点についての説明は一切ないまま、二月に入ると、学区の拡大は、検討段階から先にすすんでいることが報じられた。2 月22日の県議会において、県教育長は、「平成13年度入学者選抜」から、現在の「募集定員の8%」を「20%-25% 程度」へ引き上げることと、普通科で推薦制を随時導入していく方針を、あきらかにした(産経新聞2/23)。さらに、新年度になっても、学区外募集枠拡大の方向は、教育長の議会答弁においてくり返し表明された。これほどまでに、学区外募集枠を固執しようとするのはなぜなのか。
 ひとつの手がかりとして、神奈川に先行して学区外枠の拡大を進めている東京都の状況にかんたんに目を向けてみたい。

(3)東京都の状況

 東京都は、これまでの隣接学区受験枠にかわって、学区とかかわりなく受験できる学区外応募枠を、今年度の入試から新設した。これは、新しく知事に就任した石原氏の就任時の施政方針演説で、「都立高校間に適切な競争原理を導入する」という言葉にそった施策である、と報じられている。都教育庁は、今後都内の学区を東西の二ブロックに統合し、その上、相互に二割程度の学区外受験枠を設定するという、事実上の学区撤廃へと進む予定までもっているとも報じられている。その最初の段階が、今年度の20〜40% の学区外募集枠の設定ということになる。はたして結果はどうだったのか。
 今年度の都立高校全日制の平均倍率は、1.44であった。ところが、学区外募集枠にかぎってみると、募集枠に対する応募倍率は男子0.57倍、女子0.78倍にとどまった。この数字は、これまで設定されていた隣接学区枠の応募倍率をわずかに上回ったにすぎなかったのである(男子+0.02、女子+0.03)。
 とはいえ、学区外枠の応募者の殺到した学校も、一部には存在した。都心に位置する第一学区の一橋、日比谷などである。これらの学校では、学区外募集枠に百名以上の生徒が集中し、それぞれの学校の応募者の半分以上にもたっした。これでは、すでに学区は消滅したも同然である。都教育長も、「交通の便のよい学校や進学で有名な学校など、特定の学校に志望が集中する傾向がある(朝日新聞 2月 8日) 」と、この事実をみとめている。今年度の結果を見るかぎりでは、石原知事が都立高校に導き入れようとした、「適切な競争原理」は、特定の高校(あきらかに一部の進学校)においてのみ働く原理にすぎなかった。だが、一部の進学校に「学力の高い」生徒を集めること、もしこれが本音ならば、東京都の学区外枠の拡大は、一応の成功を見た、ということなのかもしれない。

(4) 学区拡大(あるいは学区外し)の行方

 さて、神奈川県に話をもどす。隣接学区枠しかもたなかった東京都と違って、神奈川県は現在でも全県募集枠をもっていた。その枠は、先ほど指摘したように、実際の応募数に比べれば十分すぎる大きさであった。しかし、個々の学校を見ると、限度枠をこえる応募者(最高は募集定員の 20%以上) が集まる学校も、少数ではあるが存在することもたしかである。そして、それらの学校は、学区で最上位に位置づけられている「進学校」か、あるいはその反対に位置づけられている学校であった。もし、学区外の募集枠が拡大されるならば、東京都とほぼ同じような結果、つまり一部の「進学校」に全県から応募者が集まるという事態がおこることは、十分に予想することができる。
 ここでまた、希望する生徒にチャンスを与えるということなのだから、それでもよいではないか、利用しない受験生は、利用しなくてもよい、という聞き慣れた反論が、またもやあるかもしれない。しかし、ある学校に、学区外から応募者が集まるということは、その学区の他の学校に、玉突き状の影響を与えることになる。学区外からの応募者が増えるということは、その分だけ、学区内の学校に入れずに、外に押し出される受験者を増やすことになるのである。つまり、学区をこえた受験生の移動は、たとえ一部の動きであっても全体に大きな影響を与えることになるのである。しかも、最後には学区外へ一部の生徒を「押し出す」結果になってしまうのである。だからこそ、学区外の応募枠は、その枠をつくるとしても、可能な限り小さな数値(くりかえしになるが、現行の8%すら、実績からすれば大きい)に抑えるべきなのである。
 また、「学校選択の自由」という観点から、学区の枠をもっと広げよう(あるいは学区を廃止しよう)と主張する人々には、もういちど現実を見てもらわなければならない。学区の中では、子どもたちが、自由に学校を選択し、それぞれの希望する学校に入学している。もし、こんな現実があるならば、「学区の存在が子どもたちの、学校選択を妨げている、学区の枠がなくなれば子どもたちは、より自由に学校を選択できるはずだ」という主張に、理を認めなければならなくなるだろう。だが、こんな現実は存在しない。学区の中で、子どもたちは、希望する学校を選ぶことも、入学することもできないでいる。学校選択を妨げているものは、学区ではない。これが、現実である。
 むしろ、「学区の存在こそが、子どもたちの選択を可能にする。」という、正反対の主張すら成り立つのである。たとえば、日教組の高校準義務化促進委員会・同協力者会議がまとめた報告書、「どの子も希望する高校へ」が提案している「地域合同総合制」の前提条件も、多様な高校を組み合わせた学区の存在であった。学区の枠がまったくないオープンなシステムのもとで、「希望する高校」への入学を担保することなど、現実的には不可能な絵空事である。
 もともと、だれもが、自分の希望どおりに、すべてを自由に選択できるわけではない。学校を選択するといっても、定員の枠が存在する以上、すべての希望者が、希望どおりの学校に入れるわけではない。定員制を維持したままで、学区の枠をはずしたところで、結果的には大部分の生徒が、希望する学校から排除されるだけの結果に終わるだろう。各学校の定員をはずそうとしても、施設上、教員配置上の、物理的制約はつねにつきまとう。特定の学校に際限なく生徒が集中する事態は避けなければならない。結局、そのためには通学区域を限定する必要がうまれる。学区の枠内で、入りたい学校を選び、入れる方向を追求することこそが、もっとも現実的な道だという結論にならないだろうか。学区拡大を求める人々には、学区を「選択を制約するもの」と見るだけではなく、なぜ学区が必要だったのか、という学区の存在理由に思いをいたしてもらいたい。いま求められていることは、学区の廃止や拡大ではなく、むしろ適切な規模へ学区を縮小すること、受検生の目に個々の学校が見える範囲へ学区を縮小することではないだろうか。

4.今後へ向けて

 いま、神奈川県では、推薦制の普通科への拡大がすすめられようとしている。さらに、学区外枠(全県募集枠)の8%から25%への拡大さえ、すすめられようとしている。その結果はすでに述べたように、いわゆる「新神奈川方式」によって、重くなっている中学生の生活を、さらに重いものにすることになるであろう。では、いま何ができるのか。
 まず、現行入選制度の矛盾や不合理な点について改善をもとめること、さらにその改悪をすすめようとする動きに反対の声をあげること、これは現場で実際に入選に携わる者に課せられた責務であろう。県立高校をとりまく状況が悪化するいま、あらゆる機会をとらえて、問題点を現場から指摘していくことは、ますます重要になってきている。
 次いで、かりに「推薦制」を導入せざるをえないような事態におちいったとしても、これ以上に中学生の負担を増やさない方法を追求すべきである。特別な実績を持つ生徒ではなく、ほとんどの生徒が該当するような項目を、推薦の基準とすることにより、すべての生徒が、推薦に期待をつなぐことができるようにすることが必要であろう。
 また、これまで以上に、保護者との協力関係、地域の中学校との連携、地域の人々とのつながりを深めていくことが大切になるだろう。地域に根をおろすことが、入選制度のこれ以上の改悪、あるいは「県立高校改革推進計画」という名のもとですすめられる、神奈川の高校教育の悪化を、くい止める大きな力になるはずである。
 これらの提起は、いま押し寄せてきている「改革」の大きな波に抗するには、提案にすらならないほど、不十分で具体性を欠いたものにしか見えないだろう。しかし、中学生、高校生、さらに高校に入ることができなかった子どもたち、かれらの置かれている現実に目をむけ、現場の教職員がそれぞれの持ち場でできることを積み重ねていく、これ以外に今の状況を変える道がないこともたしかである。

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第II部.県立高校将来構想検答申と「県立高校改革推進計画」の分析


 X期高総検は、その準備会段階を含めれば、98年3月の県立高校将来構想検討協議会『これからの県立高校のあり方について(協議経過の中間まとめ)』(以下、『中間まとめ』)が出るとほぼ同時の発足であった。「神奈川における教育改革推進のために神高教に設置された検討機関」としては、高校再編計画は、最重要課題であるため、全体会を中心として高総検全体でこれ取り組むこととした。そのため、\期より継続している職業教育グループ(オブザーバーを含めて6名)を残して、従前のグループ体制を解き、事務局を主体とした、そのコアとなる将来構想検討グループ(8名)を作って活動を開始した。さらには、最終報告書を書き下ろしでまとめることよりも、『高総検レポート』などによる情宣を積み重ねていく、即応体制を方針とした。新カリ等の他の課題も、高校再編とリンクして検討するべきと判断をした。
 しかし、X期高総検は、その情宣も含めて、この課題に関しての十分な活動を為したとは言い得ない結果となった。その理由は、以下の3点である。
  1. 発足準備当初、「5〜10年後に実現可能な組織と教育の改革プランを作るための組織」である、短期集中型の検討機関、神高教2003年委員会との組織的な整合性が整理し切れず、発足にあたっての混乱が生じた。
  2. (1)の原因の一つとして、高総検の文部省多様化路線批判と、神高教内にある総合学科を主体とした多様化評価の意見との間に齟齬があり、それに対する十分な討議と整理ができていない状態であった。
  3. 98年9月の県立高校将来構想検討協議会『これからの県立高校のあり方について(答申)』(以下、『将来構想検答申』)以降、県教委は、フォーラムの開催とFAXによる意見受け付けの他は、答申の具体化の検討を完全にブラックボックスの中で行ない、99年8月に、『活力と魅力ある県立高校をめざして・県立高校改革推進計画(案)』(以下、『県立高校改革推進計画』)を発表した。具体的校名と各校に関する『概要』もトップダウンで下ろされた。これから、99年11月に、微細な手直しだけで「案」の文字は削られた。この間に、情報は全く入手できず、現場代表を含んだ交渉・協議の要求は無視され、将来構想検討グループの活動は停止を余儀なくされた。結果、この課題に対するX期高総検の活動体制は空中分解をした。
 したがって、この章で、現場に示すなにものも持たないというのが実のところである。 (3)の結果、中教審答申・教課審答申・学習指導要領及び教育課程に関する検討、また、学区・入選の検討という課題も、停滞をした。高校再編とリンクできないままに、事務局と停止した将来構想検討グループの一部のメンバー他で対応をしたが、負担過重であり、十分な検討結果は出せなかった。

 現在、現場で、特に再編対象校で、最も必要とされているのは、再編に関わる条件整備的な問題の指摘と、各校のタイプに応じたガイドラインの策定であると考える。しかし、そうした『県立高校改革推進計画』の「対案」の検討に至らず、主に『将来構想検答申』を材料とした「批判」の段階で活動は停止してしまった。慚愧の念に堪えない。
 現在の状況は、苛酷なものとなっている。

 '00年4月27日の『朝日新聞』2面に載った、文部省調査に関する、小さな記事がある。その全文を下に引用する。


 少子化による生徒数の減少で、すべての都道府県の教育委員会が公立高校の統廃合などの再編計画を検討していることが、二十六日、文部省の調査でわかった。十一の都府県ですでに計画をまとめている他、審議会などによる報告書が提出されているところも十六道県ある。自治体の財政難もこうした動きに影響を与えているようだ。調査によると、神奈川県では今後十年間のうちに現在の百六十六校から十四校減らす計画をまとめている。小規模県では、鳥取県が現在の二十八校を二十二校にする考えだ。学校そのものの統廃合ではなく、学級数を減らしたり、学科を改廃したりしてスリム化を目指している教委も多い。ただし、各地の教職員組合や市民団体などには「教育環境や学校の伝統などを抜きに議論が進んでいる」という反対運動もある。
 
 この記事では、神奈川は大規模県の一例として示されているのだが、ここには、「少子化」「財政難」「スリム化」という言葉はあっても、「教育」の文字がない。
 現在進行している神奈川の高校再編計画は、県民に示された通りの〈教育〉改革であるのか、それとも、その糖衣をまとっただけの〈財政〉改革であるのか、現場のスタンスから、はっきりと問い直してみる必要がある。
 せめてその問い直しの材料として、以下に、高校再編計画に関わる『高総検レポート』を、全体会資料で補強をし、編集をし直して、記載をする。
 現場からの教育改革のスタートは、極めて困難に満ちたものではあるが、これからである。その一助となれば、幸いである。






第1章 県立高校将来構想検答申の分析

 『中間まとめ』と『将来構想検答申』との間には、「インターンシップ」(体験学習)という新造語が付け加えられたくらいで、ほとんど差異はない。以下の分析で、『中間まとめ』を『将来構想検答申』と読み替えて頂いて、何ら支障はない。

1.総論批判

〔1〕『中間まとめ』総論批判

 高総検は、まず、県立高校将来構想検討協議会(以下、将来構想検)の、葉書・封書による意見募集締切(98年6月30日)以前に、『中間まとめ』に対する総括的な批判を行なった。
 「特色」競争に至る危機をはらむ指摘や、新入選批判を含めた、多様化路線批判を行なうとともに、学区拡大・教育予算コストダウン・教育条件低下(30人以下学級実現の阻害)の危険性を指摘し、各現場からの意見が集中することを期待した。
 以下は、『高総検レポートNo.34「『中間まとめ』を読む」』(98.6.10)での報告である。文中での『中間まとめ』からの引用ページは、神高教が各分会に配布した『中間まとめ』の冊子によるものである。

高総検レポート No.34

1998年6月10日発行


県立高校将来構想検討協議会「これからの県立高校のあり方について(協議経過の中間まとめ)」を読む


学校間格差は無視されている


 「II 今後の高校教育に求められるもの」(P.3〜8)として挙げられている「1 個が生きる教育」・「2 豊かな心(人間性)を育む教育」・「3 望ましい社会性の育成」は、いまさら指摘されるまでもなく、教育現場において、私たちが長年希求し続けてきたものである。しかし、それが阻害され、課題集中校に顕著なように、教育病理が押さえがたいものとなっているのが、現状である。
 その原因が、「IV 将来構想の推進にあたって」で指摘されているように、「保護者や県民だけでなく教職員の中にも根強い」(P.22)意識である、「数値や成績、『学(校)歴』などが過度に重視される」(同)傾向であることも、言うまでもない。つまり、一部のエリート養成のための受験体制、それに連動した、卒業後の社会的階層の仕分けを高校教育段階から導入している学校間格差にその全てが求められる。入選における競争と排除の論理、選抜する私たちの側から言えば、適格者主義を克服しない限りは、「学ぶ意欲や『学習歴』が適切に評価される社会への転換」(同)はその第一歩も踏み出せはしない。 『中間まとめ』は、この実情に対する認識があまりにも低いのではないか。
 「I県立高校の果たすべき役割」の中で、「目的意識や学習意欲に欠け、中途退学に至る生徒がいる実情」(P.4)、「いじめや不登校、薬物乱用、性の逸脱など」の「深刻な状況」(P.4)を現状として把握しているが、それを「生徒の多様化」(P.4)の一言で括っているのは、あまりに安易である。「各高校の特色が明確なものとなり、生徒がさまざまな観点から高校を選ぶことによって、高校間の序列意識の変革が促される」(P.9)として、高校の多様化によって生徒の多様化に対応し、その結果として、学校間格差が解消されるというのが、『中間まとめ』の趣旨である。そうした文脈から、「各校の特色は一層幅のある多様なものとなってきた」(P.3)ことを前提として、「生徒自らが進路希望に基づいて、入りたい高校へ志願できるように選抜制度を改正し」(P.4)た事によって、現在すでに学校間格差が解消されつつあるかのような流れで報告がなされているが、これは、まったく事実に反する。
 県教委から全校に指示された、いわゆる「特色づくり」は、単位制・総合学科・専門コース制の文部省タイプの高校にしか機能していない。大多数の高校では、教育条件整備、私達の施設設備的条件・人的条件の要求に対する回答、が皆無に近い状況である事から、県教委に「特色づくり」の報告は提出したものの、各校のプランは、虚構化している。むしろ、それ以前に、ファーストフード産業の販拡競争のように、他校との差別化を図るような「特色」が必要であるかがまず疑問である
 同じく、全校に指示された、入選の「重視する内容」は、その前提であるべき「特色」が虚構化しているために、各校の具体的な教育活動との結びつきが極めて希薄であり、外部から見れば選抜方法が不明確とならざるをえない。その導入初年度に大幅な定員割れを生じ、また、学習塾業者の団体が情報公開運動を展開したのは当然の結果である。入選改革は、学校間格差を何ら解消していない。複数志願制は、大多数の受検生が第1希望校と第2希望校を同一とし、そうでない受検生も、第2希望に上位校を記入することはまれである。中学進路指導の読み違いなどによる定員割れの危険性を増大させただけで、受検生は、やはり〈行きたい学校〉ではなく〈行ける学校〉を選択せざるを得なくなっている。それのみならず、総合的選考は、〈行ける学校〉を可能なかぎり上位校とするために、内申書に縛られた「いい子仮面」の中学生を生むという新たな病理を生じさせてさえいる。内申書対策の看板を掲げた学習塾までが、現在、生まれつつある。
 つまり、入選改革は、現行の学校間格差に沿って機能をしているだけである。「個が生きる教育」を望むならば、今求められるべき事は、希望者全入の方向性を持った改革である。「特色づくり」、即ち、高校の多様化が、例えば高校統廃合による教育予算削減というような手段で、財政的な実現性をもって実働したとしても、やはり学校間格差を固定化するだけでしかないのは、明白である。


学校間格差から校種間格差へ移行する


 「II 今後の高校教育に求められるもの」に記載されている内容は、受験体制による競争原理、各校の適格者主義の排除を前提として初めて成立する。それは、「特色づくり」という他校との差別化によって解消するものではない。卒業後の社会的階層の仕分けに連動している学校間格差を残したまま、高校を多様化すれば、必ずそれは校種間格差にシフトする。序列がより深刻に再編・固定化されるだけで、「高校間の序列意識の変革が促される」ことなどはない。
 朝日新聞(98.5.22夕刊)の報道によると、東京都立国分寺高校の教員を、都教委が懲戒処分としたことが問題となっている。同校の単位制高校への移行を、歴代のPTA会長や卒業生などに手紙で伝えたことに対する処分である。都教委は、学校群制度以来の学校間格差を拡大しない制度改革の方針を転換し、97年の『都立高校改革推進計画』で、進学校を指定する方針を打ち出している。単位制高校は、幅広い選択科目によって、受験教科に沿った勉強ができるため、大学受験に有利と認定されているのである。同じく朝日新聞(98.5.15)は、都立晴海総合高校総合学科の必須科目「産業社会と人間」での、日本IBM会長の一日講師を報じている。文部省生涯学習振興課長のコメントによれば、「教育に注文を付ける財界人は多くても、実際に参加する人はほとんどいなかった。歓迎したい。」とのことだが、都立高校では、単位制は大学受験校に、総合学科は財界人が直接参入する職業人輩出校にシフトしているのでは、と考えられる。
 『中間まとめ』には、このような卒業後の進路を露骨に固定化した多様化は示されてはいない。むしろ現在ある校種間格差の問題点を指摘している文脈さえある。すなわち、「専門高校では、明確な進路意識を持てないまま、不本意な気持ちを抱いて入学した生徒が見られる事も否定できない。」(P.12)とし、また、「全日制を希望したが、定時制に入学した生徒」(同)という文言もある。さらには、県立高校では弥栄西高・弥栄東高が研究校となることが決定された、中高一貫教育に対しては、一定の意義を評価しつつも、「一方、受験競争の低年齢化を招く懸念や、中高一貫教育の利点が一部の生徒に限られるなどの点から、中高一貫教育の導入に対して慎重な意見も見られる現状がある。」(P.16)と指摘している。
 しかし、そうした問題点を認識しながらも、「IIIこれからの県立高校のあり方」に「多様な教育の提供」(P.9〜13)として、百花繚乱のごとく校種を示しているのは、どういうことであろうか。単位制・総合学科・専門学科・普通科・普通科専門コース・専門高校・定時制・通信制の多様化に加えて、単位制普通科のタイプによる類型化、総合学科のタイプによる類型化、普通科の特色による類型化、1校内の複数専門コースの設置、新たな専門学科の設置、単位制専門学科の構想を述べており、校種が極めて細分化をされている。仮に、学区内にこれらが全て実現して、校種間格差にシフトした場合、ほぼ1校1校種となり、現在の学校間格差をそのまま引き継ぐのではないかとさえ思われる。中でも殊に、「新たな専門学科の設置」(P.11)はその「ニーズ」が薄弱であるし、また、「普通科における専門コースの充実・改善」の根拠として、「専門コースが、学校のいわば『顔』となることによって、地域に根ざした特色ある学校づくりの意識が高まり、学校全体が活性化することにも寄与してきた。」(P.11〜12)とあるのには、どこに実態があるのかと、首を傾げたくなる。無理やりに、多様化プランをひねり出しているかの観がある。
 校種間格差による不本意入学への対処方としては、「今後、進路変更などの積極的な理由によって転学を希望した場合にも対応できるよう、転入学の機会の一層の拡大が望ましい。」(P.15)とし、「学科間の移動や専門コースと一般コースの間の移動についても弾力的な運用が図られることが望ましい。」(同)と述べ、進路変更の柔軟対応を提言している。殊に、入学時の「明確な目的意識」(P.11)から後戻りのできない専門コース制については、「入学後の進路変更についても、生徒の実態に応じた弾力的な対応をすることが望ましい。」(P.12)と強調をしている。しかし、現行のいじめなどに対する教育的配慮による転入学制度、また、中途退学者に対する再入学制度が、教育病理の解消にどれほど貢献をしているかを考えた時、いかに転編入学を弾力化しようとも、根本的な解決にはならないことは明白である。さらには、全日制・定時制・通信制の課程間での弾力化について言及がないことも、不十分である。
 加えて、隣接学区規定(隣接する学区同士で越境受検を認める制度)に対し、「今後、県立高校の再編成や統廃合の進展の中で、学区のあり方について、検討が必要となることも考えられる。」(P.17)として、抑制した表現ながらも積極的な姿勢を見せているのは、大きな問題である。隣接学区規定は、昨年、県教委が、教育改革問題検討会(神教協+県教委)での検証を無視して、独善的に、教育委員会(教育委員5人で構成)に報告をした『平成9年度公立高等学校入学者選抜の検討』の中で、「平成11年度以降の入学者選抜で、何らかの措置の必要性と方法を検討する。」としたものである。この制度の導入は、学区制の破壊であり、さらに格差を拡大させることとなる。現に、義務制においてさえ、「通学区域の弾力化」によって、今春、小・中あわせて約1000人の新一年生が指定校とは別の希望校へ入学した東京都大田区では、「変更先が名門校≠ノ集中する現象が見られ始め」ているとの報道がある。(『朝日』98.6.2)
 以上は、つまり、『中間まとめ』の改革の主眼は統廃合にあり、教育病理を解消するための格差是正にあるものではないことを示すものである。
 現在必要なのは、なによりまず、格差自体を是正する方向の模索である。



目的は教育予算の削減である


 『中間まとめ』では、「I 県立高校の果たすべき役割」で、「経済の低成長化傾向等による国や自治体の財政難など、教育を取り巻く状況も厳しさを増している」(P.4)、「高校教育においては、こうした社会経済状況の変化を踏まえ、教育内容の充実を図る」(同)としながらも、教育予算に関して正面から数値化して示す事はしていない。しかし、県教委は、2005年の少子化ボトムの時期には、現行182校(県立166校)の公立高校は80%の学校数で充足するため、県立高校の量的な見直しが必要と、既に言明をしている。先に述べた「特色づくり」が、人と金の両面から各校の要求に基づいて充足してきたとは言えず、今後の保障もないことを考えれば、県教委が、予算をかけない多様化を手段として、経済効率の面からの統廃合を行なうプランを、将来構想検本報告後に打ち出してくることは十分に予想できる。将来構想検への諮問事項である「県立高校の適正な規模及び配置に関すること」、「県立高校の教育内容の充実に関すること」、「その他上記に関連する県立高校の将来のあり方に関すること」は、そうした教育予算の削減を意識したものであることは疑いない。これは、高校教育の質的な低下につながるものである。「III これからの県立高校のあり方」の中で、「多様な選択やきめ細かな指導などさまざまな教育活動が展開できる規模」、「多様な個性のふれあいの場を保障することができる規模」(P17)の確保のために、また、「学校の活力の低下」、「教員配置数の減」、「学校運営に支障」、「部活動等への影響」(同)が生じることを防ぐために、「一定の学校規模の確保」(同)が必要として、単位制普通科・総合学科・普通科専門コース・学校連携の「特色ある高校」を地域ごとに配置した「再編整備」を説いているのは、ここに直結する。
 また、直接に教育予算の削減を図ると読む事のできる部分もある。定時制・通信制における「実務代替、大学入学資格検定合格科目の単位認定、技能連携」及びそれらを前提とせざるを得ない「修業年限の弾力化(=3年卒業制の導入)」(P.13)、「学校間連携と課程間連携」や「実用英語技能検定などの技能審査の成果」「ボランティア活動、大学における単位取得、各種学校・公開講座における学習など体験活動等の成果」の単位認定という「自宅以外での学習成果の単位認定」(P.14〜15)、「企業での体験学習の機会を拡大したり、大学の授業に参加したりする」ことの積極的な検討や「保護者、地域の人々や団体、企業等がボランティアとして学校をサポートするような活動(学校支援ボランティア)」といった「学校教育における地域・社会との連携・交流」(P19)が、それである。これらに対しては、「開かれた高校」としてではなく、高校教育の「外注」として機能する危惧を感ずる。特に、「学校支援ボランティア」のサポーターに「保護者、地域の人々」はともかくも「団体、企業」までが想定されているのは、それが特定校種にのみ導入され、校種間格差と連動した時、高校教育が社会的階層の仕分けを現在よりも露骨に行なうこととなる危険性がある。


まず学級定員減を検討すべきである


 少子化時代の到来は、教育現場にとっては、きめ細かな指導が行なえる絶好期である。教育病理の解消は、一朝一夕に達成できるものではない。極彩色のアドバルーンに追従するのではなく、一歩一歩、私たちの教育政策の根幹である「希望者全入」「高校間格差是正」「地域に根ざした高校づくり」に沿って、その解消を図っていくべきである。そのための第一歩として、まず、学級定員減の追求をしなくてはならない。
 本年(98年)4月に、長野県小海町の二つの町立小学校が、町教委の独自予算で行なった19〜18人の少人数学級が話題になった。保護者の反応も上々であったという事だが、定数法を背景に、長野県教委は「教育の機会均等、公平性の観点から是認しがたい」という不可解な方針を示して、学級統合を強要した。しかし、小海町は、学級を一つに統合して、科目に応じて授業を二つに分けるチームティーチング(複数指導方式)を導入して、実質的に少人数学級に近い形を確保した。(『朝日』98.4.10)この名を捨てて実をとる方式は、マスコミでも好評であった。
 神奈川県も、多様化・統廃合以前に、こうした地方自治体としての工夫を検討しなければならないのではないか30人学級、当面35人学級を目指さなくてはならない。教育には予算をかけるべきである事を、必ず県民も支持をするはずである。
 『中間まとめ』の中にも、「学級定員を段階的に少なくしていくことが望ましい。」(P.17)との指摘がある。だが、どうやって「算定基礎として」の「当面1学級40人」(同)を変えていくかには、何ら触れられていない。40人学級を堅持している以上は、学級定員減の指摘は、アリバイ的な言い訳としか読めない
 高校多様化と高校統廃合の派手なアドバルーンばかりが目立つのは、まことに遺憾である。


〔2〕「高校フォーラム神奈川 '98 将来の県立高校を考える」

 『中間まとめ』の発表後に、将来構想検は、県民からの意見の直接採集の場面として、「高校フォーラム神奈川 '98 将来の県立高校を考える」を横浜・厚木・平塚の3会場で開催をしている。県教委より、県立高各校に、生徒会役員あたりの生徒を引率してのフォーラムへの参加が「指示」されたとも聞いている。
 高総検は、この全会場に委員を派遣し、サンプリングとして、98年6月6日の桜木町の横浜市社会福祉センターホールにおけるフォーラムの、会場での意見のすべてを、発言内容を要約し、発言順に記載して、『高総検レポートNo.36「県民の声」』(98.7.8)として報告をした。
 ここでは、それを『中間まとめ』の記載にしたがって整理し直した、高総検全体会(98.7.6)の資料を掲載したい。『中間まとめ』に対する批判的意見、賛同的意見、その他の意見を、区分して記してあるので、現在進行中の再編計画において、県教委が、県民の意思の何を保留し、何を無視しているかが、明確になることと思う。
 高総検は、『レポート』の末尾で、以下のように、将来構想検に訴えた。

 会場の意見、特に挙手による意見の中(フォーラムは、将来構想検の指名による意見表明、会場の挙手による意見表明、の二本立ての構成であった。)には、『中間まとめ』に対する批判が多数存在している。高校統廃合・高校多様化に対する疑問、学級定数減に対する消極性、学校間格差是・入選再改革・学区縮小に対する視点の欠如などの批判を、将来構想検は、本報告へ向けの討議の中で、ぜひとも生かしてほしいと切望する。

 『中間まとめ』と『将来構想検答申』との間にはほとんど差異はなかったので、将来構想検は、この訴えを無視したわけだが、『県立高校改革推進計画』に基づく現行の再編計画においては、それはどのように進行しているだろうか。
 なお、整理の都合上、同一人の同一時の発言を、重複または分割して記載してある部分がある事を、了解願いたい。発言している人物の区別については、それを記号で明示してある、『高総検レポートNo.36「県民の声」』を参照して頂きたい。

 『中間まとめ』総体
  《批判的意見》
 ○『中間まとめ』には、高校生の意見が取り入れられていない。大人の視点だけで、高校改革を進めるべきではない。〈県立高校生徒〉
 ○「底辺校」を「課題集中校」と呼び、「職業高校」を「専門高校」と言うような、言葉の入れ替えでは、生徒はプライドを持つことはできない。〈県民(100校計画推進運動経験者)〉
 ○小中の教育制度から問題があり、高校の改革だけでは不十分である。〈県民〉
 ○『中間まとめ』に、予算がかかる部分の話で出てきていないのはフェアではない。〈県民(中小企業経営者)〉
 ○文部省には、高校普通科を20%に削減する(普通科20%・専門高校20%・総合学科60%にする)方針がある。将来構想検は、先に決まっていることに沿って討議をしているのではないか。〈保護者〉

 高校多様化総体(「I 県立高校の果たすべき役割、3 これからの果たすべき役割」)
  《批判的意見》
 ○高校を画一化してきた人達が、今になって、高校多様化によって特色や個性を強調するのはおかしい。〈県立高校生徒〉
 ○すべての生徒のニーズにこたえられるような高校の多様化など不可能である。多様化は、生徒の合理的な振り分けとして機能するだけであり、疑問である。〈県立高校教員〉
 ○学校の多様化ではなく、学校内で、多様なことができるような方向の改革を推進するべきである。〈県立高校教員〉
  《賛同的意見》
 ○偏差値からは逃れられず、高校は上下に分離するので、下を多様化すべきである。〈塾経営者〉
 ○単線系の学制が学校間格差を生んでいる。〈県立高校教員〉
 ○単位制・コース制設置や総合学科増設をするべきである。〈県立高校教員〉

 「他者の尊重」(「II 今後の高校教育に求められるもの」) 
  《賛同的意見》
 ○個性を伸ばすためには異質な存在を受け入れる考えを広める必要がある。いじめなどの現在の高校生の排他的な風潮は解消されなくてはならない。〈県立高校生徒〉

 特色づくり・入選改革・学校間格差(「III これからの県立高校のあり方、1 多様で柔軟な高校育の展開」)
  《批判的意見》
 ○「III これからの県立高校のあり方」にある、「生徒が自らの興味・関心、能力や適性、進路希望等に応じて、主体的に学校選択し、目的意識をもって学ぶことができるよう特色ある高校づくりが進められてきた。」という分析は嘘であり、特色ある学校づくりはまやかしである。「各高校の特色が明確なものになり、生徒がさまざまな観点から高校を選ぶようになることによって、高校間の序列意識の変革が促される。」と本当に考えているとしたら、あまりにも認識が甘い。「特色づくり」と「入選改革」に対する分析は、まったく現実に即していない。学校間格差は何ら解消されていない。入選制度改革を再度検討する必要がある。〈保護者〉
 ○進路指導イコールどの高校に入れるかの進学指導である、中学進路指導の目から見た総括がない。 〈小学校教員(浜教組組合員)〉
 ○入選改革における「入りたい学校」の姿が鮮明でない。進学希望校は、結局高校の序列に左右されており、生徒の学校選択が第一義にはならない。〈小学校教員(浜教組組合員)〉
 ○高校入試は廃止するべきである。適格者主義を排して、全入をするべきであり、地域の高校への入学ができる制度を追求するべきである。養護学校からは、高校における適格者主義の支配が、統合教育が前進していない点に如実に現われているとの指摘がある。〈小学校教員(浜教組組合員)〉
 ○高校多様化によって序列化が防げるのかは疑問である。点数序列化が超えられるとは考えられない。入試制度の改革を追求するべきである。特に、1も5も7%である、中学内申書の相対評価は問題である。私の知っている美術の中学教員は、自分の生徒にどうやって1を付けるか大変に悩んでいた。1が付けば、93%の全日制からは見離されることとなってしまう。〈県民(100校計画推進運動経験者)〉

 単位制(「III これからの県立高校のあり方、1 多様で柔軟な高校教育の展開、A 多様な教育の提供、
    ア 新しいタイプの高校の拡大、(ア) 単位制による普通科高校の拡大」)
  《批判的意見》
 ○単位制にはデメリットもある。単位制の利点を積極的に活用できない生徒も存在すること、とりやすい科目に選択が集中する傾向がある事、学力差が拡大して中退者が増加する事、また、進学校化する傾向がある事、がそれである。〈塾経営者〉
 ○単位制は、生徒が、自分のやりたくない教科を置き去りにして、自分のできない部分を無視し続けることになってしまう制度である。単位制高校を増やすことには、同意できない。〈県立高校生徒〉
 ○単位制の実践例として、神奈川総合高校に対する評価があるのであろうが、神奈川総合高校は、手厚く保護されている特別な学校であり、すべての高校で同様の実践ができるわけではない。〈県立高校定時制 教員〉
 ○単位制は、高校生活を授業の側面からしかとらえておらず、学校行事・部活・HRなどの生徒の生活の場に対する視点がまったくない。生徒相互の交流や人間関係が希薄になる。〈県立高校定時制教員〉

 総合学科(「III これからの県立高校のあり方、1 多様で柔軟な高校教育の展開、A 多様な教育の提供、 ア 新しいタイプの高校の拡大、(イ) 総合学科の設置・拡大」)
  《批判的意見》
 ○総合制は、すべての高校にとって必要な制度であって、一部に特定の総合学科を作ればよいというものではない。〈県立高校定時制教員〉
  《その他の意見》
 ○地域の高校に全入できるならば、総合学科・専門コース制には期待をしている。〈小学校教員(浜教組組合員)〉

 単位制専門学科(「III これからの県立高校のあり方、1 多様で柔軟な高校教育の展開 A多様な教育の提供、ア新しいタイプの高校の拡大、(ウ) 新たな専門学科の設置」)
  《賛同的意見》
 ○多様化としては、単位制専門学科が有効であり、福祉・看護・産業技術・調理などの専門学科を置くべきである。〈塾経営者〉

 専門コース制(「III これからの県立高校のあり方、1 多様で柔軟な高校教育の展開、A 多様な教育の提供、イ 普通科高校の特色づくり、(ウ)普通科におけ専門コースの充実・改善」)
  《賛同的意見》
 ○私の前任校では、課題研究授業の実践があり、学習内容の定着に著しい効果をあげている。コース制にはこう した実践の発展的な意義がある。〈県立高校教員〉
 ○私の高校は課題集中校といわれる学校であり、1日6時間の授業が堪え難い生徒が多く在籍している。個人個人にあった学習ができ、社会に出て役に立つ学習ができるような、コース制を多く設置してほしい。〈県立高校生徒〉
 ○専門コース制は、個性が生かせるので賛同する。が、後戻りができない制度であるので、1校内にコースを複数設置して、転編入を柔軟に行なうべきである。また、オープンキャンパスなどによって、入学前に学校の内容が分かるようにするべきである。コースの中で自由選択を幅広く持つべきだが、知識の偏りをさけるために、必須科目は残しておく必要がある。〈県立高校生徒〉
  《その他の意見》
 ○地域の高校に全入できるならば、総合学科・専門コース制には期待をしている。〈小学校教員(浜教組組合員)〉

 単位制の弾力的運用(「III これからの県立高校のあり方、1 多様で柔軟な高校教育の展開、B 柔軟なシステムの実現、イ 単位制の趣旨を生かした学年制の運用」)
  《賛同的意見》
 ○単位制の弾力化のために、修得要件を半年単位とした二期制を導入することも有効である。〈県立高校教員〉

 転編入の弾力化(「III これからの県立高校のあり方、1 多様で柔軟な高校教育の展開 B 柔軟システムの実現、オ 転入学・編入学の弾力化」) 
  《賛同的意見》
 ○多様化をしても不適応の生徒は存在する。そのために、学校間連携・課程間連携を推進し、進路変更のための転編入制度を充実するべきである。〈県立高校教員〉
 ○専門コース制は、個性が生かせるので賛同する。が、後戻りができない制度であるので、1校内にコースを複数設置して、転編入を柔軟に行なうべきである。〈県立高校生徒〉 

 中高一貫教育(「III これからの県立高校のあり方、1 多様で柔軟な高校教育の展開、C 中高一貫教育について」《書き方は慎重》)
  《批判的意見》
 ○飛び級制度・中高一貫校はエリート養成のシステムとなる危険性がある。〈小学校教員(浜教組組合員)〉
 ○中高一貫制を入れるのであれば、全校に導入するべきである。そのためにも、学区の縮小が必要である。〈県民〉
 ○中高一貫校を導入するならば、高校全入の方向を目指して行なうべきである。〈保護者〉
  《賛同的意見》
 ○中高一貫校の導入が、高校の序列化を解消し、閉塞状況を打破する。中高一貫校を多数設置すれば、入試を廃止した高校全入の方向に近付くし、中高の連携によって余裕を持った指導ができる。〈県立高校教員〉

 高校統廃合(「III これからの県立高校のあり方、2 生徒数の動向を展望した適正規模と適正配置、B 高校の適正規模」)
  《批判的意見》
 ○私の高校は、そのランキング・校風が社会的に浸透しており、高校統廃合の対象となることは困難である。他校 においてもそれは同様であり、統廃合の視点を排し、高校数は減らさずに改革を行なうべきである。〈県立高校生  徒〉
 ○少子化イコール統廃合という考え方は疑問である。1学年3クラスの品川の中学を訪問したことがあるが、落ち着いた雰囲気のよい学校であった。〈県民〉
 ○『中間まとめ』の理念を実現するには、財政的条件整備が大前提となる。教職員定数削減の容認、先に統廃合ありという考え方はおかしい。〈小学校教員(浜教組組合員)〉
 ○「中間まとめ」の40人学級を算定基礎とした、高校統廃合には賛成できない。東京では、行政ベースの「40校削る」キャンペーンが行なわれているが、30人学級で算定すると、3校不足する計算となる。〈保護者〉
 ○全日制進学希望者は、全員全日制に入学させるべきである。現在2%がそれを実現できないでいる。そのために、計画進学率の引き上げが急務である。この現状を放置したままでの、高校統廃合は納得がいかない。〈県立  高校定時制教員〉
 ○学区の縮小によって、統廃合問題にも結論が出る。地域状況によって判断するべきであり、画一的に行なうべきではない。〈県民〉
  《賛同的意見》
 ○地方税を使っている以上は、不況の現状からは、コストダウンを図るのは当然である。そのために、高校統廃合をダイナミックに推進するべきである。〈県民(中小企業経営者)〉

 学級定員数(「III これからの県立高校のあり方、2 生徒数の動向を展望した適正規模と適正配置、B 高校の適正規模、ア 学級定員」《「算定基礎」を「当面1学級40人」としているが、「学級定員を段階的に少なくしていくことが望ましい」との記述もある》)
  《批判的意見》
 ○高校統廃合の必要性は疑問である。8クラス規模でさえも、相当数の高校が廃校となってしまう。『中間まとめ』の規模数量化の根拠は不明確である。高校統廃合よりも、外国に比べて劣悪な学級定員を、減少させる方向  を追求するべきである。〈県民(100校計画推進運動経験者)〉
 ○40人学級を見直すべきである。欧米は30人以下であり、特に、アメリカは18人以下学級を目指している。日本でも、厚木・池子の米軍基地内の学校は、現在25人以下学級である。しかもその学校は日本の税金で建てられている。〈県民〉
 ○外国と比較して、学級定員があまりにも多い。30人学級の達成を目指すべきである。〈保護者〉
 ○35人学級を即時導入するべきである。定時制は、「小さな学校」であり、密な指導が達成されている。ハンディのある生徒にも、十分な対応ができている。〈県立高校定時制教員〉
 ○将来構想検は、財政的現状から、教員定数減を図り、学級定数減を検討していないのではないか。神奈川県独自の改革を検討するべきであり、それを鮮明に打ち出すべきである。〈保護者〉
 ○県教委は、やることが既に決まっている。私は、かつて野村前教育長に質問をする機会があった。「クラスが余っているのになぜ募集定員を減らすのか。」との質問に、「私には答えられない。」と回答した。「他県で実践があるの  に、なぜ30人学級を目指した学級定数減の努力ができないのか。」との質問には、「国で決まっているからできない。」と答えた。県教委は、こういうスタンスで物事を進めていく。県民が何を言っても、こういうフォーラムを開いても、何もならないのではないか。〈保護者〉

 学区(「III これからの県立高校のあり方、2 生徒数の動向を展望した適正規模と適正配置、
   C 特色を生かした適正配置」《「隣接学区」の「検討」》)
  《批判的意見》
 ○地域に根ざした高校を求めるならば、まず、学区の縮小を図るべきである。それによって、輪切り選抜の解消を行なうべきである。〈県民〉
 ○学区の縮小によって輪切り体制の解消を図るべきである。〈県立高校定時制教員〉

 地域に根ざした学校(「III これからの県立高校のあり方、3 地域や社会に『開かれた学校』、
          A 学校教育活動における地域・社会との連携交流」)
  《賛同的意見》
 ○某県立高校の、老人会と連携した組織的ボランティア活動は、郷土料理教室の実践などもあって、PTA・生徒・老人会が一体となった地域学習としても機能している。このような「開かれた高校」を追求するべきであり、地域  コミュニティ活動の展開を拡大するべきである。〈保護者〉
 ○中学では、老人ホーム訪問などの、地域との関わりを持った学校行事がたくさんあったが、高校にはそうした地域との結びつきがない。〈県立高校生徒〉
 ○中・高の生徒同士の関わりがあまりにもない。地域との連携はまずそこから始めるべきである。〈県立高校生徒〉
 ○高校間の生徒同士の関わりもまたあまりにも少ない。高校生集会などの実践をするべきである。〈県立高校生徒〉
  《その他の意見》
 ○地域に根ざした高校というならば、教員は学区内の地域に居住するべきである。〈県民〉

 施設・設備(「IV 将来構想の推進にあたって、2 行政に期待するもの、B 中長期的な展望に立った改築・改修を含めた施設・設備」)
  《賛同的意見》
 ○施設設備の充実が急務である。現状は、ひどすぎる。〈県民〉

 教員の資質(「IV 将来構想の推進にあたって、2 行政に期待するもの、C 教職員の資質向上」)
  《その他の意見》
 ○養護学校の生徒にも目を向けるべきである。教員は校種間異動をすべきである。〈県民〉
 ○教員のリストラを推進すべきである。それが、教員に対する自浄作用を促すことともなる。〈県民(中小企業経営者)〉

 その他
  【「子どもの権利条約」に関連すること】
 ○卒業式・入学式で生徒会が活躍した、所沢高校は注目すべきであり、教員と生徒は対等の立場に立たなくてはならない。独仏では設置が通常化している、校内最高議決機関としての生徒・職員連絡協議会を、日本でも実践するべきである。〈県立高校生徒〉
 ○生徒・職員連絡協議会の意見に同意する。浜教組では、こどもの権利条約に根ざした学校を目指して、こども協議会設置の運動を推進している。しかし、厚い壁があるのが現状である。〈小学校教員(浜教組組合員)〉
 ○生徒が教員を評価するシステムがあってしかるべきである。私の高校では、生徒が教員に対して「連絡票」を渡す活動を、年に1回行なっている。〈県立高校生徒〉 
  【保護者の教育行政参加に関連すること】
 ○父親も、こうしたフォーラムやPTA活動など、教育問題に直接参加する姿勢を持つべきである。〈県民〉
  【競争原理導入に関連すること】
 ○現実の社会は競争社会である。そこに目を向けずに、自由の意味をはきちがえている生徒にも教員にも問題がある。〈県民〉


2.各論批判

 『中間まとめ』の総論批判をもとに、先のフォーラムの分析などから、高総検は、『中間まとめ』・『将来構想検答申』に対する批判・分析を、教育条件整備(=30人以下学級実現の視点)、単位制、の2点に絞って行なうこととし、『高総検レポート「『中間まとめ』を読む」』をシリーズ化して、現場に連続的に提供をした。
 これらは、『県立高校改革推進計画』進行中の今現在でも、根本理念として有用と考える。
 以下、これらの各論批判の『レポート』を、再録する。

〔1〕各論批判I・教育条件整備(=30人以下学級実現の視点)


高総検レポートNo.37
1998年8月11日発行


 シリーズ  県立高校将来構想検討協議会「これからの県立高校のあり方について(協議経過の中間まとめ)」を読む  第4回


クラスを人間的サイズに



  学級規模の縮小は先送りに
 『中間まとめ』は、「現状と課題」の部で、「生徒の多様化」という項を立て、「意欲をもって学習や部活動等に取り組む生徒がいる一方で、一部には目的意識や学習意欲に欠け、中途退学に至る生徒がいる実情もある。また、いじめや不登校、薬物乱用、性の逸脱行為なども深刻な状況にあるといえる。」という現状認識を示している(P.5)。しかし、それらをもたらしている原因がどこにあるかの分析はまったくなく、いきなり天下り式に 次のような文部省直伝の全国一律“特色ある"高校づくりを持ち出す。

 「今後も、県立高校においては、意欲と希望をもって高校ヘの進学を望む子どもたちに幅広い進学の機会を確保するよう努めるとともに、これまで以上に、社会の変化や生徒の多様化に、きめ細かく対応する教育を展開していく…」。(すなわち)「生徒の学校選択の幅を広げ、様々な選択肢の中から、自らの興味・関心や進路希望等に適した学習内容を選択できるよう、弾力的な教育課程の編成など、特色ある高校づくりを一層推進し、県立高校の多様化を図るとともに、柔軟な学びのシステムを実現する必要がある」。

 そして、「子どもたちが、望ましい環境の中で一人ひとりの個性を生かすことができる教育を受けられるよう、県立高校の規模、配置の適正化を図るとともに、教育環境や教育条件の一層の整備・充実を図る必要がある」と形ばかりに付け加えるのだが、強調されるのは、「生徒数の動向を展望した適正規模と適正配置」(P.16〜20)、つまり高校のリストラと「多様化」ばかりで、教育行政の固有の責務(教育基本法第10条)とされている「教育環境や教育条件の一層の整備・充実」について、独立した項目も設けていない。わずかに、「再配置を踏まえた施設設備の整備」の項(P.18)で、「多様化」と高校の再編成・統廃合などを条件にした物質的条件の整備が触れられているのみである。
 また、「教育環境や教育条件の整備・充実」で最も肝心の学級定員についても、その改善を無限定な将来の課題に棚上げしつつ、「国の動向など諸般の事情を勘案して」と中身のない官僚の常套句を前置きし、 「当面1学級40人とする」とためらうことなく断定している(P.17)。ちなみに、同じ箇所に、「学級定員を授業展開上の人数と必ずしも連動させる必要はなく」(学級定員自体の改善が行われなくても、「多様化」上のレッスン・クラスの編成やチーム・テイーチングなどで対応できる)という意味合いの表現があるが、言うまでもなく、現行法制では、各課程の生徒数に応して学級数が決められ、それに応じて教職員数が算出される仕組みになっており、学級定員の改善がなければ、原則として、教職員定数の改善もなされない。従って、どのようなレッスン・クラスを完成したとしても、学級定員の改善がなければ、基本的に、教職員の労働強化なしには、教育条件がよくなることはない。『中間まとめ』はこのことに無知なのか、ごまかそうとしているのか。
 ともあれ、人的・物的な教育条件の改革・改善を通して今日の子どもと学校教育をめぐる深刻な危機の打開を図る、という考えはあらかじめ排除されているということだけは、『中間まとめ』全体からはっきり読み取ることができる。

  待ったなしのダウンサイジング

 学級規模の縮小は、教育行政に対する教職員の長年の中心的な要求項目である。だが、教育・福祉分野ヘの一貫した低予算配分政策のもとで、それは遅々として進んでいない。また、この間題について幅広い世論の理解を得ることにも、教職員はあまり成功していない。
 江戸時代以来、日本人の教育観には儒教的な精神主義が深く浸透しているが、国民皆学の学校制度が創設されてさほど年月を経ない明治中期に、富国強兵政策のため教育財源がさらに圧縮され、「非常に厳しい環境のなかで苦労しながら勉強をし立身出世してゆく(『苦学』)という学習(観)が、(政府によって)かなり意図的に持ち込まれた」(喜多明人「学校施設の日本の特殊性」『教育』1990年11月号)。「蛍の光・窓の雪(明かりで)文読む月日重ねつつ…」また、人を教え導くという尊い営みに待遇・報酬を間わずよろしく献身すべしとする教師=聖職者観も同じ時期に定着する(聖職論の内実は、待遇を問わず献身するという部分にある)。国民の頭に刷り込まれた、この固定観念は大正を経て昭和の大戦後にも生き残る。「我が国の学校の建物がなぜ美しくないかという理由は、金の間題というよりは、むしろ教育に対する考え方の問題である場合が多い。すなわち不自由な環境のもとにあるほど教育の効果が上がるという考え方が支配的であった」(喜多、前掲書)。このような「考え方」は、根っこのところでは、現在も変わっていない。たとえば、公共施設の建築単価のうちでー番低いのが学校のそれである。学級定員・教職員定数の改善(第7次義務教育諸学校・第6次高校教職員定数改善計画)についても――もともと不充分な改善内容なのだが、それでさえ――99年度実施の予定が先送りにされている。
 しかし、昨今、学校でのイジメの蔓延やイジメが原因の自殺の増加、不登校の激増、少年の凶悪な暴カ犯罪や女生徒の「性非行」の増加、「学級崩壊」にも至る「新しい荒れ」の発生・拡大など、小・中・高校の別を問わない学校内外の混迷と困難の増大が学校の内部努カの限界を超えるような程度に達するに及んで、テレビ番組や新聞の記事・論説・投書などにも、盛んに教育間題が取り上げられるようになり、ときには教育条件の改善の必要も説かれるようになっている。
 「経済の発展と引き換えに子どもたちの生活から奪ったものも多い。もうけた金の半分くらいは子どもの本当の教育のために返したらどうか…」(『朝日新聞』98.6.8)  「クラス定員を減らすには、先生の人件費などで大きな費用がかかるのは事実だ。(しかし)子どもたちが健やかに成長できるかどうかは、国の将来がかかった間題である。にもかかわらず政府は、銀行の救済などに何十兆円も投入しようとしている。歯がゆい」(『朝日』98.4.5)

 将来構想検は、『中間まとめ』を見るかぎり、現に子どもと学校がかかえている問題を脇に置き、中央の方針に従って、「新しい多様化」をテコとした高校の統廃合・再編成にもっとも力を入れているようである。しかし、もし「子どもたちの健やかな成長は国の将来がかかった問題」という認識に異論がないのであれば、そして神奈川の高校教育の今後に対して基本的な責任を負うと考えるのであれば、子どもたちの成長・発達の危機の極まりつつある今日、高校間格差・受験競争の解消と並んでもっとも緊急に解決が求められている問題、教育条件の整備・充実、とくにその基礎的課題である学級定員・教職員定数の抜本的改善に向け、「国の動向など諸般の事情」を乗り越えて、真剣に精力的に取り組むべきではないか。

  日本は後進国なのだ

 [表1]は世界各国の学級編成の基準を示している。これによると、欧米では1学級20人から30人が主流である。一例として、日本と同じ第2次世界大戦の敗戦国、ドイツの場合を具体的に見てみよう。


 たとえば私が訪れたボンやフランクフルトや西べルリンの、小学校から高校まで一クラスは二十五人学級であった(西ドイツでは州により学校によりいくらかの相違があるが、傾向的には、ほぼ同じだという)。実際の子どもの数は十八からせいぜい二十三くらいまで。しかし、一人ひとりが 個性的でのびのびとしているクラスのふんいきは、日本の四十人や五十人学級よりも、さらに大きなエネルギーであふれかえっている。管理せずに彼らを魅きつけるだけの力を持った教師でなければクラスをまとめていくことはできないという。
 数学や英語の時間には、教師が二人になるから、一人一人の子どもの座席を巡回する教師は、個人教授と同じように、わからない子、質問のある子の横で、一対一の問答形式で子ども自身に解答をみつけさせている。わからないのは私という空気はまったくなくて、大いばりで手をあげて「わからない」と申し出る。やっと今日わからせても、翌日はまた「わからない」と手をあげる子が多いのだが、教師は辛抱づよく納得いくまで相手になっている。
【暉峻淑子『豊かさとは何か』岩波新書、1989年】
 また、アメリカでは、今年(98年)1月に、クリントン大統領が「教員10万人を新たに採用し、(小学)1年〜3年の学級親模を平均18人に縮小する」と議会で宣言している。
 1991年に、日本でやっと40人学級の編成が完了したとき(45人から40人ヘの法改正そのものは80年度に行われたが、11年間実施をサボっていた)、欧米ではすでに30人の水準に達していた。しかし、我が国の後進性は、その後も放置されたままである。ドイツと同様、焦土から復興に努めた日本国の経済力は今や世界第2位のGDPを誇るまでになった。しかし、その富は、それを営々として築き上げてきた国民全体の福祉の向上にも、新しい世代の教育にも、その価値にふさわしい比率で配分されてはいない。これは、日本の民主主義――制度と国民の意識――の未成熟の問題でもある。

  小さな学級で大きな効果

 ケニヤのナイロビのイギリス系小学校の女性教師は言う。「教育に責任を持てるのは25人までですね。それを超したら教育ではなくなる。管理になってしまいます。」(『朝日』98.4.5)。
 小さな学級にはどんなメリットがあるのか。
 アメリカでは学級規模と学習効果の研究がさかんで、コロラド大学のグラス、スミス両教授が発表した「グラス・スミス曲線」が有名だ。
 [図1]は、1979年にそれまでの50年間に発表された学力と学級規模の関係に関する論文、約300を、メタ・アナリシスという推理統計学の分析法によって処理し、両者の相関関係を定式化したものだということである。
 この曲線を見ると、40人から30人の間では学力は50点程度に停滞的であるが、30人をきる頃からしだいに曲線は急勾配となり、20人では55点、15人では58点、10人では約65点、5人で約75点となった。きわめて単純な要素だけを取り上げたグラフで反論もあると言われるが、学級規模が小さくなると、学習効果が増すことは現場の経験によっても認められるところである。

 [図1]と関連して、[図2]の曲線にも注目したい。
 これは、教師の一日の授業時間=指導時間を200分とした場合の「子ども一人当たりの教師の指導時間」(Y)と学級規模(X)の関係を示したもので、その式はY=200/Xで、両方の図はほとんど相似形で一致する。学級規模が小さくなるにつれて、子ども一人当たりの教師の指導時間が増え、学力が向上するものと考えられる。
 「学級規模が小さくなり、一人の先生の教える子どもの数が少なくなるほど、授業内外での個別指導時間は増え、一斉授業にたいする子どもの理解度に応じたきめ細かい個別指導が可能となる。そうなれば、授業ヘの関心も高まり、“落ちこぼし”もなくなり、理解力のある子どもはさらに深い知識を学び、どの子の学力もさらに伸びるはずである」(三輪定宣「学級・学校規模と教育効果」『教育』90年11月号)。このことは、現場の小学校教員の経験からも裏付けられる。「25人の教室なら、子どもたち全員に目が届きやすい。一対一で子どもと向き合う時間も増やせる。35人を超えると、教壇から見て視野に入りにくい子が出る」(『朝日』98.6.8)。小さな学級は、また、一斉授業でないかたちの学習もさせやすくなる。実験・実習・スポーツ実技や芸術などの指導の際も個別に時間がかけられるようになる。障害のある子や特別の問題をかかえた子などへの対応にも余裕がうまれる。子どもたちの人間関係や―人ひとりの個性の把握も比較的容易になる。
 人間が精神的安定を保つには、各自が一定の空間を確保することが通常必要で、逆に、閉塞状況での過密状態はそれだけでも心理的抑圧と暴発の要因になる。物理的空間的余裕は、心理的余裕の必要条件である。学級のダウン・サイジングによって、子どもどうしの接触の機会も増え、相互理解がすすみ、誤解・曲解・先入観・偏見などから生じる摩擦・対立も少なくなり、争いを暴力でなく言葉で解決することができるようになる下地がつくられる。また、クラス全体になごやかな雰囲気が醸しだされ、しばしばクラスの結束力も強くなる。
 学級定員減は、教育条件の向上であるばかりでなく、いわゆる「過員」問題を発展的に解消する手だてにもなる。また、新たな教員需要(雇用)を産みだし、それによって、新採用の削減や停止によって世代バランスが崩れつつある高校教職員の平均年齢の上昇を緩和することもできる。

  やる気になればできる

 日本で学級規模を欧米並みに30人以下にすることは、けっして実現不可能な夢物語ではない。中学卒業生の数が滅少に転じて以来、たびたびその実現可能性が論じられてきている。夢物語どころか、子どもの数が幸か不幸かどんどん減っている現代は、大きな出費なしに学級規模の縮小を実現できる絶好期なのである。千葉大学の三輪定宣教授(教育行政学)は、つぎのような学級規模縮小の具体的な手順を提案している。        

  1. 教育を国の最優先課題と位置づけ、行革などによる予算削減の対象とはしない。
  2. チーム・ティーチング方式の導入というやり方ではなく、学級定員そのものの削滅をする。
  3. 現行の基準で少子化に合わせて教員定数を減らし続けるのをやめ、30人学級が可能になる教員数を維持する。など(『朝日』98.6.8)
 今年4月、ひとつの象徴的な「事件」が報道された。長野県小海町の二つの小学校が、1学級の定員を40人とする国の規則ではきめ細かな教育ができないと、今年度から、19人と18人の構成の「小人数」学級を始めた。町が独自に予算を組み、町職員として教諭2人を補充した。父母たちの反応は上々であった。ところが、長野県教委から、国が定める「学級編成及び教職員定数の標準」に違反しており、そもそも学級編成は都道府県教委の権限である等という理由で、待ったがかかった。「教育の機会均等、公平性の観点から是認しがたい」という理由も付け加えられた。県が文部省にお伺いを立てたことは文部省財務課コメント(『朝日』98.4.11)からもうかがえる。
 小海町は強く反発したが、結局、学級を1つに組み直し、科目に応じてチーム・ティーチングの形をとるということで妥協させられた。このとき国が考えたのは恐らくこういうことだろう。1つ認めたら、全国に広がる。管理統制をゆるめたら国の権威がなし崩しにされる。一般化すれば予算も付けなければならなくなるだろう。しかし、教育などに予算を回したくはない。県に押さえ込ませよう。
 この問題の抜本的解決は、三輪氏も指摘するように、次代を背負う子どもたちの教育を行政のプライオリティの最上位に置くかどうかの選択にかかっている。従来行政が常用してきた「財政上の理由」は、もはや通用しない。銀行やゼネコンなど大企業の支援・救済には巨額の税金をつぎこんでも、子どもたちの教育には税金はつかえない、とは言わせまい。安保条約上の義務はないのに「思いやり」で在日米軍に多額の税金を提供し、その子女には施設・設備をはじめゆとりのある教育条件・環境を整備してやり、小人数クラス編成を保障してあげても、自国の子どもたちにはしない、とは言わせまい。
 文部省も一枚岩ではないようだ。小海町の件では、「財政措置ができるなら、自治体独自の判断は認められる。当省はコメントする立場にない」というコメントがあった(『朝日』98.4.11)。また、省内には、「学級人数の削減が可能になるように国民の合意を目指すべきだ」「地方分権の流れから、国は財政援助だけを行い、学級規模は各自治体に任せた方がいいのではないか」等の意見もあるという(『朝日』98.6.8)。
 「団塊の世代」の孫世代が学齢期に達する2010年ごろ、再び児童数が増加に転じると予測されている。それ以前の減少期になんとしてでも学級規模の縮小を実現する必要がある。そのためには、ひろく強く世論に働きかけ、主権者の共同で教育を最優先課題とする政府・自治体をつくらねばならないだろう。

高総検レポートNo.39
1998年10月9日発行


 シリーズ  県立高校将来構想検討協議会「これからの県立高校のあり方について(協議経過の中間まとめ)」を読む  第5回

学級定員減が先だ

――統廃合は、いらない――


1.シミュレーションしてみよう(はじめに)

 『中間まとめ』では、「各高校の適正な規模の確保と特色ある高校の適正な配置を図るため、再編成・統廃合を含めた再編整備を検討する必要がある」*1 とあり、県立高校の 統廃合を狙っています。しかし、本当に、統廃合は必至なのでしょうか。数字を見た検証のないままに、統廃合が既定のことがらのように言われてしまっている現状は問題であると思います。そこで、公立小中学校の在籍生徒数の数字をもとにした、若干のシミュレーションを行ってみることにしました。
  *1 『中間まとめ』「III..これからの県立高校のあり方 2.生徒数の動向を展望した適正配置と適正規模 (P.16)」


2.学級定員を35人に、県内私学を22%にしてみると?

 我々は、この生徒急減期を教育条件整備の絶好機ととらえてきました。今さら言うまでもなく、現在の40人の学級定員は、速やかに減らされるべきです。
 『中間まとめ』は、「将来構想」における「高校の適正規模」について、「当面1学級40人」を算定基礎とした上で「18学級(720人)から24学級(960人)」と人数を明記してまで言い切っています。しかし、この算定基礎は、私たちが教育条件整備の中期的見通しを行うときに用いるべき算定基準ではなかろうと思います。物理的に、改善が可能なのですから。以下に、1学級の定員が今後35人まで減らされたものとして、そして学年あたりのクラス数を現在での普通科校の最低規模である6クラスとして、試算を行います(ここでいう「35人」や「6クラス」は、私たちが適正と考えているという意味ではなく、あくまでも試算基準であり、望ましい学級数や学級定員については別途検討が必要ですが、1クラス40人という教育条件の劣悪さについては、『高総検レポートNo37』〈前項〉参照)。
 また、県内私学への進学率を、公立中学卒業者の22%と見込んでいます*2。ここ数年、県総務室は県内私立へ18,000人、約25%として計画を策定してきていますが*3、実際にはその数値を大きく下回っています。そして、中学3年生の進路希望調査では、公立高校への進学を希望する者の率が、計画値・実績値よりも高率となっています。我々は希望者全入を掲げているのですから、中学生の希望と異なるような、私学へ高率で進学するという見通しで計画をつくっていてはならないでしょう。これによって私学の経営は苦しくなりますが、それはまた別問題で、私学助成の大幅増額などを措置で対処するべきです。同様に、県外私学国公立への進学率は、7%と見込んでいます。
 全日制への進学率は、希望者全入の観点から、公立中学卒業者の96%としています。
  *2 県内私学への進学率(実績値)は、1994年22.0%、1995年22.2%、1996年22.3%、1997年23.7%、1998年22.3%でした。22%というのは実績に基づいた値でもあります。
 *3 そして、それらの数字を引いた残りを公立が引き受けるとして計画を策定するから公立が計画通りに生徒を受け入れても、神奈川県全体の高校進学率が上がらないという関係になっています。


3.中卒者数の動向は

 公立中学校の卒業者は、今後ゆるやかに減少して行き、2006年あたりが最低人数、いわゆるボトムになると推定されています。もちろん、減少の様子は学区によって異なっています。ボトムとなる年度、また減少の急激さ、ピーク時に対する割合などです。以下の表(表1〜表6)に、ピーク時(1988年)実績数、現在(1998年)数、ボトム時(2006年)予想人数を、県全体といくつかの学区について載せてあります。ボトム時の予想人数は、現在の公立小学校1年の在籍生徒数がそのまま公立中学校卒業者数となるとしたときのものです。


4.学級数試算
[表1]に、県全体の数字をまとめました。 [表1] 県全体の動向
 2.で述べたような仮定を行うと、2006年の
公立普通科第1学年学級数は、1,052クラス
となります。これは1988年のピーク時に比べて、
531クラスの減(66.4%)ですが、1998年現在
すでに1,091クラス(68.9%)となっており、現在の
クラス数から見ればさほどの減少ではありません。
全県的に見れば、どの学校も、現在での普通
科校の最低規模である6クラス程度以上を
維持した上で、その存在が必要とされている、
ということです。
年度生1988199820052006
中卒者数(人)122,167 78,20162,93962,673
全日制進学者(人)
全日制進学率(%)
110,550
 90.5
71,867
 91.9
60,417
 96.0
60,168
 96.0
県内私立(人)
県内私学率(%)
20,599
 18.6
16,022
 22.3
13,292
 22.0
13,237
 22.0
公立普通科入学定員(人)74,60444,12036,98836,811
クラス定員(人)  45  39  35  35
(試算)学級数1,5831,0911,0571,052
 学区によっては、何か対策を講じるべきところもあります。

[表2] 横浜北部学区   [表3] 横浜東部学区
年度生1988199820052006
中卒者数(人)6,2934,5874,6924,815
全日制進学者(人)
全日制進学率(%)
5,910
 93.9
4,228
 92.2
4,521
 96.3
4,639
 96.3
県内私立(人)
県内私学率(%)
1,076
 18.2
 997
 23.6
 824
 18.2
 843
 18.2
公立普通科入学定員(人)3,6982,3772,9062,992
クラス定員(人) 45 39 35 35
(試算)学級数 93 60 83 85








 
年度生1988199820052006
中卒者数(人)8,8015,6154,2514,428
全日制進学者(人)
全日制進学率(%)
7,851
 89.2
5,158
 91.9
4,082
 96.0
4,253
 96.0
県内私立(人)
県内私学率(%)
1,716
21.9
1,413
 27.4
1,172
 28.7
1,168
 27.5
公立普通科入学定員(人)4,762 2,4451,9812,158
クラス定員(人) 45 39 35 35
(試算)学級数 89 63 57 62
(2005年、2006年については、北部から東部へ100名の特例校受け入れを行うと仮定)

 例えば、横浜北部学区[表2]は、社会増により中卒者が増えていて、1クラス35人の私たちの試算では、2000年頃から一部10クラス以上の規模の学校を設定する必要があることになっています。しかし、ここに隣接する横浜東部学区[表3]では中卒者減が著しく、2005年がボトムになって、その年の公立普通科学級数が57と試算されます(この学区には県立市立を含めて公立普通科高校が9校あり、単純に割り算をすれば、一校あたりの学級数は6を切る)。ここで、横浜北部学区から横浜東部学区へ100名程度以上の特例校受け入れを行えば、北部のクラス数を抑える事ができます(東部は全校が6クラスとなる)。
 こうした関係は、川崎北部([表4]―中卒者の減少が少ない)と川崎南部([表5]―中卒者の減少が大きく、また学区内に公立職業高校を3校と総合学科校をもつ)のあいだでも見られます。

[表4] 川崎北部学区   [表5] 川崎南部学区
年度生1988199820052006
中卒者数(人)8,4145,3664,6034,629
全日制進学者(人)
全日制進学率(%)
7,804
 92.8
4,966
 92.6
4,453
 96.7
4,639
 96.8
県内私立(人)
県内私学率(%)
 919
 11.8
753
15.2
 625
14.0
 622
13.9
公立普通科入学定員(人)4,9232,4872,3922,374
クラス定員(人) 45 39 35 35
(試算)学級数 113 64 68 68








 
年度生1988199820052006
中卒者数(人)6,5114,0223,0322,988
全日制進学者(人)
全日制進学率(%)
5,809
 89.2
3,597
 89.4
2,834
 93.5
2,793
 93.5
県内私立(人)
県内私学率(%)
 745
12.8
547
15.2
454
16.0
452
16.2
公立普通科入学定員(人)3,494 1,5931,2381,251
クラス定員(人) 45 39 35 35
(試算)学級数 70 41 35 36
(2005年については100名、2006年については150名の特例校受け入れを、北部から南部へ行なうと仮定)

 [表6] 横浜南部学区
 このような措置を行えば、ほとんどの学区では、
2.で述べた仮定の下では、必要とされない公立
普通科校は現れないという試算になりました。*4



年度生1988199820052006
中卒者数(人)7,4974,6223,2833,413
全日制進学者(人)
全日制進学率(%)
7,135
89.8
4,215
91.2
3,130
95.3
2,997
95.3
県内私立(人)
県内私学率(%)
1,743
24.4
1,235
29.3
1.025
32.7
1.020
34.1
公立普通科入学定員(人)4,798 2,6651,9011,733
クラス定員(人) 45 39 35 35
(試算)学級数 97 64 54 51
[表6]で、2005年、2006年については、100名の特例校受け入れを行なうと仮定)
 *4  横浜南部学区[表6]については、2006年には県内私学に34%の進学を見込む形になっています。これは、我々の行っている、試算に用いている計算式の「癖」が出てしまっている部分です。実際には、もっと低い数値となることが予想されるのですが、しかし、これが少々減ったとしても、このままでは5クラス以下校ができてしまうでしょう〈筆者注:'00年度募集計画で、横浜南部学区に、5クラス規模校が生じた〉。

5.結論

 学級定員減を行えば、高校統廃合は不要です。
 統廃合を認めれば、35人以下学級への道を閉ざすことになってしまいます。


 教育条件整備に関する以上の『高総検レポート』での指摘に、'00年5月19日の、文部省調査研究協力者会議の報告(以下、報告)に関して付け加えておきたい。報告およびそれに関連することの内容に関しては、全て『朝日新聞』('00.5.20)の報道による。
 文部省は、報告を受けて、'01年度からの実施に応じた関係法令の改正に着手をしている。つまり、30人以下学級の実現は、実質的に見果てぬ夢に終わるということとなる。
 同会議の検討では、全国一律の少人数学級化は、「社会性を身につけるには一定の学級規模が必要」という意見、30人学級にした場合は約20万人の教員増と1兆円程度の予算増が必要という文部省試算から「実現性は乏しい」という判断により、見送られた。そのため、国の学級編制の標準は、現行通り40人が妥当という結論となった。
 「地域や学校の実態に応じ、義務標準法で定める学級編制の標準を下回る人数の基準を都道府県が定められるようにする。」とはしているものの、義務標準法による教員定数の標準は、給与費の国庫負担や地方財政措置する際の基礎となる教員定数算定の標準(国の人件費負担は標準枠内の50%)であり、少人数学級の財政負担は地方自治体に課せられることとなる。『県財政の現状と今後の展望』('00.3)に、「人件費の抑制」を掲げて「(教職員の見直しも含めて)職員数を10年間で1,400人削減」としている、神奈川においては、それこそ実現性は乏しい。『中教審答申』の「学級編制標準の弾力化」の時から、予想されていた通りの展開となった。
 報告には、指導が困難な特定の学校などで重点的に少人数学級を編成する方法の提案、レッスンクラスの小集団化(文部省は、小学校の「国語・算数・理科」と中学校の「英語・数学・理科」について20人程度の学習集団とすることを奨励)にかかる非常勤講師人件費の国庫補助の方針も示されてはいる。
 しかし、前者については、少人数学級校を選択的に導入した場合の財政援助についての言及はなく、後者については、非常勤講師は定数枠内での代替、つまり、クダキの措置となっており、「非常勤講師は校務分掌も担当」とされている。
 「特定教科の担当教員の授業時間数が極めて少ない場合、非常勤講師に置き換え、当該教員定数は他校に配当し有効利用する。」という基本的な考えに基づいて、「高校、特殊教育学校の教員定数算定方式を、学級数ではなく、生徒数を基礎とする方式に変更。」、「定数改善では、教員の担当授業時数は従前を下回らない、一定の授業時間以下の教員は非常勤講師に置き換えたり学校間の兼任で対応したりする、などを考慮」という方針が示されていることを考えれば、これらは、必ずしも評価できるものではない。30人以下、どころか、39人以下学級さえも避けるための方便なのではないだろうか。例えば、課題集中校を対象として少人数学級校の選択的導入を行なおうする場合、それどころか、現在の課題集中校に重点的に措置されている加配を維持しようとする場合に、他校がその分をかぶれということになるのではないか。また、再編対象校への加配措置は、講師時間18時間しかなく、単位制や総合学科のカリキュラム編成・時間割編成が苛酷なものとなることが明白であることを考えれば、他校が必要分を補う措置を導入すれば、さらに学校数削減を促進することとさえなるのではないだろうか。現在全校が検討をしている新指導要領による新カリキュラムは、選択多様化が中心となる。「人手不足」に苦吟しない現場はないだろう。高校教育改革は、全校において推進をされるべきものであるという確認をしたはずである。
 「社会性を身につけるには一定の学級規模が必要」という30人以下学級を避ける根拠自体が薄弱である。それは、前掲の『高総検レポートNo.37』(98.8.1)を参照してもらえば明確であるし、学級崩壊や少年犯罪などの問題を生徒指導との関連でとらえるならば、報告自体が、「多様な学習集団は生徒指導にも効果が期待される。」としている。「生徒指導や学校生活の場である生活集団としての機能を主とした」学級と、学習集団の機能的位置付けの文脈の中での言及だが、授業の成立などの生徒指導的な観点からレッスンクラスが有効なのは、「多様」であることよりも「少人数」であるからではないのか。「生活集団」の場にそれを位置付けないのは不可解である。
 結局、国においても県においても、財政の問題が立ちはだかることとなる。ともかく、「学級編制標準の弾力化」が関係法令に導入をされる運びとなることは間違いない。それを根拠に、私達は、保護者とともに、行政に教育の重要性を訴え続けるより他はない。その運動の中で、教育条件整備の切り下げを許さず、部分的にでも、少しずつでも学級定員を減らしていくことを追求し続け、30人以下学級の実現を目指すより道はない。報告について、日教組は、「せめて小学校低学年については20人程度の編成にするように求めたい。」という書記長談話を発表している。30人以下学級の実現は、財政難の地方自治体段階の運動では不可能であり、全国運動が必要である。最終目標を、国の学級編制の標準を30人以下とさせることにおいた、粘り強い運動の継続を行なわなくてはならない。
 以上、本稿入稿までの時間的余裕のなさから、関連資料にあたることができず、新聞報道のみで報告を批判するという乱暴なことを行なった。報告及びこれからの国と県の動向に関する詳細批判と、「教育条件整備の切り下げを許さず、部分的にでも、少しずつでも学級定員を減らしていく」具体的方策の検討については、XI期高総検に申し送りたい。


〔2〕各論批判II・単位制


高総検レポートNo.35
1998年7月7日発行


 シリーズ  県立高校将来構想検討協議会「これからの県立高校のあり方について(協議経過の中間まとめ)」を読む  第2回

単位制オン・パレード



 (前略)各論として、『中間まとめ』の中に氾濫している「単位制」〔注〕について、Q&A方式で、問題点を整理してみたい。

 〔注〕「単位制による高絞」としての全日制単位制高校、総合学科に加えて、「単位制による普通科高校の拡大」として多様な学習ニーズや生活スタイルに合わせた「幅広い分野にわたる選択科目群を設置して総合的に学習できるタイプ」の学校、単位制による専門学科、専門コースでの単位制の活用、定時制・通信制での単位制の活用、単位制を利用した県立高校の再構成、「個が生きる高校教育」を推進していくための「単位制を生かした学びのシステムの拡大」等々。

Q1 生徒の立場から考えると、「単位制」の高校は、自分の好きな科目だけを選択できて、自分の選択した時間帯だけ登校すればよく、HRや行事などもなくて気楽でいい、といったイメージがあるようです。「各自で好きなものを取っていけるキャフェテリア方式のような自由で開放的な」学校というわけです。また教職員からは、生徒自身の興味にしたがって科目を選択するのだから、学習意欲のある生徒が集まって、授業はやりやすいのではないか、めんどうな生徒指導からも解放されるのではないか、などと思われているようです。「単位制」の高校とは、そういう学校なんですか? 『中間まとめ』は、そういう高校づくりを提案しているんですか?

A1 確かに、上記のように、『中間まとめ』では、「単位制」をべ−スにして、様々なタイプの学校をつくる方向で、神奈川の高校を改革しようという意図が各所で述べられていますが、はたして「単位制」の導入が現状を打開する特効薬に成りうるかどうか? それを弁明するには、少し手順をふむ必要がありますので、基礎的な事柄から改めて考えてみましよう。

Q2 では、まず単位制というのはどういうものですか?

A2 単位制とは、一般的には「履修の量を判定する基準としての単位を設定し、所定の単位数をもって卒業のための最低必要要件とし、そのもとで、必修教科(科目)と選択教科(科目)を履修させる方式」(『教育学大事典4』第一法規)をさします。現在の日本では、高校と大学で採用されています。文部省・学習指導要領によれば、高校では、1週間あたり1学校時間(50分を標準とする)の授業時数を、1年間(35週を標準とする)通して履修したとき、1単位とされ、卒業に必要な総単位数は、80単位以上と定められています。

Q3 えっ、今の高校は単位制なんですか。そうすると「単位制高校」というのは、屋上屋を重ねているような気がしますが、いったいそれはどういうことなのでしよう?

A3 そうです。普通科課程では1948年度から、その他の課程では49年から単位制が採用されています。戦後の新制高校は単位制として出発したのです。この単位制と、現在推進されている「単位制」とはちがうのです。まあ、結論を急がないで基礎的な話に戻りましよう。

Q4 では、なぜ単位制が必要になったのでしよう?

A4 単位制と新制高校の基本原則(総合制・小学区制・男女共学制・選択制など)は密接な関係にあります。とりわけ選択制(自由選択制)と不可分の関係にあります。自由選択制のもとでは、必修の教科・科目以外は、個人の選択にまかされますから、卒業のための最低必要条件を満たしたかどうかを計る量的表現法が必要となり、単位制が採用されたのでした。
 しかし、ここでいう選択制とは、普通科の中だけの選択を意味しません。なぜなら、学校教育法第41条は、高校教育の目的として普通教育および専門教育を併せ施すこととしているので、高校教育の目的にそった幅広い選択制(自由選択制)は普通科に普通科以外の学科を併置する総合制高校を想定していることは明らかでした。このような理念を持つ新制高校は、文部省からも強く勧められて全国で相当数の総合制高校が誕生しました。

Q5 そうすると、総合制高校として出発した戦後の新制高校が、その選択制の実施のために単位制が必要になったのですね。ではその後、総合制高校はどうなったのですか。

A5 すべての新制高校が総合制をとったのではありません。全国の4割ちかい高校は、普通科単独校のままでした。その後の反動的な文教政策は、総合制を後退させ、総合制高校における単位制・自由選択制の解体が進みました。また1952年以降、漸次、小学区制がとられなくなり、また教育条件整備に経費のかかる単位制・自由選択制は否定されるようになります。他方、学習指導要領の「法的拘束力」が次第に強化され、大幅な選択制は不可能となり、限定された範囲内での選択にすぎなくなります。1956年の学習指導要領の改訂によってコース制(文系・理系などの類型選択制)が導入されるようになり、単位制は形骸化され、学年制への移行がよぎなくされていくのです。

Q6 そうすると、今の高校はもう単位制ではないのですか?

A6 原則的には、単位制ではないとは言えません。それは最初にA2で述べたとおりです。最近の教課審の中間まとめでも、「総合的な学習の時間」に関連して、「高等学校が単位制による教育課程であり…」と言明しています。しかし、周知のように、現実の学校は、教育行政が単位制を完全実施できるような教育条件の整備をサボタージュしているために、通信制の他ははとんど学年制を基本にしているわけです。ですから、1科目でも単位が取れなくて原級留置になると、修得したはずの残りの科目の単位も全部ダメになって、もう一度やり直しさせられたりする矛盾が生じてしまうのです。 行政は、この、原則は単位制であることと実際の運用上は学年制であることを、ご都合主義的に巧みに使い分けています。たとえば、転入出などの場合は部分的な取得単位を認める(つまり、厳密な学年制をとらない)ことがありますが、学校が教育課程の改変に際して総合制による単位制選択制の導入などを申請しても、「高校は学年制で進行しているので…」というような理由で申請を却下したりもしています。

Q7 では、なぜ『中間まとめ』は、あらためて「単位制」を持ち出したのでしょうか?

A7 そこが、この問題の解明のキー・ポイントです。ポイントには、大きく分けて二つの側面があります。
 『中間まとめ』が、将来の高校づくりの中核的制度とも位置づけるほど、単位制にメリットを認めているのであれば、それを、上記のような本来の趣旨に沿って、すべての高校に「復活」させればよいと思うのですが、将来構想検は、そういう提言はしていません。 将来構想検が『中間まとめ』で「単位制」を強調している基本的理由は、実は、新制高校がそれを採用した本来の趣旨とは別のところにあります。すなわち、「単位制」を、高校の「新たな多様化」政策、つまり、多線化と種別多層化を基本とする高校教育全体の再編成に便利な一つの道具として−そこに新しい利用価値を見つけて−採用しようとしている、ということです。
 他面、すべての高校に名実共に単位制を復活させない理由のひとつには、前にも触れたように、学年制よりも相対的に費用がかかるという点があります。とくに、普通科と専門学科にまたがる大幅な選択制や無学年制とセットになった単位制は、神奈川総合高校や大師高総合学科に類例が見られるように、他の高校よりも多くの教職員と予算が必要になります。
 (したがって、『中間まとめ』が提案する「選択制」を実際に導入するとしても、県は教育予算の削減を基本方針としていますから、特定の高校に「選択的導入」を行うか、あるいは、全日制の一部の高校や定時制・通信制などには、「高校以外での学習成果の単位認定」などを「活用」する安上がりの「寄せ集め式単位制」等を採用することになるでしよう。)

Q8 「単位制」を高校の「新たな多様化」の道具にしようとしている、という部分をもう少し説明してください。

A8 1960年代に始まった高校「多様化」政策は、普通科の拡大を抑制する一方、職業科の比重を大きくし、その学科の構成を多種多様に細分化・専門化するものでしたが、それが破綻したあと、次には国民の要求によって増設がすすむ普通科の「多様化」(能力主義的再編)に取りかかり今日に至っています。最近の「新たな多様化」の基本構想は、中等教育を単線構造から多線構造へ変換することです。「特色ある高校づくり」「新しいタイプの高校づくり」などの名のもとに、「単位制高校」や総合学科・6年制中等学校(中高一貫校)・専門コース制などを新設して、高校教育全体を細かく種別化・多層化し、それと入試方式の「多様化」を連結させて、高校教育の共通制と共同制を解体し、全面的に再編成することをねらっています。
 『中間まとめ』は「単位制は、普通科・総合学科・専門学科のいずれにも共通する教育展開のシステムであることから、さまざまな展開を考えることができ、今後、積極的な設置の拡大が必要である。」と特筆し、「これからの県立高校のあり方」のほとんどすべての施策にわたって「単位制」の導入を繰り返し提唱しているのですが、これを逆さまにしてみると、「単位制」なしでは、『中間まとめ』の「これからの県立高校のあり方」は成立しないのではないかとさえ思われてきます。なぜ、それほど「単位制」が強調されるのでしょうか?
 その答えは、はじめに「新たな多様化」方針ありき。それを可能にする方策を突き詰めていったら、「単位制」に行き着いたと考えるのは、はたして邪推でしようか? そこでは「単位制」は、もっぱら、教育内容を規格化された単位に細かく分割し、その履修(修得)の集積によって卒業(修了)認定を行うシステム、ととらえられ、それが、学校形態や学習形態の基本に位置づけられています。そして、その上に、高校教育の「新たな多様化」が展開されるという組み立てになっているのです。

Q9 それでも「単位制」がいいものであれば、問題ないのではないですか?「単位制」はなかなか評判がいいようですよ。

A9 たしかに、「単位制」は一般にいいイメージをもたれているようですね。『中間まとめ』が「単位制」をしきりに持ち上げているのには、そういうプラス・イメージを「活用」したいという思惑も含まれているのでしょう。
 しかし、「単位制」に対する一般的イメージには問題の部分もあるのです。たとえば、Q1に挙がったような「単位制」を評価するさまざまな項目は、実は、必ずしも単位制だけによって成立するものではなく、またそこからのみ生じる効果であるとも言えません。多くの人々が抱く「単位制」のイメージは、そのような単位制以外の様々な要素でふくらみ、彩色されているようです。単位制そのものは、A2にあるように、要するに、履修(修得)量を計る方式の一つに過ぎす、それ以上のものではないのですそれだけ取り上げても特に教育的価値があるわけではありません
 肝心なのは、格差のない高校に希望する者だれもが入学でき、そこで各生徒が共通に必要とする基礎課程と個別に必要とする選択課程が差別なく保障されることです。そうすれば、単位制は、自ずと多くの高校で便利な制度として採用されることでしょう。

Q10 「単位制」は、現在、県教委からどのように位置づけられているのでしようか?それと『中間まとめ』との関係は?

A10 単位制全日制高校である神奈川総合高校は、「単位制」である故に、特色ある新しいタイプの高校とされ、学区制の枠を外れています。大師高校総合学科も単位制を採っていますが、総合学科である故か単位制である故か、同じく特色ある新しいタイプの高校とされ、学区制の枠をもっていません。「単位制」が、特色ある新しいタイプの制度と位置づけられ、それゆえに学区が外されているとすれば、『中間まとめ』に氾濫する「単位制」の高校は、すべて相似の根拠で、学区制の制約を外されることになるのでしようか?「単位制」の高校が増えれば増えるはど、特殊性も低下し、学区をはずす根拠も薄らぐことになり、県教委はジレンマに陥るでしよう。それとも、逆に、殆どの高校を「特色」化することによって、学区制度全体をなし崩しにしてしまうつもりでしようか?
 この可能性は小さくありません。そうなれば、学校問格差はさらに拡大し、受験競争はいっそう激しくなるでしよう。







第2章 県教委「県立高校改革推進計画」の分析

 「『県立高校改革推進計画』の分析」と題したが、もはや語るべき何物もない。ポイントを絞った批判・分析は、先の「『将来構想検答申』の分析」との重複となるし、「開かれた学校」というキーワードからの批判・分析を、すでに他の章に示した。ここに記すとすれば、現在、特に再編対象校で、最も必要とされている、「再編に関わる条件整備的な問題の指摘」と「各校のタイプに応じたガイドラインの策定」であると考える。しかし、冒頭に記した状況によって、X期高総検の活動は、そうした『県立高校改革推進計画』の「対案」の検討に至っていない。これは、XI期への申し送り事項で、最大のものとなる。ここでは、『高総検レポート』と高総検全体会資料とを整理して、県教委の姿勢に対する批判を中心に、筆を進めていきたい。つまりは、X期高総検の活動報告といった様相となる。
 現在進行中の高校再編計画は、『将来構想検答申』に謳われている、「目的意識や学習意欲に欠け、中途退学に至る生徒がいる実情」、「いじめや不登校、薬物乱用、性の逸脱など」の「深刻な状況」(「I県立高校の果たすべき役割」)の克服を図り、また、「保護者や県民だけでなく教職員の中にも根強い」、「数値や成績、『学(校)歴』などが過度に重視される」傾向を解消して、「学ぶ意欲や『学習歴』が適切に評価される社会への転換」(「IV将来構想の推進にあたって」)を志すもののはずである。
 その最前線である現場や、保護者をはじめとする県民の意思に耳を傾けようとしない県教委の姿勢は、奇態極まりない。『県立高校改革推進計画』の目的は、こうした理念とは別にあるのではないかと疑われても仕方がない。そうであるならば、県教委は、県民に対して詐欺を働いていることとなる。詐欺の指図をするのは県教委、県民からその裁きを受けるのは学校、という構図では、現場はとてもたまらない。
 県教委の姿勢に対する批判から、『県立高校改革推進計画』の欺瞞的な側面が少しでも見えてくれば、と考える。その認識が、今後の「再編に関わる条件整備的な問題の指摘」や「各校のタイプに応じたガイドラインの策定」に、連結をしてくることと思う。

〔1〕現場との話し合いの無視

 98年9月30日、活動を開始してから半年ほどにして、情報の途絶から、既に停滞状況に陥っていた高総検将来構想グループは、今後の方向性を探るために、本部執行部(副委員長)との話し合いの場をもった。
 その内容を要約して、以下に、示す。(:高総検将来構想グループ、:本部執行部)

:高校再編と30人以下学級運動との神高教としての整合性(統廃合阻止の立場を取るのか否か?)。
:県当局は、現在、30人学級を考えていない。高校再編整備の算定基準は、40人学級である。加えて、『将来構想検答申』の学校規模から、生徒人数の記載を削除させられなかったマイナス要素もある。が同時に、学級人数に「国の動向を踏まえて、将来的には、学級人数を段階的に少なくしていくことが望ましい」との記載を入れさせたプラス要素もある。「国の動向」に関しては、中教審の学級人数の弾力化は、地方自治体の財政負担が前提となるので話にならない。が、現在、文部省が、大蔵省との対決姿勢の中で、30人学級を匂わせている。神高教は、4クラス以下校が生じてしまう状況を踏まえれば、再編整備に全面反対する立場に立てない。県の再編整備計画を批判して行き、神高教として獲得するものの多い計画へ持って行く戦略を取ることとなる。その中で、30人学級の追求もして行きたい。具体的校名を出させずに、2〜3校を1校に再編整備するスタイルを基本とすれば、教育改革を入れさせる余地が生ずる。従って、『都立高校改革推進計画』のような具体的校名をあげた計画を県が出してきた場合には、全面対決とならざるをえない。しかし、今後の交渉はほとんどが水面下となるだろう。県当局は、検討内容を表に出すと横槍が入ることが必至であるので、それを外向けに示すことはないだろう。神高教の交渉方法は、水面上で要求をぶつけることと、水面下の交渉との二本立てで進めていくことになる。
:高校再編の際の人事への影響。
:単純廃校ではなく、2〜3校を1校に再編整備するスタイルとすれば、2〜3校の中の基幹校に開校準備室要員が必要となるので、数年間は、その中の定数に重大な影響は生じない。再編整備は一斉に行なわれるのではなく、百校計画時の開校と同じように、五月雨式にだらだらと続くだろうから、そのうちに定数問題は落ち着くことと考える。また、再編対象校への異動は、原則としてさせない。さらに、課題集中校同士の「結婚」ばかりをさせない。ただし、以上は、対県交渉時の条件としての話である。
:高校統廃合の発表時期、実施時期、発表方法。
:発表時期は、4月からの、統一地方選・知事選・県行政人事のスケジュールを考えた時、人事後の将来構想新部長から行なわれることとなると考えられる。従って、99年6月以降、1学期中ではないか。実施時期は、県当局は、2000年から手をつけたいと言っている。従って、人事への影響は、来年度意向調書提出時からとなる。発表方法は、神高教としては、以下を追求したい。
  (1)再編整備は、3〜4段階に分けて行なうこと。
  (2)具体的校名を示さないこと
  (3)地区計画とすること
  (4)学校の主体性を持った提案を聞くこと
(4)については、経済の論理を排し、県立高校が入りづらくなるような状況を不可とさせたい。また、再編整備後の具体的な学校スタイルは、総合学科タイプを想定している。これは、将来構想検も同様。定数的な教育条件を考えると、総合学科でないと、神高教としてのメリットがない。
:現場意向の尊重(現場代表を含めた対県交渉の設定)。
:水面下の交渉には入れない。県当局は、何も答えない。水面上の交渉であれば可能。年内に設定したい。県当局は、再編整備を行なっても、トータルでの県立高校の現在の「株価」を下げたくないと考えている。これは、言い換えれば、「不良資産の整理」であるが、県当局の考えている「不良資産」は、課題集中校などを指すものではなく、施設の古さなどのハードの面である(ただし、出身議員による圧力などは想定される)。こうした点を踏まえての交渉はできる。高総検は、抽象論ではなく具体的なデータを踏まえての交渉参加を願いたい。つまり、高校再編計画への具体的提言・問題提起を願いたい。
 その他:校長会の姿勢は評価できない。再編対象校とならないための方策を云々しているばかりである。

 下線を付した部分の見込みや姿勢は全て、本部執行部の全力の追求にも関わらず、県教委の硬直した姿勢の下に潰え去った。まったく耳を貸さない相手とは「対決」もできないのである。県教委は、教育改革に関する「教職員団体」の参加と提言を、無視する姿勢を深めている。
 約1年後、県教委『県立高校改革推進計画』一方的公表直後の、高総検全体会(99.8.27)での、本部執行部(副委員長・書記長)の「県立高校再編整備計画現状報告」と比してみれば、その硬直化は明白である。

 (1) 再編整備計画に関して、県は予算削減に焦点を当てているわけではない。
 (2) 『神奈川新聞』に報道された、2001年からの、普通科推薦制導入・隣接学区規定導入については、県は、検討事項であり、提案はしていないといっている。再編整備計画をスッパ抜いた『朝日新聞』に対して、『神奈川新聞』が対抗した過剰記事である。
 (3) 『県立高校改革推進計画』の3・4・5章が問題であり記載通りに進められる。問題はあるが現実を見る視点が必要である。7章(職員会議補助機関化、他)の問題は、それのみを槍玉に上げていくと、全体の問題が埋没してしまう。
 (4) 7章について、校内民主化の観点は、進行のプランを話し合っていくために重要であると申し入れてあるが、あまり受け入れられない。
 (5) 再編整備当該校に示された詳細案は、「系」まで示されているが、これは、県民に具体的イメージを持ってもらうためのものとのこと。学区内の他の高校とのバランスのもとに示したと、県は言っている。これは、「例示」「素案」と受けとめるべきであって、そこからスタートするが、そこから一歩も動かないということではない。新校立ち上げの際に、真実の「系」が示されるのである。
 (6) 工技の募集停止については、統合方式を追求したのだが、どうしようもない状況であった。

 '00年4月の本稿執筆現在、(2)に関してみれば、この時点でさえ、県教委は虚偽の発言を公然と行なっていることが明らかである。別の章で指摘したように、'00年2月24日に、県教委は、正規の検討手続きもないまま、隣接学区規定さえも飛び越した、'01年度入試からの学区外枠の20〜25%という現行8%からの大幅拡大を、一方的に決定をしている。また、県教委は、新入選制度の根幹に関する何の総括もないままに、普通科推薦制の一方的導入の姿勢を持ち、'00年4月21日付けで、'00年5月19日締切の「普通科推薦意向調査」を普通科全校に下ろしている。ゴールデンウィークを間に挟んだ検討時間の余裕のなさを考えれば、これが、アリバイ作りのための意向調査であることは明々白々である。
 「(1)再編整備計画に関して、県は予算削減に焦点を当てているわけではない。」という発言についても、その信憑性が疑われる。こうした困難な状況の下ではあるが、現在、現場で活動し得る余地があると考えられるのは、(5)のみである。
 98年9月30日の本部執行部との会談の後、高総検将来構想グループは、「水面上の交渉であれば可能。」という1点にのみ希望を託して、何回かの全体会討議を経て、以下のように対県交渉内容を定めた。文中のページ数は、討議用資料として各分会に配布された『将来構想検答申』による。
 対県交渉内容の策定にあたっては、継続的な対県交渉を前提とし、次の2点に配慮をした。

 (1) 神高教としての整合性を持つため、2003年委員会『神奈川の教育改革プログラム』の指針を基本として、高総検の検討内容を整理する(策定よりのち、『神奈川の教育改革プログラム』は、99年7月の定期大会において、神高教方針として確認された)。 → ( )内の「指針」
 (2) 『将来構想検答申』の中で、例え部分的であって、高総検の検討内容と一致点を見出だせる記述については、評価を与える。 → 太字の部分

 I・30人以下学級の追求(指針1「30人以下の少人数学級・授業の実現」)

 ●30人以下学級県民運動を受けとめる気はあるのか。「国の動向を踏まえ将来的には、学級定員を少なくしていくことが望ましい」(P19「学級定員」)という記述をどのように具体化するのか。97年9月に発表された東京都教委『都立高校改革推進計画』(第6章・教育条件等の整備1ホームルーム定数等の改善)には、工業科・商業科・農業科・家庭科・水産科・併合科の学級定員を'01年度から'07年度の間に段階的に35人とすると明記されている。また、「普通科の一部の学校(=課題集中校)については学級の弾力的な展開によるホームルームの少人数化を図っていく。」とも明示されている。神奈川では、このような積極的な姿勢は持ち得ないのか。「専門学科や学区の事情によっては18学級(720人)以下も想定する必要がある。」(同)という記述をどのように具体的に策定するのか。
 ●30人以下学級実現を前提としたとき、「当面1学級40人を算定基礎とし、学校全体で18学級(720 人)から24学級(960人)を標準とし」(P.19「学校規模」)という記述を、県立高校統廃合の基 準として適用することはできないのではないか。( )内の人数を基準とすれば、24〜32学級の 中大規模校が基準ということになり、多様な選択科目の設置に対応する施設設備の保障が、教室の余裕がなくなることから、実現できなくなってしまう。急増期に体験したように、学級増への対応は困難であり、現場に大変な無理を強いることとなる。そもそも、定数法における基準値は学級数であり、学校人数は法的に意味を持たないのではないか。
 ●適正規模の根拠を具体的にどう考えるのか。「多様な教科・科目への対応が困難となったり、校務分掌等の学校運営への支障」を阻止するためには、むしろ、40人を算定基礎とした機械的な再編整備よりも、少なくとも現行の教員人数位は保障するべきではないか。「生徒間の交流など、多様な個性のふれあいの場を保障する」のは、一学校内での交流を前提とするよりも、学校間の交流を推進する方がむしろ有効ではないか。問題があるとすれば、「活力ある学校行事」「部活動」であるが、それのみを根拠とするのはあまりにも学校機能を一面的にとらえることにならないか。部活動の社会体育などへの移行などの方向性は考えないのか。課題集中校では現状でも「部活動」は低迷している学校が多いが、そうした状況をどうとらえるのか。(「 」内;引用、P.18「高校の適正規模」)また、無論のこと答申には記されていないが、学校人数縮小に伴って私費収入低下の問題が生じてくる。それを、適正規模の根拠の一つと考えていることはないのか。
 ●以上を勘案する時、県立高校統廃合の基準をどのように策定するのか。県民サービスの低下防止を考えて、99年度県労連確定闘争において人件費削減までを飲んだ神高教としては、実質的に廃校整理によるコストダウンのための「教育改革」は、看過することができない。

 II・学区縮小の追求(指針3「多様な選択科目の設置」、指針9「学区縮小と学校間格差の是正」)

 ●「普通科高校の特色づくり」(P.12)や「専門高校の特色づくり」(P.13)に示された「多様な選択科目の開設と特色ある類型の設置」、また、「定時制課程・通信制課程の改善」の「多様な選択科目の開設」(P.14)、さらに、「柔軟なシステムの実現」の「選択中心の弾力的な教育課程の編成」(P.15)は、評価できる。現在でもこれに取り組んでいる高校は多数あり、答申の中で最も実現性の高い記述と考える。しかし、県立高校の大多数を占める普通科を主な視野において考えたとき、多様なカリキュラムは、小学区の中でこそ有効に機能するのではないか。
中高一貫教育にしても、「高校の入学者選抜の影響を受けずに、ゆとりある安定的な学校生活を 送れること」(P.17)という側面から評価するならば、小学区の中で実施すべきものではないか。「学区及び入学者選抜」(P.24)に関して、「本協議会としては課題の認識にとどめ、今後の検討を待ちたい」と別課題としながらも、隣接学区規定に触れた文脈で、「今後、県立高校の再編成や統廃合 等の進展の中で、学区のあり方について、検討が必要となることも考えられる。」としているのは、学区の拡大を示唆するものあり、カリキュラムの多様化や、「学校歴」から「学習歴」(P.8)への 転換の観点からの中高一貫教育の評価的側面を無力化するのではないか。
 ●「社会や地域に開かれた高校」(P.21〜22)は、全て住民の顔が見える地域を前提とした構想で ある。しかし、現行学区ではそうした地域を成立させることは不可能に近い。学区縮小が前提成立のために必要不可欠であるが、どう判断するのか。学区縮小が実現できない場合、「開かれた高校」、特に「学校支援ボランティア」や「学校モニター」の構想が、埼玉県教委の全県立校に対する卒業式入学式への地元選出議員招待の通知のような形に展開する危険性を感ずる。これは、自治省も「公職選挙法に触れる恐れがある」と警告している(『朝日』98.11.15夕)。その場合は、例え、選挙時期でなくとも、県議会政治勢力の教育現場への直接介入であり、答申の趣旨から大きくはずれてしまう。そうした展開となる懸念はないのか。

 III・高校多様化批判の追求(指針6「柔軟な再履修、転科・転学システムの実現」、指針9「学区縮小と学校間格差の是正」)

 ●一部管理職などが、統廃合に対する危機感から、特別進学コースのようなものを作っての生き残り策を打ち出してくる危険性がある。神奈川が、東京都の『都立高校改革推進計画』のような進学重視校の構想を持たずに、「学校歴」から「学習歴」(P.8)への転換を答申の基本としていること は高く評価するが、答申に百花繚乱に示された高校多様化の方針が、校種間格差に《再編整備》されて、「中途退学などの課題が一部の高校に多く見られる傾向」(P.4)を解消するための手立て、 また、「生徒がさまざまな観点から高校を選ぶようになることによって、高校間の序列意識の変革 が促される」(P.10)ための手法、つまり、生徒の多様化に応ずる高校の多様化として機能しない 危険性がある。現在の学校間格差、特に、課題集中校への対策を改革の視野に置くことは必要不可欠であるが、どのように具体化していくのか。
 ●「特色を生かした適正配置」(P19〜20)の記述からすれば、高校改革は「再編成・統廃合等の再編整備」とリンクして行なわれることとなる。その場合、専門高校、単位制高校を既にもっている横浜東部学区のような地域、また、専門高校、総合学科が既にある川崎南部学区のような地域に、生徒減が急であるために、重複して新しいタイプの高校を設置することとなってしまう。こうしたアンバランスにどう対処するのか。
 ●神高教は、コース制について、入学時にコース選択を迫るものであり、1〜2学級のためにその中での選択幅が持ちにくいため、生徒のコース変更とともに、学校としてもコースの変更・廃止が柔軟に行なえるようにすることが必要と主張している。『答申』は、「転入学の弾力化」中で「学科間の移動や専門コースと一般コースの間の移動についても、弾力的な運営が図られることが望ましい。」(P.17)としているが、これをどう実現していくのか。また、学校としてのコースの変更や廃止は認めないのか。
 ●現在の神奈川総合高校をどのように評価するのか。県民にはプラスイメージとして受けとめられていると判断する。「既設の普通科高校の発展的統合や改編により、多彩な教育内容を提供する単 位制による普通科高校を設置する。」、「定時制における生徒の多様化の実態を踏まえ、単位制によ る高校の設置を検討する必要がある。」(P.19)、「より多くの生徒が単位制による普通科高校で学べるよう、通学可能な範囲に設置する。」(P.20)との答申だが、新設単位制高校に関して、神奈川総合高校に対する県民のイメージを裏切らない、客観的判断可能なデータを提示できるのか。
 ●現在の大師高校をどのように評価するのか。県民にはプラスイメージとして受けとめられていると判断する。「既設の普通科高校の発展的統合や改編により、それぞれれの特色ある教育内容や施 設設備を生かした総合学科を設置する。」、「より多くの生徒が総合学科で学べるよう、通学可能な 範囲に設置する。なお、将来的には、各学区に設置することが望ましい。」(P.20)との答申だが、新設総合学科高校に関して、大師高校に対する県民のイメージを裏切らない、客観的判断可能なデータを提示できるのか。

 IV・希望者全入を目指した入選再改革の追求(指針8「希望者全入の実現」)

 ●神高教は、障害を持つ生徒、外国籍の生徒など高校入試をクリアできない子どもへの配慮から希望者全入を実現できる定員数への変換を主張している。また、昨今の不況により、私学学費が負担過重となって、保護者のニーズとしても公立高校の重要性は増している。「計画進学率」の「全日 制の高校への進学希望等を考慮し、現行の計画進学率を段階的に引き上げる必要がある」(P.19)という記述をどう実現していくのか。
 ●神高教は、できるだけ入試選抜の廃止につながる入選改革を主張している。IIで触れたように、答申は入選を別課題としているが、「今後も、子どもたちや保護者、県民などの意見や期待に応え られるよう、必要に応じて改善を図ることが望ましい。」(P.25)とも明記している。中高一貫教育に関して、「高校の入学者選抜の影響を受けずに、ゆとりある安定的な学校生活を送れること」( P.17)を評価的側面としていることから、『答申』自体が入選再改革の「必要」を認識しているもの と読み取れる。今後の入選改革をどのように展開していくのか。

 V・高校改革に実現性のある教育予算の追求(指針10「公費での十分な教育予算」)

 ●神高教は、教育を中心課題とした財政を主張している。『答申』で、行政に期待されている「中長期的規模に立った改築・改修を含めた施設設備」(P.23)のみならず、一連の改革には、施設設備の充実、人的配置の充実が必要不可欠である。その予算措置をどのようにして保障するのか。
 ●「社会や地域に開かれた高校」(P.21〜22)に示されている、学校の機能・施設の開放を実現するための、改築・改修等の施設設備の整備、人的保障(東京都の『都立高校改革推進計画』にならうならば、体育施設の夜間全校開放があり、さらに、公開講座・体育施設開放の全校対応及び学習文化施設の45校開放がある。これは、そのための人員配置をしないのであれば、必然的に苛酷な超過勤務・休日勤務を必要とするのではないか。)に、財政的背景を持った、実現性はあるのか。
 ●格差のない高校に希望する誰もが入学でき、そこで各生徒が共通に必要とする基礎課程と個別に必要とする選択課程が差別なく保障されるという姿が高校教育の理想像と考える。その観点から、「柔軟なシステムの実現」(P.15)の、「選択中心の弾力的な教育課程の編成」のためには、「学年 制をとる高校においても、単位制が併用されていることの趣旨を踏まえ」なければならないという記述を評価する。つまり単位制は、履修(修得)量を計る方式の一つであることから、選択科目を拡大すれば、必然的にそれを認識せざるをえない。その意味で、単位制は、「柔軟なシステムの実 現」の「自校以外での学習成果の単位認定」(P.16)が、教育効果のためではなく、教育の「外注」によるコストダウンとして展開してしまう手段として機能するべきではないし、また、ひとり「単位制による普通科高校への再編整備」(P.19)によって成立した新しいタイプの高校にのみ適用されるべきものでもない。しかし、単位制を認識した「選択中心の弾力的な教育課程の編成」を全校に実現するためには、施設設備・人的配置の保障が必要不可欠となる。そのための財政的背景を持ち得るのか。
 ●以上の実現は、現在の財政危機のもとでは極めて困難と考える。教育条件整備のための時間を十分にとり、県民の期待を裏切る結果となるような拙速は避けるべきではないか。
 しかし、県教委は、本部執行部の要望に一切耳を貸さず、現場代表を交えた対県交渉は行なわれなかった。
 99年6月15日、高総検は、従前から参加をしている、課題別交渉[特色・入選]の中で、[特色・入選]の課題とは別に、半ばむりやりにこの件に言及したが、交渉といえるような内容とはならなかった。その状況は、『高総検レポートNo.44「県立高校再編整備計画に関する交渉報告」』(99.7.21)で報告をしてある。
 以下に、『レポート』から該当する部分を引用する。


高総検レポートNo.44
1999年7月21日発行


県立高校再編整備計画に関する交渉報告

【99.6.15課題別交渉:特色・入選】


(略)


□ 99・1・29 県立高校の将来構想に関わる要求書 □

2 具体的な行政計画は、当面必要な学区の「地域計画・案」としての発表とし、学区(地域)内での検討・協議を保障すること。
  学校名が明らかにされる場合には、事前に該当する学校との十分な協議と同意を踏まえたものとすること。
 
 神高教の上の要求に対して、県教委は、「十分協議をすることは当然だが、最後の決定は教育委員会が責任を持ってさせていただきたい。」《3.10本部第1回交渉》、「現場の意向は十分参考にするが、学校の配置、学校づくりの基本的部分(方向性)は教育委員会において決定したい。」《4.20本部第2回交渉》と回答し、8月末頃には名前を出す方向で考えているという、10年計画の前期分の該当校にも、7月初め現在、何の打診も下ろしていない。
 「現場の意向は十分参考にする」という県教委の言は甚だ疑わしい。神高教は、昨年12月以来、現場代表を含めた継続的な交渉を県教委に要求しており、高校教育改革の検討機関である高総検において、『将来構想検答申』に対する批判・評価をベースに、神高教『神奈川の教育改革プログラム』とすり合わせた交渉内容を検討してきた。しかし、ダイレクトに情報が現場に降りれば話に尾鰭がついて広まるという不可解、且つ、無礼な理由で、県教委から交渉を拒絶されている。
 6月15日に、99教育改革要求・課題別交渉(特色・入選)で、現場代表として、ようやくこの件に触れることができた。しかし、課題別交渉の時間自体が1時間しかなく、入選・中高一貫にその大部分の時間を取られたため、再編整備計画に関する交渉はわずか10分程度に矮小化された。交渉報告と称するのがはばかられる、極めて不十分な内容ではあるが、以下にそのやりとりを記し、せめてもの情報提供としたい。
(略)
 ●現場代表との交渉の追求●
【質問】なぜ現場代表との交渉を拒絶するのか?
【回答】5月に各校に校長を通して再編整備計画のイメージを伝えた。それをもととしての意見集約をしている。これからどうするかを進めている段階である。理解を願いたい。
 ●30人以下学級の追求●
【質問】30人以下学級とリンクできる計画であるのか?
【回答】高校多様化のためには、一定の学校規模が必要である。1学級40人を基準とし、30人以下学級の導入よりも学校規模の確保を優先したい。1学級40人とは、HRクラスに対するものであり、レッスンクラスでは既に30人以下も実現しているはずである。そうした中で多様な幅を持たせたい。また将来構想検は、学級定員について、「国の動向を踏まえ将来的には、学級定員を少なくしていくことが望ましい」と答申しているので、30人以下学級をまったく無視をしている訳ではない。
【要求】東京都教委の『都立高校改革推進計画』には、職業学科については35人にすると明記されている。30人以下学級実現の際に、それを保障するキャパシティがなくては困る。24〜32学級の過大校など作ることはできないはずだ。慎重な対応をしてほしい。

 ●学区縮小の追求●
【質問】現行の学区を変更することがあるのか?
【回答】学区については、今後、一定の再編整備の見通しができた段階で考えたい。

 ●高校改革に実現性のある教育予算の追求●
【質問】再編整備に実現性のある教育予算は確保できるのか?
【回答】計画を推進する以上は、一定規模の財政の担保は必要である。しかし100%取れるかどうかは分からない。各校で、工夫をしなければならないところはしてもらいたい。
【要求】[工夫]と言われるが、現在でも講師配当が不十分であることから、学習指導要領に合わない授業展開を余儀なくされている学校もある。しかし、「日の丸・君が代」は指導要領の法的拘束性によって行なえと強要されている。これは[工夫]ではなく[無理]である。現場に無理をかけるような拙速は避けるべきである。結局迷惑をこうむるのは、生徒である。財政状況は如何ともしがたい。計画は、状況を見据えつつ慎重に推進されなくてはならない。

 ●市立高校再編整備計画との整合性の追求●
【質問】県内の市立高校を持つ市教委、特に横浜市教委との再編整備計画のすり合わせは行なっているのか。行なっているとしたら、どういう計画となっているのか?
【回答】協議をしている。
(略)
 横浜市教委は、98年12月にトップダウンで示した、「横浜市立高校再編整備計画(案)」を現在のところ変更はしていないものの、市立高校内での論議を積極的に促している。対するに、県教委が、現場代表との交渉を拒絶して、県立高校の再編整備計画をブラックボックスの中で行ない、「事前に該当する学校との十分な協議と同意を踏まえたものとする」どころか、「学区(地域)内での検討・協議を保障する」ことさえもしていないことに、大きな疑惑を感じる。
 99年6月23日の県議会代表質問に、教育長は、「『総合学科』や『単位制普通科』を持つ高校を、県内の全18学区に1校以上配置する」ことを明らかにし、同時に、「どちらか一方しかない学区には、隣接する学区に必ずもう一方を置く」と答弁している【『朝日新聞』99.6.24】。これらの新設総合学科・新設単位制の入選は、現行通り、全県一学区で行なわれるのであろうか。とすれば、これらは、「生徒の人気」【『朝日』同】があるゆえに、全校単位制化・全県一学区を計画している、横浜市立高校全日制普通科とあいまって、受験競争の白熱化を呼ぶ。その勢いは、「都立学校間に適切な競争原理を導入する」ために、都教育庁が策定している、「都立高校の学区制を実質撤廃して、受験生が都内全域の高校を受験できるよう現行制度を改める方針」(学区東西2ブロック統合、相互2割程度の新入生参入)【『読売新聞』99.7.6】に迫ること必至である。
 また、県教委は、昨年の専門高校の推薦枠の50%への引き上げに続けて、本年度は、コース制の推薦枠の50%への引き上げを要求してきている。通信システムへの対応等、財政状況から困難であるものの、普通科への推薦制導入の意向もあると聞く。
 無論、「根幹的な部分の変更には慎重な検討が必要である」【本6.15課題別交渉回答】として、見直しの意志を示さない複数志願制・総合的選考の問題が解決に向かっているわけではない。
 これら全てが現場に導入される時、受検生の混乱は先の新入選導入時の比ではないだろう。そもそも学区・入選の問題を後回しにした再編整備計画は順序が逆である。教育の専門家であれば、そこに思い至らないはずはない。
 ゆえに、県立高校の再編整備が、財政の課題を優先してして取り組まれているのか、教育の課題に応じた計画であるのか、疑惑を禁じ得ないのである。
(以下略)


 県教委は、何も答えなかったのと同等である。以降、県教委は、99年8月16日の『県立高校改革推進計画』のトップダウン公表まで、現場に対しては貝のように口を閉ざした。高総検将来構想グループは、活動の停止を余儀なくされた。

〔2〕県民の声の無視

 県教委は、当初8月25日に予定をしていた『県立高校改革推進計画』の公式発表以前に、横浜(99.7.18)、小田原・相模原(99.7.20)、川崎(99.7.24)、横須賀・藤沢(99.7.25)の、県内6か所で、県民対象の意見採集のためのフォーラム、「高校フォーラム神奈川 '99県立高校改革を考える」を開催している。
 高総検は、将来構想検のフォーラムと同様に『高総検レポート』として県民の意見を現場に報告すべく、その横浜会場・県立横浜平沼高校ホールでのフォーラムに委員を派遣した。
 しかし、採集した意見を『高総検レポート』化することは中止をした。フォーラムは、参加者(横浜会場371人)に骨子案を示すのみで、計画の具体内容を提示することなく、会場で意見表明希望者を募るものの、発言内容を紙に書かせて提出させ、その中から県教委が指名した者だけに一般的な意見や感想を述べさせるに終わっていたためである。アリバイ作りのための意見公募であるとの疑いを持たざるを得ず、この内容を現場に流すことは、かえって自由な討議を阻害する可能性があると判断をした。
 現に、他の章でも指摘をしたことだが、99年8月15日に『朝日新聞』が『県立高校改革推進計画』の内容をスクープして報道したため、県教委は、99年8月16日に発表を急遽繰り上げて行ない、同時に、『再編による新しいタイプの高校等の概要』を再編対象校向けに配布している。これは、フォーラムの最終回(横須賀・藤沢会場、99.7.25)からわずか3週間ほどで、また、手紙またはFAXによる意見公募の切りである7月末日からは半月ほどで、すでに再編対象校の基本的骨格まで含めた内容が確定していたことを意味する。公式発表予定日より10日以前に、である。
 県民の意見を反映する時間的余地があるとは思えない。これらの意見公募は、形だけのセレモニーにすぎず、『県立高校改革推進計画』は密室の中で完成していたとしか考えられない。
 以下に、横浜会場での意見を、発言順に、発言内容の全てを要約して記す。賛否両論を織り交ぜているが、第1章1.の〔2〕で示した、フロアからの意見が主体の、将来構想検のフォーラムでの発言内容と比べれば、かなり作為的に「編集」されている印象を受けないだろうか? なお、★に身分の記載があるものは、発言者本人が述べたもののみで、特に身分の言及がなかったものは、全て「県民」と記してある。
 また、先に触れたように、このフォーラムでの会場からの意見表明は、改革担当部長による、骨子案の説明後の10分間の休憩時間中に、用紙に趣旨を記したものを県教委職員が集めて、県教委がその中から選ぶ形で行なわれたが、☆の意見のみは、最後に挙手によって、フロアの2〜3人が指定されたものである。


「県立高校改革推進計画(仮称)骨子案」
第1章『計画の趣旨』〜 第4章『柔軟な学びのシステムの実現』について
 

 ★神奈川の教育を考える県民会議
  総合学科や単位制が増えることはうれしい。その実現のためには、教員の姿勢が問われる。研修云々という問題以前に、教員の希望や改善策を集約したアンケート結果のようなものはあるのか?この改革案に対する教員の姿勢が見えない。教員個々人の声を県教委は聞くべきではないのか。県民会議は、小中高生による「こども会議」の活 動を行なっているが、こども主体に話し合わせて口出しをしないようにしている。そうすれば、こどもでも自分の言動に責任を持つようになるものだ。

 〔県教委〕回答なし。

 ★県民A
  総合学科と単位制の違いは何か。

 〔県教委〕学年制がなく、生徒個々が自分の進路希望・興味に従って、自分で学習計画を立てるのが単位制。卒業までの学習計画を立てることができるようになるためのガイダンスも導入している。入学後に、自分の道を見付けられるようにするのが総合学科。多くの選択科目を用意し、就職ならば専門科目を多く、進学ならば普通科目を多く取ることができる。

 ★県民B
  普通高校の特色とは何か?具体的な例を示せ。

 〔県教委〕教科活動に特色をおいている学校では、語学・外国事情等の国際理解、福祉教育、美術・音楽等の芸術教育、環境教育などが、また、教科外活動に特色をおいている学校では、文楽などの伝統芸能の部活動、ナイト・ハイク等の学校行事がある。

  文部省の教育改革の中で、神奈川の高校改革はどういう位置付けとかなるのか?

 〔県教委〕中教審答申に基づく国の教育改革プログラム、及び、新指導要領と連動した改革となっている。

 ★県民C
  新しいタイプの高校4つのうち3つまでが単位制である。手放しで単位制を導入することに問題はないか。東京都では、都立国分寺高校を単位制にすることに対して、保護者・生徒・地域・教職員の全てが反対して運動を行なっている。HRや学校行事がなくなること、受験本位の予備校化となることへの反発である。
  特に、フレキシブルスクールは問題である。8〜12時間、つまり、夜間にまで授業時間帯を設 けて好きな時に勉強をしろということは、生徒に、不規則な生活やアルバイトを奨励することである。また、実務代替や大検などの単位認定の導入は、単位の切り売りである。昼間働いて夜勉強をするというならば、現行の定時制で十分なはずである。

 〔県教委〕*単位制であっても、HRをなくす事はない。しかし、固定化されたHRよりは配慮が必要である。検証をしていきたい。
  *国分寺高校の反対運動は、単位制にすることに対するものではなく、受験進学校にすることに ついてのものであると聞いている。
  *様々な選択肢を持つ学校を作ることが改革の目的である。一定の制度に対しても、その中で、生徒のニーズ・スタイルに応えた学校づくりがなされるべきである。選択肢をたくさん作ることが肝要である。

 ★県民D(フロアから挙手しての、議事進行要求)
  質問に各々応えていたのでは時間が足りない。多くの意見を聞くことが、このフォーラムの目的であるはずであるから、まずは意見徴集を優先せよ。

 ★県立高校教職員A
  第3章『多様な教育の提供』に関心がある。中途退学の問題等に対する取り組みとして評価をする。生徒は、自己実現・パフォーマンスの可能な学校を模索しており、単位制・総合学科に関心が高い。自分の勤務する高校には、福祉コースがあるが、オープンスクールには、多くの中学生が参加しており、学校選択に向けての活発な動きがあることを実感する。そうした現状を考えれば、教員は、県民に対して大きな使命・責任を担っている。
  それを踏まえて、県教委に要求したいことが2点ある。第1には、特色あるカリキュラムの編成や開かれた学校作りの協力体制に関するノウハウの研修の機会である。第2には、行政サイドによる現場への人的・物的なサポート体制である。

 ★中学生保護者A
  中学校の進路説明会では、高校改革に関する説明が何もない。中学生の保護者としては、改革を、交通費のかからない高校が、あっちでもこっちでも無くなっていくという認識でいる。つまり、混乱をしている。中学生が、安心をして高校教育を受けられる改革であってほしい。 大学生でさえ、将来が展望できない者がいる現状がある。ましてや、15才で将来を展望した高 校選択などできるわけがない。改革には、中学生の意見を聞く場面の設定が必要である。

 ★県立高校教職員B
  中高一貫教育は、15才どころか、小学校6年生での将来の選択を強要するものである。中高一 貫校は、エリート校となることは必至であり、小学校での授業のスピードを上げさせるものである。今回の改革は、それを頂点とした校種による学校間格差を固定化するものであり、保護者・生徒の要望に反するものである。
  総合学科は本来多大な予算のかかるものである。その困難をクリアして、高校全校を「総合学科」とするのが、戦後教育の認識であったはずだが、この改革では、「校種間格差」に組み込まれる存 在となってしまっている。総合学科に関しては、現行の大師高校に対する検証を踏まえて展望するべきである。

 ★県立高校教職員C
  自分は、大師高校の教員であるが、この改革案での、単位制・総合学科の認識は、大師高校の現状から遊離をしている。大師高校が総合学科に移行したのは、課題集中校の現状をいかにして改善するかというところから発想されたものである。総合学科に移行して、「輪切り」が解消されたと までは言い得ないが、大師に集まる生徒の層が固定化されず、幅が広がってきたことは事実である。
  何より教員のやる気が重要であり、中学への説明会でもそれを強調している。県教委には、中学との連携及び入選の具体的な方策を示すことを要求したい。

 ★教育相談員
  教育相談では、転学、それも県内公私立校からの転学の相談が多く、全体の1/3を占めている。中途退学者の再入学の相談も多く、それも含めると、相談件数全体の1/2にもなる。こうした現状を、高校改革の視点にぜひとも含めてほしい。

 ★高校生A
  今回の改革案に賛成である。
  単位制高校は、自分がやりたいことや自分の進路希望に向かって、自分で時間割を作ることができる学校であり、学校生活は安定している。生徒間の交流も活発である。縦割りの交流や隣接校(神奈川工業)との交流が盛んである。制服もない自由な校風であるが、自分の行動には、自分で責任を持っている。
  批判する意見もあるが、単位制を多くの人に理解してほしいと考えている。

 ★高校生B
  国際化を学びたいと考えている。留学生との交流の機会があったが、文法中心で学んできた英語では通用しなかった。もっとコミュニケーションのできる勉強をしたい。

 ★高校生保護者
  第3章『多様な教育の提供』に疑義がある。この多様なものからの選択が本当に中学校段階で可能だろうか。入学後にしても、息子は、現行の普通高校の選択科目でさえも悩み、結局は楽そうな科目という安易な選択に流れてしまった。総合学科のようなものに高校生が対応できるのだろうか。

 ★県立高校教職員D
  この改革案は、一方的な上位下達でなされており、作成にあたっての現場の教員・保護者との討議がまったくない。学校改革には、生徒・保護者・教員の三位一体の討議が必要である。すでに高知県では実施をされている、学校協議会の設置を、県教委は考えるべきである。
  この改革案は、「できない子」を大事にする視点がないのではないか。「輪切り」体制をなくす視点がまったくない。
  この改革案は、30人以下学級の視点が後回しになっている。一人一人を大事にするというコン セプトに反している。

 ★県立高校教職員E
  第3章『多様な教育の提供・2.普通科高校の特色作りの推進』にある「特色ある高校づくりの展開例」を評価する。かつての特色作りの県教委の各校への指示の際には、進学重視を特色とすることがタブーとされた。しかし、この例の「A校」では、「大学等の進学希望に対応し、応用的・発展的な科目を充実」と明記されている。進学重視が私立高校に押されて、信頼を失っている県立高校のためには、よいことである。

 ★高校生C
  うまく表現できないのだが、この改革案は、学校教育を進める人たちと保護者とに都合のよいように描かれている。気持ちが悪い。危険な印象を受ける。

 ★県民E
  フレキシブルスクールの構想に賛成する。
  幅広い時間に幅広い生徒が勉強できるということは、自分のような高齢者も、高校生と一緒に勉強ができるということであり、期待をする。
  生徒の生活を律し得ないという指摘があるが、自分はこどもを信じている。だらしのないこどもはごく一部ではないのか。
  定時制の統廃合が推進されていると聞くが、定時・通信とも、フレキシブルスクールに統合したらよいのではないか。

 ★県立高校教職員F
  今回の改革案に賛成である。
 自分の勤務校には、美術陶芸コースがある。枠があるため限度があるのだが、学区外からの生徒も希望して入学してくるようになっている。つまり、県内にニーズが多くある。入学してくる生徒は、成績面からいうと幅があるが、目標を持った生徒が集まっている。高校教育は成績だけではない。自分たちの近くに、自分たちのやりたいものを提供してくれる学校が多くあるという状態がよい。

 ☆中学生保護者B
  中学校のPTAの説明会で、このフォーラムに行ってくれと言われて参加をしたのだが、改革案が配布をされていない。高校改革の内容を知らないものが、中学の保護者には多く、混乱がある。25〜30校の県立高校の削減には反対である。この不況で家計は苦しく、私立高にこどもを進学させることはできない。県立高に入学しても、通学のための交通費などの負担が大きいのでは困る。特色作りのための、私費負担がが大きい。学校によっては教員(非常勤講師か?)の授業料さえも私費で負担していると聞いている。
 この改革案を実現するための財源が、神奈川県にはないのではないか。   〈( )内、筆者〉

 ☆県立高校教職員G
  先の発言者と同じく、財源に対して不安がある。
  破産寸前の神奈川の財政状況の影響で、現在各高校が行なっている選択科目多様化に対してさえ、非常勤講師の配当が十分になされていない。総合学科や単位制には、それと比較にならない人件費が必要なはずである。教育条件が整わないままに、むりやり改革が推進されれば、例えば、単位制の看板を掲げていても、2〜3年生が共通して履修できる科目をいくつか作ってお茶を濁すという状況が生まれてくるのではないか。そうすれば、単位制に期待して入学してきた生徒は、不本意入学となり、改革の意図に反して、中途退学者が増大するのではないか。
  教育予算の十分な確保を、県教委に強く要望したい。

 ☆県民F
  鶴見区の住人だが、近隣の高校では、授業を成立させるために、「できない子」を切り捨てる方 策が取られていると聞いている。改革には、課題集中校同士を統廃合し、学校単位で切り捨てを行なうという意図が含まれているのではないか。

 〔県教委〕○人的物的サポート・財源確保について○
  改革の内容を実現させるために、責任を持って全力の努力をする。学校現場にも協力を願いたい。
      ○中高の連携について○
  中学校への宣伝が必要なことは認識している。骨子案については、各中学校へ送付し、増刷りを頼んである。
      ○学校間格差・切り捨てについて○
  改革の趣旨は、成績による「輪切り」による高校進学から、多様な選択による高校進学への転換である。新たな格差を作るという発想はない。特定の生徒層を弾くという発想もない。切り捨てのための統廃合ではない。


「県立高校改革推進計画(仮称)骨子案」
第5章『地域や社会に開かれた高校づくりの推進』〜第7章『改革推進のための条件整備等』
 

 ★県民G
 学区に対する検討が、H.17年からというのは遅すぎるのではないか?

 ★県立高校定時制教職員
  25〜30校の統廃合は、入学の門戸を狭めるものである。計画進学率は、93年から2%上がっているが、私立高校の入学者枠の問題があり、その実績は0.1%のアップに過ぎない。その状況での統廃合はとんでもない。
  定時制について言えば、三崎高校定時制が募集停止となったが、近隣に現在35人もの入学希望 者がいる。そのため、長時間をかけて他の定時制に通学をし、帰りの電車がないという生徒もいる。機械的な募集停止は、大阪府などでは、弁護士会が人権問題として提訴までしている。
  なぜ高校教育改革が、全国全県同じでなくてはならないのか。神奈川独自のものがあってもよいのではないか。改革案を見直すべきである。

 ★県民H
  今回の改革案に賛成である。
  しかし、総花的な内容であり、大丈夫かとも思う。県教委は、不退転の決意を持って改革を実現すべきである。
  総合学科、総合的な学習の時間など、国レベルからの今回の改革のキーワードは「総合」である。つまりは、枠外しであり、生徒がやりたいことを自由にやれるようにす  ることである。生徒の可能性が拡大することを期待している。
  そのためには、現場の教員が多様化することが重要である。

 ★高校生D
  学校の小規模化が学校の活気の低下につながるとのことだが、そんなことはない。自分の学校は全学年4クラスだが、活気が乏しくなっている状況はない。
  改革には、高校生の意見が、何ら取り入れられていない。

 ★高校生E
  結局は、学歴社会をなんとかしなくてはどうしようもない。大学入試や企業の採用基準が変化しなければ、高校がいくら変わっても意味はない。予備校へ行く者が増えるだけである。
  高校の変化として期待できるものは、総合学習である。授業時間中に、地域や社会と連携ができるようになることには価値がある。

 ★県民I
  かながわ新総合計画21を踏まえた、コース・専門学科の設置が望まれる。環境や福祉などはもう古い。芸術系学科を持つ大学などがある地域の高校に、総合芸術学科を設置するなどの工夫がほしい。
  教員に対してのリカレント教育の場所と時間が保障されるべきである。

 ★県立高校教職員H
  学校評議員・学校モニター・評価システムという地域に開かれた学校のためのシステムは、学校サイドからすれば、御用聞きの立場にしかならない。欧米的な学校協議会のシステムを構想できないのか。
  校長のリーダーシップに重きを置くと、そのリーダーシップが、開かれたものか閉じられたものかによって、学校が随分と違ってきてしまう。校長公選制のような構想はできないのか。
  学校という所は、俗塵的な所である。職員が入れ替わったり、生徒層が変わると、たちまち学校の性質も変わってしまう。学校の統一性を保つため、民主的な話し合いをもととして運営をされている。そのことを認識すべきである。
  その発展として、具体的学校名が明示された8月末以降でもよいから、学区・地域ごとの学校の会合を持つべきである。

 ★県立高校教職員I
  自分の勤務校では、学校5日制・新カリをにらんで、教育活動の再構成・再構築を検討している。その中で、地域に開かれた学校の構想も考えられている。各学校は、主体的に改革に取り組むべきである。

 ★中学生保護者C
  親として学校にどういうアプローチができるかを考えている。学校5日制は、単なる休みであるのか。それとも、土曜日に、地域の人間、特に父親が集まる場所として、学校が活用されるように なるのであるか。

 〔県教委〕○学校開放について○
  現在でも学校の施設開放を行なっている。今後とも、その方向を進めていきたい。
      ○学区について○
  H.17年以降、再編整備計画のアウトラインが見えてきた時点で、県民の意見を聞き、根本的な 見直しをしたい。学区の弾力化については、前期計画の中でも検討をしていきたい。
      ○統廃合と進学機会の関連について○
  学校数が進学機会を決定するわけではない。計画進学率は、段階的に引き上げている。しかし、私学の入学者数枠が実績を上回っていることは事実であり、実績に近付けるように対応をしていきたい。
      ○統廃合と学校活性化の関連について○
  小規模化全てが駄目だといっているわけではない。標準的な規模としては、どの程度がよいかという基準を示しているだけである。個々の学校の事情によっては、学年6クラス以下でも構わない。
      ○開かれた学校について○
  学校は、学校評議員の意見をただ聞くだけではない。もっと積極的な内容を考えている。
      ○中学校保護者との情報交換・交流について○
  対応したい。

 ☆高校PTA役員
  学区・入選については、通学区域の問題、学校間格差の現状があることを考えて、現場の意見を聞き、十分な討議をしてから行なうべきである。

 ☆県立高校教職員J
  この改革案からは、学区・入選の姿がどうなるのか見えてこない。単位制など多くの予算や人的措置が必要となるのに、その保障をどうするのかがまったく明らかにされていない。身障者に対する加配が削られる等、さまざまに予算配当が縮小されており、現状にさえ責任を持てない状況で、どうしてこのような「改革」ができるのか。
  この改革案は、将来構想検のフォーラムで多くの県民から出されたさまざまな懸念・心配にまったく答えていない。本日も多くの懸念・心配が示された。こんな状況の下での「改革」のごり押しは許されない。8月末の具体校名発表などもってのほかである。
 〔県教委〕○意見集約について○
  インターネット、地域行政センターで、寄せられた意見を示せるようにする。

 県教委は、最後の回答にあるように、「高校フォーラム神奈川'99 県立高校改革を考える」の主な意見に、〈反映状況〉を添えて、インターネットで流している。作為的に「編集」されていると思える意見公募の中の批判的意見さえ、現在進行している再編計画には〈反映〉されていないことが、そこから明確に分かる。
 横浜会場の意見から、いくつかを拾い出して、下に示したい。
 高総検委員のまとめ方と表現が違い、また、一人の発言を分割して示しているものもあるが、全て上記の意見採集と相関している。

意見(県民など)反映状況(県教委)備考(県教委)
 教師自身がワクワクする計画でなければ、どんなに多様な科目を用意しても集まる生徒の気持ちがそがれると思うので、教師の希望、改善策を聞いてほしい。今後の取り組みの参考にします。 
 新しいタイプの高校の4種類のうちの3つが単位制高校だが、単位制の問題点を十分検討し、学校や生徒、保護者、地域の人たちの納得の上で移行してほしい。検討の参考にしました。 
 フレキシブルスクールは、不規則な生活、アルバイトを奨励するような学校になってしまい、実務代替や問題のある単位認定が認められてしまうので、反対である。検討の参考にしました。 
 多様な高校づくりは、これからの社会を担っていく子ども達にとって大事なことだと思うが、15歳で将来を展望することは難しいと思う。検討の参考にしました。中高連携による進路指導を推進します。
 後期に中高一貫教育校があるが、そこに進むとなると中学3年ではなく小学校6年で選択させることになる。検討の参考にしました。 
 一番上に中高一貫教育校、その次に現在の進学校、その次に現在の普通科高校、その下に総合学科高校がくるという形になる。検討の参考にしました。 
 総合学科高校は、元々は基礎教養の他に自分の関心のあることを学び、将来のことを考えていく大変良い学校だが、今回の計画では、対象とする子は入学段階で自分の進路を考えることができない子なので、学校間格差を拡大することになる。検討の参考にしました。 
 多くの教員や保護者と一緒に議論もせずに、骨子案が出たのは残念。検討の参考にしました。 骨子案は、県民の皆さんからご意見をいただきながら取りまとめられた「県立高校将来構想検討協議会」の答申を踏まえ作成したものです。
 県教委には、学校評議会・協議会を作ってほしいと要望する。検討の参考にしました。 
 骨子案は、できない子を大事にしていないが、それを計画の第一目標にすべき。検討の参考にしました。 
 30人学級が遠回しになってしまったことが残念。検討の参考にしました。小集団学習など授業展開上の工夫を図ります。
 骨子案は、色々なことが書いてあるが、生徒のことを思っているのではなく、学校教育を進める人やそれを支える保護者に都合がいいようにできていると感じる。検討の参考にしました。 
 8月末に計画案を公表するということだが、多くの人が計画の内容を知らないまま公表することは問題だと思うので、延期してほしい。検討の参考にしました。 
 30校あまりが廃止になるということだが、不況の中、私学にやる余裕もないので削減しないで中身を充実してほしいと思う。検討の参考にしました。 
 三崎の定時制が廃止になり、通学費がよりかかるようになったと聞いたが、現在でも私費負担が多いので、計画が進むことにより親の経費負担が増えると困る。検討の参考にしました。 
 県職員のボーナスがカットされるような財政難の中、校舎も老朽化しているという県立高校の実態の中で、計画の財源があるのか心配。検討の参考にしました。 
 現在、各校で選択科目を増やしており、非常勤の先生に頼らざるを得ないが、財政難で年々非常勤が少なくなっている。今後の取り組みの参考にします。 
 総合学科や単位制による普通科は教師の人数がより必要になるが、予算がなくて2年生も3年生も共通の選択科目にするような形だけの単位制にならないよう予算の確保を願いたい。今後の取り組みの参考にします。 
 学区内の成績順で言えば一番下の2校は、以前は誰でも入れたが、みんな安全圏を狙うことから誰でも入れるということがなくなり、その学校は以前と比べ授業が成り立つようになったのは結構なことだが、行き場のない子、中退者も増えた。検討の参考にしました。 
 今回の計画では、その2校が統合されて総合学科高校になるとの噂を聞いたが、それでは更に行き場のない子が増え、できない子を切り捨てることになってしまう。今後の取り組みの参考にします。中高連携による進路指導の推進を図ります。 
 統合により入学の門戸が狭まることはないと書いてあるが、機械的に入学機会を狭めているのが実態であり、現在でも入れない生徒が沢山いる計画案に反映しました全日制の高校への進学希望等を考慮し、計画進学率を段階的に引き上げていきます
 統合により、30校近くの学校が減少することは、若い世代を中心に社会的不安を引き起こすと思う。検討の参考にしました。 
 首都圏の教育委員会が出す高校改革計画は、どれも金太郎飴で、みな同じ。検討の参考にしました。 
 骨子案は、大人の視点ばかりだが、高校生の意見をもっと聞いてほしい。検討の参考にしました。広くご意見をいただきながら取り組みを進めています。
 結局は学歴社会であり、高校がどんなに変わっても、大学入試や企業の採用が変わらなければ、いい大学に行かなければいけないという気持ちは変わらない。検討の参考にしました。 
 開かれた高校づくりの例として、学校評議員制度、学校モニター制度などがあげられているが、教員、校長、生徒や保護者、また地域の代表も入れた欧米風の学校評議員制度の導入を望む。 検討の参考にしました。 
 校長のリーダーシップだが、高校を開かれたものとするためには校長の公選制も展望すべき。計画案には反映できません。 
 再編高校名の公表は8月末とのことだが、その時点ではまだ決定ではないと聞いているので、公表後、学区毎などで今日のような集まりを設けてほしい。今後の取り組みの参考にします。今後、計画案についてご理解をいただけるよう十分説明していきます。
 入試の改善後まだ混乱している中で、今度は再編整備により新しいタイプの高校を設置するとのことだが入試選抜制度と学区が具体的にどうなるのか見えてこない。今後の検討の参考にします。後期計画の進展を踏まえ、検討を進めます。
 予算の獲得に責任を持って取り組むというが、現状でも、身障者対応や小集団教育のための教員加配が打ち切られている中では難しいのではないか。今後の取り組みの参考にします。 
 昨年の将来構想の高校フォーラムで出た懸念、意見が骨子案に反映されず、今日も賛成意見もあったが懸念や心配も出ているのでもっと議論が必要であり、拙速な改革には反対。検討の参考にしました。 

(下線、太字体は筆者)
 「検討の参考にしました」「今後の取り組みの参考にします」という〈反映状況〉は、「計画案には反映できません」と同意ではないだろうか。その意味では、正直に答えているのは、校長公選制の意見に対するものだけである。
 特に、下線を付した、高校統合による進学機会の低下についての意見に対する、「計画案に反映しました」という〈反映状況〉は虚偽である。この問題については、事項に述べる。

〔3〕行き場のない中卒者の現状の無視

 高校統合による進学機会の低下についての、県教委フォーラムでの意見に対し、「計画案に反映しました」とインターネットで県教委が言っているのは、虚偽であると述べた。 『県立高校改革推進計画』への反映とは、「計画進学率は、現在、93.5%としていますが、全日制の高校への進学希望等を考慮し、今後も段階的に引き上げていきます。」という記述、また、「県内私立高校の生徒受入枠については、今後も公立高校と私立高校との協議によって、生徒数の減少や進学実績に応じた調整を図っていきます。」(第6章 県立高校の規模及び配置の適正化の推進 2 全日制課程の再編整備の基本的な考え方  学校数適正化の基礎条件)という記述のことを指しているものであろう。
 「公立高校と私立高校との協議」の場とは、県教委、横浜・川崎・横須賀各市教委、私立中高協会による設置者会議のことを指すものと思えるが、99年8月30日に、'00年度募集の全日制公立高校の定員枠を、2,300人程削減とするとした同会議の4年ぶりの大幅減の決定は、進学機会の拡大という公教育の使命を死に体にしていると言わざるを得ない。翌年度募集計画の公式発表は10月下旬である。その2ヵ月ばかりも前の99年9月4日に、『朝日新聞』が、設置者会議の合意内容を掲載している。再編計画のスクープと同様、衝撃的な内容であるということである。確かに、県教委は、'00年度募集の計画進学率を94.0%に引き上げた。しかし、それでも全日制を希望しながら入学できない中学生を多数生み出しているのである。
 それは、高総検の意見採集にあり、県教委インターネットの〈反映状況〉〈備考〉からは削除されている、フォーラムでの県教委の回答「私学の入学者数枠が実績を上回っていることは事実であり、実績に近付けるように対応をしていきたい。」という状況に、全く「対応」できていないためである。
 毎夏、神高教は、翌年度募集計画や転編枠等それに関連する具体的事項の県教委との協議を、急減検討会において、現場代表を含めて行なっている。
 99年8月12日の、99年度第3回急減検討会のやりとりを、以下に示す。この交渉は、その場においては「決裂」をしている。

  ☆2000(H12)年度県内公立高等学校全日制入学者定員(募集計画)案☆
  増減数は前年度計画との対比

 全日制課程進学者県内公立高校以外への進学者数県内公立高校進学者数j 県内公立高校普通科入学定員
j=h+i
k 普通科海外帰国生徒等特別募集l 県内公立高校普通科入学定員計
 l=j+k
a 県内公立中学校卒業予定者数b 進学率c 進学者数d 県内私立高校進学者数e 県外国公私立高校及び高専進学者数f 専門学科g 総合学科h 普通科i 県内公立中学以外からの進学者
74,80094.0%70,31217,5005,6006,80524040,16740040,56713540,702
前年度増減 △2,624
  〈実績〉
前年度増減 0.5%前年度増減△2,030前年度増減 △500前年度増減 △264〈実績〉
800 計画
前年度増減 △39
 39×1クラス減
前年度増減 0前年度増減△2,291
58クラス減
h=c-d-e-f-g
前年度増減 0前年度増減 △2,291前年度増減 0前年度増減 △2,291

 《進学率実績予想》

 県内私立高校進学者数が、99(H11)実績と同数と仮定する。
 〈d=15,544 → c=68,356〉
        b=91,2%(△ 計画2,8%)
 【県教委説明】

 具体的な数字を前提としてのやりとりを初めて行ない、例年1回の交渉を7回にわたって行なったが、私学サイドの姿勢は、予想以上に厳しく、県内私学進学枠を500下げさせたが、県内進学誘導のために低く設定している県外進学枠を、実績に近付けて800上げざるを得なくなった。県との交渉以前に、シナリオが描かれている。8月30日に私学サイドとの最後の調整を行なうが、大きな変化は見込めない。

  私学サイドの主張

 00年度については、県立高校で6学級未満は出さない方針だったが、5学級校を出さざるを得ない。

  候補学区 ・横浜南部 ・川崎南部(線上。市立の協力状況によって変わる。)

【神高教質問・要求()と県教委回答()】

 県内私学進学枠を下げても、県外進学枠を実績に近付けて上げるのでは、進学率の実績を下げることとなり、矛盾している。県外進学枠は県内進学の誘導として下げているはずである。県外進学は、実質的に私学への進学ではないのか。

A 私学サイドに、県内進学の誘導という説明をするのが難しい。矛盾はある。進学率の実績は、92 %までは行きたいと私学サイドとも協議している。県立高校改革を第一に考えている。私学サイドと一定の合意をした方が県立にとってもプラスとなると判断している。

Q 92%では昨年度と同じである。第一、なぜ進学率を私学サイドと協議するのか。協議事項では ないはずである。県内私学進学枠の計画と実績の解離を県民にどう説明するのか。

A 計画進学率のアップを第一義に考えている。

Q 義務制との協議はどうなっているのか。

 教育委員会として話をまとめている。やり方を変えているわけではない。

Q 5学級校が出ることについて、校長会との協議はどうなっているのか。学区別資料はできている のか。

A 校長会とは、組合と同時進行で相談をしている。

Q 納得できない。議会内の県立高校を減らせという主張の影響もあるのではないか。県立高校再編整備計画の前提が崩れる。私達は、(1)進学機会拡大、(2)教育条件整備、(3)現場との協議、を再編整計画への対応のスタンスとしている。県立高校への進学機会を狭めた再編整備計画は、学校の数を減らすだけの結果となる。これでは、私学の計画のための再編整備計画であって、生徒が減る分をすべて県立高が負う結果となる。単なるリストラであり、今までの方がまだましだ。再編整備計画に対するスタンスを変える必要を感ずる。

A 私学サイドの数字の保障の要求を県が許容しているわけではない。'00年度の実績を見て、'01年度に臨む。実績が上がらなければ、県内私学進学枠の削減を迫る。最大限の努力をする。

Q それは毎年言っていることだ。私学は75,000も取り切れない。県立の定・通があふれかえって しまう。再編整備計画の根幹に関わることであり、このテーブルだけの問題ではない。合意はできない。


 つまり、単純に計算すれば、'00年度の私学進学実績(本稿執筆時は'00年急減検討会がまだ開かれていないので、'00年度実績の数字は不明)を、99年度と同じ15,000人程と仮定すれば、私学が取り切れない分の2,000人程の中学生が、全日制にはどこにも行き場がなく、公教育がその保障をしていないということになる。言い換えれば、私学の経営のために公立高校がその数を減らしている、ということともなる。急減期ボトムに接近した、この時期に、である。
 この後、委員長・管理部長の交渉が持たれた。その内容を、高総検全体会(99.8.27)における本部執行部(副委員長・書記長)の再編整備の現状報告から、引用する。
 募集計画の問題については、8/19に委員長と管理部長との交渉を持った。再編整備計画前記計画の終わり時点(2005年)には、計画進学率を95.0%に引き上げ、県内私学枠を16,500〜17,000に引き下げる方向である。

 99年度第3回急減検討会から9ヵ月ほど経過した現在、県教委が、私達の再編計画に対するスタンス、「教育条件整備」「現場との協議」(『県立高校改革推進計画』の寝耳に水の発表はこの4日後であった)をないがしろにする姿勢であることは明らかである。「進学機会拡大」に関して、約束を違わないという保障はどこにもない。
 また、この急減検討会において、県教委は、2,000人程の中学生が全日制にはどこにも行き場がなくなることの影響からか、課題集中校への教育条件整備剥脱の可能性に言及をしている。

 【県教委説明】

 '01年度より、転編入枠については、課題集中校対策とは別課題としたい。
 '00年度については、以下の形で実質保障をする。

  普通科全校 [従前]2名 ['00年度]+1名
  課題集中校 [従前]4名 ['00年度]−1名  → 3名+3名=6名

 専門高校のクラス1名、過去2年間5名以上実績ある学校への+2名(ただし学級数は超えない)は変えない。
 【神高教要求】
 学級定員については、別テーブルでの交渉としたい。転編入枠を便法として使うのではなく、本質論として話し合いたい。
 このテーブルでは、高校ランキングによって柔軟な学校間の異動が阻害されている問題について、例えば、全日から定・通への転学は容易であるが、定・通から全日への転学が困難である問題の解決などについて交渉をすることとしたい。

 急減検討会では、この件についても「決裂」をしたこととなる。
 第1章2.の〔1〕「(将来構想検『中間まとめ』の)各論批判I・教育条件整備(=30人以下学級実現の視点)」に、文部省調査研究協力者会議報告の新聞報道に慌てて、その批判を付け加えた。そこで、報告の「指導が困難な特定の学校などで重点的に少人数学級を編成する方法の提案」「レッスンクラスの小集団化にかかる非常勤講師人件費の国庫補助の方針」は、必ずしも評価できるものではなく、30人以下、どころか、39人以下学級さえも避けるための方便なのではないのかと、指摘をし、例えば、課題集中校を対象として少人数学級校の選択的導入を行なおうする場合、それどころか、現在の課題集中校に重点的に措置されている加配を維持しようとする場合に、他校がその分をかぶれということになるのではないかと、懸念を記した。
 県教委の、課題集中校の実質39人学級の措置を崩そうとする動向は、こうした展開への布石となるのではないかと、重ねて懸念を述べる。

〔4〕横浜市教委の姿勢

 県教委だけではなく、横浜市教委も、高校再編計画を一方的なトップダウンで押しつけてきている。両教委の姿勢は、横須賀市立高校普通科・商業科・工業科の3校の統合に際して、3校連絡会「横須賀市立高等学校教育連絡会議」での現場の意見を、計画案に反映をさせている横須賀市教委の姿勢と、対照的である。しかし、再編計画の内容は大きく変更をしないものの、当初案よりも再編計画期間を10年間に延長してその進行を緩やかにするなど、ある程度は現場の声を取り入れている横浜市教委の方が、アリバイ作りの意見募集に終止している、頑なな県教委よりは少しはましと言えるかもしれない。この背景には、浜高教の反対運動がある。
 高総検は、2回にわたって浜高教本部を訪問して、本部執行部委員の方に市立高校再編整備計画への取り組みをお聞きし、『高総検レポートNo.45「横浜市立高校再編整備計画の現在」』(99.7.28)として、現場への情報提供をした。以下に、若干の編集をして、それを再掲する。

高総検レポートNo.45
1999年7月28日発行(加筆修正)


横浜市立高校再編整備計画の現在

【浜高教本部執行部に聞く】

(略)

 昨年(98年)12月22日、全くのトップダウンでプレス発表された横浜市教委の市立高校再編整備計画案は、全日制全校の単位制化・全県一学区化など、現在、県教委のブラックボックスの中で進められている県立高校再編整備計画に極めて影響の大きいものである。神高教は、「定時制高校の切り捨て反対・全日制普通科の学区外し反対」を訴える浜高教の署名活動に、組織的に協力をした。
 高総検事務局は、市教委のプレス発表後の本年(99年)1月27日、県教委の再編整備計画イメージ教職員配布後の(99年)6月24日の2回、浜高教本部に赴いて、執行部役員の方々に、市立高校再編整備計画の現状についてお聞きした。
 以下、枠線内の記述以外はその内容を要約して記したものである。現場への情報提供としたい。
 


        横浜市教委「横浜市立高校再編整備計画」概略

(1) 全日制普通科全校(東・南・桜丘・金沢・戸塚)の単位制導入、学習系列設置、および、全県一学区化。
(2) 鶴見工業高校の科学技術校(情報・環境・デザインなど)への改編。
(3) 横浜商業高校への国際学科の設置。
(4) 既存校の再編による単位制総合学科の設置。
  a 港高校・港商業校舎 → 全日制
  b 横浜工業高校校舎  → 定時制(昼間部〈三修制対応〉・夜間部)
     =全定時制高校(戸塚・港・鶴見工業・横浜工業・港商業・横浜商業)の統廃合
(5) 学校間連携の推進=全日制の学校間の単位の互換

   【98.12横浜市教育委員会リーフレット「個性を伸ばし、多様な選択ができる市立高校を目指して」より】
 

 (1) 99年1月段階

  (1) 突然のトップダウンによる計画案発表
 ●少子化・市財政状況への対応としての、定時制の解体は推測していた。全日制普通科全校の単位制移行・全県一学区化は寝耳に水である。
 ●鶴見工業高校の科学技術校への改編は、同校内の「将来構想検討委」とのすり合わせがまったくない。
 ●浜高教は、国際高校の設置を要求していたが、国際学科導入に矮小化された。
 ●現在、選択多様化のカリキュラムを展開する努力を各高校が行なっているが、7〜8クラスないと科目が成立しなくなる。再編整備計画案は、そうした現場の努力を無視している。
 ●定時制切り捨ては高課検での話し合いを無視(「入学者数2年連続15名以下」の根拠による募集停止でさえない。)している【浜高教・浜教組連名の申し入れ】。
 ●98年12月21日に計画案が浜高教に示され、すぐ翌22日に新聞発表されている。市教委は、99年2月6日の市民フォーラム(市教委はフォーラムの開催を市の便りに載せただけであり、パンフも100部ほどしか用意していない。つまり、ほとんど宣伝されておらずアリバイづくりであることは明白。)を経て3月までに計画を確定したいと言っている(浜 高教は、県との整合性を保つため、5〜6月まで待つべきと要求。)提示に冬休み直前の時期を狙い、電光石火に事を運んでいるのは、意図的に検討・抗議の時間的余裕を奪うためである【99年1月30日、浜教組参加の決起集会〈神高教も参加〉】。

  浜高教・市教委交渉の概略 《[組]・浜高教、[市]・横浜市教委》 

             ○ 定時制切り捨ての問題 ○

 [組]定時制の切り捨てをなぜ行なうのか?
 [市]少子化、市立定時制希望者減の状況がある。その中で、例えば、定時制によっては、在籍生徒 の15〜20%が市外出身者であるような実態がある。財政状況を考える時に、市民の税金を用いて定時制を現状のままとすることはできない。また、サポート校的な存在に、公費は不要である。

            ○ 全日制全県一学区化の問題 ○
 [組]全日制全校を全県一学区とするのは、県立高校を視野に入れた場合、学校間格差の拡大を招き、受験競争の激化につながるのではないか?
 [市]学区については、中教審によって、市町村に決定権がある。本来ならば、全市一学区としたいが、市立高校がない学区もあり、県内で市立独自の入試制度を組めないので、全県一学区とした。特色ある学校としての位置付けである。
 [組]市立高校がない学区があるのは、急増期の百校計画を県立に押しつけ、市立が怠けてきた結果ではないのか。
         ○ 教育条件整備の問題 ○
 [組]全日制全校を単位制としても、教育条件整備の現状を考えれば、現行の選択科目多様化(県立よりは充実)とほぼ同じカリしか対応できず、上っ面だけのものとなる。何の意味があるのか?
 [市]二期制が入れやすくなるメリットと、教員数確保のメリットがある。この案が実現しなければ、雇用の問題にも発展しかねない。
 [組]二期制については、現在の教育条件では、年間に2種の時間割りを組むことは不可能である。教員数確保については、30人学級要求の全国運動をどうとらえているのか。
 [市]30人学級の展望は、現在、まったくない。
 [組]教育予算をかけない単位制は、授業時間の殺人的増大による教員の負担荷重を招くだけである。


 5月25日提出段階で、トータル43,000筆の署名提出など、浜高教の様々な運動を経て、市教委の態度は変化をしてきた。「12月案は確定ではなく、市民の声を聞き、具体的な案はこれから示したい。案が完成したものと受け取られ、現場を混乱させた。」とし、当初は2005年度完成と謳っていた再編整備計画を、「将来的に」完成させるものと言明している。浜高教は、これを、一方的な再編整備計画を運動によって押し返したものと評価し、この後の取り組みは個別の協議によるとしている。
 

 (2) 99年6月段階
  a. 市教委の態度の変化

             ○ 定時制切り捨ての問題 ○
 ●昨年度(98年度)は6月末に、統廃合への対処を言ってきており、県立三崎高定時制の存続運動などを例に出して、簡単に募集を止めるべきではないと反対した。本年度は、現在のところ、何も言ってきていない。

            ○ 全日制全県一学区化の問題 ○           
 ●現在のところ、全県一学区化を変えてはいないが、地方分権一括法通過後には、地方自治体に裁量権が生ずることから、市教委は、横浜市内一学区化を目指したい意向を持っている。
 ●単位制高校の配置のバランスについては、県教委と協議をしていると述べているが、その内実を明らかにはしていない。再編整備計画確定は、当初、市教委は3月と言い、浜高教は県との整合性から5〜6月まで延ばせと主張してきたが、現在のところ、動きが見られない。県に合わせて、8月末以降に出てくるのではないか。

             ○ 教育条件整備の問題 ○
 ●単位制に移行するには、教員定数のみならず、施設の面からも不備である。生徒の空き時間のためのホームベイ(居場所)が確保できる学校は2校しかないが、市教委は、予算をかけられないため、新設は論外と言っている。また、人的保障ができないことから、2・3年生が共通して取ることのできる科目(1年次からの科目選択は困難なため)があれば、単位制的なシステムを導入したとして許容すると言明しているが、これは単位制ではない。

  b. 市教委以外の動き
 《横浜市長》
  市立高校再編整備計画案に同意していないと、99年年頭記者会見で表明。公立高校教育の主体を県立任せたい意向。浜高教委員長が、市立高校の役割を訴える手紙を市長に出し、返事をもらっている。市立高校の役割を、市立高校校長会ともども市長と話し合っている。
 《市立高校校長会》
  市立高校再編整備計画案に賛成している。学校間連携に関し、部活指導の派遣・単位互換などについて検討をしている。
 《存続運動》
  港高校の卒業生・教職員有志による存続運動がかなり大規模に展開している。市立高校は地域との結びつきが強く、学区外しに対する地域からの反対の声があがる可能性もある。


 以上の動向を踏まえ、浜高教は、以下を対案として市教委に提示している。また、神高教と共通する課題の指摘をお聞きした。
 

 c. 浜高教対案概略

 《専門高校》  :現場の意見を尊重して対処すること。
 《全日制普通科》:単位制への移行について、現場からの要求がある場合は否定をしない。一方的なトップダウンは行なわないこと(現在要求なし)。
 《定時制》   :本当に生徒がいなくなった場合の相談はしている。現在一方的に門戸を閉ざすのは妥当ではない。

 d. 神高教と共通する課題
 ●入選・学区の問題を置いておいて、再編整備・高校多様化を進めようとしているのは、市教委・県教委ともおかしい。受検する中学生の側からすれば、「どのタイプの高校に入るか」よりも「どうやって高校に入るか」の方が先の問題であり、入選に大混乱を引き起こすことは必至である。市立高校・県立高校・中学校が連携し、市民レベルのシンポジウムを開くなどの取り組みが必要である。
 ●現場との協議をしようとせず、トップダウンで事を運ぼうとする姿勢は、市教委・県教委ともおかしい。計画は行政が一方的に立て、失敗すれば現場の責任であるという体制では、意欲を持った取り組みなど期待できないはずである。市立高校再編整備計画案を公式に見直す動向はないものの、市教委は、少なくとも市立高校内での論議を促している。ともに、現場からの論議の積み上げを活性化すべきである。


 本レポート後の、横浜市立高校再編整備計画の状況を、新聞報道から拾い、整理してみる。

 A 再編整備計画の見直し 【『朝日』99.9.18】

 《当初案》《見直し案》
★2003年度からの3年間で再編。☆再編整備計画を前期(00〜04年度)と後期(05〜09年度)に分けて、ペースを緩やかにする。
★全日制普通科全校単位制導入・全県一学区化☆単位制の一斉導入はせず、前期にモデル校で実施して、その成果を見ながら他校に広げる。
☆全県一学区は当面見送る。
★全定時制高校の統廃合
  (定員735人から140人に縮小)
☆入学者数の動向に合わせて段階的に進める。
定員は、当初案より減らす幅を少なくする。

 B 再編整備計画の確定 【『朝日』00.2.10】

☆前期計画('00〜'04年度)

(1) 南・戸塚の単位制移行。
(2) 横浜商業高校への国際学科の設置。
(3) 既存校の再編による単位制総合学科の設置。(全日制・三部制の2校)
     =定時制・港、鶴見工業、横浜工業、横浜商業、全日制・港商業の統廃合
     →募集停止 港、横浜工業、横浜商業、港商業 '02年度
           鶴見工業            '03年度
 
☆後期計画('05〜'09年度)

(1) 東・桜丘・金沢の単位制移行。
(2) 鶴見工業高校の科学技術校への改編。
(3) 既存校の再編による単位制総合学科の完成。(全日制・三部制の2校)
     =定時制・戸塚の三部制単位制総合学科加入
 

 結局、横浜市立高校再編整備計画の当初案からの変更点は、(1)再編整備計画を前期と後期に分けてペースを緩やかにする、(2)当面は全県一学区を見送る、(3)定時制の定員を当初案より減らす幅を少なくする、の3点にすぎないのだが、ある程度でも現場の声を取り入れている分、横浜市教委の姿勢は県教委よりもましである。
 ここに、県教委と市教委の立場の違いがある。
 高総検全体会(99.2.6)では、横浜市立高校再編整備計画を、「横浜市長が市立高校をつぶしたい意向であることを考えれば、市教委は、テリトリーを守って、リストラ外し・教育予算切り下げ外しを実現することが主目的ではないか。全日制だけを見れば、校数は一校も減っていない。」と分析した。逆に言えば、県教委の立場とは、どういうものかということになる。
 同全体会では、神高教と浜高教とに共通する最大の課題は学区である、という結論に達した。市が高校を作る意義は何かを考えれば、地域との結びつきを無視するわけかないはずであり、それは、政令指定都市の責任でもあるはずだ。学区外しは、市立高校の首をくくる行為である。これに関しては、『県立高校改革推進計画』の柱に「地域や社会に開かれた高校づくりの推進」を掲げる私達も、同じスタンスに立たなくてはならないはずである。
 なお、教育研究所のニュースレター『NEZASU No.33』('00.3)に、市立高校の再編・統廃合に関する、神教組(三浦教組)と浜高教からのレポートが掲載されているので、参照されたい。


〔5〕総括

 以上の、再編計画に関わるX期高総検の活動を総括し、再編計画の問題点を、『高総検レポートNo.46「県立高校改革推進計画(案)の検証」』('00.1.20)に指摘して、現場に提供した。これは、X期高総検が『県立高校改革推進計画』そのものに言及し得た、唯一のレポートである。このレポートは、『県立高校改革推進計画』の「批判」であり、今後の「再編に関わる条件整備的な問題の指摘」や「各校のタイプに応じたガイドラインの策定」といった「対案」には至っていない。その事情は、この章の冒頭に記した。しかし、その冒頭に述べたように、高校教育改革の目指すべき道が、『将来構想検答申』の謳う、「学ぶ意欲や『学習歴』が適切に評価される社会への転換」(「IV 将来構想の推進にあたって」)にあるならば、『県立高校改革推進計画』の欺瞞性を認識しておくことが、第一義であると考える。
 以下に、レポートに若干の編集を加えて、再掲する。


高総検レポートNo.46
2000年1月20日発行(加筆修正)


県立高校改革推進計画(案)の検証



 高総検は、以下の3点について、県教委『県立高校改革推進計画(案)・活力と魅力ある県立高校をめざして』(以下、『県立高校改革推進計画』)を、批判する。
 再編対象校のみならず、全ての教育現場が、このことについての声をあげることを期待する。また、県教委が、その要求を真摯に受け止めることを熱望する。
  1. 県教委は、『県立高校改革推進計画』の具体的内容を、広く県民の声を聴くことなく、また、関係諸団体・諸機関に諮ることもなく、内部で作り上げ、抜き打ちに発表した。つまり、計画案の内容は、生徒の実態・現場の必要を積み上げたものではない、トップ・ダウン式のものとなっている。
  2. 前期計画正式決定の現在に至っても、『県立高校改革推進計画』の裏付けとなる予算計画が明確に示されていない。計画案が、教育予算削減にのみ機能するのではないかという危惧を禁じ得ない。
  3. 『県立高校改革推進計画』は、全国的な要求運動となっている30人以下学級実現の視点を持っていない。学級定員は、あくまで40人に固定し、学級規模の縮小化を少なくとも10年間計画から排除している。


 (1) 県民の声は本当に反映されたのか?

  a. 「教育課程の自主編成権」は、有名無実か。
 県教委は、さる99年8月16日に、突如として、『県立高校改革推進計画』を発表した。県民は、『県立高校改革推進計画』の内容(特に再編対象校)を、当初8月25日に予定されていた公式発表の10日前に、朝日新聞のすっぱ抜きで、初めて知らされた。そのため、発表が急遽8月16日に繰り上げて行なわれたのである。
 この、再編対象校の実名まで入った『県立高校改革推進計画』の内容は、県議会の文教常任委員会にも公表されていなかったという。
 『県立高校改革推進計画』の公表前に、県教委の担当者以外だれが内容の細部まで知っていたかは、今のところ不明だが、再編対象校の管理職も知らなかったことは、どうやら確からしい。いわんや対象校の一般の職員・在校生・同窓生・地元中学生・保護者をはじめとする地域住民などには、まさに寝耳に水であった。
 当事者にさえも知らされなかったのはそればかりではない。『県立高校改革推進計画』といっしょに、再編対象校に向けて個別に作られた『再編による新しいタイプの高校等の概要』(以下、『概要』)が初めて配られた。この『概要』は、学校作りの実施設計図のようなもので、各新設校の基本的骨格が、教育課程の編成に自主的権限を保障されているはずの関係教職員の関与の余地なく、県教委によって事細かに規定されている。
 昨今の情報公開と説明責務(アカウンタビリティ)・住民参加の大きな流れの中で、県教委も、これまでそれに応じた形づくりは行なってきている。しかし、それは表面上のものに過ぎず、全く中身がともなってはいない。『高総検レポートNo.44』(99.7.21)でも報告したように、「学区(地域)内での検討・協議を保障」し、「事前に該当する学校との十分な協議と同意を踏まえた」計画にせよという、私達神高教の今年当初(「県立高校の将来構想に関わる要求書」99.1.29)以来再三の要求にも関わらず、県教委はそれを頑なに拒否し続け、先の公式発表まで密室で作業を行なってきた。

 b. 「地域に開かれた学校づくり」は、有名無実か
 今回の『県立高校改革推進計画』の作成に関わって県内6箇所で行なった県民対象のフォーラム(「高校フォーラム神奈川'99県立高校改革を考える」)も、参加者に骨子案を示すのみで計画の具体的な内容を提示することなく、会場で意見表明希望者を募るものの、その中から主催者が指名した者だけに一般的な意見や感想を述べさせるに終わっている。しかも、最終回(横須賀・藤沢会場、99.7.25)からわずか3週間ほどで、また、手紙またはFAXによる意見公募の締め切りである7月末日からは半月ほどで、『県立高校改革推進計画』を発表した。
 『県立高校改革推進計画』に、県民の意見を反映する余地がどこにあったのだろうか。すでに再編対象校の基本的骨格である概要までが確定していたことを考えれば、とうてい不可能である。これらの意見公募は、情報公開としても説明責務としても住民参加としても、機能してはおらず、単なる形だけのセレモニーにすぎなかったことを、公式発表の繰り上げによって、自ら暴露している。『県立高校改革推進計画』には、「地域・社会との連携・交流の推進、地域の意見を反映した学校づくり」という項目があるが、地域の意見を無視している事実を考えれば、これはアイロニーとしてしか映らない。

 c. 「地方分権の推進」は、有名無実か
 99年11月25日に、『県立高校改革推進計画(案)』から「案」の文字が半ば取れて、前期計画が正式決定となった。県教委は、年内に「県立高校改革推進会議」を立ち上げるそうである。公式発表からの3ヵ月あまりの間に、県教委は、再編対象校をまわっての『県立高校改革推進計画』・『概要』の説明を行なっているが、その場で示された教職員の意見、またそこに集約されるべき、生徒・保護者・卒業生・地域の要望を十分に吸収しているのだろうか。
 『神高教・情報』【No.2322(99.11.12)、99.10.20本部第4回県教委交渉報告】や新聞報道【『朝日』99.10.22, 11.26】で見る限りでは、『県立高校改革推進計画(案)』と前期計画の相違点は、小田原城内高校の、2002年度募集停止を、外国語コースのみ2004年度統合時まで募集継続と変更した点だけである。これは、分会要求とともに、同校同窓会「窓梅会」(会員数約23,000人)による、同校存続と計画案見直しの、県知事・教育長への陳情書提出に応じたものであろう。しかし、この一事をもって、計画案に生徒の実態・現場の必要が反映されたとは、とても言いがたい。
 元来、県教委には、学校の主人公は学習権の主体である生徒たちであり、公教育は自治体住民とくに保護者たちの共同意思とその信託を受けた教職員の権能に基づくべきであるという認識がきわめて薄い。これは、国旗国歌法案成立後の国家主義的な現場への締め付けに顕著なように、「国家の教育論」を固持する政府のもと、「地方分権」とは名ばかりに、文部省を頂点とする中央集権的教育行政が行なわれ、自主的権限をもつべき地方自治体の教育委員会が、依然として、自治省や文部省の下請け機関であるかのように位置付けられている実態の反映であろう。

 (2)『県立高校改革推進計画』は、高校教育改革であるのか?

  a. 『県立高校改革推進計画』は、高校数削減にのみ機能するのではないか。

今回の再編整備計画は財政的にきわめて厳しい環境の元でスタートする。直接に再編の対象とはならない学校が教育条件整備の上で置き去りになるようなことがあってはならない。再編整備が神奈川の高校教育改革と呼べるものであるなら、改革が成功するか否かの大きい部分が学校現場にかかっていることを、県教委は深く認識するように求めておきたい。
           【99.5.29県立高校再編問題に関わる県教委資料についての神高教見解】
 

 上に示した「見解」のように、私達神高教は、当然のことながら、再編整備計画が、財政の課題ではなく、教育の課題として機能することを要求してきた。しかし、県教委が、後期計画に至っても、先に記した情報公開と説明責務・住民参加の義務を県民に対して果たさずに、また、前期計画においても、現場との協議と教育条件整備を怠るならば、私達は、『県立高校改革推進計画』を、実質的には高校数削減を目的として機能するに過ぎない計画であると、とらえ直さなくてはならない。
 『県立高校改革推進計画』の中から、高校数削減の部分のみを抜き出してまとめると、次のようになる。


 2005年までに、県立高校を14校削減する。2010年までに、さらに11〜16校減らす。前期は、削減校数の発表と同時に、統廃合対象校を指名。定時制は、2年つづいて入学者が15人以下になった課程の募集を停止し、残りの課程を全日制の再編と合わせて新しい形に編成する。
 

 高校数の削減は、言うまでもなく、教職員の人件費や光熱費・電話代などの維持管理費の削減につながり、その分が浮く。県教委自身が、前期計画の14校を削減すれば、実際に校舎が姿を消し始める2003年度から全部なくなる2005年度までの7年間の累計で、100億円弱が節約できるという見通しを、文教委員会(99.9月県議会)に報告している【『朝日』99.10.5】。また、廃校の跡地の「活用」も、改革案に考慮されている【『朝日』99.6.23, 6.24, 10.5、『読売』99.8.1】。県教委の諮問を受けた将来構想検は、「はじめに統廃合ありき」ではない答申を出したとしている。しかし、その答申を得た県教委が、諮問事項の一つ「県立高校の適正な規模及び配置に関すること」のみに依拠をし、高校数削減を第一義に計画を練ったのだとしたら、この『県立高校改革推進計画』は、財政の課題としてだけの顔を持つものとなってしまう。つまり、大型公共事業優先政策と大企業優遇税制、構造的大不況の同時進行による県財政破綻からの教育予算削減の要請を主な動因とし、それと文部省の高校「多様化」路線への追随とが合体した産物と、判断するしかなくなってしまうのである。

  b. 『県立高校改革推進計画』を教育の課題として機能させるには、学校の民主的運営が必要不可欠だ
 99年10月14日に、神奈川県議会は、[教育改革推進に関する決議]を行なった。そこで述べられているのは、「教育公務員の資質の向上、学校長の管理体制の確立、秩序ある学校運営など」に対して「大胆に教育改革を推進する。」というものであり、将来構想検の答申にはなく(教職員の資質向上に関しては述べられているが、研修・採用計画・地域や保護者などとの交流、のみ)、『県立高校改革推進計画』に強引に付加された「校長の積極的な学校運営を支える校内組織」「職員会議の位置付けの明確化」、つまり、主任制(=主任会)の実動化と職員会議の校長の補助機関化の部分にのみリンクするものである。これは、『中教審答申・今後の地方教育行政の在り方について』に示された民主的学校運営破壊の側面をそのまま引き継いだもので、県議会の教育改革に対する認識はそれだけのものでしかないかと、気力を失う。
 99年9月県議会・総務企画委員会で、県教委は、前期計画の経費と総額の大雑把な推計を450億円と示し、自民党県議から、「財政・行革当局のチェックを受けたか」という質問を受けている。それに対し、県教委は、「高校改革は子どもたちのために進めている。行革のためではない。」と答えている【『朝日』99.10.6】。
 県教委の答弁が虚言とならないことを切望する。
 この大不況下での巨額の税金を真実生かすためには、県民の声の反映と現場との協議が必要不可欠である。そして、現場との協議が血の通ったものとなるためには、民主的学校運営の保障が必須条件であることを特筆する。これらによってのみ、再編に関わる教育現場の混乱は、回避でき、再編対象校のみならず全ての県立高校の改革が可能となる。

 (3) 人的保障を含めた予算の裏付けはあるのか?

  a. 教育条件整備は、移行期から必要な急務である
 『県立高校改革推進計画』では、2005年までの前期計画では、28校を統廃合し、14校の「新しいタイプの高校」等をつくり、6つの単独校を「新しいタイプの高校」等に衣替えすることになっている。そして、2010年までの後期計画では、22〜32校を統廃合して、単独校改編も含めて19校程度の「新しいタイプの高校」等をつくり、加えて、2校程度の中高一貫教育校を新設する予定という。
 この高校再編整備計画では、例えば前期の場合、特定の14校を単に廃止するのではなく、募集停止校の3校(除小田原城内高校)以外は、2校をペアにして両校とも新入生の学級数を減らしながら、段階的に学校規模を縮小し、最終的に1校に合併するような形を採っている。県教委がこういう方式を選んだのは、地域的要因は捨象するとして、ある高校を単に廃校にするより、二つの高校を「発展的に統合して一つの新しいタイプの高校等を作る」という方が当事者の心理的抵抗が少ないと考えたからではないか。
 しかし、心理的負担を軽減し得たとしても、結局は旧校28校が廃校となることには変わりはなく、さらには、対象校教職員の肉体的負担は、この上もなく苛酷なものとなる。つまり、移転先の校舎・校地に統合し、「新しいタイプの高校」の新入生を迎えた時点では、一つの校舎・校地に3つの小規模校が同居する状態となるため、それまでにクリアしなければならない問題が山積みとなるのである。以下、高総検内で討議された問題点をランダムに記してみる。


  1. 原級留置等の措置にどう対処するのか。
  2. 企業の求人、指定学校推薦は学校単位である。新校にどうやって引き継ぐのか。
  3. 特別指導のやり方、服装頭髪指導のやり方など生徒指導の体制はそれぞれの学校の実情によって異なる。3校が同居する際に、どうやって調整するのか。
  4. それぞれの学校の実情にあわせて組まれている学校行事の内容・日程をどのように調整するのか。また、小規模化から部活の統合も必要となるであろうが、どうやって調整するのか。
  5. 時間割り編成、曜日毎の授業終了時間等の3校間の調整をどのようにするのか。
  6. 3校同居状態になった時、県費配分はどうなるのか。また、私費徴収額をどうやって調整するのか。
  7. 移転してくる生徒にしてみれば、1〜2年慣れ親しんだ居場所が白紙になるわけなので、現在の生徒状況を考えると、相当注意を払っていかなければならない。
                 等々

 これらに加えて、旧校での学校五日制・新カリへの対応が必要となる。さらには、新校建ち上げの準備機関として、県教委関係室課・管理職を含んだ10名程度の新校準備委員会が構想されているものの、「実際の仕事の多くは学校現場が担う」【99.9.24本部第3回県教委交渉】こととなるため、統合時点での旧校教職員がそのまま新校教職員にスライドするのであれば、学校五日制・新カリに応じた「新しいタイプの高校」作りという大仕事も背負うこととなる。これでは、「新しいタイプの高校」作りに積極的に取り組むどころか、過労死が生じてもおかしくはない。当然、適切な加配が必要である。
 10月20日の本部第4回県教委交渉において、私達神高教は、3名以上の加配措置を要求したが、県教委は、「何人とは現段階では言えない。」と回答するのみであった。また、交渉では、[再編対象校での学級減にともなう教職員定数急減への手当て][『新しいタイプの高校』でのカリに応じた免許取得研修に対する補充]にも言及されたが、それぞれ、「相当な工夫が必要と考えている。」「考える必要があるだろう。」と回答するのみで、県教委は、具体的な対応を示していない。
 さらに、学校規模が縮小する段階で、県費の配分不足・私費規模の縮小が問題になると予想される。この段階での適切な財政的支援も必要であるが、これに対する県教委の対策を聞かない。
 予算に直接関連することではないが、7に関わる移行期の生徒への配慮の策として、私達神高教は、総合選抜[合同選抜](統合する2校において、学級減が行なわれる2年間の生徒募集を2校合同[あるいは2校連携]して行なう)の検討を提起している。交渉においてもそれを示しているが、「メリットもあるが問題も多いと認識している。」と、県教委は、乗り気ではない。

  b. 教育条件整備が整わなければ、高校教育崩壊さえ生むのではないか
 『県立高校改革推進計画』は、「新しいタイプの高校」・「特色」づくりにおいて、単位制、大幅な選択制、多部制・全定通併修制、専門コースなどの特殊な教育課程、学校間連携・単位互換・校外学習成果の単位換算など、さらには中高一貫教育制度の導入を挙げているが、それには当然、それぞれに応じた教育条件(教職員・施設・設備・消耗品、など)の整備が必要である。ことに「新しいタイプの高校」は、一般の高校より予算がかかる。校舎の建て替えや新築ともなれば、さらに予算はかさむ。危険校舎の修理・改築、耐震工事さえもが大幅に遅れている状況で、県教委は、この問題をどう解決するつもりなのか。
 本部第4回県教委交渉において、県教委は、先に示した新聞報道による、前期計画予算の必要額の根拠について、次のように述べている。


 350億円は建て替え6校の校舎建設費、その他14校の校舎改修費、それから新たな教科活動に必要な備品費である。100億円は再編にかかわらない既設校の特色づくりのための事業費で、教室改修費・備品費等。それから、耐震対策、老朽化対策等も含む。
 
 「新しいタイプの高校」には、人的保障が最も必要であるが、考慮されているのだろうか。また、既設校にしても、耐震対策・老朽化対策等も含むのであれば、それだけで予算のほとんどを使い切ってしまわないのだろうか。しかも、450億円という金額は、前期計画正式決定の現在においてもなお、「前期計画に必要な事業費の推計であって、費用の目安を算出したもの」に過ぎず、「(再編対象の)学校ごとに見積もりをしたものではない」のである。要するに、高校教育改革にかかる予算については、その見通しも、具体的な計画もいまだ示されてはいないのだ。
 もし、現場からの要求を満たすだけの予算の裏付けなしに、県教委が、現場の主体性を奪った上意下達の学校づくりをゴリ押しすることになれば、形だけの「改革」が行なわれる再編対象校、また、新設校の現場に、大きな混乱と困難をもたらさずには済まないだろう。そして、高校教育改革のスタート時における混乱の多発は、高校教育の崩壊に直結するとさえ予見できるのではないか。

 (4) あらゆる機会に30人以下学級の実現を訴えよう!

  a. 30人以下学級の実現は教育改革の第一義である
 『高総検レポートNo.37』(98.8.11)他でたびたび指摘したように、G7を始め先進諸国では、今や1学級20〜30人がほとんどである。クリントン大統領が、98年11月の一般教書演説で、教育最優先を掲げ、教師10万人を採用増して、低学年を18人学級にすると宣言したのは、単なる選挙対策ではなく、英・仏など先進国に共通の「最優先課題は教育」という流れの一環だった。ユネスコは「教育は21世紀の世界の最優先事項」と明言(98.10)をし、WHOも以前から「学級規模はできるだけ小さいほうがいい。大きければ、規則・管理など非教育的関係が強化され、教育の本質が破壊される。」と主張している。
 しかし、日本政府は、大型公共事業には巨額の予算を優先して確保し、銀行にも湯水の如く公的予算を注ぎ込みながら、定数法の改善を始め教育条件の整備はサボりつづけている。40人学級は、約20年前に定めた基準である。神奈川県も、政府の政策に追随し、教育・福祉予算の削減に余念がない。
 99年1月25日には、30人学級実施の県条令制定を求める県民(有効署名約30万人、神高教も協力)の直接請求を受けて開かれた臨時神奈川県議会で、岡崎知事は「条令制定は不要」の意見書を付けて条令案を提出し、与党6会派は、前回の選挙戦では自民党以外のすべての政党が30人以下学級を公約していたのに反し、本議会での条令賛成派の質疑も封じ、それを否決している。その前年の9月21日に、中教審が『今後の地方教育行政の在り方について』を文相に答申し、「学級編成基準の40人にとらわれず、各都道府県の判断で弾力的に運用できるようにし、市町村立小中学校などの学級編成を、都道府県教育委員会の認可制から届出制に改める。」としていたにもかかわらず、である。
 ちなみに、99年2月現在ですでに、30人学級を求める意見書が、全国の地方議会3,302の23%強にあたる767以上の県市区町村議会で採択をされている(文部省集計)。
 私達神高教は、98年度の[二つの県民運動]その他を展開する中で、神高教『神奈川の教育改革プログラム』に指針として並記してある、30人以下学級要求の取り組み(指針1)と、高校再編整備にアクセスする他の高校教育改革に関わる取り組み(指針2〜10)とを、直接にリンクさせてはいない。それは、県民に、30人以下学級の運動が単純な既設校の生き残りのためのものと誤解され、その教育課題としての意義を矮小化して受け止められることを避けるためである。しかし、30人以下学級実現を視野に置いた時、それを阻害する要因が生ずるのであれば、教育条件整備の問題として看過するわけにはいかない。
   
  b. 一例:平安高校+寛政高校の総合学科高校は校舎の建て替えが必要である
 一例を挙げる。
 『概要』によれば、横浜東部学区では、平安高校と寛政高校を再編対象校として、2002年度から学級減を行ない、平安高校敷地に、2004年度に総合学科高校を開校するとしている。
 その「教育課程の展開」の「基本方針」には、総合選択科目として、「環境科学系列・情報ビジネス系列・社会福祉系列・造形文化系列・国際文化系列」が挙げられ、さらに、自由選択科目として「生徒の特性に応じた科目、教養的科目・発展的科目など」を開講することと記されている。もちろん、この他に、必履修科目があり、総合学科としての原則履修科目「産業社会と人間」と「課題研究」(「総合的な学習の時間」の代替に規定されている)がある。
 しかし、平安高校は、百校計画において、1学年8学級規模で建てられた急増期の小規模校であって、臨時学級定員増・臨時学級増(ヘビタマ)の時には、現場が大変な苦労を強いられた学校である。新校の学校規模は1学年6学級規模とされているが、1学級40人でも、これだけの授業展開のキャパシティを確保するのは、空き教室の全てをかき集めても、相当に困難ではないか。「主な施設設備」には、「共用学習室、選択科目学習室、環境実習室、福祉実習室」などが「改修により対応予定」とされているが、どこにこれだけのものをつめ込むのだろう。ましてや、30人以下学級が実現した際には、1学年8学級以上となる。1学年の学級規模を大胆に下げるのでない限りは、グランドの確保を考えれば、校舎の建て替えによる高層化の対策を講じなければ、「異年齢集団によるホームルーム活動など特別活動の工夫」という規定に則って、30人以下の意義を無視した大人数のホームルームを実施する、教室に間仕切りをした狭い空間に生徒を押し込む、「カウセリングルーム」や「記念コーナー」でホームルームや授業を行なう、などの悪条件がもたらされること必至である。とうてい、30人以下学級実現を視野に入れて教育条件整備を考えた計画とは思えない。
   
  c. 『県立高校改革推進計画』のままでは30人以下学級は実現しない
 『県立高校改革推進計画』は、高校数の削減の理由として、生徒数の減少(2006年に6,300人程度、以降漸増と推計)を挙げる。また、「学校数適正化の基礎条件」として、計画進学率を93.5%以上とし、県内私学への進学者数を調整した上で、「適正な学校規模」を、18学級(1学年6学級720人)から24学級(1学年8学級960人)を標準としている。そして、今後10年に及ぶこの計画案の算定基礎は、あくまで1学級40人なのである。
 県教委は、県内6箇所で行なった県民対象のフォーラム(「高校フォーラム神奈川'99 県立高校改革を考える」)などで、数値を機械的に用いた統廃合は実施しないと言明しており、確かに、前期計画では、4学級規模の外短付属が対象になっておらず、7学級以上の規模の富岡・東金沢・川崎・小田原・小田原城内・平塚工業・相模台工業が対象になっているという事実はある。また、将来構想検答申『これからの県立高校のあり方について』には、「国の動向を踏まえ、将来的には、学級定員を段階的に少なくしていくことが望ましい」と明記されている。しかし、上に述べた平安高校校舎の事例などをみると、県教委が、30人以下学級要求の全国運動を、どこまで真摯に受け止めているかは、はなはだ疑わしい。
 『高総検レポートNo.39』(98.10.9)その他で具体的数字を挙げて示したように、校舎のキャパシティーが現在のままであるならば、35人以下に学級定員を減らしてゆけば、全体としては、県立高校の統廃合はできないのである。建て替えが6校のみでは、不十分この上ない。

  d. 運動は継続中である
 県は、30人以下学級を退ける理由の一つに、財政上の問題を挙げている。しかし、『県立高校改革推進計画』でも述べられているように、現在は生徒の減少期に当たり、それにともなう教育予算の自然減を考え合わせれば、30人以下学級の実施とそれに対応した教職員の配置にさほどの予算増が必要なわけではない。
 先に記した、条令制定の臨時県議会開催を直接請求したのは、神奈川私教連などの5団体である。一方で神教協(神教組・神高教)でとりくんだ署名・請願は継続審議となっている。つまり、[二つの県民運動]はまだ継続中なのである。
 苦しい町財政の下で、30人以下学級を実質的に実現した、長野県小海町長は、「道路は改修が遅れても通ることはできる。しかし、子どもの教育は先のばしにはできない。」と述べている。また、三輪定宣千葉大教授は、「30人学級をめざす取り組みは、教育の抑圧構造を変える展望をもっている。銀行よりも子どもを救おう。」と主張している。筆者は、薬物乱用防止講座に出張した際に、「治療をし指導をされた生徒を学校は受け入れてほしい。」という県教委職員の言に、「それは当然だが、きめ細かい指導のためには30人以下学級の実現が必要だ。」と答える女性教員の言葉を聞いている。
 運動は継続中である。私達は、あらゆる機会をとらえて、要求を訴えるべきではないだろうか。行政を動かすには、圧倒的多数の声しかない。

 (5) すべての現場が声をあげよう!

  a. 生徒の実情からの学校づくりを! 
 先に、『県立高校改革推進計画』が、財政の課題ではなく、教育の課題として機能することを要求している私達神高教の認識を、県教委が、後期計画に至っても、情報公開と説明責務・住民参加の義務を県民に対して果たさずに、また、前期計画においても、現場との協議と教育条件整備を怠るならば、とらえ直さなくてはならない、と述べた。つまり、この『県立高校改革推進計画』は、県財政破綻からの教育予算削減の要請を主な動因として、それと文部省の高校「多様化」路線への追随とが合体した産物に他ならない、というとらえ直しである。
 高総検は、文部省の高校「多様化」路線を一貫して批判してきた。しかし、『県立高校改革推進計画』を、教育の課題として機能させるためには、高校「多様化」に取り組まざるを得ないのであれば、再編対象校であれそれ以外の学校であれ、その意図を読み替え、ずらし、裏返して、生徒の情況に最適の環境に一歩でも近付けて、『将来構想検答申』にある、「学校間の序列意識の変革が促され」、「学(校)歴」から「学習歴」への転換を図る、という文言が空証文にならないようにしなくてはならない。オカミのもくろみに追随するのではなく、眼前の生徒の情況を第一義に考えた学校づくりを目指すのが、現場の人間である私達の仕事である。

  b. あらゆる機会に声をあげよう! 
 読み替え、ずらし、裏返すためには、30人以下学級と同様、あらゆる機会をとらえて要求を訴える他に方法はない。それは、再編対象校はもちろんのこと、すべての現場において必要である。
 私たち神高教は、99年8月9日に、「『県立高校改革推進計画(仮称)』に関わる要求書」を県教委に呈示している。これに抵触するような言動が県教委や管理職にあった場合は、常に声をあげるようにするべきである。(《 》内は、筆者による付記)


I. 民主的学校運営が保障されなくてはならない
  ・管理運営規則の見直しは神協教との合意に基づくものでなければならないと考える。
   《現場=校長ではなく、現場=教職員・保護者・生徒、であるシステムを追求するべきだ。》

II. 現場との協議が保障されなくてはならない
  ・(再編対象校において)学校として、あるいは職員集団として異義が出された場合には話し合いを基本に対処することが重要である。
  ・(再編対象校において)基本的な学校のデザインについては、県教育委員会の一方的な青写真によらず、当該学校の職員集団によって議論され構築されていく必要がある。
   《概要は、まだ「案」の内であるはずだ。生徒の現状にあわせた現場の声を反映させなくてはならない。》
  ・(再編対象校において)「開校準備機関」のあり方については、十分な配慮を行なう必要がある。

III. 教育条件整備が保障されなくてはならない
 ・ 改革が特定の再編対象校だけでなく、県立高校全体を視野に入れ、条件整備をはかるものであることを明確にされたい。
   《非再編対象校から人的配置をはがして、再編対象校へ加配を付けるなどの方策はもってのほかとしなくてはならない。》
 


 本レポートの発行からいくらも経たないうちに、状況は大きく動いている。
 まず、30人以下学級の実現は、かなり遠いものとなってしまった。先に記した'00年5月19日の、文部省調査研究協力者会議の報告と、その報告を受けた文部省の'01年度からの実施に応じた関係法令の改正に着手によって、「地域や学校の実態に応じ、義務標準法で定める学級編制の標準を下回る人数の基準を都道府県が定められるようにする。」とはなるものの、給与費の国庫負担や地方財政措置する際の基礎となる教員定数算定の標準(国の人件費負担は標準枠内の50%)である、国の学級編制の標準は現行通り40人であることから、少人数学級の財政負担は地方自治体に課せられることとなる。財政難に喘ぐ地方自治体で、その実現性はきわめて乏しい。『県立高校改革推進計画』が、このまま、30人以下学級を視野に置かないままに進行していけば、キャパシティの問題から、それは実現不可能のものとなる。
 また、「この大不況下での巨額の税金を真実生かすためには、県民の声の反映と現場との協議が必要不可欠である。そして、現場との協議が血の通ったものとなるためには、民主的学校運営の保障が必須条件であることを特筆する。これらによってのみ、再編に関わる教育現場の混乱は、回避でき、再編対象校のみならず全ての県立高校の改革が可能となる。」と訴えた、民主的学校運営の保障については、県教委は、その重要性を認識することなく、「管理運営に関することは交渉対象外」として、神協教と話し合おうとすることさえしなかった。'00年4月1日の学校教育法施行規則改正(99年2月21日に文部省全国教育長会議の席上で示される)及び文部省事務次官通知に応じて、県教委は、99年3月22日に、管理規則の改訂を教育委員会(教育委員5名で構成)に付議し、教育委員会は改訂を決定した。その結果、「高等学校に校長の職務の円滑な執行を補助資するため職員会議を置く」等となり、管理運営規則上は、職員会議は、民主的学校運営を保障する場ではなくなった。その他、人事考課制度導入の検討など、さまざまな現場への締め付けが目論まれており、現場の声が届く教育改革が遠いものとなりつつある。例えば、再編対象校への総合選抜[合同選抜]導入の検討は、県教委に一蹴され、顧みられていない。
 さらに、「高校改革は子どもたちのために進めている。行革のためではない。」という県教委の言は、虚言となった。県'00年度予算案では、高校改革推進に計上されたのは、約3億5,000万しかない。【『朝日』00.2.9】県教委自身が示した、前期計画の経費と総額の大雑把な推計が450億円である。あと4年間で446億5,000万の予算がつくとはとても思えない。「道路は改修が遅れても通ることはできる。しかし、子どもの教育は先のばしにはできない。」「銀行よりも子どもを救おう。」という姿勢を、神奈川県は持ち得なかったこととなる。例えば、もっとも必要とされる人的配置の、私達神高教の再編対象校への3名以上の加配措置その他の要求は、現在、再編対象校への講師18時間の加配のみに値切られたままである。
 結局、レポートの中で指摘した通り、この『県立高校改革推進計画』は、財政の課題としてだけの顔を持つものであり、大型公共事業優先政策と大企業優遇税制、構造的大不況の同時進行による県財政破綻からの教育予算削減の要請を主な動因とし、それと文部省の高校「多様化」路線への追随とが合体した産物と、判断するべきであろう。
 「もし、現場からの要求を満たすだけの予算の裏付けなしに、県教委が、現場の主体性を奪った上意下達の学校づくりをゴリ押しすることになれば、形だけの『改革』が行なわれる再編対象校、また、新設校の現場に、大きな混乱と困難をもたらさずには済まないだろう。そして、高校教育改革のスタート時における混乱の多発は、高校教育の崩壊に直結するとさえ予見できるのではないか。」という指摘にも、リアリティーが生じて来つつある。
 状況は、苛酷である。
 私たちは、このマイナス要素ばかりの中で、「学ぶ意欲や『学習歴』が適切に評価される社会への転換」を見据えた、眼前の生徒の情況を第一義に考える学校づくりを目指さなくてはならない。それを実現させなければ、県民に対して大きな詐欺を働いたこととなる。先に記した入選システムの問題のごとく、失敗が生じれば、その責任をトップダウンで『県立高校改革推進計画』を下した県教委自身がとることはなく、個々の学校・教員が責めを負うこととなるだろう。私たちは、そういう仕組みの中に置かれている。
 現在、私たちが動き得る余地があるのは、人的配置を含んだ予算的な保障がほとんどないことを前提とした、カリキュラム編成のみである。再編対象校においては、「再編整備当該校に示された『概要』には、〈系〉まで示されているが、これは、県民に具体的イメージを持ってもらうためのものとのこと。学区内の他の高校とのバランスの下に示したと、県は言っている。これは〈例示〉〈素案〉と受けとめるべきであって、そこからスタートするが、そこから一歩も動かないということではない。新校立ち上げの際に真実の〈系〉が示されるのである。」【本部執行部(副委員長・書記長)「県立高校再編整備計画現状報告」、高総検全体会(99.8.27)】ということをスタンスとした学校づくりになる。
 短期間に、大変な仕事をしなくてはならない。高総検としては、「再編に関わる条件整備的な問題の指摘」「各校のタイプに応じたガイドラインの策定」が、次期(XI期)高総検への最大の申し送り事項となるが、高総検のみならず、神高教内の各組織がフル可動をする必要がある。
 「対案」に至るまでの条件が整わず、「批判」を行なうのが精一杯であった、X期高総検としては、『県立高校改革推進計画』の欺瞞性を前提として、ここに陥ってはいけないという指摘だけはできる。それを、最後に述べる。


〔6〕公立学校間に市場原理を導入させてはならない(第49次日教組教育研究全国集会のレポートより)

 先に、学区拡大に関して、次のように指摘した。『将来構想検答申』では、隣接する学区同士での越境受験を認める制度、隣接学区についての「検討」であったはずのものが、『県立高校改革推進計画』では、その導入を前提とした「弾力的な対応」の進展となり、さらには、「学区全体のあり方」の検討に及んでいる。00年2月24日の、県教委の一方的な、県立全日制の学区外からの入学者受け入れ枠を現行の定員数の8%から20〜25%に拡大する方針の決定は、『県立高校改革推進計画』からも逸脱をしている。
 そこで、県教委が、学区拡大に足早に取り組むのは、『中教審答申』に示された「学校選択の機会」の拡大、すなわち、学区自由化のためであり、学区自由化・学校選択の機会拡大とは、公教育への市場原理・競争原理の導入であって、それは、財政難に対応した公立学校のリストラの策である、とも指摘をした。
 2000年1月の、第49次日教組教育研究全国集会(第20分科会第2小分科会〈選抜制度と進路保障〉)のレポートで、東京都公立学校教職員組合は、「総合的な学習の時間」を形骸化する方針である、と述べている。分科会参加の各教組の中で、その方針を掲げていたのは、唯一東京のみである。「総合的な学習の時間」の展開は、学校の「特色ある活動」につながって、品川区・杉並区・日野市で進行されている小中学校の「選択の自由」(学区自由化)や、都教委の人事考課制度の浸透を促進し、学校間・教員間への競争原理の導入を加速させる。それは、教育の課題として構想されているものではなく、財界の要請から来たものに過ぎない、というのが、方針の根拠である。
 『中教審答申』に影響を及ぼしている、財界からの要請とは、以下のごとくである。

 『経済戦略会議答申』(99.2.26)より
 日本経済の将来を決めるのは、究極的には教育のあり方である。(略)教育現場にできる限り自律性を持たせること、教師間、学校間に適切な競争原理を導入して、それぞれが創意工夫を競いあう環境を作ることが必要である。画一的で競争のない義務教育に複数校選択制を導入し、生徒が自らの適性に応じた学校を選択できる自由を与える。それによって、学校間の競争促進を図るとともに、多様な人材を排出できるよう各学校毎の多様な教育カリキュラムを認める。
 その他:
  経済同友会「学区選択幅拡大」「学校から合校へ」(95.4)
  経団連「創造的な人材の育成のため特色ある学校・多様な選択」(96.3)等

 新聞報道【『朝日』00.4.24】によれば、品川区教委は、'00年3月に、区立全小学校5年生と5,6年生の保護者の計6,000人余を対象とした調査を行ない、5年生の保護者の3/4が中学についても学校選択制を希望している等の結果から、'01年度にも学校選択制の中学への拡大を行なう方針だという。児童・保護者とも、学校選択のポイントを、「いじめや荒れの状況」とするものが多数であったという。学校選択制の全面シフトによって、品川区の義務制からは、「地域に開かれた学校づくり」という教育改革課題が消失することとなり、「いじめや荒れ」のある学校は、競争原理の敗者として消滅していくこととなるだろう。
 東京都公立学校教職員組合の「総合的な学習の時間」形骸化の方針の是非はここでは置く。ともかく、財界からの要請である公教育への市場原理・競争原理の導入が、その財政難に応じた公立学校リストラの目的と同時に、教育の課題、特に、教育改革に関わる課題を破壊していることは確かである。
 同小委員会において、学区自由化の問題は、普通科推薦制度とともに、大きな議論となった。以下に、各教組の報告と委員会での討議のポイントをまとめて記す。

(1) 第20分科会「学習と評価・選抜制度と進路保障」全体会基調報告より
              (共同研究者:教育総研代表・東京学芸大、黒澤惟昭氏)  
  学校崩壊は市民共同体の崩壊という視点からとらえるべきである。つまり、学校の再生は、市民社会の確立とリンクしなくてはならない。公共空間の拡大という観点から教育改革を考えるべきである。
 しかし、臨教審・14期中教審以来の教育改革は、福祉社会の崩壊すら引き起こしている、市場原理至上主義・新自由主義に貫かれている。この風潮は、社会主義崩壊以後に加速し、現在の教育改革にシフトしている。そのあらわれが、東京都で進められている、学校選択の自由=学区自由化である。
(2) 東京都公立学校教職員組合のレポートより 

《小中学校の「選択の自由」(=財界の教育制度への直接介入)》
   99.9  品川区教委「プラン21」2000年度入学の小学校「選択の自由」
                     (小学校ブロック化自由選択と特色ある学校)
   99.9  日野市教委、2001年度をめどに小中の「選択の自由」を表明
   99.11 杉並区長が、教委に諮問機関を作り「選択の自由」を検討すると表明

《小中学校の「選択の自由」がもたらすもの》
   ○義務教育の公共性の破壊。
   ○小中学校の統廃合促進。
   ○小中学校の序列化・階層化。
   ○児童生徒・保護者への自己責任の強要。
   ○「自由な選択」は逆に「選択」の強要となる。
   ○教育現場に苛酷な労働を強いる。
   ○「選択の自由」から障害をもった子どもの自由は排除されている。

《東京都の高校入試選抜制度の現状》
 ・現在は14学区。隣接する学区も含めた最大5学区、約70校の中から受験校を選ぶシステム。
 ・'00年度春からは、「他学区からの合格者枠を2割まで」とするが、希望すれば誰でも都立高すべてが受験可能となった。
 ・今後、23区地域の東学区と多摩地域の西学区の東西2ブロックに統合し、相互に2割程度の新入生が参入できるようにして、学区制を実質撤廃することが検討されている。

 ・中学校が情報を収集し適切なアドバイスを保護者・生徒に行なうことはもはや不可能。
 ・保護者・生徒は、学区撤廃となれば、都立高約200校、私立高約100校、しかも多様なコースの 組合せの中から、「受けたい高校」を探すこととなる。
 ・笑いがとまらないのは、教育産業ばかり。高校の序列化、階層化は進む。
 ・特別選考の実施拡大(6校10校)。
 ・特別選考実施校は、志願理由書・自己申告・自己責任(学習・特活・ボランティア活動・検定等) の念書をとる。挫折すれば不適格者として切り捨てるには、都合のいい制度。「人事考課」の自己  申告と業績評価の関係に似ている。
 ・早期選抜、序列化、階層化のおかしさを批判し続けるより道はない。

《全日本中学校長会提言》
 第1案) 公立高普通科は、1学区・1校の小学区制で希望者全入、生徒に多様なコースを選択する。
 第2案) 公立高普通科は、1学区複数の中学区制で希望者全入、進路変更の機会を与える。

  東京都の高校入試選抜制度の現状は、全日本中学校長会提言に反している。

《高校入試選抜制度に関する東京都公立学校教職員組合の方針》
  ○都立高校普通科推薦枠拡大阻止と縮小。
  ○地域の複数の高校(普通科・専門学科)への希望者全入。
  ○高校の出口での多様化(総合学科を含め)。

(3) 新潟県教職員組合のレポートより

《新潟県公立高校の現状》
 ・'01年度入試から、普通科の通学区が隣接学区に15〜25%のパーセント条項を導入して、通学区の拡大を図る方向が打ち出される。
 ・現在約90%程度の生徒が通学している高校が隣接学区となる。
 ・通学区の拡大に対して反対運動が起きている地域もある。
 ・以下の高校整備計画が発表され、2000年度入試から、農業高校1校が廃校となり、普通科に併設されていた商業科の募集が停止された。
  *1学年3学級以下の学校を統廃合し、学校数を105校から95校に減らす。
  *普通科に併設されている職業学科は原則廃止する。
  *職業科学校を統廃合して、普通科系学科の定員を全定員の80%程度に高める。
  *中高一貫教育の公立学校を数校設置する。
  *単位制の高等学校を増やす。
  *以上を、2007年度までに達成する。

(4) 主たる討議内容

《「学校選択の自由」=「学区自由化」関わって》
 【東京】
 ☆多様化学区自由化・選択の自由新たな序列化、という構図は、「生きる力」にリンクしない。しかし、都教委の諸攻撃のために、職場は民主的に討議ができる雰囲気にない。
 ☆小学校の選択の自由は、6才の子どもに親がどういう学校がよいかを迫ることである。親は、新聞発表で募集人数を調べ、調整をする。全ての子どもに選択の自由が保障されるわけではない。
 ☆トップダウンで行なわれている。杉並区長の表明にいたっては、組合は、新聞報道で知った。もはや、単組では闘えない。日教組はどうするのか。
 【新潟】
 ☆94年偏差値打破元年というが、以降変わったのは、パーセント条項の導入だけである。

《「地域に根ざす教育」に関わって》
 【神奈川高】
 ☆トップダウンの改革推進計画の中で、現場からの改革を追求する方針をとっているが、知事が、学区拡大に言及した。市場原理至上主義の、学区拡大(自由化)特色競争学校つぶし、に対抗するには、「地域に根ざす」ことが重要。しかし、高校は学区が広いため、高校にとっての「地域」とは何かという問題がある上、横浜・川崎などの都市では、マンションの隣に住んでいるのが誰かも分からない、地域崩壊の現状がある。

 【神奈川】
 ☆今次県教研で、「新神奈川方式の選抜制度をどう検証し、どう変えていくか」を柱の一つとした。取り組みを、県民運動としてどのように発展させていくかが課題である。服務など、市でも県でも圧力は強化されている。その攻撃の中で、現場が主導権を握る運動を展開している。総合的選考・普通科推薦制には強く反対をしている。
 【沖縄高】
 ☆辺野古にある高校に勤めている。過疎化によっても地域は崩壊する。その際に、どう学校を作るかが重要。中高一貫には、その観点で臨んでいる。
 【三重】
 ☆中学では、逆に、過疎化が学校を支える構図もある。しかし、学区内でも人口流動の多い団地のような場所では、地域の力が弱くなっている。「生きる力」の観点からのインターンシップによって、生徒を地域へ出し、学校が地域を作るという取り組みを行なっている。
 【千葉】
 ☆受験可能校大幅増を求める、エリート校指向の市民運動が県教委を動かし、学区拡大となった。このような「地域」の声もある。
 【東京】
 ☆「地域に根ざす」ことによって対抗するというが、各職場まかせの学校協議会で闘えるのか。
 【東京高】
 ☆99.6.29の都教委「第2次統廃合計画案」に対し、勤務校の芝商定時制は、「芝商定時制を守る」会を結成して闘っている。そのメンバーは、教職員・生徒・保護者であり、こういう意味での地域との結びつきは重要である。しかし、地域のボス・警察・消防署などが想定できる、上から押しつけられる協議会員や評議員は、自然と作ってきた地域との結びつきを破壊してしまう。
 【黒澤惟昭氏】
 ☆「学校選択の自由」=「学区自由化」には、反対をすべき。まず事実の把握が必要だ。

 県教委が、足早に進めている学区拡大が、学区自由化にまで至らないようにしなければならない。また、特色・多様化への各校の取り組みが、『将来構想検答申』の謳う「学ぶ意欲や『学習歴』が適切に評価される社会への転換」を目標とするものから逸脱して、高校公教育の自殺行為である、各校間の「競争」に陥らないようにしなくてはならない。
 そのためには、全県組織である神高教の存在意義は大きい。神高教内の各組織が連携して運動をする必要があることを、重ねて指摘する。

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第III部 学習指導要領をのりこえる

第1章 教課審答申の問題点をさぐる
        ─―学習指導要領改訂を批判的に検討するまえに─―
                            高総検レポート別冊「『新学習指導要領』批判」(1999.7)の再掲

1. はじめに

 1998年6月22日に教育課程審議会の「幼稚園、小学校、中学校、高等学校、盲学校、聾学校及び養護学校の教育課程の基準の改善について(審議のまとめ)」(以下、「教課審まとめ」と略称)が公表された。ついで、7月29日、これが教課審答申となった。さらにこれをうけて、99年3月29日高等学校学習指導要領が告示された。この改訂の意味や問題点を検討するに先立って教課審答申を検討し、あらかじめ主要な問題点を列挙しておきたい。答申については、さまざまな意見が述べられていたが、たとえば、「この答申に基づいて、4年後の2002年度より、知識を一方的に教え込む教育からの脱却を目指す新しい教育課程に移行する。同時に、完全学校5日制もスタートする。21世紀の初頭は、120年を超える日本の学校教育の歴史の中でも極めて重要なターニングポイントになるかもしれない。」(毎日新聞7月30日)という評価もあるが、はたしてどうだろうか?

[新教育課程の改訂・実施スケジュール]
  2000年 移行措置の実施
  2002年 完全学校五日制実施
  2003年 新高等学校学習指導要領、学年進行で実施
 

2.教育に規制緩和はないのか?

 「教課審まとめ」は高等学校教育について、「…能力・適性、興味・関心、進路希望等の多様な生徒に対応するためには、更に各学校が教育課程上の特色を発揮し、その編成・実施上の工夫を柔軟に行えるようにする必要があり、国として定める教育課程の基準は可能な限り抑制的に示すにとどめることが適切である。」(P.27)と言っており、「規制緩和」が教育にも及んだかのように思われる。しかし、従来通りの手続きを通しての新学習指導要領の策定過程の流れが変わったわけでもなく、文部省のいう学習指導要領の法的拘束力が弱まったわけでもない。この点をまず念頭に入れておきたい。
 「教課審まとめ」は冒頭に言う。「まず、学校は子どもたちにとって伸び伸びと過ごせる楽しい場でなければならない。子どもたちが自分の興味・関心のあることにじっくり取り組めるゆとりがなければならない。また、分かりやすい授業が展開され、分からないことが自然に分からないと言え、学習につまずいたり、試行錯誤したりすることが当然のこととして受け入れられる学校でなければならない。さらに、そのためには、その基盤として、子どもたちの好ましい人間関係や子どもたちと教師との信頼関係が確立し、学級の雰囲気も温かく、子どもたちが安心して、自分の力を発揮できるような場でなければならない。このような教育環境の中で、教科の授業だけでなく、学校でのすべての生活を通して、子どもたちが友達や教師と共に学び合い活動する中で、自分がかけがえのない一人の人間として大切にされ、頼りにされていることを実感でき、存在感と自己実現の喜びを味わうことができることが大切であると考える。」(P.2〜3)と述べている。しかし、これまで行政は、「このような教育環境」を整える努力を怠ってきており、今日の新自由主義的な教育政策と景気の悪化、財政の悪化は教育予算をますます削減させる方向で動いている。中教審第一次答申は教員配置の改善について、「当面、教員一人当たりの児童生徒数を欧米並みの水準に近づけることを目指して改善を行うことを提言したい。」としているにもかかわらず、教課審「審議のまとめ」は、この点に触れない。まずもって、現在の教育問題を解決するためには何よりも学級定員減の実現が必要である。このことから、さまざまな「教育改革」が容易になるのである。だが、欧米ではすでに実現ずみの学級定数に未だ到達できず、多少動きが見えるものの、今後も学級定員減の見通しは暗い。「まとめ」は上記のようなリップサービスはするが、学級定員減の提言をしていない。教育条件については触れないのが従来通りなのだろうが、後述するように積極的に導入しようとしている「情報」の必修化については、対照的に教育用コンピューターの整備やインターネットへの接続が年度を限って行われることが示されている。


3.完全学校五日制でなぜ週あたり2単位減なのか?

 2002年度から完全学校五日制に移行することになった。これにともなって「現行の授業日となっている土曜日分の授業時数である年間70単位時間(週当たりに換算して2単位時間)程度を削減することが適当である。」と「まとめ」は言っている(P.19)。これは何を意味するのだろうか。通常、高校現場で考えれば、土曜日分は3単位時間であるから、2時間は唐突である。「まとめ」の認識は、月2回の学校週五日制が「おおむね順調に実施され」、学校行事等の精選、短縮授業などにより、児童生徒の負担も従前と比べ特に変化がないので、その分はそのままにして、残り削減される土曜日分を年間70単位時間(2×35)、週当たり2時間とした。しかし、この基本は学年制をとる小中学校の場合で、年間総授業時数1050(30時間/週×35週)から70時間を引いて980時間としたもので、これが土曜日分のおよそ半分にあたる。つまり半分は値切られてしまったのである。はたしてこれで前述した「子どもたちが自分の興味・関心のあることにじっくり取り組めるゆとり」やら「伸び伸びと過ごせる楽しい場」が保障されるとは思われない。
 とくに年間総授業時数のしばりの強い小中学校の現場では修学旅行や体育祭等の学校行事が削減されたりしてゆとりがなくなり、学校の日常的な運営が過密となり、ひとつひとつの行事などが余裕をもって実施できなくなり、内実の薄い日程消化的な状態に陥っていることが報告されているにもかかわらず、「まとめ」の認識は甘い。
 また、高校は単位制に一応なっているので、すでに多くの現場では週あたりの授業時数を30単位に減じている場合が多いとおもわれる。したがって各科目の標準単位数を弾力的に取り扱うことが可能ならば、完全学校五日制はこの点ではむずかしい問題ではない。


4.卒業に必要な総単位数はなぜ74単位になったのか?

 他方、卒業に必要な総単位数は80から74単位となった。週当たり30単位時間だから、ロングホームルーム3時間をのぞいても最大87時間(総合学習の時間を含む。)が可能となる。現行の最低単位数80でさえ、指導上の理由でこれ以上の単位を加算しているところが多いと思われるが、今度は74単位となるのである。一方で授業時数の削減に消極的な教課審が、ここでは気前よく、学年あたり2時間ずつ減らすことを認めている。今日増え続ける中途退学者対策として、もっと簡単に卒業させろ、ということだろうが、学力保障の点から問題があろうし、自由選択科目が拡大して「空き時間」が生じるが、それに対する指導上の問題を解消する教育条件が十分でないということを考慮しなければならない。また、この背後には多様化をいっそう進めるための条件作りという意味もあるようだ。


5.どうする教育内容の厳選?

〔1〕

 基本的には地域社会や家庭が果たしていた役割を学校が囲い込むことをやめて、「ゆとり」のある教育課程編成を行うべきことがうたわれている。学校においては学ぶことの動機付けや知識・技能や学び方を習得することに限定し、家庭や地域社会が自然体験や社会体験を通じて子どもたちに知識や技術を体験として認識させ、有機的に関連付けさせ、「生きて働く力」を培うと言う。そのうえ、生涯学習の見地から学校教育を「生涯学習の基礎となる力を育成すること」に限定して教育内容の厳選をはかると言っている。しかし、家庭や地域社会が教育力を回復するための具体的な手だては示されず、公共的、共同体的援助なしに、教育と子育て機能を地域や家庭に移すことは、教育文化の商業的、市場ネットワークにすくいとられるということになるのではないか。行政に体験的な活動のための施策の充実を求め、「各職場における理解と協力」を望んでいるだけだ。たとえば、社会全体が労働時間の短縮を目指さない限り、家庭や社会の教育力は回復しないだろうに、このようなことすら、一言も触れられていない。そして「教師も、地域社会の一員として地域の活動にボランティアとして参加したり、地域社会の幼児児童生徒との触れ合い」を期待されて終わっている。
〔2〕

 教育内容の厳選は、「基礎・基本の確実な習得」を図り、繰り返し学習させて、確実な習得をすることを求めている。そのために「教える内容を3割減らし、授業時間の8割で消化できる『ゆとりある教育』を実現し、基礎・基本が身に着くようにする。」(98.7.30.毎日新聞)ということである。では何を減らせばいいのか。「まとめ」は、(1)子どもたちにとって理解が困難であったり高度になりがちな内容、(2)単なる知識の伝達や暗記に陥りがちな内容、(3)学年間、学校間で重複する内容を削除したり、上学年に移行したり、扱いを軽減したりしろ、ということである。しかし、「まとめ」による教育内容の厳選は、あまり説得的でない。どういうカリキュラムが現在の子どもたちに必要であるか、彼らに何が欠けているか、教科の構造や、育成すべき能力の構造などについての論議はほとんどなされずに終わっている。ただ、機械的にけずれということしかここでは述べられていない。
〔3〕

 知識詰め込み型授業から子どもたちの主体的に参加する授業への転換が述べられているが、前述の教育条件の下で効果を上げるのは非常に困難である。
〔4〕

 学校がさらに上級学校への受験を無視することができない状況の中では、どうしても教育内容は網羅的になって、結局、知識詰め込み型教育に陥る。

 以上、「審議のまとめ」は有効な教育内容の厳選方法を示すことができていない。教育内容の精選は、まず共通基礎をどのように構成すべきかを検討することからはじめる必要がある。それは教育内容の核(コア)を明らかにすることである。つまり、学習内容の構造的な把握をし直し、枝葉末節を明らかにし、同時に教科・科目の領域を再編成して、「少なく、深く学んで行くという原理」への転換を図ることである。すでに現行学習指導要領で共通必修は戦後最低の17単位になっている。また本来、共通教養の基礎をつくる義務教育段階(ことに中学校)において、安易な五日制対策として選択教科の幅が拡大していることに注目する必要がある。子どもたちが共通にもつべき教養についての分析が必要である。その上で、ひとりひとりの生徒が主体的に学び、考え、体験し、認識するような参加型の授業が求められる
 また社会一般に何でもやさしくかみ砕いて教えてもらうタイプの学習が蔓延しており、自分で思考し、発見することができない。こういう風潮を打破しなければ、延々と教えていかなければならないことになってしまう。


6.「総合的な学習の時間」とは何か? 総合学科へ限りなくすり寄るのか?

 小・中・高校等それぞれ「総合的な学習の時間」が創設され、「地域や学校の実態に応じ、各学校が創意工夫を十分発揮して展開するものであり、具体的な学習活動としては、例えば、国際理解、情報、環境、福祉・健康などの横断的・総合的な課題、児童生徒の興味・関心に基づく課題、地域や学校の特色に応じた課題などについて、適宜学習課題や活動を設定して展開するようにすることが考えられる。」(P.16、下線は筆者。下線については後述)ということになった。「中間まとめ」に入っていた「外国語学習」が削られ、小学校段階で行われる外国語会話等に一定の歯止めをかけた。また、あらたに児童生徒の興味・関心に基づく課題などがつけくわえられて、学校の裁量は拡大されたように見える。
 高校では3年間で105単位時間(3単位)ないし210単位時間(6単位)が充当される。「審議のまとめ」によれば、この「総合的な学習の時間」のねらいは、(1)各学校が地域や学校の実態に応じて特色ある教育活動を自由に展開できるような時間を確保するため。(2)国際化や情報化等の社会の変化に対応するため、(3)ゆとりをもって課題解決や探究活動に主体的、創造的にとりくむ態度の育成を図るため。(4)知識的内容を教え込むのではなく、学び方やものの考え方の習得を重視し、主体的な学習を推進するため。(5)各教科、道徳、特別活動それぞれで身に付けられる知識や技能を総合化するため、ということである。

  新学習指導要領では、「105〜210単位時間を標準とする」と表記されている。通常、高校は単位制であるために単位数表示になるのであるが、ここで単時間数表示になっている意味は、この「総合的な学習の時間」が教科外活動や場合によっては校外の活動をも含む可能性が強いためだろうと考えるが、教科に横断する総合的な学習の意味を薄めて、もう1時間ないし、2時間LHRが増えたような形にしてしまうことも可能になるかもしれない。105〜210単位をどのように学年に配置するかは示されていないが、この時間が小学校第3学年からずっと高校まで配置されていることを考えると、毎学年に1ないし2単位置くというのが、普通であろう。また新要領では、「学期の区分に応じて単位ごとに分割して指導することができる。」(第6款の2の(3))と書いているので、学期途中で集中的に行うことも可能である。

 「国が、その基準を示すに当って」は、「総合的な学習の時間」の「内容を規定することはしないことが望ましい」とされているが、上述の下線部に例示があり、「審議のまとめ」のP.11に国際理解から福祉・健康など個々についてかなりのスペースを割いて説明が成されている(なお、ここには「外国語会話」は削られていない。これらのテーマをあえて避けて、例えば、人権学習とか、平和学習というテーマを現場が自主的に選択する裁量は保障されていると考えて良いのだろうか。しかし、懸念が全くないとはいえないだろう。
 また、この科目には教科書もなく、他の教科・科目のように数値的な評価もない点をよしとする向きもあるが、文部省が作成する「指導資料」等が教育課程の自主的な編成を縛る可能性も否定できない。それは総合学科の原則履修科目である「産業社会と人間」を見れば明らかである。評価については、「この時間の趣旨、ねらい等の特質が生かされるよう、教科のように試験の成績によって数値的に評価することはせず、活動や学習の過程、報告書や作品、発表や討論などに見られる学習の状況や成果などについて、児童生徒のよい点、学習に対する意欲や態度、進歩の状況などを踏まえて適切に評価することとし、例えば指導要録の記載においては、評定は行わず、所見等を記述することが適切であると考える。」(P.17)として、「新学力観」にのっとった評価をせよと言っている。**

  **新要領では、単位の修得および卒業の認定について「総合的な学習の時間」と普通の教科・科目とを区別しているのみで、どのように評価するのかは具体的に記されていない。新しい指導要録の改訂を待たなければならない。

 また、「高等学校においては、『課題研究』や『産業社会と人間』との関連を考慮し、生徒が主体的に設定した課題について知識・技能の深化・総合化を図る学習や、自己の在り方生き方や進路について考察する学習なども、この時間において適切に行われるよう配慮することが望まれる。」(P.16)、および「現在、職業に関する学科や総合学科において原則履修科目とされている『課題研究』のような、生徒が主体的に設定した課題について知識・技能の深化・総合化を図る学習や、総合学科において原則履修科目とされている『産業社会と人間』のような、自己の在り方や生き方や進路について考察する学習は、今後、どの学科においても適切に取り組むことが望まれる。」(P.29)という記述に注目したい。この2つの科目は、総合学科における原則履修科目である。それが「総合学習の時間」の設定において考慮せよと言っているのである。「情報」の必修とともに考えれば、普通科のカリキュラムは多様な選択科目の設置をのぞけば、かぎりなく総合学科に近づくことにならないか。学校の統廃合の中で、普通科が総合学科に容易にスライドしやすくしようとする意図が見える。
 つぎに、この時間は、知識を学ぶ形式とはちがう形式が考えられている。実体験、体験的な学習、問題解決的な学習を重視している。(1)ある時期に集中的に行うなど時間設定を弾力的に行う。(2)グループ学習、異年齢集団による学習など多様な学習形態。(3)外部の人材の協力を得る。(4)異なる教科の教師が協力、全教員が一体となって指導に当たる。(5)校内にとどまらず地域の豊かな教材や学習環境を積極的に活用する、ということである。十分な条件整備が保障されない中で、いっそう学校に努力を求めることになるだろう。
 「審議のまとめ」に述べられた「総合的な学習の時間」の内容は、活動主義的な傾向や道徳的態度の形成に傾斜する傾向がある。「ボランティア活動や自然体験活動などの体験的・実践的な活動を積極的に取り入れる必要」とか、「ボランティア活動の一層の充実を期したいと考える。ボランティア活動は、地域社会の一員であることを自覚し、互いが支え合う社会の仕組みを考える上で意義のあることであると同時に、単に社会に貢献するということだけでなく、自分自身を高めるためにも必要なこと」(P.11)であるとしている。ことにボランティア活動には熱心で「少子高齢化社会への対応等」においても、「実際に幼児、高齢者や障害のある人と交流し、触れ合う活動や、介護・福祉に関するボランティア活動を体験することを重視する必要がある。」(P.13)、としている。教職の単位として学生自身にボランティア活動が義務化されたこととあいまって、今後、少子高齢社会の中で行政の負担すべき行政サービスをサボタージュするために学校にそれを補完させようということが露骨である。そもそもボランティア活動のボランティアvolunteerの字義は「自発的」ということだが、日本では学校の中でボランティアが強制され、それが評価の対象となるという変なことがおこる。ボランティアとは社会全体が自主的に担っていけるように労働時間の短縮などの措置が図られなければないだろう。生徒が活動をする場合でもあくまで自発的で評価の対象外の行為でなければならないだろう。その他、自然体験的活動、外国語教育における実践的コミュニケーション能力の育成、情報手段の活用、身近な自然環境から地球規模の環境までを対象に環境を調べる学習など、問題解決学習や作業的な学習、体験的な学習等、全体的に体験的、実際的な学習が強調されているし、また、道徳教育については後述するが、たとえば、国際化について「我が国の歴史や文化・伝統に対する誇りや愛情と理解を培う教育」がいわれ、少子高齢化社会について、「男女が協力して、子どもを産み育て、高齢者のために主体的に行動し実践する態度を育成するとともに、他者を尊重する態度や尊敬する気持ち、他人を思いやる気持ちや共に生きていくという考え方」がいわれる等道徳的態度が強調されている。結果、学習内容の科学的、統計的、論理的な理解がおろそかにはりはしないか。小学校低学年で行われている生活科においてすでに報告されている弊害が蔓延しそうである。
 さらに留意しなければならないことは、教科との関係や教育課程の中での位置付けが不明なことである。どういう課題を選ぶことにもよるが、教科との関係はどうなるだろうか。また、通常、教育課程は教科課程と教科外活動とに分けるが、この「総合的な学習の時間」は、教科にもかかわり、教科外活動にもまたがる領域とにある。しかし、教科に横断的にまたがっているという点が強調されるのと教科外活動のひとつとするのでは意味合いがたいへんちがう。前者では、現行の教科・科目をかえることなく、「総合的な学習の時間」が入るので、相互の関係を整理して、「総合的な学習の時間」を編成する作業量は膨大である。またこの科目をだれが担当するか等実務的な問題も大きな課題である。拙速で教育現場を混乱させてはいけないだろう。教課審の意図は、2010年頃の次の改訂で教科の再編が予定され、今回はそのための「最初のステップ」として「総合的な学習の時間」を導入しようということらしい。


7.「新学力観」と「生きる力」

 「新学力観」は、高等学校段階では、あまりなじみのないものだが、現行学習指導要領改訂後の指導要録の改訂作業にともなって登場し、行政サイドの強力な圧力の下で推進され、学校現場を混乱させている。昨今の小学校の荒れや中学校に突出している生徒の荒れの背景の有力な一つになっていると考えられる。しかし、実は高等学校でも新入試制度の導入によって各校ごとの選抜方法の追求の中で「新学力観」を無意識のうちに招き寄せてしまっている。もともと「知育偏重」や「偏差値教育」の教育に対する批判の中で再浮上してきたひじょうに曖昧な考え方である。自ら学ぶ意欲と社会の変化に主体的に対応できる能力の育成をめざし、知識・能力を重視した伝統的な能力観に対し、意欲・関心・態度あるいは、思考力・判断力・表現力をとくに重視する見方である。これにより教員は授業をしながらそれぞれの子どもの意欲・関心・態度の度合いを正確に記録しなければならなくなったり、主体性を引き出させるために授業の中で教師が目だたないようにしなければならないということで、科学的な思考が無視されたり、成果のほとんど達成できないものになったりしている。知識の習得を保障しない態度主義、学力の形成に学校として責任を負わず、個人任せにする無責任と学力の階層化へと結果せざるを得ない。勢い、授業に積極的に参加しているという態度を示せばいいことになり、結果、授業の内容が十分に理解されないままに放置されるという現象が起こっている。また高校入試などでは、本来、点数化することができない意欲や態度など、特別活動や行動の記録、運動能力などを数値化して、評定とともに選抜資料として利用している。このような弊害にもかかわらず、「審議のまとめ」はさらに新学力観をひきずっており、中教審第一次答申を受けて、「生きる力」をはぐくむことを重視し、高校段階では、「義務教育の基礎の上に立って、自らの在り方生き方を考えさせ、将来の進路を選択する能力や態度を育成するとともに、社会についての認識を深め、興味・関心等に応じ将来の学問や職業の専門分野の基礎・基本の学習によって、個性の伸長と自律を図ることが求められている。」(P.3)としている。評価の在り方も、「生きる力」を身に付けているかどうかによって捉えるべきとしている(P.7)。そもそも「生きる力」とはもともと民間の教育実践の中でいわれていた言葉で、これを利用して中教審第一次答申は、「いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに強調し、他人を思いやる心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を〔生きる力〕と称する」(P.9)とし、新学力観のもっている一面を意識化し、新学力観の導入によって生じた矛盾を「教育内容の厳選」と「過度の受験競争の緩和」によって解消しようという意図をもっている。
 また「総合的な学習の時間」の評価についても、上述したとおり、新学力観にもとづく評価が予定されている。新学力観は、たとえば国語の読み方・文学教育への攻撃にみられるように「多様な読み」、「主体的な読み」が流行し、作品を深く読むことよりも、勝手な感想をいいあう授業が評価され、これにより、「自分なりの理解や自分なりの表現」がその子どもの個性として高く持ち上げられ、表現や理解の普遍性が見落とされ、思い付きや主観が個性にすり替えられて、それなりの個性によって自らひとりひとりの生徒に分を悟らせようというような事態が生じている。このことにも留意が必要である。


8.「心の教育」、道徳教育のさらなる強化

 「時代を超えて変わらない価値あるもの」を身に付けるとして、「審議のまとめ」は、他人を思いやる心、正義感、公徳心、ボランティア精神、郷土や国を愛する心、かわりばえのない徳目を合理的な説明も方法も示すことなく、子どもたちに身に付けさせろというのである。高等学校における道徳教育は「人間性としての在り方生き方の教育の視点に立って公民科や特別活動」をはじめ学校の教育活動全体を通じて行うこと」としている。家庭や地域社会の教育機能の回復に着目はしているが、具体的な提案はほとんどなく、相変わらずもっぱら、学校における道徳教育のさらなる充実が求められているにすぎない。ただ上述した「総合学習の時間」の中で、外部の人材の協力を得たり、校内にとどまらず地域の豊かな教材や学習環境を積極的に利用することが書かれており、学校を超えて、地域社会全体を学校的な道徳教育の影響下におこうとしている。それは特別活動領域におけるボランティア活動を一層促進することに大きな教育的意義をもたせようということとあいまって、道徳教育の強化がくわだてられている。また各地で起きた少年事件をきっかけに中教審から出された中間報告「新しい時代を拓く心を育てるために」(1998.3.31.)の「心の教育」にも注目しなければならないだろう。

9.「日の丸・君が代」のさらなる強制 

 なお「審議のまとめ」には「日の丸・君が代」等の扱いについては、特別活動の改善の基本方針の(ウ)に「国際社会の中で主体的に生きていく上で必要な日本人としての自覚や国際協調の精神を培い、国旗及び国歌の指導の徹底を図る。」となった。現行要領の「入学式や卒業式など」という文言がなくなったことは、「日の丸」の常時掲揚など無限定に拡大されるおそれがあった。しかし、1999年3月29日に告示された高等学校学習指導要領では結局、現行要領と同じ文言にもどった。一般に、「日の丸」・「君が代」の強制圧力は増加しつつあり、このことによってそれが弱まったとはとは思われない。ただ、さまざまな政治的力学が働いて、微妙な揺れがあることは感じられる。今春(99年)の卒業式について、広島県教育委員会が県立高校に職務命令を出し、その中である高校が校長の自殺するという不幸な事件が起こったことを考えると、この問題の異常さ、異様さがわかる。人の良心や信条ををねじ曲げるためには莫大なエネルギーを使ってもなお完全にはならないのである。
 教課審の上記文言のいう「国際社会の中で主体的に生きていく上で必要な」のはナショナル・アイデンティティより以前に今や国際平和や地球規模での環境問題を念頭に入れれば、「地球人」としての自覚が優先するはずであり、いたずらに「国旗及び国歌の指導の徹底を計」って、ナショナリズムを煽るよりも、真に「国際協調の精神を培う」のであるならば、なによりも日本が侵略戦争によって周辺諸国にあたえた罪科を率直に認め、その反省の上に立った「国際協調」の育成でなければならず、どうみても学問的・教育的な文言とは言い難い。またこうした強制は、「国旗・国歌」の歴史と現状を生徒自らが学び、「自ら考え、判断し行動」することを否定しており、思想・信条の自由と意見表明権を圧殺するものである。しかも、音楽の「改善の基本方針」に「各学校段階の特質に応じて、我が国や諸外国の音楽文化についての関心や理解を一層深める表現活動及び鑑賞活動の充実を図るとともに、国歌〈君が代〉の指導の一層の充実を図る。」という文章が加えられた。いうまでもないことだが、「日の丸・君が代」のような納得のいかないことに服従させようとする強制は、上述した「新学力観」の態度主義と連動していることも忘れてはならないだろう。
 教課審答申の教科外教育観と、そこで求められている人間像は、生徒を権利の主体としてとらえ育てるのではなく、つねに上からの「指導」に服する対象と考え、「自治」とは名ばかりで、権利主体として生徒を育成することがスポイルされ、所沢高校の卒業式や入学式をめぐる事件に見られる政権党議員や文部大臣の反応や、国連子どもの権利委員会での日本の高校生の発言に対する「週刊文春」の誹謗などに見られるように非民主的な風潮を助長しようとしているのである。


10.各教科・科目の問題点

〔1〕国語 ことばの学習をこんなに軽視してもいいのか?
 藤原正彦は、「小学校六年生になった三男の時間割りを見て驚いた。国語の時間が図書、書写を含めて土曜のある週でも六時間しかない。戦前に十二時間、大正時代には十四時間あったものである。青少年の読書離れがよく話題になるが、国語力の低下が読書をおっくうにさせているのも一因であろう。」(98年5月9日朝日新聞掲載)とし、教課審答申ではさらに主要教科が十数%減らされることに驚いている。氏はその上で「日本の初等教育は国語を中心にすべきではないだろうか。母国語こそが言語だけでなく、思考や情緒の中枢だからである。母国語は小学校で固めないと中学校ではもう遅い。」と今後の言語教育に危機感をもって提案している。教課審答申によれば、小学校で国語にあてられる時間は合計で1377単位時間になり、224単位時間減る。中学校では350単位時間で105単位時間減る。合計329単位時間、従来よりも授業を受けていない生徒が入学してくることになるのである。これは16%減にあたる。この急減に対応してなおかつ教課審のかかげる目標が達成できるのだろうか。本来、このような急激な変化には教科科目の改革が必要であるはずだ。そうでなければ藤原氏の言うようなことはできない。
 また、高校段階では、国語I(4単位)が国語表現I(2単位)か国語総合4単位必修にかわる。普通科ではあり得ないだろうが、高校3年間で国語を2単位しかとらない生徒ができる可能性が生じている。これらのことをまず念頭に入れて、以下問題点を論じたい。まず「国語」という名称についてである。現実の学校現場が「国際化」しており、現行学習指導要領も「国際化」をスローガンとして掲げ、教課審答申でも「国際理解」などというものがあるにもかかわらず、教科名「国語」の再検討がなされた形跡がない。自国中心主義を捨てて、外国語を意識・学習しながら、日本語を相対的にとらえなければならないはずである。
 教課審答申は、改善の基本方針の(ア)で「……豊かな言語感覚を養い、互いの立場や考えを尊重して言葉で伝え合う能力を育成することに重点を置いて内容の改善を図る。特に、文学的な文章の詳細な読解に偏りがちであった指導の在り方を改め、自分の考えをもち、論理的に意見を述べる能力、目的や場面などに応じて適切に表現する能力、目的に応じて的確に読み取る能力や読書に親しむ態度を育てることを重視する。」(教課審まとめP.42下線は筆者)という。文学的教材をさけて、より実践的な言語活動を取り上げろというのである。これを受けて小学校では「日常生活に必要な話す・聞く、書く、読むなどの基礎的な内容を繰り返し学習し確実に言語能力を育成することを重視し、内容の改善を図る。」としている。また中学校では「社会生活に必要な言語能力を確実に育成」する。高等学校では「社会人として必要とされる言語能力の基礎を確実に育成する」とし、実用主義が貫いている。また、新聞等の報道によれば、30%減になったといわれているが、中学校までの学年別漢字配当表の漢字(1006字)の数を減じることはなく、読みについては現行通り、書きの指導は上の学年に移行することになった。国語学習の中でかなりの負担になる漢字がその内容が減らされることなくほとんどそのままになっていることになるのである。言語を道具として、その反復練習のみに固執する授業では、生徒にとって魅力ある学習にはなりそうにもない。他方、重ねて文学的学習を抑制するように書きながら、(ウ)として「古典に関する指導については、我が国の文化と伝統を尊重し、生涯にわたって古典にしたし無態度の育成を重視する。」としている。現行要領と同じように国語を尊重する態度の育成や伝統文化の尊重やら道徳的な色彩も残存しており、文学的な色彩を払拭する中で生涯にわたって古典に親しむ態度が育成されるとは思われない。教課審が強調するコミュニケーション能力の育成が図られるえだろうか。そもそも言語能力は身体的な運動能力とともに人間にとって基底的な能力であり、人はものごとを言葉によって認識し、思考するものである。そしてさらに、文字を獲得することによって、言語そのものを客観的に分析=総合することが可能になり、そのことによって人間の言語活動は飛躍的に発達をとげた。原点にたちもどって「国語」学習の構造を視野に入れて、学習内容の精選をはかるべきであろう。

〔2〕社会科 科学的で民主的であることを求めない社会科
 改善の基本方針(ア)は、(1)日本や世界の諸事象に関心をもって多面的に考察し、公正に判断する能力や態度、(2)我が国の国土や歴史に対する理解と愛情、(3)国際協力・国際協調の精神など、(4)日本人としての自覚、(5)国際社会の中で主体的に生きる資質や能力を育成することを求め、これらを重視して内容の改善を図れというのであるが、どのような領域の方針を述べているのか、不分明な文章である。まずもって問題なのは歴史である。歴史の学習を通じて、愛国心をもてということだが、たとえ自国の歴史といえども無前提にそれに愛着を持てというのは、児童・生徒の人権に対する侵害になるし、ましてどこの地域の学校にも必ずと言ってもいいくらいに外国人生徒が在籍する時代に錯誤的であることを免れない。あわせて、(4)に日本人としての自覚を述べているが、民族的なアイデンティティの形成と国際的な視野に立てる人間との間の関係については触れられていない。(3)と(5)についても必ずしも矛盾がないとは言えない。国際社会の中で主体的に生きる資質や能力とは、おそらく多国籍企業の一員として外国語を駆使し、他国において縦横に経済活動に邁進できたり、国際的な場面で正確な情報を収集したりすることをイメージしていると思われるが、これは1974年に出された「国際理解、国際協力および国際平和のための教育ならびに人権および基本的な自由についての教育に関する勧告」(略称「ユネスコ教育勧告」)をふまえて作られているとは思われない。また、『教育課程改革試案』(中央教育課程検討委員会)がいうような「科学的で民主的な社会認識を育てることを中心的な課題とする教科」であるべき社会科とはほど遠い。もっともなんの合理的、説得的な説明もなく、社会科を解体し、なおかつ実態的には、従来の社会科という教科のメリットをそのまま利用しつつ、地歴科・公民科を存続させようとする行政にとってはしごく当然のことなのかもしれない。
 さて、小・中・高校を通じて歴史はどのように学ばれることになるのか。小学校第3・第4学年では地域学習(市町村・都道府県)の中で身近な歴史について一定度学ぶことを手始めとして、第6学年では「人物の働きや代表的な文化遺産を中心にした歴史学習を一層徹底する。」とあり、通史をさけて、歴史的事象を精選せよといっている。この点では現行学習指導要領と同じだが(東郷平八郎を含む42名の例示)、登場する人物に偏りが見られ、人物の力を誇大に評価しがちであったり、現代の社会史や経済史や文化史の成果を無視して、各時代にその生産を担っている一般庶民についての記述がおろそかになってしまうおそれがある。それよりもむしろ、通史を「悪者扱い」することなく、大きな歴史の流れをつかませるために、これを取り扱うべきではないか。中学校の歴史的分野では、はじめて通史的な取り扱いがなされるが、事項を精選して重点的に扱うにことになる。ここでは世界の歴史を背景にしながらも日本史を中心に据え、「先人が築いてきた文化と伝統を尊重する態度を養い、我が国の歴史に対する理解と愛情を深めるようにする。」としている。大きな歴史の流れをとらえ、多面的な見方をするようにとしながら、自国の文化伝統を愛せよ、愛国心を持てというのである。高校段階では、世界史も日本史も取り立てて、注目すべき事柄は書かれているないが、近年、さかんにキャンペーンがはられている「自由主義史観」等のように自国にとって不名誉な歴史的事実を隠蔽しようとする圧力に対して、科学的で民主的な視点に立った歴史の見方を明確にすべきではないか。また、従来の歴史学習の中で無視されがちであった社会的なマイノリテイーな人々や辺境な地域の歴史についても通史の中で登場させ、その文化とともに歴史について共通に学ぶ場を設定する必要があるのではないか。なぜならば、民主的なものの考え方は、マイノリティーにたいする寛容を身につけることによって完成し、「ともに生きる」ことになるのであるから。
 今回の答申は教育内容の厳選が最優先にされている関係であろうか、各科目についての記述が簡単でとりたてて、述べることがない。「地理」・「倫理」・「政経」・「現代社会」については省略する。ただ、「現代社会」はかつ鳴り物入りで、必修科目とされ、現行要領のもとで必修からはずされ、さらに今回の答申では2単位に減ぜられた。何の反省もなく、「現代社会」は静かに安楽死させられたことを書いておこう。
 さて、教育内容の精選は、どのようにはかられるのだろうか。(1)内容の重点化をはかり、網羅的で知識偏重の学習にならないようにする。(2)基礎的基本的な内容にしぼる。(3)学び方や調べ方の学習、作業的、体験的な学習や問題解決的な学習など児童生徒の主体的な学習を重視する。また、小・中学校では内容を上の学年に移行したり、2学年まとめて内容を示すことによって精選をはかることが述べられている。これらの方法の妥当性については、すでに述べたので省略する。
 最後に、「総合的な学習の時間」と「社会科」との関係について述べたい。答申に例示された「国際理解、情報、環境、福祉・健康」等をテーマとして設定すると、いずれにしても社会科との関連が一番強くなると思うが、例えば、それを専門教科を問わず、担任が行うとなると、かなり困難が伴うであろうし、両者の内容の整理を行うのもかなりたいへんな作業となるであろう。逆に社会科に各学年1単位ないし2単位、増単することによって、例えば、平和学習の修学旅行を大きなイベントとして、その事前学習と事後学習を含めて、相互乗り入れのような形で設定して、平和学習や人権学習を設定する方法もあると思われる。もちろん、生徒が主体的な学習ができるようにし、体験的な学習も組織する。

〔3〕数学 数学嫌いをつくるのが意図か?
(1) 根拠のわからない「厳選」
 教課審は「算数・数学」の「改善の基本方針」を次のようにまとめている。

ア)小学校、中学校及び高等学校を通じ、数量や図形についての基礎的・基本的な知識・技能を習得し、それを基にして多面的にものを見る力や論理的に考える力など創造性の基礎を培うとともに、事象を数理的に考察し、処理することのよさを知り、自ら進んでそれらを活用しようとする態度を一層育てられるようにする。
イ)そのために、実生活における様々な事象との関連を考慮しつつ、ゆとりをもって自ら課題を見つけ、主体的に問題を解決することを通して、学ぶことの楽しさや充実感を味わいながら学習を進めることができるように内容を改善する。(P.48)
 今回のねらいはなんといっても、「厳選」である。教課審は、小・中学校においては、「算数・数学」の現行教育内容の3割近くの削減を提起している。高校では、中学からの移行部分が加わるので、削減部分は少ないと思われる。
 しかし、「ゆとり」の下の「厳選」の根拠がよくわからない。たとえば、小学5年の文字式は、中学校に移された。実在の問題を数学の世界に引き寄せて解決する際、文字の導入は不可欠である。むかしの「鶴亀算」式に「カメさんの足を2本引っ込めて……」などに逆戻りを考えているのだろうか。現在の小学校高学年でやっている題意を把握して、未知数を文字にして立式する学習は、中学での数学(代数)への第一歩にもなるし、はるかに、“先につながる”学習内容である。文字の導入は、小学校高学年からの導入が可能であり、効果も十分であると思うのだが。
 少数・分数の導入も小学3年から「上学年へ移行」している。少数・分数は簡単に言えば、半端を量る必要から生まれたが、十進位取りの原理を用い実生活でよく使われている少数の方が、互助法を原理とする分数より、子どもには馴染みやすく理解しやすい。しかし、現行では、小学3年の2学期に分数、3学期に少数を導入し、分数では、子どもたちが理解しにくい「割合分数」「分割分数」が導入時に現われているなど、現行の教科書構成(指導要領)が、少数・分数の理解を難しくしていることは否めない。単に後回しにすることより、現行の指導要領をもっと反省・検討すべきではないか。
 中学では、一元一次方程式や二次方程式の解の公式といった代数初歩が、高校に回された。これに代わって、「論理的な思考力を重視して、例えば、内容の軽減を図りつつ図形の証明に関する学習を重点化するようにする」(中間まとめ)と述べているように、図形の証明に力点を置くという。図形の指導は、論証と切りはなして、図形や空間の性質を具体物に即して学習するべきであり、「論理的な思考」は数学教育の全体を通して系統的な学習からとらえるべきことであろう。高校では、小学校・中学校で示した「数と式」「図形」「数量関係」といった構成領域は、示していない。現行の科目構成に「数学基礎」を加え、他は、現行の内容に中学からの移行内容を加え、「引き算」によって組み立てているにすぎず、十分な議論がなされたとは言いがたい。
 新科目「数学基礎」は、「具体的な事象を通して数学的な見方や考え方のよさを認識しることをねらい……数学史的な話題、日常の事象についての統計処理及び生活における数理的な考察などを扱う」としている。しかし、「数学的な見方や考え方」は、数学史や統計的な処理を学ぶ中だけでしか扱えないのか。数学そのものゐ学ぶことによって得られてくるものではないのか。さらに、数学史は「数学」の必要性・有効性を認識するために取り組むべきではないか、など疑問が多い。
 「実生活における様々な事象との関連」を説くならば、力学・電磁気学や社会・自然現象の法則性の探求を目指し、微分積分、線形代数、確率・統計を高校数学の柱に構成すべきである。
 とにかく、完全学校五日制実施を目の前に、「厳選」だけが前面に出過ぎて、高校数学の内容を“全ての高校生にとって必要な内容は何か”をじっくりと議論したとは言い難いし、その姿勢も感じられない(小学校算数・中学校数学も同様)。
 教課審の「改善」は、「ゆとり」の名の下に、系統性を一層後退させ、安易な「引き算」による「厳選」と、「問題解決学習」と称し、「関心・態度」尊重の新学力観にたった“学習内容”の再構築でしかないと言えよう。
(2) 高校新科目「数学基礎」のねらいは何か?
 ところで、「数学基礎」は「数学I」と並列され、どちから一方の必履修とされているが、この高校新科目「数学基礎」のねらいは何か。
 「数学基礎」は「数学学習の系統性と生徒選択の多様性の双方に配慮し」科目内容の構成を見直す目玉とも言えものである。しかし、本音は“必修内容を切り下げ、選択科目を増やし、できる子には数学の系統性にもふれさせ、数学嫌いの子には系統性よりも「作業的・操作的学習」「問題解決学習」で、「学ぶことの楽しさや充実感を味わ」ったということにして、数学をやったことにしておこう”
“そのために、新たな科目(差別的な科目)=「数学基礎」をおいた。”と聞こえてならない。
 数学の科目選択について、能力主義的再編――「多様化・複線化」は、文部行政の多年の悲願であった。すべてを学ぶ「数学I・II・III」と中身の部分選択学習を取り入れた「 A・B・C」で構成する現行の数学は、「とかく、従来の科目を選択させる方法〈最近では、前回の基礎解析、代数・幾何に対する数学II〉が複線型として敬遠され、定着しなかったことへの画期的な試みであるといっても過言ではない」(指導要領作成会議での片桐重延氏の証言――〈 〉内は筆者注)と、科目選択の「多様化」への決定打とも言えるものである。今回、現行の構成を変えないでの新科目の導入は、「敬遠され」ていた「従来の科目を選択させる方法」を堂々と採ったものであり、そのダメ押し策とも言えるものである。
(3) 子どもの視点にたった学習内容の議論が不十分
 しかし、“できる子”にしても、系統性を軽視した現行指導要領を踏襲している以上、今回の改訂で「数学の系統性」に触れられるとは考えられない。
 戦後、高校指導要領は、それぞれの時代の「多様化」の方策を反映してきた。高校数学の構成は、以下に簡単に列挙するように、その内容をタテ割・ヨコ割と前回の総括・反省なしに繰り返してきた。
  1947年学習指導要領〈試案〉 解析I、解析II、幾何学      (タテ割り)
  1955年    〃      数学I、数学II、数学III、応用数学 (ヨコ割り)
  1960年高校指導要領告示   (同上)
  1970年    〃      数学I、数学IIB、数学III(ヨコ割り)
  1978年    〃      数学I、基礎解析、代数・幾何、微積(タテ割り)
  1989年    〃      数学I・II・III、数学A・B・C  (ヨコ割り)
「系統性」という言葉は、ときおり、周囲の批判をかわす程度に使われたに過ぎず、中身の議論がなされたことはないのである。
 いや、「系統性」どころか、文部行政は、数学教育(数学にかぎらないかもしれないが)そのものを、子どもの視点にたって議論・検討したことがあったのだろうか。あったのは、ひたすら、能力主義的再編・産業界・財界・時代の要請に、“数学としても”いかに応えるかではなかったか。
 昨今、跳び入学・中高一貫教育と中教審を中心に明らかな“エリート養成”が叫ばれているが、肝心の小学校から高校までの教育内容の検討・提起が、余りにも貧弱過ぎやしないか。
 「英才教育のためには、入念な質の高い凡才教育を行うべきであり、凡才教育が高くなれば、英才は自然とそのなかから現われるだろう。……凡才教育を充実することを忘れた英才教育は空中楼閣にすぎないし、やがて、失敗するほかあるまい。」という遠山啓(『教師のための数学入門』)の忠告を、文部行政は痛切に受け止めるべきであろう。

〔4〕理科 改訂ごとに授業時数が削減
 理科は、学習指導要領の改訂のたびに、授業時数が削減されている。小学校においては、授業時数が60年代と比べると、3分の1も削減されており、しかも生活科の新設によって低学年では理科の授業がなくなってしまった。中学校においては20年前と比べ、時間数は4分の1削られたが、内容の密度は高くなっていて、現行学習指導要領で中学3年の理科が4単位から3単位に減少したが、基本的な内容は減らせないということで、教育項目は削減されなかったため、過密な内容を詰め込むことになり、実験をやる余裕がますます少なくなり、教科書の実験の数も減った。高校では60年代では、物理・化学・生物・地学の4科目を必修としていたが、現在では、ほとんどの高校で2科目となってしまっている。これ以上、理科の授業時数を減らすな、むしろ小・中学校では増やすべきだという物理学会等の主張がある。しかし、教課審は、さらに現行要領より、95単位時間を減ずることになった。国民全体がサイエンス・リテラシーをもつべきだとするイギリスでは、ナショナル・カリキュラムがつくられ、サイエンスの時関数は20%が確保された。結果的には、日本では、ますます実験や観察などはできにくくなるはずだが、
 改善の基本方針では、


(ア)小学校、中学校、高等学校を通じて、児童・生徒が知的好奇心や探究心をもって、自然に親しみ、目的意識をもって観察、実験を行うことにより、科学的に調べる能力や態度を育てるとともに、科学的な見方や考え方を養うことができるようにする。
(イ)そのため、自然体験や日常生活との関連を図った学習及び自然環境と人間とのかかわりなどの学習を一層重視するとともに、児童生徒がゆとりをもって観察、実験に取り組み、問題解決能力や多面的・総合的な見方を培うことを重視する。(P.50〜51)
 
 と、あり、いたるところで観察、実験が重視されている。しかし、効果的に実験をするには、1クラス20人程度が必要であり、したがって実験室等の教育条件の整備も必要である。小学校の「生物とその環境」では、「児童が動植物の生活の実際や成長に関する諸現象を観察、実験を通して追求する」ことに重点を置き、「その際、例えば、動植物の運動や成長と天気や時刻の関係などは削除する」(P.51)とあり、これで実験や観察が成り立つのだろうか。「理科離れ」はますます深刻になるだろう。
 さて、学習内容の厳選については、基本的な枠組みはほとんど変化がなく、上の学年に移行することしか書かれていない。その移行にも根拠が乏しい。例えば、現行の中学1年で学ぶ「比熱」は、高校へということになる。しかし、「ものの暖まり方、熱の性質、熱のエネルギーの正体とその行方、熱エネルギーの利用、それにまつわる地球環境問題こそは、循環型社会を考えるさいの基礎・基本」であり、一般の家庭で使われるエネルギーの2/3は熱エネルギーの形であるにもかかわらず、高校にまわった。同じく遺伝の基礎も中学校で学んでも良いのではないか。
 高校の理科においては、「理科基礎」「理科総合A」「理科総合B」から1科目、「物理I」「化学I」「生物I」「地学I」から1科目が必修となった。
 このうち「理科基礎」は、初めて科学史・科学論がとりあげることになった。イギリスでは、歴史上の科学者たちの発見の過程を追体験させる科目を作っているという。“発見の喜び”が理科を好きになる鍵になるというのである。「科学の歴史は、自然と人間との交渉と闘争・支配と敗北と妥協の歴史であり、政治史とは異なる側面の人類史でもある。科学は、人々に繁栄と福祉をもたらしもし、破壊と悲惨をもたらしもした。科学の生成・発達・発展の経緯を知ることは、単に現代の自然科学に至る道筋を知識として得るばかりではなく、その背景を成す社会史や科学の発達を直接担った科学者達の人生や思想・研究過程での試行錯誤との関わりのなかで理解することによって、科学の「人間化」(つまり、細分化・高度化が加速度的に進行し、人間疎外が著しくなりつつある科学を、人間のもとに引き寄せ、人間的意味の認識に導く)が図られ、生徒の興味と関心を引き出すことにつながるだろう。」(神高教・高総検『続・学習疎外を超えて』1998.7) この科学史学習を理科の共通基礎の中心に据えて科学的な思考力を育成しなければならない。科学的判断力を身につけた社会人を育てるための国民教育が必要である。

〔5〕芸術 あいかわらず情操教育的な芸術教育
 相変わらず、芸術教育は、情操教育として捉えられ、道徳教育に従属させられている。「豊かな情操を養う」ことがどの科目にもうたわれ、さらに「心の教育」や「生きる力」の導入にともなって情操教育のポジティブな面を強調し、他方、完全学校五日制等にともなう授業時数の減少を回避しようという教科担当者の意見もあるので、情操教育を批判的に見る力が弱い。芸術的な営為では感覚(知覚)が最も重要な役割を果たすのだが、感覚は認識の器官であり、認識の深化が感覚の質を高めるのである。
 芸術は、創作のみならず鑑賞においても、みずから自然の一部である人間のもっとも根源的な部分と直接的に関わる営みである。したがって、芸術は、原初的自我がそうであったように、常に完全な自由と解放を激しく求めるという属性をもつ。
 いま、子ども・青年の心とからだが、自然破壊や今日の社会体制下の種々の抑圧によって著しく歪められ閉塞状態にあるとき、その克服の突破口として、私たちは、芸術に内在するそのような〈力〉を改めて想起し、その復権を図るべきではないだろうか。
 いったい、共通基礎として芸術で何を学ばせるのかを考えなければならない。また、完全学校五日制にともなう授業内容の厳選にともなって、他の教科・科目と同様に芸術科目の授業時間数は減少するが、ことに中学校等では減らされており、実習を中心とする教科がたとえば週あたり1時間の授業になったりすれば、その学習効果は著しく減殺されることになるだろう。全体に厳選しなければならない上に「総合的な学習の時間」や「情報」の導入に絡んで各教科・科目の単位数を減じなければならないのであるが、比較的単位数の少ない教科・科目に対する配慮が必要となるだろう。また、教育内容の厳選に対応して、多くの教科・科目で選択的に学ばせることによって形の上で内容の「精選」を安易に行おうとしている傾向がみられることにも注意が必要である。
 さらに憂慮すべき点は、音楽における「君が代」の取り扱いである。現行学習指導要領で「国旗」・「国歌」の強制がいっそう強まったが、小学校の要領においては、さらに「国歌〈君が代〉は、各学年を通じ、児童の発達段階に即して指導すること。」という項目がある。しかし、今回の教課審の「審議のまとめ」は音楽の改善の基本方針に「各学校段階の特質に応じて、我が国や諸外国の音楽文化についての関心や理解を一層深める表現活動及び鑑賞活動の充実を図るとともに、国歌『君が代』の指導の一層の充実を図る。」(P.54)という文章が入った。前半の「…音楽文化についての……表現活動及び鑑賞活動の充実」と後半の「国歌『君が代』の指導」の文が因果関係も有機的なつながりも感じられない。不可解な文章である。このようにして「国旗」にくらべて実施率が低い「国歌」が教科外から教科内に入ってきた。一方で、教科内容を選択的に選ばせようとする傾向が強まる中で、「各学校段階の特質に応じて、」小学校からずっと「君が代」を学習させ続けようというのは異様としか言いようがない。こうした中で子どもたちが音楽を愛し楽しむことが期待できるだろうか。***
 ***新学習指導要領の音楽の項には、「君が代」の記述が消えている。

〔6〕家庭、技術・家庭  福祉切り下げにおうじた「自己責任」「奉仕」の強調
 改善の基本方針は、

(ア)(1)衣食住やものづくりなどに関する実践的な活動を通して、家族の人間関係や家庭の機能を理解し、生活に必要な知識・技術の習得や生活を工夫し創造する能力を育成、(2)家庭生活をよりよくしようという意欲・態度を育成するために、小・中・高校の領域構成や内容を改善する。
(イ)(3)男女共同参画社会の推進、少子高齢化等への対応を考慮し、家庭の在り方や家族の人間関係、子育ての意義などの内容を一層充実する。
   (4)情報化や科学技術の進展等に対応し、生活と技術とのかかわり、情報手段の活用などの内容の充実を図る。
(ウ)(5)基礎的・基本的な知識・技術を確実に身に付けさせるため、実践的・体験的な学習を一層重視する。
   (6)環境に配慮して主体的に生活を営む能力を育てるため、自ら課題を見いだし解決を図る問題解決的な学習の充実を図る。
(エ)(7)家庭・地域社会との連携や生涯学習の視点を踏まえつつ、学校における学習と家庭や社会における実践との結び付きに留意して内容の改善を図る。(P.59)
 

 (3)を受けて、高等学校では、「男女共同参画社会の推進、少子高齢化等への対応を考慮して、家族や生活の営みを人の一生とのかかわりの中で総合的にとらえ、家庭生活を主体的に営む能力と態度を育てる観点」(P.61)から改善を図るとされている。この「男女共同参画社会」とは、相変わらず男性優位の企業社会において、女性が母性保護を撤廃されて男性と同様に酷使されることを意味する。結果、当然の「少子」については、何ら有効な対策をうつことなく、民間のサービスに委ねるだけで公共のサービスをスリムにすることしか考えていない。したがって、子どもがほしければ、専業主婦の道を選ばざるを得ず、「男女共同参画」とは矛盾することになる。また、「高齢化」も同様に民間サービスを受益者負担せよということである。「教課審中間まとめ」では、「少子高齢化やサービス経済化等に対応する観点から、家庭生活における男女の協力、親としての責任、高齢者等に対する理解や福祉マインドと介護の基礎、消費者としての自覚などを重視して改善を図る。」と露骨に書かれている。公的サービスの低下に対応するための学習をせよということである。教課審答申では、改善の(ア)として「家族・家庭の機能、子どもの発達と、高齢者の生活と福祉などについてライフステージごとの課題とかかわらせて扱うことにより、生徒自身の問題としてとらえさせるとともに、衣食住や消費生活と環境などに関する基礎的・基本的な知識と技術を習得させることを重視する。」(P.61)と書かれ、出産、育児、教育、医療等はすべて私事として受益者が負担せよということになる。しかし、「少子高齢化」への対応を考慮すればするほど、個別の家族、子ども自身の努力では解決しがたい課題が山積しており、「生活課題を主体的に解決できるようにする」[高等学校〔家庭〕(エ)P.61]ことは単純にはできない。したがって、結局のところ教育の中では、「家庭の在り方や家族の人間関係、子育ての意義など」いきおい、道徳教育的な中味に陥る危険性をもっている。また、「地域に対するボランティア活動の一層の重視」がここにもまた顔を出している。ボランティアがどういう背景で教育の中に登場してくるかがよく理解できる。
 高校の家庭科は、新たな科目「家庭基礎」(2単位)、「家庭総合」(4単位)[家庭一般」を改善]と「生活技術」(4単位)の3科目を、「生徒の多様な能力・適性、興味・関心等に応じて選択的に履修できるようにする。」とある。しかし、現行の教育条件のもとでは学校選択になるしかないし、無理に選択履修にすれば、従来選択科目としておいていた「保育」、「食物」等を開講することができなくなる。また、(1)や(5)に示されている実践的・体験的学習についても十分な教育条件の整備がなければ不可能である。
 さて、家庭科では、どのようにして教育内容の厳選を図ろうとしているのだろうか。
  (1)2学年分まとめて内容を示して弾力的な指導を可能にする。(小学校)
  (2)基礎的・基本的な知識・技術の確実に身につけさせる。(小学校・中学校・高校)
  (3)中学校に移行する。(小学校)
  (4)選択的に履修する。(中学校)
  (5)各学校の創意工夫に委ねる。(中学校)
  (6)3科目からの選択をし、地域・学校、生徒の実態に応じて弾力的な指導をする。(高校)
  (7)「家庭基礎」(2単位)科目の設置(高校)
  (8)改善の基本方針(エ)[上記(7)](高校)
 だいたい以上のようなことになるだろう。たとえば、食生活を例にとると、小学校では、「……食品の栄養的な組み合わせや簡単な調理に重点を置いて指導することとし、細かな栄養素の種類と名称などについては中学校に移行する。」(P.61)となった。中学校では、「栄養を重視した食生活」がとりあげられている。しかし、食生活に関する学習は物質中心主義で、現在の児童・生徒の「孤食」、食材の乏しさ等の問題の背景にある家族関係などについての言及がなく、これでは問題解決学習を組むことはできないだろう。高校「家庭総合」では、「衣食住の生活の科学と文化に重点を置」くとされているが、これを達成しようとするならば、自然科学だけではなく、人文科学、社会科学を含むすぐれて学際的な性質をもっており、総合学習として採用するにふさわしいものである。教育条件さえ許せば、ぜひ総合学習として設置すべきである。また、生徒が生活上かかえている課題を解決するべく、学習が行われるとすれば、ぜひこうした視点が必要となるであろう。

〔7〕保健体育 さまざまな課題を負わされた保健体育
 体育の授業時数が現行7〜9単位時間から7〜8時間に減少されることになる。通常、各学年3時間で行われていたものをひとつの学年で少なくとも2時間になるということで、平均、小・中学校ともに2.6時間の授業で発達刺激的な意味で体力を向上させることはできないことは明白であるのに、これで「基礎的な体力を高めることを重視する」(P.62)という基本方針は達成されるのだろうか。しかも、この「基礎的な体力」の内容が不明である。また、時間数の減少に対応するために3学年において今まで3〜4領域を選択していたものを、2〜4領域を選択履修するように改められ、選択幅が拡大した。体育における共通基礎の内容をどのようにすべきかの議論をへないまま、一番安易な方法で時間数の減少に対応しようというのである。
 それでいて新たにさまざまな課題が保健体育には課せられている。「改善の基本方針」から引き出すと、「生活習慣のみだれ」、「ストレス・不安」対策、それらの対応するとみられる「体ほぐし」(仮称)なるあらたな項目の登場、「心の健康に関する学習」、「食生活をはじめとする生活習慣の乱れ」、「生活習慣病」、「薬物乱用」、「性に関する問題等」さらに「自然災害等における安全の確保」、「健康・安全と運動とのかかわり」、他教科等との関連で「自然体験的活動」など現在の子どもたちがかかえている病弊対策が相変わらず対症療法的、羅列的に書かれている。教育内容の厳選とどのように整理をつけろというのだろうか。健康権・環境権・スポーツ権をその土台にすえて、子どもたちに、自分自身の身体の現実を直視させ、身体についての認識を深め、身体形成(身体変革)の目的意識を育てることの検討がまず求められるだろう。

〔8〕外国語 コミュニケーション能力だけが肥大しても……
 改善の基本方針は、(1)外国語による実践的コミュニケーション能力の育成にかかわる指導の一層の充実、(2)外国語の学習を通して、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成、(3)視野を広げ異文化を理解し尊重する態度の育成、(4)言語の実際の使用場面に配慮した指導の充実、(5)中・高校での外国語科を必修とすること。英語履修を原則とすること(P.65)、となっている。
 「国語」同様にコミュニケーション能力の育成に重点がおかれている。そのため、中学でも高校でも実践的コミュニケーション能力の育成を第一番にかかげることになった。「読むこと」や「書くこと」よりも、「聞くこと」、「話すこと」が優先し、「日常的な言語の使用場面や言語のはたらきを例示」(中学校、P.65)することが述べられており、高校では「オーラル・コミュニケーションI」、「英語I」のいずれかを選択必修することになった。前者において「音声によるコミュニケーション活動」の指導を重点的におこなうことが書かれている。「英語I」や「英語II」でさえ、「コミュニケーション活動」の指導が中心になっている。
 しかしながら、外国語を中等教育において学習させる意味は、ただ実用的な「コミュニケーション活動」にあるわけではない。「中等学校の外国語教育に関する各国文部省への勧告59号」(ユネスコ公教育会議、1965年)は以下のように述べている。


 (8)現代外国語教育の目的は、教育的であると同時に、実用的である。外国語教育のもたらす知的訓練は、その外国語の実用的使用を犠牲にしてなされるべきでない。一方、その実用的運用がその外国語の言語的特徴を十分に学習することを妨げてもならない。
 (9)外国語教育はそれ自身が目的でなく、その知性と人格を鍛え、よりよい国際理解と、市民間の平和的で友好的な協力関係の確立に貢献することに役立つべきである。
 
 このように言語は伝達の手段であると同時に、思考、認識の手段であることをを忘れてはならない。「実践的コミュニケーション」は、ただ日常会話ができれば良いわけではなく、人権、民主主義、平和・非暴力、環境・民族問題などに教材を求め、上記(9)に掲げられているような国際的な協力関係を構築すべきである。
 教育条件からも問題がある。外国語教育での一クラス定員は15人が国際的常識であるということだが、現行指導要領で必修化された「オーラル・コミュニケーション」を行う上で現場ではクラスを2つに割って授業を展開できるような定員の保障を求めたが、行政はこれを無視したのである。音声による伝達を重視する授業を成立させるには、国際的常識を日本にも適用することである。また、外国語を効果的に学ぶためには、毎日授業があることが理想とされ、さらには中学校段階が、外国語学習に最適の発達段階であるということだが、中学校の外国語は週あたり3時間とされ、年あたり従来35時間であったものが、30時間に減らされることになった。実質、週0.8時間になったのである。本気で外国語教育を実効あるものにしようとする意図はあまり感じられないのである。しかし、この答申が中高一貫校の教育編成について述べているところによれば(P.39)、特例により週5時間の英語を学べるようになっている。中高一貫校の性格がこのような点にもかいま見ることができる。
 また、答申ははじめて外国語科を必修とすることを決めた。そしてその外国語には英語が国際語として使われている点を考慮して選ばれた。もちろん、現状が追認されただけである。英語以外の外国語については、「その科目の構成、内容、指導方法等を弾力的に扱うことができるようにし、地域の実情や学校の実態に応じその履修が一層推進されるよう配慮する。」(P.67)という文言が申し訳程度に添えられた。言語学的にどのような外国語を学ぶべきかは、「外国語学習は、それ自体の実用の域をこえて、たとえ無意識にでも理論的作業に近づいている。…母語の特質が逆に照らし出され、ことばそのものにも広い展望が与えられるのである」(田中克彦「外国語を学ぶことの意味」『教育の方法』4)という見地からすれば、ヨーロッパ諸国の伝統的な外国語が同じヨーロッパ語の中から選ばれているように、まずもって同類の言語(たとえば、朝鮮語、トルコ語、モンゴル語など)から、つまり近隣諸国の言語をまずもって学ぶべきなのである。しかし、こうした英語以外の外国語が安定的に学校において学習されるための条件作りはあまりなされていない。

〔9〕情報 “必修化”は拙速
 教課審「審議のまとめ」の「I.教育課程の基準の改善方針」の「1.教育課程の基準の改善の基本的な考え方」の「(3)各学校段階・各教科等を通じる主な課題に関する基本的な考え方」(P.11)の中で、道徳教育、国際化、情報化、環境問題、少子高齢社会への対応について述べており、「情報化への対応」も重要な要素として取り上げている。
 「今後、ますます高度情報化社会が進展していく中で、児童生徒が、溢れる情報の中で情報を主体的に選択・活用できるようにしたり、情報の発進・受信の基本的ルールを身に付けるなど情報活用能力を培うとともに、情報化への影響などについても理解を深めることは、一層重要なものになってくる」(P.12)と述べ、現在、中学校や高等学校で技術・家庭科、理科、家庭科で扱っているが、「今後は、児童生徒の発達段階に応じて、一貫した系統的な教育が行われるよう更に関係教科等の改善充実を図り、コンピュータや情報通信ネットワーク等を含め情報手段を活用できる基礎的な資質や能力を培う必要がある」(P.12)としている。
 具体的には、小学校においては「総合的な学習の時間」をはじめ各教科で、中学校においては技術・家庭科の中で情報に関する基礎的内容を必修とし、高等学校においては教科「情報」を新設し必修とすることが適当であると述べている。
 新設教科「情報」の説明では、


ア.教科解説の趣旨とねらい
(ア)大量の情報に対して的確な選択、情報手段の適切な活用、主体的に情報を選択・処理・発進できる能力が必須である。
(イ)情報化の進展が人間や社会におよぼす影響を理解し、情報社会に参加する上で望ましい態度を身に付け、健全な社会の発展に寄与する。
(ウ)情報及び情報手段をより効果的に活用するための知識や技能を定着させ、情報に関する科学的な見方・考え方を養うためには、高等学校段階においても継続して情報に関する指導を行う必要がある。(P.67)
イ.科目構成及び内容構成の考え方等
(ア)普通教科「情報」には、選択履修できるように、「情報A」、「情報B」、「情報C」を置く。
(イ)各教科の内容
   a.「情報A」 コンピュータや情報通信ネットワークなどを活用して情報を選択・処理・発信できる基本的な技能を育成
   b.「情報B」 コンピュータの機能や仕組を通して、コンピュータの活用について科学的に理解させる。
   c.「情報C」 情報通信ネットワークなどが社会の中で果たしている役割や影響を理解し、情報社会に参加する態度を育成する。(P.67〜68)
 
 となっている。
 以上が「情報」に関する部分であるが、1997年10月に「情報化の進展に対応した初等中等教育における情報教育の推進等に関する調査研究協力者会議」(以下協力者会議)は「体系的な情報教育の実施に向けて」という答申を出し、その中で“次期学習指導要領の改訂に向けた提言”を行った。今回の教課審のまとめはそれを受けてのものである。
 協力者会議の答申では、“情報教育の目標”を次のようにしている。


(1) 課題や目的に応じて情報手段を適切に活用することを含めて、必要な情報を主体的に収集・判断・表現・処理・創造し、受けての状況などを踏まえて発進・伝達できる能力(情報活用能力)
(2) 情報活用の基礎となる情報手段の特性の理解と、情報を適切に扱ったり、自らの情報手段を評価・改善するための基礎的な理論や方法の理解(情報の科学的な理解)
(3) 社会生活の中で情報や情報技術が果たしている役割や及ぼしている影響を理解し、情報モラルの必要性や情報に対する責任について考え、望ましい情報社会の創造に参画しようとする態度(情報社会に参画する態度)
 
 これらを相互に関連づけ、発達段階や他教科等の学習とも関連づけて効果的に育成するため、系統的、体系的な情報教育カリキュラムの編成が必要なのであるが、その前提条件として、「小学校、中学校において新たな教科を設けることについては、教育課程全体の在り方の問題としての検討が必要であること、現状を前提にしながら理想型との間の中間的段階を模索することも、着実な前進を図るという観点から重要である。来るべき完全学校五日制、教育内容の厳選、基礎・基本の徹底、「総合的な学習の時間」の設置、中学校以降の選択教科の拡大等を念頭に置き、「情報活用の実践力」の育成については、原則として既存の教科等で行い、「情報の科学的な理解」及び「情報社会に参画する態度」については特化した教科・科目、領域等で行いつつ、その一部については、既存の教科等で行うことを前提として提言をまとめた」としているのである。
 したがって答申では、“既存の教科等における「情報活用の実践力」の育成”の項目があり、すべての教科等での指導例の例示があって、例えば「理科」では次のようになっている。
 「自然現象をモデルとしたモデル化の方法、観察、実験データの処理、表現、解釈の方法を実践的に扱う学習活動の中で、コンピュータを観察・実験の道具として活用したり、動植物等のデータベースを作成、検索したり、天体の動きをモデルで表現し、シュミレーションしたり、科学技術情報を情報通信ネットワークで収集する、あるいは、宇宙空間や人体の中に入るなどバーチャル・リアリティで仮想体験する学習活動などが考えられる」

 ようするに、今回の「教課審のまとめ」では、小学校では、コンピュータに「触れ、慣れ、親しむ」ために「総合的な学習の時間」を活用して、主として「情報活用の実践力」を、中学校段階では、技術・家庭科の「情報基礎」を必修扱いとし、「情報の科学的な理解」、「情報社会に参画する態度」を育成する観点から内容を充実する、また「総合的な学習の時間」においては、「情報活用の実践力」を養うため、課題解決的な学習活動を情報手段を活用しながら行い、高校段階では、普通教科としての「情報」を必修科目として複数設置し、「情報の科学的な理解」及び「情報社会に参画する態度」を育成する、ということである。
 情報化に関する学習は、膨張する情報環境の中で主体性を確立し、情報の公共性、プライバシーの保護、情報の公開、情報公害や犯罪など情報に関わる基本と人権教育等がその中心でなければならない。
 情報社会のシステムとそれがもたらす諸様相、情報に対する自由で公正なアクセスと情報発進の自由が国民の権利であることを理解しなければならない。
 こういう見地に立って、「情報」の問題点をあげてみよう。


 (1)コンピュータの必要最低限の操作は短期集中的に行うのが効果的であり、1年間を通して学ぶ必要はない。
 (2)「情報A,B,C」の内容は、相互に密接な関係があるものなので、どれかを選択して学べばよいというものではない。
 (3)「情報C」において、“情報通信ネットワークが社会の中で果たしている役割や影響を理解し”とあるが、コンピュータの活用を中心としたこの傾向は変わることはないだろう。このように幅広い内容を、独立した教科で実現することはもともと考え難いのであり、まだまだ理論的、実践的な積み上げが必要なのではなかろうか。
 (4)協力者会議の提言の中で“「情報活用の実践力」については、既存の教科で行い、「情報の科学的な理解」、「情報社会に参画する態度」については特化した教科・科目で行いつつ、その一部については、既存の教科等で行う”と述べているのであるが、「審議のまとめ」の中で既存の教科等の関連については(ウ)各教科等との連携に配慮し、情報科での学習成果が、他教科の学習に役立つように、履修学年、課題の選定、指導計画の作成等を工夫せよ、とは言っているが、既存の教科等の関連は具体的には書かれていないし、系統的、体系的などと言えるものではなく、内容の研究も不十分である。具体的な学ぶ対象から切り離して「情報活用能力」だけを育てるということは考えられない。
 
 以上のような問題がある上に、現状、行われている「情報」ではどうしてもコンピュータの操作を中心とした学習がなされており、担当教員は固定化されてしまっている点を考慮するならば、「情報」必修化によって相当数の教員養成に関する条件整備が必要になると思われるが、家庭科男女共学の時と同様、十分な教員養成は期待できないのではないか、「特別の事情がある場合には、当分の間、数学や理科等に関する科目において」(P.68)、代替することが可能であるとあり、「当分の間」は「学習指導要領」的な意味ではかなり長いので、十分な教育条件が保障されない中で現場の努力だけが求められることになる懸念が濃厚である。少なくとも必修化は現段階では拙速といわなければならない。
 情報教育とは、「情報化社会の意味の理解」が基本であり、究極的には「情報化の進展とあるべき社会像」の探究である。
 FA・OA化による職業・労働の変化と問題点、言論・表現・出版の自由、知る権利、プライバシー問題等、情報管理の状況調査やコンピュータ合理化労働者の実態調査等を含めて、生きた情報教育が必要なのであり、今回の情報の“必修化”がそれに役立つとは思えないのである。


11. おわりに

 現行学習指導要領は最低最悪といわれたが、教課審答申から読み取れる新学習指導要領はおそらくさらにそれを更新して最低最悪となるだろう。「総合学習の時間」や「情報」の新設、しかし、完全学校五日制にともなう学習内容の厳選という問題や矛盾をくぐりぬけて、どうやって各学校現場で新教育課程編成をしていけば良いのだろうか。本稿で列挙した問題点にくわえて、さらに中高一貫校、総合学科、単位制高校、また評価をめぐる問題等も検討を加えなければならない。

《参考文献》
 『教育』1998年2月号、11月号、国土社
 『教育評論』1998年9月号、10月号、アドバンテージサーバー
 『高校のひろば』vol.30, 1998年、日高教・高校教育研究委員会
























第2章 「総合的な学習の時間」とは何か
                ―― 改訂学習指導要領を読み解く ――
        高総検レポート別冊『「総合的な学習の時間」Q.andA.─この奇妙なるものの問題点アレコレ─』(2000.7)の再掲


1.総合的な学習の時間においては、各学校は、地域や学校、生徒の実態等に応じて、横断的・総合的な学習や生徒の興味・関心等に基づく学習など創意工夫を生かした教育的活動を行うものとする。(『高等学校学習指導要領』1999年3月、第1章総則第4款)

7.総合的な学習の時間の授業時数については、卒業までに105〜210単位時間を標準とし、各学校において、学校や生徒の実態に応じて、適切に配当するものとする。(同上、第1章 第5款、下線部筆者)
 

 「総合的な学習の時間」──この奇妙な言葉は、日本の(いや世界の)教育のこれまでの歴史の中で、まったく初めて教育課程にとり入れられた用語です。普通は「総合的な学習」(これでさえ「的な」というアイマイな語を用いているために、とてつもなく広く漠然とした学習になってしまいますが)で終わるところを、そうではなく「……の時間」としたためにいっそう混乱を招いています(梅原利夫『指導要領をこえる学校づくり』新日本新書、1999年11月)。

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Q1. 新しい学習指導要領では、小学校から高校まで「総合的な学習の時間」が必修になるようですが、いったいこれはどのような科目なのですか?いままでにあまり聞いたことのないものだと思うのですが……。

A1. そうですね、「総合学習」という考え方や実践はたくさんありますが、「総合的な学習の時間」ははじめて出てきたものです。これは第十五期中央教育審議会第一次答申が、「今日の変化の激しい社会に対応可能な[生きる力]の育成を提唱し、これからの学校は生きる力の育成を基本的な観点とすべきである」(1996年)、ということから誕生しました。そしてそのために学校は、(1)「知識を一方的に教え込むことになりがちであった教育」から、「自ら考える教育」へ転換すること、(2)生涯学習社会を見据えつつ、学校は生涯学習の基礎的資質の育成に限定し、完結するものとは考えない。
そして[生きる力]を養成するために次のような学校像を描いています。
 (1) [ゆとり]のある教育環境で[ゆとり]のある教育活動を展開し[生きる力]を身につける。
 (2) 教育内容を基礎・基本に絞り、その確実な習得に努める。
 (3) 多元的・多様な視点で子どもたちの可能性を見いだす。
 (4) 豊かな人間性をもち、専門的な知識・技術や幅広い教養を有する実践的な指導力を教員に求める。それにより[生きる力]の育成をはかる。
 (5) 子どもたちにとって共に学習し、生活する場としての高い機能をもつ教育環境を整備する。
 (6) 地域や学校、子どもたちの実態に応じて、創意工夫を生かした特色ある教育活動を展開する。
 (7) 家庭や地域社会との連携を進め、家庭や地域社会とともに子どもたちを育成する開かれた学校が求められる。
こうした学校像の実現のためには、
 (a) 教育内容の厳選と基礎・基本の徹底
 (b) 一人一人の個性を生かすための教育の改善
 (c) 豊かな人間性とたくましい体をはぐくむための教育の改善
 (d) 横断的・総合的な学習の推進
として、学校教育のあらゆる分野において[生きる力]の育成を図るとしながらも、「[生きる力]が全人的な力であるということを踏まえると、横断的・総合的な指導を一層推進し得るような新たな手だてを講じて、豊かに学習活動を展開していくことが極めて有効であると考えられる。」と、「総合的な学習の時間」の新設を提言しました。そして、具体的な学習活動として、国際理解教育、情報教育、環境教育などについての「社会的要請」を強調し、さらにボランティア、自然体験などについての総合的な学習や課題学習、体験的な学習等をかかげています。
 このように中教審第一次答申は、「変化の激しい時代」「先行き不透明な時代」に対応していくための新しい教育要求を最優先して、この何ともすわりの悪い「総合的な学習の時間」を誕生させたのです。

  *日本における総合学習の試みは3回の潮流があります。
 (1)1920年代の私立学校や高等師範附属小学校などの限られた範囲内ではあるが、いくつかの教科を統合した合科的な学習や、郊外での自然や労働にかかわる体験や総合的な芸術活動が中心。
 (2)1940年代後半から50年代の子どもの生活に基づく学習単元の編制、総合社会科の実践。
 (3)1970年代、60年代後半からの人類的な社会問題の自覚にもとづく戦争と平和の問題、公害と安全の問題、人権問題などについての学習の試み。

Q2. そうすると、[生きる力]を財界としては求めているわけですね。でも、これまた、わかりやすそうで、よくわからない言葉ですね。

A2. [生きる力]は、主体的な思考力や判断力を養うと言いつつ、結局は、時流に適応して、多国籍企業競争の最前線に立って活動する人間をイメージしていると言ってよいでしょう。そこでは、社会をつくりかえていく権利主体の形成という視点はまったく欠落しています。科学的なものの見方というのは、「批判的な」ものの見方ですが、こういう言葉を見つけることもできません。また、「全人的」な能力といいつつ、その構造が具体的に見えてきません。今日の子どもをめぐるさまざまな危機的な状況から短絡的に導き出されたイメージにしか見えません。

Q3. ところで、学校五日制が完全実施になる中で、必然的に教育内容の厳選が問題になると思いますが、情報が必修になったり、この「総合的な学習の時間」が登場したりし
て、いっそう教育内容を減らさなければならないわけですね。

A3. そうですね。新学習指導要領への改訂に際して、当初、教科の再編成と新教科(例えば、記号科、環境科、人間科、表現科)の設立の計画があったのですが、現行の各教科の関係団体の反対が強かったために、現行の教科をそのままにして、「総合的な学習の時間」を新設するということになったわけで、例によって財界のニーズが先行し、さまざまな力関係の中での政治的妥協の産物としてこの「時間」が登場したのです。背景は、教育的でも、教育学的でもありませんし、学習指導要領の目玉といわれながら、教課審ではほとんど積極的な提案がなされたり、真剣な論議が交わされた形跡がなかったと言われていることも不思議です。
 それから、この時間を設置しようとするもうひとつの「意図」があります。それは「学校の創意工夫を生かした教育活動」を促すことです。実際新学習指導要領では、「各学校は、地域や学校、生徒の実態等に応じて、横断的・総合的な学習や生徒の興味・関心等に基づく学習など創意工夫を生かした教育活動を行うものとする。」となっています。各学校に創意工夫を強いて、他校との違いをきわだたせ特色づくり競争をさせようということです。すでにこれまでのさまざまな多様化政策による特色づくりが推進されているのは、周知の通りです。父母・地域住民の要求や子どもたちの現実に応える必要はありますが、それは学校のもつ公共性の確保にあるのであって、学校が互いに特色づくり競争をやることにあるのではないのです。その上、入試制度の改編や統廃合による上からの特色づくりへの圧力とともにこの教科が特色づくり競争をさらに加速することになってはならないと思います。「通学区域の拡大」やら「学校選択の自由」などとの関連にも注目していかなければなりません。

Q4. 入り口のところで足踏みしてしまいましたが、「総合的な学習の時間」って、ずいぶん長ったらしいネーミングですね。「総合的な学習」だけでもよさそうなのに、なぜ「〜の時間」という形になったのですか。

A4. 教科の成立要件は「指導の目標やねらいと指導内容」とが確定されることであると言われています。学校が創意工夫して編成する「総合的な学習の時間」は指導の目標・ねらいが各学校にまかされているわけですから、一定の「指導目標やねらいと指導内容」にはならないわけで、教科としては成立しえないので「〜の時間」扱いにしたといわれています。1977年改訂の学習指導要領に登場した「ゆとりの時間」(学校裁量の時間)がこれに類するものです。さまざまな校内の教育活動をかき集めて、事実上この時間を形骸化するような方向に対する文部省流の対策としての「〜の時間」であるようです。つまり、学校の授業時間の中で実施せよ、ということも含まれているようです。
  *正確にいうと「ゆとりの時間」は学習指導要領には示されず、教課審答申(1976年)の文言を根拠に文部省→教育委員会の指導ルートで無理やり時間割に組み込まされたというのが真相です。結果、次第に衰退し、 消滅していきました。このように文部省は学習指導要領の法的拘束力を一方で言いながら、手前勝手に学習指導要領にない施策を力で推進しようとすることが少なくないのです。

Q5. そうなると、総合学習と「総合的学習」は、ほとんど同じ言葉のように思えますが、どうちがうのでしょうか。

A5. 総合学習は、もともとたとえば、1976年に日教組の中央教育課程検討委員会報告である『教育課程改革試案』が提唱したように地域や国民的課題が取りあげられ、その学習を深めるために諸教科の協同が探究される学習を意味します。「かくて総合学習は、個別的な教科の学習や、学級、学校内外の諸活動で獲得した知識や能力を総合して、地域や国民の現実的諸課題について、共同で学習し、その過程を通して、社会認識と自然認識の統一を深め、認識と行動の不一致をなくし、主権者としての立場の自覚を深めることをめざすものである。」との述べています。このような学習が総合学習です。こうした取り組みは戦前から行われてきましたが、つねに上からの圧力でつぶされてきたというのが歴史的事実です。
 これに対して「総合的な学習」では(1)横断的・総合的な学習と(2)生徒の興味・関心等に基づく学習(3)地域や学校の特色に応じた課題を創意工夫を生かした教育活動をしなさいということで、(2)や(3)のような総合学習とはいいがたい部分を含まなければならないので、「総合的な」ということでより包括的になったと思われます。「総合学習」は高い学習目標をかかげていますので、総合学科の「産業社会と人間」のような生き方や進路指導に傾斜した内容を含ませたのでしょう。

Q6. 「総合的な学習の時間」は「総合的・横断的な学習」と言われていますが、なぜ「総合的」・「横断的」なのですか?意味の違いがあるのですか?

A6. 教課審答申や新学習指導要領では「総合的・横断的」といつも並列して登場していますが、とくに意味を区別してはいません。「横断的」とは、学習指導要領の用語でいえば、既存の各教科・特別活動・道徳の内容を二つ以上関連させた合科的学習のことです。これに対して「総合的」とは、「各教科等それぞれで身に付けられた知識や技術などが相互に関連付けられ、深められ児童生徒の中で総合的に働くようになる」(教課審答申)と説明されています。前者は各科目や領域間の関係が、後者は学習者である子どもたちの獲得した学習内容の内的総合が問題とされています。明らかに「総合的」・「横断的」という意味には違いがあるのです。
 そもそも総合とは、分化に対応した言葉です。教育課程の内容は多岐にわたりますので、いくつかの領域に分かれます。さらに教科は各教科・科目に分かれます。さらにここの科目の学習内容も細分化されているわけですが、そのそれぞれに対応する形で総合ということが求められます。梅原利夫は、総合の視点から学習を組み立てるに際して、(1)学習の内容……教科や各単元枠(分化)を超えて、教科横断・教科統合(統合)の見地から構成、(2)学習の方法……分かち伝え・個別習得タイプ(分化)よりも、調査・探究、共同学習・発表タイプ(総合)の採用、(3)学習主体の形成……各人の個別能力(分化)よりも、統一した教養や人格(総合)の形成を掲げて説明しています。新学習指導要領は以上の点で一面的であり、説得的でありません。

Q7.  新学習指導要領には、
 ア 国際理解、情報、環境、福祉・健康などの横断的・総合的な課題についての学習活動
 イ 生徒が興味・関心、進路等に応じて設定した課題について、知識や技能の深化、総合化を図る学習活動
 ウ 自己のあり方生き方や進路について考察する学習活動
とあり、上記の横断的・総合的学習に直接あたる部分はアだけで、イやウは横断的・総合的学習と関係あるのでしょうか?

A7. イもウもひじょうに包括的な文言でどんなテーマも選んでかまわない体裁になっいいます。その限りで総合的・横断的学習になりうるとは思いますが、また必ずそうなるとは言えず、あまりにも雲をつかむような感じですね。現状では高校段階ではかなり多様化がすすんでいますから、それに対応するためにこのような形をとったのでしょう。それに前に言いましたように、特色をめぐって各学校間で激しい競争をさせる意図があるわけです。またイもウも「進路」という言葉が入っており、また新学習指導要領の「職業教育に関して配慮すべき事項」(第6款の4)は、普通科において「適切な職業に関する各教科・科目の履修の機会」を確保すること、また一般に「就業体験の機会」の確保が求められています。こうして一方で「進路」が「総合的な学習」としてくくられていることが自明です。

Q8. 「総合的・横断的」と言いますが、教科や教科外との関係はどうなっているのでしょう?
A8. 「総合的な学習の時間」の登場に先立って、学校教育法施行規則は、第24条で「小学校の教育課程は、国語、社会、算数、理科、生活、音楽、図画工作、家庭及び体育の各教科(以下本節中「各教科」という。)、道徳、特別活動並びに総合的な学習の時間によって編成するものとする。」また高校の場合は、第57条で「高等学校の教育課程は、別表第3に定める各教科に属する科目、特別活動及び総合的な学習の時間によって編成するものとする。」と改正されました。この意味では「総合的な学習の時間」は小学校・中学校では「第4の領域」、高校では「第3の領域」といえるでしょう。しかし、文部省はそうは言っていません。それは前に述べましたようにあまりにも学習内容が「何でもあり」の形になっていますから、教科とはなりえないのですが、さりとて「ゆとりの時間」のように形骸化されてしまわないように学習指導要領ではさらに法的に上位(?)になる学校教育法施行規則に位置づけておいたのです。だが、そうだったら、学習指導要領の構成から言って、「総合的な学習の時間」は、当然、「第4章 特別活動」のあとに「第5章 総合的な学習の時間」が来るべきところなのですが、実際には、「第1章 総則」の「第4款 総合的な学習の時間」となっています。こうしたところにもこの「時間」の過渡的で不明瞭な性格を見てとることができます。したがって教科に重点を置いた中味にするのか、教科外活動に重点をおいたものとするのか多様な可能性がありますから、既存の教科・科目との関係を整理しなければならなくなるでしょうし、教科と教科外との関係も不明確なままではまずいでしょう。
 他方、前述した日教組の中央教育課程検討委員会は、総合学習を第3の領域としようしましたが、「学習したことが総合され、構造化される必要があるということは、誰でも認めるところであろう。しかし、そのことが『総合学習』というカリキュラム上の領域を必要とするかどうかは、別の問題である。」という批判が出て、『教育課程改革試案』は、教科の中に「総合学習」を一応置いています。このように「総合的な学習の時間」も「総合学習」もその領域論としては説得的ではないのです。

Q9. 総合学習を第3の領域とすることを批判する根拠とは、どのようなことですか?

A9. その根拠は3つあります。教科・教科外活動それぞれにおいて総合化がはかられるべきであるが、高い次元で総合化を計ろうとする主張に対して、それが生徒の思想・信条の自由な形成をはばみ、結論を押し付けることになりはしないかというものです。すでに新要領では、福祉問題がボランティア精神の賞揚にのみ重点をおき、国際理解教育が結局のところナショナリズムの強調におわっているのを見ると危険度が高いです。第二に教科には教科の順次性があるために両者を相関させることが難しくなり、知識・技能をバランスよく学ばせることができなくなるということ。第三に現代社会の緊急な諸問題を正規の教科に含んだり、新教科を設定することが大切であることです。
 「総合的な学習の時間」も同様です。前に述べましたように「学校の特色ある活動のための時間」が「総合的学習」である理由がないことです。その特色は教科か教科外活動のいずれかであって必ずしも第4の領域とする根拠はないのです。また、「生きる力」をこの時間の中でつけられると考える方が不自然です。以上のように見てきますと総合学習にしろ「総合的な学習の時間」にしろ領域を設置する理由は何もないのです。

Q10. 「総合的な学習の時間」が、各学校の取組に一応まかされているのですが、小学校の3年生から高校3年生までずっとこの「時間」が必修になっていますが、そうすると全体的に見ると、完全学校五日制にともなって授業時数が減少する中で教育内容の厳選をはからなければならなくなっていますが、この時間の部分は内容的にはそれこそ一人一人の子どもがまったくちがったこの「時間」についての経歴をもつことになるわけですね。繰り返し繰り返し同じ学習をさせられるという危険もあるわけですね。

A10. そうですね。小学校で420単位時間、中学校で210〜335単位時間、高校で105〜210単位時間ということで、合計すると735〜965単位時間にもなります。これだけの学習内容がいわば空白状態になるということはすごいことだと思います。指導要領の法的拘束力が強められる中で、内容が整理されることなく、各学校の試行錯誤に任されることはどう考えれば良いでしょうか。学習指導要領の矛盾が露呈しています。小学校・中学校・高等学校のそれぞれの指導要領の中で「総合的な学習の時間」がどう叙述されているかを見てみますと、その相違点は、小学校で「児童」、中・高校で「生徒」となっていること、小学校で国際理解の一環として外国語会話等が行えること、また高校では、3のイの部分の書き方が違います。小・中学校では「生徒の興味・関心等に基づく学習」とだけありますが、高校では「イ 生徒が興味・関心、進路等に応じて設定した課題について、知識や技能の深化、総合化を図る学習活動」(下線部筆者)と多少違った書き方がされています。また「ウ 自己の在り方生き方や進路について考察する学習活動」は高校独自のものです。しかし、全体的にはほとんど同じ書き方がされていると言って良いでしょう。上記の相違点をもって発達段階を踏まえて、「総合的な学習の時間」が編成されているとはとても言えません。中教審第一次答申には「この時間(「総合的な学習の時間」のこと、筆者註)における学習活動としては、国際理解、情報、環境のほか、ボランティア、自然体験などについての総合的な学習や課題学習、体験的な学習等が考えられるが、その具体的な扱いについては、子供たちの発達段階や学校段階、学校や地域の実態等に応じて、各学校の判断により、その創意工夫を生かして展開される必要がある。」(下線部筆者)とありますが、どういうわけか、学習指導要領にはこの発達論的視点が欠落しています

 *日教組中央教育課程検討委員会の『教育課程改革試案』における、総合学習の階梯ごとの特徴
  第一階梯(小学校1〜3年) 主として教科外活動のなかでめざされており、この段階では独自の総合学習はおかれない。
  第二階梯(小学校4〜6年) 学校や学校内でおこった日常的問題や諸事件のなかから問題を選び、とりわけ、主体の切実な要求につながる課題を取り出して取り組ませることが重要となる。高学年にすすめば、時事的な問題の総合学習に取り組ませる。また、学芸会、収穫祭などの教科外活動においても研究活動をふくめて展開される必要がある。
  第三階梯(中学校) 内容上からは時事的な総合学習が主流となろう。また文化祭など教科外活動を基盤とする学習では、地域課題を意識的に取りあげることが重要となる。
  第四階梯(高等学校) 時事的な総合学習に加えて、理論的な総合学習に取り組ませたい。これによって、大学の卒業論文にあたるものが、高校段階でも、共同、あるいは個別の卒業研究として生まれることが期待される。これを通して、自己の進路の基本的性格をつかませたい。「平和」「公害」「差別」「性」の四つの問題の総合学習はミニマムの必要としておさえてゆきたい。

Q11. 学習指導要領では、「総合的な学習の時間」について「配慮事項」の(1)として、「自然体験やボランティア活動、就業体験などの社会体験、観察・実験・実習、調査、研究、発表や討論、ものづくりや生産活動など体験的な学習、問題解決的な学習を積極的に取り入れること。」とあり,ずいぶんと体験的な学習が強調されていますが、どのような問題点がありますか。
A11. 日常生活の中で一時的な体験をする機会は非常に少なくなっています。自然体験を例にとってもそう容易ではありません。自然に親しむといっても、身近なところに利用可能な「自然」は存在しない場合が多くなっています。体験の成果を十分にあげようとしたら、毎週1単位時間くらいの「授業」では当然足りないでしょう。教職員の事前の諸準備にもかなりの時間をとられることになるでしょうし、旅費や教材費も当然必要となります。かつての子どもたちが遊びの中で手に入れてきた小動物の生態や植物の成長過程、気象現象などの体験から得た知識は学校での学習内容と結合しやすいのですが、体験を欠いた場合の学習はたとえ実験などがあるにしても抽象的で断片的な知識になる可能性が高くなります。この欠けた部分を学校のカリキュラムの中ですべておぎなうことは不可能です。また確かに学習で獲得された知識が、体験によって確認され、ひとつの認識となり、さらに総合化されることは意味のあることですが、体験が万能ではありません。眼前で起こった連続的な事象が必ずしも、因果関係があるとは限りません。このような状態の中で学校が用意した体験はパッケージ化された体験学習になりがちです。子どもが主体的に取り組めるものにはなりにくく、教師から期待された反応を演技するようなものになってしまいます。一面的に用意された現状を無批判的に肯定する結果になる危険性が多くなります。子どもの主体的な取り組みと言いつつ、結局は強制された体験となります。曖昧な「総合的な学習の時間」の中で体験や学び方を重視することは、どのような認識が子どもたちに獲得されるかを吟味もせずに体験学習をしてしまうことになりかねません。たとえば、ハンバーガーショップに体験学習に行くとします。企業の仕事の一部を体験し、企業の人に質問し、レポートを作成するとしても、企業のただ言い分だけを聞いて書くのでは総合学習にはならないでしょう。発展途上国から安い価格で牛肉を買いたたき、その国の労働者を低賃金に固定し、熱帯雨林などの環境を破壊し、パッケージや売れ残りの商品でゴミを大量に出して環境破壊をさらに悪化させて、ついでに自国の高校生などの若年者の労働をこれまた安価に利用しているなどと、環境問題や南北問題、労働の問題にと発展する学習は出て来にくいのではないでしょうか。

Q12. 同じく配慮事項の(2)は「グループ学習や個人研究などの多様な学習形態」の工夫を求めていますが、学習がさまざまな形態をとることになると、学級が果たす役割とはいったい何なのかということになりませんか。

A12. まず言いたいことは、すでに現行の教育政策は学級での学びの共同性の意義を過小評価しているのだということです。「個性を生かす教育の一層の充実」(教課審答申)というスローガンのもと、選択制の拡大や「学習集団の弾力的編成が追求されようとしています。「総合的な学習の時間」ではグループ学習やら異年齢集団による学習など多様な学習形態をとれと言っています。また、教育の評価による競争の激化がさらに個々の子どもたちを分断し、さらにそのことによって学ぶことの意義や面白さを喪失している子どもたちが非常に多いのです。同じ、教室の中で学習しながら「共同の学び」がひじょうに希薄になっているといわざるを得ません。ランジュバンを持ち出すまでもなく、本来、「教養」は、人と人を接近させるものです。
 「それぞれ一人ひとりちがった持ち味をもって発達中の子どもたちが、その持ち味を生かして学習に参加し、そのあげく共同して一つの真理に到達して、『ああそうだったのか』と一つの真理を心の中でわかちあったとき、人は学ぶことを通じて結ばれたのだというべきではないでしょうか。そのいう授業の姿が一つの基調として展開していくことが、人が人の特性を獲得して人になることを促す教育実践であるというべきでしょう。」(大田堯・堀尾輝久『教育を改革するとはどういうことか』岩波書店、1999.4.27.)
 学級だけに固執するわけではないですが、学級を「学びのための基礎集団」にしておかなければならないでしょう。

Q13. 学級が学ぶための共同体とはならずに、個々の子どもたちがバラバラにされているのは、評価の問題もあると思うのですが、「総合的な学習の時間」の評価はどうなっているのですか。

A13. そうですね。学びの中味の問題よりも、自分が平均点より上か下か、学級や学年での順位あるいは偏差値ばかり気にしている現状では共同で学びを獲得して行こうということにはなかなかなりにくいですね。「総合的な学習の時間」の評価は学習指導要領の中には明確に書いてありません。ただ、通常の教科・科目と区別して単位認定について書かれているので、これとは異なった評価を行うことは予定されています。これについては、「教課審・審議のまとめ」において、「『総合的な学習の時間』の評価については、この時間の趣旨、ねらい等の特質が生かされるよう、教科のように試験の成績によって数値的に評価することはせず、活動や学習の過程、報告書や作品、発表や討論などに見られる学習の状況や成果などについて、児童・生徒のよい点、学習に対する態度、進歩の状況などを踏まえて適切に評価することとし、例えば指導要録の記載においては、評定は行わず、所見等の記述をすることが適当である。」としています。詳細は新指導要録が出てからということです。この教課審答申の段階での評価についての記述を整理すると、
 (1)基本的な考え方
   ・「新学力観」による指導を進める
   ・知識量の測定評価法はとらない
   ・学力は知識量ではなく、「生きる力」が身についているかで捉える
   ・基盤として、基礎的・基本的知識の確実な習得は不可欠
 (2)「総合的な学習の時間」の評価
   ・教科のように数値化しない
   ・学習過程や成果について見る
   ・よい点、意欲や態度、進歩状況をふまえる
   ・指導要録には評定せずに所見を記述
ということになります(梅原利夫著『指導要領をこえる学校づくり』参照)。現行学習指導要領からとくに小・中学校で「新学力観」による評価が登場してきましたが、今回の改訂によって「新学力観」による評価が「生きる力」を重視した評価によって「補強」される形になっていると言われていますが、「新学力観」がもつさまざまな問題点が解消されたわけではありませんし、私たちは本来、学習の評価はどうあるべきかを広い視点に立って考えなければならないでしょうし、高校入試や大学等の入試制度の抜本的な改革が行われる必要があります。評価の問題については、ここで詳細は他の機会にゆずることにします。

Q14. そうは言っても、「総合的な学習の時間」は高校段階では、少なくとも3単位時間やらなければならないわけですね。どうすれば良いのでしょう。

A14. 消極的に形骸化の道を歩むのではなく、学習内容や学習のあり方をつねに問い直し、変革していくきっかけになるようにこの「時間」を積極的に利用して、現代的課題や学際的課題を中心に取り組んでいくことをすべきでしょう。これを「原理としての総合学習」と言う学者もいます。その際に教科や教科外活動を既存のものととして固定しないことが肝要です。
 〈学習指導要領の方を向いて「はじめに『総合的な学習の時間』ありき」ではなくて、子どもの現実に向かい合ってつくりだす課題として総合学習を位置づけるのであれば、重要なのは、「総合的な学習の時間」を すでに所与のものとして首肯することではなくて、それ自体を吟味してみることであり、そして、その検討  からつくりだすべき課題としての総合学習のあり方を展望してみることである。〉(久田敏彦「課題としての総合学習」『共同でつくる総合学習の【理論】』久田敏彦編集、フォーラムA.1999年所収)

Q15. 今でも実習的な教科・科目では2時間つづきで授業を組んでいることが多いですね。体験的な学習をするとなると各学年1単位ずつ割り当てるよりもまとめて3単位特定の学年に位置づけた方が良いと思いますが、どうでしょうか。
A15. 1単位でも学期や期間に集中的に行うこともできますが、たしかにまとめて3単位という方法は十分に考えられます。あるいはその時間のあと放課となっていて、放課後の時間帯もその体験的な学習に利用することもあるでしょう。私立の高校等ではすでに「総合学習」について先進的な実践がありますが、たとえば和光高校では各学年に「総合学習」が組まれており、3単位時間が用意されていますし、県内でも橘女子高校では「総合」が各学年6単位(まる1日、1992年現在)が充てられています。そのような実践も参考になると思います。

Q16. 冒頭に示されているように、指導要領では、この「総合的な学習の時間」は、高校段階では105から210単位時間配当することになっていますが、高校ではこれまで単位数表示になっていたのではないでしょうか。どうしてこの「時間」だけ、例外なのですか。

A16. 明確になぜか、ということは書かれていませんが、学習内容が学校の裁量にまかされることになって、教科として位置づけることができなかったため、「〜の時間」となったのですが、かつての「ゆとりの時間」のように形骸化されることをおそれたのではないのでしょうか。ことに高校では年間の授業時数に対する縛りがゆるいため、1単位時間といってもとても年間35時間やることにはなりませんね。できるかぎり35時間に近づけなければならないということでしょうね。

Q17. 学習指導要領の第5款に「8.各教科・科目、特別活動及び総合的な学習の時間(以下「各教科・科目等」という。)のそれぞれの授業の1単位時間は、各学校において、各教科・科目等の授業時数を確保しつつ、生徒の実態及び各教科・科目等の特質を考慮して適切に定めるものとする。」と書かれていますが、この文言の意味がよく分かりません。

A17. 文部省の説明(ビデオによる説明)ではこれは1単位時間の弾力化を意味していて、25分授業や100分授業が可能になるということですが、前者ならば、2時間で1単位、後者ならば、1時間で2単位になると説明しています。これを解説した高校教育課は、45分授業を実施した場合、45分×35週ではだめで、あくまでも50分×35週=1750分が1単位だから、45分で実施した場合には年間39回行うことになると、なんとも現場の実態からかけはなれたことを言っています。
 しかし、この読み方はどうもおかしいのです。現行の学習指導要領では、この文言は、第4款で扱われています。まずはじめに「全日制の課程における各教科・科目及びホームルーム活動の授業は、年間35週行うことを標準とする。ただし、特に必要がある場合には、各教科・科目の授業を特定の学期又は期間に行うことができる。」という文言があります。この文言以前にすでに1単位時間は50分で年間35週やることはすでに述べられていますから、あえてまたここに登場してくる意味は、ホームルーム活動も各教科・科目と同様のものさし(単位)でやることと、後半部分の学期や期間に集中的にまとめることが可能だということを述べるためのものと解釈できるでしょう。そしてさらに「4 各教科・科目の授業時数は、1単位について35単位時間に相当する時間を標準とする。」と書かれているのですが、新学習指導要領ではこれらの部分が第5款になりました。そこで現行とまったく同じ文言の1が登場して、それに対応して8で前述した内容がくるのですが、これは現行を学習指導要領と対応して考えると、「総合的な学習の時間」が加わったための書き換えであって1単位時間、50分を標準とするということをいうためのものではないはずです。現行と同様に年間35週について述べているのではないでしょうか。すなわち、50分授業を弾力化しても良いというのではなく、かならずしも年間35週しなくても良いと言っているのではないでしょうか。高校といっても、私立も公立もあり、またさまざまなタイプに多様化されていますから、このような文言が必要になるのです。しかし、文部省や県教委は一般の高校に対しては、ガチガチにたがをはめてやらせようとしいるのです。現場の創意工夫をもとめるそばから矛盾したことをやろうとしているのです。

Q18. とすると、これまでにずいぶんと「総合的な学習の時間」は問題点や矛盾点が多いということですね。それでもやらざるを得ないということでしょうか。一体何をテーマにしたら良いでしょう。一応何をテーマにしても良いということになっているようですが。

A18. A5.に示しました(1)横断的・総合的な学習、(2)生徒の興味・関心等に基づく学習、地域や学校の特色に応じた課題学習ということですから、文言上は各学校の自由に委ねられていますが、横断的・総合的な学習については国際理解、情報、環境、福祉・健康などという例示があります。教課審答申にはかなりこれらについて詳細に意義が述べられています。これらは財界からの要求であるわけですから、これらを超えてテーマを設定する場合、上から指導される可能性がないとは言えないと思います。新学習指導要領第1章、第6款の2の(1)は、「学校においては、第2章以下に示していない事項を加えて指導することもできるが、その場合には、第2章以下に示す教科、科目及び特別活動の目標や内容の趣旨を逸脱したり、生徒の負担過重になったりすることのないようにするものとする。」という従来になかった項目が入っていることに注目すべきでしょう。また、99年7月30日付の朝日新聞夕刊は、同日参議院の国旗・国歌特別委員会の席上で、当時の文相有馬朗人は「日の丸・君が代をはじめ諸外国の国旗や国歌に対するマナーをきちんと教えていくことが大切だ。今後、総合的な学習の時間も加わるので、教育を深めていく必要がある」と発言したといいます。同要領には、総則の第1款の「教育課程編成の一般方針」の2の道徳教育の中で他の領域とともに「それぞれの特質に応じて適切な指導を行わなければならない。」とあることも忘れてはいけないことです。さらに職員会議等のあり方をめぐって「校長権限」を強化する傾向にも注目しておかねばなりません。
 さて、選ぶべきテーマについて、前出の久田敏彦氏は、
 「子どもたちの生活世界のなかで切実に直面している課題から、そしてじつはそれはわたしたちが直面している課題であり、地域住民の課題であり、人類的な課題・地球的課題でもあるのだが、そうしたのっぴきならない課題から出発しながら、広く歴史や文化や社会や世界を、文字通り学問の名にふさわしく、教師と子どもとが共同して主体的かつ批判的に「問うことを学ぶ」という方向が探究されてよいのである。また、探究されなければならないのである。それが、総合学習に求められる実践方向にほかならない。」(久田敏彦、前掲書)
と述べて、現代的課題をとりあげることを勧めています。学習指導要領に例示された、国際理解、情報、環境、福祉・健康も現代的課題ですが、中教審答申や教課審答申や学習指導要領のこれらの課題の取り組みには歪みがあることを踏まえて置かなければなりません。国際理解教育と言いながら、実質「日本の伝統文化」の学習を重視する日本中心主義になっていたり、環境問題を言いながら、それを引き起こした企業社会の責任にはふれず、南北問題になどには触れないで、個人の心がけやリサイクル活動への参加で終わってしまっています。福祉問題も新自由主義的政策に則って社会的・制度的な視点を疎かにして、もっぱらボランティア活動を推奨することに専心している、等々です。
 現代的課題としてよりふさわしいテーマは、地球的なレベルで緊急性があり、普遍性のある課題を考えれば、平和学習、人権・ジェンダー、労働問題などをあげることができます。いずれにしても、現代的課題をどのように捉えるか、課題の解決を困難にしているのは何か、解決の展望はあるのか、等の視点をつねにもっておくことが必要です。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 あまりにも問題点が多くて、総合学習の自主編成までたどりつくことができませんでした。各学校現場ではまずこれらの問題点をふまえて、できるかぎり早くこの「総合的な学習の時間」について全体的な検討をはじめることを提言します。


〈参考文献〉
久田敏彦編『共同でつくる総合学習の【理論】』フォーラムA  1999年
 同  編『共同でつくる総合学習の【実践】』   同上
中央教育課程検討委員会報告『教育課程改革試案』一ツ橋書房 1976年
梅原利夫『指導要領をこえる学校づくり』新日本新書 1999年
子安潤『「学び」の学校』ミネルヴァ書房 1999年
柴田義松『教育課程』カリキュラム入門 有斐閣コンパクト 2000年
神高教・高校教育問題総合検討委員会編『学習疎外を超えて』1991年
        同       編『続・学習疎外を超えて』1998年

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第10期 高校教育問題総合検討委員会 委員

秋 山   崇神奈川県立七里ヶ浜高校
五十嵐 雅 美 座間高校
井 出 浩一郎 岸根高校
伊 藤 幾 夫 厚木東高校
岡 見 多加志 二俣川高校
金 沢 信 之 元石川高校
紙 谷 典 明 柿生高校
嘉 村   均 新羽高校
川 本 一 雄 岡津高校
久 世 公 孝 岡津高校
島 村 照 一 栗原高校
中 内 博 子 中沢高校
中 野 直 人 川崎北高校
早 川 芳 夫 生田東高校
布 川 勝 也 新城高校
本 間 正 吾 田奈高校
宮 澤 一 樹 百合ヶ丘高校
柳 川   弘 希望ヶ丘高校
山 崎   譲 足柄高校
横 山 常 昭 城北工業高校
渡 辺   顕 横須賀工業高校

大 浜 信 宏 (98年3月まで)
小 川 眞 平 (98年3月まで)
高 橋 勝 子 (99年3月まで)

  所属は2000年4月現在


高校教育のゆくえ 10期高総検報告
   著作・発行者
   神奈川県高等学校教職員組合
   高校教育問題総合検討委員会
   2000年10月発行